05/08/10 00:53:57 0
(そのとき)立ち上がって、うちに帰ろうとすると、近くでパチパチ音がする。見ると、家がパッと
燃え上がるところだった。それで大急ぎで帰ろうとすると、ぼくの体から煙がどんどん出始めた。
見るとシャツが破れて、その裾が火を出して燃えるところであった。びっくりして、もみ消そうと
思い、シャツをにぎったが、どうしたことが手に力が入らない。みると、ぼくの手はすっかり
焼け皮がなくなって、赤い肉が出ていた。(石原秋光『原子雲の下に生きて』中央出版より)
「ピューピュー」と吹きまくるものすごい風(火事風)とともに「ザーザー」と墨のような雨が降り
出した。頭の上には、どんどん火の粉が飛んで来る。両手でおおい、地面にうつぶせになった。
熱い火の粉が足に落ちかかるが、体を吹き飛ばされそうで払いのけることもできない。火の粉と
いっても、大きな火のかけらが雨のように降ってくるのだ。その熱さ・・・
(桑原洋子『原爆の子』岩波書店より)
(翌日)昨日までの広島市はどこへ行ったのであろう。7つの川は今や無残にも死体と、煤煙と
焼けただれた流木とに充満し、焦土広島を黒々と条を引いて流れている。
(水木俊之『ヒロシマの証言』日本評論社より)
あくる日、わたくしたちは、姉さんをさがしに浦上へ出て来た。死がい、死がい?足下に死がい、
右にも死がい、左を向けば死がい。私は死がいに囲まれて、足が動けなくなり、その場に立ち
すくんだ。焼け野原の地面は、フライパンのように熱かった。
(深堀葉子『原子雲の下に生きて』より)
(その後)幾日か、焼け跡をさがし歩いてようやく小学校1年の弟は全身火傷で、そのうえ、
爆風で防火用水の中に吹き飛ばされ、すでに死んでいた。幾日ぶりかにめぐり会えて無事を
確かめ、泣いて泣いて抱き合ったのもつかの間、父、母、弟、妹と1週間おきに次々と原爆症
で死んでいった。母を求め、母の名を呼び、幾日も食べず、1日中鼻血を出し、口から血を吐き、
それでも生命はこときれず、生き長らえれば長らえるだけ、苦しみもがいた妹。スプーンで
すくって口に入れてやった缶詰のミカンがのどにしみると泣いた妹も、1ヶ月余りで死んだ。
(中広富美子『木の葉のように焼かれて』労働教育センター資料)
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