05/12/10 11:42:47
>>651
「どうして」と疑問を持つことと、人に尋ねることの間には、大きな隔たりがある。
尋ねる者は、一つにはナルシシズム的回路を巡っているのであり、
今一つには他者の語らいの完全性を期待している。
つまり、無限に愛を要求しながら、語らいのなかに確かに自らの地位を指定
されることを待っている。それゆえ、主体というより自我の審級が機能して
いるのであり、従者としてのsujetが落ちてこない。
一方、疑念を抱くものは、尋ねるというよりは尋ねられている。
疑問は世界から投げかけられており、世界にとっての謎があることを
引き受けようとしている。その謎こそが主体であり、問いを抱きつつ
行動する者は、主体として次々とシニフィアンを乗り換えながらも、
過剰にナルシシズムの回路に寄り掛かることなく、その症候を愉しむ。