06/07/07 18:25:48
ざっと見てレスつけるけど―。
単独者は「この私」ではないよ。
それならシュティルナーで済むんで、
それは違うんだ、って話をブーバーはしてたのね。
柄谷行人の影響なんだろうけど、
彼の読み全然間違ってるからね。
凡庸というのも蓮実重彦の影響かしら?
まあどっちでもいいけど。
今まで言ってきたように、
自己の内部に還元されない解消不可能な対他性が二人称なの。
で、これが享楽だとしても規律からの逸脱ではないってのが面白い。
これはあんまり話題にしていなかったけど。
というのは、その関係は超人の父であるツァラトゥストラによって
媒介されているから。社会的な父ではないけど、父はいるわけね。
この関係は近親相姦ではないよ。アリアドネとディオニュソスは
互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になるわけ。
だから他者同士を繋ぐものなんだね。
世の中が凡庸になるのは
それに耐えられない人達が出てくることも含めて、
ニーチェの意図に反した事じゃない。
両方とも超人じゃないのね。
結局世の中がどうとかいうより、
自分が彼をどう受け止めるかなんじゃない?
キリスト教と一緒で。
『ツァラトゥストラ』はそれだけで読めるようにわざわざニーチェは
造っているんだけど、でもそれはキルケゴールとやっぱり同じなんだよね。