06/07/06 17:11:34
>私も現実界を主客未分化の状態の意味で
>使っている。でもそれは対他的な関係の中ではじめて見いだされる
>ものだろう、という事。この「他」は大文字の他者でも小文字の他者でもない。
未分化でなんで対他的関係が発生するのか????
536:考える名無しさん
06/07/06 18:11:40
>>532
ニーチェのコージマへの関係がいわゆる愛の関係ではなくて、
「神的愛」を手紙によってコージマに伝える関係だということは
分かった。これってキルケゴールとレギーネの関係そのままだね。
で、特定の誰にも結びつかないニ人称の意義、それを巡る考察を
展開した系譜の思想家の考察を教えて頂きたい
>でもこれは彼らの間にツァラ トゥストラが幼子として挟まっている
>事を考えれば理解できる
>「幼児」はニーチェにあっては主客未分化の状態である事より
>それが夫婦の間に生まれる点が重要になる
ここら辺が今ひとつよく分からない…
537:473
06/07/06 21:30:28
>>536
そう。だからやはりニーチェと対比的に考察されるべきは
マルクス、フロイトではなくキルケゴールだね。
彼ら程深く人間を愛していた男性を、私は他に知らないね。
例えば、彼の遺稿集の第五巻を開いて欲しい。
すると直ぐにこんな言葉に出会う事になる。
「親愛なる者よ!この献呈を受け取って貰いたい。
これはいわば闇雲に、しかしそれだからこそどんな顧慮にも乱される事なく、
正直に献じられている。あなたが誰であるか、私は知らない。
あなたがどこにいるか、私は知らない。あなたの名がどういう名か、
私は知らない。けれども、あなたは私の希望、私の喜び、私の誇り、
知られざるものながら私の名誉なのだ!」
彼がいかに特定の名前に結びつかない二人称の機能を
いかんなく発揮しているかこれだけでも解ると思う。
二人称のこうした使い方をした思想家については
私は上に上げた人達しか差し当たり思い浮かばないが、
他に思い当たったら教えて欲しい。
まあ、でも普通に考えたら著者が読者の名前なんか知らないのは
当たり前なんで、そうした条件を受け入れているだけだと言えるけど。
でも、それを受け入れられない人は多いんじゃないかな。
>>535>>536
それはもう説明している。主客未分化の状態である「幼児」は
互いを能動的に愛し合う夫婦の間に生まれる。
夫婦の関係は伝達者-受領者であって、これは主客の関係ではない。
この二つは違うんだっていうことを、レヴィナスなんかは
ずっと言い続けてきた。
538:考える名無しさん
06/07/06 22:45:58
>>537
糞もミソも一緒ってやつだね。
ニーチェはニーチェ、フロイトはフロイト、キルケはキルケ、
レヴィナスはレヴィナス
なにを基準に何を比較しているのか。分裂病?
539:考える名無しさん
06/07/06 23:39:27
分裂病の話なんか今まで一言も出てこないんだけど…?
ニーチェとキルケゴールが結びつく基準は
今まで散々話題になってきた事だよね?
あなたがレスした537でも挙げられているし。
それに糞も味噌も一緒っていうのは
美醜、優劣を区別をしない態度を言うんでしょ。
それだとあなたが挙げた思想家達に
明確な優劣の差異があるにもかかわらず、
それが区別がされずにまぜこぜにされている、
という意味の批判にしかならないんだけど…
今までだってそうだけど、
よく読みもしないで、
よくも解らない言葉を使うのはやめてよ。
540:考える名無しさん
06/07/06 23:45:35
>>537
なんかの文学小説と勘違いしてるんじゃなかろうか。
哲学に二人称持ち出されても、あんましリアリティー感じないなぁ。
541:考える名無しさん
06/07/07 00:09:46
>>539
糞もミソは美醜も優劣も関係ない。
一見似ているが関係がないものをごちゃまぜに語ること。
よく理解もしないで、
風呂敷広げのはやめてよ。
542:474
06/07/07 00:30:17
>>541
gooで調べた限りでは539の方が正しい。
まあ慣用的に541の主張も有りなのかもしれないが。
543:考える名無しさん
06/07/07 00:36:24
ニーチェの思想を突き詰めていくと、狂った後にこそ何かがあるように感じている。
狂う前の思想だけだと全てを語れないのではないか。もちろん狂った後の
ことは考えようがないわけだが。
544:考える名無しさん
06/07/07 00:54:52
>>541
別にニーチェとキルケゴールの思想を対比するのなんて
珍しいことではないだろう。永劫回帰と反復を対比させる
こととか。それが生産的なことかどうかは分からないけど、
「一緒にしてる」のではなく「対比させてみる」のは自由
だし、ごちゃまぜに語ることではないよ。
545:考える名無しさん
06/07/07 00:57:55
>>543
それはロマンチックな読解であって、狂気に何らかの意味を
認めてしまうことだよ。ニーチェは単に梅毒で死んだのだし、
トリノの発狂後の手紙も、狂気と結びつけずにどう解釈するかを
考えていくべきだと思う。
546:考える名無しさん
06/07/07 01:15:55
ニーチェは超人に生成したんじゃないかな。
547:473
06/07/07 01:29:55
無意味だとしか思えない一行レスって
無視した方がいいのかな?
見るだけですごく疲れる。
>>474
これは君だけじゃないけど、
質問をしたりレスを返してくれる人には
本当に感謝している。まだ何か答えていないことあったっけ?
>>543>>545>>546
その手紙の解釈から今までの議論は始まっている。
私はずっと473で通しているから、流れを確認して欲しい。
548:474
06/07/07 02:11:46
だんだん473のニーチェ解釈が分かってきた。
が、むしろその解釈を採用した場合ニーチェの不誠実さというか、
女性差別的な思考に反感を覚える。
フェミ女なんぞ糞っくらえだが、それではまるで超人を産むためのものであるかのようじゃないか。
夫婦間には能動的に愛し合うという状態を考え得ない。
ツァラトゥストラと老婆の会話であったと思う(うろ覚え)が、女とは一切が謎である云々と、
愛する対象への想像力を放棄しているからだ。その謎のヒントが子供を産むこと。
そしてその子供こそが重要なのだとしたら、
(性としての女ではなく)女性として生まれ落ちた人間はどう価値づけられるのか?
549:考える名無しさん
06/07/07 09:22:42
糞ミソくんはうまくごまかしたな。
はじめから、どこにでもあるニーチェとキルケの比較の話と
言えば良いものをラカンとか、レヴィナスとか
知りもしないのに糞ミソするから叩かれる。
550:考える名無しさん
06/07/07 09:30:23
ニーチェがヒトラーを見たらなんと言ったかな。
彼こそ超人といったかな。
反ユダヤ主義のカスといったかな。
551:考える名無しさん
06/07/07 09:56:09
どの思想家も
過去の分析、批判→それをもとに現状改革案
という流れになるが、天才的な分析を見せても改革は必ず失敗する。
ニーチェ、マルクス、ハイデガー、デリダ・・・しかり
だから、ぶっちゃければニーチェの超人はドキュソ。
552:474
06/07/07 10:18:29
>>550
さすがにヒトラーのやり口が何の解決にもならないことは見抜いただろうと思う。
第二次大戦期、ソ連がまだ期待されていた時代に、
フランスの共産主義系の思想家達はソ連批判やってたわけ。
その対比で見ればヒトラーをたたえたりはしないと思う。
>>551
じゃあ、ドキュソである可能性も視野に入れて、前向きに議論しよう。
553:考える名無しさん
06/07/07 12:24:41
ニーチェは別に改革を目指してはなかっただろ。つうか改革って言い回しはやめてくれ。
ニーチェのスタンスはもっと乾いてた。
今のところ、凡庸化がいきつくところまでいく、って方向に流れてるね。
554:473
06/07/07 15:22:00
>>550
フランス人は固有名固有名とばかり言っていたから、
それでは片手落ちで二人称の方が大事だ、という事を言って
色々裏付けを出してきたわけね。
ニーチェとキルケゴールをこの点において繋げた研究ってあったっけ?
レーヴィットは彼らが万人に向けて書いた事に軽く触れてるけど
踏み込んだ理解はしてないし……。
でも、あるにしても、キルケゴールが自分の本名で出した宗教的著作だって
トムティーやディートンがわざわざ注意しなければならない位読まれていないし、
専門家の世界でならともかく、一般の人にはあまり知られていないよね?
日本ではさらに状況は貧しいんだから、それを考えれば
既に言われているしても繰り返し主張されるべきじゃない?
レヴィナスは女性的なものを二人称親称と結びつけて
「顔の奥に恥じらいつつ隠れるもの」と『全体性と無限』
の中で確か言ってなかったっけ――?私の記憶違いかな?
因みにいえばヒトラーは俳優の一言で終わる、ッてことは
ニーチェを読めば誰でも解るよね?凡庸化ってなあに?
多分末人化の事なんだろうけど、ニーチェが主に
問題にしたのはそっちじゃなくて、高人―ましな人達の方だよね?
ドゥルーズは一応指摘したけど。これもあんまり言われてないね。
ラカンにしろレヴィナスにしろ私が解っていなくて、
あなたが解っているなら、人が解っていない事を指摘するだけではなくて、
正しい理解のための裏付けを提示してくれれば、それで済んだ話だよね?
でも、それをするのは私の役目ではないではないでしょ。
キルケゴールが言っているように、相対的劣位の人間が人を見下した態度をとって
相対的優位に立ったような気になるのはあさましい事だから誰にだって許されない事だよ。
そういう事さえしなければ、誰だって生産的になれるはずなんだけど。
555:473
06/07/07 15:53:36
>>548
その後、その謎はただ一つの答えで説ける。それは懐妊である、
と続くよね。ニーチェはアンチ・フェミニスト。
これはキルケゴールもそうだけど。
神的夫婦に関しては能動的関係は成立する、
というのがドゥルーズの考え。
この夫婦は互いの固有名を
知らずに純粋な二人称存在として互いを愛し合った後、
はじめて互いの名を明かし会うような関係なんじゃない?
盲目の人間が互いの指先に触れてはじめて目がひらけるような。
ニーチェはその為に自分の人格まで崩壊させているんだから、
女性を利用したとはいえない。最後の手紙は
こんな事だと私は考えているの。
「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
ならない」
外から見ているからややこしくなるし、
ちょっと齟齬が生じるところがなくはないんだけど。
556:考える名無しさん
06/07/07 15:55:21
>ラカンにしろレヴィナスにしろ私が解っていなくて、
>あなたが解っているなら、人が解っていない事を指摘するだけではなくて、
>正しい理解のための裏付けを提示してくれれば、それで済んだ話だよね?
>でも、それをするのは私の役目ではないではないでしょ。
逆ギレか。みんながその理解はおかしいよとやさしくいってるうちに
認めないから叩かれる。意固地になるヤツは叩かれるってごく2ちゃんねる的でしょ。
「二人称の方が大事だ」という意味はよくわからないが、
一つ言えば、現象学は他者がいないし、
フロイト、ラカンは精神分析なので他者はいるのだけど、
デカルトの構造をもつことは本人たちも認めている。
ヴィトも独我論を認めるように、デカルト依頼本質的に、
独我論的構造(認識論の呪縛)からのがれる容易なことではない。
「二人称の方が大事だ」はわかるが、どのように二人称であるのかが、
ないと、意味がないと思う。
557:考える名無しさん
06/07/07 16:03:05
>「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
>二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
>あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
>ならない」
なるほどね。確かにラカンの現実界的た。
ラカン的にいえば、「二人称性において愛することは不可能である故に
現実界にある」ということだね。
自然主義だね。生物学的引き合う雄雌。
ラカン曰く「性関係は存在しない」=人間は生物学的雄雌を失った存在だ。
たしかにニーチェ、ドゥルーズは「二人称性において愛することは可能だ」
というのかな・・・
558:473
06/07/07 16:11:43
私が言っているのは、「その」独我論をうち破るのが二人称親称のDuであって、
私が上にあげた人達はその可能性にかけた、って事。
レヴィナスは固有名を宗教的絶対他者に祭り上げた上で
その奥に二人称的他者もいる、っていう考えだから微妙だけど。
我っていうのは私よね?二人称「汝」っていうのは他我じゃないって事。
彼らはいわば他者のエスに届く人称として二人称を捉えているの。
他者の自我(他我)ではないのね。
そしてもう一つのポイントはこのDuが特定の誰かではない、という事。
渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の自我に近いね。
エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう言葉があるでしょ?
いわば、最後の「私」は他者にとってのエスであるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?
559:考える名無しさん
06/07/07 16:27:45
キリスト教の汝は評判がよろしくない。汝を愛せの寛容は、汝という他者を作り出す排他でもあるといわれる。
むしろその前の自然神の方が自他分離があいまいだった。自然神の祭りの享楽など。ニーチェのディオニソス的?
分裂病はドゥルーズの得意だけど、ラカンも父の名の排除として現実界においてるが
分裂病を倫理的に積極的に評価する気になれないな。
560:考える名無しさん
06/07/07 16:38:08
あとデリダはウィの思想とかで、たえず不可能な他者に開き(脱構築)続けるというが
これも他者は現実界にあるというラカンのパクリだね。
結局、ニーチェのおもしろいのはディオニソス的につきるとおもう。
他者への開かれをキリスト教的寛容でなく身体性においたこと。
これはラカンでは社会(規律)に禁止される現実界への享楽。
最近ではシステム論でも共に行為をするときに言語をこえて他者に開かれるというのがある。
561:考える名無しさん
06/07/07 17:38:07
「エスであるドゥ(他者)の位置」というのは、ラカンの現実界であり不可能であるとともに、
享楽の位置なんだよね。享楽とは内部倫理からの抑圧を越えて他者と分かりあおうとする
こと。近親相姦。
自然神の祭りがトランス状態に入り、生け贄を殺すのは、享楽するからだね。
内部→人間(=言語=この私(単独性))、
外部→ニーチェのディオニソス的、ドゥルースの分裂病(器官なき身体)、
集団的沸騰=祭りの位置。
動物の群であり、弱肉強食の位置。
倫理が溶解し、簡単に命が奪えあえる位置。
これが、レヴィナスや、デリダのように他者に開くという倫理的な位置として
いかように見いだすか。難しいね。
たとえば、他者に開くとは、他者を内部に包み込む、引き込むという
暴力になる可能性も高い。
562:553
06/07/07 17:41:41
>>554
ちょっと待ってくれ。
んなことはわかってる。
確かに俺の書き方がわかりにくいが、
「世の中はニーチェの意に反して、凡庸化への道を歩んでいる」ということだ。
自然にニーチェが願っていた方向に世界が動くとは思えないし、そういう未来予測もあったと思うが。
「凡庸化」という表現も適切と考える。
それはすなわち同一化。同じ価値観を持つがゆえに、そこには安寧がある。
だが誰も愛することはできない。とかそんな感じの断想なかったっけ?
ドイツ語わかんないからどうとも言えないが、この場合対置する表現を使う必要は無いと思うんだが。
あとここはニーチェスレなんだから、他の誰かを引っ張ってきてニーチェを語るのもほどほどにした方がいいんじゃなかろうか。
563:考える名無しさん
06/07/07 17:56:43
>>562
>あとここはニーチェスレなんだから、他の誰かを引っ張ってきてニーチェを語るのもほどほど
>にした方がいいんじゃなかろうか
気持ちは分かるが、特にニーチェのような思想家の場合、彼のテクストのみを単独に読解しても
多義的な解釈を巡って終始してしまう感があるし、他の思想家と対比させることによって逆に
ニーチェを照明させてみる作業もよしとしようよ
564:473
06/07/07 18:25:48
ざっと見てレスつけるけど―。
単独者は「この私」ではないよ。
それならシュティルナーで済むんで、
それは違うんだ、って話をブーバーはしてたのね。
柄谷行人の影響なんだろうけど、
彼の読み全然間違ってるからね。
凡庸というのも蓮実重彦の影響かしら?
まあどっちでもいいけど。
今まで言ってきたように、
自己の内部に還元されない解消不可能な対他性が二人称なの。
で、これが享楽だとしても規律からの逸脱ではないってのが面白い。
これはあんまり話題にしていなかったけど。
というのは、その関係は超人の父であるツァラトゥストラによって
媒介されているから。社会的な父ではないけど、父はいるわけね。
この関係は近親相姦ではないよ。アリアドネとディオニュソスは
互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になるわけ。
だから他者同士を繋ぐものなんだね。
世の中が凡庸になるのは
それに耐えられない人達が出てくることも含めて、
ニーチェの意図に反した事じゃない。
両方とも超人じゃないのね。
結局世の中がどうとかいうより、
自分が彼をどう受け止めるかなんじゃない?
キリスト教と一緒で。
『ツァラトゥストラ』はそれだけで読めるようにわざわざニーチェは
造っているんだけど、でもそれはキルケゴールとやっぱり同じなんだよね。
565:考える名無しさん
06/07/07 19:06:55
超人って地球の意思であって、
星がめぐり、太陽が光を与える意義を体現した生物のことで
人間から生まれるんだよね。進化論的突然変異で。
と俺は思う。
566:考える名無しさん
06/07/07 19:12:43
>>564
ほんと負けず嫌いだな。私生活でもうざがられるでしょ(w
近親相姦は一例でしかないよ。実は享楽は「人間」であることの条件なんだよな。
なぜコミュニケーションが行われるかは他者が決してわかり得ないから
なんです。ネットでもそうでしょ。わかりそうでわからないときが、
おもしろいでしょ。
ディオニソス的ってネットでいえば「祭り」だよね。
分かり合えないけど、群衆的な興奮の中で、分かり合えたように感じる。
もう一つ特徴が「生け贄」がいること。
たとえば嫌韓祭りは、韓国人を外部に排除して、「生け贄」にして繋がろうとする。
他者と分かり合えるためには、他者を排除する。
だから倫理的な二人称を考えるなら、いかようにか?ということ。
「互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になる」だけでは、
いかんとも・・・
567:473
06/07/07 19:59:21
>>566
あなたは561なの?同じ人のようには思えないんだけど―。
近親相姦の例を出したのは561で、
私はニーチェにあってはそうならないのが面白いが、
その点は今まであまり扱わなかったから
いい機会を提供してくれたと思って
それについて述べたので、買ったも負けたもないよね……?
でもそろそろハンドルネームとは言わないけど、
番号は明記して欲しいよ。私と474位だから、誰だか解るの。
負けず嫌いとかいうんならなおさら。
そもそもちゃんと読んでくれてる人もいるのかな、
ってのも不安に思うし。
二人称が倫理的(この言葉を私は全然使っていないから、
どういう意味か解らないけど、意図をくみ取って言えば)
になる理由はそれがツァラトゥストラという父の名に
よって媒介されているから、って述べているので、
無人島で出会う「だけ」じゃないよね?
それと生け贄の問題だけど、ドゥルーズが言っているように
ディオニュソスの生け贄は生け贄が誰だか解らなくなる「八つ裂き」であって、
ユダヤ人とか、韓国人とか特定の誰かを排斥して同質性を確保する事ではないのね。
「反ユダヤ主義の弱虫共が私によこす手紙を読むと堪忍袋の緒が切れそうになる」
って言葉がニーチェにあるよね?
でも、そんな事をする人間はニーチェとかいう以前に最低のクズだよ。
568:考える名無しさん
06/07/07 20:50:14
>でも、そんな事をする人間はニーチェとかいう以前に最低のクズだよ。
享楽を本質をわかっていない。
生け贄はユダヤ人でも、韓国人でも、本質的になにものでもよい。
そこに「八つ裂き」可能な誰かであれば良い。
結局、ラカンの有効性はこの点にあるんだね。
「生け贄」を求めることが人間の条件であるということ。
あなたも最低のクズであることから始めなさい、ということですね。
だんだんなんの話がわからなくなってき・・・
569:473
06/07/07 21:41:37
>>568
ねえ、あなたの間違いを訂正したのは「ディオニュソス的」という
ニーチェの言葉についてであって、ラカンの「享楽」についてではないよね?
それを何で「享楽」に言い換えるの?そういう事するから話が分からなくなるんじゃない?
いちいちこういう点を訂正しなきゃならないんだったら、議論なんて成立しないんだけど。
「享楽」についてはどうかしらないけど、あなたの「ディオニュソス的」についての理解は間違っているの。
ちゃんと言おうと思えば言えるけど、それはニーチェからの手紙の引用見ても解るでしょ。
と、いうか、普通に考えればそれ以前の問題なんで、そんな事の為に
引き合いに出されたらニーチェだってホントいい迷惑だよ。
570:考える名無しさん
06/07/07 22:00:27
気持ち悪いしゃべりかただな。
論点のみでよし。それでなくても分裂病的なんだから。
「ディオニュソス的」と「享楽」は違いだろうってことだよ。
571:473
06/07/07 23:10:18
>気持ち悪いしゃべりかただな。論点のみでよし。
不必要な言い換えの為に論が進みそうになると進まない事の
繰り返しだったから、これ以降おこらないようにとね。
>それでなくても分裂病的なんだから。
一人だけハンドルネーム(とは言えないかもしれないけど)
で、あとみんな匿名で誰が誰だかわからない状態で発言を重ねていると、
個人の資質の問題じゃなくてそうなるよ。不慣れなせいもあるけど。
ニーチェはそれのもっと非道い状態におかれる事を自分で選んだ、
って考えればそんなに間違っていない。
分裂病か否かっていうのは半分は本人の問題だとしても、
もう半分はそれに関わる人の問題だと思うよ。
少なくともニーチェに関しては。
だからノマド(遊牧)とかいうのは比喩としてはおかしい。
彼には期待していたパートナーがいたからね。
>>557
遅くなったけど、ドゥルーズはかなり正確にニーチェを理解していた、
にもかかわらず二人称の話は『ニーチェと哲学』の中には一切出てこない。
ドゥルーズを批判するとしたらその点だろうね。他の点での批判は難しいと思う。
>>548
それとアリアドネはただの女性じゃなくて夫に捨てられた女性であるという点も重要。
二人称への愛によって、固有名(テセウス)への愛を忘却させようとしたんだと思う。
572:考える名無しさん
06/07/07 23:13:03
もっともらしく熱く語る奴や張り切って哲学勉強する奴は
たいてい哲学が苦手。
573:考える名無しさん
06/07/07 23:14:59
わかったから「二人称」を観念的、形而上学的に語るのは止めて
論理的に語ってくれ。
574:473
06/07/07 23:20:20
もうかなり語ってるんだけど、どこが不満かね。
575:考える名無しさん
06/07/07 23:24:29
「悲劇の誕生」のディオニソス的で集合的生の力が、その後利己的な力への意志、超人という
エセ進化論的に湾曲されていくのがつまらない。
ドゥルーズも「器官なき身体」で当初個体的なイメージで生をとらえていたが、
その後ノマド、リゾームと集合的イメージへ向かう。
576:考える名無しさん
06/07/07 23:28:16
>>574
「二人称への愛」とはロマン主義だな。
ニーチェの小説としての感想だな。
哲学的な論理性がないよ。
577:473
06/07/07 23:37:39
>>576
じゃ、その批判はニーチェにして下さい。
キルケゴールにも同じ事言って下さい。
578:考える名無しさん
06/07/07 23:45:16
ごめん
この意味をニーチェ的に解釈してください
579:考える名無しさん
06/07/08 00:03:13
>>577
そこからいかに読みとるかが哲学だろう。
580:473
06/07/08 00:12:26
>>575
レス読んで下さい。
力への意志って翻訳は間違っています。
「権力(への)意志」であって、これは利己的では必ずしもないの。
「あなた(への)愛」って事だと考えて欲しい。
>>578
これじゃ駄目?
581:考える名無しさん
06/07/08 00:20:20
>>580
「そうだからそうなの。」って。
なんですぐに閉じちゃのかね。
「二人称」の欠けらもないw
582:473
06/07/08 00:26:41
>>「二人称」の欠けらもないw
「あなた(への)愛」の最初の「あなた」って
二人称だと思うのは私の気のせいかな―。
君の言語解釈はなかなか面白い。と、いうのは半ば冗談だけど、
多分したい批判や質問は他にあるんだろうけど、
私にはそういう言い方じゃ解らないんだ。
583:考える名無しさん
06/07/08 00:48:37
・・・なにをいっているんだ???
584:考える名無しさん
06/07/08 00:56:54
「二人称」は不可能である。これは独我論的に解釈できる。
ここまではふつーの認識論だよな。
「二人称」の可能性は、いままで言及されたニーチェの小説としての
感想以上の、哲学的に議論できるようなものがあるのか。
ってことだよ。
585:473
06/07/08 01:30:51
『ツァラトゥストラ』は叙事詩だよ。
小説で二人称は読者に届く人称としては普通機能しない。
ビュヒナーみたいなことをやるとだから実験といわれる。
ニーチェはだから小説をあまり評価しなかった。
君がいいたいのは詩だろう。それに牧師の説教とか。
>「二人称」は不可能である。これは独我論的に解釈できる。
ここまではふつーの認識論だよな。
認識論だとしたら既に哲学の一分野であって、「感想」ではないだろう。
それでもまだ君が納得できないなら、他に問題があるわけだ。
こんな言葉使いじゃ、何がいいたいのか解らなくても私の責任ではないよ。
投稿しながら明らかになった事もあるし、レスを返してくれるのはありがたいが、
言葉をしっかり選んで欲しい。
それでも納得できていないという事は解ったから、
手探りで答えるが―
二人称は存在論につながる。ニーチェとキルケゴールの存在解釈は、
「SはVである」ではなく「Sがある」でもなく「君がいる」が基本になる。
それと同じ事かもしれないが、時間論もこの点から新たに解釈しなおされる。
というような事では君の要求を満たせないかな?
586:474
06/07/08 01:34:04
>>571
ノマドはニーチェ論でのみ出てくる用語じゃないと思うが。
また、ノマドは漂泊者ではなく、移動生活者な訳で、
ドゥルーズ本人も「遊牧民は旅などしない」と言ってる。
パートナーがいたから遊牧民じゃないというのは通らない。
ジルにはファニーが居たわけで。
>>584
>感想以上の、哲学的に議論できるようなものがあるのか。
議論できる可能性があり得るし、それをしていないのがこのスレの流れだろう。
独我論者であっても他者の存在は信じざるをえない。(確認不可能であっても)
だから二人称がなされるのは不可能ではない。(認識論を括弧でくくれば、の話)
こういう前提に立って二人称の効用を語ることは出来る。
それがニーチェを語る上で重要かは分からんが、重要だと主張する論者がいる以上、
それについて語るのを面倒くさがるのはよくない。
俺は語った結果、否定的な結果に終わると思うが、やる価値はあると思う。
587:473
06/07/08 01:53:25
>>586
ノマドとは特定の居場所を持たない人の事であって
パートナーを求めない人のことではない、って事だね。なるほど。
ニーチェについてはあんまり上手だと思えないんだよね。
っていうか、ニーチェは結婚(マリッジ)の人だ、とでもいった方が
エンゲージ(契約)の人達との対比ではエレガントなんじゃない?
君の指摘はありがたいけど、「否定的な結果に終わると思う」なら、
その根拠を示して貰いたいね。私が既にいくつ例を挙げたと思っているんだい?
今まで「不可能なもの」とは何かはよく議論されてきたけど、それは固有名だったり、
主客未分化状態のものだったりとやっぱり二人称でしょ、って事ね。
これは既に不可能なものを巡る考察の進展だよね?
588:考える名無しさん
06/07/08 01:56:09
君は眠らないんですか?
体が心配です。
589:考える名無しさん
06/07/08 02:00:20
>>585
ご託多いな。
でもご託多いときは、答えられないときというのが
わかってきたよw
>二人称は存在論につながる。ニーチェとキルケゴールの存在解釈は、
>「君がいる」が基本になる。
他者の不可能性は、哲学の基本問題の一つでしょ。
これではいかんともしがたいね。
いろいろな試みがあるよね。
ある哲学者は、たしか愛の不可能性への近接は、射精のあとのつかの間に
あるって言ってたな。
先にあげたように自然主義的な解釈もあるし。
590:473
06/07/08 03:22:40
>ご託多いな。
でもご託多いときは、答えられないときというのが
わかってきたよw
答えられないって最初から言っている。
と、いうのは、発言が内部で矛盾していて意味をなしていないから。
それを明確にして欲しいって言っているんだよ。
591:553
06/07/08 10:40:11
>>563
その気持ちも分からなくはないが、他の人間を持ち出すのに重要な意味がない気がするんだが。
こういう所で議論するかぎり仕方ないんだが、「記号による省略化」の色がもっと深くなる気がして。
誰か特定の相手がそれを知っているとして、理解の助けとして使うにしても、度を越すのはよくないんじゃないか。
ここがニーチェスレであるかぎり、「ニーチェの全てを知っていること」を前提とするならともかく、それ以上は求められないでしょう。
知らない人には文章の全てが意味不明になるわけだし。
文章の目的を変えずに、一般的な言葉で自分自身の論理展開をされた方が有意義と思うのだが。
>>564
「高人」云々を持ち出したのはあなたです。私ではありません。
「超人」がニーチェの主要な問題であるにしても、ニーチェを語る時、全てが「超人」に向かう必要があるとは思いません。
ニーチェという思想家がそれほど浅はかであるとは思いません。
あなたはある種の独断論者であり、あなたがニーチェの繊細さを理解しているとも思えません。
あなたは何らかの反論を用意するでしょうが、私はあなたと話したくありません。
592:473
06/07/08 14:58:35
>>553
誰が誰だか解らない状態では議論は難しいので、まだ論と言える状態ではないと感じています。
ですが、これは私だけではどうにもなりません。
ニーチェについての議論から外れて、その言葉の定義に足を取られて無駄な時間が費やされる、
という事にならなければ他の言葉を使うのも良いのですが。
高人=ましな人達は、凡庸化に耐えられない知識人達だと考えて下さい。
ツァラトゥストラ第四部は全てがこの問題にあてられています。
それに対して末人=凡庸は第一部の一つの章で語られるだけです。
ですから、これだけでも、ニーチェがどちらを重視したか解るでしょう。
どちらも超人ではありませんが、超人産出の条件とニーチェは考えています。
ニーチェの全てを知っているわけではありませんが、この点は明確です。
キルケゴールを参照するのは無駄とは思えません。ニーチェを読んで超人になるか否かは、
キルケゴールを読んでキリスト教徒になるかどうかという問題とよく似ているのですから。
それが必要であるか否かは各自の問題であって、まわりは問題とならないのだ、という事です。
度を超してはいませんね?
593:考える名無しさん
06/07/08 16:14:01
>>591
>知らない人には文章の全てが意味不明になるわけだし。
>文章の目的を変えずに、一般的な言葉で自分自身の論理展開をされた
>方が有意義と思うのだが。
言いたいことはよく分かるし、半分は同感もするんだけど、今まで
「私にとってのニーチェ」というか、ニーチェのテクストは多様な
解釈を許してしまうから、それぞれの読解を述べてあれこれ言い合って
も、最終的にどうとでもとれてしまう、という風にしかならない気がする。
もちろん、そうしたやり方が無益なことだとは思わないけれども、
堂々巡りに終始する気がしてしまうんだよね。
だから、他の思想家の思想、例えばキルケゴールはかなり親近性があると
思うけど、そうした対比を通じてニーチェを逆照射してみる試みが
あってもいいと思うよ。知らない人は「もっと詳しく」とレスすれば
いいんだし。両方あっていいと思う。
594:考える名無しさん
06/07/08 16:54:26
>>555
>「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
>二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
>あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
>ならない」
ニーチェ晩年の手紙(これがそもそも議論の始まりだった)
に書かれている「私はかつてキリストであり…ワーグナーであり…」云々という
のは、普通、「固有名の回帰」という風に解釈されて、「一回性の回帰」と
いう風に読まれてきた(ドゥルーズもそういうニュアンスがある)と思うけど、
あなたの解釈だと「固有名の解体」となるわけですね。
595:594
06/07/08 17:00:29
固有名の解体というのは「一人称の解体」とは違いますよね
一人称に複数の固有名を負わせる、っていうことになりますね。
私はキリストであり、ワーグナーであり…と。順序としては
まず私という一人称に複数の固有名が負わされて、次に「あなた」
というニ人称に固有名の解体を迫る、ということでしょうか?
>今度はあなたの方が私にそれをする番だ
このニ人称は超越的なものとして表象してはダメですね。レヴィナスは
超越的な汝という感じがします。西田幾多郎も「私と汝」における「汝」
は「無の場所」なので、超越性として表象してますね。こうした思想とは
ニーチェのニ人称は違うということですね。
596:考える名無しさん
06/07/08 17:08:57
>ニーチェのニ人称は違うということですね。
だからなにが違うのかってことでしょう。
僕は聞いてると、ニーチェ萌えさんたちは、
単に現在では、一般化しているデリダであり、ラカンの「不可能性の他者」の
思想をしらないだけではないかと。
597:考える名無しさん
06/07/08 17:14:23
>>558
>渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
>身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の
>自我に近いね。エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう
>言葉があるでしょ?いわば、最後の「私」は他者にとってのエスで
>あるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?
自分も昔はニーチェ晩年の手紙を分裂病と結びつけて考えてたけど、
最近、こういう結びつけは少し安直なような気がしてきてる。
渡辺某の著作は読んでないけど、統合失調症の症状には「させられ体験」
とか「思考伝播、思考奪取」という自他の境界が崩れる症状が確かに
あるけど、ニーチェに関しては、やはり病気を持ってこずに、どうにかして
これを哲学的言説として、論理的に考えたい気持ちが強い。難しいけど。
598:考える名無しさん
06/07/08 17:18:48
>>596
>ラカンの「不可能性の他者」の思想をしらないだけではないかと
ラカン使っちゃうと、何でも説明できちゃうところがあって、
ラカン派精神分析の言説は敬遠したところで、ニーチェを考えたい
599:考える名無しさん
06/07/08 17:18:54
では脳梅の痴呆症状と考えよう。
600:473
06/07/08 18:27:04
>ラカンの「不可能性の他者」の思想を知らないんじゃないかと。
何千億回言い返せばいいのかね。知らない知らないっていうなら、
自分が知っている知識を提示すればそれで済む。それに多分君よりは知っているよ。
だが、私が問題にしたわけじゃないから言う必要はない。
>単に現在では、一般化しているデリダであり、
デリダはレヴィナスと同じで固有名についての考察からはじめて、
「アデュー、エマニュエル・レヴィナスへ」や「火、ここに無き灰」の
ような二人称の考察はその後だろう。これでは話がややこしいし、
ニーチェとキルケゴールを考察する際は、これは順番が逆だ。
私もまだ解らないところがあるが、精一杯やってるつもりだ。
そういう誠意が君にはまるで感じられない。投稿しながら明らかになっていくこともあって、
レスを返してくれた人には本当に感謝しているんだが。
>>597
論理学と哲学は直結しない。論理学には「時間」がないから。
特にニーチェの場合はこの点が重要になるので、
論理的に語れるかどうかは私には何とも言えないね。
ラカンのいうように、悲劇だって、真理が届く時間の差異で成立してるわけだ。
ニーチェを分裂病に結びつけても分裂病とは何かがよくわからなかったら袋小路だよな。
ニーチェは人を愛した後、愛の受け手が愛の贈り手になる事を要求している。
もしニーチェが分裂病的だとしたら、その分裂病的状態は、分析家に転移を起こさないのではなくて、
むしろ分析家が自分を愛することを要求している状態だろうね。
(これは共依存とか境界例とかの関係とは少し違う)
601:473
06/07/08 18:28:50
>>594
まずフリードリッヒ・ニーチェ氏がいて、
氏がコージマ女史を愛せばそれでいいんだが、
どの名にも結びつかない二人称的な愛を彼女に捧げた。
そしてその後ニーチェ氏に宿っていた「私」はニーチェ氏の名を捨てた。
ニーチェ氏も「私=ディオニュソス」のつけた仮面に過ぎなかったわけだ。
今までこの神は無数の名前の奥に潜んできたけど、これからもそうなるだろう、という事。
無数の名は、背負わされたのではなくて、新たに一つ捨てられた事になるね。
レヴィナスは上にあげた理由でまずい。
西田は「我-汝」が一つになるような考え方をしているから駄目だね。
「我」との間に解消不可能な「二者性」を成立させるのが汝だから。
602:考える名無しさん
06/07/08 18:41:46
>>598
>ラカン派精神分析の言説は敬遠したところで、ニーチェを考えたい
ラカンということでなく、「不可能な他者」は哲学の一つの臨界だから、
それを避けると意味がないと思うが・・・
603:考える名無しさん
06/07/08 18:47:09
>>600
おまえはホントおもしろ馬鹿だな。
>私もまだ解らないところがあるが、精一杯やってるつもりだ。
>そういう誠意が君にはまるで感じられない。投稿しながら明らかになっていくこともあって、
>レスを返してくれた人には本当に感謝しているんだが。
自己中心を当たり前に語れる病的がおもしろすぎる。
じゃあ、いうよ。後とか前とか、オマエの都合は良いから、
オマエが精一杯されると困るから、どっかよそでやってくれ。
604:考える名無しさん
06/07/08 18:58:41
>>600
>論理学と哲学は直結しない
いや、論理学に話を持っていきたいわけじゃなく、「論理的に」語り
たいだけ。別の言い方をすれば、病気というものに還元したくない、
ということ。
>むしろ分析家が自分を愛することを要求している状態だろうね。
フロイトは統合失調症患者をナルシシズム神経症と呼んでいて、これは
精神分析の臨界点なのね。分析家に転移してこないから、精神分析では
治療が成立しない。分析家に無関心、冷淡な患者として現われる。
605:考える名無しさん
06/07/08 19:00:22
>>602
>ラカンということでなく、「不可能な他者」は哲学の一つの臨界だから、
>それを避けると意味がないと思うが・・・
不可能な他者を避けたい、ということではないよ。ただラカン派精神分析の
言説でニーチェを解読したくはないな、っていうこと。
606:考える名無しさん
06/07/08 19:09:13
>>601
>そしてその後ニーチェ氏に宿っていた
>「私」はニーチェ氏の名を捨てた
キルケゴールにはこうした展開は起こってないね。キルケゴールは
婚約破棄という形で逆説的に、どこにも結びつかない「愛」を
レギーネに捧げた、という言い方が出来ると思うけど、キルケゴール
は別に固有名に固執してる、あるいはそれを巡る問題はあまり顕在化
しているようには見えない。そうすると、このニ人称の問題は、ニーチェ
とキルケゴールでは質的に違っているものなのかね。
607:考える名無しさん
06/07/08 19:12:31
>>601
ニ人称の問題とは離れるけど、ニーチェには「主観が一つであると考える
必要はない、主観が多数あると想定して差し支えない」という言葉が
あるよね。主観の同一性、唯一性を疑っている思考がある。これを
晩年の手紙の多数の固有名の回帰と結びつける考え方もあるんだけど、
その辺はどう考えてるの?
608:考える名無しさん
06/07/08 19:39:20
>不可能な他者を避けたい、ということではないよ。ただラカン派精神分析の
>言説でニーチェを解読したくはないな、っていうこと。
それでも良いんだけど、「不可能な他者」をいかに可能にするか
という論点が必要だと思う。
レヴィナスやデリダは開いていくことに求め、、
ポンティやドゥルーズでは身体性(器官なき身体)に求めた。
609:473
06/07/08 20:07:14
二つにわける―。
>>604
>分析家に転移してこないから、精神分析では
治療が成立しない。分析家に無関心、冷淡な患者として現われる
無関係、無関心というより、分析家が要求するのとは別の関係を
彼らは求めているんじゃない?それが分析家の言説では見えない。
「自我-超自我-エス」っていうけど、臨床の場面では
Ich-Duの関係に入るでしょう?この臨床の場面では成立している
「二人称性」を理論の組立の中で「超自我(他我)」にすり替えてしまうから
おかしな事になるんじゃない?病気の話はしてて面白いけど、
私だって確かな知識があるわけじゃないし、行きがかり上だって事を忘れないで欲しい。
>>606
>キルケゴールにはこうした展開は起こってないね。
>キルケゴール は別に固有名に固執してる
外から見ているからそう言えるのであって、
それはニーチェと変わらないよ。前にも引用したけど
著作活動の中では誰かの名前はレギーネも含めて全く問題になっていない。
だが、彼はレギーネの名前を歴史に残そうとしている。これもやはりニーチェと同じだね。
でも、こういう事を彼らがする意義が、私にはよく解らないんだな―。
610:473
06/07/08 20:21:17
606へのレスに補足だけど、
レギーネがもしクリスチャンとしてキルケゴールを愛することになったら
それは別にキルケゴール氏である必要はないわけね。
『愛のわざ』の中ではそういう問題を扱っていて、
これはニーチェで言えば『権力への意志』に相当する。
>>607
二人称から離れてしまうと私よりも上手に説明できる人がいるだろうけど―。
固有名の回帰っていうのはどういう意味かね。私は名前「だった」って言っているんだから、
もうこの私は特定の名前に結びついていない、って考えるのが普通じゃない?
複数の主観っていうのは、一つの対象をいくつもの視点から見るという事じゃなくて、
主人と奴隷だったら、主人が見る奴隷と、奴隷が見る主人の差異から両者の違いを考察していこうって事だよね。
ラカンに「君が私を見ている位置から、私が君を見ることはできない」っていう
言葉があるけど、それがある条件においてはできるとニーチェは考えたんじゃないかな。
って言うんじゃだめ?
611:考える名無しさん
06/07/08 20:31:16
ここはおまえの勉強会じゃねぇ!
なんでいまさらここで認識論の基礎からやらなあかん?
612:考える名無しさん
06/07/08 20:33:56
>>610
>主人と奴隷だったら、主人が見る奴隷と、奴隷が見る主人の差異から両者の
>違いを考察していこうって事だよね
いや、ニーチェのどの著作がこの言葉が言われていたか、もう忘れてしまった
けれど、主人と奴隷の比喩で語れるようなものではなくて、ニーチェは意識と
いうのは、既に統一され、整理され、秩序付けられてしまって人間に現われる、
主観というのはそういうものであって、本当は違うんだってことを言ってる。
多数の主観が1人の個人の中にあって、それらが専制政治をしていて、ある時は
この主観が優位に立ち、ある時は別の主観が優位に立つ、そういう力動的な、
ダイナミクスみたいなことを語ってる。
自分は昔、これをヒュームに結び付けて考えてたけどね。ヒュームは同一の自己
というのは仮象に過ぎない、自己は複数である、みたいに語った人だけど、
でも今ではヒュームのモデルではないな、ニーチェは、と思ってる。
613:考える名無しさん
06/07/08 20:41:17
>>609
>臨床の場面ではIch-Duの関係に入るでしょう?
対象関係論とかではそうとも言えるけど、フロイト-ラカンの臨床
ではちょっと違う気がする。フロイトが使ったのは自由連想法だけど
むしろ分析家は何もしない。ただ患者に語らせる。ときどき指摘を
するけど、そのときの患者の抵抗や否認に注目するわけね。そこに
患者の無意識を見出そうとする。つまり単純なIch-Duではなくて、
患者の抵抗と否認においての無意識的領野を臨床の現場に出現させる
ことを目的とする関係だね。でももうこうした精神分析技法は古典だけど。
614:考える名無しさん
06/07/08 20:51:29
>ラカンに「君が私を見ている位置から、私が君を見ることはできない」っていう
>言葉があるけど、それがある条件においてはできるとニーチェは考えたんじゃないかな。
>って言うんじゃだめ?
ふつうに「不可能な他者」だろ。
615:考える名無しさん
06/07/08 20:56:40
結局、ニーチェは後生の思想家に多くの影響を与えたが、
それはインスピレーションであって、ニーチェ自体に厳密さを求めるのは
違うのではないかな、と思うんだよね。
ハイデガーは、ドルゥーズは、デリダは、ニーチェから
どのようなインスピレーションを受け、どのような思想を展開したかは
意味があるが、いまではニーチェ自体に厳密さを求めてもしかたがない。
「二人称」ということに「不可能の他者」を越えるものがあるというのは、
深読みしすぎて、その問題意識に前に詩的な言葉でしかない、
ということでは・・・というのは、結論かな。
616:考える名無しさん
06/07/08 21:00:03
これ以上に展開は見えないので、僕は降ります。
473は作品を読み込み転移するのは良いが、
現代思想の流れとして、きちんと全体を理解した方がよいぞ。
617:474
06/07/08 21:19:13
この板にしてはかなり速い流れだな。
>>615
ニーチェスレの存在意義が無くなるような気がする。
618:473
06/07/08 22:13:57
>>612
>主人と奴隷の比喩で語れるようなものではなくて、
『道徳の系譜学』及び『ニーチェと哲学』をお読みになることお勧めいたします。
固有名が無数に云々の意義は重要だとは思うけど、いまのところ私にはわからない。
その上でのレスだったんで、混乱させたかもしれない。君が語れるなら聞いてみたいけどね。
>>613
>対象関係論とかではそうとも言えるけど
何もしないでただそこに「いる」分析家の「現前」に相当するのが二人称なんじゃない?
この二人称性は言説の内容とは別に「いる」。で、それを通じて抑圧されたモノも想起されるわけね。
この関係をキルケゴールやニーチェは著作を通じてしていた。そして、著者と読者の関係は分析のそれのように非対称ではない。
両方が両方に対してDu的な他者として機能する。ニーチェとフロイトを分けるとしたらこの点じゃない?
改めていうけど、分析の話は行きがかり上。
619:473
06/07/08 22:14:49
>>614
>ふつうに「不可能な他者」だろ
君の言葉でそうなるならそれでいいじゃん。ていうか不可能な他者っていうのはニーチェ以外のジャーゴンなので、
使うなら行きがかり上にしてね。
>>615
>ハイデガーは、ドルゥーズは、デリダは、ニーチェから
どのようなインスピレーションを受け、どのような思想を展開したかは意味がある
それはそれぞれの哲学者のスレッドで。ここでは彼らの理解をニーチェの側から考察すべきでしょ。
>「二人称」ということに「不可能の他者」を越えるものがあるというのは
二人称が、ニーチェにあってもキルケゴールにあっても「いわゆる」不可能な他者なのね。
で、615との議論は他でやって下さい。で、二人称でしか呼び得ないものの位置に自らを捧げた固有名が
イエス=キリストであり、ツァラトゥストラなの。この話はあんまりしていないけど。
620:473
06/07/08 22:16:04
>>616
>現代思想の流れとして、きちんと全体を理解した方がよいぞ。
>僕は降ります。
615へのレスを参照お願いいたします。大体現代思想云々いうんだったら、
キルケゴールなんかは倫理的単独者から信仰の騎士への移行を神を三人称で呼ぶことから
二人称で呼ぶ事への移行としてはっきり記述しているんで、『畏れと戦き』よんでれば直ぐピンとくる筈なんだけど。
流れを弁えていないのは自分じゃん。私はそういう事で馬鹿にする気はないけどさ。
二人称を中心に据えると、権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の理解が容易になるって事。
ていうか、「僕は降ります」っていわれても誰だかわかんないんだから意味ないんだけど。
そういう事いうなら、どの人だったか明記したら?分析の言葉使っているから、
613かもしれないし、だったらレス返すの虚しくなるからさ。
>>617
レス返すスピード落とした方がいいのかな?レス返してくれる人にとっても。
621:考える名無しさん
06/07/08 22:20:03
なんかへんなのに居座られちゃったな。
622:考える名無しさん
06/07/08 22:24:22
>>621
ニーチェについての発言以外邪魔
623:考える名無しさん
06/07/08 22:26:18
>>621
意味不明な長文を連投されるのに較べたらよほど健全。
624:473
06/07/09 02:33:04
>>612
答えがまずかったかな。
>多数の主観が1人の個人の中にあって、それらが専制政治をしていて、ある時は
この主観が優位に立ち、ある時は別の主観が優位に立つ、そういう力動的な、
ダイナミクスみたいなことを語ってる。
専制政治ではなく、身体の仕組みは寡頭政治的だという発言だね。
善悪の彼岸以降の著作にある。
この複数の主観は互いの存在を自己の存在条件にしているから、
それがネックになって互いに身動きがとれなくなってしまう。
それを再び動けるようにするのがツァラトゥストラの役割なんだが、
でも固有名の問題はよく解らないな。
>でも今ではヒュームのモデルではないな、ニーチェは、と思ってる。
ヒュームじゃないとするとこれもやっぱりキルケゴールだね―。
でも何でヒュームじゃないの?
625:考える名無しさん
06/07/09 02:34:09
>>618
>何もしないでただそこに「いる」分析家の「現前」に相当するのが二人称
>なんじゃない?この二人称性は言説の内容とは別に「いる」。で、それを
>通じて抑圧されたモノも想起されるわけね。この関係をキルケゴールや
>ニーチェは著作を通じてしていた。そして、著者と読者の関係は分析のそれ
>のように非対称ではない。両方が両方に対してDu的な他者として機能する
う~ん、ごめんなさい。できるだけ今まで誠実にあなたのニ人称読解に
付き合ってレスしてたけど、さすがによく分からなくなってしまった…
精神分析に関しては「行きがかり」とあなたもお認めになってるので、
これからは精神分析は抜きにして、純粋に哲学的、理論的にニ人称の
読解を展開して下さるよう期待します(できれば分かり易くw)
自分に対応できるか自信ないけど、他の誰かが対応してくれるでしょう
>>623が言うように今までこのスレは変な書き込みが多かったので、
あなたの書き込みが何らかの示唆を与えてくれることを楽しみにしてます
626:考える名無しさん
06/07/09 02:41:03
>>624
>でも何でヒュームじゃないの?
ヒュームの場合は、時間的継起による観念の連合という発想が
思考の根本にあって、時間的同一性によって明証的とされる自我の
同一性を疑う、という思考発想なのね。それとニーチェの言う
諸主観の専制政治、という形での統一的自我の明証性を疑う姿勢とは
根本的に違うものだろう、と最近は思ってる。ニーチェの多数主観説
には、どこか力動的、生成、ダイナミズムみたいなものが感じられる。
ヒュームは単に線的な時間、リニアな時間における自我の同一性を
疑っただけだと思うのね。そこに差異があると思う。
627:考える名無しさん
06/07/09 03:02:04
>>624
少し余計なことを言うと柄谷行人が、ニーチェの多数主観説は
その後フロイトの無意識理論に受け継がれた、と主張してるのね。
自分はこれはかなりこじつけめいた、疑わしいものだと思うけど、
ただ主体の明証性を疑う思考として、フロイトのリビドー理論も
「力動的」に展開されてる、という意味では、強いてどちらかと
言えばヒュームよりフロイトの心的モデルの方がニーチェに近い、
とは言えるかもしれない。そういうダイナミズムみたいなものは
軽視するものではないと思うのね。ただ、最初に断ったように、
別にフロイトもニーチェ読んで無意識の発想したわけじゃないと
思うから、これはヒュームとの差異をはっきりさせるための蛇足に
過ぎないけど。
628:考える名無しさん
06/07/09 03:25:10
>>618
>固有名が無数に云々の意義は重要だとは思うけど、
>いまのところ私にはわからない。
>その上でのレスだったんで、混乱させたかもしれない。
>君が語れるなら聞いてみたいけどね
ニーチェ晩年の手紙、あるいは「私は歴史上のあらゆる名前である」
という言葉があったと思うけど、固有名というのはドゥルーズ風に
言えば「存在の一義性」、端的にそのものの固有性、唯一性を名指す
一種の存在論になると思うのね。ドゥルーズはルクレティウス、
エピクロス、スピノザ、ニーチェといった思想家たちにそうした存在論
があると言っていて(ニーチェもスピノザを自分の先行者だ、と手紙で
言っている)、この存在論は、一言で言えば「肯定の思想」だと思うのね。
何に敵対してるかと言えば、否定性を持ち出す思考、例えばヘーゲルの
それ-とは異なる思考のあり方をしている、という解釈。それで、晩年の
手紙では固有名が回帰している、これはスピノザの神即自然という存在の
一義性としての世界観を動態化したもの、として捉えられることになる。
自分はそういう線でニーチェを考えてたけど、あなたの主張だとフランス
現代思想の面々は固有名に引きづられていて、ニ人称の意義を見失っている
ということになるわけだよね。だからそのニ人称の意義をもっとよく
ご教示頂きたい、という感じであります。
629:553
06/07/09 12:16:37
>>592
すまん。たぶん>>591の俺は冷静さを欠いていた。
つまり俺は冷静でいられない理由があったわけで、それを正直に告白しておきます。
まず>>553の時点では俺は473に全く関係してなかった。
553は「ニーチェは改革とやらにそんな積極的だったか? もっと乾いてたように思うが。
凡庸化がいきつくところまでいくって未来予測もあったし、実際世界はそっちに流れてる」ってそれだけのつもりだった。
それを>>554で、473のものさしでさも間違っているかのように指摘されたのが不快だったわけで。
ただ今考えると、553とツァラトゥストラは無関係なんだが、553が>>551を受けてるもんだから、俺がツァラトゥストラを誤読してるって誤解されたと思うんだ。
しかしこの時の俺は「ニーチェを読む人間全てが超人のこととか、他の哲学者と比べてどうとか考えるわけじゃないし。
「ニーチェの現代分析面白えなあ」とか「おお、この未来予測あたってる」とかでもいいだろ。自由だろ」と考えた。
だから、>>562は落ち着きが無いながらも「ニーチェが超人を重要視してたことはわかってるがこんなことも言ってたはず」と主張したつもりだった。
さらにあなたの解釈を説明して欲しかったわけじゃなかった。
しかし>>564では俺の目的は理解されず、さらに講釈をたれられる(という印象を受ける)
「別に俺は超人目指してるわけじゃねえ! 世の中に一物あるわけでもねえ!」ってことで>>591。
噛み合わない会話にいらつきながらも、俺がツァラトゥストラ読んだわけじゃないし、ニーチェがどうのって持ちかけたわけでもない、と示す。
つまるところ「全ての人間があなたに語りかけているわけではないのだから、あなたの視点から語りかけられても困る」と言いたかっただけなのです。
しかしまあ結局俺は俺の名誉を守りたかっただけで、誤解と思えばすっきりするのでそう思っておきます。(長々と)すみませんでした。
630:473
06/07/09 16:12:26
>>626-628まで同じ人だと仮定するけど……
ニーチェも時間継起はあるよ。彼は「意志(と)表象」を「権力(への)意志」
に変えたけど、(と)が(への)になったのは時間のニュアンスを持たせたかったから。
でもこの継起が逆流する。AへのBがBへのAになる。それはヒュームにある?
フロイトは自分とニーチェの関係言われるの嫌がってたよね。ニーチェだって願い下げたと思うけど。
ニーチェが肯定の思想家だっていうのはそうなんだけど、
ドゥルーズの言っているように「獅子の否」を経た後の肯定であって、
なんでも肯定するのは四部に出てくるロバの立場でしょ。
この「獅子の否定」に相当するのが二人称Du。
無に対応する言葉は二人称だ、っていう詩を、ツェランは
作り続けて、ニーチェに匹敵する人はかつての文化英雄の中ではこの人だけだと思う。
本当に彼の詩は美しいから。言葉は少数の特権者の遊び道具ではないっていうことがよく解るよ。
スピノザが面白いのは、ルサンチマンから自由だからでしょ。でも著作の中ではそんなに誉められてないよね。
>>625>>629
私も、やっぱり無意味な横やりでしかなかったものからイエスノーで答えられるものから、
こっちも頭を使う質問まで全部に応えてきて、そういう中での考えの提示だったから、
纏めて言うのは難しかった。さて、どうしたものだろう……。
末人と高人については議論の余地はなく、自由ではないよ。
彼らの出現をニーチェは迷いはあっただろうけど、最終的に受け入れたのね。
読んでいないなら、ツァラトゥストラは全ての人に差し出された書物だから、
是非読んで下さい。私は手塚訳をお勧め致します。
631:考える名無しさん
06/07/09 16:49:35
>>630
>AへのBがBへのAになる。それはヒュームにある?
自分の知る限り、そうした時間感覚?時間論はヒュームにはないね
フロイトはニーチェに限らず哲学者との対比を嫌ってたね
>ニーチェに匹敵する人はかつての文化英雄の中ではこの人だけだと思う
そう、ニーチェもそうだけどツェランも最も美しいドイツ語の書き手だと
思う。ただニ人称についてはアウシュビッツの死者たちという問題を
離れては論じられない気がするけど…ニーチェと対比させてしまうのは
どうかな…
632:473
06/07/09 17:23:59
ニーチェはフロイトが金とってやる事を金払ってやってた。
「AへのBがBへのAになる」。ここが解ってないから
ハイデガーのニーチェ解釈は駄目で大事なところで誤読をするんだ。
おかしな影響を受けて日本でも「権力」と訳すべきところが「力」のままだし―。
さっさと研究家諸子に指摘して貰いたい。
ツェランは、「誰でもないもの」である「あなた」に向けて、僕らはあった、ある、あり続けるだろう
と歌い上げるんだから、これは完全に永遠回帰じゃない?指輪の象徴もあるし。
「僕ら」が複数なのが気になるけどね―。
ツェランはだから二人称の力に頼ってアウシュビッツの死者達の固有名を忘却しようとしていた。
レヴィナスは、死者達は代え難い存在であって、その代え難さは固有名に対応するから、彼らの固有名は記憶に残し続けなければならない
みたいな事をいうけど、でも愛していた人間が失われてその人の名前が忘れられないで苦しむ、っていうのは、
当為命題としてではなくてその中に投げ込まれてしまった状況としてある。深く愛していたならね。
だから、レヴィナスはそもそも死んだユダヤ人をあんまり愛していなかったんじゃないかと思うんだけど……。
そういう点で、ニーチェ、キルケゴールとツェランは同じだよ。彼らもかつて愛した人間の固有名を
自分で忘却し、人にも忘却させるのが課題の一つだったから。
633:474
06/07/09 17:39:03
>>630
一つ聞きたいのだが、
>彼らの出現をニーチェは迷いはあっただろうけど、最終的に受け入れたのね。
最終的というのはいつの段階だろう?
ツァラトゥストラを書き始めた時か? 書き始めた時迷ってて最後に受け入れたのか?
それともツァラトゥストラでは迷ってて遺稿で受け入れたのか?
これが分からないと最終的に云々も議論できん。
>>629
固定使え。そうすれば余計な問題のいくつかは回避できる。
634:考える名無しさん
06/07/09 18:26:53
>>632
>彼らもかつて愛した人間の固有名を自分で忘却し、
>人にも忘却させるのが課題の一つだったから
キルケゴールについてあなたは>>609において
>だが、彼はレギーネの名前を歴史に残そうとしている。
>これもやはりニーチェと同じだね
と述べている。これは固有名の忘却ではないと思えるけど…?
635:473
06/07/09 19:24:52
>>633
『ツァラトゥストラ』は何も意図せず書き進めていったにも関わらず、
その都度その都度の結論が予め意図されていたかのように思える
不思議な書物だから、難しいね。これは回帰って事の実践だろうけど。
高人達に関しては第四部で集中的に扱われている。
まあ、これはワーグナーみたいな人は、かなり見込みがあるし
自分も愛していたから救ってあげたいけど、利用するだけ利用して
やっぱり見捨ててしまおう、そうなるのは彼の責任だから、という事だね。
>>634
最初から言っているように、そこが少しややこしい。
こういう事じゃないかな。
「私たちは互いの名を忘れて、それぞれが主に結びつこう。
キルケゴールはレギーネを忘れるし、レギーネもキルケゴールを忘れる。
そしてそうして互いに自由になって、さらにイエスによって再生してから、
その時に結婚しよう」
レギーネの名は、キルケゴールにそういう試みをさせた名前として歴史に残っているわけ。
女性の名前というのは歴史に登録される名前では普通ないし―。
それを歴史に残そうとする意義は男性の名前が残っている事の意義とは別というか逆だろうね。
これは超歴史的に永遠的に存在するものである筈の神が、イエスという名前をもって
ある一時点、一地点に出現したことと関係がある。
だから、キルケゴールはレギーネの事を考えて、
というより、後世の事を考えてこういう事をしたのかもしれないね。
636:考える名無しさん
06/07/09 21:19:23
>>635
>超歴史的に永遠的に存在するものである筈の神が、イエスという名前を
>もってある一時点、一地点に出現したことと関係がある
キルケゴールという男は神がイエスという1人の人間として顕現したことに
ずっとこだわった人だよね。彼の哲学、というか信仰はこの出来事なしには
考えられない。
少し整理させて貰うと、あなたの考えでは、ニーチェはコージマに、キルケゴール
はレギーネに、固有名を忘却した上で「特定の誰にも結びつかない愛」を捧げた
ということになるね。ツェランはアウシュビッツの死者たちを誰にも結び付かない
ニ人称を使うことで、死者の固有名を忘却した、と。
この整理でよしとするならば、「誰にも結び付かない愛」というのはどういう
愛を指すのか?ニーチェの隠喩では「運命愛」という言葉があるけど、それとは
違うよね。人類愛?一般的なものへの愛?
637:473
06/07/09 23:02:06
>>636
>キルケゴールという男は神がイエスという1人の人間として顕現したことに
ずっとこだわった人だよね。
ただし段階があって、歴史に現れない神との関わりを経なければ、
イエスへの愛は単なる偶像崇拝になってしまう。フロイトがそう見なしたようにね。
二人称への愛は歴史に現れない神への愛であり、ある人が伝達の受領者である限りでの、
という事はその人の外的条件に左右されない全ての人への愛という事になるね。
その歴史に現れないものが歴史に現れた。キルケゴールとニーチェにはこれがあっても、
ツェランにはないように思う。ユダヤ人だからかな。
レギーネ(そしてコージマ)の名を残そうとしたのはこの条件においてだろうね。
これはなくても話は進む事ではあるんだけど、
「出来事」という言葉を見て気づいたんだが、「歴史の中のあらゆる名前」の
「歴史」って、ゲシヒテとヒストーリエどっちかな。
『反時代的考察』の中ではニーチェはこの二つを分けているけど、ご存知の方いますか?
638:473
06/07/09 23:03:44
「運命愛」っていうのも二人称が効いているかもしれない。
『ツァラトゥストラ』の組立を見るとね。
639:考える名無しさん
06/07/09 23:27:03
最近ニーチェに興味でてきたのだけど、ニーチェ関連の本でこれは読んどけってのある?
640:考える名無しさん
06/07/09 23:54:07
『ツァラトゥストラ』を手塚訳で。
641:考える名無しさん
06/07/10 00:48:02
>>635
俺の疑問に答える義務はないかも知れないが、それは回答になってないな。
>『ツァラトゥストラ』は何も意図せず書き進めていったにも関わらず、
>その都度その都度の結論が予め意図されていたかのように思える
ここを読む限り「受け入れた」のは書いてる途中とも考えられるし、
書く前からとも考えられる。
確か最後に高人達はライオンに追っ払われたと記憶しているが、
>やっぱり見捨ててしまおう、そうなるのは彼の責任だから、という事だね。
ということか。
>>639
ニーチェに興味を持った理由にもよるが、ニーチェをニーチェとして知りたいのなら、
ニーチェについて書いた本を避けた方が良い。
現代思想との兼ね合いでニーチェを活用したいのなら、
ドゥルーズなりドゥルーズの、フーコーならフーコーのニーチェ論を平行して読めばよい。
642:473
06/07/10 01:16:25
>>641
番号を振り忘れているよ。
>俺の疑問に答える義務はないかも知れないが、それは回答になってないな。
やはり第四部で、だろうね。問いとの関係は稀薄だが、
高人達は即自-対自-即且対自のヘーゲル的弁証法に従った生き方をしている。
ワーグナーが正規の音楽教育を受けていない在野の音楽家として出発し、
国外追放の憂き目にあったりしながら、最終的にバイロイトに凱旋するというように。
でもこうした過程で様々なものが切り捨てられてしまい、ツァラトゥストラは
その切り捨てられたものを生み出す為に彼らを利用するわけ。
テセウスがアテナイ王になる過程で切り捨てたアリアドネだね。
ニーチェ流の、ヘーゲルとは別の理性の狡知がある。
私は手塚訳を読んで四週間ほど一睡もしなかったし、
その後一月ほど誰とも喋らなくなった。強い印象を受けたなら『悦ばしき知識』
後は私の発言を見て判断して欲しい。
643:考える名無しさん
06/07/10 01:20:29
四週間ほど一睡もしないとまず間違いなく数回は死ぬ
644:473
06/07/10 01:22:48
でも、嘘ではないんだな。起きている時間の質も少し変わった事は確かだけど。
ドゥルーズがフロイト的夢に対してカフカ的不眠で対抗、
というような事を言っているが、こういう事なのかな、と思ったよ。
私のような体験をした人は、少なくないはずだよ。
645:考える名無しさん
06/07/10 01:30:53
キモイ
646:474
06/07/10 02:37:34
レス番つけ忘れてるのには気が付いてたが、めんどくさいので訂正しなかった。474=641だ。
健康関係の板に行って短眠関係のスレッドを読むと、消化にいいものだけ食べると
睡眠時間削っても大丈夫になるらしい。
内蔵の休息と脳の休息の合計時間を減らす、ということらしい。
その四週間中はきっと消化にいいものしか食べなかったんだろう。
後、気づかないうちに一日数分は寝ていた、というのもあるかもなw
647:考える名無しさん
06/07/10 03:38:52
>>637
>「歴史の中のあらゆる名前」の「歴史」って、
>ゲシヒテとヒストーリエどっちかな
dass im Grund jeder Name in der Geschichte ich bin
ゲシヒテだよ
英訳ではもちろんhistoricalになってしまうけど
that in fact I am every historical personage
648:考える名無しさん
06/07/10 04:05:35
>>637
>その人の外的条件に左右されない全ての人への愛という事になるね
ということは、特定の誰にも結び付かない愛、とはあらゆる特定の人(物も
含む?)への愛、普遍的愛ということかな。
>その歴史に現れないものが歴史に現れた。
>キルケゴールとニーチェにはこれがあっても
キルケゴールの神=イエスの歴史上の出現に対するこだわりは、尋常ならざる
ものがあると思うけど、ニーチェにそうした固執はあるかな。ニーチェにとって
キリスト教は単に弱者のルサンチマンであって、この態度は終生変わってない
気がする。ましてやキリストの出現、神が人間として顕現することへのキルケ
ゴール的なこだわりは稀薄なように思えるけど…
649:473
06/07/10 07:08:27
>>647
ご指摘感謝。う~ん、それでもよく解らない。
でも、こんなに直ぐ出てくるって事は、研究者か、それを目指す人ですか?
私は余計な事を言っていない?
誰が言おうが同じ事なので、纏まった優れた研究があれば、
それが普及すればそっちの方が全然いいんだよね。
ホルガー・シュミットって、ちょっと気になるんだけど。
>>646
確かに電車の中でうつらうつらはしていたけど、
眠っていても意識があるような、不思議な眠りだったな。
四週間経ったらどっと疲れが出て元に戻ってしまったけど。
>>648
二人称存在であれば、これは衣服をはぎとられた裸の人間の事だと考えればいい。
ビオスではなくてゾーエーだね。イエスに相当するのはツァラトゥストラ。
御陰様で大体解ってきたよ。やっぱり二人称は重要だね。
650:553
06/07/10 14:49:57
>>630
あっちゃー、すっきりしねえ。
そんなに俺の文章わかりにくいかな。
それとも、やはりあなたがある種の独断論者なのか?
まあ、俺が無視するか、あなたが俺を無視してくれればいいんだが、こうなったらとことんやりますか。
俺はツァラトゥストラを読んだことはあるが、このスレに「ツァラトゥストラを読みそれについて語りかけた俺」はいないと言っている。
そうであるのに、あなたにツァラトゥストラを持ち込まれて、それについて語られても困る、と言っているつもりです。
ただこの雑多なスレでは、そういう勘違いも生まれるだろうし、勘違いなら別に仕方ないと思った。
けどやっぱり>>630でもツァラトゥストラは持ち込まれるわけで……。
651:553
06/07/10 14:51:27
そして、新しいこともひとつ、いいですか?
>末人と高人については議論の余地はなく、自由ではないよ。
これはやめてもらえませんか。
それは、あなたの「末人と高人」について文句があるわけではなく、もっと根本的に。
確かに、たとえば日本語の単語についていちいち議論しないように、議論の余地がないものはあるでしょう。
しかしそれは、俺や誰かが議論が無意味と考えるからであり、議論の余地がないわけでも、無意味であるわけでもない。
意味というものは全て、何かにとっての意味であり、絶対的な意味というものは存在しない。
(まあこのケースでは、言葉における意味と物事における意味を混同したレトリックになりますが)
ではこの場合、何にとってか? といえば、ニーチェにとって、となります。
しかし仮に、俺の思うところに関係なく、ニーチェの真意というものが在ったとして、俺がそれを理解できるとして、
それがあなたの言うところに近いもの、あるいは同じものであったとしても、俺がそれに従う理由はありません。
それがニーチェであるならば、気に食わないながらも折り合いをつけて受け入れるでしょう。
しかしあなたがニーチェを提示しないでください。
これがニーチェ以外の哲学者であれば、どうでもいいのです。
けどやっぱりニーチェは俺にとって特別だから、こだわってしまう。
この意味がわかりますか?
この感情は一見「末人と高人」の概念と無関係ですが、しかしこういった感情的意味が概念の中にざらに持ち込まれる。
そこに境界線は無いと思うのです。
俺は概念で遊ぶのは好きですが、明確に定まった概念なんて嫌いです。
ですから、その断定的な物言いは、許してもらえませんか。
「全ては許されている」
全ては許されているが、だからといって俺が全てを許すわけではない。
あなたにも許せないことはあるでしょう。
それだけのことで、そうであるからいつまでも終着点が見えない。
結局のところ、あなたにその前景を忘れないでほしいと、俺はそう願っているのでしょう。
652:473
06/07/10 17:22:22
>>651
いや、だから凡庸化が進み、それに耐えられない人達も出てきて、
彼らは超人ではないけど超人産出の条件として必要だ、っていうのは
私ではなくニーチェの考えなので、独断論も何も誰に聞いても同じだよ。
この点私でも即答できるから即答した。
ニーチェを引き合いに出して人種差別を正当化するような奴
とかにレス返しながらの反応だったから、不必要に言葉がきつかったのは認める。
でもそれはそういう事言い出す奴に怒りを向けるべきじゃない?
議論以前にこういうところで疲れてしまう。
正直、私一人の手に負いかねるから投稿したという事もあるし。
でも二人称が大事だっていうのは確かで、もう反論の余地はないと思う。
誰か上手く纏められる方か、ヒントを提示して下さる方いますか?
653:474
06/07/11 00:30:10
473は独断論と批判されているけど、
それは「議論がいかにして泥沼へとはまっていくか」ということを
473が理解していないからだと思う。
高人と末人にしたって、ニーチェ解釈の歴史をひもとけば、
いろいろな解釈を許してしまってきた、ということが分かるはずだ。
473には西尾幹二の「ニーチェとの対話」を読むことをお勧めする。
マジメにニーチェを読んでる人間ならばまず思い至らない
独創的な高人、末人の解釈が提示されている。
あと、553のキレッぷりはつまらないので落ち着いて書け。
654:考える名無しさん
06/07/11 00:35:03
>ということは、特定の誰にも結び付かない愛、とはあらゆる特定の人(物も
含む?)への愛、普遍的愛ということかな。
万人への愛であることは確かだが、普遍と言ってしまうと少しまずいね。
普遍という言葉は実存の倫理的段階における固有名を背負った自我と他我との
間主観的関係を意味するから。二人称は他者の名前も自我も突き抜けて
エスに届くからウンハイムリッヒなのね。
こうした愛し方で愛されるとみなに気味悪がられるけど、
それをするのはクリスチャンの義務だから覚悟をしておけ、
というような話が『愛のわざ』の中にある。
655:473
06/07/11 00:44:09
>>653
>「議論がいかにして泥沼へとはまっていくか」ということを理解していない
ご指摘毎度ありがとう。どうやらそうらしい、という事は解るが、
どうしたらいいか解らないんだな。至らなさを恥じるものではありますが、
よろしければ、この上ご教授いただけますか?
>独創的な高人、末人の解釈が提示されている。
どんなものか聞いてもいい?しかし西尾先生には、
先生でなくてもできるような事に時間を費やさずに、
研究に打ち込んで頂きたいものだね。
ニーチェ全集の月報の編集なんかは、本当に面白くて小冊子として出版されたら
いいと思うくらいなんだけどさ。
656:474
06/07/11 01:30:05
>>655
どうしたらよいか、確実な方法はないが、
とりあえず言葉の用法を皆が皆同じように理解していると信じるべきではない。
ニーチェが末人(と考えられる人々)を末人という言葉で呼ぶからには、
それはニーチェによる言葉の定義に近い。
ニーチェに解釈論争が起こるというとは、
末人の定義がニーチェ研究者の間で一致していない可能性がある。
ある程度方向性は定まってるかもしれないが。
>どんなものか聞いてもいい?
聞くのはかまわないが、答える気はない。引き合いに出しただけだからw
657:473
06/07/11 02:00:47
少し前のレスだけど
>>626-628
>固有名というのはドゥルーズ風に言えば「存在の一義性」
これは逆だよな。一義性に相当するのが二人称(Du)で、
多様性というか多義性に相当するのが歴史の中のあらゆる一回的な名前でしょ。
そうした歴史に現れる多様な男性的名前の数々も、歴史に現れない
女性的な一つのもの(Du)に向けられている、と。
>フロイトのリビドー理論も「力動的」に展開されてる
キルケゴールが『イロニーの概念』の中でヘーゲルを批判して、
彼には生成があっても存在がない、ぐんぐん前に進んで行くけど
自分に戻ってこないっていうわけね。同じ批判は、
ニーチェの立場からフロイトの『力動性』についても言えるんじゃない?
ニーチェもキルケゴールも相互生成的なんだな。
658:474
06/07/11 02:16:43
固有名を無数に持つ、というところがカギなのかもしれん。
バタイユのアセファルは頭のない人という意味だが、複数(無数)の頭を持つことによって、
一個の頭を否定して無頭人になるとしている。
まあ、バタイユがこの問題について言っていたのかは分からんが。
659:考える名無しさん
06/07/11 02:40:29
現代思想っておもしろい?
しなやかで固いが、中身はスカスカってことない?
竹見たく・・・
660:473
06/07/11 03:17:08
繰り返しになるが、その歴史上の無数の男性的固有名への分裂も
非歴史的な一つの女性的二人称(Du)への求愛と相関してしか起こらない。
ツェランの詩の中で「誰でもないもの」である「あなた」に向けて花咲く
一つの無であったし-あり-あり続けるだろう「僕ら」も、
死んだユダヤ人達の全ての名を背負っていると考えて良さそうだね。
「プサルム」の中では複数で、「僕らに差し出された」の中でも「僕らの名」になっているから。
でもそのかなり後の「白い祈りの紐に」の中では君と添え賦したのは
「とりかえる事の出来ない僕の名のベッドの中で」だったというフレーズがでてくる。
『誰でもないものの薔薇』周辺では一人称は複数で、後期になればなるほど単数が多くなるみたいだね。
ニーチェも、誰でもないものである(Du)に対して求愛し、
それと相関して彼の自我は無数の固有名に分裂したけど、
それも歴史上では自分の名においてしかできない。
これは見知らぬ裸の読者にメッセージを届けるために
自分が裸になって人前に立たされたようなものだから、耐えられない。
彼はこれを十字架にかかるという語で呼んでいた。イエスも裸で死んだわけだけど。
エッケ・ホモのホモも、アーレントのいうようにゾーエーの人って意味だしね。
でもニーチェも含むナポレオンとか英雄達の名前と殺されたユダヤ人達との名前とじゃ、
性質が違うよね。これにキルケゴールが絡むとどうなるのか……。
こういう事、もう言っている人いるかな?
661:考える名無しさん
06/07/11 03:26:46
なるほど、ニーチェは結構ひょうきん者ってことね。
パウル・レー、ル・ザロメ、ニーチェで三位一体なんて
悪乗りして写真に写る・・・彼のはしゃぎようがめに浮かぶ。
662:考える名無しさん
06/07/11 04:37:43
何がなるほどなんだ
663:考える名無しさん
06/07/11 05:12:03
>>657
>ニーチェの立場からフロイトの『力動性』についても言えるんじゃない?
>ニーチェもキルケゴールも相互生成的なんだな
言わんとするところは分かるけど、そういう言い方をするんだったら
フロイトの精神分析も相互生成的と言えると思うよ。分析医は患者の
無意識を抵抗と否認を通じて相手にするけど、その過程で自分自身の
無意識も変容を蒙る。だから転移-逆転移という関係が成り立つわけで。
664:考える名無しさん
06/07/11 05:23:55
>>660
ツェランは悲痛なところがあって、あまりニーチェとの対比で
語りたくはないけれど、ツェランにあっては、言葉の次元を無視
してはいけない。もちろんあなたは無視していないけど…もっと
悲痛というか、倫理的? ツェラン自身の言葉を載せてみるよ
「あなた」も出てくるものを…
「かずかずの損失のなかでただそれだけが―言葉だけが―届くもの、
身近なもの、失われていないものとして残りました。……しかし、その
言葉にしても、それ自身がそなえている答えのなさの中を、おそろしい
沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの暗闇の中を通ってこなければ
なりませんでした。そのようなものの中を通ってきて、しかも起こった
ことをいいあらわすただの一言も生みだしはしませんでした。……何か
にむかって進んでいます。何にむかって? 何か開かれているもの、
所有することのできるものにむかって、ひょっとして話しかけることが
できるかもしれない《あなた》にむかって、話しかけることのできる
実在にむかって」
665:考える名無しさん
06/07/11 13:10:23
>>652
やっぱり根本が伝わってなかった……。
俺が出した「凡庸化がいきつくところまでいきつく」というのは、確か遺稿集にあるもので、超人とは関係なく論じられていたと思う。
俺も記憶に頼ってるから自信ないんだけど、確かこの時は「これからの未来がどうなるか?」という自問に対する回答がふたつあって、その内のひとつだったと思う。
そのもうひとつを覚えてないからあれなんだけど、単純なニーチェらしい未来予測だったと思うし、ふたつあるということは、「その未来で何をするか」と語る気は無かったと思う。
で、これがなぜ超人に直結するのか? を、俺はずっと言ってるつもりで。
俺は、『「凡庸化」→「超人産出条件」』について、「超人産出条件」に対して文句を言ってるわけじゃない。
→に文句を言い続けてる。
確かにニーチェは「民主主義を利用すべきだ」とか色々言ってるし、あなたの言う「超人産出条件」にはそれほど文句は無い。
ただそれが「ニーチェの考え」だったとまでは断言できないが。
「凡庸化」と「超人産出の条件」は無関係ではない。が、直結はしていない。
だからつい関係させてしまって語ることはあるし、これが「勘違い」でそれなら仕方ないと思える。
しかしそれをなぜあなたは常に結びつけるのか? 結びつけ続けるのか?
ほぼそういう意味で「ある種の独断論者」という表現を使った。
あと、俺があなたに対して語ったことは、常にあなたが俺に対して語ったことに対して語ったつもりで、
他のことを関係させて語ったつもりは無い。あなたはどうか知らないが。
666:ひとつ上も553
06/07/11 13:14:46
>>652
で、ここからは「新しいこと」についての文章なので、あまり上と結びつけられても困る。
あなたはなぜ断定的に語るのか?
何をもってしてそう語るのか?
これに対して、「断定的に語った事柄」のさらなる「説明」を求めてはいない。
というよりも、「解釈であって説明ではない」とはニーチェの物言い。
あなたにニーチェに対する考えが明確にあるのを責める気は無い。
議論するうえで明確に概念を定め、それについて語り、はっきりとした結論を出すことも責める理由は無い。
しかしその時に、他の誰かによって、それがさもニーチェであるかのように語られ、それ以外のニーチェはありえないかのように語られれば、
俺はニーチェが好きだから、どうしても怒りを抑えられない。
それくらいの心遣いも、考えてはもらえませんか?
あなたは自分の考えが真であることにこだわっているように俺には見える。
そういう意味でも、「ある種の独断論者」という表現を使ったかもしれない。
あなたの「反論の余地はない」は「これは真である」という風に聴こえてくる。
あなたはそれをどうやって証明するつもりなのか?
ただ、「このニーチェは真である」とだけは言って欲しくない。
667:474
06/07/11 15:01:08
473に対してそんな心遣いを要求する権利があるのか?
473の持論に違和感を感じて不快に思うなら反論すればいい。
俺は473に反対だが、473が持論を述べるのを遠慮などさせるべきではない。
主張できる持論を持つ人間を黙らせておくとしたら、それほど意気消沈させる事はない。
668:考える名無しさん
06/07/11 15:48:41
経験してきた通りの自分、実感してきた通りの自分とはなんだろう?
自分から自分を見ると、自己に対する概念というか、自分はこういう
人物なのだという、ある種の信じこみがある。
他人からの方がよく見えるのかなあ。
最大公約数の人が言うのが、自分なのかなあ。
669:473
06/07/11 16:08:22
>>553
二つあって、一つは凡庸化、もう一つは超人化、どっちになるかはその人自身
、だと思うけどねえ。
>>663
>フロイトの精神分析も相互生成的と言えると思うよ。分析医は患者の
無意識を抵抗と否認を通じて相手にするけど、その過程で自分自身の
無意識も変容を蒙る。だから転移-逆転移という関係が成り立つわけで。
そうだよね。でも分析はこの関係を治療の為の過渡的条件として
最終的に克服すべきものと考える。だからお金のやりとりをするわけね。
これはちょっと卑怯な事じゃない?惚れさせておいて金も取るんだから。
普通逆だよね。キルケゴールやニーチェの場合は、いつまでも愛が残り続けるわけ。
その愛の受け手はもうキルケゴール氏やニーチェ氏ではなくて、
あらゆる人間(Du)だけど。「もし君が私の愛を受け入れるなら、
その愛はDuと呼びうる全ての人に向けて欲しい。それが私だから」
という事。分析が診療所という閉じた空間で、しかもお金持ち相手にする事を
キルケゴールは町中で貧乏人相手にやっていたんだね。
かなり迷惑がられたみたいだけど。
>>664
それは大月書店のツェラン詩集から?私も好きな言葉だけど、
今までの私の意見と矛盾しないで、むしろ裏付けるものじゃない?
670:考える名無しさん
06/07/11 16:42:39
「これがニーチェだ」をさっき読んだんだけど、素晴らしいね
その前に似たタイトルの「これが現象学だ」を読んだんだけど、
それはクソだったんでちょっと不安だったんだよね
671:考える名無しさん
06/07/11 16:54:09
素晴らしいって程のもんだったっけなあ……
672:考える名無しさん
06/07/11 17:01:24
クソなんて言葉が出てくると
そういう言葉を使う人間に「素晴らしい」と評価される本の内容も
大いに疑わしく感じられてしまうのだけれどもねえ
673:考える名無しさん
06/07/11 17:06:27
いやあ、余りにも谷徹の「これが現象学だ」って本がクソだったんだよね
その落差の大きさから素晴らしさが過大に感じられてるかもしれないね
674:考える名無しさん
06/07/11 17:17:07
永井のニーチェ論は「復讐が行為にならず想像的になるときに奴隷道徳が現れる」
というニーチェが道徳の系譜学で指摘しながらドゥルーズが改めて
「ニーチェと哲学」で取り上げた考察を再び取り上げた。
しかしこれは、そうなるとルサンチマンのかけらもなかった筈の
主人の側も自由に行為ができずに奴隷的になってしまう、
というのが重要なんだけど、それは永井は言っていたっけ?
675:考える名無しさん
06/07/11 17:17:16
>>473
解説書っておもしろい?
676:473
06/07/11 17:29:57
殆どのものはニーチェの伝記的事実と思想の概要と過去の諸研究を紹介して、
自分の意見も少しは述べるのだが、それら書かれている事同士の繋がりが
見えずに雑漠とした印象で、初学者向けの解説書として流通しているものほど
見通しが悪く、資料としての価値はあるが逆に読み手のセンスが要求される
というちぐはぐな事になっている。
上に上げた三島はモダニズムとニーチェを結びつけようとしている点で
明確な意図があるけど完全に他の記述から浮いていて、これは最初から無理がある。
その点やはりハイデガーやドゥルーズは凄い、
のだが、これはいわゆる初学者向けの解説書とはいえないよね。
いいものがあれば私が聞きたい位だよ。
677:473
06/07/11 22:31:06
>>664
>言葉の次元を無視 してはいけない。もちろんあなたは無視していないけど…もっと
悲痛というか、倫理的?
ニーチェもキルケゴールも最初は実在としての「あなた」が大切だというのだけど
最終的には一人の人間に「あなた」と呼び掛け、そして呼び掛けられた「あなた」が
別の「あなた」に伝える事の出来るような、そうした知=言葉の方が大切であって、
これのみが永遠のものなのだ、という風に主張するから、やはりそれほど違いはない。
二人ともこの知=言葉を一人のDuとして受け入れたものは同じ言葉を他のDuに対して
差し出す事が義務づけられるのだから、非常に倫理的だよ。
678:考える名無しさん
06/07/11 22:35:53
詩的解釈好きって空想が膨らむからなんでもありだものな。
679:473
06/07/12 00:31:34
各哲学者が著作の中ではっきり明記している事なので、
私の詩的解釈と見なして頂いて光栄だがそうではないよ。
>>664
>もちろんあなたは無視していないけど
このあなたって、私(473番)の事か。
抽象的に理解された二人称性だと思った。失礼。
悲痛だとか倫理的だというのは、伝達をしなければならない
止むに止まれぬ動機があるという事だと思う。
ノブレス・オブリージュや自負心でわざわざ伝達して(愛して)やっているというわけではないんだな。
私の今までの話だとそう思われてしまうかもしれないけど。
キルケゴールやニーチェは自分にもそれをする理由があったし、
レギーネやコージマにもそれを受け取る理由がある、と期待したんだろうね。
680:考える名無しさん
06/07/12 00:50:02
>>679
そう、あなたって473さんのこと指してました
紛らわしくて失礼
ところで、473さんの考えでは、特定の誰にも結び付かないニ人称性が
唯一性、1回性を表わしていて、固有名というのは、晩年の手紙で
氾濫するように、むしろ多様性、多義性を表わしている、
つまり、普通は「固有名」が「存在の一義性」を示すものと考えられて
いるけれど、あなたの解釈では、不特定二人称のほうが一義性であり、
固有名は氾濫において多義性を表わす、という普通とは逆の考えを
してるように思われるけれど、この整理でオーケー?
681:473
06/07/12 01:13:12
>>680
大体その通り。ただ、二人称に相当するのは初期ニーチェが使ったように
根元的一者性とでも言った方がいい。固有名の方が多様性だというのはそう。
この多様なものの一つ一つが掛け替えのないものだというのなら
それはそうだろうから、唯一性、一回性という言葉はそちらの為にとっておくべきだろうね。
尤も>「固有名」が「存在の一義性」を示すものと考えられている
のが「普通」なのかどうかはよく知らないけどね。
私の考えにおかしいところはある?
ツェランは小沢書店と思潮社だったね。
ホルガー・シュミットのニーチェ論を読んだ人がいたら、
感想を伺いたい。目次を見る限り、あまり期待できそうにないんだけど……。
682:考える名無しさん
06/07/12 01:38:39
>>681
固有名が「存在の一義性」という意味は、473さんがいみじくも
書き込んでおられるように
>一つ一つが掛け替えのないものだ
>唯一性、一回性という言葉はそちらの為にとっておくべきだろうね
という意味です。これはドゥルーズの解釈で、中世のスコトゥスが
「このもの性」ということで唯名論と実在論の普遍論争を脱構築した
ものとして見出した、という意味のことを言っていて、端的にそれを
示すのが固有名になるのね。
ちなみに柄谷行人も「探究」で固有名を唯一性、1回性の意味で
使ってる
683:473
06/07/12 02:01:20
じゃあ、私は語意を誤解していたわけだ。
ただ、ニーチェやキルケゴールが重視したのは
それぞれの一回性という意味でのそれぞれの固有名だとしても、
根元的一者性という意味での二人称がそれに先行する―
それが解っていないから、柄谷行人のキルケゴール理解は
おかしな事になるんだけど―という私の意見についてはどう?
すでにかなり証拠を見せた筈だけど。
684:考える名無しさん
06/07/12 02:16:51
>>683
柄谷は弁護する気はないから、それは他の人に任せるとして-
473さんの考えから、いくつかの疑問が生じるので、論理展開
して貰えたら、と思います
1.まず、不特定ニ人称が「根元的一者性」とする場合、この根元的
一者性と固有名における「唯一性」との理論的差異は何なのか?
両者は同じ事を指しているのではないのか?
2.不特定ニ人称「あなた」は、特定の個人に結び付かないもので
ある以上、ある抽象性を帯びているものではないか?抽象的概念と
までは言わないけど、普遍性・一般性に関わるものではないか?
それが「一者性」であるとは、どういう事態なのか?
3.2とも関連するけど、「根元的一者性」と言ってしまった場合、
それはある種の形而上学の構図になってしまわないだろうか?つまり
根元的一者性は、ある超越性として表象されてしまわないだろうか?
ちなみにホルガー・シュミットは目次読んで読むのやめましたw
685:473
06/07/12 03:28:43
>>684
柄谷については、なぜあんな誰にでも解る誤解が誰にも指摘されないまま
流通したのか不思議だ。彼の回りには教養のある人が沢山いるはずなのに。
彼にはもう一がんばりして欲しいが……。
683の問い関しては、正直私の方が答えを聞きたい。
投稿したのはそのつもりもあったので、
私より明確に答えの出せる人がいたら伺いたい。
提示された問いの中では1が難問であり、
ニーチェ、キルケゴールの肝だろうね。
1.根源的一者性は全ての人が共有している。唯一性は一人一人違う、
とまずは考えられる。しかしこの二つがニーチェとキルケゴールにあってはどうやら交叉する。
これはよく解らなかったし、すぐには答えが出ない。明らかになりそうは気配はあるのだが……。
考察のヒントになりそうなのは『畏れと戦き』。
2.超越性と言うより根源性、超自我ではなくてエスの一者性。
キルケゴールは後者の意味では「普遍」と区別して「万人」という語を
使っているので、彼に倣いたい。
3.レヴィナスの言っているような意味での形而上学性は帯びるだろうね。
つまり決して伝達の内容にならない伝達の受領者、という意味で。
それは抽象性ではないだろう。伝達の内容になりもするのだが、
その時は抽象性よりも具体性を帯びる。
つまりイエス=キリスト、ツァラトゥストラとして。
これは1の問いの答えのヒントとなる。
そしてやはり考察のヒントになるのは『畏れと戦き』かな。
シュミットは私が感想を聞かせる側に回るよ。
他に良い本があれば誰でも紹介して欲しい。
686:考える名無しさん
06/07/12 07:53:09
>>685
丁寧にレスしてくれてありがとう。
自分もしばらく考えてみるよ。
柄谷に関しては、彼は思想家の言説を通じて自分の考えを述べている
というスタイルなので、ときとして強引な読解をしてしまうところがある
カントの「物自体」に他者が含まれている、なんて読解は殆ど強引だ
でもそこが彼の面白いところではあるけど
687:473
06/07/12 18:02:09
>>686
「命がけの飛躍」とかいうのはマルクスの「アキレツ腱」を刺したと評価できる
かもしれないが、キルケゴールの「単独者」に関しては単に理解が浅いだけだよ。
歴史に登録された固有名は実存の倫理的段階に属するのだから。
それだけだった『あれか-これか』で済むので、
何のために彼がその後も猛烈な勢いで著作活動をしなければ
ならなかったのか解らない。
>>474
西尾先生の『ニーチェとの対話』を読了したが、
高人理解にも末人理解にも、特に独創的なところがあるとは思えなかった。
柄谷も西尾も、自分が著作家であって本の裏側にに読者がいるという事実を
上手く処理できていない。やはりこの点、キルケゴール、ニーチェから
みならうべきところが多いだろう。
688:474
06/07/12 18:19:44
>>687
>>653
「マジメにニーチェを読んでる」人間ならばまず思い至らない
ニーチェとの対話の事はともかく、自分が著作家であって云々には前向きに興味があるな。
もうちょっと具体的によろしこ。
よく言われるのは「テクストがあって作者は存在しない」というやつだが、
それはこの場合全く関係ない。読む側の論理と書く側の論理、という違いがあるからだ。
当然だが書く側が「読者は存在しない」とは言えない。
しかし、読者は作者にとって未知の人間なわけで、その断絶は根深い。
その問題に取り組む常識的な方法はレトリックという学問となるのだろうが……
689:473
06/07/12 21:09:12
>>688
>「マジメにニーチェを読んでる」人間ならばまず思い至らない
いや、普通にニーチェを読めば誰でも普通にそう受け取るような事しか
書かれていなかったよ。
>よく言われるのは「テクストがあって作者は存在しない」
これはニーチェとは無関係。キルケゴールとは尚更だね。
柄谷や西尾の場合、読み手が向こう側にいると思っていないんだな。
今までの二人称の話と関係があるが、
彼らは彼らの「私」の側に読み手を同一化させようとするけど、
あなたとしては扱ってくれないの。批評家とか論客というものは、
そういうものかもしれないけど。
690:474
06/07/12 23:17:19
>>689
マジメ≠普通
>これはニーチェとは無関係。キルケゴールとは尚更だね。
そもそも688で無関係と書いた。
で、読み手が向こう側に居ると思っていない、というのは妥当な推測だと思う。
(ただしこれは推測でしかないが)
しかし彼らは、当然彼らの主張が間違っているとは思わない訳で、
彼らなりに読者を正しい思想を分かる人間にしよう、と働きかけている。
このような学者的な働きかけと473の言うあなたへの語りとの間の本質的差異は何か?
問題はこの点にあるんだよ。
関係ないが寺山のエッセイなんかは語りかけ調のやつがあった気がする。
691:473
06/07/13 01:56:07
>>690
知識の伝達と実存伝達の差異だよ。
692:474
06/07/13 10:04:59
ほう、実存伝達。ますます興味深い。
そもそも実存伝達という言葉を初めて聞いたのだが、
実存を伝達するというのはまずあり得ないので実存的に伝達するということだと思うが、
その場合にも何らかの知識を伝達しているのだろう。
単なる知識の伝達とどういう差があるのだろうね。興味深い。
693:考える名無しさん
06/07/13 16:37:20
物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな?
694:473
06/07/13 18:35:55
>>692
>そもそも実存伝達という言葉を初めて聞いたのだが
それについてはキルケゴールが遺稿集八巻の中で
深く考察しているから読むといい。
柄谷については、心に決めた女性に婚約指輪を差し出して、
その上でその行為に重ねられたプロポーズの言葉が
「私は今あなたに婚約指輪を差し出しています!
あなたが私の求婚を受け入れてくれるかどうか解りません!
私はとても不安です!」だというようなちぐはぐさがある。
ニーチェやキルケゴールはそんな間抜けなことはしない。
この点、キルケゴールについては遺稿集七巻。
>>693
>物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな
東京大学の博士論文で似たようなのをネットでみたが、それだけだとまずいね。
『ツァラトゥストラ』や『キリスト教的講話』の組立はもう少し錯綜している。
文学部でテクスト読解を学んだ人ならすっきりと説明できるかもしれないが、
私にはそう簡単には無理だ。
695:474
06/07/13 19:26:58
>>694
キルケゴールの遺稿についてはよく知らんが編集次第で何巻か変わってしまうだろう。
まあ、これの事なんだろうが。
URLリンク(www.bk1.co.jp)
>柄谷については、心に決めた女性に婚約指輪を差し出して、
>その上でその行為に重ねられたプロポーズの言葉が
>「私は今あなたに婚約指輪を差し出しています!
>あなたが私の求婚を受け入れてくれるかどうか解りません!
>私はとても不安です!」だというようなちぐはぐさがある。
だとすると、柄谷は自分の知識伝達の働きかけを受け入れない
他者としての読者がいるという事実を強く認識して書いている、ということか。
なおさら実存伝達との差異が分からんな。
696:473
06/07/13 19:34:44
遺稿集として流通しているのは新地書房版しかない。
それだけじゃないが、あまりに無考えな無駄な発言は控えて欲しい。
697:473
06/07/13 22:06:03
>物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな?
そうも言えなくはないのだけど……下手なりに説明すると、キルケゴールの講話の場合、
大抵まず彼が「決して帰ってこない使者に別れを告げて見送った」様とか
「森の中に人知れず咲く一輪の花を小鳥が啄んだのを見届けた」様とか、
もう商品は売り手の側を離れて買い手の側に届いている事を
表す文章がまず序言に掲げられる。柄谷はこれを受け入れられていないね。
そして、この「売り手-商品-買い手」の関係を再び「読み手-作品-書き手」
として裏返しに反復するのがキルケゴールの狙いらしい。
例として七巻に収められた「罪ある女」を取り上げる。この講話の中では罪ある女が、
パリサイ人の宴会に招かれていたイエスの元に罪の赦しを請いに行く。
宴会に不相応な来客なので周囲の眼差しが彼女に突き刺さり羞恥心の強い女性には辛い状況だが、
それでも自分を忘れてひたむきに赦しを請う彼女に、イエスは「この女の罪は赦されている」と告げる。
その瞬間、彼女は一つの永遠の彫像になる、とキルケゴールはいうわけ。
イエスがなぜ罪の赦しを告げるのに二人称ではなく三人称が使ったかと言えば
メッセージの受取手は他にいて、それはどうやら時空を越えて講話を読む
読者の事だと言いたいらしい。講話の商品性と作品性がここで錯綜している。
罪ある女が娼婦の事だと解すれば、なおさらね。
そうするとパリサイ人やイエスは誰なのか、これはおいておくとしても。
「罪ある女」はキルケゴールの講話の骨組みがかなりはっきり出た作品だけど、
私が『ツァラトゥストラ』を読んだときと一番よく似た印象を受けたのはこれだった。