ニーチェ ゴat PHILO
ニーチェ ゴ - 暇つぶし2ch697:473
06/07/13 22:06:03
>物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな?

そうも言えなくはないのだけど……下手なりに説明すると、キルケゴールの講話の場合、
大抵まず彼が「決して帰ってこない使者に別れを告げて見送った」様とか
「森の中に人知れず咲く一輪の花を小鳥が啄んだのを見届けた」様とか、
もう商品は売り手の側を離れて買い手の側に届いている事を
表す文章がまず序言に掲げられる。柄谷はこれを受け入れられていないね。

そして、この「売り手-商品-買い手」の関係を再び「読み手-作品-書き手」
として裏返しに反復するのがキルケゴールの狙いらしい。

例として七巻に収められた「罪ある女」を取り上げる。この講話の中では罪ある女が、
パリサイ人の宴会に招かれていたイエスの元に罪の赦しを請いに行く。
宴会に不相応な来客なので周囲の眼差しが彼女に突き刺さり羞恥心の強い女性には辛い状況だが、
それでも自分を忘れてひたむきに赦しを請う彼女に、イエスは「この女の罪は赦されている」と告げる。

その瞬間、彼女は一つの永遠の彫像になる、とキルケゴールはいうわけ。
イエスがなぜ罪の赦しを告げるのに二人称ではなく三人称が使ったかと言えば
メッセージの受取手は他にいて、それはどうやら時空を越えて講話を読む
読者の事だと言いたいらしい。講話の商品性と作品性がここで錯綜している。
罪ある女が娼婦の事だと解すれば、なおさらね。
そうするとパリサイ人やイエスは誰なのか、これはおいておくとしても。

「罪ある女」はキルケゴールの講話の骨組みがかなりはっきり出た作品だけど、
私が『ツァラトゥストラ』を読んだときと一番よく似た印象を受けたのはこれだった。

698:473
06/07/13 23:32:38
>>696
わからんものはわからん。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥というヤツだ。
>>697
商品と作品がどう錯綜するのか抽象的でよくは分からないが……
イエスが使った三人称をキルケゴールが説明するのなら、
「キルケゴールがイエスがなぜ三人称を使ったか?」という知識の伝達であって、
実存伝達はどう違うのかという疑問は解決されていない。
693氏へのレスなので俺の疑問を解決する意図でレスした訳じゃないだろうから、
まあ、いいんだが。

あと、序文で示された関係が反復するのが重要なのに、
序文だけ取り上げて柄谷は受け入れられていない、と指摘するのは無意味だろう?

699:473
06/07/14 00:22:24
私の番号って、私以外でも使えるのか。

>「私は今あなたに婚約指輪を差し出しています!
あなたが私の求婚を受け入れてくれるかどうか解りません!
私はとても不安です!」

>柄谷は自分の知識伝達の働きかけを受け入れない
他者としての読者がいるという事実を強く認識して書いている、ということか

そういう風にも言えるが、指輪を差し出した以上、
その上言うべき言葉は他にあるのではなかろうか、
キルケゴールはそれをよく解っている、という事。

実存伝達についてはキルケゴールを。私より上手く説明してくれるよ。
キリスト教の場合は実存伝達は知識の伝達と共に行われる。
この点がソクラテスの産婆術とは違う。

シュミットの感想は先送りになりそうだ。
期待せずに読んだが、なかなか面白かった。


700:474
06/07/14 00:36:56
すまん。打ち間違えた。698は474だ。本当にスマン。

キルケゴールについてはそのうち読むつもりだが、今この時間図書館も大手書店も開いてない。

701:473
06/07/14 22:46:23
ホルガー・シュミット、他に読まれた方いませんか?

なかなか面白いと書いたが、研究書、解説書としてかなりの良書だった。
堅実かつ見通しも良く、資料を捌く手つきにもブレがない。
読み返せばジャン・グラニエの初等解説書よりもニーチェについての理解が深まると思う。
二人称の事以外での私の発言した内容もシュミットが私より上手に(当たり前だが)解説している。
シュミットがあれば、ハイデガーのニーチェ論は完全に必要なくなる。

読み手としてはこの水準に満たないものは本屋から消えてくれるとありがたいが、
言及されている日本語のサイトは本屋を除けば一つしか見つけられなかったし、
アルファベットで名前を打ち込んでも殆ど何も解らなかった。
平易に解説すると称して浅く濁らせてわけをわからなくさせる連中が、
深く透明にするこうした真っ当な研究を駆逐してしまうのかな。

サラ・コフマンの『ニーチェとメタファー』、読まれた方いますか?
感想を伺えるとありがたいのですが。
古本で定価より高いとなると購入できない。



702:家氏 かかか
06/07/15 13:50:39
キリスト教的近代の成立と崩壊について、コペルニクス・ピューリタン革命・ニーチェを取り上げて論ぜよって問題が出たんだけど。。。分かる人いますか??


703:考える名無しさん
06/07/15 14:20:38
コペルニクスは天動説を唱えた
Puritanで厳格な人、潔癖な人を指す(ウィキペディア
ニーチェは「神は死んだ」だろ

要するにキリスト教に厳格であろうとすればするほど
そのキリスト教的誠実さをもってキリスト教を否定せざるを得なくなる
みたいなことを書けばいいんじゃね

704:考える名無しさん
06/07/15 14:22:22
カルヴァンは超誠実だけど否定してないよ

705:考える名無しさん
06/07/15 17:22:29
>>702

予定説と回帰思想(実際この二つの比較した研究はいくつかあった筈)と
太陽中心主義は、変更も到達も不可能な他者の存在の容認という点で
結ばれる。思想的にはその線でいいと思う。
ただ、ピューリタン「革命」はそれだけでは語れないよね。

すごく良い問題じゃないかな。どこの大学ですか?

706:考える名無しさん
06/07/15 17:48:43
ピューリタン革命は失敗し宗教改革も挫折したが
その現実への揺り戻しとプロテスタントの考え方はイギリス経験論や資本主義を育むことになる。

707:473
06/07/15 21:20:01
>>702

予定説と回帰思想は、問題を自由意志から自由意志では
もうどうにもならない他者の意志を受け入れられるか否かに変化させた。
この点、地球中心主義から太陽中心主義への移行と共通点がある。
詳しい人がいたらもっと掘り下げて説明してくれる筈だけど。
でも、課題はやっぱり自分で調べてやった方がいいよ。

>>698

>序文で示された関係が反復するのが重要なのに、
序文だけ取り上げて柄谷は受け入れられていない、と指摘するのは無意味だろう?

これはもう答えていると思うが、柄谷は売れるか否かの話をしているが、
キルケゴールは既に売れた事を前提した話をしている、という事。
後者じゃないと読者としては話は合わない。

かつてドゥルーズがニーチェをマルクス-フロイトといった契約の思想家と対比させて、
契約からこぼれ落ちるノマドの思想家だと表現したが、
それでは不十分なので、契約(売買)を受け入れた上でその意味を変化させてしまう思想家だと言うべきだね。
契約というのはエンゲージだけど、ニーチェもキルケゴールも、エンゲージを反復するんだ。




708:693
06/07/15 21:58:23
実存と文章について興味深いことは、
文章で実存(イマココ)を説明しようとすると「そのときその場所で」と説明せざるを得ないということだと思っています。
(これを理解せずに概念的に解された実存(一般的ないまここ=そのときその場所で)を論ずると思弁的になって躓く)
そして、実存伝達とはそれを避けるために三人称的な話し方をする、ということでしょうか。
文章内で一人称や二人称を使うと、実存についてのニュアンスが蒸発してしまう(実存と文章と対照性の関係)。
そこで、第三者が、第三者について語るということでしょうか?
ラカン的な去勢の図式(あんまり理解できてないけど)を私は念頭に置いているのですが。
読者―(同一化しようとする)→イエス(母あるいはシーニュ?)―(読者の見ていないものを表現する)→罪ある女(ファルス?)
>>707
内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して、
(あるいはクロノス、簡単に言うと「今は流れ行く」)
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか?
(あるいはアイオーン、簡単に言うと「今だけが在る」)
だとすると、ノマドという言葉は後者を指しているはずですから、
それ(>>707)ドゥルーズの意見だといえると思うのですが。

ニーチェもドゥルーズもキルケゴールも学びかけ(ていうか独学だよチクショウ)なのでいいかげんなことを書いているかもしれません。
間違っていたら、お手数ですが訂正ください。

709:473
06/07/15 22:33:26
>>708

私はそんなに難しい概念を分けも分からず振り回してはいないから、
途中参加なら473の発言を軽く見直せば大体解る筈だよ。

>内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか

男性から女性へのエンゲージ(契約)リングの差し出しは、
何を目指してなされているのだろうね。
比喩っていうのはこういう具合に、解りやすくなければならないと、
私なんかは思うんだけどねえ。

大体フロイトは契約するけど、その上で契約以前の世界を再演するのだから、
契約の思想家というのは不適切なんじゃないかな。これはマルクスも同じだけどさ。
ニーチェやキルケゴールは契約した上で、契約以降の世界が開けるの。

ドゥルーズはどっちかっていうと前者に近いんじゃないか。

***

ここって、哲学のアマチュア同士が喫茶店でする情報や考えの交換程度のレベルか
それ以上にはなると思ったけど、全然そうじゃないんだね。

でも、私よりはるかに深くニーチェを理解している人で見ているだけで投稿しないという人もいると思うけど、
そういう人で迷っている人がいるなら投稿して欲しい。
あんまり不毛なようだと、私だって虚しくなってくるし。
それに見ているだけで投稿しないと健康に悪いよ。
一銭の得にもならないのは確かなんだけど……。

710:家氏 かかか
06/07/15 22:49:01
>>703-709さん、ありがとうございます(;;)明学なんですけど…キリスト教がどうも苦手で・・・本番で2000文字くらいで論じないとならないのですが
キリストとかニーチェとかさっぱりで(--;)

711:693
06/07/15 23:25:24
とりあえず>>530前後まで読んだ。
これはジジェク的に見たらいい問題だろう。
つまり、
最初の非人称的な現実界と、
他にも象徴界が世界を分節した後に残った現実界があるということです。
後者をあなたは二人称と呼んでいたのですね?
とすると、図式は以下のようになるのでしょうか?
現実界(非人称、蠢く意思)↓
鏡像段階(一人称)↓
-その後、私であるはずの鏡像がファルスを見る-
想像界(二人称=一人称)象徴界(三人称)↓
現実界(他者(>>473的な二人称))

712:693
06/07/15 23:26:28
いや、違うかな。
…ラカンの理論を考えると頭がこんがらがるからいやだ

713:693
06/07/15 23:59:07
>>600位まで読んだ。
明らかに>>473より私のほうが知識も脳みそもすっからかんだと思うけど、
うん、なんとなくわかる気がするよ。
興味深いね。
詳しく教えていただきたい。

えーと、ドゥルーズが差異と反復の第五章の最後に書いていたことと、かなり近いように思うな。
読んだ?
要点を要約すると、
他者とはサルトルまでの様々な人の他者論のように
「私が主観のときは相手は客観」「相手が主観のときは私が客観」
ということで済まされるものではない。
そうではなくて、他者が可能的世界を表現しているということが重要なんだと。
可能的というのは、要するに他の見方(非人間的な見方含め)が在るということで、
表現というのは、私が見ている他者と、他者が表現しているものは違うということ。
恐怖におののく顔をまずドゥルーズは例に挙げる。
私は恐怖におののく顔を見る。
恐怖におののく顔は、それが体験している恐ろしいものを表現している。
しかし、おののく顔は、体験している恐ろしいものとは別のものだ。
次に、解剖されて断片にされた器官を例に挙げる。
それらはもう人間的な世界表象はもうしていない。
でも、やはり世界に対する何らかの応答を表現していると。
そこからドゥルーズは倫理を引き出す。

714:693
06/07/16 00:05:53
あと、私が先にあげた内容と空虚な形式との話は、固有名と私とに関係していますね。
内容(固有名)の同一性を放棄し、
空虚な形式(私が仮面である固有名をジャグリングすること)に賭ける。

715:693
06/07/16 00:42:24
全部読み終わった。
暇人だな俺も。

四週間眠らなかったという話ですが、
不眠状態と孤独状態は統合失調症とかなり親近性があるらしいので、
カフカ的不眠を連想したのはドゥルーズの思う壺ではないかと。
いや、それでいいと思うけど。

ニーチェ、あんまり読んでないから難しいなぁ。
…えーっと、ビオスとゾーエーってなんでしたっけ?

716:473
06/07/16 01:07:01
>>711

この整理については、私の側からは何の文句もないしもっと早く為されていれば良かったと思う。
因みにジジェクの片腕ジュパンチッチも同様のことを言っている。注目しているのだが、動きがなくて残念に思っている。

『差異と反復』は読みはしたが、何の魅力も感じなかったし、
魅力を説明してくれる本にも出会えなかった。彼の言葉は正直あまりピンとこないよ。
彼の言っていることは、もっと簡単に語れるのではないかな、例えば、

>内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか

この問いへの答えは少しシニックになったけど、率直に言えば、ニーチェもキルケゴールも、
>>679の講話の概要から分かるとおり、商品を媒介した買い手-売り手の「契約」(エンゲージ)を
作品の中で反復する、「契約」(エンゲージ)が反復されるのだからこれは―「結婚」(マリッジ)になる。
彼らは「結婚」の思想家だとした方が「ノマド」とかいうよりはるかに正確だし
「契約」の思想家との対比としてもその違いが明確になる。

>「私が主観のときは相手は客観」「相手が主観のときは私が客観」

この考えも、既にマルティン・ブーバーが古い観念論の復活として一蹴している。
サルトルの捉え方は「我-それ」関係だが対他関係は「我-汝」である、と。私にはそれで済むね。
だが、ニーチェ、キルケゴールにあっては、この二つの関係が交叉する。
これはまだ上手く説明できていないけどね。『畏れと戦き』、そして上に挙げたシュミットのニーチェ論。
「汝」はキルケゴールのいうように、他者の「可能性」ではなくて「現実性」だね。

>内容(固有名)の同一性を放棄し、
空虚な形式(私が仮面である固有名をジャグリングすること)に賭ける。

空虚な形式は他者に通じる通路となっていて、それが
二人称なのだろうね。

717:473
06/07/16 01:25:18
可能性の話は面白いがよく解らない。
差異と反復は読んでみるけど、きっとますます解らなくなるだろう。

ビオスは公共領域に固有名を登録した生。
ゾーエーはそうでないむき出しの生。
アガンベンのホモ・サケル参照。

アポロンとディオニュソスが装いも新たに復活した。
太陽の下に新しいもの無しというのは真理だね。

正確にはドゥルーズの考えは後から知って、
私の体験したことはこういう事なのかな、と思ったんだけど。
本当に素晴らしく健康な日々だったが、一度元に戻ってしまうと何やってたのか解らない。
まあ、ニーチェを読んで直ぐにくたばってれば良かったよ。

718:693
06/07/16 01:30:27
>>716
そうなんだよね。
もっと簡単に説明してよってところがドゥルーズには凄く多い。
でもジジェク『身体なき器官』みたいな、
ラカニスム的ドゥルーズ理解は、
かなり万能な理解ツールであるとは思いますよ。

さて、空虚な形式は、
時間の第三の綜合におけるひび割れた自我として差異と反復では論じられています。
時間の第三の綜合とは、
デカルトが規定作用と未規定なものという二つの論理的価値で、
「私は思う、ゆえに私は存在する」
と言ったことに対しカントが、
「その規定作用を直接未規定なものに差し向けるのは無理だ」
として規定されうるものという第三の論理的価値を付け加えたことに関係している。
…らしいですが、このカントの批判、どういう意味ですか?

719:693
06/07/16 01:35:39
>>717
第五章の最後は、つまり私が参照したところは、彼には珍しく分り易いですよ。

『糞をひらない身体』という本があった気がしますが、
この場合の糞のように社会から認知されていないものを、
つまり同時に公共的な意味付けから逸脱している身体、
言い換えるならクリステヴァの「おぞましいもの」が、
ゾーエーである、としていいですね?

720:473
06/07/16 03:17:19
>>718

ドゥルーズその他については私の方が聞きたい側だし、>>718の問いも、
昔聞いてなるほどと思ったが、直ぐにはでてこないし調べるのも手間だ。
お役に立てなくて申し訳ないが、他の人か、あなたが説明してくれるのを楽しみにしている。
既に答えは出ているようにお見受けのできる問いの提示の仕方だと感じるけど、どうですか?
が、誰がそれを説明するにしても、ニーチェとの繋がりを忘れないようにして欲しい。

>>719

糞-ゾーエー-アブジェクト―で、良いと思うよ。
ただ、先達の言葉を後発の人間の言葉に言い換えて
齟齬が生じないなら、逆で済ますべきだろうね。

キルケゴール、ニーチェの場合はそれesの扱い方が問題になる。
ジジェクのように(疑似?)科学的言説の中でそれに回収されない
一点を囲い込むという形は取らないんだな。

>>708

の発言について「難しい概念を分けも分からず振り回してはいる」かのように
扱ったが訂正するよ。私の方が拒絶反応を起こしていた。
私の発言全てに目を通してくれたようだけど、その上で
708の発言は訂正の余地はありませんか?
だとしたらコメントをしたいのだけど。

721:693
06/07/16 13:05:21
>>720
確かに私は>>718の問いがそのあとどう展開していくのかということはそれなりに分かっているつもりですけれども、
肝心の>>718の問いがのちの展開に繋がるようになる当の論証が分からないのです。
で、そののちの展開は…
ドゥルーズの反復論と存在論の核心である永遠回帰解釈へとつながるうえでの、最後の反復。
それが時間の第三の総合である時間の空虚な形式において姿を現す。
…と、なっています。

>>720
ですね。

>>720
実存伝達はいまだにどういうことかさっぱり分かりませんので、どうか>>708をご訂正ください。

722:473
06/07/16 21:02:29
>>721

『差異と反復』は私は完全にパス。どうしてそうなるのか私も解らない。
『ニーチェと哲学』についてはそれなりにコメントできるが……。

>>708

についてコメントがしたかったのは実存伝達の理解についてではないが、
発言を見返すと私の説明が悪かったらしい。

まず西尾-柄谷とニーチェ-キルケゴールを分けるのは
実存伝達の有無だとしたのは私の誤り(実はそうだと言い切れないけど)。

実際は西尾-柄谷とニーチェ-キルケゴールを分けるのは、
著者の時間と読者の時間が一段ずれざるを得ない事を
彼らが受け入れているか否かであると言った方が良く、
講話「罪ある女」はその違いを示す例として挙げた。

実存伝達については『倫理的伝達の、また倫理-宗教的伝達の弁証法』
『結びとしての後書き』に詳しい。

自己(伝達者)のあり方を通じて、他者(受領者)のあり方に作用を及ぼすのが実存伝達。
ソクラテスの産婆術が一例だが、この伝達においては伝達者の実存と受領者の実存以外のもの、例えば
広汎な学識といったものは一切必要ない。

キリスト教徒が隣人に対してなすべき伝達もそれに近いのだが、伝達者と受領者の間にある知識が挟まる。
その知識を通じて自分自身のあり方をそれまでとは違ったものに変化させ、
自分の変化を通じて受領者のあり方も変化させる。
「罪ある女」はこちらの例だね。時間のずれは伝達者-知識-受領者の関係から生じるのだろう。

ニーチェのアフォリズム集は前者、『ツァラトゥストラ』は後者の機能を果たしているのではないかな。
どなたか訂正があれば宜しく。

723:処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2
06/07/16 21:07:42
俺はニーチェよりはエマソンの方が読んでて面白いと思う。
ニーチェはエマソンのゲルマン民族主義的焼き直しみたいな
感じかな。

724:考える名無しさん
06/07/16 21:11:27
>ニーチェのアフォリズム集は前者、『ツァラトゥストラ』は後者の機能を果たしているのではないかな。

意味がわからん・・・
せめて何故そう思うのかを書かないと・・・

725:考える名無しさん
06/07/16 21:13:33
たしかにニーチェはエマソンの影響を受けたが、それはニーチェのごく一部にすぎないよ。
ニーチェの仏教的な部分への影響だろう。


726:処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2
06/07/16 21:17:10
セーレン・オービエ・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard, 1813年5月5日 - 1855年11月11日)

チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 男性, 1809年2月12日 - 1882年4月19日)
 『種の起源』を1859年11月24日出版した。 宗教界から激しい反対を受けたが、1877年ケンブリッジ大学は
 ダーウィンに名誉博士号を贈った。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)


727:処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2
06/07/16 21:18:22
ニーチェって息苦しくってさ。

728:処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2
06/07/16 21:32:17
ルナンが『イエス伝』を刊行したのは1863年、ニーチェが19の時。
 1871年にコレージュ=ド=フランスに復職,1883年には学長に選任
 され,その間1878年にアカデミー会員となる。

・・・ま、そういう変化の時代であったって話。

>>725
もちろん、ニーチェのショーペンハウエル譲りのインド哲学の
影響なども無視しないが。乱入失敬w

729:693
06/07/16 22:19:12
>>722
私は『ニーチェと哲学』はまだ読んでいないんです。
ドゥルーズのニーチェ論は(あの悪名高き)『ニーチェ』しか読んでませんでして…。
(そんなに悪い本かなぁ?分かり易く、しかも要点を得ていると思うのだけど)
ところで質問ですが、今のところの私の読みだと、
ドゥルーズは永遠回帰をアイオーン論として解釈しているのではないかなと思うのです。
今だけがあるという、リニアな時間観に対立する、ヴァーティカルな時間観。
現に彼は、
「反復だけが達成された唯一の存在論だ」
「存在は一義的であるというスコトゥスの存在論しかなかった」
「永遠回帰は一義性の定義である」
などと『差異と反復』内で述べていたように思います。
そして、時間の第三の綜合というのはつまり、
ニーチェが区別した二種類の価値の形式と対応しているように思うのです。
二種類の価値の形式とはつまり、既存の価値と、創造される価値。
私の認識が正しいならその二種類の価値とはつまり、
内容においては「かつて○○は新しかったが今は古い」という言い方が可能ですが、
形式においては、既存のものは既存のものであり、新しいもの(反時代的なもの)は永遠に新しい。
(私が今まで言ってきた内容と形式とはこういう意味です。多少勝手な意味で使ってます)
>>722
うーん…とりあえず…
『倫理的伝達の、また倫理-宗教的伝達の弁証法』『結びとしての後書き』
を読まないと始まらないようですね…。
図書館に行かないと読めないかなぁ?

730:一言居士
06/07/16 22:50:55
>>729
ニーチェと哲学なら、一通り読んだことがある。
超人とは、「違った考え方ができる」という意味だと言っていた。違ったかな?

731:ヘヴィーメタル赤羽
06/07/16 22:54:48
                 rニYニヽ          
   |レ               //__ _j |        
   !!_           イ t` !_,` } |  金の無い奴ぁ     
   ゙- '´ ,、       /j ト ‐=' レj   俺んとこ来い♪    
      -''´   ,r'´ ̄`゙} |二二j l|rニ二ト、   
           〉─7-'´l|jト、`}-イl;|`--l一〈   
     __ii__    |   レ ルリ-ト、|州リ   |  .|  
     イi    j  j ,,  ヽヽ |/     |   
      `  , イ  ハ ヒ、 ト、 |     j   ',    
        ノ  }  / }、 ヽ} ヽヽ|    ノ ',  |   
      /   イ  } {ニ二ニニ}´7二ニニ}  ',  |
    //  / l  | ',ニ二ニニi |ニ二Y   ', |
.  //  /   l  } ヾニ二ニi |ニ二イ   ', ',
/ /    l    レミj   {ニ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄{    {三i

732:処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2
06/07/16 23:14:07
エマーソンの『精神について』は読んでおけよ。

733:473
06/07/17 00:09:11
>>729

永遠性はリニアな時間の流れに対する脱時間的なものとしてまずある。私の理解ではこれがアイオーン。
その永遠が時間の中に干渉するのがニーチェの「永遠回帰」でありキルケゴールの「反復」で、
ヴァーティカルと聞いてしっくりくるのは私にはこちらだね。時間の中で永遠性を宿しリニアな時間性に抗い続けるのがあなたの言葉だと
「内容」ではなく「形式」だという事になるよね。それは時間の流れに対しては流れを逆流させるような現れ方をする、
という事を私は「罪ある女」を例に挙げて下手なりに説明しようとしたし、『ツァラトゥストラ』も時間の向きを変えて過去に遡って意欲をする事が課題になる。

流れる時間の中に現れた永遠は、ニーチェの場合もキルケゴールの場合もツァラトゥストラやイエス(そして聖書に登場する寓意的人物達)、
という外在項としてあって、それと関わりながら著者は自分の実存も永遠なものに変革し、それを通じて読者の実存も永遠のものに変革する。
これがキリスト教的実存伝達だね。ソクラテスの産婆術も実存伝達ではあるんだが、この外在項がない。

ドゥルーズが『ニーチェと哲学』の中でツァラトゥストラと彼を幼子として共有する超人の夫婦の時間性を
分けて、前者を「他の瞬間に駆り立てられた瞬間の受動的総合」、後者を「過去-現在-未来としての瞬間の自分自身との
総合」と定義しているのだけど、前者は先の商品性と作品性の総合としての「罪ある女」、後者は
それを介して実存を変革した読者-罪ある女-著者との関係だと考えれば良い。
だから「今-ここ」にしてもそれは三つの単位が連関してしか成立しない。
wille zur machatというのも三つの単位の連関を表してもいるんだ。

ドゥルーズは文庫の方も悪くない。machtが<力>なのは何度も言うように誤訳だけど、これはドゥルーズだけの問題じゃないし。
でもあんな容量であれだけの内容詰め込んだら却って解りづらいし、それが初学者向きと銘うたれているからおかしな事になるんだろう。
何度も名前を挙げているけどホルガー・シュミットは丁寧で高度で、素晴らしい解説書だと思うから、こちらを勧めたい。
machtが「権力」でなければならない理由も解るよ。

734:474
06/07/17 01:18:23
今の流れにはあんまり興味がないし、
まだキェルケゴール本が手に入らないので立ち入ったレスはしないが、
>>729
ドゥルーズのニーチェ論が悪名高いのはドゥルーズがまるっきり
自分の思想丸出しだからでしょう?
>今だけがあるという、リニアな時間観に対立する、ヴァーティカルな時間観。
ドゥルーズの時間論といえば生成変化を思い出すね。
ある意味アレは「今だけが無い」という時間観。

735:考える名無しさん
06/07/17 01:25:08
>>733
最初の方に書かれている分では同じ意見ですが、
時間に逆向き云々
外在項云々
実存伝達云々
は、やはりまだ私は理解できません。
申し訳ない。
あとツァラトゥストラの時間綜合と超人夫婦の時間綜合は、そのまま『差異と反復』第二章に流用されていましたよ。
ホルガーシュミット、読んでおきますね、近いうちに。

736:693(735も)
06/07/17 01:31:16
>>734
自分丸だし、という批判は確かにもっともではありますね。
あと、ドゥルーズの永遠回帰が、ある意味「今だけがない」というのももっともです。
だからこその生成変化であり、スピノザの世界観をわざわざ動かした理由でもあるのでしょうね。

737:474
06/07/17 01:52:52
>>736
一応いっとくと、俺はそんなの批判する方がおかしいと思うけどね。
ニーチェを語りながら自分の思想を述べたとしても何の問題もない。
そもそもゾロアスターがあんな事語るわけないんだし。

あと、実存伝達云々に関しては一番詳しいと思われる473の説明自体歯切れが悪い。
473の言うとおりキェルケゴール本を読んでから議論する方がよいかもしれない。

738:473
06/07/17 02:58:35
>>ツァラトゥストラの時間綜合と超人夫婦の時間綜合は、そのまま『差異と反復』第二章に流用されていましたよ。

そうだったのか。読んでみようかな。でも私は随分時間を無駄にしたからな……。

「実存伝達」は情報の伝達ではなくて、伝達者のあり方を受領者に伝え模倣させるもの。立派な人と話をして、話の内容と関わりなく自然に背筋が伸びるようなのはこれ。
クリスチャンの生き方は社会的=人間的な尺度ではただの乞食、世の慰み者となるクズでしかないから、普通の人はそんな連中と関わりあいに
なるのも嫌だし、ましてや自分もそう生きたいとは思わない。そう生きる事の必要性を教えるのがイエス=キリストの実存。
この実存を知として伝えられるまでは、そういう生き方は誰にも想像すらできない。
知った後にはじめてそれまでのあり方(存在)を捨てて、クリスチャンに「なる」(生成する)わけ。
「なった」後にはイエスの実存を「なるであろう」人達に伝える側に回る、と。
キルケゴールに永遠の生成があるとしたらこうした仕方でだね。

逆に聞きたいんだけど、ドゥルーズは「差異と反復」で、こうした外在的一者の実存の問題をどう処理しているの?
>ドゥルーズの永遠回帰が、ある意味「今だけがない」これを読むとイエスやツァラトゥストラの実存も忘れてしまっていいように
取れてしまうのだけど。でもそうなると、ニーチェもキルケゴールも台無しで、これがあるからスピノザとは彼らは絶対に合わないと思うんだけど。

シュミットはまだしもキルケゴールの講話が全然流通していないのはおかしいよ。クロソウスキーの言っている事なんて、キルケゴールが百年以上前に
百倍以上上手に語っているのに、誰も気づかないんだからね。こんな状態で歴史の終わりだとか何とか騒いでいたのだから、何というか―。

時間の逆流は、どう説明しようかな。困った。ハイデガーのニーチェ解釈はこれが解っていないから駄目で、ドゥルーズは
解っていてた筈だから、ドゥルージアンなら私の下手な説明を補ってくれると思ったんだけど―。

ドゥルーズの読みはおかしなところは一つも見つからない。少々気障ったらしいのが鼻にはつくけど。

739:考える名無しさん
06/07/17 03:18:06
あ~あっ、ペダン人に汚されてるね。
勉強熱心なのは納得できるが、そこに自分なりの解釈がまったく無い。
ただの現代思想家信奉者であって、他人の解釈に身をゆだねる思考停止者。
ニーチェのテクストに、ある特定(他人)の意味や見解を取り出してくれば、
そのいずれもニーチェが批判するところとなるのに。
少なからずそういった関連を読んでるがみんな似たり寄ったりだ。

な~んてな。あっ、自己批判になってる!ガックリ。

740:考える名無しさん
06/07/17 03:47:45
ニーチェの著書を何回も読むことだね。
え?1、2回しか読んでないの!!
そんなんで語れるの?
だめだよ解説書、解釈書ばかりじゃ

741:考える名無しさん
06/07/17 05:20:24
473さんがかなりいい加減なことを書いているようなのでちょっと横レスしておくね。
ニーチェの哲学と「Du」を結び付けようとしてブーバー、キルケゴール的読み方を
しようとしているのがまず非常に気になるが、とりあえずそれは置いておくとして…

といってもそれを置いておくと、473さんはニーチェ哲学の核心に触れるようなことを
ほとんど書いていないのだが…、machtについて少し書いてるね。(Machtなのだが…)

>>518
>即自的と捉えられる「意志」に「権力(への)」を付け加えたのは
>それが対他的な関係の中でしか成立しないことをニーチェが見抜いたからだね。
>だから、machtから「権力」という複数の勢力間で構成される関係の
>ニュアンスを抜き取り、「力」にしてしまう翻訳は問題がある。


Machtが「力」ではなく「権力」だとするのはニーチェを特定の視点から読みたい
という意志の現われに過ぎない。権力と訳してしまうとおかしな部分も多々ある。
たしかに力への意志は、ショーペンハウアーの「生への盲目的な意志」とか、解剖学者であった
ヴィルヘルム・ルーの『有機体における諸部分間の闘争』からの影響によって形成された側面も
あり、そういう部分では「権力」でもしっくりくるが、その他に力への意志の思想の形成に
大きな影響を与えたものとして知られるものに、マイヤーやフォークトなどの当時の自然科学者の
「力(Kraft)」概念が挙げられる。
ニーチェは当時の自然科学者の「力(Kraft)」概念を批判してたとえば次のように書いている。
「一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。・・・
この力意志の放射がないとすれば、アトムもないことになる。それゆえ私はこの力意志を
『力への意志』なる量子と呼ぶのである」(遺稿14[79])。
「一つの力量子、これは『存在』という性質をまったく持たないのであるから、生成である」
(遺稿11[73])。
このような「力(Kraft)」に対するMachtであるという存在論的側面を考えれば、Machtは「力」と
訳したほうが無難なのであるよ。

なお、Machtの単数の用法と複数の用法については、ミュラー・ラウターの『ニーチェ論攷』に
詳しい解説がある。

742:考える名無しさん
06/07/17 05:42:43
>>741
ここ(このスレ)は哲学入門者に譲ろうや。

ニーチェってやってれば誰でも通過しなけりゃならんのだし・・・
今さら解釈もなにもないやろ?

743:考える名無しさん
06/07/17 05:46:34

ここで新しい発想や発見が生まれている訳でもないしね。

744:考える名無しさん
06/07/17 07:06:23
>>619
>二人称でしか呼び得ないものの位置に自らを捧げた固有名が
>イエス=キリストであり、ツァラトゥストラなの。

これもよく分からない。
ニーチェが『ツァラトゥストラ』の主人公としてゾロアスターを選んだ理由は『この人を見よ』で
次のように書かれている。
【ツァラトゥストラという名前が他の誰でもなく私の口から、最初のインモラリストである私の口から
出ている以上、その名前が何を意味するのか、誰か尋ねてくれる人がいてもよかったろうに、誰も私に
尋ねてはくれなかった。・・・ツァラトゥストラは道徳という、この最も後に重大な結果を招く
迷妄を創り出した者でもあったのだ。したがって、必然的に、彼は道徳が迷妄であることを認めた最初
の者でもある。・・・─私の言わんとする処はもうお分かりであろうか?…誠実さから発する道徳の
自己超克、道徳家が自分を超克してその反対のものに─私という存在に─なること、これが私の口
から出されている、ツァラトゥストラという名前が意味する処のものである。】

つまり、ニーチェが主人公の名前をゾロアスターから借用した理由は、道徳の没落を、
「自己超克」の論理を用いて描くためには、「道徳の創造者」であるゾロアスターが最適任者だった
から、ということですね。
なお、「誠実さから発する道徳の自己超克」は、『道徳の系譜』では次のように述べられている。
【かくして教義としてのキリスト教は、おのれ自身の道徳によって没落した。かくして今や道徳として
のキリスト教もまた没落せざるをえない。…キリスト教的誠実性は、一つ一つ結論を引き出していった
のち、最後にはその最強の結論を、すなわち自己自身に反対する結論を引き出すのだ。だが、これが起
こるのは、その誠実性が『あらゆる真理への意志は何を意味するか?』という問いを発するときである
。…真理への意志がこのように自己を意識するにいたるとき、爾後それによって…道徳は没落する】
(道徳の系譜三、27)。

>>620
>二人称を中心に据えると、権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の理解が容易になるって事。

権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の関係について、是非書いて欲しいものですね。

745:考える名無しさん
06/07/17 07:32:52
ニーチェの思想は日蓮に行き着くって言われてますが↓
URLリンク(www.hm.h555.net)

746:考える名無しさん
06/07/17 07:52:41
私の考える位置づけだけを大雑把に示せば、
後期のニーチェの著作と遺稿を見れば分量的にも
デカダンス批判と結びついたキリスト教(道徳)批判(および従来の二世界論的形而上学への批判)
が中心になっており、また、上に述べたようにゾロアスターを選んだ理由が「道徳の自己超克」
を描くためであったことも考えれば、「ニヒリズムの自己超克」をニーチェ哲学の中心と考えると
ニーチェ哲学の全体が理解しやすくなると思う。
「ニヒリズムの自己超克」がいかにしてなされるのかといえば、「力への意志」による
「価値転換」によって。「永劫回帰」はそれ自体としては「最高の肯定定式」であるとともに
「最も怖るべき思想」でもあり、「最も怖るべき思想」としての永劫回帰は、
「ニヒリズムの最も極端な形」とも言われている。「ニヒリズムの最も極端な形」が
「最高の肯定定式」に変わるのが「価値転換」によって「ニヒリズムの自己超克」がなされ、
「生成の無垢」が再興される時である。

【一切の価値の価値転換、これが人類の最高の自省の行為を言い表す私の定式である。
・・私の運命は、・・私が自分を数千年にわたる虚偽に対する敵対者として自覚していることを
欲しているのだ。・・私が初めて真理を露呈した。初めて嘘を嘘として感じ取ったことによって】
(『この人を見よ』)。


747:考える名無しさん
06/07/17 08:08:10
>>745
確かにニーチェは仏教を高く評価したが、それはあくまでもキリスト教と比べてということであって、
彼は結局のところ仏教も「デカダンス宗教」であるとしている。
ニーチェが仏教を高く評価した理由は、仏教がルサンチマンを克服しているという点であり、
道徳の虚偽をすでに看破して「善悪の彼岸」に立っているという点であると思う。
そしてニーチェが仏教も「デカダンス宗教」であるとしたのは、ニーチェが仏教の「涅槃」を
「無」と解釈し、仏教には「無への憧れ」があると解釈したからだと思う。

ニーチェは「私はヨーロッパの仏陀になれるかも知れない」と言い、永劫回帰を
「仏教のヨーロッパ的形態」とよんだ。
あくまでも【ヨーロッパの】仏陀であり、仏教の【ヨーロッパ的】形態なんだよね。
だからニーチェが行き着くのはインドの仏教ではないです。

748:473
06/07/17 09:50:11
>>741

あなたは744,746,747の発言者と同一人物ですか?どの発言者であるにせよ、これから纏まった発言をし続けるつもりなら、
どの発言が自分のものであるか名前欄に番号を入れて解るようにして欲しい。私の発言に興味を持って下さって嬉しいが、誰だか解らないと返答に余計な労力がかかる事を解って欲しい。

>「力(Kraft)」に対するMachtであるという存在論的側面を考えれば、Machtは「力」と
訳したほうが無難

との事ですが、私はそもそもKraftを「力、あるいは勢力」とした場合それに対するMachtであるからこそ、
区別して「権力」と訳すべきだと最初に主張したつもりです。Machtを「力」と訳してしまうと、意志同士の相互作用(対他的な関係)のニュアンスが消えてしまう。

ですから、「一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。この力意志の放射がないとすれば、アトムもないことになる。それゆえ私はこの力意志を『力への意志』なる量子と呼ぶのである」
という最初の引用は、私の意見を裏付けこそすれ、批判するものにはなるとは思えない。「一つの力量子、これは『存在』という性質をまったく持たないのであるから、生成である」 というのも同じだが、しかしこの断片については
それ以前に「権力への意志は、存在でもなければ、生成でもなく、パトスであり―生成が、作用が、そこからはじめて生じてくる最も基本的な事実である」という有名な断片もあるので、私としては扱いに慎重にならざるをえない。
とは言え、日本語で力と権力両方の意味を担わす事の出来る語があれば、それが一番良いとは思う。

ミュラー・ラウターの名前ははじめて知りました。興味深い内容ですが、この値段では購入は見合わせです。 悪書が良書の流通を妨げるのは、何とかして欲しい。


749:473
06/07/17 09:55:03
>>741への返答は少し読みづらくなって失礼。

>>744-747

ニーチェがツァラトゥストラを選んだ理由が「道徳の自己超克者」や「ニヒリズムの自己超克者」として
彼が相応しかったからだというのは理由の一つとしてよく挙げられるので多くの人と共に私も知っている。
しかしそれは神的な夫婦である超人産出の為の過渡的な作業である,というのもまた然り。
夫婦の女性の側が二人称と関係があるのは間違いがない。それを中心にしてあなたの勧めてくれるように

>権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の関係について、

考察し直して、それが成功すれば今までのニーチェ論にないようなエレガントなものになる筈だが、
私の限界なのか、ぱっぱとやるというわけにはいかない。一人で問題を抱えていても行き詰まるので、
ひょっとしたら考察を勧める糸口くらいにはなるかなと思って、思い切ってここに投稿したのですが、
なかなか議論は進まないなあ、失敗だったかなあ、でも投稿しちゃったよ、というのが実感です。

>>693

「差異と反復」第二章を読んでいる。こんなに面白いとは思わなかったな。
でも、これを理解していれば、私の言っていることは理解できるというか、
もっと上手く語れると考えるのじゃないかしら。

750:741,744,746,747
06/07/17 10:08:13
>>748
>Machtを「力」と訳してしまうと、意志同士の相互作用(対他的な関係)のニュアンスが消えてしまう。

「力」だと何故対他関係が消えるのか、さっぱり分かりません。
世界は「諸力の戯れ」であり、諸力の相互作用ですよ。

>ミュラー・ラウターの名前ははじめて知りました。

たしか『批判的全集』や『ニーチェシュトゥディエン』の編集にも携わっている
現代のニーチェ研究をリードする一人です。

>>749
相変わらずあまり内容があるレスとは思えず、レスしようがないですね。


751:741,744,746,747
06/07/17 10:21:48
>とは言え、日本語で力と権力両方の意味を担わす事の出来る語があれば、それが一番良いとは思う。

辞書を引くまでもないと思うが、「権力」より「力」のほうが遥かに意味が広い。
(もちろん「力」は「権力」という意味も含んでいる)
「権力」と訳さずに「力」と訳す人が多いのは、「権力」では意味が限定されすぎるからです。

752:考える名無しさん
06/07/17 10:32:08




  明日はハロワ池よ





753:考える名無しさん
06/07/17 12:25:29
473は俗に言うキチガイってやつですか?

754:考える名無しさん
06/07/17 13:12:48
ガイシュツだろうけど、ドイツ語版ウィキの Friedrich Nietzsche の記事のなかに
Werke und Ausgaben って項目があって、作品名が青字になってるとこを踏むと、
ドイツ語原文が up されたページに飛ぶんだな。

URLリンク(de.wikipedia.org)

755:考える名無しさん
06/07/17 14:58:07
Machtは「力」と訳しても「権力」と訳しても不適当でそ。

そもそもドイツ語なんだからドイツ語で考えたら?

英語だとwill to powerだけど、これも勘違いの甚だしい訳。

なんてったって、übermenschがsupermanになる国だから。


756:474
06/07/17 14:59:11
>>741
>Machtが「力」ではなく「権力」だとするのはニーチェを特定の視点から読みたい
>という意志の現われに過ぎない。権力と訳してしまうとおかしな部分も多々ある。
それ以前にフランス語ならばフォルスとピュイサンスで訳の問題は起きない。
日本語にピュイサンスに相当する単語がないから権力になってるだけのこと。
権力だとおかしい、力じゃなきゃ、っていうのには同意なんだけど、些細な問題だよ。
>>751
逆にフォルスではない力を表現しなきゃならないから権力と訳す向きが多いんだと思う。

普段から存在=エートル=ビーイングで、品詞すら全く違う単語を訳語に当ててるんだから、
力か権力かにこだわるべきではない。どっちも名詞なんだし。
なんならこのスレではこの先Macht=力と決めてしまえばよい。

757:473
06/07/17 15:21:56
>>750

>相変わらずあまり内容があるレスとは思えず、レスしようがないですね。

今まで見ていただけの人にそう言われる筋合いはないが、
発言者が誰か解らない事もあって、実はよく読まずに返事をした。
私が見ても744-747のあなたの理解は殆ど文句のつけようがない。
出されてみるとその通りだが、すぐこれだけ整理した文章に纏める事ができるのは
私など問題にならない位ニーチェに通じていらっしゃるのだろうと思う。

その人が二人称についての私の発言が解らないというのは私の方が理解できない。
散発的な返事の中での発言ですから私も上手く説明できていないのは確かなのですが。
ニーチェにおける二人称の意義について、既に纏めた優れた研究は、もうあるのではありませんか?


758:693
06/07/17 15:50:52
>>738
私はドゥルージアンたらんとはしていますが、
まだまだ下っ端も下っ端でして、
よくわかっていないのです。
すみません。

759:474
06/07/17 16:18:03
「今だけが無い」と言い出したのは俺なのでちょっとレスすると、
473の感想はもっともだがドゥルーズの生成変化とは無関係。
むしろ生成変化と永劫回帰を同一視することが正しいか疑問だ。
生成変化の特徴は現在を回避し、過去と未来の区別をしない事だ。

760:693
06/07/17 19:23:23
さて、>>473さんの考えていることはこういうことではないかということを書いてみたいと思います。
論証重視的ではなく、流れ重視で、私なりに、やみくもに。
まず、彼は「力の意思」ではなく「権力への意思」という記述に(なぜかは分からないが)こだわっている。
で、その権力意思の向かう先は「汝」である。
彼によると汝というのは「向かい合って私を見ているあなた」であって他我ではない。
それはジジェク的な≪汝≫やドゥルーズ的な≪他者≫と等しいと思われる。
さて、その≪他者≫というのは何かというと、私が見ている世界とは違う見え方の世界を表現するシーニュだった。
これはジジェク的には現実界に属し、それを埋めようとするとイデオロギーが出てくるとジジェクは考える。
ところで、権力の向かう先の汝とはどんな性格のものだったか。
それは、既成の価値体系とは相容れない反時代的なものだった。
ニーチェによれば、既成の価値体系でいくら名誉を得ても、それは奴隷的な強者でしかない。
何故かというと、規制の価値体系における名誉を喜ぶ為には、
喜ぶ当人は必然的にその価値体系の自己同一的な根拠の前に屈服していなければならないからである。
というわけで、権力意思は、処女開拓意思のようなものであるといえる。
ところでドゥルーズによると、
この反時代的な精神というものの場所である時間の空虚な形式こそが、永遠回帰における今なのだった。
空虚な形式とは、アイオーンであり、ヴァーティカル・タイムであり、
すなわち経験的な内容に対立する「過去-今-未来」の一組の系列である。

…混沌としてきた…。
…えーっと…。

761:693
06/07/17 19:31:03
話を進める向きを変えよう。
ドゥルーズの思考法には、確信があるわけではないが私は、
世俗的な概念を、経験的内容から空虚な形式によるものへと改造する、
というものがあるように思われる。
『千のプラトー』を例にあげると、
「有名⇔無名」→「メジャー⇔マイナー」
「体制⇔反体制」→「国家装置⇔戦争機械」
「人間=男=存在」→「動物=女=生成変化」
というのがそれなのではないかなと思う。
で、やっと本題に戻る。
ドゥルーズ的な永遠回帰に>>473は共感的ではあるが、
それを支えるのが権力意思ではなく「力の意思」であるというのが彼には納得がいかない。

権力意思にはある「汝」の位置は力の意思にはないのではないか?
ないならば、それをどうにかするべきだろう。

これが>>473の目論見だと私は思っている。

762:474
06/07/17 21:06:49
>>761
些細な指摘だが、有名無名とメジャーマイナーは対応しない。
マイナー文学という言葉はあるが、カフカが無名だとは思わないだろう?

763:考える名無しさん
06/07/17 21:06:52
473はラカンそのままなんだからラカンを勉強しなさい

764:693
06/07/17 21:11:16
>>762
カフカをマイナーと言い張るのがドゥルーズ=ガタリの破天荒さだと思うんだけど。
マイナーってのは「固定された定義を持たない」っていうような意味じゃない?

765:474
06/07/17 21:33:38
>>764
無名と言い張ってはいないわな。

766:693
06/07/17 21:35:15
>>765
あ!
しくじった!
そのとおりです。
勢いに乗って適当なことを書いてしまいました。
おわびします

767:考える名無しさん
06/07/18 02:12:46
実存伝達ってキルケとレヴィナスの間の問題じゃないの
「おそれとおののき」読めばいいんじゃない?
実存哲学の圏域内の問題に過ぎないと言ってしまえると
思うけどな。ニーチェと関係させるのは…

768:474
06/07/18 02:34:14
>>767
ニーチェと関係ある、と主張する人物が居るからには、
無い、と主張する方ももうちょっと詳しく根拠を述べて欲しいものだ。
確かにキェルケゴールの問題とは思うが。

769:考える名無しさん
06/07/18 14:04:08
>>768
いや。
ニーチェが書いているのなら、そういうことを書いている箇所を
引用して明確に示すことができるはずだよ。
しかし書いていないことを示すのは、困難なことだよ。
荒唐無稽な話に対して反論することも困難。
473は自説を述べたいならもっと具体的なニーチェの言説を示すべき。
そうでないと反論もできない。

770:考える名無しさん
06/07/18 14:07:44
ニーチェが実存主義者だと誤解されていたのは一昔前のことだよね。
今はニーチェと「実存」を結び付けて論じる人は少ないと思うけどな・・・

771:474
06/07/18 15:55:17
>>768
それは分かるのだが、書いてないことを示すのではなく、
ニーチェの問題の本質・主眼が別の場所にあるのならそっちを主張して欲しい。
これは悪魔の証明ではない。473は参考意見程度の主張はしている。

772:考える名無しさん
06/07/18 18:47:55
ニーチェはなんとでも読めるから勘違いが次々と・・・


773:474
06/07/18 19:18:25
771でレス番間違えた。正しくは>>769
>>770
それは歴史をニーチェ解釈に不用意に持ち込んでいる事にならないか?
ニーチェがいわば「実存主義の時代」に出てきたことに意味を見いだすのは
不自然ではないし、おそらくその必然性もない。

774:考える名無しさん
06/07/19 05:17:14
>ニーチェがいわば「実存主義の時代」に出てきたこと
それはよくある哲学史の教科書の誤解なんね
サルトルが実存主義を唱えてから、その先祖は誰やねん、ということで
キルケやニーチェ辺りじゃね?ということで、キルケ、ニーチェの時代が
「実存主義の時代」となってしもた
これこそ歴史をニーチェ解釈に持ち込んでるものやねん、ということで
ここんとこはニーチェ=実存主義で考える人は少なくなったんね

775:考える名無しさん
06/07/19 09:07:27
マルクス、ニーチェ、フロイトってのは聖域視される3巨頭だった
のだけど、ニーチェというのは晩年に「真理を掴んだ男」として
彼が批判していたにも関わらず、彼自体が、一種の形而上学に
なっちゃったのね。まさに彼の言うとおり、怪物と戦う者は自身が
怪物とならないように注意しなければならない、と。
フランスでは、ラカン派を攻撃することでドゥルーズ=ガタリが
フロイトを撃って、デリダがニーチェ読解をズラさせてその形而上性を
脱却させようとした。うまくいったかどうかは定かじゃないが。
マルクスは現実の方が権威を失墜させてしまった

776:474
06/07/19 09:26:57
>>774
別に俺は実存主義の時代に出てきたとは書いたけど、
ニーチェが実存主義だとは書いてないぞ。
重ねて、俗に言う実存主義者(キェルケゴール等)と関係を見いだしても
不思議ではない、と言えると思う。
(ついでに言うと俺はキェルケゴールに関しても実存主義と言うのに問題があると思う)
>これこそ歴史をニーチェ解釈に持ち込んでるものやねん、ということで
>ここんとこはニーチェ=実存主義で考える人は少なくなったんね
仮にニーチェ=実存主義の人がここに居たとして、
「正しい解釈をする人が少なくなったなぁ}と言ったとしたら、774はどう反論するのか。
ニーチェ≠実存主義の方が後世の学説だから正しいとでも言うつもりだろうか?

777:693
06/07/19 17:15:32
キルケゴール:絶望することをやめ外部の神の前に跪く
ニーチェ:自分で作り、戯れる
実存主義者:自分で作って自分で自分に跪く
という分類が出来ると思いますが、どうでしょう?

778:474
06/07/19 17:58:37
>>777
キェルケゴールは不得意分野だが……
死に至る病によると、神に近寄れば近寄るほどに絶望は深くなる。
つまりキェルケゴールの絶望からの救済は絶望の局地であるわけだ。
女性より男性の方が絶望は深く、絶望が深い方が自己を多く所有している。
人間は自己であり、自己は自己自身に関係するところの関係である。
絶望して自己自身であろうとしないのが女性的な絶望で、
その逆が男性的である。

もし、絶望をやめて女性的になるとすれば神から無限に遠ざかる事になるが、
キリスト狂信者のキェルケゴールがそんなことを言うものかね?

779:693
06/07/19 18:50:55
>>778
それはキルケゴールが信仰をどう捉えているかを誤解しているがゆえの解釈だと思われます。
絶望とは、必然的に自己の置かれた状況を否認するということを示しています。
これは絶望して自己自身であろうとする絶望でも変わりはありません。
そもそも、絶望して自己自身であろうとする絶望というのにも幾つかの類型があります。
思いつく分だけでも挙げてみると…
一つ目が全ての絶望に共通した、自己の置かれたの状況を否認して、
理想の中の自己自身であろうと欲するという絶望。
二つ目は、自己の置かれた状況を受け入れる(信仰)すると楽になる事に気がついているが、
それは理想の中の自己を放棄することを示すので、
そうするくらいなら理想を抱いたまま現状を受け入れる(自己自身であろうとする)という絶望。
三つ目が、そのような状況に追い込んだ神を憎み、全てに反抗的になって、自己自身に閉じこもって暴れ狂う絶望。
(三つ目は正しい解釈か自信ない)
この二つ目の中に一瞬あらわれた「自己の状況を受け入れる」というのが信仰。
…のはず。

780:474
06/07/19 19:13:09
>>779
死に至る病を素直に読めば
「絶望して自己自身であろうとする絶望」の果てにあるのが信仰なのだが、
そのような解釈になる根拠を聞きたいものだ。
>二つ目は、自己の置かれた状況を受け入れる(信仰)すると楽になる事に気がついているが、
この説明は絶望しつつ自己の置かれた状況を受けいれる、
「絶望して自己自身であろうとする絶望」を無視している。

ニーチェスレなのでニーチェについて言うと、これもニーチェが実存主義、
キェルケゴールの系譜に属する思想家だと誤解された理由だろう。
・肯定する駱駝から否定するライオンになり、肯定する子供になる。
・絶望の浅い女性的状態から絶望が深い男性的状態になり、信仰にいたる。
こういう逆説の論法が共通していることが、キェルケゴールと混同されることになった。
だけどキェルケゴールは到達し得ないものとして信仰をおいていると思う。

781:考える名無しさん
06/07/19 19:25:06
>>780
絶望の上に絶望を重ねても信仰は出て来ませんよ。
信仰が可能になるのが、絶望を極める地点であるということです。
もう一度、二つ目の類型について論じますと、
「自己の置かれた状況を受け入れるすると楽になる事に気がついているが、しない」
この「しない」から「不真面目さ」を読み取るのが重要なポイントです。
絶望の上に絶望を重ねることで人がしているのは「空中楼閣を築く」事でしかない。
つまり、絶望とは本性上、空想の産物である、ということが重要なのです。
徹底的に絶望することで、人は自己を精神にし、そして、信仰する。
この信仰というのは、それまで築いてきた空想を全て破壊することですから、
信仰の結果は「楽」なのですが、そこにいたる跳躍は、それこそ自己破壊的な力を要するのです。
だから、人は信仰を「しない」。

782:474
06/07/19 19:41:46
>>781
なんだかよくわからんが……
二つ目の類型が絶望の極限だと言いたいのか?
空想を破壊する、というのは完全に必然的に成るということか?
>徹底的に絶望することで、人は自己を精神にし、そして、信仰する。
定義上、絶望しなくても人間は自己であり精神なんだがな。
ホントにキェルケゴール読んでるの?

783:693(781も)
06/07/19 19:53:15
>>782
三つ目はもう手遅れ級ということです。
「完全に必然的に成る」…とは?
『死に至る病』はちゃんと通して読んでますよ。

784:474
06/07/19 20:12:54
>>783
手遅れであっても、絶望を極めている事には変わりないじゃないか。
その状態の絶望者には信仰は不可能なのか?
もし、手遅れだったら信仰者を最上位に置くキェルケゴールの論理は
完全に破綻するだろうな。
(なぜなら絶望者から信仰者への「進化」が不可能になるから)

完全に必然的になる、とは可能性の余地がない状態を想定した。
あまり深い意味はない。

785:693
06/07/19 20:27:04
>>784
実際に『死に至る病』第一部の最後に「もう無理だ」的な記述がある。
うろ覚えだけど…
全てが遅すぎたのだ。
もう神様や天使たちが以下に彼に手を差し伸べようと、
彼はそれを受け入れやしない。
彼は全世界に向かって荒れ狂いたいのだ。
彼は全世界から不当な扱いを受けたものになりたいのだ。
そうでなければ、彼は自身の行為を正当化できないではないか―。
…という記述があった。

786:693
06/07/19 20:31:47
…でも「どんなに悪魔的な絶望の中にも、いくらかの弱さがある」とキルケゴールは書いていたし、
たぶん恋か何かをさせてやれば何とかなるんじゃないかな?
絶望のもうひとつの特徴は、世界に対して一歩遅れを取っているということだし、
そうである以上信仰のほうが当然、強い。
一歩遅れているというのは、つまり、何かの否定であり、何かへの反抗であるということ。
反動的であるということ。
対象のない反抗はないからね。

…ここまできて、ニーチェの話にやっと戻ることが出来る。

787:474
06/07/20 00:59:51
>>786
絶望して自己自身たろうとする絶望における弱さとは、
弱い絶望を打ち負かして信仰へと進む、という弱さではない。
言うならば絶望者の弱さだ。
弱いがゆえに信仰に向かう事はない、と考える方が自然だ。

また、693氏の説く信仰の観点から絶望を論じるのは、
絶望者に対する反動に他ならない。絶望者も世界の一部だから。

780にも書いたが、キェルケゴールとニーチェに関連を見出すかは別として
両者はとてもよく似た論理構造を持っている。
ニーチェにも同様の問題は起こりうるが、
少なくともニーチェは解決していると思う。おそらくスピノザ的に。

788:693
06/07/20 02:08:53
>>787
ええ、弱いから不真面目なのです。
ソドムとゴモラらから逃げる最中に落とした手鏡を拾うために後ろを向いて塩柱になるのです。
…と考えたら、弱いがゆえに信仰に向かう事はない、となるでしょう?
絶望の弱さとは、情熱の大きさではありません。
つまり私は、弱い絶望を打ち負かして信仰へと進む、という意味で書いたわけではないのです。
絶望とは世界に対する反抗ですから、世界に一歩遅れている。
未来に対する絶望であっても、絶望者は世界より一足遅れているのです。
『死に至る病』(ちくま学芸)から参照ページを提示しましょうか?

下については同意。

789:474
06/07/20 03:02:49
終電やり過ごして漫画喫茶なのでページを示されてもわからんが一応示しておいてくれ。
>つまり私は、弱い絶望を打ち負かして信仰へと進む、という意味で書いたわけではないのです。
つまり、絶望する人間が世界の中で強者となって、信仰者は僻むことしかできない。
きわめてニーチェ的な状態がここから考えられるわけだ。

790:474
06/07/20 08:00:22
で、帰ってきたわけだが。
問題を整理すると、ニーチェに見られた肯定-否定-肯定となる逆説的進化を
キェルケゴールの哲学に見いだすか否かが問題なわけだ。
自己の状況を受け入れるのが信仰者のありよう、というのには異論はない。
が、絶望の極限は779で言えば三段階目であり、二段階目を信仰への道とすると、
そこにニーチェ的逆説は無いことになる。

ニーチェにおいて、子供と駱駝は全く別の生き物であり、
この二つは逆説の形式によって隔たっている。
肯定するという点のみを見れば同じ、ということになりかねないが、別物になっている。
キェルケゴールにおいて、絶望をし得ないもの、あるいは軽度の絶望者と
信仰者の間は分かたれているか?
779を読む限り、信仰者は自己の現状を受け入れざるを得ないので、
可能性の欠如から来る絶望と違わないように思われる。
その点、どうか?

791:考える名無しさん
06/07/20 09:59:25
キチガイさんこなくなったね。
やっぱり私が一番だわ。私ってすごい!って満足しちゃったのかな。

792:693
06/07/20 17:17:21
とりあえず、まとめさせていただきます。

『死に至る病』(ちくま学芸)より
信仰=絶望が全く存在しない状態の公式:p94
…「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに当たって、
     自己は自己を措定した力のうちに透明に基礎付けられている」
→また、同ページに以下のような記述がある。
…「反抗というものが全然なければ、絶望は存在しない」
…「絶望の最高の反抗そのものも、何ほどかの弱さを伴わずには決して存在するものではない」
これを私は、神の世界を措定する力と、それに反抗する自己の想像力と捉えたのです。
この順序についての記述:p128
…「彼は他の人よりも少しばかり…」以下数ページを参照。
そしてそれは…「真剣さが欠けている」(p129)
(だから>>788の弱い絶望云々という記述は私の書き間違いです。お詫びします)

793:693
06/07/20 17:21:39
つまり、絶望は人間の神に対する反抗ゆえ、
順序的にも人間は神の次にしか来ないし、
それゆえ世界を措定するのは神だからどう足掻いても、
絶望は悪あがきに過ぎないのであり、神と一体である信仰には勝てない。
また、この力を意識しているという点で、信仰者は無自覚な絶望者とは区別できる。

794:474
06/07/20 17:47:07
>>792
788は言葉の用法が不明確すぎて何書いてあるのか全く分からなかったから詫びる必要はない。
これからキェルケゴールの文言を確認してみるが。
>>793
>絶望は悪あがきに過ぎないのであり、神と一体である信仰には勝てない。
これは2chにおける勝利宣言みたいな物で、
信仰(信仰者)が絶望者に対して勝利することにはならないのでは?
さすがのキェルケゴールでも「信仰の奇跡が絶望者を打ち負かす」とは考えないだろう。
(俺は絶望と絶望者、信仰と信仰者をあえて別けて使っている)
そもそも死に至る病とは自己に関する病であって、知っての通り自己とは精神であり、
自己自身に関係するところの関係である。この病が死に至るか、というと、
自分を焼き尽くしてしまえない、という事実に焼かれているような状態。
(つまり死ぬに死ねない事に死んでいる)
正確な文言は覚えていないが、
世界の帝王になったとしても死に至る病から救われていなければ何の意味もない、
という意味の文言もあったはず。(うろ覚え)
信仰が絶望に勝てる、というのは人間精神の中の事に過ぎないのだ。
世界に対する反動だから、絶望は世界に打ち負かされる、というのは誤読に過ぎない。
神が絶望者を勝利させたとして、信仰者は神を疑うことはない。

795:693
06/07/20 18:01:43
確かに、信仰者や信仰が「絶望者に対して」勝利することはありません。
最後の三行を私なりに書き直すことで、対立点を明らかにしてみたいと思います。

信仰が絶望に勝てる、というのは人間精神の中では説明できないことである。
(信仰は神とセットだからである)
「世界に対する反動だから、絶望は世界に打ち負かされる」というのは誤読に過ぎない。
(絶望は反動であるが、焼き尽くされることはなく、打ち負かされない。反動であるというところに弱さがあるのだ)
神が絶望者を勝利させたとして、信仰者は神を疑うことはない。
(この最後の一行が良く分かりません)

つまり、私の中ではこんな構図。

   神    自己の想像力
   ↓       ↓
自己の状況⇔自己の理想

この縦の二つの系列は平行している。
そして神の方のみが現実的な措定力を持つ。
しかし、自己の方も神に焼き尽くされることはない。

796:474
06/07/21 01:39:25
文庫本が見つからん……
>信仰が絶望に勝てる、というのは人間精神の中では説明できないことである。
>(信仰は神とセットだからである)
信仰者が神と関係する際、その関係するところの関係は信仰者の精神の問題。
人間の定義を思い出して欲しい。つまり信仰も絶望も精神の状態であることは変わりない。
>(絶望は反動であるが、焼き尽くされることはなく、打ち負かされない。反動であるというところに弱さがあるのだ)
ならば絶望することに何の問題があるのか? 弱いにもかかわらず質的に負ける弱さではない。
キェルケゴールがキリスト狂信者とはいえ無根拠な事は言うまいね。

キェルケゴールの言う信仰は、人間が絶望していない状態と言える。
なぜなら人間は絶望しうる。これは定義から自明。にもかかわらず絶望しないのは、
絶望を乗り越えた、絶望しうるのに絶望しない状態だ。
しかし693の説で「絶望をやめる」とは、絶望し得ない状態を指している。

ニヒリズムに陥る可能性があるにもかかわらず、陥らない。
人間は動物と超人の間に渡された一本の綱だ、とは言うが、
超人への自己超克のみが問題ならば動物に言及する必要はない。
ここでも論理の類似が見られる。

797:473
06/07/21 05:43:58
741の返答を待っていたが、無いね。私の発言を程度が低いと言った以上、それ相応の発言があると思ったのだが……。
彼の纏めは非常に簡潔で要点を得ているから、初学者向きにだって役に立つよ。

私がMachtが力ではなく権力の方が良いと思った一番大きな理由はハイデガーのニーチェ解釈の
おかしさが感知されずにそのまま通ってしまうのはこの訳語のせいではないか、というものだった。
彼の解釈にはディオニュソスはあってもアリアドネがない。これは私の投稿のきっかけとなったリオタール、
日本では永井均とかにまで尾を引いている。が、それを訳語の不備に対応させたのは私の過剰反応だったかもしれない。

キルケゴールとニーチェにあっては先在的な他者が大きな役割を占め、実存主義者だとしても
サルトル流主体的自己確立のそれではない。「マリッジ」VS「エンゲージ」の差だ、というのは比喩として使える。
『死に至る病』の自己と関わる云々というのも夫と結婚した妻のあり方を下敷きに考えるとすっきりするよ。

474が言うように「ニヒリズムの克服」をもたらすツァラトゥストラと
「信仰」による救済をもたらすイエス=キリストは両者の哲学大系の中で殆ど同じ地位を占めている。
アンチ・クリマクス著の『死に至る病』を取り上げると、ニーチェが克服した問題を
キルケゴールは不可能ものとして提示するに留めていて一段劣る、という風に受け取り兼ねないが、
キルケゴールが自己の信仰の核心に触れた発言をしているのは、
『キリスト教的講話』『建徳的講話』のような本名の著作群だけなので、
『ツァラトゥストラ』と対比させるなら、こちらでないと話が合わない。
これらの著作があまり読まれない限り彼らの繋がりは本質的なところで見えないままだろうね。

798:考える名無し
06/07/21 08:47:36
ニーチェの真価
ニーチェの真価はその独特の視座、パースペクティブである。
直感・臭覚といっても良いかもしれない。
「永劫回帰」「超人」「神は死んだ」の個々の概念に囚われるとその真価を捕らえることはできない。
ニーチェは残念ながら思想を構成する力に足りなかった。
ニーチェの真価は、その視座を受け継いだ後期ハイデカーの講義にて結実する。
「存在と時間」において一度は失敗にした試みを後期講義において結実させた。
ニーチェの思想はここに結実する。

これはなんであるか(哲学とは...)


799:考える名無しさん
06/07/21 10:07:34
超人が子供のように遊ぶときにも、権力意地で動いてるんだから、
思うままに行かない場合、ルサンチマンができちまうんじゃない?
それとも、あきらめてほかの遊びに関心持っちゃうのかな。

800:考える名無しさん
06/07/21 10:15:03
「権力意地」って何か斬新だな

801:693
06/07/21 12:58:15
>>474さん
それとなく会話にソゴを感じません?
私はここしばらくそれを感じています。
うまく言っていることが伝わっていない気がする。
とりあえずこの話題には留保をつけませんか?

802:474
06/07/21 14:37:48
>>801
じゃあ、留保してる間に693は「死に至る病」を読み返しておいてくれ。
693が人間の定義も忘れているならキェルケゴールについて議論しても生産的ではない。

確かバタイユに「キェルケゴールは人間を不条理の彼方へと連れて行く」
みたいな文言があったと思う。正確な文言は忘れたが。
知っての通り、バタイユはニーチェ主義者であり、アテオロジスト(無神学者)を自称している。
キェルケゴールが実存主義、キリスト教の中に留まっているのはいいとして、
これらの思想の中だけで完結しない思想家である証拠と言える。

803:693
06/07/21 14:51:24
>>802
ひどいいいようだな。
君こそ参照点を読んどいてくれ。

804:473
06/07/21 16:43:30
ニヒリズムも絶望も、その克服には父から子へと生成した新たな教えの告知者であるツァラやイエスを必要とするのね。
それを受けて読者は超人やクリスチャンに生成(再生)し救われる。過去、現在はこれでいいとして、
未来の生成がどこにあるかだけど、それは書外の他者の生成の中にだろう。

ツァラが選ばれた理由を741の整理に一つつけ加えると、
彼に「パーナ」という恋人の登場する稿が残されている事から(だけではないが)解るように、
ニーチェがヴァーグナーの『パルジファル』を『魔笛』に変えようと試みたという事が挙がる。
パーナは刊行された部には出てこないが、読者が読後関わるべき他者、
クリスチャンにとっての隣人のような存在として書外で機能し続ける。

永遠回帰も反復も、伝達者や伝達行為を内に含んで成立していて、
それを受け入れれば、読者も伝達行為の中に巻き込まれるわけね。

こうした点でニーチェとキルケゴールはやはり似ているので、
対比させると解りやすくなると思って引き合いに出したんだけどね。

805:考える名無しさん
06/07/22 00:15:40
不特定二人称の愛って「愛してる」って歌詞の入ったCDを
誰かが特定の誰かにプレゼントするようなものかしら。
そのときプレゼントする側の自我が解体されてる
なんじゃそりゃ

806:474
06/07/22 01:39:25
>>803
一番有名な一節だから「知ってるよ」とか反論あると思ったのに……ホントに忘れてんの?
参照点に関しては一応よんどくよ。俺が持ってるの岩波版だったから暇な時に図書館で読む。
>>805
ちょっと違うかもしれないが、権勢を追求して頂点に達すれば今度は逆に贈与するようになるという。
このとき贈られるのは贈与者自身であるという。バタイユの談だが。
まあ詩的解釈したい奴につきあってやるのも一興ではないか。

807:473
06/07/22 03:03:09
>>805

>不特定二人称の愛って「愛してる」って歌詞の入ったCDを
誰かが特定の誰かにプレゼントするようなものかしら。

こういう比喩が出ると解りやすくなるけど、より正確には

誰かが「愛している」って歌詞の入ったCDを
不特定の「誰でもないもの(Du)」にプレゼントして
その中の特定の誰かが自分と同じ行為をする事を期待している。
その特定の誰かがかつての自分と同じように贈るであろう
プレゼントの受取手は「誰か」ではなく「誰でもないもの」
なのだから、これに同一化しようと思えば、自我は崩壊する。

CDのタイトルがツァラトゥストラ。
最後の手紙は、試みの種あかしのようなものだと思うよ。

808:考える名無しさん
06/07/22 09:29:43
柄谷の他者だな

809:考える名無しさん
06/07/22 10:06:58
>>807
CDの例え話は思いつきで書き込んだのだけど、私は473さんの
考えを勘違いしていたらしい…
私はこう思っていた。ニーチェは、特定の誰かに向けられた
ものではない、つまり不特定の二人称である相手への愛、を
手紙で特定の相手(コージマ)に送った。CDのたとえで言えば
昨今の作詞家は特定の誰かのことを思い浮かべて「愛してる」
という作詞はしないだろうから、不特定の相手に対して「愛してる」
という詩(手紙)を書き、そのCDを私が特定の誰かにプレゼント
する、っていう意味で書き込んだ。でも807だと、プレゼントの
受取手が不特定の二人称に相当するってことだね。勘違いしてたよ。

810:考える名無しさん
06/07/22 12:28:41
>>804
>こうした点でニーチェとキルケゴールはやはり似ているので、
>対比させると解りやすくなると思って引き合いに出したんだけどね。

ぜんぜん解りやすくなってないねぇ
話を続けるなら、そろそろ本題(ニーチェ論)に入ってくれないか?


811:考える名無しさん
06/07/22 13:28:27
ただしコージマとの関係の話は、やめていただきたいが・・
あれは発狂後の手紙なんだから。
発狂後の手紙を重視されても、ちと困る・・


812:474
06/07/22 14:15:00
発狂というのがどういう性質の物か、分からないのでもしかしたら
あの中にニーチェ思想の本質があるかもしれない。
……とはいえ、疑わしい物をわざわざ証拠に数えるのは馬鹿らしいわな。

813:473
06/07/22 15:29:34
>>809-811

超人というものは、仰々しい響きのせいもあって色々な誤解をされてきたけど、
誰でもないもの(Du)へ向けられた愛を意味する名であるツァラトゥストラ
を受け入れ、自己もまた自己の名において誰でもないもの(Du)を愛し、
その誰でもないもの(Du)もまたツァラトゥストラを受け入れて、
その人の名において誰でもないもの(Du)を愛するよう要求する人間か、
そうした人間である事を互いに察知しあう人間同士の事だとしたら、
これはイエスへの愛を通じて隣人として互いを愛し合うキリスト者に近い。

そう考える証拠をニーチェの中からいくつか挙げた。
最後の手紙も、ニーチェが『ツァラトゥストラ』の読者に
何を要求していたかを示す証拠の一つだと思う。

本と手紙で扱う順番を逆にしてしまったのは、
話が解りづらくなってしまった事の一因だった。
発言を追ってくれていた人には済まなかった。

814:考える名無しさん
06/07/22 15:41:34
超人と愛って一番ダメな解釈だな。

815:693
06/07/22 16:43:32
>>806
一通り読み返したが、私は私の理解に変更は必要ないと思った。
定義は当然知ってるよ。
当然過ぎてわざわざ言い返すまでもないと思ったんだ。
そこまで馬鹿だと思われていたとは心外だな。

816:474
06/07/22 21:00:03
>>813
そうでもないでそ。今までだって
肯定するものであるから超人は(広い意味で)愛するもの、と解釈されてきてる。
そこに仏教的な悟りとか、そういう仰々しいのが関連づけられたりするけど。
>>815
とりあえず意見の対立点は781と782に集約されてるだろ。
782に対していい加減な回答しかしていないから馬鹿と見ざるを得ない。
誠意を持って答えない相手には誠意のない対応だ。

817:693
06/07/23 00:30:16
…分からない人だなぁ。
あれだけ同じ論点を誠意満点で手を変え品を変え説明したというのに。
その際の言い間違いで揚げ足取りに必死みたいじゃないか。
ようするに、情熱の強さと、真剣さは潜在的なレベルで関連はしているが顕在的なレベルでは別であり、
真剣さの伴った強い情熱が信仰を可能にし、そして信仰というのはあらゆる絶望よりも本性上強いんだよ。
程度の違いばっかり読み込んじゃダメ。

818:考える名無しさん
06/07/23 00:52:48
本の受け売りを自慢げに話す知識自慢大会。

819:考える名無しさん
06/07/23 00:54:31
そもそも手を変え品を変えてるうちに回答が変わっているのだが。
Q二つめの類型が絶望の極限だと言いたいのか?
A>>781絶望の極地で信仰が可能になる(極限である)
 >>783三つ目は手遅れ級(極限ではない)

また、781の絶望の説明は人間が自己を精神にし、というが、
この三者は同一なので信仰者においても精神=自己が成り立たなければおかしい。
おそらく精神を別の意味で使っているのだろうが、精神の意味について何の説明もない。

820:474=819
06/07/23 00:58:14
途中で書き込んでしまった。
>そして信仰というのはあらゆる絶望よりも本性上強いんだよ。
その強さに何の意味があるのか、と聞いてるんだが、都合が悪いのか答えてもらえない。

質問意図を理解しようとせず、質問者、批判者を型にはめて回答した気になって、
分からない人だ、などというのはやはり誠意がないと判断できる。

821:693
06/07/23 02:52:19
信仰は、神=世界との類縁性を持っているので、基本的に安らぐことが出来るし、キルケゴール曰く、信じれば、神には全てが可能らしい。
そこは『死に至る病』のいろんな部分にちょこちょこ書いてある。
絶望の極地において、人は真剣になる(それが極地だ)が、第三の絶望においては、人は最高に情熱的であるにも関わらず、不真面目だ。
まずはこれを理解してほしい。

822:474
06/07/23 03:00:11
神にはすべてが可能である。故に絶望に手遅れを想定することはあり得ない。

823:474
06/07/23 03:27:57
まだ勘違いしているようなので言っておくと、絶望を極めることが信仰だなどと考えている訳ではない。
絶望の極地において信仰が可能になる、ならば絶望の程度論争はキェルケゴールにとってむしろ本質的問題だ。

また、類縁性を持っているというが、人間はそもそもが関係なのだから、
絶望者も類縁性を持っている。(全く同等とはいわないが)
キェルケゴールの考える神は、俺を明日から世界の帝王にすることだって出来る。
しかし俺が世界の帝王ライフを満喫してすべて思い通りにして、世界との完全な類縁性を獲得し、
「神様ありがとー」と叫んでも、キェルケゴールは「彼こそ信仰者だ」などと言うわけはない。
非本来的な絶望者だ、となるわけだ。
ここにニーチェ的逆説を見いだしてる訳だが、693の説ではこれを弁別出来ない。
精神を多く持つことによって絶望の強度を高めるのに対し、693の信仰はその放棄だからだ。

824:考える名無しさん
06/07/23 04:20:15
>>815-823

人間にとっては手遅れである絶望からの脱却も、
神にとっては手遅れではない―で良いと思うよ。

どちらにせよキルケゴールについての議論でスレッドを使うのはもう止めてね。


825:474
06/07/23 10:20:22
>>824
そうだね。そこで提案なんだが、
議論の原点に戻ると、ニーチェとキェルケゴールの間に類似性を見いだすか、ということだった。
ニーチェ的な逆接を見いだすべきか否かが争点だったから、
おそらくニーチェの逆説性については693も反対しないだろう。そこからニーチェに立ち戻るのはどうだろう?

俺も20年ちょっと前は物心つかない子供だったわけだが、なぜ子供がライオンより優れているか?
これは精神の比喩な訳だが、20数年前子供だったのにその後駱駝になる人もいる。
これは子供を徹頭徹尾逆説の元に読み解かなければならないという証左である。

826:考える名無しさん
06/07/24 01:16:29
>>825
どこが「逆説」なのかわからん。
「駱駝」が背負う重荷は旧来の、主にキリスト教的な価値。
それを破壊するのが「獅子」。
古い価値が破壊された後に新たな価値を創造する「子供」。
新たな価値を創造する者を「子供」という比喩で表すのは別に逆説とは思えないが。


827:474
06/07/24 01:38:34
>>826
最後の一行だけ読めばそれは議論の余地無く正しい。
だけど、ツァラトゥストラでは駱駝から獅子、獅子から子供へと進化するように書かれている。
価値を肯定する者から否定する者へ、否定する者からさらに否定する者、ならば逆説ではないが、
ツァラトゥストラでは肯定する者から否定する者、その否定する者から肯定する者へ進化する。

828:考える名無しさん
06/07/24 02:07:39
>>827
だから、肯定するものが「駱駝」と「子供」では違うということだよ。
駱駝が肯定するのはキリスト教的価値。それはニーチェにとっては「嘘」
もっと極端に言えば「無」。
だから駱駝の立場そのものが、もともとニヒリスティックなわけだよ。
子供の肯定は自分自身の価値の肯定。さらにいえば「運命愛」だろ。

829:473
06/07/24 04:31:25
>>825-828

1:ラクダの「背負う」肯定には不十分なニヒリズムが隠されていて、
2:その偽の肯定を暴いて投げ捨てるのが獅子の否定で、これは「ニヒリズムの徹底」として解釈されているよね。
3:次の幼子になると否定は完全に姿を消して、超人夫婦の「二重の肯定」に変化する。

1から2への移行はツァラトゥストラが担当するとして、
2から3への以降は『ツァラトゥストラ』でもそれ以降の著作でも
殆ど書かれていなくてどういう事なのかよく解らなかった。
私はそれを担当するのは>>813に書いたとおり、読者と彼が関わる現実の他者の役目で、
だからこそ書物の中で書かれる事は少なかったのだと思うけど。

2から3への移行にキルケゴールの「逆説」に相当するものがあるかどうかだけど、
父が子に生成するのだから、宗教性Aから宗教性Bへの移行にほぼ対応すると思うよ。
、という事を>>804に書いたつもりだったのだけどね。

830:考える名無しさん
06/07/24 04:43:36
>>829
>2から3への以降は『ツァラトゥストラ』でもそれ以降の著作でも
>殆ど書かれていなくてどういう事なのかよく解らなかった。
>私はそれを担当するのは>>813に書いたとおり、読者と彼が関わる現実の他者の役目で、
>だからこそ書物の中で書かれる事は少なかったのだと思うけど。

新たな価値の創造についてはたくさん書かれているでしょ。
「超人」や「永劫回帰」についてはあまり書かれていないのは、
それらが本質的に客観的叙述を拒む性質を持っているからだと思う。


831:考える名無しさん
06/07/24 09:13:07
>>829
>父が子に生成するのだから、宗教性Aから宗教性Bへの移行にほぼ対応すると思うよ。

獅子がなんで『父』 なのよ・・・

832:474
06/07/24 09:17:05
>>828
逆説を逆説以外に説明出来なかったら不条理だ。
逆説以外の説明をして「これは逆説ではない」と言うなら、
キェルケゴールにも逆説はないし、世間一般に逆説は存在しない。

833:考える名無しさん
06/07/24 09:34:53
獅子が子供にならなければならない理由はニーチェ自身が次のように書いているわけだが。

「強奪する獅子がなぜさらに子供にならなければならないのか?
子供は無垢であり忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、
一つの自力で回転する車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、我が兄弟たちよ、一つの聖なる肯定が
必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失っていた者は
自分の世界を獲得する」


834:考える名無しさん
06/07/24 09:37:30
子供のケチのつけあいレベルで、答えようがない。


835:考える名無しさん
06/07/24 09:43:23
だが何なの?

836:473
06/07/27 13:48:12
返答に代えて私の意見を纏めると、「受領者に生成した伝達者」と「伝達者に生成した受領者」の対が「超人」であり、
伝達の「対象」であるツァラトゥストラが先んじて「獅子」から「幼子」へと生成して二者の生成も可能になる。
三者の生成の綜合を内側から成立させる伝達行為が「力(への)意志」であり、伝達行為の内で三者の生成が「永遠回帰」する。

Dzが「過去-現在-未来としての瞬間の瞬間自身との綜合」と呼んだ三者の生成の時間的前後関係は単線的ではなく入り組んでいるが、

イ、書内では主人公「獅子」だったツァラトゥストラが読後「超人」夫婦の媒介者「幼子」に生成する。
  (*これは時間をかけて書かれ且つ読まれる「作品」が、やはり時間を意味する貨幣によって流通する「商品」に生成する事と重複する。「罪ある女」参照)
ロ、受領者「誰でもないもの(Du)」だった読者は伝達者に生成する。伝達行為はその人の名においてなされるしかないが、
  伝達者の「私」は歴史上のあらゆる名前であるらしい。(*私にはこの事態の意義はよく解らない)
ハ、伝達者だったニーチェはロと裏腹に既に全ての名前が登録されている歴史に自分の名前を残し去って、
  ロの受領者となるべき「誰でもないもの(Du)」=非歴史的万人に生成し、
  >>807に書いたとおり通常の意味での自我は崩壊する。

第二者「君」は非歴史的万人(クロソウスキーの言う「プレブス」はこれだろう)、
第一者「私」は歴史上のあらゆる名前だと仮定しても、
第三者として取り上げられるべき名前はツァラトゥストラだけだと考えるのが妥当だろう。
上述の伝達のあり方をニーチェとかなり共有するキルケゴールにおけるイエスに変換するとより解り易いけど。

だからニーチェ、キルケゴールに託けてジョン・ケージとか夏目漱石とかの「名前」を強調するのは、
彼らを「神人」として崇拝するか、「私はジョン・ケージだ」とか「私は夏目漱石だ」とでも
言うつもりでなければやはり誤解としか見なせないな。名前、名前と言っていた人達がその後意見をどう改めたか知らないけど。

837:考える名無しさん
06/07/27 13:58:03
>>836
かなり亜流ですね。

838:474
06/07/27 14:04:08
亜流かどうかなんて関係ない。自分の考えを解くべきだ。
が、ツァラトゥストラ=獅子とする根拠はどこにあるのか?
獅子はツァラトゥストラの動物だ、見たいに書いてあったけど、
その箇所では獅子だけじゃなかったわけだし。
ツァラトゥストラは超人を予言する者、であるのは間違いないと思うが、それは獅子なのか?

839:考える名無しさん
06/07/27 22:32:56
誰の亜流ですか?

840:考える名無しさん
06/07/27 22:34:21
亜流→我流

841:考える名無しさん
06/07/28 02:52:49
お前らカスみたいな長文まで読んで偉いな

842:考える名無しさん
06/07/28 10:15:03
>>836
解釈の根拠をもっと明確に示さなければ、誰も納得しない。
ニーチェの言説を引用しながら説明すればいいのではないかな?
ニーチェの言説を無視した解釈でいいのなら、なんでもありになっちゃうぜ。


843:考える名無しさん
06/07/28 18:13:04
要するにこんな馬鹿共相手にしないで、投稿しなけりゃいいんだ

844:ニーチェ初学者
06/07/28 19:04:42
ニーチェは「道徳の系譜」が一番基本って言われたので買ってみたのですが、あんまり理解できません。
一通り読んでのニーチェの言わんとすることはぼんやりとはわかるのですが細かいところがわかりません。
一応「ニーチェ入門」っていう本も読んだので、全訳を知った上で英文読んでるような感じです。
皆さんはどんな風に読んでいるのでしょうか?

845:考える名無しさん
06/07/28 19:08:16
ageてしまいました、すみません…。

846:考える名無しさん
06/07/28 19:15:09
>>844
他人がどんな風に理解しているかを知るよりも、
自分がどうやって理解したらいいのかを考えるべき。
理解できないなら、理解できるまで読み込む、考え続ける。
その過程が哲学だと思うんだがな。。。

847:初学者
06/07/28 19:17:22
>>846
私もそう思うのですがとにかく読むのに時間がかかってしまって…
実は一ヶ月前から読んでるのですがまだ第一章の、騎士と僧侶が…っていうところから抜け出せないのでちょっと不安になってしまって…。
わからなくてもどんどん先にいくべきでしょうか。

848:一言居士
06/07/28 21:05:02
好きにすりゃいいよ。ともかく読むのが苦痛じゃ理解しづらくなるからね。
あとで読めば理解できるかもしれんよ。その本の序文でニーチェ曰く「よく反芻すること」と。
時間がかかるのは当然とおもったほうがいいんでないの?

849:考える名無しさん
06/07/28 21:08:03
変な日本語の人書き込まなくなったねw


850:初学者
06/07/28 21:31:12
わかりました、ありがとうございます。

851:473
06/07/28 22:25:36
846は言うべきアドバイスが何もないだけ。848は多分ネットで検索して
出てきたことを適当に言っているだけ。でなければ発言が無意味すぎる。
私の発言を悪し様に言っていた知識のある人達は、解っててこういうのを止めないのか。

>初学者

いなくなりそうだから急いで投稿するけど、

外国語で読んでいるのでなければ、戦士と僧侶(この対関係は基本中の基本)が
一ヶ月かかって理解できないのはかなり遅いと思う。Dzの『ニーチェと哲学』二章四章五章が
巧くエッセンスを抽出しているので、理解を深めるには照らし合わせて読むといい。

>ニーチェは「道徳の系譜」が一番基本

これだけど、GMは後期ニーチェの著作の中で最もアカデミックなスタイルで書かれている為、
ニーチェの哲学を体系的に捉えるならそれから入るのが良いと学者の間ではよく言われるが、
ニーチェ自身は『この人を見よ』の中で『ツァラトゥストラ』-『悦ばしき知識』-『曙光』を
「肯定の書」と評価し、『善悪の彼岸』以降の著作については、「私の生涯の肯定的な部分は
もう終わったので、残されているのは否定的な仕事だけだ」という記述をしている。

少し後のゴッホに近くて、「肯定の書」の時期は向日葵や黄色い家や花咲くアーモンドの木みたいに溢れかえるような
健康に満たされているが、それ以降になると段々ガジェ医師とかカラスのいる麦畑みたいに不吉かつ殺伐としてくる。

月並みな表現だが、ニーチェの魅力を味わうなら、GM読むのは
「肯定の書」をニーチェ自身の評価が高い順に並べ替えて挙げたから
その通り読んでからでいいと思う。

852:考える名無しさん
06/07/28 22:54:58
英語で読んだ方が理解しやすそうだな

853:初学者
06/07/28 23:32:48
>>851さん
ありがとうございます。丁寧にお返事してもらって助かりました。
日本語で読んでます。
『ニーチェと哲学』ですか。読んでみます。

なるほど、ありがとうございます。
GM=道徳の系譜、ですよね?
非常に参考になりました。

854:693
06/07/28 23:49:58
>473さんの解釈要約
実存伝達についての私の理解が何かのブレイクスルーを起こすまでしばらく私は沈黙することにしたいと思います。
>初学者さん
えーっと、永井均「これがニーチェだ」「ルサンチマンの哲学」なんかが俺は個人的には好き。
とんでもない勘違い本だとかこのスレに書いてあったりするけど、道徳についてのセンスでいうなら永井センセは一流だと思う。
まぁ、読んでみてくれ。
そうでないニーチェ解説なら、ドゥルーズ「ニーチェ」をおすすめするな。
一言でこの本を荒っぽくだけど要約すると、
主人:生きる力にあふれている→生成変化する意欲がある→行動が先→自由
奴隷:生きる力が衰弱している→生成変化が怖い→規制の諸価値が先→その中でのし上がる
みたいな感じ。
ドゥルーズのニーチェ受容は実はこの延長線上で大部分理解可能だったりする。
竹田セイジ「ニーチェ入門」ほか、ここであげた三冊以外は俺はおすすめできないな。
「道徳の系譜学」は緻密な仕事だけど、順序立てた説明かといわれると、俺はそうは思えない。
だから反芻が必要になるんだろうな。

855:初学者
06/07/28 23:58:28
ありがとうございます。
わかりやすくて助かりました。
薦めてくださったニーチェ解説を読んでもう一度道徳の系譜や~かく語りき、に挑戦しようと思います!

856:474
06/07/29 04:13:01
>846は言うべきアドバイスが何もないだけ。848は多分ネットで検索して
>出てきたことを適当に言っているだけ。でなければ発言が無意味すぎる。
>私の発言を悪し様に言っていた知識のある人達は、解っててこういうのを止めないのか。
そんなレッテル張りこそ下品だと思うが。
もっとも848に関してはそれこそ何を言ってるのかまったくわからんが。

初学者さんにあまりえらそうに言える人間ではないが、俺の意見は846に近い。
ニーチェを知りたければまずニーチェを読むべきだ。
ただ、ニーチェの議論に加わるためには他人のニーチェ理解にあるていどは
すり合わせなければいけないわけで、そのためには先に上がったドゥルーズ本はお勧めだ。
竹田セイジのはあの程度ならもっといい本ありそうな気がするが、
竹田の書いたものの中ではかなりいい。ドゥルーズよりも敷居が低いし。

857:考える名無しさん
06/07/29 16:31:07
読んでる初学者には解ると思うけど、
GMの序文で反芻しろって言われているのは
本論ではなくアフォリズムをですな。

永井も竹田も、持ち上げてんのは
この程度の知識もない連中だから、
推して知るべし。

858:考える名無しさん
06/07/29 19:15:24
ニーチェ理解にドゥルーズを勧めるヤツって、どうしてかね?
ドゥルーズは自分の世界観の補足としてニーチェを恣意的に読んでいるだけで、
ハイデガーのほうがなんぼかマシでしょ?

ハイデガーでさえ、なんでもハイデガーにしてしまう、という批判があるくらいだから、
本当はドゥルーズもハイデガーもオススメできないでしょ。


859:考える名無しさん
06/07/29 19:32:59
「道徳の系譜」読んでよく解らない、騎士と僧侶で詰まる、どうしたらいいか、って聞いてんのに
ニーチェを読むべきだとか、ニーチェの議論に加わるためにはどうしろとか、的はずれ過ぎ。474はスレの無駄遣いもうやめれ。

860:693
06/07/29 19:42:17
>>857-859
そりゃさ、どのご意見もごもっともですよ。
永井センセも竹田セイジも本の中で大した知識は披露していないし、
ドゥルーズもハイデガーも自分色にニーチェを読んでいるし、
詰まってる人にニーチェ読め一遍倒は酷だ。
でもさ、なんでそう不平豚みたいな事しか書けないかな?
批判の後に、こうしろと具体的で肯定的な意見を書くくらい簡単じゃない?
否定的な意見だけ書くのはいただけないね。
第一、勝ち逃げみたいなかんがある。

861:考える名無しさん
06/07/29 19:54:10
あんたら何のためにニーチェ読んでるの?
大学の研究?衒学趣味?

862:473
06/07/29 21:10:17
>>858

ハイデガーは私でも解るような間違いが結構あって全然駄目。
Dzはかなり少なく見積もってもハイデガー程杜撰じゃない。

GMの戦士と僧侶で詰まっているならDzの能動-反動、肯定-否定の
整理はいいと思って勧めた。何か具体的欠陥を指摘できるの?

863:474
06/07/29 22:56:41
>>858
ニーチェをわかることが哲学の目的とはいえないわけよ。
つまり議論をすることがあって、ニーチェが重要視される。
で現在、議論を進めていく上での前提としてはドゥルーズが適切と思われる。
>>859
悪かったよ。もっと丁寧にレスしたかったんだけど、ちょっと忙しかった。
でもお勧め本の話してるところだったから、そう的外れでもないと思うぞ。

864:sage
06/07/30 05:11:07

 為
  す
   べ
    し

865:考える名無しさん
06/07/30 08:38:00
>>860

>永井センセも竹田セイジも本の中で大した知識は披露していないし、
>詰まってる人にニーチェ読め一遍倒は酷だ。

んな事言ってないって。あの程度の短文も誤読されて勝手に言い換えられて内容のないレス返されると、呆れてまともな書き込みなんかする気おきんのよ。
キルケの関係ない書きことかで無駄遣いされてもう残り少ないし。準荒らしのお前らが心がけるべきは有意義なレスだけしてスレを大事に使う事。

>>863見る限り、474も全然解ってねえなあ。つける薬はないのかねえ……。

866:age
06/07/30 09:01:46
>>864

 欲
  す

867:474
06/07/30 11:09:56
>>865
ここ10レスで一番内容のないレスは865と867だろうな。お互い止めようや。

868:考える名無しさん
06/07/30 13:08:55
>ここ10レスで一番内容のないレスは865と867だろうな。お互い止めようや。

そんな事言ってるようじゃまだ解ってねえな。

10レス以内の863見ても、11レス前の856見ても
答えられないくせに出しゃばって無関係な発言してスレ潰すのを止めてない。
それが改まらないとスレの無駄だけではなくカキコもしずらいので、改めて
有意義なレスだけ返すようにして欲しいと言っているのに直後の発言でも改まってない。

そういう事を100レス以上前からやり続けてスレ食いつぶした奴らに反省を促すのは
少なくともあんたのカキコほど無内容じゃない。それができねえなら黙ってくんねえか。

869:474
06/07/30 14:21:37
そもそも自説に固執して粘着してきたのは693だろう。
>そういう事を100レス以上前からやり続けてスレ食いつぶした奴らに反省を促すのは
ケリがついたことを蒸し返して続けさせようというレスは、
やっぱりこのスレとは無関係な内容のないレスだと思うぞ。
856以降に関してはスレの内容にあまり合わなかったな。悪かった。

で、今のスレの流れは
・ニーチェ初心者に何故ドゥルーズを勧めるか
・道徳の系譜の戦士と僧侶
この二つの流れだと思うが、868も今後これに関するレスをしてくれよ。俺もするから。

870:考える名無しさん
06/07/30 15:37:53
>ケリがついたことを蒸し返して続けさせようというレスは、

話は有耶無耶におわっても同じような事繰り返してんだからケリがついたとは言えないのだよ。
相手のカキコ読まない、読んでも誤読、勝手な言い換え、的はずれなレス、不相応の出しゃばり。
474だけじゃないがカキコするならこういう態度改めてくれって言ってんのよ。
何でこんな事いわにゃならんの。悪かったとか言われても、態度改めなきゃ意味ねえ。

>で、今のスレの流れは
>・ニーチェ初心者に何故ドゥルーズを勧めるか
>・道徳の系譜の戦士と僧侶

また余計な事しとるし。質問が一つあっただけで、流れとか勝手に決めんなって。
もうレスついてんだし納得できなきゃ初学者も858もカキコして自分で聞くだろうが。いらぬ出しゃばりもうやめれ。


871:693
06/07/30 20:47:56
自説呼ばわりはひどいなぁ。
…なーんて不毛な話題はおいといて。
いや、ドゥルーズの解釈は確かに強引なところもあるだろうと思うけど、
「ニーチェ」は名著だと思うんだ。
第一に、慣れたら単純な二分法なのに、ニーチェを体系的にとらえられてしまうような視点。
これは初心者にはありがたいだろう。
その視点に凝り固まらないようにするよう気をつければという留保付きだけど、
少なくともニーチェを楽しんで読めるようにはなるのだし、
第二に、この本は薄くて、論点がこの二分法一点(あとは系譜学の要約や入門資料が載っている)だから、
ポイントをつかめば全部理解できる。
これも悪くないだろう。
いい道標にはなると思う。

872:考える名無しさん
06/07/30 20:53:33
ドゥルーズのどこが間違っているか

873:473
06/07/30 22:26:35
DzはGM,AC,WMとかの理解の助けになるが、楽しんで読む助けにはならないと思う。楽しむならニーチェのMR,GS,Za。
Dzの訳はフォルスとピュイサンスで訳語が同じ力でやっぱりなんとかして欲しい。これだけで相当ややこしくなる。
できれば学者の間で検討して統一もして欲しい。

>慣れたら単純な二分法なのに、ニーチェを体系的にとらえられてしまう

これはおかしいね。主人と奴隷の二分法に隠されている能動-反動の「勢力」の対と肯定-否定の「価値」の対を
分けてる事がDzのポイントの一つだから。

>>854

実存伝達は伝達の対象(内容)ではなく、伝達者の実存や受領者の実存に反省を加える伝達。

ニーチェでは

・ショーペンハウアー、ヴァーグナーの人格への傾倒
・悲劇の誕生におけるコロスへの注目
・フランスモラリスト譲りの箴言・アフォリズム
・回帰思想をZaに託した事

内容よりもスタイルによく現れる事キルケゴール以上だと思う。
内容の引用すると短い断片ばかりになる。
でも836では無くても済む話しかしてないけど。

>>872

二人称(Du)の話が出てこないところ。

874:考える名無しさん
06/07/30 22:44:26
そろそろ473の仕切どっかいくか、別スレつくってくれないか。
どうしてこの手の人間は空気読めないのかな

875:474
06/07/30 22:46:25
>>870
じゃあどんなレスすればこのスレに合致したと認めてくれるんだ?
まず手本を見せてもらおうか。
>>873
この点に関してはどちらが間違っている、という気はないが、
人称の問題以前に473とドゥルーズのニーチェ解釈には根本的な違いがあると思うが。
ドゥルーズは「回帰しないものは存在しない」と言ってるわけで・・・

876:考える名無しさん
06/07/31 01:41:03
永劫回帰と全く同じことを小さいとき時思い付いた、その考えにとりつかれて何度も気が狂いそうになったんですけど。
それと知らずに同じことを何億回もしてるんですよ、それについていやだと考えていることも次も繰り返すときも考えてるってこともその次繰り返すときも考えてるってこともその次・・・
無限ループ

877:考える名無しさん
06/07/31 07:42:37
こちらが正規次スレです。
キリスト教は邪教です パート7
URLリンク(academy4.2ch.net)


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