ショーペンハウエルについてなんか言ってくださいat PHILO
ショーペンハウエルについてなんか言ってください - 暇つぶし2ch530:考える名無しさん
03/05/01 01:50
訂正
>>526
>「わたしは議論したくない」
>という言明は、議論していることになるわけですね。

自分の肯定的なことをしゃべってる分にはそれでかまわないが、
難癖つけておいてそれはないだろ、このタコ助




531:考える名無しさん
03/05/01 01:53
>>528
中村元は、わたしも尊敬しているのですが、ウィトゲンシュタインの
沈黙せよ」という意味は「人間の経験による総合命題の真偽の判断」
以外の判断はは不確かなものであるから、確実でははない。という
ことからきているのではないですか。そうであれば中村元は、ウィト
ゲンシュタインの「沈黙せよ」という意味を拡大解釈していることに
なります。もっともわたしもその拡大解釈について意見しているわけ
ですが。そして言葉の不思議について語ってもいるわけですが。




532:適当にレスするオッサン
03/05/01 01:56
まあ、ウィトゲンシュタインは「この書物は乗り越えられなければならない」とも言ってるから。
「沈黙」を盲信してもだめなんじゃないの?

533:考える名無しさん
03/05/01 01:58
>>529
>>530
わたしの言ってる意味が分かってないようですね。


534:考える名無しさん
03/05/01 02:03
>>532
ウィトゲンシュタインの「自分の書物の否定」「自分の書物を乗り越
えろ」という言明自体が陳腐なのですよ。


535:考える名無しさん
03/05/01 02:07
>>531
ウィトゲンシュタインが言語の使用という展開を考えるとき、一体なにが陳腐
なの?


536:考える名無しさん
03/05/01 02:10
>わたしの言ってる意味が分かってないようですね

そういうなら分かるように書いたら

537:適当にレスするオッサン
03/05/01 02:14
>>534
陳腐といえば陳腐かもしれんが、特定のフレーズだけが思想じゃないからなー。
前期と後期でも違うし。

538:考える名無しさん
03/05/01 02:14
ウィトゲンシュタインは正当的形而上学者であって、
言語批判を反復した。陳腐さはその価値を損なうものではない。

539:適当にレスするオッサン
03/05/01 02:19
ショーペンハウアー消えちゃったな。
ウィトゲンシュタインおそるべし。

540:考える名無しさん
03/05/01 02:24
「わたしは議論したくない」という言明は、議論していることになるわけですね。
 ↑屁理屈、揚げ足取り



541:考える名無しさん
03/05/01 02:25
>>535
言語というのは人間にとって極めて大切なもので、とても不可思議なものでもあお
のでもあると思います。言語がなければ自分が存在しているということ
は、分からも知ることはないでしょう。つまり言語がなければ人間は
「無」です。それを簡単に「分からんことは沈黙せよなどと決め付ける
ことは軽率きわまりないということです。まあ思惟にとって分からない
などいうことはないということが、わたしの考えです。この世で言葉で
説明できないなどということはないということです。


542:考える名無しさん
03/05/01 02:27
後期ウィトゲンシュタインは、言語の本質とか言語の非本質性とか、ありきたり
の図式を完全に振切り、超越論的条件も置かない理論をつくったわけで、そうい
う展開も、単なる方向転換ではないこともわかっている。
まあ、瞑想家には関係ないといえばそうなんだろ。

543:適当にレスするオッサン
03/05/01 02:33
>>541
なかなか大胆だが、「説明できない世界」は世界じゃないだろ。
「説明できるという限界にある世界」だからこそ説明できる。

544:考える名無しさん
03/05/01 02:51
>>542
言語ゲームというのはモデルなき理論だよね。

545:考える名無しさん
03/05/01 14:46
厳密には、明晰に示すことができる命題だけが純粋に学問に足るわけで、
その線引きとしてのウィトゲンシュタインの試みは正当であると思う。
しかしそれは明晰に説明できる限界を提示しただけで、
世界の全てではないし、そのことだけでは極めて皮相な世界像しか提示できない。
我々は形而上的な要求をも持つ存在であり、その欲求こそが我々の存在を生気溢れる創造的躍動へといざなう。
形而上学が純粋に学問たるか、科学に比肩することができるか、
厳密には否であるが、しかしそれは扱う領域の異なるものであり、人が人である以上、
形而上学は不滅であるどころか、科学の発展と共に世界が囲い込まれるほどに時代の要請は
増し、形而上学の不毛とも見える試みも継続される。
神話に貶めるか神秘主義に明渡してしまうかは哲学の腕の見せ所。
ショーペンハウアーの意志説は非常に興味深い。

546:考える名無しさん
03/05/01 15:01
白装束集団の形而上学を教えて下さい。

547:考える名無しさん
03/05/01 15:03
>>545
知の欺瞞はやめてください。
板が腐ります。

548:考える名無しさん
03/05/01 15:04
ところで、ショーペンハウアーも根拠律を提示することで、
線引きはしてるんですよ。

549:考える名無しさん
03/05/01 15:09
>>545
547のいう通り!
知の欺瞞は止めなさい。
科学への反動はそれ自体で知の欺瞞だぞ。
知の欺瞞というか痴の欺瞞といった方がいいかな?

550:考える名無しさん
03/05/01 15:15
知の欺瞞は出て行け!
痴の欺瞞は便所に流してしまえ!

551:考える名無しさん
03/05/01 15:21

                 ソフィア短いくよ!
                  ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         mドピュッ
        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  )
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) )
    /  丿ヽ___,.──|彡ヽ ―◎-◎-|
    _/ )          (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
   (__/           \____/
         URLリンク(bakushomondai.netfirms.com)



552:考える名無しさん
03/05/01 20:43
そりから、ヘーゲリアンの欺瞞を暴露するとこまでは
哲学の軌道修正に確実に貢献してるんですよ。
意志説についてはよくできた仮説の域をでてないというのが自分の感触だがね。
ところであんたらショーペ読んだの?

553:考える名無しさん
03/05/01 20:43
ショーペンハウアーのインド理解は当時文献が非常に少なかったため、その間
違いが現在指摘されている。しかしそれでも大きな見当はずれはなかったよう
である。

ショーペンハウアーは晩年特に仏教への関心というものが著しくかなりの翻訳
書、雑誌を読んでいる。それでパレルガでは仏教への言及がかなりある。しか
し当然であるが、それはあくまで自説を補強するという形態をとることが多い。
しかし純粋に仏教と取り組むことがなかったということではない。

白水社 全集 13 我々の真の本質は死んでも滅びないという教説によせて58p

確かに輪廻と再生は区別できよう。輪廻というのはいわゆる霊魂全体が別の肉体
に移ってゆくことだが、、再生というのは固体の解体と再建のことであり、その
場合、意志だけが持続して、新しい存在の形態をとって、新しい知性を獲得する
のである。。。。。。。。。。

スペンス・ハーディの「仏教入門」や、サンジェルマノの「ビルマ帝国」、なら
びに「アジア研究」から判明することは、仏教には死後の永続に関して、入門者
向きの教理と秘伝的な教理があることだ。前者はバラモン教と同じく、輪廻にほ
かならない。ところが後者ははるかに難解な再生の教理なのであって、しかもこ
れは、わたしの説くところ、すなわち知性は形而下的性質のものであり、この性質
によって移ろい行くけれども、意志は形而上的に存続するというわたしの教説と
いちじるしく一致している。
 

ショーペンハウアーは



554:考える名無しさん
03/05/03 20:38
 人間を除いて、いかなる生物も自分自身の存在について驚くことはなく、そのことは全ての
生物にとっては極めて自明なことであるので、注意が払われることはないのである。
~人間だけが~死と、あらゆる存在の有限性のみならず、一切の努力の空しさと実りの無さ
とに、意識的に立ち向かう。~それ故にこの思慮とこの驚きとともに、人間だけに特有の
形而上学への要求が生じてくる。従って人間は形而上学的動物なのである。意識を持ち始めた
最初の頃には人間もまた当然、自分が何か自明なものだと理解している。しかしこのことは
ながきに渡り続かない。むしろ非常に早い時期に、反省が初めて出現すると同時に、形而上学
の母となるべき驚くという心が現れてくるのである。~哲学的省察と世界の形而上学的解釈に
最も強い衝撃を与えるものは、死の意識と、生の苦しみ及び悲惨さの考察であるということは
疑う余地がない。(意志と表象としての世界続編 第一巻の補足 第十七章より)

555:考える名無しさん
03/05/03 21:36
さて、これらの人間特有の要求を切り落とせば、確かに自明なものだけが残り、
その生も単純化され万事がうまくいく・・・果たしてそのモデルを人間が望むだろうか。
人間が形而上学的要求に到達したのは、それまでの単純な生から脱却しもはや単純な
要求では支えきれない、存在することへの不安や疑問を導き出したからである。従って、
その要求が得体の知れないまるで自明でないものであっても、いやそうであればこそ、
そうした要求に蓋をするなどということは後退にすぎない。

556:考える名無しさん
03/05/04 05:07
やはり続編のほうが読みやすいですね。ショーペンハウアーはできるだけ読みやすい
文章を書こうといつも努力していた。

関係ないが、カントに「死霊者の夢」というのがあるが、ショーペンハウアーに
も「死霊とこれに関するものについての研究」というのがある。

     

557:考える名無しさん
03/05/05 00:23
>>556
死霊者の夢はスエーデンボルグについて書いているが、スエーデンボルグを
最初に日本に詳しく紹介したのが鈴木大拙である。

558:考える名無しさん
03/05/05 00:25
なになに!こわいはなし??キャーー!!

559:作者
03/05/05 00:30
死霊についてなんてなかなか面白いじゃない。

560:考える名無しさん
03/05/05 00:43
スエーデンボルグは天国を見てきたと書いたのだが、死霊者の夢でカ
ントはスエーデンボルグの体験に懐疑的ではあるが、否定はしていない。
鈴木大拙はスエーデンボルグを仏教体験として捉えている。この世の
極楽を見たというわけだ。


561:考える名無しさん
03/05/05 01:24
うああああああああああああああ!!!!!
URLリンク(members.tripod.co.jp)             

562:考える名無しさん
03/05/10 03:26
>>555
蓋をするのはそれこそ宗教のお仕事だよ。
蓋はしたくても普通は出来ないって断言してるじゃない彼の場合。
蓋をしたつもりになって安心してる奴に実はまだ蓋が開いてる事を知らしめる
のが生き甲斐みたいな人だよショーペンハウアーはw

563:アトリックス
03/05/10 05:17
君もシャーペン咥える?

564:考える名無しさん
03/05/10 06:59
宗教或いは類似の似非哲学による蓋が一方にある。(これをショーぺは激しく糾弾した。)
だがここで言ったのは目前の明晰化できる命題のみに特化した蓋。
哲学における形而上学的な試みはこの狭間にある。
ちなみにショーぺは超越的な形而上学など求めていない。


565:562
03/05/10 17:21
『幸福について』とか後々に書かれたものは極めて具体的でまさに
『アウトゥールおじさんの上手な蓋の仕方』といった具合ですよ確かに。
そして再三にわたって
「この蓋をしても問題解決にもなりませんが事態は随分とマシになります。」
と良心的な(受け取る人によっては最悪とも言える)注意書きをちゃんとしてる。



566:562
03/05/10 17:44
それら命題に蓋をする事は形而上学にとって、哲学全体にとっては後退ではなくとも、
間違いなく停滞ではあったわけだ。

これは私の見解ですけど形而上学は彼の時点で停滞したままじゃないかなって。
形而上学的な発展を促すには彼の閉じた蓋を開ける必要があるわけですけど
それに成功して一歩でも先に進んだ人っているんでしょうかね?
それこそ後退してる人しか私は見たことがないんですけどw

567:564
03/05/11 23:10
>>565
パレルガは人生論的に割り切った作品だからね。だから大衆受けもした。
>>566
それについては同意。まさにその先が問題。

568:562
03/05/13 03:29
話が全然変わるんですけど。

本日、たまたま思いつきで随分以前に購入してほとんど読んでなかったヒルティを
読んでびっくり。
ショーペンとヒルティの世間に対する具体的な見解はほぼ同じではないかと思うんです。
文才巧みですし皮肉も効いてるし。
にも関わらず、それに対する哲学的帰結も口調も信条も女に対する態度も全くもって正反対w

ゲラゲラ笑いながら読んでたんですが巻末のヒルティの生涯の解説を読んだら
なんだか泣けてきた・・・。
一個人としてのショーペンに言いようのない同情を感じずにはいられない。

ヒルティがショーペンに対して何らかの言葉を残しているなら是非読んでみたいと思うのですが。
何かないのでしょうか?
ヘーゲル批判についても何かあるとしか思えないんですがw

569:564
03/05/13 18:23
残念ながらヒルティは読んでないけど岩波に幸福論とかあったね。気が向いたら読んでみる。
それと君のように、それなりの業績を遺した学者を軽薄に感情で評すのは趣味じゃない。
それと文末にwを付けて煽る人間も趣味じゃない。
以上ですね。





570:562
03/05/13 20:00
>>564
妙にテンションが上がっていたので軽率な発言をした点は自重するよ。
「ほぼ同じ」だなんてのは特にいただけない。「共通した何かを感じる」位にするべきだった。

それを成した個人の人間性を問わず、業績は常に冷静に評価するよ当然。
しかし人間性については大いに感情で語るべきだと言うのが私の流儀。憎愛を込めてね。
ましてや秀逸人物の人格などは神棚に飾っておかずに、身近に置いてこねくり回すべきだと強く思うよ。

それと語尾の「w」については多々の解釈がある。
私は悪意も無ければ煽るつもりも全くない。むしろ愛情の現れといった感じです。

571:考える名無しさん
03/05/14 00:34
音楽マンセー

572:考える名無しさん
03/05/18 09:17
ギリシャ以降の形而上学はショーペンハウアーで止まっているという点について
賛成。というより完成させたというのが近いかも。カント以前の形而上学は独断
論であって、カント哲学はそれを否定した。それが現代の形而上学批判の出発点
となっている。しかし説得力はない。形而上学がなくなることはないだろうし、
ショーペンハウアーにも間違いはあろう。またショーペンハウアーが現代に生
きていたらどんなことをいうのだろうか?天才的な後継者の出現を望む。

573:山崎渉
03/05/22 01:02
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―

574:考える名無しさん
03/05/27 04:19
ショーペンハウアーの「カント哲学批判」はカント哲学の最も優れた解説書
だと思う。彼はカント哲学を生涯にわたって研究している。とくに純粋理性
批判だ。実践理性批判はショーペンハウアーにとっては出鱈目なものだった

575:山崎渉
03/05/28 15:04
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎―◎                      山崎渉

576:考える名無しさん
03/05/28 23:46
保全あげ 「人は人にとって狼である」A.ショーペンハウアー

577:考える名無しさん
03/05/28 23:55
>>576
保全にageもsageも関係ないよ。

578:胡雨
03/05/28 23:59
操イ尓媽!

579:考える名無しさん
03/05/29 01:29
毒男の神

580:考える名無しさん
03/05/29 02:06
くだらんことは書くな


581:考える名無しさん
03/05/30 23:19
ラッセルの幸福論読みますた。
やさしい気持ちを取り戻せますた。

582:考える名無しさん
03/05/30 23:39
表象とは何ですか。今の言葉で言い換えて下さい。

583:考える名無しさん
03/05/31 01:49
外界に対するその個体固有の知覚情報。またはその集合イメージ。

584:考える名無しさん
03/05/31 01:56
表象には狭義に解釈する場合と広義に解釈する場合がある。広義に解釈する
と「言葉、概念」なども含む。非常に広い意味を持つ言葉である。



585:哲学少品集第389節
03/05/31 20:41
地球の表面が、まだ同じ形のひらべったい花崗岩からできていて、生命が発生
する素地もなかったときの話だが、太陽がある朝のぼった。神々の使者イーリ
ス女神がユーノーの使いで飛んできて太陽のそばをかけぬけながら、太陽に言
った。「なにを苦労して、のぼったりなさるの?だってあなたに気のつく眼も
ないし、あなたののぼるのを告げるメムノンの像もないじゃないの!」

答えはこうだった。「わしは太陽だ。太陽だから登るのだ。見られるものは
見るがよい!」

586:しょーぺのへたな詩 カントへ
03/06/01 00:16
わたしはあなたが昇天した青空まであなたを見送った。
あそこの青空にあなたは飛び去ったのだ。
わたしはひとり雑踏のなかに取り残された、
あなたの言葉を慰めとし、あなたの本を慰めとして。。。
そこでわたしは寂寞に活を入れようとした、
あなたの言葉の精神にみちあふれた響きによって。
わたしの周囲の連中はみんなわたしにはうとましい、
世は荒涼として人生は長い。

587:直リン
03/06/01 00:17
URLリンク(homepage.mac.com)

588:sage
03/06/01 00:30
>>586

訳文にしてはなかなかいい味だしてるよ。カントは偉大だな。

589:考える名無しさん
03/06/01 05:51
ドイツでは現在、カントはあまり見向きもされないそうですが、この哲学ボ
ードでは案外カントが大事にされているのが、とてもうれしいです。

590:臆面もなき詩句
03/06/01 07:25
長く抱きつづけた深い苦痛の果て
それはわたしの心からもぎ取られて踊りだした。
わたしはそれをしっかりつなぎとめようと久しく格闘してきた。
しかし結局はうまくいくという自信はあった。
きみたちが勝手にどんな態度を示めそうとも、
この作品の生命に危害を加えることはできまい。
押しとどめるぐらいはきみたちにできても、滅ぼすことは絶対にできぬのだ。
後世はわたしのために記念碑を建てるだろう。

591:考える名無しさん
03/06/01 12:13
>>590

あの孤立無援の状態でも後世の評価を信じて黙々と執筆し続けた、
ショーペンハウアーの意外な楽観主義が見てとれて、なかなか面白いではないか。

実際、老年時の往生するまでの十年間で、彼の意外な楽観主義に応えるように幸運の
女神が微笑み、突如として不動の評価を得るに至ったしね。
どこかで人生を投げやりにしていたり、執筆を諦めていたら、この結果を生む条件
は整わなかったろうし、人々はこの孤高の天才を恐らく発見できなかったろう。

592:不公平
03/06/01 18:58
誰にでも死が与えれているという点で人間は平等である。

593:哲学少品集第382 
03/06/01 19:12
破廉恥、鉄面皮のシンボルとしては、蠅をとるべきだろう。なぜなら
ほかの動物はすべてなによりも人間を恐れ、遠くからでさえもう逃げ出
すのに、蠅は人間の鼻の上に止まるからである。


594:哲学少品集第382 
03/06/02 05:33
592はショーペンハウアーの言葉ではなく、わたしのオリジナルのコピーです。

595:考える名無しさん
03/06/02 12:06
ショーペンハウエルがしょうべんもらした。「ハウ。えらいこっちゃ」

596:考える名無しさん
03/06/02 12:25
昔、厨房の頃、図書室の壁にショーちゃんの言葉が貼ってあった。
内容は覚えていないが、同級生の中でも特に出来の悪かった香具師が、
595と同じようなことを言って、ジョークのつもりで独りで悦に入って
いた(W

597:考える名無しさん
03/06/02 20:20
>596
そうですね。
哀れな知障がさながら迷妄なる自己をさらしているようです。
如何に明快な書を手にしても意味が理解できないというのは悲惨すぎますな。
こればかりはさすがのショウペン先生もお手上げでしょう。

598:考える名無しさん
03/06/03 04:58
まあまあ人に大した迷惑かけている訳ではないんだし、まだ子供なんでしょ。

599:ショーペンハウアー イマヌエル
03/06/03 09:34
死というのも、一つの生の形態であり、一つの存在の形態である。

600:考える名無しさん
03/06/04 14:36
よほど聡明だったのなら別だけれども、中学生に理解も何も....

601:いまぬえるしょーぺんはうあー
03/06/07 02:11
>>600
君は「ソフィーの世界」から始めなさい。「ソフィアの世界」じゃないよ。


602:考える名無しさん
03/06/07 05:04
そうですね。まぁそういうこどもじみたこともいいかもしれませんね。

603:考える名無しさん
03/06/09 22:48
マスコミの盗聴、盗撮は許されるのか?URLリンク(natto.2ch.net)

489 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/04/11(水) 17:25
一般人なのに盗聴される、じゃなくて、「一般人だから盗聴される」んじゃないのかな?
基本的にネタ集めのためにやってんなら、有名人のネタを盗むと、有名人は告発できるし、
そんなことされても当たり前だと思われるので告発しても信じてもらえる。
そうでない人は、ここの途中の書き込みにもあったように「電波」扱いされるだけ。

ただで、ネタを仕入れるんなら、一般人に限るでしょう。
マスコミは自分らの無能さを恥じてほしいです。

ちなみに私が盗聴されはじめたのは、芸能人にストーカーされ始めてからでした。
そこからマスコミに広がって行った。
だから余計「妄想」とか思われそう。
友人に話したら完全に病気扱いされた。ストーカーって言葉がない時代だったしね。   
書いておいておいた小説のネタが、他人の原作でドラマ化されたときにはきれまくっ
たなあ。(一度や二度のことじゃないけど) 


604:考える名無しさん
03/06/15 10:04
>>603
すごいなそのスレw
笑えない香ばしい方がイパーイおりますね。

605:考える名無しさん
03/06/15 10:14
ゴルドマンってどうよ

606:考える名無しさん
03/06/15 10:36
おい馬鹿!!こっちにこいや馬鹿!!まあすわれや馬鹿!!「関係ねえこと書くなよな馬鹿!!」

607:今日のハウエル先生
03/06/18 05:22
 最大多数の人間がその一生を送るありさまを外から眺めると如何に無意味に
内容空虚にみえることか、また内から感じ取ると如何に鈍感で無自覚に感じられる
ことか、これでよくも生きていけるものだと疑わしくなるほどである。このような
一生は人生の四期(幼少年、青年、壮年、老年)を経て死に至るまでの、鬱々とした
憧れと悩みであり、くだらない一列のよしなごとを引きずっては夢を見ながら
よろめき行くことである。最大多数のひとびとは、あたかも時計が発条を巻いて
もらって、自分ではなぜだかわからぬままに動いているというのにも似ている。
一人の人間が生殖をうけ誕生してきたそのたびごとに、人生というこの時計は
あらためて発条を巻かれることになり、これまで無数回すでに奏でてきた琴の
曲を、一楽節ごとに、一拍子ごとにくだらない変奏曲などをそえて、いまいちど
最初から演奏をくりかえすというようなことになるのだといえよう。

 如何なる個人も、如何なる顔つきの人間も、またその人の生涯も、終点のない
あの自然の霊の、すなわち生きようとしてかたくなに固執するあの意志のひとつの
短い夢、ひとつのはかない画像にすぎない。意志は、時間と空間という終点のない
白紙の上に、たわむれにこの画像を描きつけ、時空の無限にくらべれば消え入り
そうな小さな瞬間だけ、これに存続を許して、やがて新しいのに席を与えるために
これを抹消するのである。それにもかかわらず、じつにここに人生の重大な一面が
あるといっていいのだが、このはかない画像のどれ一つとっても、みな生きようと
する意志の全力を傾け、あらんかぎりの熱情をつくし、多くの深刻な苦痛をもって
贖われ、そしていよいよ最後に、長いあいだ恐れたあげくやっと出現してくる忌む
べき死をもって贖われるにいたることは避けるべくもない。死体を目撃すると我々
が卒然として厳粛な気持ちに襲われるのもこのためである。

A.ショーペンハウアー 意志と表象としての世界 第四巻五十八節より抜粋

608:考える名無しさん
03/06/18 08:35
エッセイの類は陳腐で退屈だったよ。
日常的な生活実感そのままで、言われるまでもないって感じ。
名文家と言われてるが、訳文では感じられなかった。
意思と表象としての世界でお薦めの訳ないですかね。
中公バックス持ってるが西尾幹二って訳下手だと思うんだよね。
余談だけど、朝までテレビで見たが西尾の顔って
ルサンチマンで人相が歪んでるよな。突然怒って奇声上げたり。
よくあれでニーチェ研究をやってるものだと思った。

609:考える名無しさん
03/06/18 09:21
>>603
陳腐で退屈なのによく読んだ!えらい!

610:考える名無しさん
03/06/18 10:15
ショーペンハウエルといえば森進一だね。

611:ショーペの詩 シストのマドンナによせて
03/06/22 17:10
彼はまだみどりご、しかし彼は驚きの眼を
彼女の戦慄の混沌たる紛糾のなかへ
彼女の狂乱のはげしい逆上のなかへ
彼女の行動の救いがたい愚かしさのなかへ
彼女の苦悩のしずめがたい痛みのなかへそそぐ。。。。。
驚きの眼。しかしそこには平静と信頼と
勝利の栄光が輝いている
すでに九歳の永遠の確信を告げながら。


612:ショーペの詩 シストのマドンナによせて
03/06/22 17:17
彼はまだみどりご、しかし彼は驚きの眼を
彼女の戦慄の混沌たる紛糾のなかへ
彼女の狂乱のはげしい逆上のなかへ
彼女の行動の救いがたい愚かしさのなかへ
彼女の苦悩のしずめがたい痛みのなかへそそぐ。。。。。
驚きの眼。しかしそこには平静と信頼と
勝利の栄光が輝いている
すでに救済の永遠の確信を告げながら。

>>611

九歳→救済


613:ショーペの詩 終曲 1856
03/06/22 19:10
疲れもはてて、わたしは終点に立っている
疲れた頭は、月桂冠にも耐えかねるくらい
しかし わたしは自分のやったことを欣然とふりかえる
ほかのやつらがなにを言おうと いつも迷わされることはなかった


614:ショーペの詩 花びん 1831
03/06/22 20:44
「ごらん、わたしたちのいのちは、ほんの数日、ほんの数時間なのよ」
あでやかな一群の花がわたしに語りかけてきた。
「でもわたしたちは驚かないの、暗い冥府がこんなに近くても。
だって、わたしたちはいつでもいるんですもの。あなたと同じに、永遠に生きるんですもの。」


615:ショーペの詩 胸声 
03/06/23 05:17
ある都市全体の自殺を
セルバンテスはここに描いたのだ。
すべてがご破算になるとき、われわれに残されている唯一のことは
自然の根源的源泉に帰ること。


616:S
03/06/24 22:32
スレを一通り読んでみました。独特の表現が多く、理解するに至りませんでしたが、>>384
の引用(特に個体化の原理云々)が強く印象に残りました。自分は以下のような考えを持って
いるのですが、刺激を受けそうな感触がしたので、彼の著作を読んでみたいと思いました。

 この世に生を享けた者は分別がついて以後は、なぜ自分はこのような生を授かったのかと
自問しながらも、同時に自分の係わった世界の中でその自己意志をもって生き、そのことが
生の意味付けとなり、そしてやがて死を迎えるにあたっては、自らが係わり愛した世界と子
孫に後事を託すことができる。

 個体化の原理というのもまだよく解りませんが、多用されている意志という言葉も、どうも
独特の意味合いがあるようですね。とにかく読んでみます。

617: 
03/06/24 22:59
デカンショ

618:考える名無しさん
03/06/29 09:19
倉庫にあったもんだけど、これ見てたら今も昔もレベル変わらんなとおもた。

ショーペンハウエルって
URLリンク(mentai.2ch.net)

619:考える名無しさん
03/06/29 14:49
>>618
1がアフォすぎる。こいつショーペを読んでないな。

>結局彼自身は解脱できたのか?
>つまり意志を完全に否定することはできたのだろうか? ・・・だってよ

620:考える名無しさん
03/06/29 15:23
厭世観って結構好きだな

621:考える名無しさん
03/06/29 15:49


うんこを哲学的に考えると,どうとらえられるか!

この問いを一生問い続けるのです!



622:考える名無しさん
03/06/29 15:52
>>621

食べればわかる

623:S
03/06/30 21:12
とりあえず世界の名著で一通り目を通してみました。で、幾つか気になる点がありました。

世界が表象であり、同時に意志である。これなんですが、意志と命名された存在の本質部
が自己において実感できるのは(可能性として)いいとしても、これを世界一般、あらゆる
現象にまで拡大できる根拠がないように思いました。彼の理屈に則れば、その拡大視はどこまで
行っても表象に過ぎないのではないかと思います。宇宙の諸現象の変遷や生物進化の歴史に
ついての連続性を仮定すれば、その連続性に介在する何かこそ意志そのものだ、と言えなくも
ないかもしれませんが、如何せん物語の域を出ないと思います。

個体化の原理を見極めることによってのみ、迷妄な自己から脱却して他者を愛し善を為すこと
ができる。このような趣旨についてですが、個体化の原理を完全に脱却するというのは置いて
おくとして、この倫理観はとても共感します。>>384のように極端にその倫理観を高めること
は無理があるとしても、殺伐とした個人主義社会が進行する現在においては、十分考慮に
値する大切な倫理観だと思いました。

意志の滅却による無への帰入について。個体化の原理の看破と克服、それはわかるのですが、
なぜ意志の廃棄に飛躍してしまうのか。我々が個体化の原理に縛られながら、それを克服
しようとする無限なる試みの中にのみ主体性が見出せるのに、それすら無意味として意志
そのものを滅却したら元も子もないのではないか。もしそれが単なる否定による無を目指す
ものでなく、個体化の原理を究極的に克服する試みの結果として、我々が記号として言う
ところの無、その知り得ない実体、或いは涅槃の境地を見出したのであるなら、それは理解
できます。あと、単純に、お仕着せの世界を取っ払って無に帰せば万事も無しというのは
理解します。理解しますが、苦い結末ですね。

ところで無についてですが、彼の説によるどこまで行っても意志である我々が、それを無に帰
することなどできるのか。否定する意志も意志であり、単にその否定する意志すら途切れた
だけなら、ごく普通に死を迎える者の意志が途切れるのと、どこが違うのか。それは思いこみ
に過ぎないように見えます。

624:考える名無しさん
03/06/30 21:24
物語でも構わないんじゃないか?現代は生きていることに「物語性」が乏しくなっちゃってるんだし
それは共同体が崩壊したという事から来るのかも知れないんだがね。


625:S
03/06/30 22:11
形而上の物語の是非については、
それが人間の豊かな特性の証として、自分は認める者です。
>>554などの引用はとてもよくわかります。
そうは言いながら、その曖昧さを信じることが出来ない自分もいます。

626:考える名無しさん
03/06/30 22:20
ショーペが意志の滅却ができたとは到底思えないんだが、そこらへんは体系らしき
ものを構築する上で必要だったのだろうな、位に考えますがね・・・



627:S
03/06/30 22:36
彼はあくまで哲学者の立場を貫くと前置きしてますから、
彼自身は実践してはいないのでしょう。

終わることのない意志から来る欠乏苦からもしも根本的に脱却する方法があるなら、
それは根源である意志の滅却以外には有り得ないという結論に至った。
それが可能かは疑問ですが、恐らく唯一の根本的な解決方法だとは思います。

ただし、これまでの自分の生の有り様をすべて無に帰す苦い結末でもあります。

628:S
03/07/01 00:33
>>616で書いた自分の考えに影響があったのは、やはり個体化の原理の看破と克服です。
勿論我々が世界の中で個体化の原理に規定された生という形態で存在する以上は、
そこから来る互いの誤謬や悪というものを根本から払拭することはできません。
ですが、それを意識するだけで、他者や世界に対する認識は大きく転換し、
認識レベルにおいては境界を限りなく無効化することができるのではないでしょうか。

>終わることのない意志から来る欠乏苦からもしも根本的に脱却する方法があるなら、
>それは根源である意志の滅却以外には有り得ないという結論に至った。
>それが可能かは疑問ですが、恐らく唯一の根本的な解決方法だとは思います。

しかしその者は既に世界も自己も失い、例えその滅却が成就したとて無に没入する
のみである。それに対して自己の係わった世界の中で、自らが係わり愛した世界と
子孫に後事を託すことができる認識に至れば、その者は何も失うものはない。
それは彼のいう個体化の原理を看破すればより一層明瞭となるのでしょう。
だからといってそれが唯一根本的な脱却である以上、個人が意志の滅却を望むことを
否定することはできない。そこが難しいところです。

629:考える名無しさん
03/07/01 09:17
あんたは自殺についてを読みなさい。
自己の個性を失う事が何故そんなに苦い結末になるのか
自分に執着しすぎだよ。

630:S
03/07/01 22:39
 生を肯定しようが否定しようがそれは表裏の形式であって、どこまでも意志であり、固執に
は違いがない。ショーペンハウアーは単純な自殺を生きんとする意志が自己自身と矛盾撞着
する号泣の表現として「マーヤーの傑作」と評し、それとは別に、意志の滅却については特別
視している。ボクから見れば、その意志の滅却こそは、個体化の原理に囚われるあまりに、
その過剰な反動として全てを否定してしまう、言わば「マーヤーの最高傑作」に見えます。
 
 個体化の原理を看破したなら(この時点で認識レベルで彼我の境界を超え)その認識から
世界に係っていくことで、個体化の原理を主体的に克服する可能性が生まれる。けれど、
それすら無意味として個人が無に没入しても、世界は依然として個体化の原理に包まれ、
彼のみが勝手に諦観し、全否定によって世界とも自己とも切り放たれてしまう。
 個体化の原理の看破によって彼は全体の世界相を愛するに至ったのに、彼のみが無へと
脱却して、果たして彼は何を得るのか、世界を愛していたのか。否。もはや何も無いのです。
 だからそれは一つの選択ではあるけれど、苦い結末なのだ、と書きました。

631:考える名無しさん
03/07/02 14:31
以前、ヒルティとショーペンハウアーの共似性について書いた者ですが
ヒルティの「幸福論」をだらだらと読み終えました。

まずこの世界に対する認識って点でやはりこの二人は同じような見解に達してると感じます。
でこれに対して人がどういった態度で接するべきか?って点で
ヒルティはショーペン的な意志の否定、ないしは意志の滅却といった態度が極めて
有効だと指摘してる点に少し驚いた。(ストア的、ストア哲学的という表現で言ってますが)

でここからが彼の本題なんですが彼はこの「意志の否定」が如何に実践困難かという点を解説し、
加えてその反作用として厭世的にならざるをえない事と利己主義に陥る危険性を指摘してます。

ヒルティはこの上でキリスト教の有効性を解説するわけです。
詳細は書きませんがつまり要約すれば「個体化の原理の主体的な看破」をなすのではなく、
自らの主体を外におき(つまり「主」の元へ)それを継続的に実践することで経験的に
個体化の原理を看破するといった方法論です。

なかなか面白いので気が向いたら読んでみてください。

632:考える名無しさん
03/07/02 16:55
ヒルティはショーペンハウアーの足下にも及ばなかったということ

633:考える名無しさん
03/07/03 07:38
仏教では自分に執着するのは我執と言って改めなければならない事となってるんですが、
ショーペンハウエルの"無"というものは我執を越えた部分にあるような気がするんですが、
これも"苦い結末"なのでしょうか?
Sさんにとっては苦いかも知れませんが自分にとっては至極自然な事に感じるのですが。

634:S
03/07/03 21:25
>>631
神に主体を預ける方法は、共通の信仰心に目覚めたひとの間では有効だと思いますが、宗教対立に
おいては個体化の原理がより集束された形で牙を剥くように思います。それぞれの信仰する神に
代弁させることは、個体化の原理を真に看破したとも克服する方向に進むとも思えないのです。
あと、信仰心の無い(ボクのような)者に効果を期待できないように思います。

世界苦を前提とした共通性はあるものの、ストア的な処世とショーペンハウアーの言う意志の滅却は
全く異質なものと考えます。
>加えてその反作用として厭世的にならざるをえない事と利己主義に陥る危険性
これは読んでみないと解らないみたいですね。でもヒルティさんはキリスト教の教説を延々並べて
いらっしゃるのでボクはどうも苦手なんです。(書店で挫折しました。)

>>633
「苦い結末」というのはボクの主観的な評価ですから、違和感があればそれを除いて読んでみてください。

 >個体化の原理を看破したなら(この時点で認識レベルで彼我の境界を超え)その認識から
 >世界に係っていくことで、個体化の原理を主体的に克服する可能性が生まれる。
 と書きましたが、この内容自体が自家撞着した矛盾をはらんでいるので、実はボクとしても納得している
 わけではないです。思案しています。

635:ちよ
03/07/03 21:28
はろ~♪
URLリンク(kotarou.free-city.net)

636:631
03/07/04 01:34
>>634
当然そういった宗教対立の危険性があるわけでこの危険性といったら
利己主義に陥る危険性なんかとは比べものにならんほど傍迷惑なわけでね。
無論その点についても彼は語ってますが、個人的にはどうかなぁ?と。

あとストア的処世についてですが少し書き方が悪かったです。
ヒルティが作中で再三語っている『ストア的な云々』に対する解説が
一般的にストア的と言われるものよりもむしろ、ショーペンのソレに似てるって事です。

637:S
03/07/04 04:49
>>636
う~ん、世界中で頻発している宗教紛争を考えるとボクはゲンナリするのです。
ショーペンハウエルとの共似性については読まないと解らないですね。

638:S
03/07/04 04:50
意志の滅却による無への没入は可能なのだろうか。
関連した幾つか疑問をまとめてみました。以降のレスで考えていきたいです。

1 意志を否定することを意志しなければ意志の滅却すら試みられないのではないか。
2 意志を否定することにより禁欲的な苦行から肉体的な機能不全をきたすことと
  一般の老衰死、餓死とはどこが違うのだろうか。
3 単に否定する意志が存在世界の境界を越えて無の世界は没入できる根拠はあるのか。
  存在世界の森羅万象の循環とどこが違うのだろうか。
4 個体化の原理に縛られながら空であるとか固執を克服したなどという場合は、それ自体
  が矛盾していないだろうか。
5 生の形態から発生する苦の支配から脱却できたとして、今度は無の支配下に移行するだけ
  ではないのか。
6 個人が無に脱却したとして生の世界では個体化の原理は残る。これは本質的な解決となる
  のか。覚者だけが到達し得る故に仕方のないことなのか。
7 そもそも生の形態は如何なる苦に覆われているのか。

639:考える名無しさん
03/07/04 11:17

     /∵  ▼ \
    /∴       ヽ      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   , |∴   /  \ |、   / 
  |`─-( / )-( \)l |  <  ショーベンしまっせ?
  | [     ,   っ  l |    \ 
  `-,     'ヽ、_ソ  }'     \_______
   ノ ヽ、    `'   ノ、     
 /     ゝ ─ '   ヽ
/   ,ィ -っ、        ヽ
|  / 、__ う 人  ・ ,.y  i
|    /        ̄ |  |
ヽ、__ノ          ノ  ノ
  |      x    9  /
   |   ヽ、_  _,ノ 彡イ
   |     (U)    | 

640:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/04 23:29
>>638 Sさん(1)

>1 意志を否定することを意志しなければ意志の滅却すら試みられないのではないか。

認識する主体と認識される客体との同一化、たとえば、不適切かもしれませんが、
自然と戯れているときなどに自然に涙が溢れてくるような体験ってありませんか?
絵画や音楽を鑑賞しているときにその対象の中に溶け込んでしまうようなことは?
遊んでる子供が車道に飛び出してあっ!と感じた瞬間その子になっていませんか?
これらの現象の特徴(共通性)は、個別的な意思の消失にあると思うのです。

いいかえるなら、個別的な意思の認識(個体化の原理)からの脱却といえるのでは。
ただ注意しないといけないのは、個別的な意思の消失が長時間、あるいは長期に
わたる時、生きようとする意思をも消失してしまうのではないかという可能性です。
なぜなら、個別的な意思の認識に基盤をもつ個体化の原理に反する行為だからです。

たとえば、瞑想のやりすぎなどで心身の活動力が著しく低下することがありますが、
これは意思によって意思を否定しているわけではなく、個別的な意思の活動が極端
に沈静化することの結果として、自然に生から退いていく、あるいは生の肯定的な
諸相がイヤになるといった感じです。もしも表象の世界が意志の客体化された存在
だとするなら、個別的な意思の消失はそのまま世界の消失になりますから、そんな
状態をなんと名付けるかとなると、無としか表現できないということになるのだと。
ちなみに自殺は意思による行為ですから、生きようとする意思の消失とは違います。


641:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/04 23:29
>>638 Sさん(2)

>2 意志を否定することにより禁欲的な苦行から肉体的な機能不全をきたすことと
>  一般の老衰死、餓死とはどこが違うのだろうか。

1参照。

>3 単に否定する意志が存在世界の境界を越えて無の世界は没入できる根拠はあるのか。
>  存在世界の森羅万象の循環とどこが違うのだろうか。

ショーペンハウアーのいう「無」の世界なら、脳内麻薬のレベルじゃないのかな。
(意識の拡大)、科学的な検証も可能だと思います。(5参照)
森羅万象の循環は、生物なら、分離、差異化、個別化、多様化と、自己組織化による
反エントロピーの活動による生命維持、およびその連鎖という循環を目的にしているので、
その循環から抜け出す(無になる)ことを考えていないところが違うのではないでしょうか。

>4 個体化の原理に縛られながら空であるとか固執を克服したなどという場合は、それ自体
>  が矛盾していないだろうか。

肉体をもち、精神(言語)を駆使しているのですから厳密には矛盾してると思います。
でも、それは仕方ないのでは・・・100%でないからウソということでもないと思う。
主客の同一化状態を(上述1の例のような瞬時の出来事ではなく)ある程度自由にコントロール
することが可能なら、克服したと言わせてあげましょう。(笑)


642:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/04 23:30
>>638 Sさん(3)

>5 生の形態から発生する苦の支配から脱却できたとして、今度は無の支配下に移行するだけ
>  ではないのか。

そう思います。無といってもモノ自体としての意思との同一化のことを「無」と呼ぶしかない、
といってるだけですから。モノ自体としての意思という「存在原理」を否定してはいないのです。
だから、ここから「あの世」とか「輪廻」とか「神」とかいう概念が入り込んでしまうのです。
それを信じてしまう人にとっては、さらにその「無」からも「サヨウナラ」することこそが、
真の「無」あるいは「悟り」になるのではないでしょうか。

>6 個人が無に脱却したとして生の世界では個体化の原理は残る。これは本質的な解決となる
>  のか。覚者だけが到達し得る故に仕方のないことなのか。

まだ、わたしは悟ってないからわからないけど(笑)、4と同じ感想です。

>7 そもそも生の形態は如何なる苦に覆われているのか。

あらゆる現象は、モノ自体としての意思の断片にすぎない。
それぞれの断片は、それ自身の存在仕方にしたがい「実在」しようと努力を続ける。(永遠回帰?)
しかし「なぜ」ということについては、何も知ることはできない。
なぜなら、意思それ自体は、あらゆる現象を生成する根源なのだから、無制約的で非依存的、
つまり、絶対なのだから・・・とするなら、
実在し続けることの根拠をもたずに永遠に循環(努力)しなければならないことを「苦」である、
としたのではないでしょうか。
その苦を回避する方法として「神との合一」「悟り」「イデアの認識」・・・を説いたのでは。


643:S
03/07/05 21:53
>>カオルさん

簡潔明瞭な解説ありがとうございます。まさかの展開に驚愕し、感謝しています。
ボクなりにひとつひとつゆっくり考えてみます。

>1 意志を否定することを意志しなければ意志の滅却すら試みられないのではないか。

ショーペンハウアー(以下SH)は聖人が個体化の原理を看破しその認識が高度に明瞭な
段階に達すると、生きんとする意志に対する嫌悪、悲惨と認識されたこの世界の核心と本質
に対する嫌悪、彼自身という現象を通した本質そのものへの嫌悪が発生すると言っています。
そして聖人の意志が向きを変え、現象のうちに反映している自分自身の意志をもはや肯定せず、
意志を否定するに至り、最後に意志は廃棄され認識だけが残ると。

ボクが思うに、どこまで行っても意志である我々の本質から言って、生きんとするか認識転換
によって方向修正するか、いずれにしても形式的な方向付けに過ぎない。そして本質たる意志
は常に我々に介在する訳です。

644:S
03/07/05 21:55
>>カオルさん (つづき)

認識する主体と認識される客体との同一化が個別的な意思の認識(個体化の原理)からの脱却に
あたるとカオルさんは指摘しました。ボクは一にして根源たる意志が、個体化の原理を超えて
共鳴することと解釈しました。偶発的な体験は継続しませんのこれは未だ意志の方向転換には
至っていない段階に思います。等しき生の形態に属しながら、悟った感を述べてしまう似非
覚者は、程度の差はあってもこれの類でしょう。(自己制御しているというのも限定された胡散
なレベルです。)このような者が世界の消失まで到達するとは思えません。では仮に根源に
して一なる意志そのものに個体化された自己が還元されるとして、表象世界が消失して、
それで何が変わるか。個体化の原理は克服しても、終わることの無い盲目の意志そのものは
何も変わりません。苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。

意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。それができて初めて
苦からの脱却も可能と思います。但しどこまでも意志である我々が意志そのものを廃棄するな
どというのは矛盾撞着しています。我々にできることはせいぜい+を-に転換することぐらい
ではと思います。SHがどのような無を想定していたかは判然としませんが、ボクはそう考え
ています。意志の廃棄ができるならボクは知りたい。宜しければ、指摘、批判お願いします。

645:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/05 23:59
>Sさん

即レスだと内容に自信が持てないので明日にでもレスします。


646:一塊のROM
03/07/06 03:39
>>どこまで行っても意志である我々の本質から言って、
どんな根拠があってこう言いきれるんでしょうか?
>>表象世界が消失して、
>>それで何が変わるか。個体化の原理は克服しても、終わることの無い盲目の意志そのものは
>>何も変わりません。苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
あなたは自分の結論を決りごとのように言われるが、あなたの意見は憶測や仮定の域の中にあって
しかも自分の行動範囲以内の思考でしかものを考えていないように思われます。
もう少しまとめてから書き込んで頂けるほうが有難いのですが。

647:S
03/07/06 05:23
>>646
SHの形而上説に則る形で考察しています。
意志の廃棄についてはSHの形而上説の中で最終的な実践行為を示したもので、
ここを限定的に取り出していますので、とりあえず前提となるSHの見解を踏まえた上で、
考察を進めています。これを叩き台にして何かが見出せればな、と思っています。
ところでSHの形而上説については、断片的な引用が>>407-413にありました。

648:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 00:03
>>643 Sさん
うぁー、もうこんな時間。レス明日でもいいかしら?
たぶんレスするのは↓(予告)あたりだと思います。いい加減でごめんなさい。

>意志を否定するに至り、
否定というとらえ方をするとパラドックスになってしまうので、
>>640の三段目で、あえて瞑想の例を取り上げてみたんですけど、だめ?

・・・これは意思によって意思を否定しているわけではなく・・・

>そして本質たる意志は常に我々に介在する訳です。
>>642の6の説明では、だめ?

・・・「存在原理」・・・

>終わることの無い盲目の意志そのものは 何も変わりません。
>苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
これも、>>642の6かな。
じつは、故意に「無」と「存在原理」を同居させてたりして・・・。

>意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。
これも、>>642の6かな。

・・・さらにその「無」からも「サヨウナラ」すること・・・

(大きく解釈にズレがあるのならご指摘ください。調整してレスします)


649:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 00:05

642の6 ----> 642の5でした。

650:S
03/07/07 05:38
>>カオルさん

ご多忙のところ迷惑かけます。カオルさんのこれまでのレスにずれは感じません。
そして、無を追求することが如何に非常識かつ論理を超えたものであるのかも理解しています。
それでもレスください。無駄なら徹底的に否定してみてください。お願いします。

290 :S :03/07/07 01:41
>悟って『存在=苦』としている認識を超えてせめて今生において死ぬまでを『楽』に生きたい。
これは自然と意識同化するなど全一的な達観に到達することでは駄目なの?

>そして出来るならば輪廻の輪から脱し、完全に『無』へと消え去りたい。
『無』かどうかは別にして、これは存在世界の境界を超えることですよね。
ボクも別スレで思慮していますが、何をどうしたら境界を超えられるかなんて
やはり見当もつかないです。でも、貴方はどうしても超えたい?

291 :ハルカ ◆0tZOcyVq86 :03/07/07 01:50
>これは自然と意識同化するなど全一的な達観に到達することでは駄目なの?
全一的達観って… 本当の『全一的達観』なら可能でしょうがね。
でも此処で話している方々のように『(現世を是とする大前提の元の)達観』では無理でしょう。

>『無』かどうかは別にして、これは存在世界の境界を超えることですよね。
>ボクも別スレで思慮していますが、何をどうしたら境界を超えられるかなんて
>やはり見当もつかないです。でも、貴方はどうしても超えたい?
方法論は私も手探りですよ。『コレだ』なんてものは在りませんし(苦笑)
ただ、やはり…輪廻して『この苦が永遠に繰り返される』なら『存在から非存在への境界を超えたい』ですね。

651:考える名無しさん
03/07/07 09:42
やっとショーペンハウアー全集を買いました。
10800円でした。

652:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 23:43
>>643 Sさん

>意志を否定するに至り、

「意志よる意志の否定」というニュアンスではなく、
「自然にそうなる」的な記述は(世界の名著に)あったように記憶しています。
SHは、美的観照には個別的な意志を沈静化する作用があるといっています。

わたしは、このような現象の特徴は、個別的な意思の消失 = 主客の同一化、
にあると思うので、誰でも経験可能な例として、>>640の一段目を書きました。
Sさん以外のROMの方とかにもとっつきやすくなるのかな、と思ったもので。

>そして本質たる意志は常に我々に介在する訳です。

「存在原理」としての意志それ自体が「無」になるのではなくて、
モノ自体としての意志の断片である「わたし」の「世界」が「なくなる」事態を、
わたしが言語によって表現しようとすると「無」と呼称するしかないということでは。


653:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 23:44
>>644 Sさん

>終わることの無い盲目の意志そのものは 何も変わりません。
>苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。

盲目の意志そのものを「苦」という概念で規定できるのは「わたし」しかいませんが、
盲目の意志そのものは「わたし」や「わたしの概念」をも含めたあらゆる現象を生成する根源なのだから、
盲目の意志そのものは、誰にも何ものによっても規定され得ないし規定することもできない、となります。
でも、ここは微妙かつ重要なところかもしれません。(↓参照)

>意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。

モノ自体としての意志と同一化した状態では「わたし」という個別的な意志は機能しないでしょう。
そのとき「わたし」は「非意識」としての「無」を体験しているのではないでしょうか。
しかし、この「無」は、Sさんにとっては「無」ではないのでしょう。
なぜなら、モノ自体としての意志「存在原理」が消失したわけではないのですから。

Sさんのいう「無」とは、ふたたび「わたし」を取り戻した「わたし」が、
モノ自体としての意志、あるいはその存在原理から推測される永遠の存在循環から抜け出す、
という「観念」を指しているのですか。(見解を一致させてから前に進みたいので)


654:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 23:45
>>650
えーと、わたしにどうしろと・・・?
いきなり結論を問われても・・・ゆっくり一緒に考えていきませんか。(^.^)


655:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/08 00:05
>>652
「意志よる意志の否定」 ---> 「意志による意志の否定」でした。


656:S
03/07/08 22:29
>>カオルさん

>>652
 美的観照による意志の沈静については「意志と表象としての世界」第三巻で記述されて
います。そして、如何に観照に浸ろうと、その当の者が客観化された不断の苦悩のなかに
あり続ける意志そのものである以上、永久の解脱とはなり得ず、ただほんの束の間の生から
の開放に過ぎない、とあります。生の形式が変わらないのであるから、これは当然でしょう。

 >>643で書いた意志の否定については、同掲書第四巻にてはっきりと記述されています。
(最後の「認識だけが残った」は生の世界の側の観測でしたので余計でした。)意志がなく
なるということは同時に意志の現象全体がなくなり、現象の一般形式である時間と空間もなく
なり、現象の根本形式である主観と客観もなくなる。意志がなければ表象もないし世界もない、
とあります。
 これは主客の同一化による全一的な移行ではなく、そのものの廃棄、強いて言えば絶対無へ
の移行と考えます。このふたつのケースについて、どちらも考慮すべきとは思います。が、
>>650で転記した確認事項ゆえに、前者では説得力を持たないです。

>>653 
 内容はすべて同意、確認事項についてはその通りです。
 意志が終わることがない盲目的な物自体であり、生の形態で現象するにあたりその本質
が反映され、意志から涌き出る個体化現象の永劫循環が尽きないこと。人間という意志の
高度の客観化段階においては、個体化された意志を通してそのことが認識され得るので、
意志への還元では「苦」の解消に繋がらないことをも認識しています。ゆえにその認識に
達した者は循環を脱した「無」を求めます。

657:S
03/07/08 22:35
>>654
はい。。。

658:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 00:29
>>656 Sさん
>生の形式が変わらないのであるから、これは当然でしょう。

「美的観照による意志の沈静」をどうとらえるかは重要だと思うのです。
もっとすすめて「純粋な認識主観によるイデアの観照」でもいいのですが、
ともかく、認識するものとされるものとの同一化現象は、通常「苦」ではないと思うのです。
むしろ、至高体験とされているのではないでしょうか。
つまり、苦と感じるのも、あるいは観念するのも「(個体化原理としての)わたし」です。
生を「苦しい」と感じるのを止めることはできないかもしれないけれど、
生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできるのではないでしょうか。

そこで思うのですが、もし「純粋な認識主観によるイデアの観照」が生の形式の一形態でしか
ないのだとすると、意志の廃棄による絶対無への移行とはいったいどのようなことをいうのか、
ということになります。
意志の廃棄によって「意志の現象全体がなくなり、現象の一般形式である時間と空間もなくなり、
現象の根本形式である主観と客観もなくなる。意志がなければ表象もないし世界もない。」
というのは、ふつうに「死」によって連想される事態とはどこがちがうのでしょうか。
もしちがいが見出せないなら、「わたし」という概念の死、意識の死は「自殺」ですみます。
しかし、SHは自殺は意志行為であるとして「無」への移行手段としては退けているのです。
そして、自殺を退けられる根拠として、モノ自体としての意志の存在を説いているわけです。
Sさんのこの辺りの解釈をお聞かせください。


659:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 00:31
>前者では説得力を持たないです。

えーと、わたしがあなたにレスした動機には、ハルカさんの説得は含まれてなかったです。
あなたが、そのために苦慮しているのはわかるのですが・・・不謹慎かもしれないけれど、
わたしは、純粋にハルカさんの問いに興味を抱いた、その問いに真剣に取り組もうとされ
ているあなたと一緒に考えてみたかったというのが本音です。


660:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 00:45

「現象してくるものとしての表象の世界は、意志が客体化したものである」
については、たとえば「わたし」と客体化された「ワタシ」との関係性は、
経験に依って発見された偶然の関係性である、と反論することが可能です。

ショーペンハウアーは、目に見える形で現象してくるもの、
たとえば、身体の諸部分には、意志が表明されているといっていて、
歯は食欲、生殖器は性欲・・・あげくにクレッチマーのタイプ論みたいな説、
つまり、人間一般の意志の類型としての体型と性格の一致にまで言及しています。
しかし、たとえそれらの因果的な関係性が事実(=強い蓋然性の認知)だとしても、
それらは経験に依って把握(観念)された関係性(理解の習慣)なのではないかと、
ヒューム的に反論することも可能です。ウィトゲンシュタインにいわせるなら、
「因果的連鎖は、論理的連鎖ではない」ということになるのでしょうか。

ついでにいうと、上述に照らすなら、
わたしの「身体」は「客体化された意志」である、というところから導かれる可能性、
つまり、モノ自体としての意志を認識することの可能性が否定されることになります。
いいかえるなら、「わたし」をもった人間だけが特別な存在ではないよ、ということかな。


661:S
03/07/09 06:46
>>カオルさん

>>658
 「美的観照による意志の沈静」または「純粋な認識主観によるイデアの観照」について
 
 その観照を為している間も、生の形式は変わらないわけですよね。端的にいえば、純粋直観
だろうが、芸術による再現に浸ろうが、一種の忘却に過ぎないわけです。主客の一致といっても
それは厳密な一致ではない。(一致というよりもイデアを純粋に見てとって錯覚しているだけ。)
しかも限定的な条件で体験できることで、それは永続しない。したとすれば、生の形式の保持が
困難となり、生がぶつ切りになった段階でその忘却も意志の永劫循環のもとへ引き戻されること
になります。ですから、
 生を「苦しい」と感じるのを止める(忘却する)ことはできるかもしれないけれど、
 生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできないのではないでしょうか。

 「意志の廃棄による絶対無への移行」とはいったいどのようなことをいうのか

 繰り返しになりますが意志の廃棄とは文字通りのもので、存在を支えるあらゆる条件を排除
した非存在への移行です。けれどもそれは、ただ存在形式から類推しただけの実態のない空文です。
で、単なる自殺と(主観的な思いこみや経緯の違いの他は)どう違うか、循環を超えて無に到達
する根拠が何か、それがまるで見えません。>>638の1~3のような疑問で頭を抱えてしまいます。
SHは>>226の引用のように無への移行を繰り返し強弁していますが、実践できる根拠が見えない
です。解釈というより、理解不能な状態です。

>>660
 SHの形而上説自体の検証はややこしいことになる(意志の廃棄の議論が成立しなくなる)ので、
これまで避けていました。ざっと目を通した限りにおいては、意志や意志の客観化についての明確な
論証は見当たりませんでしたし、頭痛いです。ちょっと考えさせてください。

662:S
03/07/09 07:01
>>659
一緒に考えてくださって感謝しています。それだけで感謝感謝です。

SHを題材にしておきながら何なのですが、物自体、イデア、意志というキーワードで
議論を進めることにも戸惑っています。何故ならその設定内では一般性を持ち得ない
気がしてならないからです。

663:考える名無しさん
03/07/09 08:43
あんたの考えも一般性を持ってないように思えるのですがね

664:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:31
>>661 Sさん(1)
>生を「苦しい」と感じるのを止める(忘却する)ことはできるかもしれないけれど、
>生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできないのではないでしょうか。

>>643
『ショーペンハウアー(以下SH)は聖人が個体化の原理を看破しその認識が高度に明瞭な
段階に達すると、生きんとする意志に対する嫌悪、悲惨と認識されたこの世界の核心と本質
に対する嫌悪、彼自身という現象を通した本質そのものへの嫌悪が発生すると言っています。』

「嫌悪」の対象には二つの可能性があると思います。
(a)現象化された表象の世界にたいするもの。(自己の意識、身体)
(b)意志それ自体にたいするもの。(意識の生成、循環)

「嫌悪」それ自体にも二つの可能性があると思います。
(c)個体にも可能な認識の形式(個体化の原理)にしたがってなされた概念にたいするもの。
(d)認識(思考)とはべつ?の情念的なもの。

わたしは(b)の「意志それ自体の対象化」に懐疑的なのです。>>653
なぜなら、一見「嫌悪」が(b)にたいしてなされていると思われていても、
意志それ自体は「存在原理」なのだから、対象化して「嫌悪」できるような実体ではない、
と思うからです。「意識」と「意志それ自体」との関係性まではいえるかもしれませんが。

また、わたしが『生を「苦しい」と感じるのを止めることはできないかもしれない。』
といったのは、(d)のことです。
『生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできるのではないでしょうか。』
といったのは、(c)のことです。


665:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:32
>>661 Sさん(2)
>その観照を為している間も、生の形式は変わらないわけですよね。

身体が、物理的に存在し生物学的にも機能している、という自然科学的な次元にこだわるのなら、
「無」へ移行するには、身体の「死」が不可欠になってしまいます。
ある意味、哲学的には正しい態度だと思いますけど・・・死そのものを誰も知らないのですから。
でも、SHは「死」ということでいうなら、むしろ精神の「死」を「無」への鍵と考えていたの
ではないでしょうか。
SHの使用する「意志の否定」という表現も含めて、この辺は{今日のショーぺ先生Rさん}の
>>223-230の記述にほとんど書かれているように思います。

『ただ否定という形としてしか表現し得ないことがらに関して、なにがしかの肯定的な
認識を手に入れたいとあくまで固執するなら、我々としては意志の完全な否定に到達した
すべての人々が経験したあの境地を参考にしなさいという他に、如何なる方法もない。」>>224

『我々は徹頭徹尾哲学の立場に立つ者である以上、否定という形の認識で我慢し・・・』>>226

どうでしょうか。SHの「否定」という表現に込められた真意が伝わってこないでしょうか?
徹頭徹尾哲学者であったSHは、認識するものとされるものとの同一化を「否定」という
個体化原理にのっとった形式論理の中におさめて表現するしかなかったのではないでしょうか。


666:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:33
>>661 Sさん(3)
>意志の廃棄とは文字通りのもので、存在を支えるあらゆる条件を排除した非存在への移行です。

上述から、わたしは、SHのいう「無」は「存在それ自体」に「同化」する、
あるいは「存在そのもの」に「なる」ことだと思いますから「非存在」の「無」とは、
ハッキリ区別したいと思っています。そしてどちらの「無」が「より~」というのは、
とりあえず横において考えたいのです。そもそも存在を前提しない「無」なんかある
のだろうかとか、非存在としての無の定義は?とか、色々あるので・・・ゆっくり。

>自殺と(主観的な思いこみや経緯の違いの他は)どう違うか、

この問題もなおざりにはできませんね。それぞれの「無」を定義する必要があります。

>循環を超えて無に到達する根拠が何か、

SHは、循環を超えて無に到達できるとする根拠を「存在原理」としての「意志」に求めています。
つまり「存在原理」としての存在そのもになることが、循環を脱し、無に至ることだと・・・
ここでいう無とは、個体である人間にも可能な認識の形式にのっとって、こちら(人間)から解釈
しようとこころみるなら、それは個体化の原理をまったく超越しているという意味で、無である、
ということではないでしょうか。

>解釈というより、理解不能な状態です。

わたしも同じです。のんびりいきましょう。こればっか(笑)


667:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:34
>>661 Sさん(4)
>頭痛いです。ちょっと考えさせてください。

m(__)m >>660は無視しましょう。(じゃぁー書くなよ!)

SHの意志、それをひきついだニーチェの力への意志、みんな人間中心の思想。
力への意志は、抵抗を克服していこうとします。でも、そんな自己も世界のなかの一部。
「世界-内-存在」なのです。(ハイデガー)

ダーザインとしてのわたしは、世界から抜け出せるのか。
それとも世界という環境なしには、存在すらままならないのか。
わたしは、ほんとうに実存してるのか、それとも関係性という産物でしかないのか。

①「純粋な認識主観によるイデアの観照」の否定には、人間中心的発想を感じるし、
②「純粋な認識主観によるイデアの観照」の肯定には、万物平等的発想を感じます。

①は、精神の「成長」や「発達」を肯定しつつ否定するという不条理、アンチノミー。
②は、その逆。

人間観のちがいが、①と②のちがいになるのでしょうか。(SHはホントはどっち?)
みたいなことをいいたかったのかな。(いえてないよ!) 脱線はわたしの癖。おゆるしを。


668:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:37
まとまってなくてごめんなさい。
あと、おなじこと繰り返してると思うけど・・・必要だと思うから。
あと、キーワードは・・・どうしましょうか? おまかせします。


669:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/10 21:34
わたしSさんの重荷になってませんか? 心配です。今日は早めに寝ようと思います。


670:S
03/07/10 23:40
>>カオルさん
>>664-666を踏まえて第四巻の終章をもう一度見なおして見ました。するとすっきり意味が
通りました。カオルさんの指摘を理解するとともに、絶対的な非存在などというものは、
SHが取り扱ってもいない(取り扱えもしない)のだな、と理解しました。第三巻から第四巻
終盤への移行もこれなら整合性が出ます。

>SHは、循環を超えて無に到達できるとする根拠を「存在原理」としての「意志」に求めています。
>つまり「存在原理」としての存在そのもになることが、循環を脱し、無に至ることだと・・・
>ここでいう無とは、個体である人間にも可能な認識の形式にのっとって、こちら(人間)から解釈
>しようとこころみるなら、それは個体化の原理をまったく超越しているという意味で、無である、

ボクもカオルさんの明瞭な解釈に導かれて理解できました。ボクの主観的な思いこみがSHの意図の
曲解に結びついていたみたいです。SHの全巻を通した首尾一貫した姿勢に感嘆します。実践段階に
おける個体化された意志の否定という結論についても、それが世に言われるような厭世などではなく、
積極的な形態転換であるのではと思いました。

ではこれで万事が解決できた、とはならないと思います。物自体としての意志、或いはイデアという
実在を支える為に考案された恣意的な設定がなければそもそも成立し得ないこと。そのような恣意的に
捏造した証明しえない観念を前提に、本当に実践段階に突入してしまったら、これは飛翔できるとの
妄想を抱いて崖の上から跳躍してしまうのと一緒です。カオルさんなら意志を確信して実践できます?

SHは「何故」を問うことは不毛でひたすら「何」を問うことしかできないと主張しています。それは
尤もなのですが、それでは「何故」という問いは抑えられません。存在理由、存在境界の超越(絶対無)
への渇望は消せません。仮にその問いに達した者に対峙したとして、どう答えればよいのでしょう。
これは物自体としての意志への帰入では答えにならないです。

あと、>>667はボクにはまだむつかし過ぎますので答えられません。

671:S
03/07/10 23:43
>>668-669
ボクでも何とか理解できるのだから、すごく丁寧で簡潔な説明です。そう示せるカオルさんが羨ましい。
ボクの方がカオルさんの重荷になってませんか? 心配です。なんせカオルさんの掌で溺れているような
状態ですから、カオルさんに益するものが無いように思えます。だからこそ感謝なのです。

無謀かもしれませんが、SHの哲学説から物自体の意志やイデアを取り除いた場合について、今、考えて
います。生が苦である根拠やその解消方法についても、もう一度考える必要が出てきます。でも、もう
少しSHの形而上説に沿って理解を深めてからにします。次のレスは12日夜にします。

672:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/11 23:48
>>670 Sさん
>カオルさんなら意志を確信して実践できます?

たぶん哲板にいること自体「それ」にはちょっと否定形ということなのかな。
哲学は確信とか実践に距離を置きますよね。とても怖がりになった気がします。

>存在理由、存在境界の超越(絶対無)への渇望は消せません。

ただ「存在理由を知りたい」と「存在境界を超えたい」は、同居しないと思います。
なぜなら、前者への絶望が後者の動因になると思うからです。

>仮にその問いに達した者に対峙したとして

わたしなら上記の仮定から「達した」にまず疑いを持ちます。

>これは物自体としての意志への帰入では答えにならないです。

いえ、物自体としての意志への帰入がどういうことなのかも、
まだまったく解決されてないと思うので、答えになるならない以前だと思います。

>ボクにはまだむつかし過ぎますので答えられません。

ごめんなさい。そういうレスじゃないんです。ひとりごとです。(^.^;)


673:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/11 23:51
>>671
>なんせカオルさんの掌で溺れているような状態ですから、

とんでもないかいかぶりです。レスしづらくなるのでやめてー!(笑)

>カオルさんに益するものが無いように思えます。

いいえ、今のわたしはあなたのおかげで思考停止を免れているような状態なんです。
付き合ってくれてありがとうございます。これからもよろしくお願いします。(^.^)


674:S
03/07/12 22:57
>>672 カオルさん

>ただ「存在理由を知りたい」と「存在境界を超えたい」は、同居しないと思います。
>なぜなら、前者への絶望が後者の動因になると思うからです。
存在理由に絶望するとは、理由が判明しないことへの絶望か、理由が判別することへの絶望か。
いずれにしても存在形態の枠組みが他律的に規定されている限界を発見するわけです。
で、他律的な生へ受容によって死に体としての存在を継続するのか、それとも枠組みに抗する
ことで自律的な存在への転換を試行するのか、とにかくも絶望になんらかの対応しようとする。
しかしこの際対応でも、理由?→転換→理由?→転換→理由?というように存在理由は循環
しながら常に同居してゆくと思います。

>わたしなら上記の仮定から「達した」にまず疑いを持ちます。
で、疑いというのが何なのか。存在理由の渇望はその問いを持った者はそこに至らない段階
から「達した」ことは当事者にとって自明であるし、不毛かどうかは別として疑いえないと
思います。存在境界の超越(絶対無)への渇望については、自律的な存在への転換を試行する
選択肢として当事者が持つに至ったのであるなら、それが可能かは別として当事者にとって
は自明な問いです。

>いえ、物自体としての意志への帰入がどういうことなのかも、
>まだまったく解決されてないと思うので、答えになるならない以前だと思います。
そうですね。意志という言葉のみが先行していて、その実態は全くわかりません。
というより、こういう代物があれば世界を都合良く説明できるという、観測もされない
恣意的な設定でしかないのだから、これは答えが最初から出ているとはならないでしょうか。

675:S
03/07/12 23:10
>>673 カオルさん

それではお言葉に甘えてそういうことにさせてもらいます。
あと、レスは負担にならないよう、暇な時にだけ、気が向いた時にだけして下さい。
日が開いてしまっても、飽きてしまって放置しても構いませんので、気遣いはご遠慮下さい。

676:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 00:45
>>674
>これは答えが最初から出ているとはならないでしょうか。

>>650
『無を追求することが如何に非常識かつ論理を超えたものであるのかも理解しています。
それでもレスください。無駄なら徹底的に否定してみてください。お願いします。』

このレスはいったい何だったのですか?(少し怒ってます!)


677:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 00:58
>>674 Sさん
>存在形態の枠組みが他律的に規定されている限界を発見するわけです。

これは決め付けです。他律的とは誰のことですか? 何のことですか?

>他律的な生へ受容によって死に体としての存在を継続するのか、
>それとも枠組みに抗することで自律的な存在への転換を試行するのか、

この「考え」は、あなたのものですか? 彼女のものですか?

>とにかくも絶望になんらかの対応しようとする。

この「絶望」は、あなたのものですか? 彼女のものですか?


678:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 01:02
>しかしこの際対応でも、理由?→転換→理由?→転換→理由?というように存在理由は循環
>しながら常に同居してゆくと思います。

循環するから「探求」が続けられるのではないですか。
わたしは「答え」が見つからないことへの「苦悩」を「絶望」とは呼びません。


679:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 01:13
>存在理由の渇望はその問いを持った者は
>そこに至らない段階から「達した」ことは当事者にとって自明であるし、

この「自明」は、あなたのものですか? 彼女のものですか?

>存在境界の超越(絶対無)への渇望については、
>自律的な存在への転換を試行する選択肢として当事者が持つに至ったのであるなら、
>それが可能かは別として当事者にとっては自明な問いです。

この「存在境界」とは何か?
その「超越(絶対無)」とはどういうことなのか?
そもそも、この「渇望」の実体とは何ナノか?

わたしには、いまだにすべて不明なのですが・・・
あなたとSHに導かれてやっとその探求の入り口あたりにきたのかな?くらいの認識です。



680:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 01:22
>>671
『SHの哲学説から物自体の意志やイデアを取り除いた場合について、今、考えています。
生が苦である根拠やその解消方法についても、もう一度考える必要が出てきます。
でも、もう少しSHの形而上説に沿って理解を深めてからにします。』

これは「オッカムの剃刀」ということだったのでしょうか?
そんなに簡単なものなんでしょうか?
偉大な哲人たちが「神」や「存在」や「意志」を己の体系を上手く説明するためだけに
持ち出したとはとても思えないのですが・・・


681:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 01:30

引き継がれた精神 あなたはわたし
 わたしはあなたと共に真理を探求する
  わたしはあらゆる事物を観察し分析する
   歴史の躍動のなかに先人の苦悩のなかに分け入る
    ふたたび今へと帰還し想像する 見逃しまいと目を凝らす
     死角に佇むそれさえ感じ取ろうと身構える わたしは信仰者
      あなたと一つになれるよう 彼の地へ飛翔できるよう挑戦する

それなのにあいつはやってくる
 どこからともなくしずかにやってくる
  まとわりついてわたしをむしばみどこにもいかない
   もうやめたい もうやめたい わたしをもうやめたいのだ
    でも神さまはいう やめることすらやってはいけないのだと
     それならはじめからやりなおしてほしい わたしを無しにしてほしい
      だまっていても生きている 生きている 終わらない やめられない


「存在理由を知りたい」と「存在境界を超えたい」は、同居する、を想像して書いてみました。


682:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 01:40
きついこといったかもしれない。ごめんなさい。
でもこっちの方が普段のわたしっぽい。いまさら隠してもしょうがない。(笑)

683:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 02:03

ついでだからいい加減で不正確だけど、カントの「モノ自体」の誕生までを
合理論の系譜で追ってみました。あなたが「個体化の原理」を追求するのは、
それはそれでいいことだと・・・役には立たないけど応援レスのつもりです。(^.^)
あと、わたしがSHの「意志」を「モノ自体としての意志」と表現してたのは、
そもそも、SHとカントとの強いつながりを意識していたからなのです。では以下。


684:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 02:16

【デカルト】は、
すべてを疑い、検証できない存在を排除していくと
最後にどうしても疑えない、疑うわたし(精神的「実体」)と
長さ、幅、奥行きをもつ、延長実体(物質的「実体」)と
双方の実体を関係づける生得的な性質としての「本有観念」が残るとした。

【ロック】 は、
人間は誕生したときは真っ白なキャンバスであり、
「すべては経験によって得られる」のだから、生得的な「本有観念」はないとした。
しかし、精神的「実体」と物質的「実体」の存在は懐疑しなかった。

【バークリ】 は、
「何かが存在するとは、知覚されたり知られたりすること」と考えて、
あるのは「観念」だけであって、物質的「実体」はないとした。
しかし、精神的「実体」の存在は懐疑しなかった。

【ヒューム】は、
「存在するのは、観念だけである」と考えて、
精神的「実体」と呼ばれるものも、じつは観念の束でしかないとした。
これで精神的「実体」も否定された。(>>660にもちょっと関連)

【カント】は、
観念は、むこう(モノ自体)からやってくるものではなく、
こちら(主体)から働きかけて、こちらの都合に合わせて、創り出すものと考えた。
この「コペルニクス的転回」によって、「モノ自体」は、知り得ないものになった。

ホントにたいしたこと書けなくて・・・こんな筈じゃ・・・なんか無意味っぽいけど・・・


685:S
03/07/13 03:58
このレスは>>676-679をコピーしたあとに悶々としながら書いてました。
だから>>680以降のレスを念頭にしていません。どうしようかと迷いましたが、貼っておきます。

>>676 カオルさん
何で怒ってるの?前後のボクの姿勢が食い違っていてカオルさんを愚弄したのでしょうか?
無がどうであるか以前に、世界を恣意的に設定した概念に代弁させて説明した場合、それは
ひとつの仮説にはなるけれど、実践に耐えるものではないと思います。しかもその内容が生
の形式を肯定したものならば、そもそも我々が生の形式にあるのだからボロが出にくいですが、
生の形式を否定したものならば、物語に陶酔した結果として取り返しのつかない事態が予想で
きるのです。だからボクは、そうした恣意的な設定では(物語としての)限定を持ち、それ
ゆえにこれでは、>これは答えが最初から出ている、と思うに至りました。ですから物自体
としての意志を除いた形で考えることができないか、と思ったのですが。おかしいですか?
前のレスと姿勢が食い違っていますか?ボクが鈍感なだけかもしれないので、批判してみて下さい。

>>677
彼女?誰のことでしょうか?確かにカオルさんにボクが考えるに至った状況を説明して来ました。
でもここではそれは別個です。ですから>仮にその問いに達した者に対峙したとして、と設定
したのです。そしてこれはボクでもありません。状況を想定して考えてみたのです。おかしいですか?

>これは決め付けです。他律的とは誰のことですか? 何のことですか?
存在理由が判明しない場合、自ら預かり知らない存在形態と世界とを背負わされている事態に気付く。
存在理由が判明した場合、自ら預かり知らない存在理由を背負わされている事態に気付く。
いずれにしても自らではない意味において、>他律的に規定されている限界を発見するわけです。
誰のことですか?はわかろうはずもないし、(神だろうが造物主だろうが)どうでもいいです。

>この「考え」は、あなたのものですか? 彼女のものですか?
>この「絶望」は、あなたのものですか? 彼女のものですか?
カオルさんが提示した>前者への絶望が後者の動因になる、という指摘を自分なりに咀嚼して
想定してみたものです。おかしければ指摘してください。

686:S
03/07/13 04:01
同じくこのレスは>>676-679をコピーしたあとに悶々としながら書いてました。
だから>>680以降のレスを念頭にしていません。どうしようかと迷いましたが、貼っておきます。

>>678 カオルさん

>循環するから「探求」が続けられるのではないですか。
>わたしは「答え」が見つからないことへの「苦悩」を「絶望」とは呼びません。

ボクは世界や自己が他律的に存在していることを発見し、それが如何ともしがたいことを認識する
ことが絶望ではないかと思いました。それはこうして思慮し意欲している自己そのものも、他律的な
構成に過ぎないという逃れられない認識です。けれどもその絶望からもしも可能性を引き出すことが
できるとしたら、それはあてがわれた自己をもって自己の枠組み、世界の枠組みに抵抗することしか
ないと思った。自家撞着の行為ではあっても。(骨スレでカオルさんと問答したことと通じます。)
それでも、循環の中では無制限に問いつづけもできる。でも、それ自体もまた、他律性の反動として
踊っているだけの、無限の他律性に過ぎないことがどこまでも同居するのです。これも絶望であると
思いました。それとも踊っている間は絶望ではないのでしょうか?カオルさんの考える絶望を聞かせ
てください。

>>679
これもボクが想定したものです。その問い自体の妥当性は別に、その問いを持ったことは否定しようが
ないです。

687:S
03/07/13 04:55
>>680 カオルさん
「オッカムの剃刀」・・・そこまで深くは考えていませんでしたが、近いものがあるかも知れません。
SHの体系そのものをいじくるつもりはボクにはありません。ただ、意志の滅却について考えた
際に、SHの哲学説から出発して、もう少し実践に耐える形を示せないかと思ったのです。
梵我一如でも意志への帰入でも同じですが、その観念を盲信しない限りとても実践できないです。
それが宗教だ、哲学なんだ、ともし言われても、根拠の示せない観念では説得力がないです。
ただ、それだけなんです。
>>681
そのイメージよくわかります。ボクが絶望などで書いた内容と重なる部分とそうでない部分があります。
>>682
そんなことないです。がっちり叩いてください。
>>683-684
気を遣って戴き有難うございます。
こんなにたくさん真剣にレスしてもらって、本当に感謝です。貴方の善意を噛み締めます。

688:S
03/07/13 07:38
>カオルさんなら意志を確信して実践できます?
>たぶん哲板にいること自体「それ」にはちょっと否定形ということなのかな。
>哲学は確信とか実践に距離を置きますよね。とても怖がりになった気がします。

ボクはこのレスがとても気になって仕方ないんです。大層な体系を打ち出しても
これが実際なら、哲学ってなんだろう?(不能者の戯言?)って思うし、意志を
信じられないカオルさんがボクを痛烈に批判した根拠がわからない。説明してください。

689:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:08
>>685 Sさん
>何で怒ってるの?

『無を追求することが如何に非常識かつ論理を超えたものであるのかも理解しています。』
が本当なら『それでもレスください。』というのは「語り得ない(論理を超えた)もの」を
「語る」「探求」したい、するという、あなたの「意思表明」だったのではないですか?

にもかかわらず『これは答えが最初から出ているとはならないでしょうか。』というなら、
それこそそれは、わたしにとっては百も承知の「自明」なことなのです。

>無がどうであるか以前に、世界を恣意的に設定した概念に代弁させて説明した場合、

なぜ「恣意的」などと安易に表現するのですか?
哲人がみずからの生涯と命を懸けて残してくれた体系にたいして使って良い言葉ですか?
あなたは本心から〝それ〟が「思いつき」や「自分勝手な考え」にすぎないと思うのですか?
論理空間にはおさめられないことなのかもしれないけれど、確かに〝それ〟を信じたからこそ、
彼らは〝それ〟を説いた(後世に残した)のだとは思わないのですか?

>それはひとつの仮説にはなるけれど、実践に耐えるものではないと思います。

「実践に耐える」とはどういうことですか?
ある苦を回避、あるいは脱するための「方法」が、科学的に検証され、医学的にも
心身への保証がなされるような形式を整えないかぎり〝それ〟は実践に耐えられないのだから、
無意味だと言いたいのですか?


690:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:24
>しかもその内容が生の形式を肯定したものならば、
>そもそも我々が生の形式にあるのだからボロが出にくいですが、
>生の形式を否定したものならば、

〝それ〟が、生の形式を肯定してるか否定してるかなんてどうして簡単に分かるのですか?
たとえば、SHの〝それ〟は、SHが生の形式を否定しているのだから・・・を信じるのですか?
SHの〝それ〟を引き継ぐとともに懐疑を加えつつ、もっと探求してみようとは思わないのですか?

>物語に陶酔した結果として取り返しのつかない事態が予想できるのです。

生の形式に沿って予測するならそう思います。でもだからといって切って捨てるのですか?
〝哲学する〟というのは「陶酔」を避けて思考停止しないこと、諦めないことではないですか?

>ですから物自体としての意志を除いた形で考えることができないか、と思ったのですが。
>おかしいですか?

物自体としての意志を一時脇において、ということなら上記の発言はしません。
「わたしの仕組み」や「世界の構造」を追求するのはいいことだと思いますから。


691:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:25
>>686 Sさん
>ボクは世界や自己が他律的に存在していることを発見し、
>それが如何ともしがたいことを認識することが絶望ではないかと思いました。

どうしてここまで言い切れてしまうのでしょうか?
世界とは? 自己とは? 存在とは? 認識とは? 絶望とは?
わたしにはどれ一つとして「自明」なことなんてない。

>それはこうして思慮し意欲している自己そのものも、
>他律的な構成に過ぎないという逃れられない認識です。

思慮する自己と意欲する自己は同じですか?
なぜ人は思慮するのですか? なぜ人は意欲するのですか?
思慮にともなう志向性と意欲はどう違うのですか?
本能が意欲と認識されるのですか? 意欲とは何ですか?
意味を理解し価値の選択をするのは志向性ですか? 意欲ですか?
他律的な構成とは形式世界の認識ですか? 神の差配ですか?
自己そのものが他律的な構成ということは自由意志はないのですか?
唯我論と真っ向勝負ですか?
自己そのものが自律的か他律的かがどうして決められるのですか?
自律的の対立概念の存在は認めないのですか? 絶対主義ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それでいいのですか?


692:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:35
>カオルさんの考える絶望を聞かせてください。

わたしは悟りスレのハルカのことを自分のことのように思っていました。
だからハルカが「生命体の存在理由」というスレを立てたのをみて「存在理由」
って、あんたそんなものないとわかったからこその「悟道」ではなかったの?
と、まぁ分別のない怒りを感じてしまったわけです。嫉妬でもしてるのかな?
というわけで脊髄反射で「そんなの絶望じゃない」といってみたかったと・・・
だから「彼女ですか?」もそういうことです。あなたよりずっと拘っていたの。

わたしの心の中を覗ける人がいたら絶望してるというかもしれないですね。
真理の探究が続けられること、すなわち生きること、生きていられること。
やっとです。必死です。(^.^)

>これもボクが想定したものです。
>その問い自体の妥当性は別に、その問いを持ったことは否定しようがないです。

Sさんも〝踏み外した〟みたいですね。いらっしゃいませー。(^.^)


693:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:40
>>688 Sさん
>説明してください。

コトバ的の結論は別スレのSさんへのハルカの回答と同じ。アンチノミー。
意志を信じられないのではなくて、あなたが指摘するように確信とか実践は、
「死」にかぎりなく近づくことだから・・・・・こわい・・・・・「でも」という気持ち。
ただね、死ぬまでは愛してあげたいのわたしを。心とからだに感謝したいの。
自己欺瞞でもなんでもそれがあるからまだ頑張れているという感じなのかな。


694:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:54
とんでもなくスレちがいなんだけど・・・以下納得したんで載せておきます。

【ハルカ①】
>この『同一化』は、現実的にうけいれられるものでなければ信用できないという事だよね。

チョット違う。
『イメージを受け入れる』ってのは極論すれば『気の持ちよう』と何も変わらないじゃない?
そんな『気の持ちよう』『考えの転換』では『実際に感じている苦』を滅せられないからね。

【ハルカ②】
>>私は『消えたい』とか考えた事も思った事も(過去には)これっぽっちも無いんだけど

『過去には』って注釈がついてるでしょ?
そもそも、この時話していたのは『何故その【苦】とやらを感じるようになったか』だよ?
その時に『過去の経験からではないか』と言われたんで『そうでは無いけど』という意味で
発言したんだよ?
実際【苦】を感じる前は消えたいなんて微塵も思わなかったもの。
それどころか『何があっても生き抜いてやる』と思っていたんだけどね。
あんまり笑わせないでくれる?(苦笑)


695:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:55

【ハルカ③】
『指針』とは『人生の指針』として『生きる方向性を確信して定められる』という事。
『自分の生き方』に絶対の確信を持ちたいから、本当は生存を肯定したいから
『生命自体の絶対の存在意義』を求めている。
それが分からない上に、欠片も見えない現状では『このまま【苦】を感じて生きていくなら、
もう二度と生まれたくない。無へと消え去りたい』という事。

【ハルカ④】
私は『支配される』とかのニュアンスで話した事はないよ。
私が言ったのは
『生命の絶対的な存在意義が分かれば完全に迷う事の無い指針が出来る』という事。


696:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:55

【Sさん①】
>>人が人のために創った命なら、
>>人のために生きることが「確信して定められる生きる方向性」になるか?
>なると思うよ。
>確実に『その為に造られた』と言うのが分かったならね。

これがよくわからないです。絶対的な価値には従えるの?それで収まるの?
存在にとってこれほど確実な生の形態の規定をあてがわれて、満足できないのに?

【ハルカ⑤】(Sさんへ指示した参照レス)
>例えば、生命の目的を仮に全て明かしたとして、それが嫌いでも
>その事実に従うのかな、という問いかけだったんだけどどうかな?

ああ、そういう事か。
ならば『受け入れるしかないだろう』としか答えられない。
『人生訓』やら何やらならば『Aが嫌ならB』という選択もありだが。
仮に『生命の目的』が明かされたとしたら『それ以外の選択肢は無い』わけだから…
従うつもりだよ。私は。


697:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/13 23:57

【Sさん②】
それ以外選択肢がない・・・?
今でも生の形態の規定をあてがわれてそれ以外の選択肢はないというのに?
ちなみにボクは従うハルカさんが信じられないよ。

【ハルカ⑥】
言い方が悪いけど私は『私の為に』この問いかけをやってるんだよ。
もし『生の意義』がとても受け入れられないものだった場合でも
私は『表面上は』従うよ。生きていく為には従わざるを得ないしね。
だが、それでも『その意義から外れた不良品になる為の努力』はする。
それが他のスレで言っていた『悟りによって輪廻から外れる事』だよ。
『意義』が明確に成っても私にとって『受け入れ難いもの』で在ったのならば…
『悟り』を追う事は止めない。それが私の『抵抗』だよ。甘んじて受けるわけじゃない。

【Sさん③】
それがハルカさんの姿勢なら何もいうことはないけど・・
ボクにはどちらにも方向づけできない中途半端さを感じます。(ボクが勝手に感じただけ)
ボクが他スレで考える過程で、過激になりすぎたのかなぁ。

【ハルカ⑦】
そうだね…中途半端だよ、今の私は(苦笑)
今は『生きたいとも思い死にたいとも思う』どっちつかずの状態なんだ。


698:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/14 00:00
内容のないレス。レスの無駄使い。私的感情の吐露。スレ主さん、みなさん、Sさんごめんなさい。m(__)m

699:S
03/07/14 05:54
カオルさん・・レス有難うございます。

貴方に対する擦れ違い感というか、やる瀬無さというか、そんな感覚に包まれています。
殆ど鸚鵡返しになってしまいそうで・・今日のレスは止めておきます。
明日になっても変わらない気もするけど・・

700:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/14 21:46

あなたとの会話は671で終わりにします。
色々ありがとう。お元気で。さようなら。(^.^)

PS. ・・・ 672以降のレスは削除できないので記憶あぼーんしてね。


701:ハルカ ◆0tZOcyVq86
03/07/15 01:26
>>692
チョットこちらへも御邪魔して一言だけ。

私が『悟道』を目指した(歩んだ)のは『自分独りじゃ生命の根本が不明確だった』から。
そして『ソコ』から逃げ出した臆病者です。
何故逃げたのか自問自答して出てきたのは
『まだまだ絶望し切れていないな。まだ生を無条件肯定している自分がいるな』
という回答でした。
私は【苦】しか感じていないので『肯定要素』が(意識的に)掲げられません。
自己に残っている『肯定要素』を破壊しなくては『ソコ』へ行けないのに…
ならば。
2chを利用する事にしました。
だからこそ、此処で様々な人と話しているのです。
多分人は『生への肯定要素』しか話さないだろうという予想は的中しました。
そして『肯定要素』を『自己の中で』粉々に分解しようとしているのです。

最近私が『生の立場へ傾きだした』のは、
まだ残っていた『生の無条件肯定』の噴出でしょう。
この『無条件肯定』こそが大きな壁なんです。
壁を超えなくては『絶望』では無いから…

スレ違いゴメンなさい。

702:山崎 渉
03/07/15 12:43

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄

703:S
03/07/15 22:56
>>700 カオルさん
言いたいこと言って、賢しく謎掛けをして、善人ぶって綺麗に幕引きですか。。。
素敵です。カオルさん。貴方はボクに拭うことの出来ない贈り物をくださいました。
会話が断たれた今、ボクは沈黙するしかありません。貴方もお元気で。。。


(。。。お世話になった感謝を込めた、ボクの精一杯の毒舌です。)

704:S
03/07/15 23:00
>>701 ハルカさん
多分このスレを読んでいらっしゃるのでしょ?
前にも書きましたが、ボクは関わる問題に例外はないと思っています。でもその関わり方が
自分にとって負になるような姿勢なら、どこまで行っても無明は拭うことが出来ないと思います。
自分にとって正になるような姿勢なら、如何な状況でもそれ自体が可能性となると思います。
そしてその正負は自らが一番心得ているはずです。

絶望、という言葉が一人歩きしています。ボクもその言葉に便宜上乗りましたが、本当の絶望
なら語る気力もないはずです。ボクはハルカさんに導かれてボクが関わるべき問題をより深く
見出すことが出来ました。でもそれは絶望したからじゃない。ボクはボクを規定し育んだ世界を、
ボクの関わった世界を、例えそれが如何なるものであれ愛しています。そして愛し続けたい。
だから自分なりに個々の事態、問題に関わっていきたい。究極の壁をボクらを規定する生の形態
やどこまでも自らが預かり知らない他律性に見出した今、それを克服しようと関わっていく
つもりです。もしも自律的な時間が見出せるなら、そうした自らの関わりの中だけだと思う。

ハルカさんは何処へ向かっているのでしょう。ボクはボクの考えを押しつけはしません。貴方が
生きた言葉を交わしてくれたことへの感謝として、ボクのありようを示して来ました。ボクは
貴方が自らを欺くことなく、望む道を見出してくれたらと切に思うのです。それだけなんです。

705:S
03/07/15 23:45
脱線気味になったお詫びに、意志の肯定・否定についてのSHの引用を貼っておきます。

 ひとびとの認識が意欲(欲念)とぴったり歩調を合わせ、いいかえれば迷妄を去り、
おのれ自身が明晰かつ判然となることができるならば~認識にとっては生きんとする
意志の全面的な肯定の立場にほかならない~
 意志が自分自身を肯定するということは次のような意味のことである。意志の客体性
すなわち世界と生とにおいて、意志みずからの本質が意志に完全かつ明瞭に与えられる
のは表象としてであって、したがってこの認識は意志が意欲することをけっして妨げる
ものではなく、それどころかかえってこのように認識された生こそ、意志によって生
そのものとして意欲されるものにほかならないのである。それまで認識を欠いた盲目的
な衝動として意識され思慮されていたものが、今度は認識を伴ったものとして意識され
思慮されるようになるということなのである。

 これと反対になるところの、生きんとする意志の否定がみられる場合というのは、意欲
がいま述べた認識において終わりを告げるときである。そのときには認識されたひとつ
ひとつの現象は意欲の動因としてはもはや作用することがなく、意志の反映である世界
の本質の認識がイデアの把握を通じてしだいに成長し、すっかり意志の沈静剤になって
しまうので、そのときには意志はなにものにもとらわれずに自分自身を止揚してしまう
であろう。

 わたしがもっぱら目的とするところは、生きんとする意志の肯定と否定というこの双方
の概念を説明し、これを理性によって明晰に認識することでしかあり得ず、どちらか一方
をとるよう指図したり、人に勧めたりすることではけっしてない。そんなことをするのは
愚劣であり無益であるといえよう。意志そのものは端的にいって自由で、まったく自分
ひとりで自分を規定していくものであって、このような意志にとっては何ひとつ法則は
存在しないからである。

(中央公論新社 意志と表象としての世界 第五十四節より)

706:S
03/07/16 00:00
思ったのですが、もし意志なるものがあると仮定しても、
その意志そのものが他律性の根源ではなかろうか。
自律性を求めるのであれば、それはSHの提案する意志の肯定でも否定でもなく、
意志そのものからの克服(脱却)にあるのではなかろうか。

(カオルさん、ハルカさんへ。このスレでのボクの到達地点です。)

707:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/16 00:51
わたしへのレスはかまわないけどハルカへのレスはひどいと思う。

ついでにあなたの到達地点もちがうと思う。


708:ハルカ ◆0tZOcyVq86
03/07/16 01:16
>>707
いいのですよ。
その人なりの『到達点』があって然るべきなんですから。
だからSさんの「到達点』が違うとは私にも貴方にも誰にも言えないと思いますよ?

709:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/16 01:20
>>708
到達地点というのは、ショーペンハウアーの哲学体系にたいしての解釈のこと。

710:ハルカ ◆0tZOcyVq86
03/07/16 01:23
>>709
あ、なるほどね。
そういう意味ですか。
では、貴方は如何様な解釈を?

711:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/16 01:24
>>710
人が逃れられない他律性という網にかかっていると仮定するなら、
人を他律的存在となさしめている意志それ自体は自律的でしょ?
それなら意志の現われである自己にだって自律性は望めるでしょ?
他律的なのは個体化原理によって創り出された表象の世界でしょ?


712:ハルカ ◆0tZOcyVq86
03/07/16 01:34
>>711
>人を他律的存在となさしめている意志それ自体は自律的でしょ?
個人的には、此処に『?』ですね。
『意志それ自体』を何故『自立的』と言い切れるのか?
宜しければお答え頂けます?


713:ハルカ ◆0tZOcyVq86
03/07/16 01:37
>>712
× 『自立的』
○ 『自律的』

714:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/16 01:37
>>712
絶対の概念として提出されているから、論理的には自律的、自足的・・・の定義があてはまる。


715:ハルカ ◆0tZOcyVq86
03/07/16 01:39
>>714
なるほど。
『論理的』には、ですか…
ふーむ…

716:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/16 01:40
>>715
わたしが、Sさんにいいたかったのは「存在-自己」という相対図式のワナにはまってるよ、
ということなの。



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