☆いざ☆鎌倉時代史総合スレ☆鎌倉☆at HISTORY
☆いざ☆鎌倉時代史総合スレ☆鎌倉☆ - 暇つぶし2ch309:日本@名無史さん
05/10/31 01:09:31
303ですが、すんません、冗談なんで併記しなくてもいいです。
つか、しないで下さい…。

310:日本@名無史さん
05/10/31 01:12:15
>>309
え~面白いのにぃ~。

>Q、じゃあスレ違いの人は?
>A、うーん、個別の専門スレを排除するつもりはないよ。

このへんなんかサイコー。


311:日本@名無史さん
05/10/31 02:40:47
脇田さんの『日本中世商業発達史の研究』復刊してほしい。
高いよ。

312:日本@名無史さん
05/10/31 02:58:51
復刊してもそこそこ高いだろうなあ、あの厚さでは。
個人的にはもう読む必要ないと思う。一昔。二昔前の理論だし。
今となっては学説史的意味しかないと思う。もちろん名著ではあるが。

313:日本@名無史さん
05/10/31 13:44:01
脇田さんて表彰されてた?

314:日本@名無史さん
05/10/31 14:49:48
うん、勲章もらったんだっけ?

315:日本@名無史さん
05/10/31 17:24:14
アゲ

316:日本@名無史さん
05/10/31 20:14:08
脇田晴子さんが文化功労者になりましたがそのことですか?

317:日本@名無史さん
05/10/31 21:42:07
勲章と違うのか?

318:山野野禽 ◆XBusCUEzTA
05/11/01 05:13:16
私のいきつけの古書店では4万円です…。
買えません。絶対買えません…。

319:日本@名無史さん
05/11/01 12:12:39
図書館にないの?

320:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA
05/11/01 21:07:45
某古書サイトで検索してみたところ、2万円で売っていましたよ。
今更無理をして購入される事も無いと思われますが。
今京都の百万遍知恩寺(ここも歴史がありますね)で古書市がありますが、
関西にお住いでしたら、日曜日までにお探しになるのも良いでしょう。

321:日本@名無史さん
05/11/01 21:17:45
夏と秋は埃っぽいから嫌い
つか初日にいかないと掘り出しもんなんか残ってねいしな

322:日本@名無史さん
05/11/01 22:38:13
初日初めに並んで並んで開いたと同時に走ってお目当てのちびまる子ちゃんの漫画を何故か買う快感。

一度こんな奴を見たなあ…。

323:日本@名無史さん
05/11/01 22:47:53
誰かが目の色変えて走り出すと追いかけずにはいられないって
馬かwおまいは・・・

文頭と文末の描写が妙なのはデフォ?

324:お 定 ◆e8G3HDKGd.
05/11/01 23:48:36
〉10は、
偽者ですが ..なんで?!

325:お 定 ◆e8G3HDKGd.
05/11/01 23:53:08
〉324
誤爆しました。すみません ..orz

326:定 子 ◆e8G3HDKGd.
05/11/02 00:15:00
誤爆ちがぅ 〉10は、わたしが書いてぃますた。スレごと勘違ぃでした。
少量のチューハイで泥酔してぃるみたぃで ..祝盃過ぎっ?!
では。また 。。

327:日本@名無史さん
05/11/02 00:33:37
結局山野の雑談スレになってるんでやんの

328:日本@名無史さん
05/11/02 12:30:01
日食月食には、天皇と将軍を筵で包み隠していた
王権の保護のため

329:日本@名無史さん
05/11/03 19:30:01
今日のNHKのPM7:00のニュース見てたら、
聖マリアンナ医大の研究で由比ヶ浜の遺跡調査の結果、
鎌倉時代の平均寿命は24歳だってやってたな。
もうちょっと、上だと思ってたんだが・・・。
まあ、平均寿命は幼児死亡率によってかなり左右されるからな。

330:日本@名無史さん
05/11/03 21:12:24
ということは、よく「得宗家の歴代はみな早死にだ」と言われるが当時としてはそうでもなかったのか

331:329
05/11/03 21:36:48
どうだろうねえ。今では欠かせない抗生剤が無い時代だからねえ。
前に読んだ本では、最古の癌患者は弥生時代の人骨から、結核の痕跡は古墳時代から、
と言うものがあったからねえ。

平安中期の藤原頼通なんか82歳まで生きてるし。
まあ、俗に平均気温が一番低かったのが江戸時代で、平均身長も一番低かったのは江戸時代という話があったな。

>>330
今の感覚では間違いなく早死にだけど、当時もそういう雰囲気・感覚があったのかね。
同時代の文献資料ではどういう風に思われてたんだろう?やっぱ因果律で説明されてんのかな?
ただ、一番高い乳幼児期の洗礼をくぐり抜けてきた中で、また10代・20代で落命するのも多い。
突飛な感染症でも平気で死に至る時代だからね。

332:日本@名無史さん
05/11/03 21:44:56
平均寿命24歳の社会ってどんなんだったんだろう? 子供が成人する(16歳?)まえに
親が死亡する場合が半数はありそうな余寒。そうすると、家族単位で一軒家に住んでたとも
思えない気がするし…。当時はどんなもの食って着て住んでたのか?

333:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA
05/11/03 21:59:58
戦前の没年齢を調べたら、還暦ぐらいまでは生きているのが普通であったと
か、前近代もそう変化が無かったという話があります。
閑な時に六国史に出て来る没年齢を計算してみたことがありますが、若死に
(50歳以前の死)はあまり無く、割と高い数値が出ました。
角田文衛先生が紹介された通り、延喜年間の阿波や周防の戸籍を見ると65
歳以上の高齢者もおり、周防の玖珂郡には100歳以上が二人も。
角田先生は近世の『宗門改人別帳』も参照されたそうですが、こちらでもや
はり80代以上が割と見られました。
今より歳の数え方がいい加減だった可能性もありますが、『日本霊異記』や
『大鏡』を見る限り、年齢は誕生年の干支から算出した様です。
鎌倉時代の身長の件ですが、男性なら160~170cm代も割といた筈。
女性はそれよりやや低いくらいで、一番低かったのが幕末から明治まで。

>332
>平均寿命24歳
幼児の死亡率を除けば、それなりに長生きだった筈ですよ。
食物は、京なら(米)・麦・粟・大豆・ささげにおかず少々といったところ。
山間部であれば、粟が主食でした。庶民は近代までそう変化が無い。
問題が量の方で、一日六合は食べていました。

若さと言えば、『梁塵秘抄』に、女の盛りは14、15、16で、35、36にも
なれば、「紅葉の下葉に異ならず」とありますが、せいぜい18歳までが女
盛りと見做されていました。これは『新猿楽記』などからも推測出来る。
無住も『沙石集』の中で、年齢を聞かれた女性が、
「18で御座います。40年前は」と答えたという話を紹介しています。

334:日本@名無史さん
05/11/04 00:52:48
>>329
骨?だったら合戦に駆り出された働き盛りだったとかは?

335:日本@名無史さん
05/11/04 01:19:10
──世界史板山野問題をご存じない日本史板住民のみなさまへ──

山野野衾というコテハンは、かつて日本史板の住民でした。
しかし、「日本史は厨房が多すぎる」という彼の考えにより、世界史板へと流れてきました。
世界史板で山野は日本史の話題を続け、ウザがられ、とうとう先日追い出されました。
現在では、仕方なく古巣の日本史板に住居を構えているようです。

つまり、山野から日本史板住民は見下され、世界史板住民からはウザがられているという構図なのです。

336:日本@名無史さん
05/11/04 01:52:41
>>335
ごく一部の人間が彼の知識に嫉妬して、うざがっていただけ。 
慕っている人がたくさんいる。 
追い出したのは強硬派の犯行。



337:日本@名無史さん
05/11/04 02:11:20
>>334
俺もそう思ったよ。
記事を見ていないのでよくわからんけど、
由比ケ浜といえば、和田合戦とか新田義貞の鎌倉攻めなんかの戦死者の骨が多い気がするしな。
てか、そもそもなんで由比ケ浜の骨だけで鎌倉時代全体の「平均」寿命まで分かるんだろう?

338:日本@名無史さん
05/11/04 02:24:45
>337
URLリンク(www.yurindo.co.jp)

339:日本@名無史さん
05/11/04 04:36:22
犯行だって…プ

340:日本@名無史さん
05/11/04 09:03:37
ニュー速+では、相変わらず厨な話が続いているが、一つ面白いデータがあった。

24.0歳 (32.9%) 帝政ローマ支配下のエジプト 33-258 Bagnall & Frier
24.3歳 (21.8%) イングランド 1301-1425 Russell
33.7歳 (n.a) イングランド 1541-1556 Wrigley
37.7歳 (17.1%) イングランド 1620-1626 Wrigley
34.6歳 (19.5%) イングランド 1726-1751 Wrigley
40.8歳 (14.4%) イングランド 1801-1826 Wrigley
24.8歳 (29.6%) フランス 1740-1749 Blayo
38.8歳 (18.1%) フランス 1820-1829 Blayo
37.8歳 (20.3%) スウェーデン 1751-1755 Gille
32.2歳 (27.7%) 日本 1776-1875 Jannetta
33.7歳 (29.5%) 日本 1800-1850 Yasuda
37.4歳 (21.6%) 日本 1751-1869 Saito

これをみると特に低いというわけじゃないな。

341:日本@名無史さん
05/11/04 13:51:49
乳幼児死亡率が高かったという話
今でもそういう国はある

342:日本@名無史さん
05/11/04 23:06:01
>336
>慕っている人がたくさんいる。
>慕っている人がたくさんいる。
>慕っている人がたくさんいる。
>慕っている人がたくさんいる。

山野さん名前欄書き忘れてますってば


343:日本@名無史さん
05/11/05 08:32:31
鎌倉時代の平均寿命は、死亡率の高い乳幼児を引けば、
50歳くらいじゃないか?

344:日本@名無史さん
05/11/05 08:52:41
どうでもいいよね。

345:お 定 ◆e8G3HDKGd.
05/11/05 09:01:13
山野先生おはようございます。
頼朝の愛妾だった、「亀の前(亀御前)」には、官位てか肩書きがあったのでしょうか?
あと ..

346:お 定
05/11/05 09:05:41
あと。
「御所」っていうのは、位階でしょうか?
位でしたら、かなーり偉いのでしょうか?
例えば、岩倉具視よりは↑ですか?
(カサノヴァ以降、肩書きづいてます ..)

347:海野
05/11/05 09:55:35
亀の前には官位ない。
御所は尊称。鎌倉幕府関係だと「竹の御所」なんてのがいて、
これは源頼家の娘。もっと勉強汁。


348:日本@名無史さん
05/11/05 10:06:34
ちょっと辞書をひけばわかることなのに・・・ものぐさなやつだ

349:日本@名無史さん
05/11/05 11:53:19
どうでもいいよね。

350:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA
05/11/05 14:37:44
>>345
前者(というか北条政子についてですが)については、アエラムックの
『日本史がわかる』をお奨め致します。初心者向き。
後者については、やはり辞書ですね。天皇や将軍を指す事もありましたが。

>348
餅ぐらい拾えと言われますよ。・・・あれは室町時代ですが。

351:日本@名無史さん
05/11/05 15:23:39
家臣が主君の一字を拝領するということが始まったのは鎌倉時代(頼朝あたり)からですか? 
平家の家人に盛が付くのがいるけど平家が始めなんでしょうか。

以前、北条泰時は何故頼朝からせっかく貰った頼時から改名したのかって聞いたら
戦国時代あたりと違って鎌倉時代は名前を拝領するという行為がそれほど重視視されていなかったので
変えても別に不思議はないというようなお話を聞いたのですが。



352:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA
05/11/05 20:49:48
偏諱を賜る話ですか?簡単なことなら出て来るかもしれませんが、詳しい
論文については、今は心当たりがありません。申し訳ありませんが。

353:定ちゃん
05/11/05 21:52:51
山野しゃんとセックスしたぃデチ..

354:お 定
05/11/05 21:55:06
わたしは..真剣です...

355:お 定 ◆e8G3HDKGd.
05/11/05 22:08:00
>>353>>354
偽者です。
すみません。実はネカマなので ..

356:海野
05/11/05 22:18:23
偏諱はあくまでも「ものしり」に類する話で、
論文になるほどの深みは期待できない。やめとけ。

357:お 定
05/11/05 22:22:00
山野氏と結婚したい..

358:お 定 ◆e8G3HDKGd.
05/11/05 22:26:04
>>357
偽者です。
今後は、否定カキコしません。
トリップがない「定」カキコはすべて偽者です。

359:らら
05/11/05 22:28:12
おちんこちょうだい..ダレか..

360:ジョーカー
05/11/05 22:35:20
・・・・・

361:らら ◆e8G3HDKGd.
05/11/05 22:43:58
>>359
コテハン「らら」に関しましても、このレスと同なじトリップがない方は偽者です。

362: ◆vnP7OkJTv2
05/11/06 05:39:31
山野ここはお前の日記じゃねえんだ
わかんねえなら黙ってろキモイ

>家臣が主君の一字を拝領するということが始まったのは鎌倉時代(頼朝あたり)からですか? 
まずは以下を参照
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)

親>子へ一字を継承していくのは遅くとも平安時代から確認できる
藤原摂関家や成和源氏の系図がよくわかるんじゃないかな
URLリンク(page.freett.com)
URLリンク(page.freett.com)

11世紀には一般化した風習と言えると思います

>平家の家人に盛が付くのがいるけど平家が始めなんでしょうか。
名前どころか
伊藤(藤原)景清>平景清
なんて例もあります
(彼の場合後世創作が多く例としては不適切かもしれませんが)

拙考ですが烏帽子親から字を取る例が多いことからも
養子、猶子に類する家臣取り込みの手段だったとも言えるかもしれません


363:352
05/11/06 10:27:10
>>362
情報ありがとうございます。
親子や兄弟で共通の字を使う風習は平安初期からありますよね。(兄弟全員ではないにしろ)
平将門兄弟の「将」とか、その父親達の「良」とか。
高級貴族でも藤原良房・良門の「良」とか。

戦国時代だと賜った一字を捨てる(変える)のは主君を変えたりしたときに行う結構重要な決断ですよね。
松平元康から家康(今川から独立)、浅井賢政から長政(六角から織田への陣営変更でいいのかな?)など。

北条泰時の場合は何故なのかなと不思議です。
頼朝の「朝」は結構貰っている人が多いですが「頼」は少ないですよね、貴重だと思わなかったのかな。





364: ◆vnP7OkJTv2
05/11/06 11:23:45
泰時の改名ですが「北条氏系譜人名辞典」を引いても
1194有力御家人が居並ぶ中で元服、頼朝が烏帽子親を勤め
「頼」の一字を与えられて時頼と名乗る(13歳)
泰時への改名の時期は未詳だが1201頃には改名した

とあるだけです。具体的なことは未詳でしょう
しかし、同時に改名した北条一族がいます時房(時連)です。
こちらは時期がわかっています
1202年6月です、理由ははっきりしませんが、小説や漫画だと
(頼家の側近であり)頼家から改名を促されそれに従いながらも心の中では
不満を抱えていたってことにされてますね。

結構、的を得た推論ではないないかと思います

でいくつか説を
1、頼家が自分の世代になったことを主張するために子飼いの家臣に改名を迫った
2、泰時自身が頼家をはばかって改名

2は「そもそも頼朝から賜ったものだろ」と言われそうですが
それは 頼朝>頼家 という価値観であり
頼家は別の価値観を持っていそうな気がします

推論ばっかりでごめんなさい

ついでに誤字訂正
×成和源氏
○清和源氏


365:日本@名無史さん
05/11/06 15:00:48
山野しゃん..

366:日本@名無史さん
05/11/06 15:02:35
定ちゃんゎ、山野しゃんと鎌倉デートしたいデチ..

367:日本@名無史さん
05/11/06 15:04:04
そして、山野しゃんのおちんこを..

368:日本@名無史さん
05/11/06 15:07:38
本田美奈子さん死去 ミュージカルで活躍
「1986年のマリリン」などのヒット曲で知られ、ミュージカル女優としても活躍
した歌手の本田美奈子(ほんだ・みなこ、本名工藤美奈子=くどう・みなこ)さんが
6日午前4時38分、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院で死去した。38歳。
東京都出身。
葬儀・告別式は9日午前10時から埼玉県朝霞市溝沼1259ノ1、朝霞市斎場で。
葬儀委員長は高杉敬二BMIエグゼクティブプロデューサー。
喪主は母美枝子(みえこ)さん。(共同通信)

369:日本@名無史さん
05/11/06 16:18:13
頼朝の正四位下は参議相当、従二位は(権)大納言相当って言う含みがあったのでしょうか?
上洛していないから議政官の地位は与えられないけどそれ相当だよって言う含みが。

370: ◆vnP7OkJTv2
05/11/06 18:02:59
>369
頼朝は権大納言に任命されて返上していますが?

今ひとつ質問の意図がわかりかねるので噛み砕いてよろしく

371:日本@名無史さん
05/11/06 19:04:42
権大納言、それと右大将も上洛時ですよね。
つまり聞きたいのは上洛前の有位無官の時期の話なんです。
本位に復した後、義仲追討で正四位下、平家追討で従二位。しかし無官の前兵衛佐のまま。
これは在京でないと議政官・近衛武官としての任が果たせないから官は与えないって言う
朝廷側の意向なんでしょうけど、正四位下、従二位と言う位階自体に準議政官の含みが
有ったのかな?と言う疑問なわけです。

372:日本@名無史さん
05/11/07 14:06:16
別に頼朝は欲しがってないよ。
任命されても返上してるし。

373: ◆vnP7OkJTv2
05/11/07 21:24:04
いやいや、>371 は
頼朝は一代で覆される貴族的権力よりも
関東武士を基盤とした新権力の獲得を目指した
対して後白河法皇は名を与えて実を与えぬ目的で
右大将、権大納言を与えたが、頼朝は関東武士を統括しするのに
ふさわしい征夷大将軍の地位にこだわったため返上した

という従来の説は頼朝視点であり、当時の朝廷側では別の意図もあったのでは
と聞きたいわけだ、
官位はあくまで実よりも名にあたる部分であり、それほど裏の意味は無いんじゃないかな
鎌倉時代の貴族研究は今ひとつなので今後に期待かな


374:日本@名無史さん
05/11/07 21:27:47
にゃん

375:日本@名無史さん
05/11/07 21:34:55
美奈子カワイソス

376:日本@名無史さん
05/11/08 08:27:43
>>373
>鎌倉時代の貴族研究は今ひとつ
373の勉強がたりないだけ。

377:日本@名無史さん
05/11/08 09:48:23
↑以上、夜勤のコメントでした。

378:日本@名無史さん
05/11/08 11:57:18
中世の貴族は、文化が武器

379:日本@名無史さん
05/11/09 09:25:46
和歌どころか連歌までも武器にした。
家職の成立の関係かな?

380:日本@名無史さん
05/11/09 13:37:29
>>363
兄弟が同じ字を使うのは、中国に起源がありそうな気がしますが…

381:日本@名無史さん
05/11/09 19:56:06
院、将軍、執権、北条家得宗、内管領
偉い人が多すぎて誰が偉いのかがさっぱりわかりません。
執権までの権力の下降は仕方がなかったような気がしますが、
得宗、内管領に至っては意味がわかりません。
他の御家人と軋轢を抱えてでも執権権力の強化を目指した方が有利だったんではないかと思いますが、
鎌倉最高権力史について詳しい本の紹介キボンヌ

382:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA
05/11/09 20:57:37
>>380
名前に関しては、
飯沼賢治「女性名から見た中世の女性の社会的位置」(『歴史評論』443号、1987年)
同「人名小考―中世の身分・イエ・社会をめぐって―」(『荘園制と中世社会』、1984年)
郭明昆『中国の家族制および言語の研究』東方学会、1962年
以上を参照されるとよろしいかと。

383: ◆vnP7OkJTv2
05/11/09 23:35:24
>380
おそらくそうでしょうね
URLリンク(www.japanology.cn)
ここの「7.実名と通字」で触れられています

余談ですが「源」は源が同じ、という意味の中国故事に由来します
親子で同じ字を避けるという風習はなぜ伝わらなかったのかが不思議ですね


384: ◆vnP7OkJTv2
05/11/10 00:19:04
>>381
執権までの権力の流れは理解されているようですね
有力御家人を次々と倒していった北条氏は幕閣内の重要職をほぼ占めるようになります
そうなると一族内での権力争いの芽が出てくるため
時頼は執権職を表向きは引退し、息子時宗の後継者としての地位を固めるべく奔走します
いわば、院政に似た形態です
こうして北条宗家が得宗として一族を統括する得宗制度ができあがったのですが
次に得宗家の内部を取り仕きる身内人がそれに伴って権力を強化します

参考資料としては「鎌倉執権政治ーその展開と構造」安田元久 
なんて簡単に読めて私的にはお勧めです

385:日本@名無史さん
05/11/10 09:43:20
>>384
>そうなると一族内での権力争いの芽が出てくるため
>時頼は執権職を表向きは引退し、息子時宗の後継者としての地位を固めるべく奔走します
>いわば、院政に似た形態です

時頼が執権を引退して赤橋流の長時に譲ったのは、大病を患ったのに後継者の時宗が幼少という状況での
緊急避難的処置ではなく、ある程度計画的だったということですか?

天皇と上皇の立場の違いのように、執権だと幕府の組織にある程度掣肘されるけど
執権職を離れて得宗という立場になると自由に活動活動出来ると考えたのでしょうか。


386:日本@名無史さん
05/11/10 19:52:28
実朝暗殺後、政子が頼朝の末子貞暁(母常陸介藤原時長の娘)に将軍にならないかと声をかける一方、
血の繋がった頼家の子供たちは殺害されたり自害しています。
実の孫を差し置いて、なさぬ仲の子を後継ぎに据えようとは、随分おかしな話に思えますが。
これって貞暁については断られることを予想して格好つけに声をかけただけで、
源氏の子孫は抹殺(少なくとも政治的には)してしまうつもりだったのでしょうか?

387:日本@名無史さん
05/11/10 20:09:46
>>384
古すぎ。
>>386
そうだろうね。

388:日本@名無史さん
05/11/10 20:31:31
>>386-387
>源氏の子孫は抹殺(少なくとも政治的には)
ほほぅ。
じゃあ竹御所についての政子の対応はどう説明しますね?(変化球だけど)

389: ◆vnP7OkJTv2
05/11/10 21:34:31
>緊急避難的処置ではなく、ある程度計画的だったということですか?
もちろん30歳で執権職を退いたのは赤痢をわずらったためという理由もありますが
時頼自身が前執権の兄経時の遺児を出家させて時宗の障害を排除しています
そのあたりは計画的といってもいいのではないでしょうか

さらに吾妻鏡「執権職を武州(長時)に譲らる・・・但し、家督(時宗)幼稚の眼代なり」
とこの記述をそのまま受け取れば
「俺の後継者は時宗だ、それまでの中継ぎだってことを覚えておけ」
と解釈されていますね

その後病から回復した時頼は37歳まで得宗政権の基盤を固めることになります
結果論と言えばそうですが

390:日本@名無史さん
05/11/10 23:52:09
一度執権を退いた時頼が、再度執権に就こうとしなかったのも不思議ですね。
というか執権に2回就任した人がいませんね。
室町時代の管領だと何回も就任・辞任することが珍しくないのに。
最も室町後期の管領は儀式の際など必要なときに短期間だけ就任しているようですが。

長時没後に時頼が執権に返り咲こうとしなかったのは何故でしょうね。



391:┐(゚~゚)┌
05/11/11 00:43:00
>>390
長時:文永元年(1264)政村に執権職を譲り出家→死去
時頼:弘長三年(1263)死去

392:日本@名無史さん
05/11/11 09:26:32
>>391
あれ、失礼しました。
長時は早死にというイメージで、時頼より先に死んだと思い込んで書き込みしてしまいました。


393:日本@名無史さん
05/11/11 09:34:54
北条氏は初期に郎等を侍に準じさせようとして失敗したようです。
一方御内人は侍身分ですよね。
系譜的に繋がるかどうかはともかく、御内人は明らかに北条家郎等の後継ですよね。
そうすると、結局なしくずしに北条宗家郎等の侍化が進行したのでしょうか?
あるいは元々侍身分だった者達を御内人に組織していったのでしょうか?

394:日本@名無史さん
05/11/11 09:44:20
ヒント:細川重男の仕事

395:日本@名無史さん
05/11/11 10:46:42
>>393
>御内人は明らかに北条家郎等の後継
という理解は現在では否定されてる。
御内人の大半は御家人でもある。

396:日本@名無史さん
05/11/11 12:06:32
京と鎌倉の2つの王権のあった鎌倉時代

397:日本@名無史さん
05/11/14 10:31:45
頼朝の天下草創

398:日本@名無史さん
05/11/14 12:19:44
九代将軍守邦親王の幕府滅亡直後の死って、すごく怪しげ。
単なる偶然で病死なのか、なにか事情があったのだろうか?

399:日本@名無史さん
05/11/14 13:49:54
殺されたのか?

400:日本@名無史さん
05/11/14 18:33:41
わざわざ殺されるほどの重要人物ではない

401:日本@名無史さん
05/11/14 18:54:31
しかし、あのタイミングで死ぬってのは怪しい

402:日本@名無史さん
05/11/14 19:07:08
北条高時があのタイミングで死ぬのも怪しい

403:日本@名無史さん
05/11/14 19:21:08
>わざわざ殺されるほどの重要人物ではない
そこが源家滅亡後の鎌倉幕府のすごいところだな。
ところで、源氏は3名中2名(1人は退位後だが、もしかすると3名とも)、
足利は15名中2名が殺されている。
徳川は一応みんな少なくとも表向きは畳の上で死んでるな。
やはりだんだん平和になっていくのか。

404:日本@名無史さん
05/11/15 09:07:45
>>403
足利は3名

405:北条高広
05/11/15 09:12:19
義教と義輝あと誰だっけ?

406:日本@名無史さん
05/11/15 09:49:05
>>405
つ義満。



407:北条高広
05/11/15 10:46:26
ああそういう説ってことですか。。。

408:日本@名無史さん
05/11/15 12:24:00
義満の暗殺者は一休宗純

409:日本@名無史さん
05/11/15 12:35:03
蜷川新右衛門はどっちの見方でふかね?

410:日本@名無史さん
05/11/15 12:42:28
山野氏はどうしたん?

411:日本@名無史さん
05/11/15 18:19:29
あっちで寝惚けてる

412:日本@名無史さん
05/11/15 23:21:41
定ちゃんの。日本史板【雑談スレ】もどき。パート2
スレリンク(history板)l50


413:日本@名無史さん
05/11/17 11:18:28
鎌倉時代は1185年から

414:日本@名無史さん
05/11/17 16:42:23
>>413
何をもって幕府開幕の年にしているのですか。

415:日本@名無史さん
05/11/17 20:08:41
幕府開幕か・・・馬から落馬だな

416:日本@名無史さん
05/11/18 10:49:12
普通は1185年じゃないの?

417:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
05/11/18 11:44:41
>>414>>416
質問スレでは無いので、ヒントだけ差し上げておきます。
『征夷大将軍』を理解されるか、図書館で『吾妻鏡』ではない『東鏡』を御覧なさって下さい。

418:日本@名無史さん
05/11/18 12:27:20
幕府の成立時期については,
(1)92年の頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は,今はほとんど
  支持されておらず,
(2)80年の東国における独立国家の成立,
(3)83年の〈寿永二年十月宣旨〉による東国支配権の公認,
(4)85年の守護・地頭設置の勅許,
(5)90年の日本国惣追捕使の地位確認,諸国守護権の付与,
などの時期に求める諸説がある。

419:日本@名無史さん
05/11/18 12:27:54
幕府の成立時期については,
(1)92年の頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は,今はほとんど
  支持されておらず,
(2)80年の東国における独立国家の成立,
(3)83年の〈寿永二年十月宣旨〉による東国支配権の公認,
(4)85年の守護・地頭設置の勅許,
(5)90年の日本国惣追捕使の地位確認,諸国守護権の付与,
などの時期に求める諸説がある。

420:日本@名無史さん
05/11/18 14:52:40
(2)~(5)の段階的成立説ってもなかったけ?

421:日本@名無史さん
05/11/18 16:18:08
1183年がいいんじゃないか?

422:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/11/18 18:22:36
もう少し数を加えてみると、
①1180年 頼朝挙兵→地域支配
②同年末   南関東軍事政権成立
③1183年 十月宣旨による東国支配権の公認
④1184年 公文所・問注所の開始
⑤1185年 「守護・地頭設置の勅許」
⑥1190年 頼朝が右近衛大将に
⑦同年末   頼朝が日本国惣地頭・惣追捕使に
⑧1192年 説明不要
⑨1221年 承久の乱

423:日本@名無史さん
05/11/18 19:10:44
結局幕府そのもの定義が統一されていない以上、
成立時期が特定されないのは当然としか言いようがない。

424:日本@名無史さん
05/11/18 23:48:54
鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府はそれぞれ別物。それぞれ異質。
いっしょに論じること自体まちがい。

425:日蓮
05/11/20 13:12:49
題目を唱えてりゃいいんだよ、ヴォケども

426:日本@名無史さん
05/11/21 11:40:35
承久の乱以降の鎌倉幕府に朝廷は擦り寄っていった
室町幕府は朝廷の権限を吸収していった

427:日本@名無史さん
05/11/21 11:49:41
>>417
東鑑じゃだめなのかい

428:日本@名無史さん
05/11/21 13:19:42
江戸幕府は朝廷を押し込めた

429:日本@名無史さん
05/11/21 19:11:09
>>415
「ばくふかいまく」じゃないの?
「へいばく」なんて言葉は聞いたことないし…

430:日本@名無史さん
05/11/21 20:00:33
「開府」だね。

431:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
05/11/21 22:23:53
>>429
質問スレでは無いので、ヒントだけ差し上げておきます。
漢字ドリル(ry


432:日本@名無史さん
05/11/21 22:31:25
>>431
ありがとうございます!
おかげで助かりました!

433:日本@名無史さん
05/11/22 04:26:54
>>427にも答えてやれよ

434:日本@名無史さん
05/11/22 12:04:10
権門体制論てもう使えないの?

435:日本@名無史さん
05/11/22 12:40:03
古いなw

436:歴史ラブ②
05/11/22 13:35:43
今週末に学校で、北鎌倉に行くんですけど、どこか
良い所ってありますか?


437:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
05/11/22 13:54:54
>>436
質問スレでは無いので、ヒントだけ差し上げておきます。
auのEZナビ(ry

438:日本@名無史さん
05/11/22 13:56:05
>>437
ありがとうございます!
vodafoneから乗り換えることにします!

439:日本@名無史さん
05/11/22 14:58:01
円覚寺と建長寺はいい

440:日本@名無史さん
05/11/22 23:50:28
>>429
開幕の文字だけで、幕府が開かれたことを意味する。
倒幕は聞くけど、閉幕は聞いたことないし、変な感じがする。
閉じるというのがなんか奇妙に感じる。
終幕(聞いたことないけど、ありそうな予感)の方がかっこいいぜ。

441:日本@名無史さん
05/11/23 03:06:47
開府だろ

442:日本@名無史さん
05/11/23 10:57:15
開府だね。開幕は日本語としては不適当。
「かいまく」になっちゃう。

443:日本@名無史さん
05/11/23 10:58:36
URLリンク(kei11.k-server.org)

444:日本@名無史さん
05/11/24 11:27:28
石合戦を中止したが、
飢饉となり、石合戦を認めた北条時宗

445:日本@名無史さん
05/11/24 16:02:52
飛礫だな

446:日本@名無史さん
05/11/25 11:29:45
網野か?

447:日本@名無史さん
05/11/25 14:16:49
桓武平氏の嫡流って熊谷直実?と言ってみたりする。

448:日本@名無史さん
05/11/26 03:37:44
でしょ。貞盛ー維将ー維時ー直方の直系だから。
次が北条か。その次が城か。海道とか。

449:日本@名無史さん
05/11/28 17:10:17
行基式日本地図

450:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/11/28 18:11:22
>>446
日本思想大系の月報28号に、「飛礫覚書」がありますね。
他にもどこかで出ていた気がしますが。
『年中行事絵巻』以外に描いた例はあったでしょうか。

>449
独鈷形の日本国について、一言。

451:日本@名無史さん
05/11/29 11:16:42
朝鮮半島にも飛礫はあったとか

452:日本@名無史さん
05/11/29 16:50:44
さすが山野様
博識です

453:日本@名無史さん
05/11/29 19:12:12
飛礫だけに、博識をを披瀝したってか。

454:日本@名無史さん
05/11/29 21:15:40
山田くぅ~ん!座布団一枚!

455:日本@名無史さん
05/11/30 19:34:36
「飛礫」をわざわざ「ヒレキ」と読むやつもめずらしいな

456:日本@名無史さん
05/12/01 12:01:55
独鈷の形をした日本地図。
南蛮渡来の世界全図との整合性やいかに

457:日本@名無史さん
05/12/01 13:18:49
ピリーレイスの南極図
中南米の部分図との整合性やいかに

458:日本@名無史さん
05/12/02 03:39:59
>>455
えっ、他に何て読むの?

459:日本@名無史さん
05/12/02 11:05:10
萌えるなぁ。独鈷の日本。

460:日本@名無史さん
05/12/02 22:37:45
>>458
そういうトンチキには
レスはなしのつぶて。

461:日本@名無史さん
05/12/02 22:50:52
日本の三大内ゲバ組織

鎌倉幕府、新撰組、連合赤軍

462:日本@名無史さん
05/12/03 06:55:25
>>460
いやいや、マジで分かんないんだよ。
トビツブテ? トバシツブテ?
ずっとヒレキとしか読んでこなかったからさ。教えてよ。

463:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/12/03 11:40:47
>>456
中世神話では、薬師如来の国土とされていましたね。
東照宮の本地仏が薬師なのは、単に「東照」だからでしょうか。
「日本大権現」という候補が下げていますから。
この頃、三嶋、祇園、住吉などの本地が薬師でしたね。

>>462
書いて下さっていますよ。「つぶて」でよろしい。

464:日本@名無史さん
05/12/03 11:48:52
空海の死体は残ってないのですか?
ミイラではないというのは他スレで聞いたのですが…。

465:日本@名無史さん
05/12/03 18:46:38
スレリンク(history板)l50

466:日本@名無史さん
05/12/04 01:29:03
>464
院政時代の治天の君が見た、という文書だか何だかが
あったはずである。仁和寺の御室が一緒に行ったんだっけか?
うろ覚えでスマソ。


467:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/12/04 01:42:19
『栄花物語』に、道長が生きているかの様な姿を目の当たりにしたとありま
すが・・・『院政期高野山と空海入定伝説』という本があります。

468:日本@名無史さん
05/12/04 01:45:25
で、結局ミイラはあるのかな?
今はないんだろうけど。

469:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
05/12/04 03:03:48
>>468
だからナイって言ってるでしょ、あんたもしつこいな(`Д´)

470:日本@名無史さん
05/12/04 04:21:52
うっ…すんまそん。
まさか山野さんに叱られるとは…(笑)

471:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
05/12/04 04:32:23
>>470
しつこい人は嫌われますよ。



貴方、彼女イナイでしょ?

472:日本@名無史さん
05/12/04 04:39:11
>>463
「礫」一文字で「つぶて」なのに、「飛礫」も「つぶて」なの?
変なの。

473:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
05/12/04 04:45:59
>>472
質問スレでは無いので、ヒントだけ差し上げておきます。
漢字ドリル(ry


474:ケンシロウ
05/12/04 04:58:04
>472
強敵と書いて「とも」と読むようなものよ。

475:日本@名無史さん
05/12/04 07:30:15
それはちょっとちがうだろ。もっと何かいい例無いかな

476:日本@名無史さん
05/12/04 11:39:46
つ和泉

477:秀平@奥州守護
05/12/04 20:28:08
鎌倉なぞ藁だな

478:ケンシロウ
05/12/05 14:11:26
>475
鎌倉・室町幕府に仕えた「摂津氏」は「せっつ」じゃなくて
「つ」と呼び習わしてたんだよね、確か。これでどうじゃ?

あとさあ、頼山陽の子孫の中国文学者、頼惟勤という人の名前は
「つとむ」。あれ?「惟」はなんて読むの?というと、
「惟」は置き字で読まんそうだ。さすが中国文学。
あっと、これはまた違うタイプだな。


479:日本@名無史さん
05/12/05 15:08:45
和泉もそのパターンかね?

480:日本@名無史さん
05/12/06 08:43:06
好字2字にするためてのは分かるが、何で「和」なんだろ。
で、結局「飛礫」の類例はないのかね。
てゆうか、そもそも本当に二字でも「つぶて」なの?

481:日本@名無史さん
05/12/06 11:15:25
漏れのパソコンだと、つぶてで、「礫」と「飛礫」がでるよ

482:日本@名無史さん
05/12/06 11:52:27
鉄漿を「かね」と読むのは?

483:日本@名無史さん
05/12/06 11:57:44
国語から勉強しなおせ馬鹿ども。

484:日本@名無史さん
05/12/06 14:20:19
鎌倉に住んでるが湿っぽくて嫌なとこだよムカデとか多いし心霊スポだので騒がしい。
これも鎌倉武士の怨霊なのかね!?

485:日本@名無史さん
05/12/06 17:21:12
後白河天皇の第六皇女、宣陽門院に関しての文献や史料ありませんか。

486:日本@名無史さん
05/12/06 22:24:43
>485
『国史大辞典』くらい引きなさい。いっぱい出てるから。
宣陽門院の長講堂領は、室町時代でいいなら収入の具体例も
判明しておる。ともかく莫大な量だ。八条院領はもっと多い
わけだから、そりゃあいい暮らしが出来たんだろうなあ。

487:日本@名無史さん
05/12/08 12:03:28
ムカデと蛇が戦って、蛇が勝った。

488:日本@名無史さん
05/12/08 21:24:47
今昔物語ですか?

489:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/12/08 23:24:41
『神道集』の方かもしれません。

490:日本@名無史さん
05/12/09 11:31:45
女を抱いたら、あそこがなくなっていた。

491:日本@名無史さん
05/12/09 23:46:15
■■■姫路市■■■
●世界文化遺産=1……姫路城(国宝建築物8、国重文建築物74他で構成)
●国宝建築物=8棟
姫路城大天守、姫路城東小天守、姫路城西小天守、姫路城乾小天守、姫路城イ渡櫓、姫路城ロ渡櫓、姫路城ハ渡櫓、姫路城ニ渡櫓
--------------------------------------------------
■■■大津市■■■■
●世界文化遺産=1……比叡山延暦寺(国宝建築物1)
●国宝建築物=9棟
比叡山延暦寺(根本中堂)、石山寺(本堂、多宝堂)、日吉大社(西本宮本殿、東本宮本殿)、園城寺(新羅善神堂、光浄院客殿、勧学院客殿、金堂)
--------------------------------------------------
■■■鎌倉市■■■
●世界文化遺産=なし
●国宝建築物=1棟  円覚寺舎利殿 のみ
--------------------------------------------------
京都や奈良を持ち出すまでもなく、いかに鎌倉がイカサマ臭いかがよっく判りますね。(笑

492:日本@名無史さん
05/12/10 06:40:32
姫路や大津の素晴らしさにケチをつけるつもりは毛頭ない。
だが埋蔵文化遺産まで視野に入れれば、鎌倉だって負けてないよ。
それに大仏や金沢文庫まで含めれば、国宝・重文の数は増えるし。

もっともそれで世界遺産になれるか、というと厳しいのかもね。

493:485
05/12/11 01:23:48
>>486
ありがとうございます、遅くなってすみません。
申し遅れましたが、宣陽門院と東寺に関する史料を
主に探してます(後出しでごめんなさい)。
弘法大師信仰とかその辺りの関係ででして…失礼しました。

494:日本@名無史さん
05/12/11 09:20:31
>493
それならアミノ酸の『東寺なんたら』をまず読むこと。
宣陽門院と東寺の僧侶、それに付随する人間関係を
当時の政治状況の中で抑え、それに宗教的な味付けすれば
宜しいのでは。

495:日本@名無史さん
05/12/12 01:03:01
度々すみません…
「アミノ酸の東寺なんたら」が皆目検討つきません!!
網野さん?『東寺』何??
詳しい書名ごとお願い申し上げます(ノд`)ゴメンナサイ!

496:日本@名無史さん
05/12/12 08:15:00
その程度も理解できない奴がこのスレに出入りするな。
死ね。

497:452
05/12/12 08:20:20
そんな意地悪いわんと・・。
網野善彦氏の『中世東寺と東寺領荘園』(東京大学出版会)ね。
図書館いけばあるよ。

498:日本@名無史さん
05/12/12 10:07:37
網野なんて一般人だって読んでたのにな。
著者名わかってるのに自力でググれないんだから馬鹿は困る。

499:日本@名無史さん
05/12/12 11:26:55
頼朝の天下草創に萌え

500:日本@名無史さん
05/12/13 10:36:00
頼朝は頼りになるな

501:日本@名無史さん
05/12/14 11:12:42
頼朝なくして武家政権なし

502:日本@名無史さん
05/12/15 12:13:25
東国の王権

503:日本@名無史さん
05/12/16 10:50:03
近畿の王権と東国の王権

504:日本@名無史さん
05/12/16 12:26:09
>>496
何ですか。
この2ch板は学者さんが使ってるのですか?w

505:日本@名無史さん
05/12/16 13:00:12
網野くらい学者さんではなくても知ってると思うけど。

506:日本@名無史さん
05/12/16 13:09:17
戦後日本の寂しさ

門(かど)に立つのは
苦しそうに勉強している、うその苦学生、
辛い思いをしたかのような、うその廃兵、
まるで国際援助をしているよな、うその主義者、志士、
馬車、自動車に乗るのは
金の事しか頭に無く、うその紳士、大臣、
他人のことはどうでもよい、うその貴婦人、レディイ、
それから、新聞を見れば
権力主義の、うその裁判、
幸せになれると過剰に期待をする。うその結婚、
さうして、最も悪いうその教育。
経済大国になって浮世小路(こうぢ)は繁(しげ)けれど、
与謝野 晶子も、ついぞ真(まこと)に行(ゆ)き遇(あ)はぬ。

507:日本@名無史さん
05/12/16 15:24:31
柳は緑花は紅。

508:日本@名無史さん
05/12/18 11:55:07
日食の時に、鎌倉将軍は、つつまれた

509:日本@名無史さん
05/12/18 21:44:15
安達盛長と足立遠元は同族?

510:日本@名無史さん
05/12/19 12:16:54
鎌倉街道ってのは何本くらいあるの?

511:日本@名無史さん
05/12/19 20:16:41
>>509
URLリンク(spaces.msn.com)

512:日本@名無史さん
05/12/20 11:34:18
権門体制って何?

513:日本@名無史さん
05/12/20 13:57:55
え?権門体制も知らんのか?困ったもんだ。じゃ、まとめてみる。
1970年頃、大阪大学の黒田俊雄氏が提唱した説。
中世日本は天皇を中心に、公家・武家・寺家が相互に補完しながら
支配者層を形成していたという学説。
平安時代後期から戦国時代までを見通す壮大な仮説であり、
いまもなお中世国家史では定説となっている。
(ちなみに京都大学の元木泰雄氏により、「複合権門」概念が
 提唱され、理論の一層の発展が試みられている)
こんなところで、どお?

514:日本@名無史さん
05/12/20 22:03:13
>いまもなお中世国家史では定説となっている
そぉ?

515:日本@名無史さん
05/12/21 12:01:06
権門大勢が当てはまるのは平安後期。
東国に武家政権ができてからは当てはまらないよw

516:日本@名無史さん
05/12/21 12:55:36
>515
東国の武家政権といっても、征夷大将軍に任じるのは
天皇なんだから、やはり日本の中心は天皇で、
幕府はその権限を代行してるだけ、と考えるべきなのでは?
というわけで、権門体制。これ最強。

517:日本@名無史さん
05/12/21 13:08:53
>>516
でもその天皇を決めるのは得宗。

518:日本@名無史さん
05/12/21 15:16:33
>>517
うぞお!?史実を捏造してはいかんぞ。

519:日本@名無史さん
05/12/21 19:24:49
ここで押し問答してるのが元木さんと本郷さんだったら笑える

520:日本@名無史さん
05/12/21 19:38:49
>>518
無知な奴がいる

521:日本@名無史さん
05/12/21 22:49:26
age

522:日本@名無史さん
05/12/21 23:44:36
元木さんと本郷さんは仲が悪いの?

523:日本@名無史さん
05/12/22 02:19:01
元木:権門体制を批判的に継承
本郷:卓袱台返し

ってカンジ?

524:日本@名無史さん
05/12/22 11:25:39
承久で上皇3人島流しした幕府が朝廷の一権門か?
頂点の権限を吸収した室町幕府が朝廷の一権門か?
NOだろ?

525:日本@名無史さん
05/12/22 11:35:23
頂点→朝廷

526:日本@名無史さん
05/12/22 12:03:47
>>524
>頂点の権限を吸収した室町幕府が朝廷の一権門か?
>NOだろ?

まあ、落ち着け。
室町幕府はNOなのか?一酸化窒素なんだな?


527:日本@名無史さん
05/12/23 11:55:23
鎌倉中期からは新天皇をどうするか幕府にうかがってから決め、
室町では新天皇を幕府が決めていた

528:日本@名無史さん
05/12/24 15:09:03
鎌倉や室町幕府が権門体制なんて今どきありえないしw

529:日本@名無史さん
05/12/24 16:07:53
H郷さんは論外

530:日本@名無史さん
05/12/24 22:06:02
>>528
それがいるんだよ
ほんの一部のバカウヨだけど

531:日本@名無史さん
05/12/25 10:50:43
黒田さんはマルキストなのにねw

532:日本@名無史さん
05/12/25 11:01:06
京都と鎌倉を比べると違う点は?

533:日本@名無史さん
05/12/25 12:21:57
>山野野衾さん
スレリンク(history2板)

534:日本@名無史さん
05/12/25 17:50:02
H号さんは2ちゃん見てるって聞いたYO

535:日本@名無史さん
05/12/25 18:35:37
>>534
見てるだけとは思えんねw

536:日本@名無史さん
05/12/25 19:10:27
ご主人のほう?奥さんのほう?

537:日本@名無史さん
05/12/25 22:14:40
仄聞したのは旦那の方
嫁はシラネ(・з・)

538:日本@名無史さん
05/12/26 12:29:58
頼朝の天下草創による関東の王権

539:日本@名無史さん
05/12/27 01:18:22
九郎ちゃん呪いの屏風見たんだよ

大河スレで芸術云々いってるのは三河先生?

540:日本@名無史さん
05/12/27 03:45:34
三河先生って三河系?

541:日本@名無史さん
05/12/27 15:24:44
武士なら誰しもが尊敬していた頼朝
畿内に京都政権を閉じ込めた功績は大きい

542:日本@名無史さん
05/12/27 20:17:23
それは頼朝の功績じゃなくて義時の功績だろう

543:日本@名無史さん
05/12/28 02:15:33
大江広元ってゲッペルスのイメージだよな

544:日本@名無史さん
05/12/29 12:04:29
大江広元。いいじゃないか。
頼朝の知恵袋。功績は大だ。
頼朝の墓の少し奥に墓がある。

545:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/12/29 19:12:33
頼朝と広元の墓が、整備されたのは安永年間。島津氏によるもの。
URLリンク(www.geocities.jp)
どうもはっきりしなかった様で、墓というより、後年立てられた供養塔なの
かもしれません。
『吾妻鏡』成立に関ったのが広元の係累であった為に、とにかく功績を強調し
たという説もあります。

546:日本@名無史さん
05/12/30 11:09:53
頼朝の葬式は盛大に行われたでしょ。
墓もしっかりしたものを作ったはず。
うもれたのは後の時代。

547:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
05/12/30 13:32:13
大河ドラマ『北条時宗』で出ていたでしょう。法華(三昧)堂ですよ。
宝治合戦で、三浦や毛利が集団自殺していた場所です。

548:日本@名無史さん
05/12/31 12:18:55
>>547
今は石塔が残ってるよ

549:日本@名無史さん
05/12/31 13:59:40
>>548
三浦の事件の説明文も立ってたぞ

550:日本@名無史さん
06/01/02 04:58:17
初めて書き込みさせて頂きます。
鎮西奉行についてですが、設置当初から西方奉行、東方奉行の二頭体制だったのでしょうか?
それぞれの初代奉行もご教示下さい。
よろしくお願いします。

551:日本@名無史さん
06/01/02 11:47:30
あ、3さんですね!
得意の自作自演爆裂ですか!!

552:武蔵
06/01/02 11:49:08
和紙は、足利の子孫じゃー(マジ)

553:武蔵
06/01/02 11:50:20
わしの先祖足利尊氏が鎌倉をほろぼしたのじゃー

554:武蔵
06/01/02 11:53:06
太刀があるし長刀もある


555:日本@名無史さん
06/01/02 11:57:37
尊氏から何代目になるんですか?

556:歴史ヲタク
06/01/02 11:58:14
こんにちは、初めまして僕歴史が大好きな小学生です・・・
みなさん足利家のだれが好きですか???
僕は足利義満です。優れた知能バンゼン最高です。
あの人将軍辞めた後、太政大臣だっけ?になったんですよ!!!

557:武蔵
06/01/02 12:03:20
俺は、足利がいなかったらこの世には、もういない
ちなみにおれ は、義昭から17代目かな。

558:武蔵
06/01/02 12:04:18
だいたいね

559:歴史ヲタク
06/01/02 12:06:47
すごいですね・・・
室町幕府を倒した織田信長は嫌いですか??

560:武蔵
06/01/02 12:08:20
まーしょうしょううらみたいけど
好きなところもある・・・
応仁の乱さえこなければ・・・

561:武蔵
06/01/02 12:21:54
おーい
いきてんの?
返答せよ

562:日本@名無史さん
06/01/02 12:38:36
>>548
後から作ったものに決まってるだろハゲ。
当時の貴人の墓はああいったお堂が基本だ。

563:日本@名無史さん
06/01/02 12:42:44
(´-`).。oO(…尊氏が鎌倉をほろぼしたのかぁ へぇー)

564:武蔵
06/01/02 12:44:40
義経の首塚は、鎌倉のどこにあるのやら・・・

565:武蔵
06/01/02 12:46:07
あと新田義貞が協力したのかな
もともと幕府は、源氏のものだし・・

566:武蔵
06/01/02 23:38:15
武蔵
ただいま参上!!

567:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
06/01/03 00:36:18
>武蔵
義昭から17代目ですか。
苗字は何を名乗っていますか?

568:日本@名無史さん
06/01/03 00:38:41
ん~ 鎌倉スレか・・ 
昔すぎて意見なし まかせる!

569:武蔵
06/01/03 10:33:06
>>567
個人情報もれるからむりだな

570:武蔵
06/01/03 11:07:38
おーーい戦死したのか
応答せよ

571:日本@名無史さん
06/01/03 11:27:30
応仁の乱が日本史のターニングポイント!
承久の乱もか?

572:武蔵
06/01/03 11:47:09
戦国時代の始まりだー

573:日本@名無史さん
06/01/03 12:56:10
荒れてるな
武蔵野合戦

574:日本@名無史さん
06/01/03 13:36:44
承久の乱が朝廷衰微のきっかけ
致命的失敗は後醍醐の挙兵、朝廷の自己否定

575:武蔵
06/01/03 14:48:59
1467年の応仁の乱さえこなければ・・・
将軍だったのにーーーーークソーーーーー最悪だーーーー!!
室町幕府かえってこーーーい

576:武蔵
06/01/03 14:51:18
親が、長男じゃないからむりだ・・・

577:日本@名無史さん
06/01/03 15:12:52
足利の直系といえば平島公方家だろう。

578:日本@名無史さん
06/01/04 17:59:07
鎌倉時代は何年からがいい?

579:日本@名無史さん
06/01/04 18:27:55
┐(´~`)┌ .。oO(…冬だのぅ)

580:日本@名無史さん
06/01/04 18:31:09
スレ主は立て逃げか?

581:日本@名無史さん
06/01/05 21:07:08
>>578
1185年が開幕がいいかな?

582:日本@名無しさん
06/01/06 00:37:07
頼朝が将軍に就いた1192年から3,4年後、将軍職を辞職したよね?
間違っていたらゴメン。

583:日本@名無史さん
06/01/06 12:06:31
それがどうしたの?

584:日本@名無史さん
06/01/07 12:04:45
源氏が滅亡してからのほうが、
東国政権は強固になった気がするが?

585:世界@名無史さん
06/01/08 19:42:20
鎌倉時代の時、現代の東京あたりにも都市は開発されていましたか?

586:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/08 23:47:22
『吾妻鏡』に浅草寺が出て来ますが、『とはずがたり』に周辺の風景が語ら
れていますよ。ご一見を。
室町時代、万里集九が訪れた頃には、栄えていた様です。

587:山野野衾 ◆a/lHrXCS16
06/01/09 10:08:20
>>585
開発されていませんよ。


588:日本@名無史さん
06/01/09 10:49:35
江戸が京都をぬいたのは、江戸中期か?

589:日本@名無史さん
06/01/09 22:14:56
>>587
「都市的な場」は存在したのでは?

590:日本@名無史さん
06/01/09 22:34:09
出たな、「都市的な場」w
道が通ってて、ちょっとでも経済活動の臭いがするとすぐ持ち出されるけど
胡散臭スw

591:日本@名無史さん
06/01/10 10:52:15
都市はたくさんあったよ。
江戸時代に城下町以外は農村にされたけど、
実は各地に都市があったんだよね。

592:日本@名無史さん
06/01/10 18:04:46
こんなんありますた

URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

593:日本@名無史さん
06/01/10 20:25:59
鎌倉時代には、現在の青森県から鹿児島県まで統一していたので
都市は全国規模であったんじゃない?
まだ発掘されてない都市跡はたくさんあると思う。たぶん・・・

594:日本@名無史さん
06/01/11 08:47:31
全国規模であった。
開発でさらに発掘は進むだろう。

595:日本@名無史さん
06/01/12 08:48:37
市をちゅうしんとした都市化

596:日本@名無史さん
06/01/13 08:44:56
市?

597:日本@名無史さん
06/01/15 10:27:39
外が浜から奇怪が島まで鎌倉幕府の支配地

598:日本@名無史さん
06/01/15 11:06:11
そもそも「都市」の定義は?

599:日本@名無史さん
06/01/15 12:55:46
封建制度の長所と短所を述べよ。

600:日本@名無史さん
06/01/16 10:15:25
>>598
人口が一定以上集中し、職人がいて商人がいて、生産より消費が多い。
これが都市では?

601:日本@名無史さん
06/01/16 12:23:24
日本史で最後に名前が出てくる天皇は
後醍醐天皇でFA?

602:日本@名無史さん
06/01/16 12:44:41
>>600
>職人がいて商人がいて
免田をもらってる職人やら問やら運送業者は
どうなの?

>生産より消費が多い。
その「生産」「消費」の定義は?計算基準は?
米、絹布、銅細工ではどう比較する?

603:日本@名無史さん
06/01/16 14:12:31
>>602
>免田をもらってる職人やら問やら運送業者は
>どうなの?
都市民でいいんじゃないかな

>その「生産」「消費」の定義は?計算基準は?
>米、絹布、銅細工ではどう比較する?
よくわからんが、米でいいでないかい?
手工業品だと、都市の生産のほうがが大きいこともあるのでは


604:日本@名無史さん
06/01/16 15:29:57
政権泥棒の北条氏
現代まで生き延びている末裔はいないのか?

605:日本@名無史さん
06/01/16 17:27:06
>>603
>都市民でいいんじゃないかな
不勉強なもので、なぜそういいきれるのか
理解できないのですが。

606:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/16 17:39:53
>>600
アクバル大帝の「町」の定義に、同じ様な発言がありましたね。
一定の面積と人口密度を有し、二次・三次産業が発展している。
ただ、都市史や歴史地理学の方には、法・権利を共有し、封建的貴族身分に
対抗する市民身分が形成されており、自治を行っている事、という言があり
ませんでしたか。この理屈だと、平安時代の京などは都市ではない、となる。
日本でも堺が真っ先に想起される様に、中世には諸身分が法・権利を共有し
た共同体を形成し、自治も行う様になっていたという指摘がありますが。

607:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/16 17:45:38
>自治も行う様になっていたという
(堺の様な)自治都市も存在する様になっていた
自治だけやっていればひなびた田舎でも自治都市になれる訳では無い。
一定の人口密度云々の要素も必要でしょうが。
私もあまり突っ込んで調べたテーマではありませんが、とりあえず出ないよ
りはましというぐらいの気持ちでお話しております。

608:日本@名無史さん
06/01/17 01:12:12
甚だしい鼬害ではあるが・・・

汎インド(?妙な呼称だなwイスラム圏ともちと違うので便宜的呼称として)において
町(特に港湾都市)の自治の強弱は内陸部との交通頻度の度合いに左右されている。
まぁ完全に領域国家の影響を受けずに自立した「町」は、極めて稀ではあるがw
内陸部においても二次・三次産業が発展しているかいなかは交通路の要所に位置しているかどうかの差が
日本とインドでは比較にならぬ程大きい。

606-607を門外漢が読んでも、何故日本史板の「町」の定義においてアクバルなのか
その意図が皆目分かりません。もう少し説明する必要があるのではないかと・・・

もっとも私もあまり突っ込んで調べたテーマではありませんので、
御心の内の一端なりとも御教授戴ければ幸甚かと存じレスした次第ではありますが。

609:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/17 01:32:03
いや、単なる連想です。「町の風景」と聞いて連想する「一般的情景」は
こんなものであろうと。深くお考えにならなくてもよろしいですよ。

610:日本@名無史さん
06/01/17 16:50:12
厳密な判別は無理でしょう。
消費>生産の観点はどう?

611:日本@名無史さん
06/01/17 17:24:37
>>610
たとえば京都でさえ、
かつての大路・貴族の邸宅・寺院あとが田んぼに
なっていたというし。

京都は水の便がいいから、下手な荘園よりも
農業生産性が高かったかもしれない。
農業以外の生産を勘案すると、
都市は「消費<生産」だった可能性もある。

612:日本@名無史さん
06/01/17 17:52:21
鎌倉時代の主だった都市は平安京、太宰府、鎌倉、平泉
あとどこかあったっけ?

613:日本@名無史さん
06/01/17 20:49:52
>>612
十三湊(w

614:日本@名無史さん
06/01/18 09:09:23
中世にはここかしこに都市があったと思うが?
>>612は大都市

615:日本@名無史さん
06/01/18 11:32:30
>>612
鳥羽とか白河はダメ?

616:日本@名無史さん
06/01/18 16:23:55
宇治は?

617:日本@名無史さん
06/01/18 20:02:23
福原は?

618:日本@名無史さん
06/01/18 21:18:39
元平城京はどうなん?

619:日本@名無史さん
06/01/18 22:58:01
博多湾沿いは?

620:日本@名無史さん
06/01/19 13:23:09
堺は?

621:日本@名無史さん
06/01/20 09:23:58
琵琶湖周辺は?

622:日本@名無史さん
06/01/20 16:18:52
日本史のターニングポイントはやはり応仁の乱?

623:日本@名無史さん
06/01/20 16:28:53
戦国時代じゃないかな

624:日本@名無史さん
06/01/21 09:58:45
日本史は応仁の乱の時代からあとを学べばそれでよい

625:日本@名無史さん
06/01/21 16:03:16
鎌倉幕府が出来たとき、幕府(源氏)の直轄支配地は
今の関東地方でしょうか?
今の福島県も幕府の支配地になっていたんでしょうか?
誰か教えて下さ~い。

626:日本@名無史さん
06/01/21 16:47:21
関東御領、関東御分国

627:日本@名無史さん
06/01/21 22:46:03
>626
本当にすいませんが、もっと具体的に教えて下さるでしょうか?

628:日本@名無史さん
06/01/21 23:48:36
1185年 鎌倉時代の始まりじゃ~~~~~

629:日本@名無史さん
06/01/22 07:46:01
>>628
今はその説が有力かな

630:日本@名無史さん
06/01/22 12:16:48
源頼朝は何で狭い鎌倉に都市を造ったのかな?
現在の東京湾沿いの方がもっと大規模に都市を造れたろうに。

631:日本@名無史さん
06/01/22 12:39:24
開府は右大将がするもの

632:日本@名無史さん
06/01/22 13:43:17
>>625
福島県は、1189年の奥州藤原氏滅亡後に鎌倉幕府が設置した
奥州総奉行が管理していました。

福島県の一部は頼朝によって三浦氏の所領となりました。その子孫が芦名・猪苗代一族です。



633:日本@名無史さん
06/01/22 13:46:36
>632
ありがとう、助かりました。

634:日本@名無史さん
06/01/22 13:50:46
632です。蘆名でした。訂正します。

伊達氏・相馬氏・留守氏・小野寺氏・寒河江氏も
頼朝によって奥州に所領を与えられた人の子孫です。

635:日本@名無史さん
06/01/22 14:56:46
>>604
吉良、今川の子孫には時政の血が流れているよ。

よって上杉綱憲の子孫の上杉家には北条の血が入っている。

さがせばもっと沢山いるだろうけどね。

636:日本@名無史さん
06/01/23 09:32:56
鎌倉時代と室町特に戦国時代とは、かなり違う。
前期後期で分けてるとはいえ、同じ中世でいいのだろうか?

637:日本@名無史さん
06/01/23 10:23:11
>>636
欧州流に中世と言わなくてもいいのではと思う。

武士の時代という意味では共通。

そして荘園支配を基本とした時代としては鎌倉と戦国時代
以前の室町とはひとくくりにしても良いかと。これを武家の
時代前期。

そして前期は御家人中心の前々期と、非御家人をも武家に
取り込んだ前後期とにわけていいかも。前後期は貨幣経済
が本格化した時代ともいえる。

荘園支配から領域支配への転換という意味で戦国、江戸時代
はひとくくりにできるかと。そして武家一統が完成した安土
桃山を分岐点にそれ以前が後前期、それ以後が後後期にわけ
ればいいのでは?

638:日本@名無史さん
06/01/23 22:30:53
わかりにくいね

639:日本@名無史さん
06/01/24 09:08:40
室町幕府は、鎌倉幕府が発展したものと解釈してよいのだろうか?

640:日本@名無史さん
06/01/24 10:13:43
>>639
良いのではないかと思う。

実際組織は鎌倉幕府とほぼ同じだし、関東の鎌倉府は鎌倉幕府
のミニチュア版だし。

西国中心に登場した非御家人の悪党を取り込むため幕府が拠点
を関東から西国に軸を移動したって感覚ではあるまいか。

赤松のように悪党から侍所の所司にまで上り詰めるやつも出た
し、将軍直属軍の奉公衆の多くは元悪党層の連中だし。

641:日本@名無史さん
06/01/24 14:34:51
鎌倉時代後期の特徴を知るためのお奨め参考文献ありますか?

642:日本@名無史さん
06/01/24 21:51:04
細川重男「鎌倉政権得宗専制論」

643:日本@名無史さん
06/01/25 01:38:26
「悪党層」ねぇ・・・

644:日本@名無史さん
06/01/25 08:34:35
室町幕府は足利さんちの家政機関が発展したモンなんだろ?

645:日本@名無史さん
06/01/25 09:00:52
室町幕府はなぜ朝廷の権能を吸収できたのか。
南北朝統一のせいかな?

646:日本@名無史さん
06/01/25 10:25:51
南朝を吸収して、天皇権力を一気に手中に収めたせいだろう

647:日本@名無史さん
06/01/25 14:32:07
室町幕府は六波羅探題の発展したものでは?
五味文彦「在京人とその位置」

648:日本@名無史さん
06/01/25 20:54:34
室町幕府の朝廷接収は公家衆を将軍の家臣化したことによるところが大きい

649:日本@名無史さん
06/01/26 10:12:40
公家衆は強いものにつくからな。
金閣参りしてるし・・・

650:日本@名無史さん
06/01/26 18:32:38
鎌倉時代で一番の事件ったら何?

651:日本@名無史さん
06/01/26 19:28:20
>>650
考えてみたら、日本史上でも大事件の多い時代だな。150年くらいの
期間なのに。

元冦とどちらにしようか迷ったが、やはり承久の変かな。武家が
治天の君を武力で打倒したことの意味は大きい。あそこで上皇側
が勝っていたら、元冦で日本が勝てたかどうかはかなり微妙だしね。

652:日本@名無史さん
06/01/27 11:10:28
承久の乱でしょう。日本史の転換点。

653:日本@名無史さん
06/01/27 15:21:10
世間知らずの後鳥羽上皇に萌え~

654:日本@名無史さん
06/01/27 16:11:54
律令制度と武家制度どっちが好き?

655:日本@名無史さん
06/01/27 16:23:29
律令制度が好きな人なんているのか?

656:日本@名無史さん
06/01/27 16:32:03
律令制度は古代の中央集権社会のことだよね?

657:日本@名無史さん
06/01/28 13:28:07
律令制度って今の中国や北朝鮮みたいな制度ですよ、基本的に。

そんなの良いと思う日本人っていないでしょ。

658:日本@名無史さん
06/01/28 20:54:15
武家制度は主人が個人的に気に入らない家来をカンタンに殺してしまえる制度だけどな。


659:日本@名無史さん
06/01/28 20:55:35
>>658
そら質の悪いテレビの見過ぎだよw

現実にはそんなことしたら主人もただではすまん。

660:日本@名無史さん
06/01/28 22:13:11
聞くなら律令制度か封建制度どちらがいい、と聞いた方がいいんじゃない?
律令制度=共産主義的な制度だとは知らなかった。

661:日本@名無史さん
06/01/28 22:43:50
>>659
それは江戸時代の話だろ。
戦国時代までは武家奉公人や百姓は武士に簡単に殺されていた

662:日本@名無史さん
06/01/28 22:49:20
>>661
はあ?なにもシランのだな。

戦国時代の百姓なんて武士と区別つかんぞ。
勝手に百姓殺してみろ。戦争だぞ。

663:日本@名無史さん
06/01/28 23:31:06
>>662
男衾三郎絵詞も知らないのか・・・

664:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/28 23:51:02
あれは、門前を通る山伏が対象だった筈。>首を切り懸けよ云々
下人に対する扱いが苛烈であった事、時にはそれが死にも繋がった事や、
徴税が時には「耳ヲキリ、鼻ヲソギ」といった事態を引き起こしたのは確
かですが。江戸初期までは、割と簡単に切られていますよ。
逆に奉公人が仲間の死に納得出来なくて仇を討った話もありましたが。

665:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/28 23:55:39
首を切るという行為は、『宇津保物語』や『今昔物語集』でも兵・武士の家
以外の下人が不手際・不服従を理由に対象とされていますから、何も武
士に始った事では無かったかもしれませんが。
とはいえ、『宇津保物語』では、主の関白が「獄に下す」と言ったのに対し、
下人の側から「首を召されても結構」と言っているので、公家の側からは
基本的に忌まれた行為であったとも考えられます。
『今昔物語集』で首を召そうとしたのも、兵の家出身では無かったのに武
を誇っていた藤原保昌でした。もっとも、現在のイメージとは異なって、
こうした武を玩ぶ貴族は、中世までかなり存在していましたが。
『古事談』には、武家の重罪=斬首と出ています。

666:日本@名無史さん
06/01/28 23:58:39
>>663
あれは鎌倉時代の話じゃん。農地の生産性が上がり、農民に力が
ついが室町くらいだと話は随分違ってくるよ。室町中頃以降は領主
の方が百姓の機嫌取るのに四苦八苦だ。その頃の百姓は武装している
からある種領主の側も命がけだ。下克上も絡んでいるから下手して
百姓敵にまわすような能無し領主は下の連中にとって代わられちゃう。
無意味に百姓殺すような好き勝手が簡単にできるほど世の中単純じゃ
なくなっているんだよ。

667:日本@名無史さん
06/01/29 00:00:23
>>665
公家が武をほぼ捨てたのは南北朝が治まったあたりですかね。
足利幕府に家臣化されたあたり。

668:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/29 00:27:43
>>666
生産性の向上に留まらず、それまでは意見を述べられなかった中小農民も発言
権を獲得し、「農村」部が組織化される様になりますね。
確かに地位が向上している。

>>667
家臣化という表現は疑問ですが、朝廷が勢力を失うのは、検非違使庁と国衙の
機能が武家に吸収された足利義満の頃からでしょうか。
近世は言うまでも無く、初期には、既に江戸を都と呼ぶ慣習まで成立している。
私も南北朝頃までしか心当たりがありませんが、大内や長尾に避難していた公
家が乱の際に殺されている例を見ると、何かしら不味いものと見なされる点が
あったのではないかという気がします。
確か、この頃の近衛家の誰かさんも意気盛んでしたし。
禁中並びに公家諸法度で言われていた頃までは、「武」とも縁があったのでは。
なお、公家が天皇や朝廷という意味から転じて殿上人の階級を指す様になって
武家と並ぶのは12世紀ですが、貴族という言葉がその意味で最初に使用され
たのが『太平記』です。武家と並立し得ないという意識があった?

669:日本@名無史さん
06/01/29 07:00:53
>>666
戦国大名が「領民を好き勝手出来る」権力では
けっしてなかった、という見解には賛成。
ただし、「政基公旅引付」みると、ワラビの粉を盗んだ、
というだけの罪で、おっかさんと子どもたちが
同じ村人から皆殺しにされてる。政基も「不憫」とは書いているが、
その制裁が間違っているとは書いてない。
江戸時代と中世とでは命の価値がまるで異なっていたと
考えた方がよいのではないかな。

670:日本@名無史さん
06/01/29 12:08:02
>>668
陶隆房の叛乱の際は、大内義隆の公家優遇(後継ぎの義尊の母方の祖父は公家の小槻伊治)や
官位獲得のための朝廷への度々の献金などが家臣の反発を買っていたのではないでしょうか。

長尾氏の話は御館の乱ですか?
管領上杉憲政と一緒にいたから殺されたのかな?



671:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/29 16:21:03
>669
>『政基公旅引付』
命が軽い時代でしたね。「一銭切り」も信長に限らなかった。
事件の起きた文亀四年は飢饉の真っ只中で、緊迫した状態にあったというの
も一因でしょうが、この一月後、似たような疑惑が持ち上がった時、政基は
なんと訴人なしで証拠と白状をもとに処刑させています。
しかし、平安~戦国期の公家の日記を読んでいると、最盛期には庶民の命が
軽かったのが、段々人間味が出て来た様な。
公家の衰退と、「庶民」の地位向上が原因でしょうが。

>>670
失礼、越後ではなくて越中でした。天文14年、長尾為景が越中松倉城を攻
めた際、徳大寺実規ら公家衆九人を殺害しています。
徳大寺は、越中守護畠山氏の親類。
殺害理由についてですが、京との連絡もとっていた公家を殺すより優遇した
方が朝廷側の覚えも目出度いのではないか、反発だけで殺すのは割が合わな
いのではないかという考えがあったのですが、昨日そうかもしれないと思っ
たぐらいの事です。
直接戦うというのではなく、生かしておいたら後々反乱した旧知の側の為に
政治的な活動をされる恐れがあったのではないか、と思い付き。
(とはいえ、畠山が上記の時滅ぼされた訳でも無し、単なる巻き添えか。も
っとも、助命が図られなかったとすれば、これはこれで興味深い)

672:日本@名無史さん
06/01/30 09:11:59
各村に乞食が養われていて、
紛争の時に敵に下主人として渡していたというのは本当でしょうか?

673:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/01/30 13:00:45
>>672
藤木久志先生が指摘された事です。もっとも、戦国期の話ですが。
下手人として引き渡すというより、普段扶養されていた弱者(村にとっては
失っても労働などの面でも問題が無かったもの)が、磔などの形で責任を負
わされました。
罪とは穢れであり、犯した人物の責任や贖罪よりも、何らかの儀礼的行動で
「祓う」事が目的とされていた為に、犯人以外の死で解決するという方法がと
られ、被害者側からも容認されていたものと考えられています。
その日の為に養われていた訳ですから、一方的な被害という訳でもありませ
んが、乞食も今の観点から言えば気の毒です。

674:日本@名無史さん
06/01/30 13:12:19
>>673
今の観点から見たら、江戸より前が残忍なのは仕方ないですよね。
考え方も価値観も違いますから。

ただ、農奴に近い常態と思われる律令制、荘園制下の農民と違って
室町中期以後の農民は、独立独歩の自治体としての惣村を形成して
まとまった動きをはじめたという感じがしますね。そうした村々を
取り込んで、荘園ごとにばらばらだった日本を領域形態で再編成
したのが戦国大名たちであり、それをさらにまとめたのが織豊徳川
政権なのでしょうね。

荘園が貴族や寺社の支配下のままで、武士は単にそこの管理人的存在
のままだったら、こうした惣村の形成はうんと遅れたのではないか
と思ったりします。

675:日本@名無史さん
06/01/30 14:21:51
「村の戦争と平和」と「雑兵たちの戦場」はどちらが面白い?

676:日本@名無史さん
06/01/31 09:06:31
「村の戦争と平和」って日本の中世のシリーズのか?

677:日本@名無史さん
06/02/01 09:18:43
独鈷が欲しいんですが、
どこかで売ってるんでしょうか?

678:日本@名無史さん
06/02/01 09:19:30
>>675
「戦国の作法」じゃないの?

679:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/01 17:23:01
>>677
高野山、十万円。

680:日本@名無史さん
06/02/01 21:08:02
>>677
そんなもんどこの仏具屋でもふつうに売ってるがな

681:日本@名無史さん
06/02/03 12:35:22
独鈷の通信販売はしてるでしょうか?

682:日本@名無史さん
06/02/03 16:36:00
一体、独鈷を何に使うんだい?
呪詛でもするのかw?

683:日本@名無史さん
06/02/03 16:38:12
ケツの穴あああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああああ

684:日本@名無史さん
06/02/04 20:32:54
>>681
楽天で検索しろ

685:日本@名無史さん
06/02/05 04:06:03
現在鎌倉在住。知り合いに「自分には霊能力がある」と信じている人間がいるのですが、その人の霊体験です。
夜中に外からガチャガチャ音がする。
なんだか聞いたことの無い音だったので窓の外を見てみると鎧兜の行列が家の前の道を行進していたとの事です。
その人曰く「鎌倉時代にはこのあたりは戦場だったから」とのたもうてます。
さて、鎌倉時代の合戦では鎧兜の武将が行列で歩くことがあったのでしょうか?
どなたか教えてください。
長めの文章申し訳ありませんでした。

686:日本@名無史さん
06/02/05 04:36:25
>>1
さようなら。
いろいろお世話になって、ありがとうございました ..

687:日本@名無史さん
06/02/06 01:50:59
頼朝家系が滅びて源氏将軍が居なくなったけど、頼朝の兄弟の家系をなぜ将軍にしなかったんだろうか?

688:日本@名無史さん
06/02/06 08:35:24
源氏vs平氏という構図で考えると、
源氏嫡流は3代で滅び、幕府を牛耳ったのは北条家
源氏政権のようで平氏の政権だったのね。

689:日本@名無史さん
06/02/06 08:40:18
ところで鎌倉以降、
はっきりと平氏と証明できる家系は
どれだけ残っているのですか?
源氏と比べると、曖昧な家系が多いので。

690:日本@名無史さん
06/02/06 08:55:19
>>689
実に少ないですな。

まず北条がアウト。それに三浦も怪しいらしい。

千葉、上総などの忠常系統は一応平氏といえるのかな。

畠山は鎌倉初期に滅びているし。

上杉執事としての長尾もはっきりとはできない。

691:日本@名無史さん
06/02/06 09:00:38
信長は兵士か?

692:日本@名無史さん
06/02/06 09:09:02
>>691
信長が平氏でないことだけははっきりしている。

なにせ最初は「藤原」を名乗ってたからw

その藤原さえ怪しいらしいw

織田、徳川系大名で出自のはっきりした家はほとんどない。

細川くらいかなあ。

693:日本@名無史さん
06/02/06 09:58:43
南北朝時代が日本の歴史のターニングポイントか?
古代がぐちゃぐちゃにかきまわされた感じ

694:日本@名無史さん
06/02/06 10:05:24
>>693
ですな。

そもそも古代国家の残滓ともいえる荘園制が崩壊しかけたから
鎌倉末期の悪党の跋扈がはじまり、それが南北朝の争乱の
きっかけになった。

そして争乱でまず公家が完全に没落。そして争乱の中で芽生えた
下克上の精神が武家の下部に行き渡り、荘園制の終焉とタイアップ
するように国人連中が勃興し、上の守護層を倒してのし上がって
いったからね。守護の連中は古代国家の氏の系譜の連中が多かった
けど、国人層はもっと雑多だからその過程で古代国家の残滓が
消滅するような感じになったのではないだろうか。

695:日本@名無史さん
06/02/06 12:22:46
荘園制は戦国時代に崩壊し、秀吉で完全につぶれた

696:日本@名無史さん
06/02/06 13:45:23
荘園公領制だろ?

697:日本@名無史さん
06/02/06 18:16:00
皇室が荘園もってたくらいだから、公領なんてほとんど残って
なかったろうね。

それに国衙の力なんてなくなってたからわずかに残ってた
公領土なんて押領のし放題だったのでは?

698:日本@名無史さん
06/02/06 21:09:42
源平合戦だけをみると、西の平氏vs東の源氏だと思いがちだけど、
鎌倉以前の坂東武者は圧倒的に平氏。
西国、東北は国人化した藤原氏が多く、源氏は畿内の勢力
源氏が武家として頭角を現すのは源頼信、頼義から
当初は朝廷における権力闘争の代理戦争
摂関家、公家の没落にともない、武家の勢力闘争に発展
勝利した源氏が東国に新国家を建設。
一時北条氏に権力を奪われるもの、
源氏の棟梁を頂点とする武家国家が成立。
こんなところで良いですか?

699:日本@名無史さん
06/02/07 11:25:27
やはり、守護・地頭の設置が荘園公領制度崩壊の始まりか?

700:日本@名無史さん
06/02/07 12:03:37
頼朝が後白河法皇を脅したのが効いたのだろう

701:日本@名無史さん
06/02/08 12:41:59
坂東武者は家族の屍を乗り越えていく

702:日本@名無史さん
06/02/08 13:58:46
おやもうたれよ、子もうたれよ、
死ねればのりこへのりこへたゝかふ候

703:日本@名無史さん
06/02/08 14:03:00
西国のいくさと申は、おやうたれぬれば孝養し、いみあけてよせ、
子うたれぬれば、そのおもひなげきによせ候はず。
兵糧米つきぬれば、田つくり、かりおさめてよせ、
夏はあつしといひ、冬はさむしときらひ候。
東国にはすべて其儀候はず。


704:日本@名無史さん
06/02/08 14:11:57
俺の屍を越えてゆけ

705:日本@名無史さん
06/02/08 22:13:10
やだね武士は野蛮で

706:日本@名無史さん
06/02/09 12:08:43
西国武士のカルチャーショック

707:日本@名無史さん
06/02/10 11:10:25
武士が政権を保ち続けた日本史の異常さは、
日本にとって幸福だったのか不幸だったのか

708:日本@名無史さん
06/02/10 11:35:22
近代に武士道が持ち込まれたのは不幸なことだ
ありもしない武士道が軍人に吹き込まれ、
日本軍を狂わせた

709:日本@名無史さん
06/02/10 17:16:39
>707、
俺の考えでは不幸だったと思う。
>708、
俺もそう思う。

総括して言うと世界の中でもなぜか日本だけが異質に見える。(俺は世界の歴史は無知だけど)
武士が政権を取ったのは世界でも日本だけだろう?それも何百年も、 異常だろう。
国内で一族が滅ぼすか、滅ぼされるかをずっとしてきたんだろう。
それで血筋で因縁関係を持ったりなんたりと。
例えばヨーロッパとかは古代から現代まで普通の政府が国家を
統治してきたんでしょう? 一族が滅ぼすか滅ぼされるとか、そんな
争いはしてないんでしょう? 





710:日本@名無史さん
06/02/10 17:33:04
昔の日本人より昔のヨーロッパ人のほうが慈悲深い気がする。
今日でも日本人よりヨーロッパ人のほうが慈悲深い気がする。
(なんの根拠もないことだけど・・・)


711:日本@名無史さん
06/02/10 20:02:10
(゚Д゚)ハァ?

712:日本@名無史さん
06/02/10 21:27:59
>709、710
おおバカだなこいつは

713:日本@名無史さん
06/02/10 21:49:18
710的には、さしずめイスラム教徒なんて悪の権化なんだろうな・・・

漏れは、あらゆる時代・階層を通じてもっとも住み難いのがキリスト教圏だと認識している。

714:日本@名無史さん
06/02/10 22:05:07
後醍醐天皇の子孫が皆殺しにされなかっただけでも日本人のほうがヨーロッパ人より慈悲深い

715:日本@名無史さん
06/02/12 01:34:57
西国武士は東国の武士を恐れたと言うが、
これは平氏が源氏の武力を恐れていたのか、
それとも東国の国人たちを恐れていたの?
元々の坂東武者というのは、平氏が多いような気がします。
八幡太郎義家が東北を平定してから、源氏は関東に影響力を持つようになったんですよね。
えらいひと教えて

716:日本@名無史さん
06/02/12 10:54:30
>>685が少し気になるw

717:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/12 10:59:08
>西国武士は東国の武士を恐れたと言うが、
これの根拠がよく分かりません。斎藤実盛が『平家物語』で放った台詞の事
なら、そもそも彼は実際には富士川行きの中にはいませんでしたからね。
西国武者(平家)の敗北を必然とする物語の構成上の虚構です。

718:685
06/02/12 21:53:10
>>716
ありがとうございます。
放置プレイと心がけておりますが心優しき方の回答が無いかと
毎日催促も出来ずにただただ眺めるばかりでございます。

719:日本@名無史さん
06/02/12 22:07:10
鎧が着られるほどの身分の高い武士なら徒歩じゃなくて馬に乗ってるんじゃないの

720:日本@名無史さん
06/02/13 12:21:54
>>716
どう気になるの?具体的に!

721:日本@名無史さん
06/02/13 13:59:12
>>719
平治物語絵巻だと、徒侍も鎧着ている。

722:日本@名無史さん
06/02/14 12:15:58
承久の乱の圧倒的勝因は何か?

723:日本@名無史さん
06/02/14 12:52:59
つか朝廷側が弱すぎだろう

724:日本@名無史さん
06/02/14 13:00:10
>>722
坂東御家人の危機感が切実だったのが大きいかと。

あの三浦でさえ後鳥羽からの文をそのまま幕府に
届けているしね。当時三浦は北条と相当な緊張
関係にあったから裏切って普通の状況だった。現に
後鳥羽側は相当あてにしてたようだし。しかし、
三浦は積極的に後鳥羽に立ち向かった。

あとは求心力としての政子と後鳥羽の力量差も大きい
かと。あの演説(直接は安達景盛が読んだらしいが)
は日本史上屈指だろう。あんな演説されたら一致団結
せざるを得ない。

725:日本@名無史さん
06/02/14 14:39:02
>>724
>当時三浦は北条と相当な緊張関係にあったから裏切って普通の状況だった

少なくとも当該期の平六タンについては、義時とマブだったってのが最近の見解でね?

726:定です~
06/02/14 23:28:25
きょうはバレンタインデーです。
「友チョコ」ですけど、どぉーぞ ♪
 *
つ■ ))
 

727:日本@名無史さん
06/02/15 14:42:57
後鳥羽は勝機があると思ってたようだが、
それは彼の読みの甘さか、
世間知らずか。
如何?

728:日本@名無史さん
06/02/15 16:47:39
結果を知ってる人間は後からなんとでも言えるわな。












それが歴史を語る際の楽しみ方のひとつでもあるけどね。

729:日本@名無史さん
06/02/15 17:06:14
少なくとも日本開闢以来、朝廷が朝廷外の勢力に首都を落とされ
るような敗北を喫したことはないからね。壬申の乱は朝廷内の
内戦だし。

だから、いざ、院宣を出せば多くの武家が味方について勝利
疑いなしと思ったんだろうな。

戦術も悪くない。幕府全体を敵にするわけでなく、あくまで北条
義時に絞ってたし。

鎌倉幕府の中枢に有能な人間が少なかったらかなりやばかった
のではないかと思うな。日本の歴史見ると、武家は結構日和見
で勝ちそうな方にどっと味方する傾向にあるからね。

政子、義時、泰時、ここいらは日本史上でもかなりの出来物
だからな。

730:日本@名無史さん
06/02/15 22:21:54
>>729
京都周辺の武士は大概朝廷側に付いたから、そのへんで楽観視したのかも知れないですね。
幕府側が予想より早く体制を整えて出兵してきたのが敗因かなー。



731:日本@名無史さん
06/02/17 11:43:29
上皇側の大将が逃げ延びてきたら、
上皇は門を閉めて知らん顔をしたらしい。
これは事実かな?
事実とすればえげつないこっちゃ、
でも考えてみれば、当然のことか?

732:日本@名無史さん
06/02/17 12:20:01
>>731
公家てのはいつでもそんなもんw

だから権力を奪取されてしまった。

733:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/17 19:47:35
藤原忠実も似た様な行動をとっていますが・・・公家が「そんなもん」「だから
権力を奪取されてしまった」として、武家が権力の座にある事の正当性を主張し
たのが新井白石で、以後近現代にまで、
武家→質実剛健だから権力に相応しい 公家→堕落して没落
というイメージが根を張っています。しかし、先入観という気もする。
負けるべくして負けたというものの、本当にそうであったのか。平家等も同様。

734:日本@名無史さん
06/02/17 23:47:26
公家より武家のほうがあくどかったというだけだろ。

735:日本@名無史さん
06/02/17 23:49:41
平家は生き残ってるという説は言われてるんですか?


736:日本@名無史さん
06/02/17 23:54:57
うちの近所に自称平家の子孫が生きてるよ

737:日本@名無史さん
06/02/18 00:12:05
自称平家もうからん
えせ同和もうかる

 よってえせ同和の勝ち

738:日本@名無史さん
06/02/18 00:37:21
自称平家ってなんでわざわざ身分を隠す必要があるわけ?
源平の戦いとかいっても、実際には平氏も源氏も敵味方に入り乱れてるわけじゃん


739:日本@名無史さん
06/02/18 02:18:24
「平家」と言えばふつうは平清盛とその一族だけを指す。
平氏と言ってしまうと北条とか三浦とか千葉とか平氏の鎌倉御家人は腐るほどいる。
「平家」なら鎌倉幕府から謀反人として追っ手がかかっているから身分を隠す必要があっただろうな。

740:日本@名無史さん
06/02/18 02:35:54
>>739
鎌倉で僧侶になったのが結構いたから、平家滅亡時に幼かったら助命されたのでは。
まあ、僧侶なら子孫はいませんけど。

平頼盛の子孫はどれくらいの地位の貴族として残ったんでしたっけ。
息子はたしか実朝暗殺の際、京都から来ていたんですよね。


741:日本@名無史さん
06/02/18 02:41:55
>>740
頼盛の子孫はだんだんジリ貧になって頼盛のひ孫の代までで朝廷から姿を消しています。

742:日本@名無史さん
06/02/18 03:39:42
>>733
いまごろ何言ってんだよ。
わざと高橋無視か。

743:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/02/18 04:41:13
>>733
自己板で失恋しますたorz
   〃
(´σπ・)゜゜・。
(   ウワァーン
 

744:定ちゃん ◆zBqvONP/YE
06/02/18 04:43:08
お邪魔しますた。ごみんなしゃい ..
m(_ _)m ↓

745:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/18 14:31:09
>>721
歩兵用の腹巻でしたね。南北朝時代になると、下馬する事の多くなった騎馬
の士も大鎧に代って着用する様になっている。

>742
なんの事やら。

>743
雑談スレにて。

746:日本@名無史さん
06/02/20 05:19:35
2月22日、竹島の日
『嫌韓流2』ついに発売!

45万部のベストセラー『嫌韓流』をまだ読んでないやつは、今のうちに買って読んでおこう

747:日本@名無史さん
06/02/20 13:29:37
古代の集団戦法が、中世には騎乗射撃中心になっていった
集団戦法のほうが強かったんじゃないか?

748:日本@名無史さん
06/02/20 14:23:09
富山の山奥に、村人全員平の字がつく苗字の村があるが

749:日本@名無史さん
06/02/21 12:51:34
>>748
それは落ち武者村だろ

750:日本@名無史さん
06/02/21 22:21:34
>>747
>古代の集団戦法が、中世には騎乗射撃中心になっていった
>集団戦法のほうが強かったんじゃないか?

訓練された騎兵相手だと、歩兵は相当不利ですよ。 中国や西洋の例を見ると。
後方や側面に回りこまれて弓や投槍などで攻撃されて混乱する、そこを人馬一体となって突撃されて敗走ってパターン。
対抗する歩兵も数揃えるだけじゃなくて、装備・訓練が必要だから当時の日本では整備するのが難しかったのでは。

そもそも、武士が台頭する以前って集団戦法とってたのかな?
いちおう律令制整備するときに、農民から徴兵する建前が出来ましたけど、すぐ地方豪族の子弟が軍の担い手になってますよね。


751:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/21 22:28:46
>中国や西洋の例を見ると。
騎兵のみの、それも集団での突撃は、日本では無かったでしょう。
>そもそも、武士が台頭する以前って集団戦法とってたのかな?
騎兵に一方的に率いられるのではなく、古代には騎兵と歩兵の連携が見られ、
南北朝時代以降に再度復活したという指摘があります。
集団戦法というか、確か令では一隊十楯として、二隊を前列後列として編成
していた筈。

752:日本@名無史さん
06/02/22 05:38:28
>>751
日本は草原がほとんどなく、平地はたいてい田畑。
田畑に用いられないような土地は雑木林が多い。

河原にしたところでそれ程広いわけでもない。

室町中期以前の河口付近は灌漑技術が未成熟だったので
複雑に入り組んでいる状態。

騎馬集団突撃するような地理的環境にないもんね。

753:日本@名無史さん
06/02/22 16:36:07
死傷者率は古代の集団戦法のほうが、
中世の名乗り合戦より高かったらしい。

ま、言われてみればそんな気もするが、
意外な気もする。

754:日本@名無史さん
06/02/22 17:29:41
実朝以後のマイナーな将軍たちは幕府の扱いはどうだったんでしょうか?
一応は形式的にも決済したりしていたんでしょうか?
それとも完全にひな人形?

755:日本@名無史さん
06/02/23 12:03:47
形式的には最高責任者。天皇と同じ。
だから担ごうとするやからも現れ、壮年になると将軍は取り替えられた。
これも天皇とにてるなw

756:日本@名無史さん
06/02/24 13:51:25
鎌倉の将軍も、日食の間は、天皇と同じく、かくされていたとか。

757:日本@名無史さん
06/02/24 22:17:40
age

758:日本@名無史さん
06/02/25 21:46:30
頼朝は傑出した政治家と思うが、どうよ?

759:日本@名無史さん
06/02/25 21:55:39
ブレーンのおかげじゃないか?

760:日本@名無史さん
06/02/25 22:39:37
>>759
それを使いこなすのも力量がいる

761:日本@名無史さん
06/02/26 13:31:28
>>758
傑出してますよ。

頼朝と北条政子他北条一族がいなかったら、
武家政権は日本に誕生しなかったかもしれ
ない。

そうしたら封建制もなく、日本は朝鮮や中国と
決定的な違いのない国のままだったかもしれない。

大きな存在だよ。

762:日本@名無史さん
06/02/26 17:29:10
中国や朝鮮にも武家政権は誕生していますが。
日本は平安時代段階で中国と朝鮮とは充分決定的な違いのある国だった。

763:日本@名無史さん
06/02/26 17:37:19
>>762
武家政権というのは封建制度のことでしょ。

中国朝鮮は19世紀まで律令制じゃない、基本は。

単に武人が政権のトップにたつのであれば世界中
別段珍しくもなんともない。

平安時代から日本と中国朝鮮が違う道を進みはじめ
たのは事実だけど決定的になったのは封建制が制度
として確立した時でしょう。平将門がその嚆矢だろう
けどまだ制度化まではいかなかったからね。

764:日本@名無史さん
06/02/26 17:40:54
日本の封建制を西欧とは違う何かだと言う意見もあるね。
網野氏などは、日本の封建制を違う概念の呼び名にしようと
言っている(日本の中世6)。

765:日本@名無史さん
06/02/26 19:59:44
奈良・平安時代の日本の律令制も中国朝鮮とは全然違うと思いますけど。
科挙合格者による官僚制じゃなくて、家柄に基づく政治体制だから。
平安時代も後半になると、代々役職まで引き継ぐようになってそれぞれの家の家職になっちゃうし。




766:日本@名無史さん
06/02/26 22:22:06
日本の封建制はよかった方なの? 仮に日本で封建制が発達してなかったとして
律令制でずっと支配してたらどうなってたかな?

767:日本@名無史さん
06/02/26 22:37:37
ニダーランドみたいになって生産性が上がらなかった
よって資本の蓄積が進まなかったと思われ
江戸時代の百姓とニダーランドの農民とでは豊かさが
違った たとえば農器具だけでも日本の百姓は江戸期に
おいて10本程度の農器具を持っていたのに対し同時代
のニダーランドの農民は多い方で2~3本程度生産性が
上がるわけはないと思う

768:日本@名無史さん
06/02/26 22:57:00
幕末に小銃を買うにしても一丁、20~40両前後でしょ
薩長のように一万丁買うにしても30万両、
商業も発展してないと国民国家、国民皆兵も無理

769:日本@名無史さん
06/02/26 22:58:20
>>766
封建制って西欧も日本もそうだけど、近代的所有権とか、
個人の人格を前提とした契約とかの極めて重要な前段階
なんだよね。

戦乱とかの物凄い紆余曲折はあるが、この封建制を得る
ことでまず武士層を中心に約束だの権利だのの観念が
確立し、それが武士層ともともと混在一体だった庶民
層にも拡大し、江戸中期以降、日本は亜近代法治主義
の社会になった。

幕末の日本の知識人は日本の社会の支配の根本を法と
道義に基づく支配だと認識しているくらいだしね。

ちなみに封建制度を得てない東アジア大陸では、未だに
法治社会じゃないからね。あそこでは法家主義に基づく
統治はあっても法治はないから。権力者が法の例外に
あるんじゃダメだからね。律令は法をもちいているけど
法家ではあっても法治じゃないんだよ。

770:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/26 23:11:47
欧州の例と比較して、主従間の双務契約関係が薄弱であったとか、「庶民」層
の法の場における権利主張の機会やその為の団体が未形成であり、自前の近
代化は達成出来なかったものの、中国や朝鮮と比較して欧州に倣った近代化
を自ら達成する事が容易であった、と言われますね。
ただ「法」に対する観念としては、上から強制されるものであって本来無い方
が良い刑罰とセットになったものという印象が持たれており、法という単語
が権利をも意味していた欧州とは今でも異なるという指摘があります。

裁判員制度とか陪審員制度というのも、あれは「法」というものを自ら参加し
て勝ち取る権利と見做しているからこそ望まれるものであって、法に対して
及び腰な日本人の精神風土では違和感が残る。

771:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/26 23:14:35
前半についてですが、要するに近代化は出来なかったがそれに近い、下地と
なりうる状況を形成する事は出来たのが日本、という事です。
>法に対して及び腰な
敢えて付け加えておくと、日本人の考える「法」のイメージがお上からのもの、
裁かれるもの、歓迎すべからざるものとなっている為。欧米では法=権利。

772:日本@名無史さん
06/02/26 23:26:47
直接民主主義の精神の残滓。ね
普段何を読んでいるんだか・・・

773:日本@名無史さん
06/02/27 00:11:50
>>770>>771
わたし、多少法の知識があるものですから、そういうふうに
いわれていることも良く承知してます。

でも、それは近代西欧法を継受する際の偏見がかなり入っていて
それを前提にした考えが濃厚だと思いますよ。なにせあの当時は
江戸時代以前の日本を全て遅れてダメだという前提にたち、その
上で近代法を導入するという思想が根本にありましたから。そし
て今の法学者は日本の歴史に基本的に無知ですから、そういう
近代法を継受した際の先人の考えをほぼ無条件に受けいている
例が極めて多いのです。

良く言われる陪審は近代法の象徴でもなんでもありません。
あれは日本で言う村の寄り合いがそのまま継承され近代の衣
をまとったものと見るのが妥当です。陪審はイギリス法特有の
制度でイギリス法は日本で言うところの御成敗式目がそのまま
残ったようなコモンローをベースにした法で当時の村落共同体
のルールが基本ベースなんです。そしてイギリス法はイギリス
以外の欧州の法体系と基本的に何の関連もないんですよw

774:日本@名無史さん
06/02/27 00:18:26
続きですが、日本の法は上から与えられ云々といいますが、
国家レベルの法は現代でも上から与えられるものであって
決して下が作るものでもなんでもありませんよ。

民主主義は法を下が作っているというフィクションを形成する
ことで議会に正当性を与え、社会の安定を図る装置にすぎません。

つまり統治される側の「納得」するための壮大な建て前が
民主主義なんです。

だからこれを絶対化して考えるのは一種の宗教であって客観的
な話ではないと思います。

統治される側が納得するなら別に民主主義である必要なんて
ないんです。

江戸時代が世界史でも稀に見る安定した統治を実現したのは
それだけ民衆が納得して統治されることに成功したからであって、
これが民主主義に劣るとか優るとかいう話にはならないと
思いますよ。

775:日本@名無史さん
06/02/27 00:44:06
統治される側が納得するなら非法治社会でも構わんの?

776:日本@名無史さん
06/02/27 00:48:10
>>775
法治じゃなきゃ普通納得なんてしないでしょ。

レベル低い社会なら別だけどね。

777:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/27 10:46:03
>>773-774
>江戸時代以前の日本を全て遅れてダメだという前提にたち
唱えられたのがずいぶん前であり(最近では死の直前に石井進先生も似た趣
旨で論じてらっしゃいましたが)、そうした思想的バイアスのかかった人に
よって引用された例もあります。ご懸念はその事でしょう。
しかし、下でも述べる通り、法への意識の違いを述べたかっただけです。
欧州というよりは西欧と言うべきであったかもしれませんが、「都市の代表」
による身分制議会への参入といった形の政治参加や、都市民による革命とい
った行動が日本で起こりそうになかった事(に見える違い)は確かでしょう。

778:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/27 10:47:19
>あれは日本で言う村の寄り合いがそのまま継承され近代の衣
陪審制という制度そのものではなく、それらを受け入れる現代の「法」意識
の下地、文化的環境というものの違いについて述べるのに言及しました。
アンケート(というのも聞き方次第ですが)結果からも、どうも「日本人的」
な制度ではないものを、欧米から安易に借用する事には反対です。
少なくとも歓迎されていない事、政府の説明で納得して受け入れてもらえる
様なものでない事は、明らかかと。

>これが民主主義に劣るとか優るとかいう話にはならないと
そもそも私は>770-771の中で西欧との優劣を問題としていません。
日・中・欧の歴史上で「違い」と類似があったと述べているだけです。
(上で述べた革命云々についても同じで、起こりえなかったから悪いとか劣
っていたなどと言いたかった訳ではありません)
後半(774)で述べられた「反論」自体そうした誤解の下に成立している
様ですが、そもそも「民主主義」の優越性を論じていないので、私に向けら
れる必要性を感じません。

貴方の書き込みは、日本の歴史が民主主義中心の史観から冒涜されたのでこ
れに反論する、という主旨であった様に見受けられましたが、そんなつもり
で書いたのではありませんよ。

779:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/02/27 10:57:23
以前、漫画家のみなもと太郎先生が江戸後期の打ちこわしが何故フランスの
様な「革命」に発展しなかったのかという疑問を提示され、どうやっても分か
らなかったと述べておいででしたが・・・
(あの先生も、歴史観が古いところがおありで、開国が善、民衆が善といっ
た視点が見受けられますね。「進歩」の為の「迷信」打破の傾向も強い)
打ちこわしは体制の打破は埒外でしたし、一揆というのも断固戦うというより
は、島原の乱も含めて要求を認めてもらう為の行動(訴訟手段の一つ)という
もので、支配体制への対抗とは元々色彩が異なっていた。
フランスにおいても国王の処刑時には反発がありましたが、やはり近代まで日
本の風土に「上への対抗・拮抗」という発想は政治的にも軍事的にも生じ得な
かったと考えるしかありません。
安藤昌益も「教化」による理想社会建設を述べており、武力革命は志向してい
なかった。
そうした点に、法とか社会に対する「日本的」な見方の違いというのがあるの
だろうと思います。優劣は言いませんが。

780:日本@名無史さん
06/02/27 14:01:47
安藤昌益が政府を作っていたら、ポルポトと似てたんじゃない?

781:日本@名無史さん
06/02/27 18:27:31
>>777-779
昨日、夜中に書いたもんで長いわりには表現が足りなかった
かもしれません。

山野さんが優劣を論じられているとは思っていなかったので、
私が批判的に書いたと受け止められたらそれは私の書き方の
問題です。すみませんw

いずれにしろ、日本と西欧で、ほぼ同じ時期に相互に関連なく
封建制度が開始し発達しはじめたのはとても面白く、また相互
に特色があってかなり違う部分もあるので興味深いですね。
またその違いはどこから生じ、その結果社会システムにどう
反映されたかを考察するのも楽しいですね。

鎌倉幕府は平時は裁判機関としての役割が主ですから、そこに
日本流の法の発達の原点があると思いますが、あまりそのへんに
関する研究成果がわれらには伝わってこないのが残念ではありま
す。武家法は御成敗式目を原点にしてますし、その武家法が
江戸時代の法の原点ですからそのへんを研究してもらえると
面白いですね。

西欧の大陸系諸国はローマ法を基準とした法規を19世紀
頃まで用いたのに対して、イギリスは当初からコモンローで
大陸法と無関係なんですよね。日本は鎌倉以後、律令は形骸化
し、武家法が中心になっていき、戦国後はそれが庶民にも適用
されるようになっていきますから、古代法を用いないという意味
でイギリスに近い法の発達かと思います。島国ということが
影響しているんでしょうか。




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