06/08/26 23:41:02
ショ氏の生きざまは言行不一致などではなく、少なくともかなりのレベルに
達していたと思われる。
964:考える名無しさん
06/08/26 23:54:13
どうなってるんだ。怒らせては駄目なのはわかるが現実をしらなければ先へは進まんぞ
965:考える名無しさん
06/08/28 17:27:19
942のつづき
これは、聖パウロ(『ローマ人への手紙』第三章二一以下)やアウグスティヌ
スやルターが説いているように、ほんらいわれわれはすべて罪人(つみびと)
であるがゆえに行いによって義とせられることはできない、ということは
―けっきょく次のことにもとづくのである。すなわち働き(オペラリ)
〔人の行い〕は存在(エッセ)〔その人となり〕より生ずるものであるから、
もしわれわれが行為すべきまさにそのとおりに行為するものであるとしたら、
われわれ自身がまた現実にまさにかくあるべきそのとおりのものである、
ということにならざるをえない、ということである。しかしもしわれわれ
自身がまさにあるべきそのとおりのものであるとしたら、われわれは、
われわれの現在の状態からの救済をもはや必要としなくなるであろう。
しかしながらこの救済こそ、ただにキリスト教のみならず、バラモン教
と仏教もまた(英語で究極の解放(ファイナル・エマンシペーション)
とよばれている名のもとに)最高の目標として説くものなのである。
つまり、もし前述のとおりであるとしたら、われわれはまったく別のもの
に、いな、われわれがまさにかくあるべきそのとおりのものでなければこ
そ、為すべからざることをわれわれはまた為さざるをえないのである。
であるからこそわれわれは、われわれの志操と本質の完全な転換、
すなわち再生を要するのであり、救済はかかる再生の結果として現れき
たるのである。罪は行為に、すなわち働き(オペラリ)にあるとはいえ、
その根はあくまでも本質(エッセンティア)と存在(エクシステンティア)
にある。働き(オペラリ)は、わたしが『意志の自由について』の懸賞論文
で示したように、存在から必然的に生ずるからである。したがって原罪
こそ、ほんらいわれわれあの唯一の真の罪である。ところでキリスト教
の神話は、この原罪を人間がすでにこの世にうまれ出たのちはじめて生
じたものとし、そのために不可能な事であるにもかかわらず、
966:考える名無しさん
06/08/28 17:31:08
(ペル・イムポシビレ人間にたいし牽強付会にも自由意志を付与したのである
が、これはあくまで神話としてである。キリスト教の最内奥に潜む核心と精神
は、バラモン教と仏教のそれと同一である。これらの教えはすべて、人類はそ
の存在そのものによって重大な罪を負っていると説くのである。ただキリスト
教は、これらのより古い教義のように率直端的には説かず、すなわち、罪を
もって存在それ自体から生じたものとはせず、端的に最初の一対の人間の犯
した或る行為によって生じたものとしている。かかることは、無差別な自由意志
(リベルム・アルビトリウム・インデイフェレンティアエ)なるものを虚構
することによってのみなしえたことであり、ユダヤ教の根本供犠にここでキ
リスト教を植えつけるためにのみ必要だったのである。ところが真相は、人
間そのものの成立がつまり人間の自由意志の行為であり、したがって原罪と
一つであり、それゆえ、人間の本質(エッセンティア) および本質
(エッセンティア)と同時に原罪が生じたのであって、その他のすべては
この原罪の結果であるが、ユダヤ教の根本教義はかかる説を許さなかった。
アウグスティヌスが『自由意志について』という書巻において、人間がいま
だ罪に染まらず自由な意志をもっていたのはアダムが罪に堕る以前のみであ
り、それ以後は罪を犯さざるをえない宿命にまといつかれているのだと説く
のもそのためである。聖書が説く律法、ホ・ノモス〔法〕がつねに求めるの
は、われわれの為すところを改めようということである。しかしこれが不可
能であればこそパウロは、何びとも律法を前にして義とせられる者はいない、
ただイエス・キリストにおいて再生することのみが恩寵の働きによって、
すなわち新たな人を生じしめ、古き人をば滅ぼす(これがすなわち志操の
根本的変換である)この働きによってわれわれを罪を負える状態から自由
と救済の状態に転ぜじめることができる、と語るのである。
967:942
06/08/29 13:51:42
これが倫理に関するキリスト教の神話である。ところがこの神話をつぎ木せ
られたユダヤ教の有神論は、もちろん、これに順応するためにまことに奇態
な補足を受けねばならなかった。つまりそのさいに、アダムとイヴによう人
類の堕落という寓話が、古代インドの幹から取って来た枝をつぎ木するため
の唯一の場所を提供したというわけである。キリスト教の玄義がはなはだ奇
妙な、常識では理解できないような観を呈するのも、つまりは牽強付会もい
たすところであって、この外観のために―というのは、玄義の深い意味を
理解することなくなったために―ペラギウス主義がこれに反抗し、勝手な
解釈を弄してこれを否定しようとしているが、しかしこれは、キリスト教を
ユダヤ教に還元するものである。
968:942
06/08/29 15:44:46
しかし神話はぬきにして言えば、われわれの意志が同一であるかぎり、
われわれの世界も変らない。たしかに人はすべて苦悩と死の状態から救済
されることを願っている。彼らは、普通一般に言われているように、永遠
の浄福を得、天国にはいらんことを望んでいる。しかし自力ではなく、
自然の成り行きによってそこへ運ばれることを欲しているのである。
ところがこれは不可能である。というのは、自然はわれわれの意志の
模写であり、影にすぎないからである。それゆえ自然は、なるほどわれわれ
をけっして滅ぼしはせず、また無に帰せしめはしないであろう。しかし自然
はわれわれをくりかえし自然へつれ戻すだけで、どこへも導くことはできな
い。しかしながら、自然の一部として存在することがいかにおぞましいこと
であるか、これはなに人もおのれ自身の生と死によって経験するところであ
る。―したがって、生存はともかくひとつの迷妄と見るべきであって、
これから立ち帰ることがすなわち救済にほかならない。じじつまた生存は
例外なくこのような性格を帯びている。それゆえ生存はこのような意味の
ものとして古代の沙門の宗教によって理解されたのであい、紆余曲折は
あったとはいえ、本来の原始キリスト教もまたそのように理解したので
ある。ユダヤ教ですら、少なくともその堕落論(これがユダヤ教の贖罪
〔とりえ〕(リディーミング・フイーチュア)である。)にはこのような
見解の萌芽が含まれている。ただギリシアの異教とイスラム教のみが完全
に楽観主義である。そこで前者ではこれと反する傾向がせめて悲劇ででも
その鬱憤を晴らさざるをえなかった。
969:考える名無しさん
06/09/01 03:09:25
世界最悪の哲学者(いい意味で)
970:考える名無しさん
06/09/01 15:32:52
この世は最悪の世界である。
その世界で最悪と後ろ指を差される哲学である。
つまり最良の哲学ということになるわけだ。
971:942
06/09/01 17:18:04
しかしこの傾向は、あらゆる宗教のなかで最も新しく、また最も劣等な宗教
であるイスラム教ではスーフィズムとして現れたが、これはまことにすばら
しい現象で、その精神と起源において徹頭徹尾インドのものであり、一千年
以上を経た今日に至るもなお行きつづけている。じじつわれわれの生存の目
的と称すべきものは、この世に生まれないほうがよかったのだという認識に
ほかならない。ところでこれこそ、あらゆる真理のなかで最も重要な真理で
あり、であるからこそ、今日のヨーロッパとは事変わり、イスラム教化され
なかった全アジアにおいては、この真理は三千年前と同様、今日に至るも最
も広く承認された根本的真理である。
われわれが生への意志を全体として客観的に見れば、以上述べたことに
従い、生への意志を迷妄に囚われたものと考えざるをえない。この迷妄か
ら立ち帰ること、すなわち、意志の現在の努力のすべてを否定すること、
これが、もろもろの宗教が自己否定、「おのれを捨てること〕
(アブネガティオ・スイ・イプシウス)〔『マタイによる福恩所』第一六章
の二四〕と称しているものである。道徳上の徳、すなわち正義と人類愛は、
すでに示したように、それが純粋なものであれば、生への意志が固体化の原
理を洞見しそのいっさいの現象のなかにおのれ自身を再認することから生ず
るのであるから、それは、まず第一に、現象する意志がもはやかの迷妄に完
全に囚われているのではなく、幻滅がすでに生じていることの徴候であり、
萌(きざ)しである。比喩的にいえば、いまや飛びたたんとしてすでに羽ば
たきつつある状態である。
972:942
06/09/01 17:21:42
逆に不正、悪意、残虐はその反対、すなわち、かの迷妄に深く囚われている
ことの徴候である。しかし第二に、それら道徳上の徳は自己否定を、したが
って生への意志の否定を促進するための道徳上の手段である。というのは、
真に廉潔であること、すなわち、正義をあくまで守りぬくというこの第一の
最も重要な、根本的な徳は、これを果たすことははなはだ困難であって、心
の底からあくまでもこれに身を捧げようとする者は、いくたの犠牲を捧げね
ばならず、そのためやがて、満足して生きるために必要な快楽が人生から失
われ、意志は生から背(そむ)き去り、かくして諦観(レジグナツイオーン)
へと導かれるからである。じじつまた廉潔をしてまさに尊ぶに足るものたら
しめるのは、それに要する犠牲にほかならない。小事において廉潔であって
もなんら感嘆に値しないのである。ほんらい廉潔の本質は、正義の人が人の
生に伴う重荷と苦悩を不正な者がするように策略、あるいは暴力によって他
人に負わせることをせず、おのれに与えられたものはみずから負うというこ
とにある。そのために正義の人は、人の世に課せられた災厄の重みをいささか
も減ずることなくそのすべてを身に負わされる。
こうして正義は、生への意志の否定を促す手段となるのであって、それは、
困窮と苦悩という人生の本来の定めは正義の結果であり、これがまた諦観へ
と導くからである。もちろん、これよりさらに進んで人類愛(カーリタース)
という徳に至れば、諦観(レジグナツイオーン)へ導かれるのはいっそう
すみやかである。
973:942
06/09/01 17:25:08
というのは、この人類愛ために、人はがんらい他人の負うべき苦難をすらも
わが身に引き受け、そのため、成り行きに任せればおのれの一身にふりかか
る苦難だけで事すむものを、それ以上の苦難をみずから背負い込むからであ
る。かかる徳に燃えている者があるとすれば、その人はすなわち、おのれ自
身の本質を他のすべてのもののなかにふたたび認めた者にほかならない。
このことによっていまや彼は、おのれ自身の運命と人類一般の運命とを同視
する。ところがこの運命たるや、労苦と苦悩、そのあげくには死という過酷
なものである。それゆえ、偶然にえられる利益はすべてこれを諦めることに
よって、人類一般の運命以外になにものをもおのれのために欲しない者はま
た、この運命をこれ以上欲することは断じて不可能となるであろう。生とそ
の享楽にたいする執着はいまはやがて衰えざるをえず、あらゆるものにたい
する諦念(エントザーグング)に取って代わられるであろう。意志の否定は
こうして生ずるのである。したがって貧困や難儀やさまざまの種類の一身上
の悩みは道徳上の徳を最も完全に遂行することによってすでにもたらされる
のであるから、最も狭い意味における禁欲、すなわち、すべての財産の放棄
、不快なことや意に添わぬことをわざわざ求めること、自虐、断食、剛毛の
下着を身に着けること、またその他の難行苦行が余計なこととして多くの人
びとによって斥けられるのもけだし当然であろう。正義そのものが着用する
ものに苦痛を与える剛毛の下着であり、おのれに必要なものを人にくれてや
る人類愛は、常住不断の断食である。
974:考える名無しさん
06/09/07 22:31:11
ショーペンハウアーが大嫌いだったもの
・キリスト教
・ヘーゲル哲学
・ヘルバルト哲学
975:考える名無しさん
06/09/09 08:35:50
つーか、正確にはショーペンが最後まで理解できない、
若しくは自分の理解を超えたものがヘーゲル弁証法だよね。
976:考える名無しさん
06/09/10 00:20:54
ショーペンハウアーもヘーゲルも分らないやつが比較検討した聞きかじり
の感想は役にたたねえなあ
977:考える名無しさん
06/09/10 00:30:07
>>975
ショーペンはキリスト教も嫌いではないし、ヘーゲル弁証法を分からなかったわけでもない。
「個の主観と世界のみが本当にある」というか「普遍的理性」、「絶対精神」などが「作り事」として
許せなかった。
978:942
06/09/14 23:00:22
だからこそ、バラモン教ではきわめて重大な役割をはたしている厳格かつ
極端な禁欲、すなわち、故意になされる自虐行為はいっさい仏教のあずかり
知らぬところである。仏教は、修道士に見る独身生活、自発的な清貧、謙遜
と服従のほかは肉食およびいっさいの俗事を断つことで甘んじている。さら
に、道徳上の徳が導く目標がここに示したとおりのものである以上、
ヴェーダーンタ哲学が、真の認識、およびそれに伴って完全な諦観が生じた
のちは、以前の行状の道徳性や不道徳性はもはや関知する要はないと説くの
はまことに至言であって、ここでもまた、しばしばバラモンの徒によって引
用される言葉があげられている。いわく、「最高のものを観ずる者は、いま
や心の結ぼれは断たれ、いっさいの疑惑は解かれ、その業は無となる」と
(シャンカラ第三二シュローカ)。天国において報いられるか、それとも
地獄において罰せられるかということをもって人間の行動の倫理的重要性
にたいするじゅうぶんな説明であるとする多くの人びとにとって、この見
解がいかに不快なものであっても、じじつまたかの善良なヴィンディシュ
マンはみずからこの教えを講述しながらこれを忌み嫌っているのであるが、
それでも、物事を根本的に理解しうる者ならば、この教えが究極において
かのキリスト教の、とくにルターによって力説せられた教えと一致するもの
であることを見いだすだろう。すなわち、行いではなくて、恩寵の働きに
よって生ずる信仰が人を幸福にするのであり、それゆえわれわれの行為に
よって義とせられることはまったく不可能であって、ただ仲保者たる
イエスの功によってのみ罪を贖いうるというのがそれである。もしこの
ように考えないとしたら、キリスト教は万人にたいして永劫の罰を、
バラモン教は万人にたいして永劫の輪廻転生をかかげねばならなくなり、
これでは両者ともに救済に至ることが不可能であることは、むしろ見やす
い道理ですらある。罪業とその結果とは、他からの恵みによろうと、
みずから身により善い知識をそなえることによろうと、ともかくこれを
贖い消滅させなければならない。でなければ世界は救われる望みがない。
979:942
06/09/14 23:04:14
しかしいったん救われたとなれば、罪業にはもはや心を労する必要はない。
これはまた回心(メタノイア)と罪の赦し(アブセシス・ハマルティオーン)
(『ルカによる福音書』第二四章の四七)。道徳上の徳は要するに究極の
目的ではなく、この目的に至るひとつの手段にすぎない。これにたいし、
より善い知識が開かれることによって生への意志を否定することがすなわ
ち救済である。したがってこれら両者の中間にあるのが道徳である。すな
わち、道徳はつねに人間のかたわらにあって、意志の肯定から否定へ、あ
るいは神話的にいえば原罪の出現から受肉せる神(神の化身)(アヴァターラ)
の仲保を信じることによって救済へと至る彼の道程を照らす燈明である。
あるいは、ヴェーダの教えによれば、この道程はそのつど業の結果である
いっさいの輪廻転生を経て、ついに妙覚に達し、それとともに救済(
「究極の解放」)、すなわちモークシア〔解脱〕つまり、梵〔ブラフマン〕
との帰一に至る道程にほかならない。ところが仏教徒はまことに率直にこれ
を涅槃〔ニルヴァーナ〕という言葉によって単に否定的に表現している。
涅槃とはすなわちこの世の否定、つまり輪廻〔サンサーラ〕の否定である。
涅槃を単に虚無と定義するのは、この輪廻の世には涅槃の定義、すなわち
その説明の足しになるような要素はなにひとつ存在しないことを単に言わん
とするだけのことである。だからこそ、仏教と単に名前だけ異なるジャイナ
教徒はヴェーダを信奉するバラモンをジャブパラマーナとよぶのであるが、
この蔑称によって、知ることも証明することもできないものを彼らが単なる
伝承によって信じていることを言わんとするのである。(『アジア研究』
第六巻四七四頁)。
980:考える名無しさん
06/09/14 23:09:26
長文要らない
長文で引用なら、なお要らない
981:考える名無しさん
06/09/19 10:14:04
意味のない980のような短文を読まされるくらいならショウペンハウアーの
文らしきものを読まされたほうがましだ。
982:考える名無しさん
06/09/20 00:57:11
つまり「意志」これさえおさえておけばよいのだ。
983:考える名無しさん
06/09/20 01:16:49
西欧思想はアポロン的原理とディオニュソス的原理の間を行き来していますが、
そこを超えて東洋的な「無心の境地」に最も近づいたのがショーペンハウエル
なんですね。