04/07/11 03:26
>>126
>君の行動が君の理想世界に貢献していることを感じて満足することに重きをおいているわけだね。
違う。また不充分な書き方をしてしまったようだ。
私の『理想の世界』とは、一言で言うと、『苦痛のない世界』だと言うことが出来る。
(苦痛のない生は、「生きているといってよいか微妙な状態(>>122)」だと言えると思う。)
しかし、
》 多くの方が、漠然とではあっても、『理想の世界』の像を抱いていると思う。
》しかし、現実には、それぞれの『理想の世界』は排反的である。
》それゆえ、『理想の世界』の追求が、逆に、混乱をもたらすことになるかもしれない。(122)
つまり、私は、『理想の世界』を追求することによって、
『理想の世界』から遠ざかる他はないように思われる。
それゆえ、『理想の世界』の追求などはせずに、日常的な喜びを重視するようにしている。
>実は楽しいと思うのは一種の延命装置と思っていたりもする。
>一言で言うなら死への[死からの?]逃避。
>なんで人間てこんな構造なんだと悲しくなっている次第。
人は、楽しいことがあることによって、死から遠ざかろうという欲求を維持している、
ということだろうか。
確かに、多くの方にとってはそうだと思われる。
しかし、私にとってはそうではない。
言い換えれば、私は、楽しいことがあるからといって、死にたくないとは思わない。
なぜなら、楽しさよりも、苦痛の可能性のほうが切実だから。
(上でいう死は、《私》の消滅とか、存在論的な死とかいうものを念頭に置いている。)
実は、次の記述は、上のようなことを匂わせたつもりだった。
》 しかしむしろ、学ぶために生きている、というよりも、
》生きているから学ぶことに喜びを見出す他はない、と言ったほうが適切かもしれない。(>>119)