☆いざ☆鎌倉時代史総合スレ☆鎌倉☆at HISTORY
☆いざ☆鎌倉時代史総合スレ☆鎌倉☆ - 暇つぶし2ch700:日本@名無史さん
06/02/07 12:03:37
頼朝が後白河法皇を脅したのが効いたのだろう

701:日本@名無史さん
06/02/08 12:41:59
坂東武者は家族の屍を乗り越えていく

702:日本@名無史さん
06/02/08 13:58:46
おやもうたれよ、子もうたれよ、
死ねればのりこへのりこへたゝかふ候

703:日本@名無史さん
06/02/08 14:03:00
西国のいくさと申は、おやうたれぬれば孝養し、いみあけてよせ、
子うたれぬれば、そのおもひなげきによせ候はず。
兵糧米つきぬれば、田つくり、かりおさめてよせ、
夏はあつしといひ、冬はさむしときらひ候。
東国にはすべて其儀候はず。


704:日本@名無史さん
06/02/08 14:11:57
俺の屍を越えてゆけ

705:日本@名無史さん
06/02/08 22:13:10
やだね武士は野蛮で

706:日本@名無史さん
06/02/09 12:08:43
西国武士のカルチャーショック

707:日本@名無史さん
06/02/10 11:10:25
武士が政権を保ち続けた日本史の異常さは、
日本にとって幸福だったのか不幸だったのか

708:日本@名無史さん
06/02/10 11:35:22
近代に武士道が持ち込まれたのは不幸なことだ
ありもしない武士道が軍人に吹き込まれ、
日本軍を狂わせた

709:日本@名無史さん
06/02/10 17:16:39
>707、
俺の考えでは不幸だったと思う。
>708、
俺もそう思う。

総括して言うと世界の中でもなぜか日本だけが異質に見える。(俺は世界の歴史は無知だけど)
武士が政権を取ったのは世界でも日本だけだろう?それも何百年も、 異常だろう。
国内で一族が滅ぼすか、滅ぼされるかをずっとしてきたんだろう。
それで血筋で因縁関係を持ったりなんたりと。
例えばヨーロッパとかは古代から現代まで普通の政府が国家を
統治してきたんでしょう? 一族が滅ぼすか滅ぼされるとか、そんな
争いはしてないんでしょう? 





710:日本@名無史さん
06/02/10 17:33:04
昔の日本人より昔のヨーロッパ人のほうが慈悲深い気がする。
今日でも日本人よりヨーロッパ人のほうが慈悲深い気がする。
(なんの根拠もないことだけど・・・)


711:日本@名無史さん
06/02/10 20:02:10
(゚Д゚)ハァ?

712:日本@名無史さん
06/02/10 21:27:59
>709、710
おおバカだなこいつは

713:日本@名無史さん
06/02/10 21:49:18
710的には、さしずめイスラム教徒なんて悪の権化なんだろうな・・・

漏れは、あらゆる時代・階層を通じてもっとも住み難いのがキリスト教圏だと認識している。

714:日本@名無史さん
06/02/10 22:05:07
後醍醐天皇の子孫が皆殺しにされなかっただけでも日本人のほうがヨーロッパ人より慈悲深い

715:日本@名無史さん
06/02/12 01:34:57
西国武士は東国の武士を恐れたと言うが、
これは平氏が源氏の武力を恐れていたのか、
それとも東国の国人たちを恐れていたの?
元々の坂東武者というのは、平氏が多いような気がします。
八幡太郎義家が東北を平定してから、源氏は関東に影響力を持つようになったんですよね。
えらいひと教えて

716:日本@名無史さん
06/02/12 10:54:30
>>685が少し気になるw

717:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/12 10:59:08
>西国武士は東国の武士を恐れたと言うが、
これの根拠がよく分かりません。斎藤実盛が『平家物語』で放った台詞の事
なら、そもそも彼は実際には富士川行きの中にはいませんでしたからね。
西国武者(平家)の敗北を必然とする物語の構成上の虚構です。

718:685
06/02/12 21:53:10
>>716
ありがとうございます。
放置プレイと心がけておりますが心優しき方の回答が無いかと
毎日催促も出来ずにただただ眺めるばかりでございます。

719:日本@名無史さん
06/02/12 22:07:10
鎧が着られるほどの身分の高い武士なら徒歩じゃなくて馬に乗ってるんじゃないの

720:日本@名無史さん
06/02/13 12:21:54
>>716
どう気になるの?具体的に!

721:日本@名無史さん
06/02/13 13:59:12
>>719
平治物語絵巻だと、徒侍も鎧着ている。

722:日本@名無史さん
06/02/14 12:15:58
承久の乱の圧倒的勝因は何か?

723:日本@名無史さん
06/02/14 12:52:59
つか朝廷側が弱すぎだろう

724:日本@名無史さん
06/02/14 13:00:10
>>722
坂東御家人の危機感が切実だったのが大きいかと。

あの三浦でさえ後鳥羽からの文をそのまま幕府に
届けているしね。当時三浦は北条と相当な緊張
関係にあったから裏切って普通の状況だった。現に
後鳥羽側は相当あてにしてたようだし。しかし、
三浦は積極的に後鳥羽に立ち向かった。

あとは求心力としての政子と後鳥羽の力量差も大きい
かと。あの演説(直接は安達景盛が読んだらしいが)
は日本史上屈指だろう。あんな演説されたら一致団結
せざるを得ない。

725:日本@名無史さん
06/02/14 14:39:02
>>724
>当時三浦は北条と相当な緊張関係にあったから裏切って普通の状況だった

少なくとも当該期の平六タンについては、義時とマブだったってのが最近の見解でね?

726:定です~
06/02/14 23:28:25
きょうはバレンタインデーです。
「友チョコ」ですけど、どぉーぞ ♪
 *
つ■ ))
 

727:日本@名無史さん
06/02/15 14:42:57
後鳥羽は勝機があると思ってたようだが、
それは彼の読みの甘さか、
世間知らずか。
如何?

728:日本@名無史さん
06/02/15 16:47:39
結果を知ってる人間は後からなんとでも言えるわな。












それが歴史を語る際の楽しみ方のひとつでもあるけどね。

729:日本@名無史さん
06/02/15 17:06:14
少なくとも日本開闢以来、朝廷が朝廷外の勢力に首都を落とされ
るような敗北を喫したことはないからね。壬申の乱は朝廷内の
内戦だし。

だから、いざ、院宣を出せば多くの武家が味方について勝利
疑いなしと思ったんだろうな。

戦術も悪くない。幕府全体を敵にするわけでなく、あくまで北条
義時に絞ってたし。

鎌倉幕府の中枢に有能な人間が少なかったらかなりやばかった
のではないかと思うな。日本の歴史見ると、武家は結構日和見
で勝ちそうな方にどっと味方する傾向にあるからね。

政子、義時、泰時、ここいらは日本史上でもかなりの出来物
だからな。

730:日本@名無史さん
06/02/15 22:21:54
>>729
京都周辺の武士は大概朝廷側に付いたから、そのへんで楽観視したのかも知れないですね。
幕府側が予想より早く体制を整えて出兵してきたのが敗因かなー。



731:日本@名無史さん
06/02/17 11:43:29
上皇側の大将が逃げ延びてきたら、
上皇は門を閉めて知らん顔をしたらしい。
これは事実かな?
事実とすればえげつないこっちゃ、
でも考えてみれば、当然のことか?

732:日本@名無史さん
06/02/17 12:20:01
>>731
公家てのはいつでもそんなもんw

だから権力を奪取されてしまった。

733:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/17 19:47:35
藤原忠実も似た様な行動をとっていますが・・・公家が「そんなもん」「だから
権力を奪取されてしまった」として、武家が権力の座にある事の正当性を主張し
たのが新井白石で、以後近現代にまで、
武家→質実剛健だから権力に相応しい 公家→堕落して没落
というイメージが根を張っています。しかし、先入観という気もする。
負けるべくして負けたというものの、本当にそうであったのか。平家等も同様。

734:日本@名無史さん
06/02/17 23:47:26
公家より武家のほうがあくどかったというだけだろ。

735:日本@名無史さん
06/02/17 23:49:41
平家は生き残ってるという説は言われてるんですか?


736:日本@名無史さん
06/02/17 23:54:57
うちの近所に自称平家の子孫が生きてるよ

737:日本@名無史さん
06/02/18 00:12:05
自称平家もうからん
えせ同和もうかる

 よってえせ同和の勝ち

738:日本@名無史さん
06/02/18 00:37:21
自称平家ってなんでわざわざ身分を隠す必要があるわけ?
源平の戦いとかいっても、実際には平氏も源氏も敵味方に入り乱れてるわけじゃん


739:日本@名無史さん
06/02/18 02:18:24
「平家」と言えばふつうは平清盛とその一族だけを指す。
平氏と言ってしまうと北条とか三浦とか千葉とか平氏の鎌倉御家人は腐るほどいる。
「平家」なら鎌倉幕府から謀反人として追っ手がかかっているから身分を隠す必要があっただろうな。

740:日本@名無史さん
06/02/18 02:35:54
>>739
鎌倉で僧侶になったのが結構いたから、平家滅亡時に幼かったら助命されたのでは。
まあ、僧侶なら子孫はいませんけど。

平頼盛の子孫はどれくらいの地位の貴族として残ったんでしたっけ。
息子はたしか実朝暗殺の際、京都から来ていたんですよね。


741:日本@名無史さん
06/02/18 02:41:55
>>740
頼盛の子孫はだんだんジリ貧になって頼盛のひ孫の代までで朝廷から姿を消しています。

742:日本@名無史さん
06/02/18 03:39:42
>>733
いまごろ何言ってんだよ。
わざと高橋無視か。

743:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/02/18 04:41:13
>>733
自己板で失恋しますたorz
   〃
(´σπ・)゜゜・。
(   ウワァーン
 

744:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/02/18 04:43:08
お邪魔しますた。ごみんなしゃい ..
m(_ _)m ↓

745:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/18 14:31:09
>>721
歩兵用の腹巻でしたね。南北朝時代になると、下馬する事の多くなった騎馬
の士も大鎧に代って着用する様になっている。

>742
なんの事やら。

>743
雑談スレにて。

746:日本@名無史さん
06/02/20 05:19:35
2月22日、竹島の日
『嫌韓流2』ついに発売!

45万部のベストセラー『嫌韓流』をまだ読んでないやつは、今のうちに買って読んでおこう

747:日本@名無史さん
06/02/20 13:29:37
古代の集団戦法が、中世には騎乗射撃中心になっていった
集団戦法のほうが強かったんじゃないか?

748:日本@名無史さん
06/02/20 14:23:09
富山の山奥に、村人全員平の字がつく苗字の村があるが

749:日本@名無史さん
06/02/21 12:51:34
>>748
それは落ち武者村だろ

750:日本@名無史さん
06/02/21 22:21:34
>>747
>古代の集団戦法が、中世には騎乗射撃中心になっていった
>集団戦法のほうが強かったんじゃないか?

訓練された騎兵相手だと、歩兵は相当不利ですよ。 中国や西洋の例を見ると。
後方や側面に回りこまれて弓や投槍などで攻撃されて混乱する、そこを人馬一体となって突撃されて敗走ってパターン。
対抗する歩兵も数揃えるだけじゃなくて、装備・訓練が必要だから当時の日本では整備するのが難しかったのでは。

そもそも、武士が台頭する以前って集団戦法とってたのかな?
いちおう律令制整備するときに、農民から徴兵する建前が出来ましたけど、すぐ地方豪族の子弟が軍の担い手になってますよね。


751:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/21 22:28:46
>中国や西洋の例を見ると。
騎兵のみの、それも集団での突撃は、日本では無かったでしょう。
>そもそも、武士が台頭する以前って集団戦法とってたのかな?
騎兵に一方的に率いられるのではなく、古代には騎兵と歩兵の連携が見られ、
南北朝時代以降に再度復活したという指摘があります。
集団戦法というか、確か令では一隊十楯として、二隊を前列後列として編成
していた筈。

752:日本@名無史さん
06/02/22 05:38:28
>>751
日本は草原がほとんどなく、平地はたいてい田畑。
田畑に用いられないような土地は雑木林が多い。

河原にしたところでそれ程広いわけでもない。

室町中期以前の河口付近は灌漑技術が未成熟だったので
複雑に入り組んでいる状態。

騎馬集団突撃するような地理的環境にないもんね。

753:日本@名無史さん
06/02/22 16:36:07
死傷者率は古代の集団戦法のほうが、
中世の名乗り合戦より高かったらしい。

ま、言われてみればそんな気もするが、
意外な気もする。

754:日本@名無史さん
06/02/22 17:29:41
実朝以後のマイナーな将軍たちは幕府の扱いはどうだったんでしょうか?
一応は形式的にも決済したりしていたんでしょうか?
それとも完全にひな人形?

755:日本@名無史さん
06/02/23 12:03:47
形式的には最高責任者。天皇と同じ。
だから担ごうとするやからも現れ、壮年になると将軍は取り替えられた。
これも天皇とにてるなw

756:日本@名無史さん
06/02/24 13:51:25
鎌倉の将軍も、日食の間は、天皇と同じく、かくされていたとか。

757:日本@名無史さん
06/02/24 22:17:40
age

758:日本@名無史さん
06/02/25 21:46:30
頼朝は傑出した政治家と思うが、どうよ?

759:日本@名無史さん
06/02/25 21:55:39
ブレーンのおかげじゃないか?

760:日本@名無史さん
06/02/25 22:39:37
>>759
それを使いこなすのも力量がいる

761:日本@名無史さん
06/02/26 13:31:28
>>758
傑出してますよ。

頼朝と北条政子他北条一族がいなかったら、
武家政権は日本に誕生しなかったかもしれ
ない。

そうしたら封建制もなく、日本は朝鮮や中国と
決定的な違いのない国のままだったかもしれない。

大きな存在だよ。

762:日本@名無史さん
06/02/26 17:29:10
中国や朝鮮にも武家政権は誕生していますが。
日本は平安時代段階で中国と朝鮮とは充分決定的な違いのある国だった。

763:日本@名無史さん
06/02/26 17:37:19
>>762
武家政権というのは封建制度のことでしょ。

中国朝鮮は19世紀まで律令制じゃない、基本は。

単に武人が政権のトップにたつのであれば世界中
別段珍しくもなんともない。

平安時代から日本と中国朝鮮が違う道を進みはじめ
たのは事実だけど決定的になったのは封建制が制度
として確立した時でしょう。平将門がその嚆矢だろう
けどまだ制度化まではいかなかったからね。

764:日本@名無史さん
06/02/26 17:40:54
日本の封建制を西欧とは違う何かだと言う意見もあるね。
網野氏などは、日本の封建制を違う概念の呼び名にしようと
言っている(日本の中世6)。

765:日本@名無史さん
06/02/26 19:59:44
奈良・平安時代の日本の律令制も中国朝鮮とは全然違うと思いますけど。
科挙合格者による官僚制じゃなくて、家柄に基づく政治体制だから。
平安時代も後半になると、代々役職まで引き継ぐようになってそれぞれの家の家職になっちゃうし。




766:日本@名無史さん
06/02/26 22:22:06
日本の封建制はよかった方なの? 仮に日本で封建制が発達してなかったとして
律令制でずっと支配してたらどうなってたかな?

767:日本@名無史さん
06/02/26 22:37:37
ニダーランドみたいになって生産性が上がらなかった
よって資本の蓄積が進まなかったと思われ
江戸時代の百姓とニダーランドの農民とでは豊かさが
違った たとえば農器具だけでも日本の百姓は江戸期に
おいて10本程度の農器具を持っていたのに対し同時代
のニダーランドの農民は多い方で2~3本程度生産性が
上がるわけはないと思う

768:日本@名無史さん
06/02/26 22:57:00
幕末に小銃を買うにしても一丁、20~40両前後でしょ
薩長のように一万丁買うにしても30万両、
商業も発展してないと国民国家、国民皆兵も無理

769:日本@名無史さん
06/02/26 22:58:20
>>766
封建制って西欧も日本もそうだけど、近代的所有権とか、
個人の人格を前提とした契約とかの極めて重要な前段階
なんだよね。

戦乱とかの物凄い紆余曲折はあるが、この封建制を得る
ことでまず武士層を中心に約束だの権利だのの観念が
確立し、それが武士層ともともと混在一体だった庶民
層にも拡大し、江戸中期以降、日本は亜近代法治主義
の社会になった。

幕末の日本の知識人は日本の社会の支配の根本を法と
道義に基づく支配だと認識しているくらいだしね。

ちなみに封建制度を得てない東アジア大陸では、未だに
法治社会じゃないからね。あそこでは法家主義に基づく
統治はあっても法治はないから。権力者が法の例外に
あるんじゃダメだからね。律令は法をもちいているけど
法家ではあっても法治じゃないんだよ。

770:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/26 23:11:47
欧州の例と比較して、主従間の双務契約関係が薄弱であったとか、「庶民」層
の法の場における権利主張の機会やその為の団体が未形成であり、自前の近
代化は達成出来なかったものの、中国や朝鮮と比較して欧州に倣った近代化
を自ら達成する事が容易であった、と言われますね。
ただ「法」に対する観念としては、上から強制されるものであって本来無い方
が良い刑罰とセットになったものという印象が持たれており、法という単語
が権利をも意味していた欧州とは今でも異なるという指摘があります。

裁判員制度とか陪審員制度というのも、あれは「法」というものを自ら参加し
て勝ち取る権利と見做しているからこそ望まれるものであって、法に対して
及び腰な日本人の精神風土では違和感が残る。

771:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/26 23:14:35
前半についてですが、要するに近代化は出来なかったがそれに近い、下地と
なりうる状況を形成する事は出来たのが日本、という事です。
>法に対して及び腰な
敢えて付け加えておくと、日本人の考える「法」のイメージがお上からのもの、
裁かれるもの、歓迎すべからざるものとなっている為。欧米では法=権利。

772:日本@名無史さん
06/02/26 23:26:47
直接民主主義の精神の残滓。ね
普段何を読んでいるんだか・・・

773:日本@名無史さん
06/02/27 00:11:50
>>770>>771
わたし、多少法の知識があるものですから、そういうふうに
いわれていることも良く承知してます。

でも、それは近代西欧法を継受する際の偏見がかなり入っていて
それを前提にした考えが濃厚だと思いますよ。なにせあの当時は
江戸時代以前の日本を全て遅れてダメだという前提にたち、その
上で近代法を導入するという思想が根本にありましたから。そし
て今の法学者は日本の歴史に基本的に無知ですから、そういう
近代法を継受した際の先人の考えをほぼ無条件に受けいている
例が極めて多いのです。

良く言われる陪審は近代法の象徴でもなんでもありません。
あれは日本で言う村の寄り合いがそのまま継承され近代の衣
をまとったものと見るのが妥当です。陪審はイギリス法特有の
制度でイギリス法は日本で言うところの御成敗式目がそのまま
残ったようなコモンローをベースにした法で当時の村落共同体
のルールが基本ベースなんです。そしてイギリス法はイギリス
以外の欧州の法体系と基本的に何の関連もないんですよw

774:日本@名無史さん
06/02/27 00:18:26
続きですが、日本の法は上から与えられ云々といいますが、
国家レベルの法は現代でも上から与えられるものであって
決して下が作るものでもなんでもありませんよ。

民主主義は法を下が作っているというフィクションを形成する
ことで議会に正当性を与え、社会の安定を図る装置にすぎません。

つまり統治される側の「納得」するための壮大な建て前が
民主主義なんです。

だからこれを絶対化して考えるのは一種の宗教であって客観的
な話ではないと思います。

統治される側が納得するなら別に民主主義である必要なんて
ないんです。

江戸時代が世界史でも稀に見る安定した統治を実現したのは
それだけ民衆が納得して統治されることに成功したからであって、
これが民主主義に劣るとか優るとかいう話にはならないと
思いますよ。

775:日本@名無史さん
06/02/27 00:44:06
統治される側が納得するなら非法治社会でも構わんの?

776:日本@名無史さん
06/02/27 00:48:10
>>775
法治じゃなきゃ普通納得なんてしないでしょ。

レベル低い社会なら別だけどね。

777:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/27 10:46:03
>>773-774
>江戸時代以前の日本を全て遅れてダメだという前提にたち
唱えられたのがずいぶん前であり(最近では死の直前に石井進先生も似た趣
旨で論じてらっしゃいましたが)、そうした思想的バイアスのかかった人に
よって引用された例もあります。ご懸念はその事でしょう。
しかし、下でも述べる通り、法への意識の違いを述べたかっただけです。
欧州というよりは西欧と言うべきであったかもしれませんが、「都市の代表」
による身分制議会への参入といった形の政治参加や、都市民による革命とい
った行動が日本で起こりそうになかった事(に見える違い)は確かでしょう。

778:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/27 10:47:19
>あれは日本で言う村の寄り合いがそのまま継承され近代の衣
陪審制という制度そのものではなく、それらを受け入れる現代の「法」意識
の下地、文化的環境というものの違いについて述べるのに言及しました。
アンケート(というのも聞き方次第ですが)結果からも、どうも「日本人的」
な制度ではないものを、欧米から安易に借用する事には反対です。
少なくとも歓迎されていない事、政府の説明で納得して受け入れてもらえる
様なものでない事は、明らかかと。

>これが民主主義に劣るとか優るとかいう話にはならないと
そもそも私は>770-771の中で西欧との優劣を問題としていません。
日・中・欧の歴史上で「違い」と類似があったと述べているだけです。
(上で述べた革命云々についても同じで、起こりえなかったから悪いとか劣
っていたなどと言いたかった訳ではありません)
後半(774)で述べられた「反論」自体そうした誤解の下に成立している
様ですが、そもそも「民主主義」の優越性を論じていないので、私に向けら
れる必要性を感じません。

貴方の書き込みは、日本の歴史が民主主義中心の史観から冒涜されたのでこ
れに反論する、という主旨であった様に見受けられましたが、そんなつもり
で書いたのではありませんよ。

779:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/27 10:57:23
以前、漫画家のみなもと太郎先生が江戸後期の打ちこわしが何故フランスの
様な「革命」に発展しなかったのかという疑問を提示され、どうやっても分か
らなかったと述べておいででしたが・・・
(あの先生も、歴史観が古いところがおありで、開国が善、民衆が善といっ
た視点が見受けられますね。「進歩」の為の「迷信」打破の傾向も強い)
打ちこわしは体制の打破は埒外でしたし、一揆というのも断固戦うというより
は、島原の乱も含めて要求を認めてもらう為の行動(訴訟手段の一つ)という
もので、支配体制への対抗とは元々色彩が異なっていた。
フランスにおいても国王の処刑時には反発がありましたが、やはり近代まで日
本の風土に「上への対抗・拮抗」という発想は政治的にも軍事的にも生じ得な
かったと考えるしかありません。
安藤昌益も「教化」による理想社会建設を述べており、武力革命は志向してい
なかった。
そうした点に、法とか社会に対する「日本的」な見方の違いというのがあるの
だろうと思います。優劣は言いませんが。

780:日本@名無史さん
06/02/27 14:01:47
安藤昌益が政府を作っていたら、ポルポトと似てたんじゃない?

781:日本@名無史さん
06/02/27 18:27:31
>>777-779
昨日、夜中に書いたもんで長いわりには表現が足りなかった
かもしれません。

山野さんが優劣を論じられているとは思っていなかったので、
私が批判的に書いたと受け止められたらそれは私の書き方の
問題です。すみませんw

いずれにしろ、日本と西欧で、ほぼ同じ時期に相互に関連なく
封建制度が開始し発達しはじめたのはとても面白く、また相互
に特色があってかなり違う部分もあるので興味深いですね。
またその違いはどこから生じ、その結果社会システムにどう
反映されたかを考察するのも楽しいですね。

鎌倉幕府は平時は裁判機関としての役割が主ですから、そこに
日本流の法の発達の原点があると思いますが、あまりそのへんに
関する研究成果がわれらには伝わってこないのが残念ではありま
す。武家法は御成敗式目を原点にしてますし、その武家法が
江戸時代の法の原点ですからそのへんを研究してもらえると
面白いですね。

西欧の大陸系諸国はローマ法を基準とした法規を19世紀
頃まで用いたのに対して、イギリスは当初からコモンローで
大陸法と無関係なんですよね。日本は鎌倉以後、律令は形骸化
し、武家法が中心になっていき、戦国後はそれが庶民にも適用
されるようになっていきますから、古代法を用いないという意味
でイギリスに近い法の発達かと思います。島国ということが
影響しているんでしょうか。



782:日本@名無史さん
06/02/27 18:28:17
>>780
安藤は武力革命を志向してないですけど、理想社会を実現し
ようとすると理想に反する人間の粛清の必要性がちらつく
んじゃないかと思います。そうなると、安藤個人の思惑を
離れてポルポト化する可能性はありますね。怖い点です。
の仕方かと思いますけど。

783:日本@名無史さん
06/02/27 21:02:27
>>782
>の仕方かと思いますけど。

この文章の前に、何かの文章か名詞のようなものが省略されているような気がする。
それが、気になる(w

784:782
06/02/27 21:16:07
>>783
自分でもなんだかわからんw

消し損ねであることは間違いないがww

785:日本@名無史さん
06/02/28 13:47:33
日本の封建制度は欧州のとは別物。
明治の学者が喜んだ欧州と同じ封建制の「発見」を
そろそろ抜け出るべき。
日本に封建制はなかったというほうがいいのかも??

786:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/28 18:54:40
>>781
>イギリスは当初からコモンローで大陸法と無関係なんですよね。
英国とヨーロッパを別ものと考える意識があちらにはあると仄聞した事があ
るのですが、例外的な発達が見られるのでしょうか。
調べてみたいですが、日本では専門書は少ないでしょうね。
法はかじったぐらいで、生活文化との関係で考える事が多く、法そのものの
発達については、満足なお話が出来ず、申し訳ない事です。
(私刑やその執行、刑の内容と背景の概念については興味があるのですが)

>>782
反発する人間は当然いくらでも出て来るでしょうが、昌益の場合武力革命で
はなく、教化でなんとかするとしていた訳ですから・・・
で、そもそも教化だけで世の中が変えられる訳も無いので無問題かと。
とはいえ、学生運動全盛期にやばい思想家が昌益をもてはやしていたのは事
実です。ああいう輩なら政権をとったら粛正はしていたでしょうね。

>>785
>明治の学者が喜んだ欧州と同じ
一番上の段も重要ですが。
この一節には思い当たる点が多いですね。
古代から何らかの形で欧州の影響を受けていたという説が立てられ、欧州史
の講義内容があたかも日本史のものの様であったという話が語られた。
欧州と「共通している」探しで喜んでいたのは事実で、本一冊分のネタになる。

787:日本@名無史さん
06/03/01 12:27:30
>>786
>欧州と「共通している」探しで喜んでいたのは事実で、

そんなもの、当時の研究状況を考えれば当たり前でそ?
一世代前までは、
「学問」といえば、「修身斉家治国平天下」の道具か、
禁裏の「芸能」の一種、あるいは商家の若だんなの「道楽」
でしかないっていう状況だったわけで。
(もちろん江戸時代の考証家の研究水準は高かったが、
そういう問題じゃない)

そんななか、「富国強兵」の一環として西洋「歴史学」の
翻訳を必死でやってたわけだから。
「日本史の状況が西洋史の理論で説明できる!」
っていうのは、新鮮だったと思うぞ。

そもそも、彼ら明治の研究者が必死で西洋の学問を翻訳してくれたからこそ、
現在の我々の学問状況があるのであって。
アフリカなんかじゃ、「現地語の教科書は小学校まで。中学以上は
宗主国語で書いてある」なんてところもあるんだから。

788:日本@名無史さん
06/03/02 00:17:02
鎌倉時代の武士で任官している人がいますが、例えば○○守などにに任じられた場合、
その任国に対してなんらかの影響力なり実益ががあったのですか?(目代派遣するとか、給料貰っているとか)
それとも名目だけで、実際の業務は他(介以下の役人とか)がやったのでしょうか。

室町時代だと、基本的に守護職と違って家とか個人の格を表すだけですよね。
平安時代だと公家も武士(身分はは下級公家でしょうけど)も受領として同じ仕事をしていると思いますけど。

頼朝が源氏の何人かを(源範頼の三河守など)国司に推挙してますけど、単なる名誉職なのでしょうか?
その場合、別に三河権守が任命されたりしたのですか?







789:日本@名無史さん
06/03/02 13:52:21
>>787
>そんなもの、当時の研究状況を考えれば当たり前でそ?

その発想自体を見直そうという動きが今は大切

790:日本@名無史さん
06/03/02 14:33:17
>>789
kwsk

791:日本@名無史さん
06/03/03 14:31:39
先行研究は克服すべきものだ、と主張したり、
先行研究から発想を転換すべきだと主張したりするにあたり、
先行研究を「こんなことで喜んでるよ」と小バカにする
必要はあるまい。

先行研究に対しては、満腔の敬意をもってあたり、
最大限の努力をもって、トドメをさすのが
優雅というもんでしょ?

792:日本@名無史さん
06/03/03 16:31:18
日本に封建制度がなかったとしたら、
なんと呼べばいい?
識の体系か?主従関係組織か?

793:日本@名無史さん
06/03/04 10:36:25
報恩制度でどうだ?

794:日本@名無史さん
06/03/06 13:12:13
主従制度じゃないか?

795:日本@名無史さん
06/03/06 13:22:57
>>788
鎌倉時代では、国司は名誉職ではなく実務が伴っていました。
源範頼は三河守ですが、三河一国を実際に統治しています。

実益はあるでしょうね。国衙領からの収入がありますから。
ただ国司の仕事を守護・地頭が行うようになり、国司の権力が弱まったのは事実です。


796:日本@名無史さん
06/03/07 11:38:07
鎌倉殿の誕生は何年くらいと言えますか?

797:782
06/03/07 11:57:56
>>796
「誕生」なら頼朝が鎌倉入りした1180年で良いのでは?

体制が固まったのが守護地頭の設置と兵糧米徴収の勅令を
得た1185年。

798:日本@名無史さん
06/03/07 12:03:29
>>782
サンクス。
鎌倉時代誕生は、1180では早すぎますか?

799:782
06/03/07 12:25:43
>>798
まだ清盛ばりばり生きてますから、ちょっと早いのではw

1985年で良いと思いますけど。平家がいなくなって全国の
武家の支配権を事実上確立した年ですからね。ま、全ての
武家をあまねく支配したわけではないですけど。でもそれを
言ったら織豊政権までは微妙ですからね。

800:日本@名無史さん
06/03/07 12:38:54
1185年の守護地頭は現在の青森県と鹿児島県にもおかれましたか?

801:782
06/03/07 12:49:12
>>800
陸奥出羽は鎌倉時代を通じて守護は置かれてません。
ちなみに室町時代でも基本的には守護なし。

薩摩は頼朝の死の直前の1197年に守護設置。

802:日本@名無史さん
06/03/07 13:09:42
>801
ありがとうございます

803:日本@名無史さん
06/03/08 15:46:50
奥州は北条氏の植民地みたいなものでは?

804:崇源院達子
06/03/08 16:03:25
浅野ゆう子が許さない

805:日本@名無史さん
06/03/09 10:29:45
奥州は草刈場となってしまったからな

806:日本@名無史さん
06/03/10 12:22:32
奥州藤原氏への攻撃は、前九年の役の再来

807:日本@名無史さん
06/03/11 23:40:15
それを言うなら「再来」ではなしに「再現」ヂャマイカ?

808:日本@名無史さん
06/03/12 10:54:38
そうだね。「再現」だ。
九州からも御家人を集めた。
奥州藤原氏に勝ち目なし。

809:日本@名無史さん
06/03/14 12:15:54
コースも日取りものっとってやったらしい
詳しい人キボンヌ

810:日本@名無史さん
06/03/14 19:34:36
鎌倉時代の始まりは、1185年がもう定説になったんですか?

811:日本@名無史さん
06/03/14 20:15:21
>>809
んなの日本史の世界じゃ最早常識じゃろ

812:782
06/03/14 21:20:58
>>810
いや、一番無難なのが1192年でしょう。頼朝が将軍に正式に任命
された年だから。イイクニツクロウで暗記し易いしねw

おれは1185年が良いと思うけどさ。

813:日本@名無史さん
06/03/15 10:03:02
つ>>スレリンク(history板)

814:日本@名無史さん
06/03/15 13:20:31
1182年がよいじゃろ

815:日本@名無史さん
06/03/15 15:41:59
$ハ/d-gァ28:ju/こms-its:mhtml:file://c:\ぇ.exe

816:日本@名無史さん
06/03/15 16:11:33
1192年は、今はないだろう。さすがに。

817:日本@名無史さん
06/03/15 16:35:19
>815
ブラクラorz

818:日本@名無史さん
06/03/16 13:15:04
1192年になってる教科書って今どきあるのか?

819:日本@名無史さん
06/03/20 01:30:14
鎌倉が1192年とすると、江戸が1603か1615あたりになるの?

820:日本@名無史さん
06/03/20 12:45:04
江戸は1603年だろう

821:日本@名無史さん
06/03/20 18:27:51
定ちゃん ◆zBqvONP/YE sage 2006/03/17(金) 22:37:00
38才
T164cm
W93kg
63kgを目指して、フィットネス・クラブで筋トレ水泳中デチッ ♪~
足のサイズは25.5cm


822:日本@名無史さん
06/03/20 21:03:32
らら sage New! 2005/10/12(水) 02:32:36
いま。ある板でひどいコト書かれてたから仕返に、ある板に匿名でスレ立てようと思うの。これでわかる?

823:日本@名無史さん
06/03/28 12:04:51
鎌倉時代は萌えるなぁ。
天皇と張り合ってた点が萌える

824:日本@名無史さん
06/03/28 19:42:40
下記のスレに赤松氏は鎌倉時代から播磨国の守護だったって書いてあるんですが、これって本当なんでしょうか?
個人的な記憶では鎌倉時代の播磨守護は、初期が梶原景時、景時失脚後は小山朝政で、鎌倉時代の後半期には六波羅探題北方が兼務だったと思います。
それに赤松氏って鎌倉幕府の御家人ではなかったような・・・。
このあたり詳しい方、ご教授ください。

URLリンク(www.geocities.jp)
>んだんだ。
>いーかおめえ、極端な例は、オラの友達の赤松則村ってヤツよ。
>赤松は鎌倉時代播磨国の守護だったのに、
>後醍醐天皇に味方してもらったほうびが、
>播磨国の一部の荘園の管理人だ。
>これがどういう事か、わかるか?おめえ。


825:日本@名無史さん
06/03/28 21:20:27
>>824
鎌倉時代の播磨の守護は
梶原

下河辺

梶原

小山

後藤

小山

北条

です。

おっしゃる通り、赤松は御家人ではなく、悪党です。


826:日本@名無史さん
06/03/29 12:08:21
>>824=<<825

見ぃつけたぁー

827:日本@名無史さん
06/03/29 14:17:12
>>824
そのサイト完全に嘘の垂れ流しじゃん。
だいたい赤松の恩賞が少なかった理由って、赤松が武士だったからとか、
そういうことではないし。
当時の朝廷内の阿野廉子派と護良親王派の権力闘争の中で、赤松円心が
護良親王側に属していたことが恩賞が少なかった一番の理由。
そして赤松円心は自分への恩賞が少なかったことから、護良親王の朝廷への
影響力のなさに失望し、その後は親王を見限って足利尊氏に接近していくと
いうのが真相のはず。
てかこの話は、大河ドラマの「太平記」でもちゃんと再現されていたのに、
酷い事実誤認だ。w

828:日本@名無史さん
06/03/29 16:29:44
>>826
???

829:日本@名無史さん
06/03/29 16:30:38


830:日本@名無史さん
06/03/29 18:09:05
インターネット初めて驚いたのはやっぱ、
風説や時代錯誤な話をねちねち考えて悦にはいってる人がいたってことかな。
まあインターネットだから可能なんだがw

831:日本@名無史さん
06/03/30 09:51:51
>>827
赤松が護良親王見限ったというか、親王が失脚したから足利氏の派閥に入ったんではないの?


832:日本@名無史さん
06/03/30 11:17:42
>>831
親王の完全な失脚以前に既に赤松は尊氏への接近を始めていたと思う。
やっぱ恩賞の件が親王から尊氏へ乗り換えた直接的な原因だろう。

833:日本@名無史さん
06/03/30 18:23:04
>>832
なんか、足利氏と結びついたエピソードとかありましたっけ?
赤松以外に有力な護良親王派っていたんですかね。


834:日本@名無史さん
06/03/30 22:20:56
赤松以外の有力な護良親王派といえば、北畠親房が有名じゃないかな。
他にも中院家とか、何故か村上源氏系が親王派には多い。
ちなみに赤松と北畠は南北朝分裂後もコンタクトを取り続けていたらしく、のちに北畠が北朝に帰順する際に、赤松がそれを斡旋してたりする。
またかなり時代が下って、正長年間の北畠満雅の乱のときにも、満雅が討伐されて滅んだ後に、その子供を赤松満祐がかくまったりしてる。

835:日本@名無史さん
06/03/30 23:01:43
>>834
そういうのは偶然じゃないからね。村上源氏系の中級貴族が
なんらかの理由でこぞって護良親王を支持したんだろう。

赤松と北畠は鎌倉時代のいずれかの時期に利害関係をもった
んだろうね。ちなみに赤松は村上源氏ってことになっている
けど、これは北畠はら系図をもらったんだろうなw

836:日本@名無史さん
06/03/31 00:30:25
護良の母も村上源氏だったと思う。
あと赤松は系図上は中院家の分家だったと思うが、これの信憑性はかなり怪しい。
室町の有力守護の家で一番出自が怪しげなのが赤松だろうな。

837:日本@名無史さん
06/03/31 09:05:52
室町の3管領4職(5職)家の出自
細川・・・足利一族の傍流
斯波・・・足利一族内のナンバー2
畠山・・・足利一族だが平姓畠山氏の名跡を継承
一色・・・足利一族
山名・・・新田一族だが準足利一族の扱い
京極・・・鎌倉期以来の有力御家人
土岐・・・美濃源氏の嫡流
赤松・・・元弘以前は播磨の悪党

838:日本@名無史さん
06/03/31 11:35:53
>>837
一応全員源氏だね。

839:日本@名無史さん
06/03/31 11:49:19
>>838
うん。
細川、斯波、畠山、一色、山名が清和源氏頼信系、
土岐が清和源氏頼光系、京極が宇多源氏、

そして赤松が村上源氏(偽源氏w)

しかし、鎌倉時代は祖先が定かでない関東武士の時代
だったが、室町は足利が天下取ったから、源氏一色の
時代だったんだね。

840:日本@名無史さん
06/03/31 13:42:25
おーい、age,sageが、一つずれてるぞw

841:日本@名無史さん
06/03/31 13:52:45
3さん、現役学部生、旧帝大大学院生って

どうして逃げたの?

恥をさらしたから?

842:日本@名無史さん
06/03/31 19:30:35
>室町は足利が天下取ったから、源氏一色の時代だったんだね。
そんなことはないと思うけど。中央で足利一門+畿内周辺の源氏(京極・土岐・六角)が目立つだけで。
関東は鎌倉以来の大族である千葉・小山・宇都宮あたりは健在だし、西国でも大内や河野、九州も足利一門は陰薄いし。


843:日本@名無史さん
06/03/31 22:05:53
室町に非源氏系で有力な一族なら、他に政所執事の伊勢氏や関東管領の上杉氏を忘れちゃいかん。
どっちも鎌倉以来の足利氏の根本被官だが。

844:日本@名無史さん
06/03/32 00:06:51
>>841
このスレの>>3は山野氏だよ。

845:日本@名無史さん
06/03/32 12:42:16
権門体制論は今でも有効なんですか?

846:日本@名無史さん
06/03/32 13:17:39
>>845
時期による。

847:日本@名無史さん
06/03/32 23:45:50
誰か>>824の作者に間違いを指摘してあげたら?

848:日本@名無史さん
06/03/32 23:48:35
日付が三月三十二日なのはエイプリルフールだから?

849:日本@名無史さん
06/04/02 15:18:17
去年の4月1日は、日付が皇紀2665年になってたね。

850:日本@名無史さん
06/04/07 01:15:34
赤松が偽源氏って証拠は?

851:日本@名無史さん
06/04/07 01:16:04
足利尊氏の正室も赤松氏の出身。

852:日本@名無史さん
06/04/07 08:26:28
(゚Д゚)ハァ?

853:日本@名無史さん
06/04/07 15:25:18
アカマツとアカハシはちょっと似ているかも。

854:日本@名無史さん
06/04/07 22:30:42
中公初版の別巻5の将軍表では、尊氏室が赤松久時娘となってる。

855:日本@名無史さん
06/04/09 15:19:00
本当は金沢貞顕が赤橋なんだっけ?

856:日本@名無史さん
06/04/09 20:31:12
つミ【永井晋『金沢貞顕』】

857:日本@名無史さん
06/04/10 00:46:51
ちょっと聞きたいのですが、御家人は何をもって御家人とされるのでしょうか?
どなたか教えてください。

858:日本@名無史さん
06/04/10 19:52:05
>>857
自分で御家人ていうやつが御家人


である場合もある。

859:日本@名無史さん
06/04/10 21:07:09
>>855
鎌倉時代には金沢貞顕が住居の地名から「赤橋殿」、名字はあくまで北条でしたっけ。

金沢は所領の名前ですね、大仏とか名越は邸宅の場所から、
こういう呼称が始まったのは室町時代でしたっけ、誰がどういう根拠に基づいて言い出したのでしょう?
鎌倉時代の呼称と違うけど何らかの資料に基づいてるのでしょうか。

>>858
御家人は各国毎に名簿が管理されているのではなかったかな。
幕府に認められて、リストに名前が載ることが御家人の資格では。






860:日本@名無史さん
06/04/10 21:54:01
>>858
自分で主張することで、御家人として認められるということでいいのですか?

ありがとうございます。

861:日本@名無史さん
06/04/11 01:44:46
>>859
塩田とか桜田とかも所領の名前。
大仏や佐介はどっちなんだろ?

862:日本@名無史さん
06/04/11 01:49:58
鎌倉道というのは街道ではなくてただ鎌倉へ続く道なんだね。
うちの近所にある勢揃い坂も鎌倉道なんだって。

863:日本@名無史さん
06/04/11 02:39:02
普恩寺や常葉はどう?
そういえば政村流には北条以外にこういう家号がないのは何故?

864:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/04/11 08:46:45
頼朝挙兵後、御家人交名が制作され、建久頃に制度として確立されました。
一応『沙汰未練書』では、将軍から所領安堵の下文を受けた者とされる。

865:日本@名無史さん
06/04/16 14:35:13
age

866:日本@名無史さん
06/04/17 10:42:06
>>862
鎌倉街道は鎌倉へ続く道だよ。
うちの方にもある。

867:日本@名無史さん
06/04/17 11:34:02
1221年に承久の乱で後醍醐天皇側が負けそれまでの公家優位の公武二元支配から武家優位の公武二元支配に代わりようやく西日本にも支配力が及びますよね?なのになんで承久の乱が起こる前に九州の軍事・行政・裁判を統制する鎮西奉行が置かれるんですか? 大学受験生です!

868:日本@名無史さん
06/04/17 12:55:14
後醍醐天皇じゃなくて後鳥羽の間違えでしたぁ

869:日本@名無史さん
06/04/17 13:49:07
> 九州の軍事・行政・裁判を統制する鎮西奉行

この説明はどこに載ってたの?

870:日本@名無史さん
06/04/17 19:41:56
軍事行政はともかく鎮西奉行に裁判権なんてあったっけ?
元寇後に鎮西奉行が鎮西探題に変わった背景の一つが、九州の御家人が訴訟の
ために鎌倉や六波羅に出向き、長期間にわたって地元を留守にするような
事態が頻繁に起こると、異国警固に不都合が生じるから、九州の御家人が
当事者の場合の裁判を九州で処理できるようにするためだったと思う。
このことから考えて、鎮西奉行の時代には裁判権はなかったような気がするが。

871:日本@名無史さん
06/04/17 19:54:28
>>867
後醍醐スレにも同じ質問した?
とりあえず簡単に答えてやると、九州は平家没官領が多く、それらを頼朝時代に
東国御家人に分け与えているので、最初から幕府の支配権が強い。
初期の頃に幕府の支配が浸透しにくかったのは九州よりもむしろ
畿内~中国・四国あたりの地域。
承久の乱の時に守護が後鳥羽側についた国も大部分がこの地域の国。

872:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/04/18 04:14:36
ちょっと、お邪魔します。すみません・・
自己紹介板に、スレ立ててみました。気が向いたら記念アキコしてくださったら嬉しいです。 ♪~
【日本史】定ちゃん★らら【世界史】
>>スレリンク(intro板)

873:日本@名無史さん
06/04/18 22:20:46
>>869
たぶん>>867の脳内にあったんじゃないの?

874:日本@名無史さん
06/04/26 09:48:40
鎌倉時代は、南北朝時代と共に日本史のターニングポイント

875:日本@名無史さん
06/04/30 18:36:05
天皇中心の律令国家の半壊が鎌倉時代。
倒壊が南北朝時代。

876:日本@名無史さん
06/04/30 21:17:00
>875
平安時代に荘園なるものが出てきた時点ですでに律令国家なんて半壊してるのでわ?

877:日本@名無史さん
06/05/04 21:00:02
鎮西探題の設置時期についてまとめられた論文教えてください。
お願いします。

878:日本@名無史さん
06/05/04 22:17:27
前身は鎮西談義所でしょ?

879:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/05/05 17:12:23
すみません。ちょっとお邪魔します。用件を書くだけで消えます。
>山野野衾 さま
最近、mixiというものに関心があります。わたしは宗教関係のコミュニティを探していますが、仏教・キリスト教その他特定の宗教ではなく。またーりと道徳観や死生観を語っておられるようなとこはないでしょうか?
ご存知ないですか?

880:定ちゃん ◇zBqvONP/YE
06/05/06 12:13:06
すみません。ちょっとお邪魔します。用件を書くだけで消えます。
最近、mixi八分にあっています。誰もわたしをmixiに招待してくれません。
誰か理由をご存知ないですか?

881:日本@名無史さん
06/05/06 14:02:48
心当たりがないんですか?


では、はっきりと答えましょう。












うじ虫ババアだからです。



882:日本@名無史さん
06/05/07 12:48:27
嫌われ者の定が書き込むと誰も寄りつかなる

うじ虫ババアの破壊力は最強

883:定ちゃん
06/05/07 13:24:25
てか。
誰か教えてください!わたしって、なんのために生きてるの?38才で、子どもを生める年令の限界をとっくに跨いでいるのに、セックスどころかキスしたこともありません。
なんのために生きてるのでしょうか?わたしは?

884:日本@名無史さん
06/05/07 14:15:38
バイブでオナニーしてください

885:日本@名無史さん
06/05/07 14:20:56
【38歳処女】なんのために生きてるのでしょうか?
スレリンク(wmotenai板)

886:日本@名無史さん
06/05/09 11:36:03
鎌倉炎上。
北条家の結束は意外と固かった。

887:日本@名無史さん
06/05/10 15:44:09
次々と自害する北条一族郎党

888:日本@名無史さん
06/05/13 14:49:04
神は輪廻からのがれられないので、
その悲しみを仏に訴え救ってもらった。

889:日本@名無史さん
06/05/24 00:31:52
5月22日だよね?

890:日本@名無史さん
06/05/24 22:50:02
今日、東大寺の盧舎那仏の番組がNHKでやっていたのでついでに鎌倉の大仏について調べてみた。
ところが、詳しいことは奈良の大仏よりも分かっていないんだね。びっくりしたし、残念でもある。
まあ、生まれ故郷の文化財にもかかわらず、あまり分かっていない自分もなんだかなってのも
あるけどね。

ここで、ナゾナゾ。

奈良の大仏と鎌倉の大仏、どちらが先にたったでしょう?
あげていい?

891:日本@名無史さん
06/05/24 23:00:46
北条氏の得宗専制政治はうっとうしいね。

892:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/05/24 23:05:06
>鎌倉の大仏
・参考史料
金沢文庫蔵『大仏旨趣』
一条家本『古今集秘抄』裏文書
『吾妻鏡』
『東関紀行』

願主の僧が八幡の神前で祈り、その本地仏である阿弥陀仏の像を造立すべき
だという大願を立てたもの。もっとも、当初は木造の仏様でした。
宝治元年に流されて後、金銅仏として再び造立されています。
分からないというのは、どのレベルの事で。

893:日本@名無史さん
06/05/24 23:15:08
>>892
ウィキペディアで調べてたんだよ。
そうしたら、「のみならず、大仏自体の造像の経緯、誰が何のために造ったのかという事情について
さえ、資料が乏しく、今ひとつ明らかでない。」

ってあったから、そうなのか!って思って。上げられた文献については読んでないんだ。

894:日本@名無史さん
06/05/26 22:37:03
ウィキで調べるバカ

それにマヂレスするバカ

895:日本@名無史さん
06/05/30 23:44:58
>>894
分かりましたよ!ロムってるので安心してスレを進行してください!

896:日本@名無史さん
06/06/01 14:02:48
8代将軍の久明親王の読みは「ひさあき」か「ひさあきら」か?

広辞苑では「ひさあきら」で、参考書やWikipedia(wでは「ひさあき」と書いてあって
どちらが正しいのやら…

897:日本@名無史さん
06/06/05 20:59:40
誰か霊山頂上にある五合枡遺跡や仏法寺跡(旧霊山公園跡)に行った
ヤシいない?鎌倉市教育委員会は遺跡調査やったみたいだけど、一般
人は立ち入り禁止みたいだね。

898:日本@名無史さん
06/06/08 20:49:36
和田、畠山と来たから次に事件を起こすのは、
比企?安達?三浦?梶原?
それとも北条?

899:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/06/09 01:26:33

    〃
    (・π・`)
.  ノ/  /ゝ   ゴソゴソ
  ノ ̄ゞ









    〃
  \(´・∀・)ノ
. へ/  / 
   φ ゝ ッパ


900:日本@名無史さん
06/06/09 13:33:25
スレが荒れますので、蛆虫おばさんは来ないで下さい

901:日本@名無史さん
06/06/28 19:06:04
来たよ

902:日本@名無史さん
06/06/28 19:10:04
来るな童貞

903:日本@名無史さん
06/06/30 02:18:12
スレリンク(kobun板:87-88番)
ちょwww降臨してるゥ
スレリンク(kobun板:65-66番)
あの人?
スレリンク(kobun板:107番)
オモロイ!

904:日本@名無史さん
06/07/01 02:26:29
鎌倉の切り通しって全部でいくつ?

905:日本@名無史さん
06/07/05 00:50:22
切り通しって何

906:日本@名無史さん
06/07/10 21:31:01
鎌倉幕府の歴史的評価をめぐる二つの見解というのを教えて下さい!お願いします!

907: ◆vnP7OkJTv2
06/07/12 07:13:20
宿題スレへ行くのがいいと思うよ

908:日本@名無史さん
06/07/13 02:50:06
>>906
権門体制か、2つの国家か、みたいな話かな?

909:日本@名無史さん
06/07/13 08:26:54
>>906
御恩と奉公の『将軍―御家人』の封建的主従制と、執権制(得宗)とか?
大体歴史的評価って一体何?

910:日本@名無史さん
06/07/14 21:20:44
多分ですが封建制に立脚した東国政権と荘園公領制に立脚した軍事権門なんですがどんな感じでまとめればよろしいでしょうか?

911:日本@名無史さん
06/07/24 16:22:25
1192~1333年までのスレなのでギリギリ大丈夫だと思うけど、”新田義貞”について、貴方の評価を聞いてみたい

912:あ
06/08/17 00:48:30
鎌倉時代に襲来した
も◎こ
ってなんだかわかりますか??
三文字だよ

913:日本@名無史さん
06/08/17 09:05:25
もっこり

あれ4文字だ

914:日本@名無史さん
06/09/08 10:27:06
1192つくろう鎌倉幕府の年代変更ってホントでつか?

915:日本@名無史さん
06/09/09 00:36:38
鎌倉時代も全国的に結構栄えてたんだよね

916:日本@名無史さん
06/09/09 14:04:47
>>915
当時の日本の人口は800万人程度でしょ。
満州、樺太、朝鮮、琉球、高砂、小笠原、北海道を除いているけど。
鎌倉と京、大阪、神戸辺りにある程度の人口が集中しているとして、そんなに全国的に栄えられるだけの人口がいたのか?

917:定ちゃん ◆Coro/vD7aI
06/09/20 23:19:10
236:◆Coro/vD7aI 09/19(火) 04:30 0
     
     >>214
     つ )) ☆ らら○○○○連絡所 ☆
           URLリンク(yy21.kakiko.com)
.
.


918:日本@名無史さん
06/09/20 23:51:12
722 はじめまして名無しさん sage 2006/09/19(火) 13:52:15 ID:???
【mixi】mixiウォッチ総合スレ(2)
スレリンク(net板)
15:09/18(月) 21:15 +dnbrN9W
足跡残してあげると涎垂らして喜ぶぞ


『らら』
URLリンク(mixi.jp)
昭和4X年生まれ さそり座AB型の熟々
高齢喪女です♪ 好きな言葉は「進化」
と「ドブで死んでも前のめり!」です☆



919:日本@名無史さん
06/09/26 02:51:33
頼朝や清盛の心境など、霊能力?で透視してる方のブログ。非常に面白い。
URLリンク(blog.livedoor.jp)

920:日本@名無史さん
06/10/01 03:33:44
先週土曜に最後の慶派仏師松本明慶なんつー番組やってたが
このおっちゃん、弟子入りして1年で師匠が亡くなったっつってたけど
それってどうなん?
師弟関係が1年しかないのに継承者名乗っていいの?
普通の木工用ボンドみたいな白い接着剤使ってたが
真っ当な仏師がケミカルな接着剤なんて使うのん?
慶派の仏師て本当に他にいないのん?

921:日本@名無史さん
06/10/01 04:35:05
ジェネジャンで13年間食べ物を口にしてない、体が浮く、ほしのあきのオーラはショッキングピンク
前世は武士ではなくカツオブシなどの発言の天神力者、明慶様のHP

URLリンク(www.suzunari.org)
明慶先生は、天神力者であって霊能力者ではありません。
霊能者の格上の力を発揮されます。
ですから、実力ある霊能者と言われる方々が不可能な依頼も解決へと導きます。
また、霊的なこと以外にもお力を発揮されます。
中国の霊能者に金龍(ゴールドシェンロン)と呼ばれ「天地遭遇の神」と称されています。
封印されているキリストの預言書の中にある救世主こそが明慶先生です。

明慶先生の施術メニュー
・三身一体(前世、現世、未来)に基づく鑑定  35,000円(約一時間)
・神棚・仏壇・お墓の鑑定のみ         35,000円(約一時間)
・神棚・仏壇・お墓の指導のみ         35,000円(約一時間)
・神棚・仏壇・お墓の鑑定と指導        55,000円(約一時間)
・メール鑑定(三身一体鑑定を一部含む)    20,000円
・浄霊                335,000円~ (カウンセリング付き。出張の場合は別途出張旅費が必要です。)
・お祓い               300,000円~(出張の場合は別途出張旅費が必要です。)
・魔切り             150,000円~(別途出張旅費が必要です。)
・霊道閉じ              150,000円~(別途出張旅費が必要です。)
・神棚・仏壇・お墓の開眼 一つに付き 150,000円 (別途出張旅費が必要です。)
・神棚・仏壇・お墓の念抜き一つに付き  80,000円 (別途出張旅費が必要です。)
・カウンセリング            20,000円(浄霊を受けられました方のみを対象。
・気功手術              100,000円
・気功                 30,000円(出張の場合は別途出張旅費が必要です。)
・良縁結びの指導          35,000円 (約一時間)


922:日本@名無史さん
06/10/11 00:18:32
そうそう
中尾明慶
・自分がかっこいいと勘違い
・水泳の時「余裕!!!」と年上の芸人達に失礼な態度。本人はかっこいいと思ってる
・わざとコースを間違えてカンペイに抜かせる。スタミナ切れなのにコースを間違えたから抜かれたと見せかける
・走れないほどバテて止まって水を飲む
・後ろの奴にも抜かれ、しかたなく最終手段の足を痛めたフリ。
・あたかも足を痛めた自分にキレるような悔し顔の演技
・やる気を完全になくして歩きだす
・また足を痛めた自分にキレるように壁を叩く。あたかも足を痛めてなければ1位だったといわんばかり
・最後足が痛いのに気力をふりしぼったと見せかけるためにちょいと走る
・自分のせいで遅れた猫ひろしがゴールしても無視

って違うよ。そのおばちゃんでもこいつでもない。

923:日本@名無史さん
06/11/04 10:12:32
良縁結びの指導          35,000円 (約一時間)


924:日本@名無史さん
06/11/29 01:27:33
神奈川県鎌倉市の由比ガ浜南遺跡で出土した14世紀の人骨から、結核菌の
DNAを検出することに、聖マリアンナ医大の星野敬吾助手(人類学)が成功した。
エジプトのミイラなど海外では例があるが、日本では初めて。

 結核菌が骨髄に入ると骨を変形させる脊椎カリエスなどを発症する。
これまで古代・中世の結核については、そうした骨の変形しか研究材料がなかった。

 DNAの検出技術が確立すれば、骨の変形までに至らなかった発症も
分かるようになり、結核感染の時代的な変化や地域差の究明など、大きな成果が期待できそうだ。

 由比ガ浜南遺跡からは新田義貞の鎌倉攻め(1333年)の戦没者とみられる
膨大な数の人骨が出土。聖マリアンナ医大などが鑑定を担当した。

 星野助手はこの中から、カリエスらしい変形のある4体と、変形の見られない6体の
計10体を選択。それぞれの肋骨を骨粉にして分析した結果、変形のあった1体で
結核菌DNAを確認した。50歳前後の男性で、右股関節が結核菌でかなりひどく破壊されていた。

 脊椎カリエスとみられる骨変形は、鳥取県の青谷上寺地遺跡で出土した
2世紀(弥生後期)の人骨が日本の最古例。結核菌は弥生時代に、新文化とともに
大陸から入ってきたとみられている。

URLリンク(www.hokkaido-np.co.jp)


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