06/07/06 14:20:04
522は513かな。
正直私は微妙だとも思わないんだよね。
はっきりイメージと二人称は別で、
後者はラカンの言葉で言えば「いわゆる」現実界に対応する。
―というのは私の考えが足りないかな?
上に上げた人達は大体そう考えているし、
デリダ以外は資料が手元にあるから言及もできる。
これは後者の人達が主客未分化の即自性と捉えられているものが、
実際には伝達者-受領者の関係の中でしか成立しない事を知っていたから。
これについては、既にニーチェを例に挙げて説明した。
この受領者に相当するのが二人称だね。
ただしこの中でニーチェとキルケゴールにあっては、
固有名も相当の地位を占めている。が、
それは彼らの名前ではないね。
>>520
鏡像が他者から受け取られた「イメージ」である事は誰も否定していない。
ただ、その時自己は他者の中に「私」を見ているのね。
それはその他者に対して「君」と呼び掛ける事とは違うだろうという話。
この二つをラカンが混同していたならやはり問題があるだろう。
ただ私ラカンについての知識はその点に関して不確かだから、
正確な知識を持っている人に確認がしたかった。が、
それはラカンに「ついての」知識を巡って争う為ではない。
どちらにせよ、二人称をイメージに対応させる考えは
ニーチェの立場からは批判の対象になるのは確かだ。