03/07/07 23:44
>>644 Sさん
>終わることの無い盲目の意志そのものは 何も変わりません。
>苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
盲目の意志そのものを「苦」という概念で規定できるのは「わたし」しかいませんが、
盲目の意志そのものは「わたし」や「わたしの概念」をも含めたあらゆる現象を生成する根源なのだから、
盲目の意志そのものは、誰にも何ものによっても規定され得ないし規定することもできない、となります。
でも、ここは微妙かつ重要なところかもしれません。(↓参照)
>意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。
モノ自体としての意志と同一化した状態では「わたし」という個別的な意志は機能しないでしょう。
そのとき「わたし」は「非意識」としての「無」を体験しているのではないでしょうか。
しかし、この「無」は、Sさんにとっては「無」ではないのでしょう。
なぜなら、モノ自体としての意志「存在原理」が消失したわけではないのですから。
Sさんのいう「無」とは、ふたたび「わたし」を取り戻した「わたし」が、
モノ自体としての意志、あるいはその存在原理から推測される永遠の存在循環から抜け出す、
という「観念」を指しているのですか。(見解を一致させてから前に進みたいので)