02/11/05 22:09 +o4w6x7O
昭和の大合併の頃に西尾市が市制をしいて、来年12月で50年になるわけですが、
西尾市の場合、本当は当時の合併促進法の成立・施行の前に市制施行をを試みています。
同じ三河でも明治・大正の頃に市になった豊橋や岡崎は別として、近隣の碧南、挙母(豊田)
刈谷、安城が次々と市制を施行しました。西尾も早速準備に取りかかったものの条件に
満たず失敗し、幡豆郡平坂町の一部を編入することで何とか市制施行に至りました。
そのあとは隣の市との陣取り合戦です。幡豆郡内の平坂町、寺津町は編入に成功するも、
幡豆郡豊坂村は西尾市ではなく額田郡幸田町に合併を申し入れました。幡豆郡内の町村は
多くが西尾市に編入合併しましたが、豊坂村は幡豆郡の東の端にあたり、西尾市とは
小高い山で仕切られていました。そのため、生活圏の近い幸田町と郡を越えて合併し、
将来、再び別の市と合併することがあっても町を分割させないことを条件としている
そうです。おそらく近い将来に岡崎市と合併するでしょう。
西尾市と合併はしたものの、旧幡豆郡福地村では住民による分村騒動が起こります。
1962年に碧海郡六ツ美町の戦い(?)では岡崎市に敗れ、1967年には碧海郡桜井町も
矢作川に志貴野橋を架け懐柔策をとるものの、安城市の手に落ちました。
中でも有名なのは碧海郡明治村の三分割の争いです。
碧海郡明治村は明治の大合併の頃できました。当時は近くに油ヶ淵があることから
淵邊(淵辺)村という名前でしたが漢字が難しいなどの理由により、明治村と改名しました。
村役場の位置を巡った諍いなど、地区同士の対立は長く続きました。村を囲む周辺三市が
施設建設の協力を持ちかけ合併を促した結果、ついに村は分裂し、大字西端は碧南市、
大字米津、南中根は西尾市、大字和泉などの残りの地区は安城市になりました。
合併して数年はしこりが多くのこり、この頃のいきさつを聞こうとすると嫌がる
お年寄りが多いです。これは西尾市に限ったことでもなく、今でもどの町にも
あると思います。