06/06/24 11:40:28
>>419
三通り。
ニーチェらしい文体、ニーチェらしくない文体、エリーザベトっぽい文体。
425:考える名無しさん
06/06/24 19:34:59
韻文と散文どっちも書けるっぽいけど、ドイツ語がわからない俺には判断のしようがない。
そしてドイツ語がわからない俺には散文ニーチェの方が圧倒的に評価が高くなる、と。
426:考える名無しさん
06/06/25 20:34:10
>>424
ニーチェらしくない文体って書簡とか手紙のやつ?
エリーザベトっぽい文体って書き換えられたやつ?
427:睡蓮の花言葉、mental.sketch.modiried.
06/06/29 23:30:25
mental.sketch.modiried.
狂喜に舞い桜の紅色は、土に振る雪の泪に染まりつくした・・・・・・。
嗚呼、群青に立ち尽くす。この紅を憂う、その時、私は一人の修羅だった。。
ZYPRESSEN.移り往くもの・・・世界に対し拳を垂直に突き付ける。
序奏・ZYPRESSEN.それは我と汝を突き抜け、より硬く
心象と現象が細切れにちぎられて、細々とこの世界に流され往く・・。
弌
私と言うべき、この手垢に塗れ、皐月の朝を支配せんと、紅い水流の懐で愛子ながら。あの暁の月に見立てられ、紅の悲劇は英雄達を墓場に仕舞込むように
芳醇な眼差しを軽く、意識の表層に滑り込むように、鋭利な空切に見惚れながら。
悲しみの蓮華には、もはや蓮の葉は潤いを求めない。
痛みを隠した事に、敏感に反応し、滑らかに・・しっとりと、ゆるり一つ二つを数え、そうっと、数を積み重ね。いたぶる様な素振りで、ひとしきり撫でた・・。
(あの日陰の野原に咲く、睡蓮の花に雨を宿せば。)
もし、あの木が育った直ぐ近くと、そのほんの微かな微睡みの底網をしかりと握り締め引き寄せた。
428:睡蓮の花言葉、mental.sketch.modiried.
06/06/29 23:33:49
弍
意識の合間に、もし誰かが、泉を見付け石を硬く握り締め、その水面に力いっぱい、極力すべてに分け与えるように、・・・その手に硬く、握られた。
たった一つの数に認められた、その石を、何事にも恐れを近付けずに・・真、粒さな音を残した儘、その水面を意識して、梳かさずに放り込み・・。
もし、それでも・・何か浮かび上がり
忽ちの合図を受け取り・・不覚と深くの真、深渕の奈落が供に同情を捧げ。
その反証までに用意された憎しみは、もはや気薄な、
迄に嘘を見透かされた事へは、もはや何の恥じらいすらも、しかと好め過しく、万象に寄せる好意の中に飲み込まれて・・・。
やがて、その一遍の決意にすら、幼子を包むかの如く抱き抱えては・・・
沈み行く姿の容姿と表情が・・・・もし、仮に神と呼ばれる神羅達の言葉を真旨く
愛される事に教えを頂いていたならば・・・否、私にそれが許され認められた事により、
その一切の影に見事に連なり行く、既に為された事であった出来事を!!
ただ一つ自身が欲し 何よりもその欲情が自らにより、
私が欲した出来事で逢ったと言う事だと造り変える無様な、芸術の粋にも、見つからずに・・・
それでも尚、この偽りの中にでも造り代える事が、もし・!!
出来る事がおよそ実現の 幻想にも記される事すら不可能な事だと、そしてその後には我を許し、 それでも幸福は、やがては永遠を伴に誓うなどと
尚、私にあなたを信じろ等と、・・・・まだ生きろと命令するならば。
私はこの木と此処に広がる泉に流れ着いた一切の魂を待ち侘び許しをくれてやろう、又、その後に砕こう!今はまだ彼の刻などでは、決してやっては来ないのだから!!
429:睡蓮の花言葉、mental.sketch.modiried.
06/06/29 23:39:20
惨
その時までに この自らの意志を何より。 ZYPRESSEN.この木の曲線なる垂直に微笑ましくも無情に突き刺さる。
あの意志とこの糸が互い違いに見つかった。
遥か地平の何よりも近い、この場所に見初められた、稀に埋もれた。
あの認識の木と泉の畔だと。
何よりか幾度に洗練された。俄か仕込みの真昼だと、信じようと胸を撫で下ろし。 たとえば、虚無だと言ってしまえるほど、微かに眺め観る事の出来る蜃気楼だとしても、否定の余地が辿り着ける程の足跡を消し去り。
新たな地平を見据える、私を幾千もの“孤独”がもはや忘れ去る時にさえ、頑なに拒み続けるよう耐えず歩かせよう!!
私を欺いた事にさえ、およそ信じる事が、もはや確信を抱けぬ事が何よりも寧ろ私の心を、突き動かすのだ!!
嗚呼、認識の木が聳える泉の近くには又、小さな楽園が或る。と言う事も・・・。
『神は今此処で三度、為された』
『神は没落を共にした・・人間の持つ低劣ぶりを無様な迄の愚かさに憧れて』
※まことのことばはここになく修羅のなみだはつちにふる。
※※みんな昔からの兄弟なのだから・・・・・・・・・・。
決して一人を祈ってはいけない・・・・・・・・・・。
嗚呼わたくしは、決して独りを祈ったりはしていませんでした・・・・・・・・・・。
相対性の鏡に映り、又絶対的な青い蛍光灯に映り行く
全ての孤独は皆、決して独りを祈ってはいけない・・・・・・・・・・。
嗚呼、何故に修羅の聲は土に降り積もる・・・・・・・・・・。
※宮沢憲治・春と修羅より一部転載。
※※同じく宮沢憲治・銀河鉄道の夜より一部転載。
そしてどうか全ての勇気或る知性達よ、今一度問う事を祈る。
『修羅の真の言葉は何処に降るかを・・・・・・・・・・。』 この暗喩の内に願いを響かせて・・・・・・・・・・。
その悲劇がいづくき没落する地の果てより、今此処から祈りを願いに響かせて・・・・・・・・・・。
悪意を愛情で見守る為に
“超えた円形の庭場に記す生母”より。
430:考える名無しさん
06/06/29 23:54:38
スレリンク(musicj板)l50
哲学板のやつらこいつをぼこってくださいお願いします。
431:ここ自分の名前書かないものなんですか?
06/06/30 02:02:56
あんまり2ちゃんねる見ないんで余り流儀がわかりませんが、
ニーチェは随分前から好きです。とてもおそれ多くて
「わかった」なんて言えないけど。
あんまり詳しくは無いんですが、岡本太郎さんは、
非常にニーチェ的に人生を全うした人という印象があります。
瀬戸内寂朝の「かのこ遼爛」の中に引用された、太郎から
かのこに宛てられた手紙の文体が、あまりにもニーチェなのです。
ところで、最近はゆるゆるとプラトンの著作を読んでいるのですが
「ゴルギアス」の中でソクラテスと張り合う論敵の「カリクレス」の
内容が、ニーチェの奴隷道徳と貴族道徳の発想のもととなった、と
藤沢令夫の本で知りました。
実際、プラトンの本を読んでいるとソクラテスには
本当にじれったくなってしまいます。
でもやっぱり、「お前に言ってることが、正しいのかも」
と思えるときもあります。
ニーチェはもともとギリシャ時代の文献学者だったわけで、
ギリシャがらみで、何かニーチェに関する面白い情報
知っている人いませんか?
432:考える名無しさん
06/06/30 02:33:20
>>431
岡本太郎はバタイユスレの専売特許だとばかり思っていたが、
変わったところで目にするものだなぁ(しみじみ
433:考える名無しさん
06/06/30 05:00:20
URLリンク(dokuo-ha-hitori.dyndns.tv)
434:考える名無しさん
06/06/30 14:30:21
「永劫回帰」「永遠回帰」について、私の考えを書いてみたいと思います。
あらゆることが、寸分違わず永久回数繰り返されるのですから、善悪など
すべての価値は同価値となります。何故なら、どうしようと悪行、善行と
されるものなど、すべて繰り返されざるを得ないからです。
この先は少し恐ろしくて文章化できません。(例えば、毎日ほんとうに色
々なニュースがありますよね。そのニュースが毎日事実として、まったく
同じ内容が放送されると考えて下さい)
これはあくまで例えですから「永劫回帰」そのものではありません。
さて、以前に「二ーチェ」に関して、このスレッドに少々投稿したことが
ありましたが、『「ニーチェ」の著作を全部読んでから、ものを言え!」
などと、かなり罵倒されました。腹も立ちましたが、実際、原書を含め全
部読んでいないのは事実ですから「受け入れよう」と思いました。
但し、一応私も哲学科出身の50代なので、古本屋で手に入れた2社の全
集、数年前に手に入れた、全集ものの文庫版は、一応眼を通しました。
しかし、全部通読したかというと、そうではありません。
なお、30年以上前は、色々な文庫が「二ーチェ」を出していました。
それも持っていますが、今はほとんど絶版になっています。
最後に好みを言えば、はっきり言って、私は「ニーチェ」は嫌いです。
「ヒルティ」の方が好きです。
435:考える名無しさん
06/06/30 14:42:42
ニーチェは永劫回帰を本気にしちゃいないがな
436:考える名無しさん
06/06/30 14:54:56
同じものだと分かってしまったら、それは同じものではない
だから、「すべてが帰ってくる」という仮定は
起こった事象が帰ってきたものかどうかさえ分からない
という形でしか帰ってこない
437:考える名無しさん
06/06/30 14:57:40
永劫回帰ってこういうことじゃないの
まず仏教的な輪廻とは違うと思う
1回的なものの繰り返し、と言ったらいいのかな。
私たちの生は不条理に満ちていて、この生は1回限りのものだけど
この不条理な生を全く同じように「もう1度生きよ」ということに
対して「大いなる肯定(ja)」で答えるというもの。
1回性の反復というかな。あと回帰というから円環的な時間性を
イメージしがちだけど、そうした円環性を断ち切って、1回限りの
生、線的に流れる時間が、その1瞬1瞬においては無限の可能性を
はらんでいるというイメージ。
永劫回帰というのは、大いなる肯定、力への意志、運命愛という
ニーチェの隠喩群と関連づけてとらえるべきだと思う。
438:PK
06/06/30 15:20:31
たとえばボクたちが動物の世界を想像するときに、同じ事が繰り返し繰り返し行われているように感じます。
ライオンは生まれては死に生まれ、シマウマは生まれて襲われて死に生まれる。
しかし人間の世界も同じでしょうか。同じですが違います。なにが違うかというと人間の世界には「私」がいます。
「私」は生まれ、一度死ぬと、二度と生まれません。
「私」は反復されない。たった一度であるから、人間の命は大切であり、尊厳、倫理、善悪が生まれます。
これはハイデガーの現存在につながります。
永劫回帰とは、「私」という1回性の幻想が解体され、人間の世界が動物の世界になることです。
「私」はただの無数の人間の一人なのです。空気中に漂い一瞬で生まれ死ぬ無数のバクテリアの
1匹となるのです。
その強度に耐えられるか。そこで残るのはただ生命としての生きる力のみです。
バクテリアは「私はだれ」などと考えませんし、ただ生き死にますが、生きる力がみなぎっています。
439:考える名無しさん
06/06/30 15:21:35
>>437 の方がたなど
皆さん方は、非常に良く読み込んでおられ、私以上の見識と存じます。
ただ、私は一宗教者でもありますので、実存主義(幅が広すぎますが)
に対しても言いたいことがあります。構造主義(広意味)に対しても。
私は、人生において、価値判断をして生きて行きたいと思っているか
らです。
440:考える名無しさん
06/06/30 15:28:44
>>438
>「私」という1回性の幻想が解体され
ここが違うと思う。むしろ1回性が回帰されるんだと思う。
ニーチェ晩年の手紙には、自分はかつてキリストであり、ワーグナーで
あった…といった固有名が回帰してる記述がある。つまり固有名は
1回性に関わるわけで、やはり永劫回帰は1回性に固執してる思想
だと思う。
>「私」はただの無数の人間の一人なのです
これは正しいと思う。ただし「無数の人間」はやはりそれぞれ1回性
としての生、としてあるわけです。
441:考える名無しさん
06/06/30 16:58:38
ドゥルーズの永遠回帰解釈をどなたか解説して下さいませんか?
442:PK
06/06/30 17:14:41
>>440
>ニーチェ晩年の手紙には、自分はかつてキリストであり、ワーグナーで
>あった…といった固有名が回帰してる記述がある。
1回性とは固有名です。
「固有名が回帰している」の文脈はわかりませんが、
仮に固有名(1回性)が反復するとすると、1回性さえ反復する世界、
それはもはや1回性ではない、ということでは良いのではないでしょうか。
当たり前ですが、1回性は1回だけです。
t回数によってしか持ち得ない「私」という力でなく、
回数の次元を超越した生命の力が試されるのが、永遠回帰という
状況ということではないでしょうか。
443:440
06/06/30 20:06:44
>>442
>「固有名が回帰している」の文脈はわかりませんが
つまり、それぞれの固有名は1回性なわけです。このことは、他の
1回性(固有名)と他の1回性(固有名)とは異なっている、という
ことです。キリストが生きた1回性とワーグナーが生きた1回性は、
異なっているわけです。そうした異なった1回性が回帰している、
様々な、複数の、それぞれに単独的な、1回性が回帰されるイメージ。その
>回数の次元を超越した
「1回性」というのは、まさに「1回」きりであるがゆえに、「回数」
という次元を超えているのだと思います。回数ということがあり得ない。
それが「回帰」している、とはどういうことか?1回性を生きる、という
状況は、まさに1回きりを生きるわけです。それが反復しているとは
「その都度」その1回性を生きる、ということだと思います。反復された
ものとしても、1回きりの生なわけです。
うまく説明できませんね。すみません。ところで「生命の力」という
ことを強調すると、「生の哲学」みたいなものに回収される危険性が
ありませんか。ちょっとそれを危惧します。
444:PK
06/06/30 20:16:14
>>443
<「その都度」その1回性を生きる、ということだと思います。反復された
>ものとしても、1回きりの生なわけです。
では永久回帰の苦はどこにあるのでしょうか。
>ところで「生命の力」という
>ことを強調すると、「生の哲学」みたいなものに回収される危険性が
>ありませんか。ちょっとそれを危惧します。
初期の「悲劇の誕生」のディオニソス的/アポロン的ではその融合が
思考されていますが、その後の力への意志、超人思想へと、ニーチェは
危険な「生の哲学」に回収されていったのではないでしょうか。
445:440
06/06/30 20:21:20
>>441
ドゥルーズはそんなに正確に読んでないので誤ってたら誰か指摘して
下さい。中世の哲学論争で、実体が先か、概念が先か、という論争が
あった。例えばこの犬、あの犬、という実体としての犬を見てから
「犬」という概念が創造されるのか、それとも「犬」という概念が
先にあって、そこからこの犬、あの犬を見ているのか。この論争に
対して、ドゥンス・スコトゥスという人が、「このもの性」という
ことを言い出した。眼前の犬は、まさに世界でたった1匹の、単独的
な犬である。他の犬とは取替えがきかない。そういう1つきりの
「このもの性」を言うことで、実体-概念という二項対立の枠組みを
はみ出したわけです。次いでスピノザが現われて、神即自然、という
考えで、世界を「このもの性」から成り立ったものとする世界観を
提示した。ニーチェはその次に現れて、永劫回帰を言うことによって
この世界観を動態化した、という解釈だったように思います。
446:440
06/06/30 20:32:46
>>444
>では永久回帰の苦はどこにあるのでしょうか
人間の生は、偶然にさらされ、不条理なものである。そこから彼岸に
おける救済を求めて神にすがるキリスト教をニーチェは弱者の思想と
して批判しますね。彼の言う強者の立場とは、不条理な生をそのまま
肯定すること、積極的に自らが選んだ生として肯定することだと思い
ます。だから永劫回帰という思想は、積極的な肯定の思想で、苦と
いうものは無いのだと思います。私の読みが浅いのかもしれませんが。
>その後の力への意志、超人思想へと、ニーチェは 危険な「生の哲学」
に回収されていったのではないでしょうか
そうですね、そのように読めてしまうことには同感します。ただいわゆる
生の哲学、例えばベルグソンのようなものとは全然違うものだとは思います。
生の哲学と言ってしまうと、ナチズムのように都合よく解釈されてしまう
危険があるわけですね。でもニーチェの強者とは、本当にそのように
生きたとしたら、社会的にはむしろ弱者ですね。
447:PK
06/06/30 20:58:22
>>446
永久回帰は、生を肯定する強者しか耐えられない苦である、ということですね。
ただ様々な固有名を生きるのはそれほど苦かなと、
固有名に意味がないことの方が苦かなと、思ったということです。
ボクは、それは都合欲でなく、ニーチェに内在する危険性だと思います。
ルサンチマンは良かったが、それに対比して、生の力を肯定しすぎた。
ニーチェの時代は、ダーウィンの時代ですが、
ニーチェは進化論を誤読した(時代に感染した?)のだろうと、
ボクは思っています。
448:PK
06/06/30 21:02:59
進化論とは強者の思想ではなく、適応の思想ですね。
449:440
06/06/30 21:11:07
>>447
そうですね。確かにニーチェに内在する危険性はあると私も思います。
彼独特のきわどい隠喩や散文スタイルは多様な解釈を許してしまいます
から、余計に厄介ですね。
ニーチェがダーウィン思想にどの程度関わったか、私は知らないのですが
ナチスはダーウィンの進化論を社会一般に適用して社会的ダーウィニズム
という優生学的な風潮を作り出し、ニーチェの生の肯定の哲学もその線で
読まれたのかもしれませんね。
450:考える名無しさん
06/06/30 21:15:41
弱いくせに強がっちゃって。オトコって見栄っ張りで可愛いわ。
451:PK
06/06/30 21:24:40
ダーウィンの進化論が発表される前から、ニーチェは生の思想を
展開していたようです。そのような時代だったのだと思います。
進化論はダーウィンの思いと違い、一つの思想として受け入れられました。
聖書と対立する進化論自体が大論争の時代ですから、
進化論を受け入れて人も、せめて?人間が進化の頂点であると
考えたわけですね。
だから人間の中でも進化が遅れたもの、進んだものがいるという
優生学に繋がります。
本来の進化論とは強者の思想ではなく、適応の思想です。
だから人間が頂点でなはないし、強者が適応するとは限らないのです。
ニーチェの生の肯定(強者の思想)は、進化論の誤読、
その時代の感染したものではないかと、ボクは考えています。
進化論の誤読は、ナチスに利用されましたし、人間は進化の頂点であるは、
いまだに誤読されていますね。
452:PK
06/06/30 21:27:46
この当たりはあくまでボクの感想ですが・・・
453:441
06/06/30 22:34:17
>>445
なるほど、ありがとうございます。
454:考える名無しさん
06/07/01 06:37:27
ニーチェって現代じゃ評価低いみたいだな
455:考える名無しさん
06/07/01 19:52:28
>>454
いや、むしろ現代でこそ評価上がってるだろ。
「ニーチェ=超人は人殺しでも何でもしていいとか言ってる危ないヤツ」みたいな誤解もなくなってきてるし(たぶん)。
456:考える名無しさん
06/07/02 00:33:23
未だに、罪と罰引用してる奴いるのが、お笑いだな。
ニーチェも同じだろう。
457:考える名無しさん
06/07/02 13:32:30
>>455
ほとんどシカトされてるんじゃないの
458:考える名無しさん
06/07/02 16:14:25
ニーチェ解説書で良い本って、どんなのがありますかね?
このスレをぜんぶ読みましたが、三島憲一先生の『ニーチェ』(岩波新書)とかですか?
459:考える名無しさん
06/07/02 17:07:44
ニーチェの何を知りたいかによる。
ニーチェ論は甲から乙までかなりの数があって、
徒に読むと理解が深まるどころか混乱する。
三島先生は訳行は尊敬できるけどニーチェをモダニズムに繋げようとしてらっしゃるのは
袋小路だとしか感じられない。最近の仕事はどうか解らないが。
ニーチェのどの著作に印象を受けて、
どんな事を知りたいの?
460:考える名無しさん
06/07/02 17:47:22
>>459
どうもありがとうございます。
私の場合、まず、バタイユを読んでいるということがあって、ニーチェにも関心を
もちました。
で、ニーチェは現代フランス思想にも影響を与えているわけですが、私は、現代
フランス思想については、違和感を感じるんですよね。
そんなことがあって「どうしてなのかなぁ」と思いまして、ニーチェの思想が知り
たいと思ったわけです。
ニーチェ自身の著作も多少は読みましたが、やっぱり哲学入門みたいな本に書いて
ある要約・解説のほうがよく判るなぁと思いましたので、良い解説書を教えていた
だきたいと思ったわけです。
『力への意志』あたりをじっくり読んでみようかとも思っているんですが、やっぱり
難しいかな?
461:考える名無しさん
06/07/02 18:41:09
『権力への意志』は捨象選択されていない遺稿集だから、
読むにはそれなりの技術が必要になるので勧められない。
ニーチェを理解すれば、受ける印象はバタイユとは全然違うと
感じることになると思う。
その上でニーチェをよく読んでいる筈のフランスの哲学者達に違和感を覚えるなら、
その違和感は入門書や解説書によっては解消されないね。
462:考える名無しさん
06/07/02 19:40:42
この辺りは読んだけど全然面白くなかった。
清水真木「岐路に立つニーチェ」
西尾幹二「ニーチェ」
山崎庸輔「ニーチェ」
氷上英宏「ニーチェの顔」
永井均「これがニーチェだ」
デリダ「他者の耳」
ネハマス「文学表象としての生」
岡村民夫「旅するニーチェリゾートの哲学」
サンダー・L・ギルマン「ニーチェとパロディ」
463:考える名無しさん
06/07/02 19:41:34
おもしろかった方を言えよw
464:考える名無しさん
06/07/02 19:51:01
実は一冊もない。あったら教えて貰いたい。
465:考える名無しさん
06/07/02 20:04:24
というか、ニーチェそのものは好きなんだよな。
ならもう解説はいらないのでは。
466:考える名無しさん
06/07/02 20:15:38
ニーチェだけを読んでいる分には過不足なかった。
「これだ!」という感じがした。
理解を深めようと思って並み居る大哲学者のニーチェ論を読んだのが良くなかった。
彼らの言っている事を理解できないだけならいいけど、
おかげで自分が何を理解したのか理解できなくなって、
いつしかニーチェも面白くなくなった。
今では彼らの影響はつい最近克服できたが、その為に時間を掛けすぎた。
これからニーチェの研究者になろうと思う人は大変だ。
「種蒔く人、育てる人、収穫する人」―
この三者は全て違うとニーチェは言うけど、
前の世代は「収穫したものを食い散らかす人」だった。
次に必要なのは「食い散らかしの後かたづけをする人」だ。
これはあんまり、面白い仕事じゃない。
467:考える名無しさん
06/07/02 20:16:59
なんかごたいそうだな。
468:考える名無しさん
06/07/02 20:34:50
ドゥルーズにしろ、ハイデガーにしろ、
みんな納得して読んでいるとは、思えないんだけどね。
469:考える名無しさん
06/07/02 22:27:47
>>460
解説書を読んでジワジワ蒙が啓かれる、
という読み方ができるとは
私にはどうしても思えないな。
そんな人がいたら話を聞いてみたい。
『ツァラトゥストラ』を手塚訳で読んで何も感じなければ、
多分まだニーチェを必要としていないんだろうと思う。
『権力への意志』は著作としては勧められないけど、
概念としてのそれについてよく知りたければ、
ドゥルーズを勧めたいけど、フランス哲学に違和感を覚えるなら
キルケゴールの『愛のわざ』を読むといいよ。
470:考える名無しさん
06/07/02 22:43:07
なにがおもしろい、おもしろくないの基準がわからないですね。
哲学でも1、2を争うメジャーでしょ。
いろんな人に限りなく解説されて、好きずきではないの?
471:考える名無しさん
06/07/02 23:13:07
誰が何のためにこういう本を必要としているのか、
よく解らないという事だね。
私にとっては必要のない書物だった。
『ツァラトゥストラ』に強い衝撃を受けた人で
そう感じるのは私だけではないと思うよ。
472:考える名無しさん
06/07/03 00:49:13
『ツァラトゥストラ』に関してだけど、
あの本では理解するべき内容と
その内容を理解するための条件を交互に与える、
という事をニーチェは意図して試みているから
予備知識がなくても読めるようにできてるのね。
あれより簡単に読める本はそうない筈。
わざわざニーチェがそういう著作を残してくれたんだから、
その上で解説書とか初学者向けの本とかが出る意義が全然解らない。
そういう意味で余計だし、解説の中には明らかに間違っているものや
理解に混乱をもたらすとしか思えないようなものもあるよ。
473:考える名無しさん
06/07/03 02:21:21
>>442
「私は歴史上のあらゆる名前だった」といういわゆるトリノの発狂は
その時の「私」がアリアドネと見立てたコージマに対して「お前を愛している」
という求愛のメッセージを発信するのと相関して起こっている点に注目しないと
片手落ちになる。『ツァラトゥストラ』の中で永遠回帰が結婚指輪で
象徴されている事から解るように、回帰は二人称で呼びうる他者との
対他的な関係の中でしか成立しない。「君」と関わる「私」の問題であって、
「私」のあり方だけの問題ではないんだね。
だからドゥルーズが明記したように、超人は神的な夫婦だという事になる。
にも関わらず彼も含めてフランス人達は固有名、固有名と言って
ニーチェがそれ以上に重視した二人称の意義には殆ど注目しなかった。
これは本来なら順序が逆である筈なんだが、今後のニーチェ研究の中で
強く言われなければならないだろう。
>>441
ドゥルーズの回帰思想が画期的と言われたのは、
回帰思想を排除と選別の原理としたこと、と言われている。
そういわれるとよく解らないかもしれないが、
これはイエスを神と見なす事でクリスチャンとして再生した人間が
クリスチャン以外の人間は救済されない、という事実を受け入れる事に
近いと考えればそんなに難しくはない。
ところで、クロソウスキーとかいう変態坊ちゃんの
どこが面白いのか誰か教えてくれ。こいつのどこがニーチェ的なんだ?
頭のいい奴、一人くらい見てるんだろ?
474:考える名無しさん
06/07/03 11:31:12
クロソウスキーはよくわからんけど、悪循環だっけ?
久しぶりにニーチェは今日? でも読み直してみるか。
475:考える名無しさん
06/07/03 12:55:33
>>474
カトリックの教会の中で背徳ごっこしていい気になってるような奴って、
普通に考えればニーチェよりワーグナー的じゃない?
『悪循環』は何言ってるのかさっぱり解らない。
『ニーチェは今日?』も、みな決定的なところで読みが足りないから
かえって混乱する。
476:考える名無しさん
06/07/03 13:29:31
>>435
根拠は?
何かの解説書ですか?
ニーチェが書いたものを読む限り、「ニーチェは永劫回帰を本気にしていない」
なんてとても言えないと思いますけど。
477:考える名無しさん
06/07/03 15:06:14
>>476
きにすんな。
478:考える名無しさん
06/07/03 15:25:10
スレリンク(budou板)l50
さあアノミが板違いでニーチェで調子こいていますw 専門板の方 駆逐してやってください。
852 :アンティノミー ◆MiDylqCWJg :2006/07/03(月) 14:59:06 ID:wRz8x5cB0
>>851
あなたに質問していいですか?
853 :アンティノミー ◆MiDylqCWJg :2006/07/03(月) 15:01:45 ID:wRz8x5cB0
基本的にこのスレで哲学談義に異常な食いつきを見せる人
なんていうのは限られています。
哲学なんて読んでいる奴はそんなにいませんからね。
今までも私にしてやられてきた人だろうから興味がまるでわかない。
もう程度は分かってる。
がんばって対等に相手されるぐらいまでには上げよう。
479:考える名無しさん
06/07/03 16:23:13
478>>
しらんがな
480:474
06/07/03 18:08:57
>>475
読みが足りないって言うけど、何を重要視するかは読む人間の勝手なので、
具体的に何を重要視すべきか書かないでそういう主張をするのはどうかと思う。
ニーチェは今日? の発言者達から見れば
475の方が枝葉末節にこだわり過ぎているという反論もあるかもしれないし。
>カトリックの教会の中で背徳ごっこしていい気になってるような奴って、
>普通に考えればニーチェよりワーグナー的じゃない?
カトリック教会の中での背徳ごっこが、
カトリック以外にも活用できるような一般性を持ってるなら
それはニーチェ的だと思う。クロソウスキーがどうかは知らないが。
481:474
06/07/03 18:10:26
上げちまった……すまそ。
482:sage
06/07/03 20:39:37
>>474
感覚的なものであっても知的なものであっても、
自分がそうだと思う裏付けを欠いたまま何かを言う事と、
それがあっても言わない或いは言えない事とは別なんだろうね。
私はすでにニーチェにあっては二人称が重要だ、固有名の回帰の問題も
それと相関してしか出てこないと明記しているから、具体的な指摘はしている。
483:考える名無しさん
06/07/03 20:48:32
なんで2chって頭悪い人多いの?
597 :('A`):2006/07/03(月) 20:37:15 0
>>1
明快な回答を与えよう
頭悪い人がくるのが2ちゃんだから
484:考える名無しさん
06/07/03 23:53:08
>>483
お前が(ry
485:474
06/07/03 23:59:08
>>482
別に480で書いたのは非難するつもりでは無いよ。
でもね、
>私はすでにニーチェにあっては二人称が重要だ、固有名の回帰の問題も
>それと相関してしか出てこないと明記しているから、具体的な指摘はしている。
名無しで書かれても俺はいちいちレスさかのぼって確認はしないので、
これはわからないよ。473=475ということだな。
486:473
06/07/04 02:06:33
非難されたとは私も言っていない。
「ニーチェは今日?」を読み返したが―
ドゥルーズは206ページで『強度』は
シニフィエにもシニフィアンにも
差し向けられないと言っている。
とすれば、これが差し向けられるのは
二人称だと考えて、ほぼ間違いない―
のだが、この会議に出席している全員が
こんな単純な点を指摘できずにあれこれと
余計な言葉を重ねているのには深い感慨を覚える。
リオタールはP212で
固有名と固有の身体の差異を強調して
前者を買っているようだが、
ニーチェに関してはこれはやはり逆だろうな。
初期の言葉を使えば、前者が「アポロン」
後者が「ディオニュソス」という事になる。
487:考える名無しさん
06/07/04 16:01:20
>458
三島憲一の『ニーチェ』は
調べる事調べて書きました、って感じ。
読んでニーチェの思想についての理解がクリアになるとは思えない。
488:KA(431を書き込んだ者です)
06/07/04 16:54:03
<ニーチェを理解するためには、どんな解説書を読んだらいいですか>
ということを巡って最近いろいろな意見が交わされているようですが、
どなたかも指摘されてましたが、「ツァラトゥストラ」を読むのが
一番良いと思います。解説書を読むのでなく。
それから、ニーチェを体系的に理解したい、という動機で「いざ!」と
考えている人も多いようなのですが、
そういう「お勉強」みたいな形で関わらない方が、
良いのではないかしら?
自分にとって、ぐっ、と来る幾つかの箴言があれば、
それで良いじゃあないですか。
その人その人にとってのニーチェがあれが、
良いじゃないですか。
あるいはいっそ、ニーチェなんか忘れた方が・・・、
なんて悪のりするのはやめて置いて。
一個の結び目の方が、より運命が引っかかる(引用、
ちゃんと確認してないです、失礼)って、言っているのだから、
余り欲張るのはやめましょうよ。
むちゃくちゃ難しい物を「俺は理解できたぜ!」と威張っているのは、
まさに権力への意志が感じられて辟易します。
(いや、理解できるのならば
、それは素晴らしいことですけれども)
私は、ツァラトゥストラ、氷上訳で読みました。新約聖書もあわせ読むと、
より味わい深くなります。私はそんな読み方をしました。
489:考える名無しさん
06/07/04 19:00:52
ニーチェは稀に見る美文家だな
490:473
06/07/04 20:18:31
>>474
『ニーチェは今日?』は
引き合いに出される例も的はずれなものが多く
やっぱり片手落ちだと感じるが、君はどうだ?
>>487
三島の『ニーチェ』を読み返したが―
三島はニーチェをモダニズムに
関係づけて理解しようとしているが、
やはりこれには無理がある。
同書にニーチェがボードレールを愛していた、
という記述があるが、ある時期の遺稿の中に引用が
あるのは確かだが、言及は批判的なものが殆どだから、
愛していたとはとても言えない。ニーチェにしてみれば、
むしろ両者の差異こそ指摘して欲しいところだろう。
>>488
よく解っていない人間がよく解っていないままに
よくも解らず解説書を薦めるような事をするべきではないだろうね。
私は『ツァラトゥストラ』は手塚訳が良いと思う。
翻訳者と作者の、こういう幸福な出会いはなかなかないのではないか。
491:474
06/07/05 00:44:10
このタイミングで俺にレスがくるとは思わんかったよ。
>>490
簡潔明瞭に述べれば俺は、「ニーチェは今日?」に正しいニーチェ像を期待してない。
正しいニーチェ像はニーチェを語る上で重要だと思うけど、連中は現代思想を語る上で
ニーチェに触れている。
別に俺はフランス現代思想信者じゃないけど、そっちの文脈から入ったから。
単に著者はおらずテクストのみがある、という批評の考え方からすれば
正しいニーチェ像は不要どころか邪魔ですらありうる。
だけど現代はまだニーチェを必要としている。
だからこそ分かっていないと切り捨てずに徹底的に議論すべきじゃないか?
少なくとも俺には「二人称で呼びうる他者」との間にしか成立しないものが、
なぜ永遠と思えるのか納得行かん。なんか理由があるのかもしれないが。
492:考える名無しさん
06/07/05 01:30:14
>>473
私は永劫回帰を「一人称の固有名」でずっと考えていて
二人称の話は始めて聞いたので面白いと思ったのですが
フランス現代思想の悪しき発想、と言われるのを百も承知で書きますと
「二人称」と聞いてすぐに思い浮かべたのがラカンの鏡像界のことでした
「私のアリアドネ」と呼ぶコージマを巡っての二人称なら、鏡像界の
私とあなた、にピッタリだな、と思いました
でもそうすると「相手の中に見る私」なので、一人称になっちゃいますね
相手も私、私も相手
これだと「トリスタンはイゾルデでイゾルデはトリスタン」
というワーグナーになっちゃいますね…やっぱ違うのでしょう
493:473
06/07/05 03:10:31
>>491
私が永遠を二人称と結びつけて考える理由は
既にいくつか挙げている。
この上理由を挙げろと言われれば
多すぎて困る位だが、
議題が共有されていなければ議論は
成り立たないし、自分の考えやその根拠を
提示するのが一方だけであってもやはり
それは成り立たない。
君にはそれをする準備はできていますか?
494:473
06/07/05 03:58:09
>>492
君の考えは語るに落ちているよ。
精神分析の言葉で言えば、
想像界には一人称が、象徴界には固有名が、
現実界には二人称がそれぞれ相当する―
という指摘をラカンの孫弟子のジュパンチッチがしていたから、
ラカンもそう考えていたのかと思っていたんだが、違うの?
>>491
レスがついたから理由になる証拠を一つあげる。
筑摩文庫版全集、「トリノの陶酔」以降の
八通の書簡を確認して欲しい。この中で
ニーチェが手紙を宛てた旧友達の内、ただ一人女性だった
コージマだけは実名で呼び掛けられていない。
「あらゆる名前」が全て男性の名前(「歴史上の」
というのはそもそもそういう意味だろう)である事と、
これは裏腹になっている。。フランス人達は男性の
永遠回帰だけを考えて女性のそれを考えなかった、
という風に言えるだろう。
同書に収められている有名な詩「アリアドネの嘆き」でも
アリアドネとディオニュソスの互いの名が明かされるのは詩の最後。
それまでは彼は「名付け得ぬ神」であって、「あなた」と二人称で
しか呼び掛けられていない。
495:考える名無しさん
06/07/05 10:51:46
人が何かを書くのは、何かを隠すためだと、ニーチェさんは言いました。
496:474
06/07/05 12:08:59
>>493
すでにいくつかあげている、というが、
それは473以前の事か?
以降を見て納得いかないと言っているのだが。
読み返すのでレス番よろ
提示の準備云々というが、今俺が永遠回帰について持論を提示したら
それこそ議論は収束しないと思うが。
>>494
語るに落ちているかはともかく、492の主張とはずれている気がする。
まあ492本人も正解を語っているつもりは無いだろうが。
あと、二人称については俺の疑問点と違うが、だいたいはわかった。
497:考える名無しさん
06/07/05 18:09:36
>>494
ジュパンチッチなる人のことは知らないけど、その彼の整理はあまり
納得いかない。ラカンの理論を強引に人称で言ってしまえば、
現実界=非人称(自他未分の世界)
想像界=二人称=一人称(鏡の中の相手=私)
象徴界=三人称(他者の介入)
という風になると思う
問題は、想像界での二人称=一人称の関係
ニーチェが二人称の相手としているのが他ならぬコージマだということが
重要だと思う。他の女性ではないわけだ。愛の対象としての他者ならば
相手(鏡)に私を見ているわけだから、ニ人称は結局一人称に帰着する
と思う
498:473
06/07/05 18:48:14
>>497
ジュパンチッチは女性だから彼女だね。
ラカンのひ孫弟子で未訳のニーチェ論の中に
指摘がある。これはなかなか面白かったでの勧めたい。
ページ数は面倒なので勘弁して欲しい。
君の整理がラカンの考えだとしたら、
間違っているのはラカンの方だね。
それとも君の整理が間違っているのか,
私には判断できないので、
裏付けを提示してくれると有り難い。
改めて言うが、ラカンがどう考えていようと
二人称が属するのは想像界ではなく現実界。
鏡像というのは他我であって、これは汝とは異なるね。
簡単に言えば鏡像は対話の相手ではないが、汝はなる。
499:考える名無しさん
06/07/05 18:52:35
>改めて言うが、ラカンがどう考えていようと
>二人称が属するのは想像界ではなく現実界。
はぁ?・・・・テポドン並のトンデモだな・・・
500:考える名無しさん
06/07/05 21:16:34
どいつもこいつも笑わせやがるぜ(`∀´)
501:473
06/07/06 00:22:50
>>499
この点に関しては既に492が自問自答して殆ど正解を出している。
「君」はイメージ(想像界)ではないし、シンボル(象徴界)でもない、
という事は今こうしてやりとりをしていても解るね?
>>497
『ツァラトゥストラ』の中でニーチェは特定のイメージにも特定のシンボルにも
結びつかないこの二人称の機能を遺憾なく利用している。(第三部「後の舞踏の歌」
はその最も美しい達成だと私は感じる)この書は「万人のための書物、誰のためでも
ない書物」と扉に掲げられている通り、特定の誰かに捧げられたものではない。
にも関わらず、最後の手紙における「君が好きだ」というメッセージが特定の個人である
コージマに宛てられた事の意義は、その上で検討されなければならない。これは重要では
あっても、理解をややこしくする点だよ。
ニーチェは決して特定の誰かに結びつけてはならない愛を特定の誰かに伝えようとしていた、
という風にまずは考えられるが、そうすると、他に思い当たるのはキルケゴールが
彼の妻になる筈だったレギーネ・オルセンに伝えようとしていたものにこれは似ている。
だが、完全にそう考えていいかどうかは解らない。私たちは外から見ているから「君が好きだ」
という手紙を送信したのがニーチェであり受信したのがコージマだという事を知っているが、
先述した通り書いた本人にとってはそうではなかった。
しかし、こうしてやりとりをする事は、思ったより集中力を要する疲れる作業だ
という事が解った。今日はもう投稿を止めるが、誰でも反応を返してくれると有り難い。
502:474
06/07/06 00:38:41
>>501
「君」はイメージだよ。
503:473
06/07/06 00:56:35
>>502
私は君を見たことがないので、
想像する事はできないよ。
504:考える名無しさん
06/07/06 01:04:26
>>501
ラカンの言う「想像界」というのは翻訳が悪いので「鏡像界」とでも
したほうがいいと思いますけど、いわゆる普通の意味での「想像」
「イメージ」とは意味が違います。母親という他者を見ることによって
自己の像を獲得する、という鏡像関係を指しているわけです。
つまり、自己はすでに他者の中に見出されている、というのがこの理論
の言わんとするところだと思います。これを人称の関係に置き換えて
考えると、想像界は二人称(私とあなた(母親))なのだけれども、
そのあなた(母親)の中に自己を見ているわけですので、結局、一人称
になると思います。従って想像界=二人称=一人称となるわけです。
505:474
06/07/06 01:14:33
>>503
貧困な想像力だな。
俺は473が夜更かしして遅刻して先生に叱られてる所を想像できるぞ。
現実じゃない、と反論するかもしれないが、これは現実界じゃない。
>>504
勝手に訳を変えるのはどうかと思う。
まあ、想像界が直訳に近いのは認めるけどね。
506:考える名無しさん
06/07/06 01:24:56
一つ聞きたいことがあるのですが、ニーチェの言葉で
「愛するとは命ずることだ」という言葉があると聞き、ググッてみたのですがヒットしません
出典や正式な言葉を知っている人がいたら教えてもらえるとありがたいです
507:考える名無しさん
06/07/06 01:36:23
>そのあなた(母親)の中に自己を見ているわけですので、結局、一人称
>になると思います。従って想像界=二人称=一人称となるわけです。
それじゃ、単なる独我論だろ。ったく・・・w
508:考える名無しさん
06/07/06 01:38:00
ラカンは科学なんだから独我論なわけねぇ、おまえに食わせるタンメンもねぇ!
509:考える名無しさん
06/07/06 01:40:41
>そのあなた(母親)の中に自己を見ているわけですので、結局、一人称
>になると思います。従って想像界=二人称=一人称となるわけです。
(母親)の中に完全に自己が見えないから想像関係なんだよ。
みんな一人称になるってエヴァンゲリオンの見過ぎなんだよ。
バラバラかいてすまん。
510:474
06/07/06 01:40:45
>>506
もうちょっとヒントをくれ
>>507
独我論なら母親(二人称)すら認めない気がするが。
だが言われてみれば504の主張は想像界ありき、という可能性もあるな。
511:考える名無しさん
06/07/06 01:43:21
>>510
いや、それ以上のヒントが無い…
愛するとはよくよく考えると誰かに何かを命令している
子供のころは愛されることばかりだから命令されているばかりで、
大人になり誰かを愛することになると命じなければならない
とかいう解釈だったと思う
512:473
06/07/06 02:57:09
>>504
ご教授ありがとう。
だが、母親を<見る>ことによって自己の像を獲得する
だけであれば、母親が二人称で呼ばれる必要は全くないね?
母親が「私」にとって「あなた」になるという事は、
母親をメッセージの受信者にしている、という事だから、
それは鏡像関係とは別に存在する他者との関わり方だね?
私が言っているのは
お母さんを<見て>「僕はお母さんが好きだ」と思う事と、
お母さんに対して「僕はあなたを愛しているんです」と言う事とは
全く別のことだろう、という単純なことなんだけどね。
二人称をイメージに対応させる考えは
私の貧しい知識の中でもむしろ珍しい。
それが本当にラカンの考えなのか。
ツェラン、レヴィナス、キルケゴール、ブーバー、ニーチェ
は、二人称をイメージと切り離された別個のものとして考えているし、
大分前に読んだからよく覚えていないが、デリダも
「アデュー、エマニュエル・レヴィナスへ」の中でアデューのデューを
表象不可能な神Deusと二人称親称のDuにかけた考察をしていた。
経験や文法に照らしても、こちらの
一群の考えの方が妥当なのではないかな。
513:考える名無しさん
06/07/06 03:33:10
>>507
ラカンの理論では想像界は自己を獲得する過程になるので
独我論でもいいのですよ。というか自己の獲得過程なのだから
>>512
>母親が二人称で呼ばれる必要は全くないね?
そうなんだよね、見ているのは母親=鏡でも、それは自己の像
なわけだから、二人称が成立するかは微妙だね
514:474
06/07/06 03:41:39
ラカンの考えかどうかはラカンスレいってやろうや。
俺的には497の分類で問題ない。少なくとも現実界については。
だが二人称を現実的という考え方があってもよい。
で、それでその考え方で永劫回帰をどう説明づけるのか。
少なくとも文法云々というのなら言語発明以降の事なので永劫っぽくないし。
515:考える名無しさん
06/07/06 03:41:43
>>509
>みんな一人称になるってエヴァンゲリオンの見過ぎなんだよ
みんな一人称にはならないよ。
ラカンの鏡像段階理論は幼児の発達理論なのだから、人称に置き換えて
考えるには、人称の獲得過程にもなるわけだ。だから修正すれば
現実界=非人称の状態(自他未分)
想像界=一人称の獲得(ただし、鏡としての母親を自己の像と切り離して
考えるならニ人称もあり)
象徴界=三人称の獲得(想像界が一人称の獲得のみなら、二人称の獲得も
ここに入る)
516:考える名無しさん
06/07/06 03:54:36
ニーチェに戻って考えると>>473の主張での「二人称の意義」が
問題になるわけだ
>「私は歴史上のあらゆる名前だった」といういわゆるトリノの発狂は
>その時の「私」がアリアドネと見立てたコージマに対して「お前を愛している」
>という求愛のメッセージを発信するのと相関して起こっている
>永遠回帰が結婚指輪で 象徴されている事から解るように、回帰は
>二人称で呼びうる他者との対他的な関係の中でしか成立しない
>ドゥルーズが明記したように、超人は神的な夫婦だという事になる
少なくとも、これらから読みとれるのは、二人称というけれども、
その相手、他者は普通の他者ではなくて、愛の対象としての相手な
わけだ
517:似非フィロソファ
06/07/06 06:41:02
現実界 1+2=3
想像界 A+B=C
象徴界 AX+BY=CZ *(C+Y=Z)
数学でこの三つの次元をあらわすなら、
現実界は自然数。想像界は抽象代数。象徴界は象徴代数×変数
つまり、三竦み以上の関係でなければ象徴界もろとも存在しないはず。
518:473
06/07/06 07:23:33
>>513
鏡像というのは対自態であって、二人称はその奥に隠れている
解消不可能な対他性である、と考えるのが自然だろう。
私が上に挙げた人達は、それぞれの仕方でそういう主張をしていた。
ラカンはかなり異端的じゃない?
尤も固有名の問題はこれだけだと抜けてしまう。
>>514>>515
問題になっているのは、「いわゆる」現実界が世界の即自態なのか対他態なのか、
という事だが、現実界が「意志」に相当するものだと理解すれば、実は
ニーチェがショーペンハウアーの「意志」を「権力への意志」に
造り替えなければならなかった理由はここにあるので、無関係ではない。
即自的と捉えられる「意志」に「権力(への)」を付け加えたのは
それが対他的な関係の中でしか成立しないことをニーチェが見抜いたからだね。
だから、machtから「権力」という複数の勢力間で構成される関係の
ニュアンスを抜き取り、「力」にしてしまう翻訳は問題がある。
これでは脱自的な状態は表せても対他性や脱他性(?)を表現できないから。
これはハイデガーの影響が尾を引いているんだろう。
>>516
ツァラトゥストラにあっては、
二人称自体が愛の受取手(対象と言ってしまうとまずい)になっている。
第三部「七つの封印」の章で「私はお前を愛しているのだ、おお永遠よ」と、
高らかに歌い上げられる。この箇所はいつ読んでも美しいね。
519:473
06/07/06 08:10:17
>>少なくとも文法云々というのなら言語発明以降の事なので永劫っぽくないし。
投稿をした後でこの指摘に答えていない事に気づいた。
忙しいので少し未整理だが……。
これがまさにニーチェの面白いところで、
結論から言えば、ニーチェの永遠回帰は言語生成以降にしか成り立たない。
ショーペンハウアーについてニーチェは、意志と表象としての世界も、
その間に一個の知的存在者がいなければ成り立たないだろうという指摘をしていて、
「権力への意志」の成立のもう一つの理由はこれ。
第二部「舞踏の歌」の中でツァラトゥストラは自分が生と知の二人の女性を愛しているが、
自分が本当に愛しているのは生であって、知はその手段として必要なのだ、
という話を生に対して語って彼女に笑われて気をうしなう。
その後物語はこの章と無関係に続くが、
第三部「後の舞踏の歌」で同じ主題が繰り返される。
時空を超えて繋がっている章は叙事詩全体の中の随所にあるが、
この章は『ツァラトゥストラ』全編の中でも最も美しく最も切ない。
彼が愛していた生と思いが通じ合うのは彼らが別れなければならない
時のその直前だから。つまりツァラトゥストラは生ではなくて知を選び、
彼女を愛する事になるんだね。
ちなみにこの章は後の「砂漠の乙女たちのもと」とも繋がっている。
同様の考えはキルケゴールの「倫理-宗教的伝達の弁証法」の中にある。
520:考える名無しさん
06/07/06 09:48:35
>>515
>想像界=一人称の獲得(ただし、鏡としての母親を自己の像と切り離して
>考えるならニ人称もあり)
>象徴界=三人称の獲得(想像界が一人称の獲得のみなら、二人称の獲得も
>ここに入る)
意固地になるなよ。ネットは匿名なんだから。一言間違いでしたでいいじゃん。
想像界が一人称なんってありえない。まず他者があり、自分を獲得する。
動物だって自己がなくても他者はあるんだから。
想像界=二人称
象徴界=三人称
ふつじゃん。
521:考える名無しさん
06/07/06 09:51:45
それに鏡像段階理論=想像界かい?
522:考える名無しさん
06/07/06 12:58:59
>>520
いや、意固地になってるわけじゃなくて、想像界での自己の獲得は
他者を通じて獲得される、を正確に人称で表わそうと思ったら、
>>512で指摘されたように、他者としての母親(鏡)は結局その中に
自己を見ているわけだから、二人称が成立するのは微妙なわけよ。
強いて言えば一人称=二人称、つまり自己は他者に先取りされてる
ってことを正確に表わしたいわけ。
>>521
ニーチェの永劫回帰がニ人称ってことで話が進んできてるので、ラカンの
鏡像段階理論ではニ人称がどこで成立するかが問題として登ってきたわけ。
で、二人称成立は想像界か、または象徴界か、を議論してるわけ。
とはいえ、ニーチェスレだから、ラカンの話はラカンスレでやろう
523:考える名無しさん
06/07/06 13:20:23
>>522
そういう言い方だと象徴界も1人称になるのわかるかな。
想像界=小文字の他者
象徴界=大文字の他者
そういう独我論的にとらえちゃだめなの。
これは現象学と精神分析の差異に関わる
精神分析の本質に関わるから。
だから意固地にならないw
524:考える名無しさん
06/07/06 14:06:47
>>523
そっか、納得した
こういう言い方じゃダメかな
現実界=自他未分の世界
想像界=一人称、二人称の世界
象徴界=一人称、二人称、三人称の世界
525:474
06/07/06 14:07:49
>>518
もちろん無関係だとは言ってないが、このスレの目的はラカン的に語ることではない。
ラカンの用語定義論争などやっても仕方ない。
>>519
言語発生以降の話であっても人間の意識にとっては永遠と思える、という考えも成り立ちうる。
だけど519の説ではやはり永劫回帰は永遠でも永劫でもない事になりそうだな。
まあ、些細な問題かもしれないが。
>>522
議論となっているのは「二人称は想像界か現実界か」だと思うぞ。
494から始まってる議論だし。
>>523
むしろ現象学的に語るべきだと思うが。
526:473
06/07/06 14:20:04
522は513かな。
正直私は微妙だとも思わないんだよね。
はっきりイメージと二人称は別で、
後者はラカンの言葉で言えば「いわゆる」現実界に対応する。
―というのは私の考えが足りないかな?
上に上げた人達は大体そう考えているし、
デリダ以外は資料が手元にあるから言及もできる。
これは後者の人達が主客未分化の即自性と捉えられているものが、
実際には伝達者-受領者の関係の中でしか成立しない事を知っていたから。
これについては、既にニーチェを例に挙げて説明した。
この受領者に相当するのが二人称だね。
ただしこの中でニーチェとキルケゴールにあっては、
固有名も相当の地位を占めている。が、
それは彼らの名前ではないね。
>>520
鏡像が他者から受け取られた「イメージ」である事は誰も否定していない。
ただ、その時自己は他者の中に「私」を見ているのね。
それはその他者に対して「君」と呼び掛ける事とは違うだろうという話。
この二つをラカンが混同していたならやはり問題があるだろう。
ただ私ラカンについての知識はその点に関して不確かだから、
正確な知識を持っている人に確認がしたかった。が、
それはラカンに「ついての」知識を巡って争う為ではない。
どちらにせよ、二人称をイメージに対応させる考えは
ニーチェの立場からは批判の対象になるのは確かだ。
527:考える名無しさん
06/07/06 14:34:46
>ただ私ラカンについての知識はその点に関して不確かだから、
ゼロに等しいよ。
だいたい想像界がそれのみで成り立つように考えているところが笑える。
「現実界が二人称」は問題外。
素直にごめんなさいしなさい。
528:考える名無しさん
06/07/06 14:35:54
だいたいデリダって限りなくラカンなんだが(w
529:考える名無しさん
06/07/06 14:43:03
ラカンスレより
552 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2006/07/06(木) 01:17:07
人はいつも、想像界、象徴界、現実界にいます。
たとえば恋愛では、
想像界・・・相手への引かれる思い
象徴界・・・客観的に自分をみる
現実界・・・相手の考えていること(好きなふりとしているかも)は絶対にわからない
正確にはこのように分離できるものではないですが・・・
530:考える名無しさん
06/07/06 15:10:01
>>526
現実界の認識が誤ってる気がする
ラカンの理論での「現実界」は現実の世界のことではなくて、
幼児の原初的状態、いまだ自他未分の状態のことを指す
だから>>527が言うように「現実界が二人称」は問題外。
「現実の世界」はラカンの文脈では象徴界が対応する
もちろん、それぞれが独立してあるわけじゃないけどね
現実界、想像界、象徴界の3界に常に人は属している
531:考える名無しさん
06/07/06 15:16:57
>>526
>どちらにせよ、二人称をイメージに対応させる考えは
>ニーチェの立場からは批判の対象になるのは確かだ
ただし、あなたのお話では、二人称といっても、「私のアリアドネ」
とニーチェが呼ぶコージマが相手(受領者?)なわけですよね。
つまり、普通の他者ではないわけですね。普通の友人同士などでの
「オレとおまえ」ではなくて、愛がそこに介在しているわけですよね。
そうするとニ人称といっても、相手の中に自己を見出している相手、
という関係になってしまうんじゃないでしょうか。イメージというのは
そういうことです
532:473
06/07/06 16:16:31
>>518
もうニーチェとショーペンハウアーの
概念を使っているから、ラカンの語彙は必要ないね。
でも反応をしてくれた人がいるのでもう少し。
永遠についてはまた後で。読んでてかなり疲れた。
>>530
518の私の発言を見て欲しい。私も現実界を主客未分化の状態の意味で
使っている。でもそれは対他的な関係の中ではじめて見いだされる
ものだろう、という事。この「他」は大文字の他者でも小文字の他者でもない。
ショーペンハウアーの意志をニーチェが権力への意志に造り替えた理由
の一つはそこ。で、現実界が意志界に相当する(違うの?)としたら
ラカンがどうであろうと、ショーペンハウアーに対するニーチェ
みたいな人がでて「それ」を二人称と結ぶだろうな、と思っていたら、
ジュパンチッチがよりにもよってニーチェ論の中でそんな事をいっていたから、
あ~あ、やっぱりね、と思ったの。
>>531
いや、それが違う。501の発言を見て欲しい。二人称はそのままでは
誰にも結びつかない愛で、これは普通の愛ではない神的愛なのね。
特定の誰かとは、一旦切り離して考えて欲しい。
で、にも関わらずそれが特定の誰かに向けられているから
少し話がややこしくなるんだ。でもこれは彼らの間にツァラ
トゥストラが幼子として挟まっている事を考えれば理解できる。
「幼児」はニーチェにあっては主客未分化の状態である事より
それが夫婦の間に生まれる点が重要になる。
533:考える名無しさん
06/07/06 17:07:30
永井均の「これがニーチェだ」は全然勘違いのニーチェ論。
まだ三島の「ニーチェ」のほうが勉強になる。
534:考える名無しさん
06/07/06 17:07:56
しぶといな。一言ラカンについて一切しりません。それで良いんだよ。
535:考える名無しさん
06/07/06 17:11:34
>私も現実界を主客未分化の状態の意味で
>使っている。でもそれは対他的な関係の中ではじめて見いだされる
>ものだろう、という事。この「他」は大文字の他者でも小文字の他者でもない。
未分化でなんで対他的関係が発生するのか????
536:考える名無しさん
06/07/06 18:11:40
>>532
ニーチェのコージマへの関係がいわゆる愛の関係ではなくて、
「神的愛」を手紙によってコージマに伝える関係だということは
分かった。これってキルケゴールとレギーネの関係そのままだね。
で、特定の誰にも結びつかないニ人称の意義、それを巡る考察を
展開した系譜の思想家の考察を教えて頂きたい
>でもこれは彼らの間にツァラ トゥストラが幼子として挟まっている
>事を考えれば理解できる
>「幼児」はニーチェにあっては主客未分化の状態である事より
>それが夫婦の間に生まれる点が重要になる
ここら辺が今ひとつよく分からない…
537:473
06/07/06 21:30:28
>>536
そう。だからやはりニーチェと対比的に考察されるべきは
マルクス、フロイトではなくキルケゴールだね。
彼ら程深く人間を愛していた男性を、私は他に知らないね。
例えば、彼の遺稿集の第五巻を開いて欲しい。
すると直ぐにこんな言葉に出会う事になる。
「親愛なる者よ!この献呈を受け取って貰いたい。
これはいわば闇雲に、しかしそれだからこそどんな顧慮にも乱される事なく、
正直に献じられている。あなたが誰であるか、私は知らない。
あなたがどこにいるか、私は知らない。あなたの名がどういう名か、
私は知らない。けれども、あなたは私の希望、私の喜び、私の誇り、
知られざるものながら私の名誉なのだ!」
彼がいかに特定の名前に結びつかない二人称の機能を
いかんなく発揮しているかこれだけでも解ると思う。
二人称のこうした使い方をした思想家については
私は上に上げた人達しか差し当たり思い浮かばないが、
他に思い当たったら教えて欲しい。
まあ、でも普通に考えたら著者が読者の名前なんか知らないのは
当たり前なんで、そうした条件を受け入れているだけだと言えるけど。
でも、それを受け入れられない人は多いんじゃないかな。
>>535>>536
それはもう説明している。主客未分化の状態である「幼児」は
互いを能動的に愛し合う夫婦の間に生まれる。
夫婦の関係は伝達者-受領者であって、これは主客の関係ではない。
この二つは違うんだっていうことを、レヴィナスなんかは
ずっと言い続けてきた。
538:考える名無しさん
06/07/06 22:45:58
>>537
糞もミソも一緒ってやつだね。
ニーチェはニーチェ、フロイトはフロイト、キルケはキルケ、
レヴィナスはレヴィナス
なにを基準に何を比較しているのか。分裂病?
539:考える名無しさん
06/07/06 23:39:27
分裂病の話なんか今まで一言も出てこないんだけど…?
ニーチェとキルケゴールが結びつく基準は
今まで散々話題になってきた事だよね?
あなたがレスした537でも挙げられているし。
それに糞も味噌も一緒っていうのは
美醜、優劣を区別をしない態度を言うんでしょ。
それだとあなたが挙げた思想家達に
明確な優劣の差異があるにもかかわらず、
それが区別がされずにまぜこぜにされている、
という意味の批判にしかならないんだけど…
今までだってそうだけど、
よく読みもしないで、
よくも解らない言葉を使うのはやめてよ。
540:考える名無しさん
06/07/06 23:45:35
>>537
なんかの文学小説と勘違いしてるんじゃなかろうか。
哲学に二人称持ち出されても、あんましリアリティー感じないなぁ。
541:考える名無しさん
06/07/07 00:09:46
>>539
糞もミソは美醜も優劣も関係ない。
一見似ているが関係がないものをごちゃまぜに語ること。
よく理解もしないで、
風呂敷広げのはやめてよ。
542:474
06/07/07 00:30:17
>>541
gooで調べた限りでは539の方が正しい。
まあ慣用的に541の主張も有りなのかもしれないが。
543:考える名無しさん
06/07/07 00:36:24
ニーチェの思想を突き詰めていくと、狂った後にこそ何かがあるように感じている。
狂う前の思想だけだと全てを語れないのではないか。もちろん狂った後の
ことは考えようがないわけだが。
544:考える名無しさん
06/07/07 00:54:52
>>541
別にニーチェとキルケゴールの思想を対比するのなんて
珍しいことではないだろう。永劫回帰と反復を対比させる
こととか。それが生産的なことかどうかは分からないけど、
「一緒にしてる」のではなく「対比させてみる」のは自由
だし、ごちゃまぜに語ることではないよ。
545:考える名無しさん
06/07/07 00:57:55
>>543
それはロマンチックな読解であって、狂気に何らかの意味を
認めてしまうことだよ。ニーチェは単に梅毒で死んだのだし、
トリノの発狂後の手紙も、狂気と結びつけずにどう解釈するかを
考えていくべきだと思う。
546:考える名無しさん
06/07/07 01:15:55
ニーチェは超人に生成したんじゃないかな。
547:473
06/07/07 01:29:55
無意味だとしか思えない一行レスって
無視した方がいいのかな?
見るだけですごく疲れる。
>>474
これは君だけじゃないけど、
質問をしたりレスを返してくれる人には
本当に感謝している。まだ何か答えていないことあったっけ?
>>543>>545>>546
その手紙の解釈から今までの議論は始まっている。
私はずっと473で通しているから、流れを確認して欲しい。
548:474
06/07/07 02:11:46
だんだん473のニーチェ解釈が分かってきた。
が、むしろその解釈を採用した場合ニーチェの不誠実さというか、
女性差別的な思考に反感を覚える。
フェミ女なんぞ糞っくらえだが、それではまるで超人を産むためのものであるかのようじゃないか。
夫婦間には能動的に愛し合うという状態を考え得ない。
ツァラトゥストラと老婆の会話であったと思う(うろ覚え)が、女とは一切が謎である云々と、
愛する対象への想像力を放棄しているからだ。その謎のヒントが子供を産むこと。
そしてその子供こそが重要なのだとしたら、
(性としての女ではなく)女性として生まれ落ちた人間はどう価値づけられるのか?
549:考える名無しさん
06/07/07 09:22:42
糞ミソくんはうまくごまかしたな。
はじめから、どこにでもあるニーチェとキルケの比較の話と
言えば良いものをラカンとか、レヴィナスとか
知りもしないのに糞ミソするから叩かれる。
550:考える名無しさん
06/07/07 09:30:23
ニーチェがヒトラーを見たらなんと言ったかな。
彼こそ超人といったかな。
反ユダヤ主義のカスといったかな。
551:考える名無しさん
06/07/07 09:56:09
どの思想家も
過去の分析、批判→それをもとに現状改革案
という流れになるが、天才的な分析を見せても改革は必ず失敗する。
ニーチェ、マルクス、ハイデガー、デリダ・・・しかり
だから、ぶっちゃければニーチェの超人はドキュソ。
552:474
06/07/07 10:18:29
>>550
さすがにヒトラーのやり口が何の解決にもならないことは見抜いただろうと思う。
第二次大戦期、ソ連がまだ期待されていた時代に、
フランスの共産主義系の思想家達はソ連批判やってたわけ。
その対比で見ればヒトラーをたたえたりはしないと思う。
>>551
じゃあ、ドキュソである可能性も視野に入れて、前向きに議論しよう。
553:考える名無しさん
06/07/07 12:24:41
ニーチェは別に改革を目指してはなかっただろ。つうか改革って言い回しはやめてくれ。
ニーチェのスタンスはもっと乾いてた。
今のところ、凡庸化がいきつくところまでいく、って方向に流れてるね。
554:473
06/07/07 15:22:00
>>550
フランス人は固有名固有名とばかり言っていたから、
それでは片手落ちで二人称の方が大事だ、という事を言って
色々裏付けを出してきたわけね。
ニーチェとキルケゴールをこの点において繋げた研究ってあったっけ?
レーヴィットは彼らが万人に向けて書いた事に軽く触れてるけど
踏み込んだ理解はしてないし……。
でも、あるにしても、キルケゴールが自分の本名で出した宗教的著作だって
トムティーやディートンがわざわざ注意しなければならない位読まれていないし、
専門家の世界でならともかく、一般の人にはあまり知られていないよね?
日本ではさらに状況は貧しいんだから、それを考えれば
既に言われているしても繰り返し主張されるべきじゃない?
レヴィナスは女性的なものを二人称親称と結びつけて
「顔の奥に恥じらいつつ隠れるもの」と『全体性と無限』
の中で確か言ってなかったっけ――?私の記憶違いかな?
因みにいえばヒトラーは俳優の一言で終わる、ッてことは
ニーチェを読めば誰でも解るよね?凡庸化ってなあに?
多分末人化の事なんだろうけど、ニーチェが主に
問題にしたのはそっちじゃなくて、高人―ましな人達の方だよね?
ドゥルーズは一応指摘したけど。これもあんまり言われてないね。
ラカンにしろレヴィナスにしろ私が解っていなくて、
あなたが解っているなら、人が解っていない事を指摘するだけではなくて、
正しい理解のための裏付けを提示してくれれば、それで済んだ話だよね?
でも、それをするのは私の役目ではないではないでしょ。
キルケゴールが言っているように、相対的劣位の人間が人を見下した態度をとって
相対的優位に立ったような気になるのはあさましい事だから誰にだって許されない事だよ。
そういう事さえしなければ、誰だって生産的になれるはずなんだけど。
555:473
06/07/07 15:53:36
>>548
その後、その謎はただ一つの答えで説ける。それは懐妊である、
と続くよね。ニーチェはアンチ・フェミニスト。
これはキルケゴールもそうだけど。
神的夫婦に関しては能動的関係は成立する、
というのがドゥルーズの考え。
この夫婦は互いの固有名を
知らずに純粋な二人称存在として互いを愛し合った後、
はじめて互いの名を明かし会うような関係なんじゃない?
盲目の人間が互いの指先に触れてはじめて目がひらけるような。
ニーチェはその為に自分の人格まで崩壊させているんだから、
女性を利用したとはいえない。最後の手紙は
こんな事だと私は考えているの。
「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
ならない」
外から見ているからややこしくなるし、
ちょっと齟齬が生じるところがなくはないんだけど。
556:考える名無しさん
06/07/07 15:55:21
>ラカンにしろレヴィナスにしろ私が解っていなくて、
>あなたが解っているなら、人が解っていない事を指摘するだけではなくて、
>正しい理解のための裏付けを提示してくれれば、それで済んだ話だよね?
>でも、それをするのは私の役目ではないではないでしょ。
逆ギレか。みんながその理解はおかしいよとやさしくいってるうちに
認めないから叩かれる。意固地になるヤツは叩かれるってごく2ちゃんねる的でしょ。
「二人称の方が大事だ」という意味はよくわからないが、
一つ言えば、現象学は他者がいないし、
フロイト、ラカンは精神分析なので他者はいるのだけど、
デカルトの構造をもつことは本人たちも認めている。
ヴィトも独我論を認めるように、デカルト依頼本質的に、
独我論的構造(認識論の呪縛)からのがれる容易なことではない。
「二人称の方が大事だ」はわかるが、どのように二人称であるのかが、
ないと、意味がないと思う。
557:考える名無しさん
06/07/07 16:03:05
>「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
>二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
>あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
>ならない」
なるほどね。確かにラカンの現実界的た。
ラカン的にいえば、「二人称性において愛することは不可能である故に
現実界にある」ということだね。
自然主義だね。生物学的引き合う雄雌。
ラカン曰く「性関係は存在しない」=人間は生物学的雄雌を失った存在だ。
たしかにニーチェ、ドゥルーズは「二人称性において愛することは可能だ」
というのかな・・・
558:473
06/07/07 16:11:43
私が言っているのは、「その」独我論をうち破るのが二人称親称のDuであって、
私が上にあげた人達はその可能性にかけた、って事。
レヴィナスは固有名を宗教的絶対他者に祭り上げた上で
その奥に二人称的他者もいる、っていう考えだから微妙だけど。
我っていうのは私よね?二人称「汝」っていうのは他我じゃないって事。
彼らはいわば他者のエスに届く人称として二人称を捉えているの。
他者の自我(他我)ではないのね。
そしてもう一つのポイントはこのDuが特定の誰かではない、という事。
渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の自我に近いね。
エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう言葉があるでしょ?
いわば、最後の「私」は他者にとってのエスであるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?
559:考える名無しさん
06/07/07 16:27:45
キリスト教の汝は評判がよろしくない。汝を愛せの寛容は、汝という他者を作り出す排他でもあるといわれる。
むしろその前の自然神の方が自他分離があいまいだった。自然神の祭りの享楽など。ニーチェのディオニソス的?
分裂病はドゥルーズの得意だけど、ラカンも父の名の排除として現実界においてるが
分裂病を倫理的に積極的に評価する気になれないな。
560:考える名無しさん
06/07/07 16:38:08
あとデリダはウィの思想とかで、たえず不可能な他者に開き(脱構築)続けるというが
これも他者は現実界にあるというラカンのパクリだね。
結局、ニーチェのおもしろいのはディオニソス的につきるとおもう。
他者への開かれをキリスト教的寛容でなく身体性においたこと。
これはラカンでは社会(規律)に禁止される現実界への享楽。
最近ではシステム論でも共に行為をするときに言語をこえて他者に開かれるというのがある。
561:考える名無しさん
06/07/07 17:38:07
「エスであるドゥ(他者)の位置」というのは、ラカンの現実界であり不可能であるとともに、
享楽の位置なんだよね。享楽とは内部倫理からの抑圧を越えて他者と分かりあおうとする
こと。近親相姦。
自然神の祭りがトランス状態に入り、生け贄を殺すのは、享楽するからだね。
内部→人間(=言語=この私(単独性))、
外部→ニーチェのディオニソス的、ドゥルースの分裂病(器官なき身体)、
集団的沸騰=祭りの位置。
動物の群であり、弱肉強食の位置。
倫理が溶解し、簡単に命が奪えあえる位置。
これが、レヴィナスや、デリダのように他者に開くという倫理的な位置として
いかように見いだすか。難しいね。
たとえば、他者に開くとは、他者を内部に包み込む、引き込むという
暴力になる可能性も高い。
562:553
06/07/07 17:41:41
>>554
ちょっと待ってくれ。
んなことはわかってる。
確かに俺の書き方がわかりにくいが、
「世の中はニーチェの意に反して、凡庸化への道を歩んでいる」ということだ。
自然にニーチェが願っていた方向に世界が動くとは思えないし、そういう未来予測もあったと思うが。
「凡庸化」という表現も適切と考える。
それはすなわち同一化。同じ価値観を持つがゆえに、そこには安寧がある。
だが誰も愛することはできない。とかそんな感じの断想なかったっけ?
ドイツ語わかんないからどうとも言えないが、この場合対置する表現を使う必要は無いと思うんだが。
あとここはニーチェスレなんだから、他の誰かを引っ張ってきてニーチェを語るのもほどほどにした方がいいんじゃなかろうか。
563:考える名無しさん
06/07/07 17:56:43
>>562
>あとここはニーチェスレなんだから、他の誰かを引っ張ってきてニーチェを語るのもほどほど
>にした方がいいんじゃなかろうか
気持ちは分かるが、特にニーチェのような思想家の場合、彼のテクストのみを単独に読解しても
多義的な解釈を巡って終始してしまう感があるし、他の思想家と対比させることによって逆に
ニーチェを照明させてみる作業もよしとしようよ
564:473
06/07/07 18:25:48
ざっと見てレスつけるけど―。
単独者は「この私」ではないよ。
それならシュティルナーで済むんで、
それは違うんだ、って話をブーバーはしてたのね。
柄谷行人の影響なんだろうけど、
彼の読み全然間違ってるからね。
凡庸というのも蓮実重彦の影響かしら?
まあどっちでもいいけど。
今まで言ってきたように、
自己の内部に還元されない解消不可能な対他性が二人称なの。
で、これが享楽だとしても規律からの逸脱ではないってのが面白い。
これはあんまり話題にしていなかったけど。
というのは、その関係は超人の父であるツァラトゥストラによって
媒介されているから。社会的な父ではないけど、父はいるわけね。
この関係は近親相姦ではないよ。アリアドネとディオニュソスは
互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になるわけ。
だから他者同士を繋ぐものなんだね。
世の中が凡庸になるのは
それに耐えられない人達が出てくることも含めて、
ニーチェの意図に反した事じゃない。
両方とも超人じゃないのね。
結局世の中がどうとかいうより、
自分が彼をどう受け止めるかなんじゃない?
キリスト教と一緒で。
『ツァラトゥストラ』はそれだけで読めるようにわざわざニーチェは
造っているんだけど、でもそれはキルケゴールとやっぱり同じなんだよね。
565:考える名無しさん
06/07/07 19:06:55
超人って地球の意思であって、
星がめぐり、太陽が光を与える意義を体現した生物のことで
人間から生まれるんだよね。進化論的突然変異で。
と俺は思う。
566:考える名無しさん
06/07/07 19:12:43
>>564
ほんと負けず嫌いだな。私生活でもうざがられるでしょ(w
近親相姦は一例でしかないよ。実は享楽は「人間」であることの条件なんだよな。
なぜコミュニケーションが行われるかは他者が決してわかり得ないから
なんです。ネットでもそうでしょ。わかりそうでわからないときが、
おもしろいでしょ。
ディオニソス的ってネットでいえば「祭り」だよね。
分かり合えないけど、群衆的な興奮の中で、分かり合えたように感じる。
もう一つ特徴が「生け贄」がいること。
たとえば嫌韓祭りは、韓国人を外部に排除して、「生け贄」にして繋がろうとする。
他者と分かり合えるためには、他者を排除する。
だから倫理的な二人称を考えるなら、いかようにか?ということ。
「互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になる」だけでは、
いかんとも・・・
567:473
06/07/07 19:59:21
>>566
あなたは561なの?同じ人のようには思えないんだけど―。
近親相姦の例を出したのは561で、
私はニーチェにあってはそうならないのが面白いが、
その点は今まであまり扱わなかったから
いい機会を提供してくれたと思って
それについて述べたので、買ったも負けたもないよね……?
でもそろそろハンドルネームとは言わないけど、
番号は明記して欲しいよ。私と474位だから、誰だか解るの。
負けず嫌いとかいうんならなおさら。
そもそもちゃんと読んでくれてる人もいるのかな、
ってのも不安に思うし。
二人称が倫理的(この言葉を私は全然使っていないから、
どういう意味か解らないけど、意図をくみ取って言えば)
になる理由はそれがツァラトゥストラという父の名に
よって媒介されているから、って述べているので、
無人島で出会う「だけ」じゃないよね?
それと生け贄の問題だけど、ドゥルーズが言っているように
ディオニュソスの生け贄は生け贄が誰だか解らなくなる「八つ裂き」であって、
ユダヤ人とか、韓国人とか特定の誰かを排斥して同質性を確保する事ではないのね。
「反ユダヤ主義の弱虫共が私によこす手紙を読むと堪忍袋の緒が切れそうになる」
って言葉がニーチェにあるよね?
でも、そんな事をする人間はニーチェとかいう以前に最低のクズだよ。
568:考える名無しさん
06/07/07 20:50:14
>でも、そんな事をする人間はニーチェとかいう以前に最低のクズだよ。
享楽を本質をわかっていない。
生け贄はユダヤ人でも、韓国人でも、本質的になにものでもよい。
そこに「八つ裂き」可能な誰かであれば良い。
結局、ラカンの有効性はこの点にあるんだね。
「生け贄」を求めることが人間の条件であるということ。
あなたも最低のクズであることから始めなさい、ということですね。
だんだんなんの話がわからなくなってき・・・
569:473
06/07/07 21:41:37
>>568
ねえ、あなたの間違いを訂正したのは「ディオニュソス的」という
ニーチェの言葉についてであって、ラカンの「享楽」についてではないよね?
それを何で「享楽」に言い換えるの?そういう事するから話が分からなくなるんじゃない?
いちいちこういう点を訂正しなきゃならないんだったら、議論なんて成立しないんだけど。
「享楽」についてはどうかしらないけど、あなたの「ディオニュソス的」についての理解は間違っているの。
ちゃんと言おうと思えば言えるけど、それはニーチェからの手紙の引用見ても解るでしょ。
と、いうか、普通に考えればそれ以前の問題なんで、そんな事の為に
引き合いに出されたらニーチェだってホントいい迷惑だよ。
570:考える名無しさん
06/07/07 22:00:27
気持ち悪いしゃべりかただな。
論点のみでよし。それでなくても分裂病的なんだから。
「ディオニュソス的」と「享楽」は違いだろうってことだよ。
571:473
06/07/07 23:10:18
>気持ち悪いしゃべりかただな。論点のみでよし。
不必要な言い換えの為に論が進みそうになると進まない事の
繰り返しだったから、これ以降おこらないようにとね。
>それでなくても分裂病的なんだから。
一人だけハンドルネーム(とは言えないかもしれないけど)
で、あとみんな匿名で誰が誰だかわからない状態で発言を重ねていると、
個人の資質の問題じゃなくてそうなるよ。不慣れなせいもあるけど。
ニーチェはそれのもっと非道い状態におかれる事を自分で選んだ、
って考えればそんなに間違っていない。
分裂病か否かっていうのは半分は本人の問題だとしても、
もう半分はそれに関わる人の問題だと思うよ。
少なくともニーチェに関しては。
だからノマド(遊牧)とかいうのは比喩としてはおかしい。
彼には期待していたパートナーがいたからね。
>>557
遅くなったけど、ドゥルーズはかなり正確にニーチェを理解していた、
にもかかわらず二人称の話は『ニーチェと哲学』の中には一切出てこない。
ドゥルーズを批判するとしたらその点だろうね。他の点での批判は難しいと思う。
>>548
それとアリアドネはただの女性じゃなくて夫に捨てられた女性であるという点も重要。
二人称への愛によって、固有名(テセウス)への愛を忘却させようとしたんだと思う。
572:考える名無しさん
06/07/07 23:13:03
もっともらしく熱く語る奴や張り切って哲学勉強する奴は
たいてい哲学が苦手。
573:考える名無しさん
06/07/07 23:14:59
わかったから「二人称」を観念的、形而上学的に語るのは止めて
論理的に語ってくれ。
574:473
06/07/07 23:20:20
もうかなり語ってるんだけど、どこが不満かね。
575:考える名無しさん
06/07/07 23:24:29
「悲劇の誕生」のディオニソス的で集合的生の力が、その後利己的な力への意志、超人という
エセ進化論的に湾曲されていくのがつまらない。
ドゥルーズも「器官なき身体」で当初個体的なイメージで生をとらえていたが、
その後ノマド、リゾームと集合的イメージへ向かう。
576:考える名無しさん
06/07/07 23:28:16
>>574
「二人称への愛」とはロマン主義だな。
ニーチェの小説としての感想だな。
哲学的な論理性がないよ。
577:473
06/07/07 23:37:39
>>576
じゃ、その批判はニーチェにして下さい。
キルケゴールにも同じ事言って下さい。
578:考える名無しさん
06/07/07 23:45:16
ごめん
この意味をニーチェ的に解釈してください
579:考える名無しさん
06/07/08 00:03:13
>>577
そこからいかに読みとるかが哲学だろう。
580:473
06/07/08 00:12:26
>>575
レス読んで下さい。
力への意志って翻訳は間違っています。
「権力(への)意志」であって、これは利己的では必ずしもないの。
「あなた(への)愛」って事だと考えて欲しい。
>>578
これじゃ駄目?
581:考える名無しさん
06/07/08 00:20:20
>>580
「そうだからそうなの。」って。
なんですぐに閉じちゃのかね。
「二人称」の欠けらもないw
582:473
06/07/08 00:26:41
>>「二人称」の欠けらもないw
「あなた(への)愛」の最初の「あなた」って
二人称だと思うのは私の気のせいかな―。
君の言語解釈はなかなか面白い。と、いうのは半ば冗談だけど、
多分したい批判や質問は他にあるんだろうけど、
私にはそういう言い方じゃ解らないんだ。
583:考える名無しさん
06/07/08 00:48:37
・・・なにをいっているんだ???
584:考える名無しさん
06/07/08 00:56:54
「二人称」は不可能である。これは独我論的に解釈できる。
ここまではふつーの認識論だよな。
「二人称」の可能性は、いままで言及されたニーチェの小説としての
感想以上の、哲学的に議論できるようなものがあるのか。
ってことだよ。
585:473
06/07/08 01:30:51
『ツァラトゥストラ』は叙事詩だよ。
小説で二人称は読者に届く人称としては普通機能しない。
ビュヒナーみたいなことをやるとだから実験といわれる。
ニーチェはだから小説をあまり評価しなかった。
君がいいたいのは詩だろう。それに牧師の説教とか。
>「二人称」は不可能である。これは独我論的に解釈できる。
ここまではふつーの認識論だよな。
認識論だとしたら既に哲学の一分野であって、「感想」ではないだろう。
それでもまだ君が納得できないなら、他に問題があるわけだ。
こんな言葉使いじゃ、何がいいたいのか解らなくても私の責任ではないよ。
投稿しながら明らかになった事もあるし、レスを返してくれるのはありがたいが、
言葉をしっかり選んで欲しい。
それでも納得できていないという事は解ったから、
手探りで答えるが―
二人称は存在論につながる。ニーチェとキルケゴールの存在解釈は、
「SはVである」ではなく「Sがある」でもなく「君がいる」が基本になる。
それと同じ事かもしれないが、時間論もこの点から新たに解釈しなおされる。
というような事では君の要求を満たせないかな?
586:474
06/07/08 01:34:04
>>571
ノマドはニーチェ論でのみ出てくる用語じゃないと思うが。
また、ノマドは漂泊者ではなく、移動生活者な訳で、
ドゥルーズ本人も「遊牧民は旅などしない」と言ってる。
パートナーがいたから遊牧民じゃないというのは通らない。
ジルにはファニーが居たわけで。
>>584
>感想以上の、哲学的に議論できるようなものがあるのか。
議論できる可能性があり得るし、それをしていないのがこのスレの流れだろう。
独我論者であっても他者の存在は信じざるをえない。(確認不可能であっても)
だから二人称がなされるのは不可能ではない。(認識論を括弧でくくれば、の話)
こういう前提に立って二人称の効用を語ることは出来る。
それがニーチェを語る上で重要かは分からんが、重要だと主張する論者がいる以上、
それについて語るのを面倒くさがるのはよくない。
俺は語った結果、否定的な結果に終わると思うが、やる価値はあると思う。
587:473
06/07/08 01:53:25
>>586
ノマドとは特定の居場所を持たない人の事であって
パートナーを求めない人のことではない、って事だね。なるほど。
ニーチェについてはあんまり上手だと思えないんだよね。
っていうか、ニーチェは結婚(マリッジ)の人だ、とでもいった方が
エンゲージ(契約)の人達との対比ではエレガントなんじゃない?
君の指摘はありがたいけど、「否定的な結果に終わると思う」なら、
その根拠を示して貰いたいね。私が既にいくつ例を挙げたと思っているんだい?
今まで「不可能なもの」とは何かはよく議論されてきたけど、それは固有名だったり、
主客未分化状態のものだったりとやっぱり二人称でしょ、って事ね。
これは既に不可能なものを巡る考察の進展だよね?
588:考える名無しさん
06/07/08 01:56:09
君は眠らないんですか?
体が心配です。
589:考える名無しさん
06/07/08 02:00:20
>>585
ご託多いな。
でもご託多いときは、答えられないときというのが
わかってきたよw
>二人称は存在論につながる。ニーチェとキルケゴールの存在解釈は、
>「君がいる」が基本になる。
他者の不可能性は、哲学の基本問題の一つでしょ。
これではいかんともしがたいね。
いろいろな試みがあるよね。
ある哲学者は、たしか愛の不可能性への近接は、射精のあとのつかの間に
あるって言ってたな。
先にあげたように自然主義的な解釈もあるし。
590:473
06/07/08 03:22:40
>ご託多いな。
でもご託多いときは、答えられないときというのが
わかってきたよw
答えられないって最初から言っている。
と、いうのは、発言が内部で矛盾していて意味をなしていないから。
それを明確にして欲しいって言っているんだよ。
591:553
06/07/08 10:40:11
>>563
その気持ちも分からなくはないが、他の人間を持ち出すのに重要な意味がない気がするんだが。
こういう所で議論するかぎり仕方ないんだが、「記号による省略化」の色がもっと深くなる気がして。
誰か特定の相手がそれを知っているとして、理解の助けとして使うにしても、度を越すのはよくないんじゃないか。
ここがニーチェスレであるかぎり、「ニーチェの全てを知っていること」を前提とするならともかく、それ以上は求められないでしょう。
知らない人には文章の全てが意味不明になるわけだし。
文章の目的を変えずに、一般的な言葉で自分自身の論理展開をされた方が有意義と思うのだが。
>>564
「高人」云々を持ち出したのはあなたです。私ではありません。
「超人」がニーチェの主要な問題であるにしても、ニーチェを語る時、全てが「超人」に向かう必要があるとは思いません。
ニーチェという思想家がそれほど浅はかであるとは思いません。
あなたはある種の独断論者であり、あなたがニーチェの繊細さを理解しているとも思えません。
あなたは何らかの反論を用意するでしょうが、私はあなたと話したくありません。
592:473
06/07/08 14:58:35
>>553
誰が誰だか解らない状態では議論は難しいので、まだ論と言える状態ではないと感じています。
ですが、これは私だけではどうにもなりません。
ニーチェについての議論から外れて、その言葉の定義に足を取られて無駄な時間が費やされる、
という事にならなければ他の言葉を使うのも良いのですが。
高人=ましな人達は、凡庸化に耐えられない知識人達だと考えて下さい。
ツァラトゥストラ第四部は全てがこの問題にあてられています。
それに対して末人=凡庸は第一部の一つの章で語られるだけです。
ですから、これだけでも、ニーチェがどちらを重視したか解るでしょう。
どちらも超人ではありませんが、超人産出の条件とニーチェは考えています。
ニーチェの全てを知っているわけではありませんが、この点は明確です。
キルケゴールを参照するのは無駄とは思えません。ニーチェを読んで超人になるか否かは、
キルケゴールを読んでキリスト教徒になるかどうかという問題とよく似ているのですから。
それが必要であるか否かは各自の問題であって、まわりは問題とならないのだ、という事です。
度を超してはいませんね?
593:考える名無しさん
06/07/08 16:14:01
>>591
>知らない人には文章の全てが意味不明になるわけだし。
>文章の目的を変えずに、一般的な言葉で自分自身の論理展開をされた
>方が有意義と思うのだが。
言いたいことはよく分かるし、半分は同感もするんだけど、今まで
「私にとってのニーチェ」というか、ニーチェのテクストは多様な
解釈を許してしまうから、それぞれの読解を述べてあれこれ言い合って
も、最終的にどうとでもとれてしまう、という風にしかならない気がする。
もちろん、そうしたやり方が無益なことだとは思わないけれども、
堂々巡りに終始する気がしてしまうんだよね。
だから、他の思想家の思想、例えばキルケゴールはかなり親近性があると
思うけど、そうした対比を通じてニーチェを逆照射してみる試みが
あってもいいと思うよ。知らない人は「もっと詳しく」とレスすれば
いいんだし。両方あっていいと思う。
594:考える名無しさん
06/07/08 16:54:26
>>555
>「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
>二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
>あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
>ならない」
ニーチェ晩年の手紙(これがそもそも議論の始まりだった)
に書かれている「私はかつてキリストであり…ワーグナーであり…」云々という
のは、普通、「固有名の回帰」という風に解釈されて、「一回性の回帰」と
いう風に読まれてきた(ドゥルーズもそういうニュアンスがある)と思うけど、
あなたの解釈だと「固有名の解体」となるわけですね。
595:594
06/07/08 17:00:29
固有名の解体というのは「一人称の解体」とは違いますよね
一人称に複数の固有名を負わせる、っていうことになりますね。
私はキリストであり、ワーグナーであり…と。順序としては
まず私という一人称に複数の固有名が負わされて、次に「あなた」
というニ人称に固有名の解体を迫る、ということでしょうか?
>今度はあなたの方が私にそれをする番だ
このニ人称は超越的なものとして表象してはダメですね。レヴィナスは
超越的な汝という感じがします。西田幾多郎も「私と汝」における「汝」
は「無の場所」なので、超越性として表象してますね。こうした思想とは
ニーチェのニ人称は違うということですね。
596:考える名無しさん
06/07/08 17:08:57
>ニーチェのニ人称は違うということですね。
だからなにが違うのかってことでしょう。
僕は聞いてると、ニーチェ萌えさんたちは、
単に現在では、一般化しているデリダであり、ラカンの「不可能性の他者」の
思想をしらないだけではないかと。
597:考える名無しさん
06/07/08 17:14:23
>>558
>渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
>身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の
>自我に近いね。エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう
>言葉があるでしょ?いわば、最後の「私」は他者にとってのエスで
>あるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?
自分も昔はニーチェ晩年の手紙を分裂病と結びつけて考えてたけど、
最近、こういう結びつけは少し安直なような気がしてきてる。
渡辺某の著作は読んでないけど、統合失調症の症状には「させられ体験」
とか「思考伝播、思考奪取」という自他の境界が崩れる症状が確かに
あるけど、ニーチェに関しては、やはり病気を持ってこずに、どうにかして
これを哲学的言説として、論理的に考えたい気持ちが強い。難しいけど。
598:考える名無しさん
06/07/08 17:18:48
>>596
>ラカンの「不可能性の他者」の思想をしらないだけではないかと
ラカン使っちゃうと、何でも説明できちゃうところがあって、
ラカン派精神分析の言説は敬遠したところで、ニーチェを考えたい
599:考える名無しさん
06/07/08 17:18:54
では脳梅の痴呆症状と考えよう。
600:473
06/07/08 18:27:04
>ラカンの「不可能性の他者」の思想を知らないんじゃないかと。
何千億回言い返せばいいのかね。知らない知らないっていうなら、
自分が知っている知識を提示すればそれで済む。それに多分君よりは知っているよ。
だが、私が問題にしたわけじゃないから言う必要はない。
>単に現在では、一般化しているデリダであり、
デリダはレヴィナスと同じで固有名についての考察からはじめて、
「アデュー、エマニュエル・レヴィナスへ」や「火、ここに無き灰」の
ような二人称の考察はその後だろう。これでは話がややこしいし、
ニーチェとキルケゴールを考察する際は、これは順番が逆だ。
私もまだ解らないところがあるが、精一杯やってるつもりだ。
そういう誠意が君にはまるで感じられない。投稿しながら明らかになっていくこともあって、
レスを返してくれた人には本当に感謝しているんだが。
>>597
論理学と哲学は直結しない。論理学には「時間」がないから。
特にニーチェの場合はこの点が重要になるので、
論理的に語れるかどうかは私には何とも言えないね。
ラカンのいうように、悲劇だって、真理が届く時間の差異で成立してるわけだ。
ニーチェを分裂病に結びつけても分裂病とは何かがよくわからなかったら袋小路だよな。
ニーチェは人を愛した後、愛の受け手が愛の贈り手になる事を要求している。
もしニーチェが分裂病的だとしたら、その分裂病的状態は、分析家に転移を起こさないのではなくて、
むしろ分析家が自分を愛することを要求している状態だろうね。
(これは共依存とか境界例とかの関係とは少し違う)
601:473
06/07/08 18:28:50
>>594
まずフリードリッヒ・ニーチェ氏がいて、
氏がコージマ女史を愛せばそれでいいんだが、
どの名にも結びつかない二人称的な愛を彼女に捧げた。
そしてその後ニーチェ氏に宿っていた「私」はニーチェ氏の名を捨てた。
ニーチェ氏も「私=ディオニュソス」のつけた仮面に過ぎなかったわけだ。
今までこの神は無数の名前の奥に潜んできたけど、これからもそうなるだろう、という事。
無数の名は、背負わされたのではなくて、新たに一つ捨てられた事になるね。
レヴィナスは上にあげた理由でまずい。
西田は「我-汝」が一つになるような考え方をしているから駄目だね。
「我」との間に解消不可能な「二者性」を成立させるのが汝だから。
602:考える名無しさん
06/07/08 18:41:46
>>598
>ラカン派精神分析の言説は敬遠したところで、ニーチェを考えたい
ラカンということでなく、「不可能な他者」は哲学の一つの臨界だから、
それを避けると意味がないと思うが・・・
603:考える名無しさん
06/07/08 18:47:09
>>600
おまえはホントおもしろ馬鹿だな。
>私もまだ解らないところがあるが、精一杯やってるつもりだ。
>そういう誠意が君にはまるで感じられない。投稿しながら明らかになっていくこともあって、
>レスを返してくれた人には本当に感謝しているんだが。
自己中心を当たり前に語れる病的がおもしろすぎる。
じゃあ、いうよ。後とか前とか、オマエの都合は良いから、
オマエが精一杯されると困るから、どっかよそでやってくれ。
604:考える名無しさん
06/07/08 18:58:41
>>600
>論理学と哲学は直結しない
いや、論理学に話を持っていきたいわけじゃなく、「論理的に」語り
たいだけ。別の言い方をすれば、病気というものに還元したくない、
ということ。
>むしろ分析家が自分を愛することを要求している状態だろうね。
フロイトは統合失調症患者をナルシシズム神経症と呼んでいて、これは
精神分析の臨界点なのね。分析家に転移してこないから、精神分析では
治療が成立しない。分析家に無関心、冷淡な患者として現われる。
605:考える名無しさん
06/07/08 19:00:22
>>602
>ラカンということでなく、「不可能な他者」は哲学の一つの臨界だから、
>それを避けると意味がないと思うが・・・
不可能な他者を避けたい、ということではないよ。ただラカン派精神分析の
言説でニーチェを解読したくはないな、っていうこと。
606:考える名無しさん
06/07/08 19:09:13
>>601
>そしてその後ニーチェ氏に宿っていた
>「私」はニーチェ氏の名を捨てた
キルケゴールにはこうした展開は起こってないね。キルケゴールは
婚約破棄という形で逆説的に、どこにも結びつかない「愛」を
レギーネに捧げた、という言い方が出来ると思うけど、キルケゴール
は別に固有名に固執してる、あるいはそれを巡る問題はあまり顕在化
しているようには見えない。そうすると、このニ人称の問題は、ニーチェ
とキルケゴールでは質的に違っているものなのかね。
607:考える名無しさん
06/07/08 19:12:31
>>601
ニ人称の問題とは離れるけど、ニーチェには「主観が一つであると考える
必要はない、主観が多数あると想定して差し支えない」という言葉が
あるよね。主観の同一性、唯一性を疑っている思考がある。これを
晩年の手紙の多数の固有名の回帰と結びつける考え方もあるんだけど、
その辺はどう考えてるの?
608:考える名無しさん
06/07/08 19:39:20
>不可能な他者を避けたい、ということではないよ。ただラカン派精神分析の
>言説でニーチェを解読したくはないな、っていうこと。
それでも良いんだけど、「不可能な他者」をいかに可能にするか
という論点が必要だと思う。
レヴィナスやデリダは開いていくことに求め、、
ポンティやドゥルーズでは身体性(器官なき身体)に求めた。
609:473
06/07/08 20:07:14
二つにわける―。
>>604
>分析家に転移してこないから、精神分析では
治療が成立しない。分析家に無関心、冷淡な患者として現われる
無関係、無関心というより、分析家が要求するのとは別の関係を
彼らは求めているんじゃない?それが分析家の言説では見えない。
「自我-超自我-エス」っていうけど、臨床の場面では
Ich-Duの関係に入るでしょう?この臨床の場面では成立している
「二人称性」を理論の組立の中で「超自我(他我)」にすり替えてしまうから
おかしな事になるんじゃない?病気の話はしてて面白いけど、
私だって確かな知識があるわけじゃないし、行きがかり上だって事を忘れないで欲しい。
>>606
>キルケゴールにはこうした展開は起こってないね。
>キルケゴール は別に固有名に固執してる
外から見ているからそう言えるのであって、
それはニーチェと変わらないよ。前にも引用したけど
著作活動の中では誰かの名前はレギーネも含めて全く問題になっていない。
だが、彼はレギーネの名前を歴史に残そうとしている。これもやはりニーチェと同じだね。
でも、こういう事を彼らがする意義が、私にはよく解らないんだな―。
610:473
06/07/08 20:21:17
606へのレスに補足だけど、
レギーネがもしクリスチャンとしてキルケゴールを愛することになったら
それは別にキルケゴール氏である必要はないわけね。
『愛のわざ』の中ではそういう問題を扱っていて、
これはニーチェで言えば『権力への意志』に相当する。
>>607
二人称から離れてしまうと私よりも上手に説明できる人がいるだろうけど―。
固有名の回帰っていうのはどういう意味かね。私は名前「だった」って言っているんだから、
もうこの私は特定の名前に結びついていない、って考えるのが普通じゃない?
複数の主観っていうのは、一つの対象をいくつもの視点から見るという事じゃなくて、
主人と奴隷だったら、主人が見る奴隷と、奴隷が見る主人の差異から両者の違いを考察していこうって事だよね。
ラカンに「君が私を見ている位置から、私が君を見ることはできない」っていう
言葉があるけど、それがある条件においてはできるとニーチェは考えたんじゃないかな。
って言うんじゃだめ?