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「チベット大虐殺」
中国のある情報筋によると、人民解放軍は1950年10月7日~同月25日にかけて、
東チベット各地で5,700人以上のチベット「兵」を東チベットで「根絶」し、
2,000人以上を投獄したという。
殺戮・殺人、拷問、僧院への砲撃、遊牧テントの一掃といった話は、
数多く記録に残されている。その種の報告は、国際法律家委員会がまとめた、
チベットに関する1960年のリポートにも多数記載されている。
中国軍の機密資料によれば、人民解放軍は1952年~1958年にかけて、
アムドのカンロ[甘南]地区で996件の反乱を鎮圧し、10,000人以上のチベット人を殺害したという。
またアムドのゴロク[果洛]地区では、1956年に130,000あった人口が、
1963年にはおよそ60,000までに減ったという。パンチェン・ラマ10世は、
この地域についてかつて次のように語ったことがある。
「青海省での残虐行為をすべて取り収めた映画があれば、観客は大きな衝撃を受けるに違いない。
ゴロク地区では多くの人たちが殺され、死体は丘の上から濠にむけて転げ落とされた。
解放軍兵士たちは遺族に向かって、反乱が一掃されたのだからお祝いをしろと言った。
あるいはむりやり死体の上で躍らせ、最後には機関銃を掃射した。」
パンチェン・ラマ10世は、演説の中でさらにこう指摘している。
「アムドとカムにおいて、人々は筆舌に尽くしがたいほどの残酷な仕打ちを受けた。
10人ずつ、あるいは20人ずつに分けて銃殺されることもあった。
(中略)こうした行為は、人々の心に深い傷を残している。」
1959年3月10日にラサで発生した民族放棄が弾圧された際には、
3日間で10,000~15,000人のチベット人が殺された。
他方、人民解放軍チベット軍区政治委員会による1960年の秘密文書によれば、
1959年3月~1960年10月までの間に、中央チベットだけで87,000人のチベット人が殺されている。