04/07/21 02:02
>>145
苦痛の開始と終了を、自らの望むままに出来るのならば、苦痛すらも娯楽になる、のだろうか。
生は、誰もが自ら望んで始めたものではない。
しかし、死は、専門家が協力すれば、自らの望むときに得られると思われる。
ただし、この生物が死ぬだけであって、この存在が無くなる、という確証はないのだが。
>>146-147
>悟りであれ何であれ実現するにはやはり相当な時間を必要とする気がする。
>(自分一人でもいっぱいいっぱいなのに・・と思う)
>しかし自分から歩き出す必要があるかなと思いアプローチの手段を模索している。
>なんか無いものかな?w (146)
人々が(日常的に)心の平穏を得るためには、「それぞれが、最も楽しいと感じることをやれ」る(>>143)
ようになればよいのだと思う。しかし、資源の有限性を考えれば、それは難しいだろう。
全ての人がそれぞれなりに、低費用で楽しめる趣味を見つける、というのが現実的な代替案だと思う。
私の個人的なお薦めは、図書館を利用しての読書だろうか。
(超越的に)悟るための手段は私も思い当たらない。
考えてみれば当然で、苦痛および苦悩からの完全な解放は、古からの人類の悲願だとすら言える。
しかし、解放されるための誰もが実行可能な明確な手順などは見出されていないと言ってよい。
(そのような手順があれば、既にあらゆる人が救済されているだろう。)
>> 最初は楽しくはなかったことが、親しんでいるうちに、
>>だんだんと楽しく感じるようになることもある。(>>143)
>少しづつではあるがつまらないことにも楽しみを見出せるようになれるということかな?
念の為に説明を追加する。あらゆる楽しくなかったことが、楽しく感じるようになる訳ではない。
また、(主体的に)楽しみを見出せる、と言うよりも、
(受動的に)楽しくなってくる、と言ったほうが適切だと思う。
>へたをすれば厄介な能力だね
どんなことにも楽しみを見出せるという方がいたとしたら、確かに厄介かもしれない。
例えば、最初は強制されて嫌々人々を攻撃していたのに、それに楽しみを見出せるわけであるから。
少なくとも他人にとっては厄介である。