05/09/13 05:00:08
私の実家の長男は代々1代目の人が誰だったのか調べています。
解決が困難な為お願いします。
多分1代目の人は天保時代~慶応3年あたりの人です。
京都と長州に詳しい人や専門家の方の
人協力してください。
話が長くなるので、大雑把に話しますと、京都を出発して江戸に向かい東叡山寛永寺に寄って誰かと会い、そして旅を続けた後、今現在の所に落ち着いたと聞いています。
長州萩の住人と書かれたボンボロ笠?をかぶり、羽織袴で御用と十六弁八重表菊紋が書かれた提灯
(提灯の袋もあり紺色に近い色で、その提灯の袋にも十六弁八重表菊紋が白色で袋一杯に書かれています)を持って、
大金を巾着袋に入れ白鞘の短刀2本を背中に担いで、
脇差と太刀を腰に下げ、今の実家があるところにたどり着いてと聞いています。
そして名字を宮家とし、家紋を十六弁八重表菊紋として医者としてひっそり暮らしていたそうです。
そして子供に名前を付けてたらしいのですが、付けた名前を呼ばずに麿又は幾麿と呼んでいたそうです。
今現在、家に残っている遺品は刀剣書、提灯、関所手形、東叡山寛永寺の御札、赤い漆塗りの木で出来た板?見たいなの物があります。
(天皇陛下が正装している時によく持っている木の板と似ていて、前に反れながら先端がグルグル巻きついています。)
なぜか分からないけど、名字と家紋は明治時代に変えたそうです。
関所手形には、小森殿っていう判子が関所手形全体に大きく丸い判子で押されていて、薬草を探すべくこの者をなんなく通すべし!
と書かれていて、それで関所を通過してきたらしいのです。
そして、自分の子供にも妻にも自分の名前や身分を明かさなかったそうです。
そして、1代目の人が息を引き取る時に2代目である息子が、お父さんはどこの誰か?と問いただすと
提灯(小田原提灯)と刀を持って京の町を歩けば、俺が誰か分かる!と言って息を引き取ったそうです。
そして、2代目の人がそれを実行しようとした矢先若くして亡くなったそうです。
それ以降調べようが無くなってしまったのです。