06/07/07 16:11:43
私が言っているのは、「その」独我論をうち破るのが二人称親称のDuであって、
私が上にあげた人達はその可能性にかけた、って事。
レヴィナスは固有名を宗教的絶対他者に祭り上げた上で
その奥に二人称的他者もいる、っていう考えだから微妙だけど。
我っていうのは私よね?二人称「汝」っていうのは他我じゃないって事。
彼らはいわば他者のエスに届く人称として二人称を捉えているの。
他者の自我(他我)ではないのね。
そしてもう一つのポイントはこのDuが特定の誰かではない、という事。
渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の自我に近いね。
エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう言葉があるでしょ?
いわば、最後の「私」は他者にとってのエスであるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?