03/03/15 02:55
ショーペンハウエルなの?ショーペンハウアーなの?
440:信一
03/03/15 18:05
ショーペンハウアーは「純粋理性批判」の一版しか認めませんでした。岩波
純理は二版ですが理想社のカント全集の純理は一版と二版が併記されています。
>>439
昔はショーペンハウエルと言ったが、最近ショーペンハウアーと言うように
なったんじゃない。現代の書物では皆ショーペンハウアーだよね。
441:考える名無しさん
03/03/31 05:47
保守age
442:考える名無しさん
03/03/31 17:59
保守乙かれさまです。
先日、面白い本を読みましたので紹介しておきます。
「天才と才人 ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響」
D.A.ワイナー著 寺中平治・米澤克夫訳 三和書籍
ショーぺに心酔したウィトがやがて批判的に克服していく様を検証しているのですが、
かえってショーぺ哲学の懐の深さを感じますた。
443:超真剣です!!!聞いてください!!!
03/04/02 04:33
日本最大超残忍事件!!!!!mmm
(「絶対」忘れてはならない事件です!!!)
女の子が40日間渡って監禁され、計100人ぐらいに強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。
膣を灰皿代わりにされ、自慰(オナニー)を強制され、
真冬に裸で外(ベランダ)に出され、裸で踊らされ、膣やお尻の穴に鉄の棒を突っ込まれ、20キロの鉄アレイで殴られ、瞼にろうそくをたらされ、
膣にマッチ棒を入れられ、膣の中のや裸体をライターで火あぶり、精液を大量に飲まされ、500ccの尿を飲まされ、基礎の他むちゃくちゃ。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされたそうだ。
殺された彼女の親友が言うには、監禁され殺される一日前、幽霊となって「助けて!」と親友に助けを求めたが、親友はどうすることもできず、泣きじゃくった。
「狂宴犯罪」は 一ヶ月以上 続いた 。
そして殺された。
死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。
死体の膣(マンコ)にはオロナミンC2本、入っていた。
「裁判記録」は死ぬほどエグイ内容であった。「コンクリート詰め事件」で検索すればわかる。
(俺は涙が止まらず、夜も眠れなかった。たとえ99.9%の人が幸せでも残る0.01%の人が(超)不幸なら、そんな世の中、絶対承認しない!!!!!そんな世界いらない!!!!!絶対いらない!!!!!(私の心の底からの叫びでした。)
jtggjgjg
444:信一
03/04/02 18:51
ヴィトゲンシュタインは何故ショーペンハウアーを克服しなければならなかった
のでしょうか?現代哲学を見ても克服、克服っていったい何を克服しなければな
らないのでしょうか?要するに手前勝手なことをゴタゴタ述べているだけではな
いのか?くだらん。
445:442
03/04/02 23:11
ウィトゲンシュタインはショーペンハウアー哲学が若干の修正と明晰化が施されれば
基本的に正しいと考えたそうですが、検証する過程で、表象としての世界は認められましたが、
意志としての世界には同意できなくなったのだそうです。
端的にいえば、根拠律の限界、論理の限界である表象としての世界を超え出ている形而上学的な
問いを明晰に解いたり述べたりすることがどうしてできるのか。人間の意志作用がどうして普遍的な
意志作用へ拡大できるのか。故に第一巻から二巻への移行は妥当しえないと結論づけたのだそうです。
また第四巻のショーペンハウアー倫理についても、禁欲的な聖人が自分の隣人を愛するとすれば、彼は
必然的にある種の意志をすることに関わる事になる(隣人が苦しんでいる場合不幸を共有する)が、他方、
もし聖人が何も意志しないのであれば、彼は幸福であることはできるが道徳的模範ではありえなくなる
(何故なら彼は隣人を愛していないように見えるから)として同意していないそうです。
しかしそうしたウィトに残った世界は独我論でしかなく、謎は存在しない・・・問いを立てることができるなら
それに答えることもできるのだとし、生の問題を解決するには問題を消してしまうというようなやり方で生きる
という方法があると後退し、語り得ないものについては人は沈黙しなければならないと結論づけてしまう。
本書ではウィトはショーペを貧弱化しているに過ぎないといい私もかえってショーぺ哲学の懐の深さを感じるのですが、
しかし上記のような疑問も確かで、それは形而上学全般の欠陥だなあと思いますた。
446:信一
03/04/03 19:08
>>445
コメントどうもありがとうございました。非常に興味深い話でした。私もショ
ーペンハウアーの存在論はおおむね間違っていないとは思うのですが、そこに
は確かに語りえない飛躍というものがあると思います。この点についてショー
ペンハウアーは諸科学によって証明できると考えたようで、形而上学が科学に
よって証明できるとする非常に面白い考えを打ち出しています。
447:考える名無しさん
03/04/04 01:48
科学といえば量子力学が観測問題にぶつかった際、
各々の物理学者の解釈はそれぞれの哲学的背景が色濃く出てますね。
「シュレーディンガーの猫」がきっかけでアインシュタインの次位に一般的に
知られているであろう、波動力学のエルヴィン卿は哲学への関心も深く、
その主柱はショーペンハウアーとインド哲学だそうで。
448:信一
03/04/04 07:10
>>447
科学者と素人が持ち出すインド哲学というのは、どこかうさんくさいものが
あるように思います。
449:考える名無しさん
03/04/04 09:58
信一さんがそれほどすすめるなら、
今度、ショーペンハウアー読んでみますわ。
450:考える名無しさん
03/04/05 01:26
C・G・ユングも若き日にショーペンハウアーに傾倒したと自伝に書いてあった。
「オレにチンコがついてるんやなしに、チンコにオレがついてる。」とのたまわったのは松本人志。
ひょっとして彼はショーペンハウエリアン?
451:信一
03/04/05 11:03
>>449
こんにちは。ショーペンハウアーを読んでくださるようで有難うございます。
ショーペンハウアーの著書は哲学書としてはそんなに難しくはないと思います
がそれでもいきなり「意志と表象としての世界」を読んでもあまりよく分から
ないと思います。「意志と表象としての世界」がよく分かるためには、「根拠
率の四つの根について」と「カント哲学批判」を知らなければならないからで
す。分かりやすいところだけ拾い読みするとか、また「意志と表象としての世
界」の続編、パレルガ・ウント・パラリポメナから入ると分かりやすいかと思
います。
452:信一
03/04/05 17:11
ショーペンハウアーは、カントの12の純粋悟性概念を否定し、時間、空間と
概念と因果律をひっぱりだして、充足根拠率としたわけですが、動物でも時間
、空間と因果律を認識しているのをみれば、それは正しいのではないかと思わ
れます。
453:信一
03/04/05 18:39
時間や空間は、物質ではないのに、物質と同じもののように語る者がいる。
きちんと区別してほしい。
454:考える名無しさん
03/04/05 20:32
「パレルガ・・・」は「意志と表象・・・」の続編なんですか。哲学的エッセイ集みたいな印象だったんですが。
455:信一
03/04/05 21:30
>>454
「意志と表象としての世界」続編と「パレルガ」は別です。「意志と表象と
しての世界」は、正編と続編がありますが、続編の方がやさしいように思い
ます。
456:447
03/04/06 05:18
>>448
「哲学者」としての「科学者」と考えた場合、
近代物理の内でシュレーディンガーはかなり優秀な「哲学者」と言って問題無いと思います。
「シュレーディンガーの猫」は世間でかなり誤解を受けている思考実験でありまして
結果その考案者も誤解されているように思えてならないんですが彼がこれを例に挙げて
何を言いたかったかは常に語られていません。
っていうかSF小説をはじめとして、彼の意見と全く正反対の場合に引用されてばかりです。
まあ興味があれば調べてやってください。
あと彼とアインシュタイン等他の物理学者との手紙のやりとりを読むと
いかにショーペンハウアーな野郎かなかなか面白いです。
457:信一
03/04/07 05:41
ショーペンハウアーの「視覚と色彩」について、わたしはあまり読んでいない
のですが、ショーペンハウアーは、「根拠率の四つの根について」、「カント
哲学批判」とともに必ず読むように進めている。これはゲーテの勧めで書いた
ものだが、ゲーテはあまり気にいらなかったらしい。これはニュートンの「光
学」に対抗して書かれたものだが、ショーペンハウアー、ゲーテの方が間違っ
ている。しかしショーペンハウアーの眼目は色彩というもの及び因果律のア・
プリオリ性というものを主張しているものであり、読む価値はあると思う。
458:信一
03/04/07 08:07
ここで神について。全宇宙は時間と空間と物質からできている。神は時間でも
空間でも物質でもないのだから、どういう存在なのだか全く訳がわからない。
つまり神などいないということを主張したい訳だ。存在するとすれば、ユダヤ
教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の頭の中だけに存在するのであろう。
459:信一
03/04/08 06:10
全世界は時間と空間と物質からできている。時間と空間は物質ではないのだから
本当のところいったい何者なのだろうか?やはりカントの先験的感性論(超越論
的感性論)で論じているところの感性的直感のア・プリオリな形式(感性の形式
と理解するのが一番納得がいくのではなかろうか?
460:考える名無しさん
03/04/08 11:25
彼の思想体系は、生来持っていた父親譲りの謹厳実直な性格が、
根性悪の母親の仕打ちによって作られた…っていう見方はできませんかね?
461:信一
03/04/08 21:19
>>460
そんなことで彼が一生をかけ命をかけて勉強し思索し発見した「未来の人類のため
の思想」といわれるものができるものでしょうか?
ショーペンハウアーは、本人の性格もその著書も嫌われることが多いと思いま
すが、それは日本ではいわゆる「ペシミズム(こんなものほんとの特徴かいな)
とでる釘は打たれる」というやつ。西洋では「西洋哲学とキリスト教は何の関
係もないんだよ」としたこと。
わたしはショーペンハウアーは大好きですね。彼が悪人だった(西洋では神に
従わない人間は悪人)という説も悪口として言われることが多い。ただ一つシ
ョーペンハウアーが老婆を階段から突き落として裁判沙汰になり、その老婆に
一生金を払わなければならないと判決がでてその老婆が死んだときショーペン
ハウアーは喜んだという話がありますが、これも本当かどうか?
父の遺産を母親と妹と三等分してその後母親と妹のお金を預けていた銀行が潰
れてしまった。ショーペンハウアーは自分の財産を三等分にして母親と妹にあ
げたという話もあります。
462:考える名無しさん
03/04/09 02:40
ショーペンハウアーが銀行とトラブルを起こして裁判沙汰になった時、「哲学者だからと言って馬鹿だとは限らないということを、いずれ君らは思い知るだろう。」とタンカを切ったという話を読んだ事があるな。
463:信一
03/04/09 06:08
>>462
>>462
レスありがとうございます。
なかなか面白い話ではないでしょうか?ただこうゆう話ってほんとの
話かどうかわからないとわたしは思うんですよ。また聞きのまた聞き
のまた聞きの話なんでしょうから。そんなことはあったのでしょうが
実際におこったことが文字どおりのことだとは思わないほうがいいの
ではないでしょうか?
464:ぴかぁ~
03/04/09 06:20
こいつの書くものは、最後にひねりを加えた終結をおく
くせがある。
パレルガしかり意思と表象のーしかり。
自殺について のさいごの英雄が何たらというのを見て
意思と表象の さいごの無が何たらというのを見てあほだとわかった。
三文文学者だとはおもうが、哲学者じゃない。
第三階層にとどまっており論理性の美意識がない。
465:考える名無しさん
03/04/09 12:47
ショーペンハウアーがヘーゲルをかなり愚痴ってるのが、なんか気持ちいいのは僕
だけ?
466:信一
03/04/09 20:17
>>465
独創的な哲学者ではないが、独創的な数学者であり哲学評論家であるバートラ
ンドラッセルは、ヘーゲルの哲学は最初から最後まででたらめだと言っており
ます。
467:考える名無しさん
03/04/09 21:20
ショーぺは時代の大勢を押さえていたへーゲリアンにもアカデミーにも安易に迎合せず
ただ一人で立ち向かった孤高の探求者。そして偏見を恐れずに、世界の姿をありのまま描写してみせた。
例えば
「精神」という概念を取り上げ、それを「考え、意志を持ち、非物質的で、単純で、破壊できない存在で、
如何なる場所も占めないもの」という属性を分析してみよう。この場合、なんら明瞭なものは示されない。
何故ならこれらの概念要素は、直観によって検証され得ないからである。というのは、脳を持たないで考える
存在は、胃を持たないで消化するようなものだからである。(意志と表象としての世界 続編)
ショーぺは絶対精神であるとか非物質的な実体であるとかいう欺瞞概念と似非哲学者に対して
それを激しく糾弾し、わかり易く示した。その姿勢と表現力には脱帽する。
468:考える名無しさん
03/04/10 10:54
私は今まで人々に接するのに、沢山の間違いをおかして接してきました。
ショーペンハウアーの処世術を読むと、自分の間違いが
次々と明らかにされていくので、非常に耳が痛い。
しかしこれでともかくもこれから先に役立つ教訓を
得たと考えれば、けして無駄な事ではなかったのでしょう。
駄文スマソ。
469:考える名無しさん
03/04/10 11:23
ところで、ショーペと仏陀って、かなり近いですか?
470:考える名無しさん
03/04/10 11:26
ところで、ショーペと仏陀ってかなり近いんですか?
471:考える名無しさん
03/04/10 11:29
あれ?何これ・・・?
変な連続スマソ。リロードしても新着が表示されなかった・・・
吊ってきます。
472:考える名無しさん
03/04/10 13:02
>>468
いやいや、それでいいんじゃないの?
ショーペンハウエルってのは、人生論として読んだときにもっとも
価値があると思うよ。最近は、こういうレベル高い人生論が
書かれないし。(つーか、ショーぺとラッセルで書かれ尽くした感が
あるけど)。
473:信一
03/04/10 21:52
人間が幸福を求めるのは不幸だからでしょ。だから幸福を求めている内は不幸
なのよ。もうきっぱり幸福を求めるのは諦めなさい。幸福なんてないんだから
・・・・・・え~うっそ~わたしなんか幸せな気分になっちゃった。
これって禅ですよ。
474:考える名無しさん
03/04/10 21:57
日曜の夕方。
ショーペンの音楽が聞こえてくると、憂鬱になった。
チャンチャかスカリャかペッペッポッ
ショーペンが終わりサザエさんが始まると、明日は月曜かあ。
もう日曜は終わりか、、、と欝が重くなるンガググ
475:考える名無しさん
03/04/10 23:14
「幸福を他者のうちに求めることは不可能であり、
自己のうちに求めるのは至難である」
でしたっけ?一口に幸福といっても、様々なものがあるわけだしなあ…
一般に幸福といえば、贅沢の限りを尽くすこととか、
暖かい家族を持つこととかいわれるけど、
それは満たされれば消え、手に入れれば幻滅させられる消極的なものだ
と教えられた。
幸福なんてないとおっしゃるけど、知識や思想を深め精神的活動に没頭する…
思索して、創作する環境が与えられるというのは、幸福とは呼べないの?
>472
私は哲学を専門にやっているわけではないので、どうしても
多少、実用書的に扱ってしまう傾向があります…
そういうの抜きにしても、ショーぺは面白いですけど。
どっかに売ってないかなあ…文庫でしか読んだことない。
476:考える名無しさん
03/04/11 19:31
お願いだよ~全集重版してくれ~
URLリンク(shopping.yahoo.co.jp)
477:考える名無しさん
03/04/11 20:14
白水社から復刊されてる罠
478:考える名無しさん
03/04/11 20:24
♪デ・カン・ショー デ・カン・ショーで 半年暮ーらーすー
ヨイヨイ
後ーのー半ー年ゃ 寝てー暮ーらすー
ヨーイヨーイ デ・カン・ショー
479:考える名無しさん
03/04/11 20:24
カタログに載ってないよ~どこに売ってるの?
URLリンク(www.hakusuisha.co.jp)
480:考える名無しさん
03/04/11 20:49
481:考える名無しさん
03/04/11 21:49
>>479
わりい。
全集じゃなかった。
アマゾンで調べてみそ
482:考える名無しさん
03/04/11 22:04
無いっス、、、
URLリンク(www.amazon.co.jp)
483:考える名無しさん
03/04/12 20:22
仏教哲学は観念論が大前提、ショーペは観念論の大立者。コーラン、インド思想
中国思想も読んでいる。ギリシャ語、ラテン語、英語、フランス語に堪能。コー
ラン、旧約聖書、が嫌いで新約聖書は大好き。中国思想では老荘思想が好き。勿
論インド思想大好き。仏陀とイエスと東西の宗教的聖者を尊敬するも自分は哲学
者に専念。芸術、文学、音楽が好き。当時の自然科学の展開に興味を持っていた。
ちなみに多分ラッセルは実在論者だと思うが、東洋思想には無関心、好きな中国
思想家は孔子。ただし西洋哲学史では、西洋哲学は東洋哲学の影響を受けつつあ
ると描写している。ショーペにも小さな西洋哲学史の著書がある。
484:考える名無しさん
03/04/13 18:20
>472
>ショーペンハウエルってのは、人生論として読んだときにもっとも
>価値があると思うよ。
全くそのとおりだと思うなあ。
厭世観の極みにあり、今にも自殺を考えている人、人生を全く無意味と
考えて得る人、引きこもりの人は必ず、彼の幸福論と自殺について、を
読む事を薦める。それを読めば、君の厭世観が正気なのであって、
世間がいかに基地がいで満ち溢れているかを、繰り返し君に語りかけてくれる。
そして、無意味に生きてもよい、ことが納得できるであろう。
但し、別の面で、人間社会がくだらなく見え、世間嫌いになり、社会復帰に
手間取る事もある。
>最近は、こういうレベル高い人生論が
>書かれないし。
人生の意味を問う若者の悩みは、今も昔も
同じなのに、なぜにショウペンや、キルケゴール
やニーチェが出ないのか。哲学界の連中は恥ずかしくないか。
中島義道も少し違うようだし。
485:考える名無しさん
03/04/13 18:21
URLリンク(ip.tosp.co.jp)
486:考える名無しさん
03/04/13 18:31
それより、びかあ、君がここであげた本は多くのひとが関心を持っている
から、これから、これらの本をびかあなりに要約して紹介してみてよ。
それこそ世のため人のためになる行為だぜ? とても大変だろうが、ぜひ
おねがいします。
487:考える名無しさん
03/04/13 18:34
しまった。「読んでない本が溜まってきたよ」に書き込むはずだった。。。
488:考える名無しさん
03/04/13 23:17
>482に同意
たぶん能天気に社会に適応して生きている人々よりも、
社会に溶け込めずに色々悩んで生きている人間のほうが
優秀なんだろうね?
ていうかこういうこともどっかに書いてあった気がするな・・・
是非そういう人々にはショーぺのような優れた人生論を学んで、
余計な悩みをなくし、時間を有意義に使えるようになってもらいたいものだ。
489:考える名無しさん
03/04/14 01:22
>ショーペンハウエルってのは、人生論として読んだときにもっとも
>価値があると思うよ。
というのは全く同意なんだが
>厭世観の極みにあり、今にも自殺を考えている人、人生を全く無意味と
>考えて得る人、引きこもりの人は必ず、彼の幸福論と自殺について、を
>読む事を薦める。それを読めば、君の厭世観が正気なのであって、
>世間がいかに基地がいで満ち溢れているかを、繰り返し君に語りかけてくれる。
ってのは全く逆に思えるが。
つまり彼らにとって自らの現状は我慢の出来る程度ではなく、
「自ら死んでまで」または「人生の価値を放棄してまで」または
「他人との相互干渉を断絶してまで」打開せざるを得ないと判断してるわけで。
これって明らかに過剰なまでの「幸福状態への欲求」の現れでしかないじゃない。
こういった方々はニーチェに賛同はしてもショーペの哲学を受け入れないんじゃないの?
490:489
03/04/14 01:52
彼の哲学は「少なくともかつては幸福だった」と実感できる人にしか
受け入れられないと常々思う。
だからむしろ自らの社会的立場や実生活が世間一般の水準として悪くはない
と理解できても、幸福を実感出来ない人とか。
逆に喰うには困らない程度で生活水準は決して高いとは思わないが
生活に関わる当面のこれといった問題も特にない人とかに
ショーペンの哲学を薦めたい。
そう遠くいないつか、必ずやってくるだろう苦痛や苦悩の直中で
苦笑いを浮かべながら「こういう事なのんだよね。」と納得出来るようにするためにね。
491:あぼーん
03/04/14 01:54
,.´ / Vヽヽ
! i iノノリ)) 〉
i l l.´ヮ`ノリ <先生!こんなのがありました!
l く/_只ヽ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
URLリンク(saitama.gasuki.com)
492:考える名無しさん
03/04/14 02:02
不肖の弟子であるマインレンデルについては、芥川以降、本気で取り組んだ日本人はいるのでしょうか。イロモノなんでしょうかねえ。
493:考える名無しさん
03/04/15 10:39
>つまり彼らにとって自らの現状は我慢の出来る程度ではなく、
「自ら死んでまで」または「人生の価値を放棄してまで」または
「他人との相互干渉を断絶してまで」打開せざるを得ないと判断してるわけで。
>これって明らかに過剰なまでの「幸福状態への欲求」の現れでしかないじゃない。
ショーペの哲学は、その「幸福状態への欲求」を削いでくれるんだよ。
人間が人生や社会や未来に抱く、希望や幸福、それがいかに「消極的」で
つまらないものなのか、教えてくれる。
人生が、幻想の滅却であることを繰り返し説いている。
この世で生きるコツは、思っていたより良くない贈り物を、
喜べる、あるいは我慢できる気持ちだ。
494:考える名無しさん
03/04/16 02:58
ショーペンハウエル著
「ゴージャス松野について」
495:山崎渉
03/04/17 09:32
(^^)
496:考える名無しさん
03/04/18 18:53
意志とはなんですか?
それは証明されているんですか?
497:考える名無しさん
03/04/18 19:00
ここおすすめ
URLリンク(zoetakami.fc2web.com)
498:考える名無しさん
03/04/18 23:17
全国書房版っての、持ってる。
499:考える名無しさん
03/04/18 23:21
わりい。前に読むって約束したけど、まだ読んでない。
・・・いつか、読むね。。。
500:考える名無しさん
03/04/18 23:57
500ゲト
501:山崎渉
03/04/20 04:36
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
502:考える名無しさん
03/04/24 22:22
彼の形而上学体系において、
どうしてあのペシミズムが帰結されるのかは理解できませんが、
ともかくも、認識論とかについての意見は、明快ではっきりしているように思われ、
僕には読みやすかったです。
尤もペシミズム単独で見た場合には、うがっている面もあるとも思います。
また、「読書について」などは、読んでいて耳が痛くなる箇所が多かったです。
503:考える名無しさん
03/04/25 01:01
ショーペンがペシミズムと言う世界に対する一つの「立場」を確立したってのは
それで良いとしてだ、彼こそがペシミストの最もたる者とするならば
少なくともその後のどのペシミストと言われる方々は誰一人として
ショーペンハウアーの足下にも及ばないじゃあないか。ペシミストとして。
あまりにも違うからね彼だけ。他はみんな♀って感じなのに一人だけ♂だしw
まあそれは無いとするとつまり、当時の一般の方々だけでは無く
哲学に関わる方々にもペシミズムってのを誤解してた事になるんだけど
この方が納得できるわな。
んで未だに誤解していると。
504:考える名無しさん
03/04/25 01:02
マドンナの元夫ですか
505:考える名無しさん
03/04/26 18:36
どうも「意志」というのが問題みたいですね。
アインシュタインも「物質に意志がなければ生物が発生するはずがない」と言
っていまが私もそう思います。
「物自体を意志として認識できる」というのは、嘘のような気もするし、ほん
とのような気もする。
さらに読むべし。
506:考える名無しさん
03/04/26 20:10
以下はこれだけでは何のことか分からないでしょうが引用しておきます。
白水社、ショーペンハウアー全集 1 根拠率の四つの根について 191p
第一類 因果律、第二類 概念、第三類 時間と空間、第四類 意志
わたしの哲学一般に関する別の角度からの認識のためにここでつけ加えておき
たいことは、動機づけの法則が前の第二十節で述べられた因果律に対応してい
るように、主観に対するこの第四類の客観、すなわちわれわれ自身において
知覚される意志が第一類の客観に対応しているということである。この洞察は
わたしの全形而上学の礎石なのである。
507:考える名無しさん
03/04/27 09:44
ショーペンハウアーのカント批判でまず上げられるのは、カントの感性、悟性
理性の区別についてである。
ショウペンハウアーは、悟性と理性の区別は何の根拠もないとし、カントの悟性
と理性をひっくるめて理性とし、理性と知性は同じだとしている。これは充足
根拠率の第二類、概念のことであり人間にのみの特徴である。
かわって、カントの感性はショーペンハウアーでは悟性である。ショウペンハウ
アーはこれは勝手な区別ではなく、ギリシャ以来の伝統であるとしている。これ
はその能力に違いはあっても動物も持っているとされる。たとえば犬と人間の悟性
はその能力にほとんど違いはないとされる。
508::
03/04/27 16:04
☆^~^★ 50音順で探せて楽して得する
URLリンク(sagatoku.fc2web.com)
あなたの探し物きっとみつかるよ☆^~^★
509:考える名無しさん
03/04/28 07:08
ショーペンハウアーの「意志の哲学」はそれまでの理性の哲学からの飛翔を
果たすきっかけを作った哲学であると言える。(生の哲学)この点でショー
ペンハウアーは雑多で文学的ではちゃめちゃな現代哲学の先駆者であるとい
える。わたし自身は哲学とは「理性(知性)による人間と世界の(実体の)
解釈」であると思うのであるが。
ショーペンハウアー全集 1 根拠率の四つの根について 189p
意欲の主体は自己意識に直接あたえられるものであるがゆえに、意欲とはな
んであるかをそれ以上定義したり記述したりすることはできない。むしろ、
意欲とはわれわれのあらゆる認識のうち最も直接的なものであり、しかも、
その直接性が究極においてそのほかのあらゆる間接的な認識に光を投じるの
でなければならない。
510:考える名無しさん
03/04/29 14:58
ショーペンハウアーの「意志」とか「意志の否定」へと至る論証というのは、
そんじゃそこらの解説書や単純な批判を読んだだけでは、分かるものではない。
なぜなら、文学ではなく哲学なのだから。
ただ「意志の否定」というのは、本物の仏教徒やインド教徒やキリスト教徒の
自己否定を経て救われる、本来の自己へ至るという宗教体験を説明したものに
は他ならない。
通して本来の自己へ至るという
511:考える名無しさん
03/04/30 07:33
パレルガの中にショーペンハウアーの哲学史の著書がある。これは彼の観念論
の立場から書かれているものだが、非常に分かりやすく必読であると思う。
「観念と実在に関する学説史の素描」と「哲学史のための断章」がそれである。
512:考える名無しさん
03/04/30 13:06
哲学は古いものより新しいものの方が正しいとはくれぐれも考えないように。古い物でも新しいものでもその哲学が正しいと証明されているものなんか何もないんだから。
513:考える名無しさん
03/04/30 19:20
ウィトゲンシュタインの「語りえないことは沈黙しなければならない」と言う
有名な言葉は、釈尊の「形而上学的問題への沈黙(つまり涅槃を得ることにお
いて形而上学的問題の解決は必要ない、あるいは涅槃を得ればおのずと形而上
学的な疑問は解決がつく)」から来ているのでしょうが、
これは本来「科学的に解決がつく命題以外は無意味である」ということでしょ
う。だからあらゆる哲学は無意味となるわけでしょう。多分。
しかしウィトゲンシュタインなんて、東洋人からみたら極めて陳腐。
514:bloom
03/04/30 19:21
URLリンク(homepage.mac.com)
515:考える名無しさん
03/05/01 00:29
ショーペンハウアーは哲学、哲学史の勉強のための書物はいかにあるべきか
について、「哲学史のための断章」の中の1でこのように言っている。
ショーペンハウアー全集 10 パレルガ 哲学史のための断章 54p
これに反して、誠実で洞察力のある学者らが協力して、すべての主要な哲学
者の中から重要な箇所と基本的諸章を良心的に集められたならば、選集は大
いに哲学学習の目的にかなうであろう。それは時代順、問題別にまとめられ
るべきで、たとえば古くはゲディッケが収録しており、のちには古代哲学に
ついてリッターとプレラーが、ただし彼より詳細に集めているのなどが好例
である。つまり入念克明に編纂された大部の全般的選集である。
さて以下において私が述べる断章は少なくとも、伝統的なものつまり丸写し
ではなく、原点をみずから研究した上で生まれた思想である。
516:考える名無しさん
03/05/01 00:35
>>513
西洋東洋言ってる時点で終わってるわけだが
517:考える名無しさん
03/05/01 00:45
>>516
ウィトゲンシュタインの「語りえないことは沈黙しなければならない」
という有名な言葉は、東洋人にとっては陳腐なのだというべきでした。
518:考える名無しさん
03/05/01 00:47
>>517
どういう理由で東洋人には陳腐だと?
519:考える名無しさん
03/05/01 00:59
>>518
まあ答えとはなりませんが、「哲学において語りえない」などというこ
とは、あり得ないということです。
ショウペンハウアーの言葉から
「言葉は思惟をあまねく表現できる」
520:考える名無しさん
03/05/01 01:07
>>519
つまりショウペンハウアーの言を盲信するわけですね。
521:考える名無しさん
03/05/01 01:20
>>520
勿論そうではありません。私自身の考えです。当然間違っているかもしれません。
522:動画直リン
03/05/01 01:21
URLリンク(homepage.mac.com)
523:考える名無しさん
03/05/01 01:22
>>521
ではあなたがそう考える根拠を示してください。具体的に。
524:考える名無しさん
03/05/01 01:22
>517
だったら沈黙してればいいじゃん。
「沈黙」だの「無」だのやかましくおしゃべりしないでさ。
高級な沈黙なんだろw
こんなことじゃ、西洋人に東洋の猿はずっと沈黙していろと言われそうだな。
525:適当にレスするオッサン
03/05/01 01:32
>>524
語れそうな事はしゃべらせてくれよ。
沈黙ばっかじゃつまらんだろ。
526:考える名無しさん
03/05/01 01:34
>>524
すみませんが、レベルが低いとおもいますが。
>>523
言葉というものの本質にかかわることです。「わたしは議論したくない」
という言明は、議論していることになるわけですね。
527:がんばってねムヒ
03/05/01 01:38
>>526
人間には「量」の概念と「数」の概念があって、二つは別物という認識が必要でしょう。
「量」を表すには「大きい、小さい、多い、少ない」等、「数」を使わない方法もあります。
528:考える名無しさん
03/05/01 01:39
中村元ですら、ウィトゲンシュタインの「沈黙」に達するまでの論理的な徹底さは
仏教にはないと言って、ウィトゲンシュタインを高く評価しているのに。
いやはや…
529:考える名無しさん
03/05/01 01:47
>>526
>「わたしは議論したくない」
>という言明は、議論していることになるわけですね。
自分の肯定的なことをしゃべってる分にはそれでかまわないが、
難癖つけておいてそれはないだろ、このタコ介
530:考える名無しさん
03/05/01 01:50
訂正
>>526
>「わたしは議論したくない」
>という言明は、議論していることになるわけですね。
自分の肯定的なことをしゃべってる分にはそれでかまわないが、
難癖つけておいてそれはないだろ、このタコ助
531:考える名無しさん
03/05/01 01:53
>>528
中村元は、わたしも尊敬しているのですが、ウィトゲンシュタインの
沈黙せよ」という意味は「人間の経験による総合命題の真偽の判断」
以外の判断はは不確かなものであるから、確実でははない。という
ことからきているのではないですか。そうであれば中村元は、ウィト
ゲンシュタインの「沈黙せよ」という意味を拡大解釈していることに
なります。もっともわたしもその拡大解釈について意見しているわけ
ですが。そして言葉の不思議について語ってもいるわけですが。
532:適当にレスするオッサン
03/05/01 01:56
まあ、ウィトゲンシュタインは「この書物は乗り越えられなければならない」とも言ってるから。
「沈黙」を盲信してもだめなんじゃないの?
533:考える名無しさん
03/05/01 01:58
>>529
>>530
わたしの言ってる意味が分かってないようですね。
534:考える名無しさん
03/05/01 02:03
>>532
ウィトゲンシュタインの「自分の書物の否定」「自分の書物を乗り越
えろ」という言明自体が陳腐なのですよ。
535:考える名無しさん
03/05/01 02:07
>>531
ウィトゲンシュタインが言語の使用という展開を考えるとき、一体なにが陳腐
なの?
536:考える名無しさん
03/05/01 02:10
>わたしの言ってる意味が分かってないようですね
そういうなら分かるように書いたら
537:適当にレスするオッサン
03/05/01 02:14
>>534
陳腐といえば陳腐かもしれんが、特定のフレーズだけが思想じゃないからなー。
前期と後期でも違うし。
538:考える名無しさん
03/05/01 02:14
ウィトゲンシュタインは正当的形而上学者であって、
言語批判を反復した。陳腐さはその価値を損なうものではない。
539:適当にレスするオッサン
03/05/01 02:19
ショーペンハウアー消えちゃったな。
ウィトゲンシュタインおそるべし。
540:考える名無しさん
03/05/01 02:24
「わたしは議論したくない」という言明は、議論していることになるわけですね。
↑屁理屈、揚げ足取り
541:考える名無しさん
03/05/01 02:25
>>535
言語というのは人間にとって極めて大切なもので、とても不可思議なものでもあお
のでもあると思います。言語がなければ自分が存在しているということ
は、分からも知ることはないでしょう。つまり言語がなければ人間は
「無」です。それを簡単に「分からんことは沈黙せよなどと決め付ける
ことは軽率きわまりないということです。まあ思惟にとって分からない
などいうことはないということが、わたしの考えです。この世で言葉で
説明できないなどということはないということです。
542:考える名無しさん
03/05/01 02:27
後期ウィトゲンシュタインは、言語の本質とか言語の非本質性とか、ありきたり
の図式を完全に振切り、超越論的条件も置かない理論をつくったわけで、そうい
う展開も、単なる方向転換ではないこともわかっている。
まあ、瞑想家には関係ないといえばそうなんだろ。
543:適当にレスするオッサン
03/05/01 02:33
>>541
なかなか大胆だが、「説明できない世界」は世界じゃないだろ。
「説明できるという限界にある世界」だからこそ説明できる。
544:考える名無しさん
03/05/01 02:51
>>542
言語ゲームというのはモデルなき理論だよね。
545:考える名無しさん
03/05/01 14:46
厳密には、明晰に示すことができる命題だけが純粋に学問に足るわけで、
その線引きとしてのウィトゲンシュタインの試みは正当であると思う。
しかしそれは明晰に説明できる限界を提示しただけで、
世界の全てではないし、そのことだけでは極めて皮相な世界像しか提示できない。
我々は形而上的な要求をも持つ存在であり、その欲求こそが我々の存在を生気溢れる創造的躍動へといざなう。
形而上学が純粋に学問たるか、科学に比肩することができるか、
厳密には否であるが、しかしそれは扱う領域の異なるものであり、人が人である以上、
形而上学は不滅であるどころか、科学の発展と共に世界が囲い込まれるほどに時代の要請は
増し、形而上学の不毛とも見える試みも継続される。
神話に貶めるか神秘主義に明渡してしまうかは哲学の腕の見せ所。
ショーペンハウアーの意志説は非常に興味深い。
546:考える名無しさん
03/05/01 15:01
白装束集団の形而上学を教えて下さい。
547:考える名無しさん
03/05/01 15:03
>>545
知の欺瞞はやめてください。
板が腐ります。
548:考える名無しさん
03/05/01 15:04
ところで、ショーペンハウアーも根拠律を提示することで、
線引きはしてるんですよ。
549:考える名無しさん
03/05/01 15:09
>>545
547のいう通り!
知の欺瞞は止めなさい。
科学への反動はそれ自体で知の欺瞞だぞ。
知の欺瞞というか痴の欺瞞といった方がいいかな?
550:考える名無しさん
03/05/01 15:15
知の欺瞞は出て行け!
痴の欺瞞は便所に流してしまえ!
551:考える名無しさん
03/05/01 15:21
ソフィア短いくよ!
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
/ 丿ヽ___,.──|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/ \____/
URLリンク(bakushomondai.netfirms.com)
552:考える名無しさん
03/05/01 20:43
そりから、ヘーゲリアンの欺瞞を暴露するとこまでは
哲学の軌道修正に確実に貢献してるんですよ。
意志説についてはよくできた仮説の域をでてないというのが自分の感触だがね。
ところであんたらショーペ読んだの?
553:考える名無しさん
03/05/01 20:43
ショーペンハウアーのインド理解は当時文献が非常に少なかったため、その間
違いが現在指摘されている。しかしそれでも大きな見当はずれはなかったよう
である。
ショーペンハウアーは晩年特に仏教への関心というものが著しくかなりの翻訳
書、雑誌を読んでいる。それでパレルガでは仏教への言及がかなりある。しか
し当然であるが、それはあくまで自説を補強するという形態をとることが多い。
しかし純粋に仏教と取り組むことがなかったということではない。
白水社 全集 13 我々の真の本質は死んでも滅びないという教説によせて58p
確かに輪廻と再生は区別できよう。輪廻というのはいわゆる霊魂全体が別の肉体
に移ってゆくことだが、、再生というのは固体の解体と再建のことであり、その
場合、意志だけが持続して、新しい存在の形態をとって、新しい知性を獲得する
のである。。。。。。。。。。
スペンス・ハーディの「仏教入門」や、サンジェルマノの「ビルマ帝国」、なら
びに「アジア研究」から判明することは、仏教には死後の永続に関して、入門者
向きの教理と秘伝的な教理があることだ。前者はバラモン教と同じく、輪廻にほ
かならない。ところが後者ははるかに難解な再生の教理なのであって、しかもこ
れは、わたしの説くところ、すなわち知性は形而下的性質のものであり、この性質
によって移ろい行くけれども、意志は形而上的に存続するというわたしの教説と
いちじるしく一致している。
ショーペンハウアーは
554:考える名無しさん
03/05/03 20:38
人間を除いて、いかなる生物も自分自身の存在について驚くことはなく、そのことは全ての
生物にとっては極めて自明なことであるので、注意が払われることはないのである。
~人間だけが~死と、あらゆる存在の有限性のみならず、一切の努力の空しさと実りの無さ
とに、意識的に立ち向かう。~それ故にこの思慮とこの驚きとともに、人間だけに特有の
形而上学への要求が生じてくる。従って人間は形而上学的動物なのである。意識を持ち始めた
最初の頃には人間もまた当然、自分が何か自明なものだと理解している。しかしこのことは
ながきに渡り続かない。むしろ非常に早い時期に、反省が初めて出現すると同時に、形而上学
の母となるべき驚くという心が現れてくるのである。~哲学的省察と世界の形而上学的解釈に
最も強い衝撃を与えるものは、死の意識と、生の苦しみ及び悲惨さの考察であるということは
疑う余地がない。(意志と表象としての世界続編 第一巻の補足 第十七章より)
555:考える名無しさん
03/05/03 21:36
さて、これらの人間特有の要求を切り落とせば、確かに自明なものだけが残り、
その生も単純化され万事がうまくいく・・・果たしてそのモデルを人間が望むだろうか。
人間が形而上学的要求に到達したのは、それまでの単純な生から脱却しもはや単純な
要求では支えきれない、存在することへの不安や疑問を導き出したからである。従って、
その要求が得体の知れないまるで自明でないものであっても、いやそうであればこそ、
そうした要求に蓋をするなどということは後退にすぎない。
556:考える名無しさん
03/05/04 05:07
やはり続編のほうが読みやすいですね。ショーペンハウアーはできるだけ読みやすい
文章を書こうといつも努力していた。
関係ないが、カントに「死霊者の夢」というのがあるが、ショーペンハウアーに
も「死霊とこれに関するものについての研究」というのがある。
557:考える名無しさん
03/05/05 00:23
>>556
死霊者の夢はスエーデンボルグについて書いているが、スエーデンボルグを
最初に日本に詳しく紹介したのが鈴木大拙である。
558:考える名無しさん
03/05/05 00:25
なになに!こわいはなし??キャーー!!
559:作者
03/05/05 00:30
死霊についてなんてなかなか面白いじゃない。
560:考える名無しさん
03/05/05 00:43
スエーデンボルグは天国を見てきたと書いたのだが、死霊者の夢でカ
ントはスエーデンボルグの体験に懐疑的ではあるが、否定はしていない。
鈴木大拙はスエーデンボルグを仏教体験として捉えている。この世の
極楽を見たというわけだ。
561:考える名無しさん
03/05/05 01:24
うああああああああああああああ!!!!!
URLリンク(members.tripod.co.jp)
562:考える名無しさん
03/05/10 03:26
>>555
蓋をするのはそれこそ宗教のお仕事だよ。
蓋はしたくても普通は出来ないって断言してるじゃない彼の場合。
蓋をしたつもりになって安心してる奴に実はまだ蓋が開いてる事を知らしめる
のが生き甲斐みたいな人だよショーペンハウアーはw
563:アトリックス
03/05/10 05:17
君もシャーペン咥える?
564:考える名無しさん
03/05/10 06:59
宗教或いは類似の似非哲学による蓋が一方にある。(これをショーぺは激しく糾弾した。)
だがここで言ったのは目前の明晰化できる命題のみに特化した蓋。
哲学における形而上学的な試みはこの狭間にある。
ちなみにショーぺは超越的な形而上学など求めていない。
565:562
03/05/10 17:21
『幸福について』とか後々に書かれたものは極めて具体的でまさに
『アウトゥールおじさんの上手な蓋の仕方』といった具合ですよ確かに。
そして再三にわたって
「この蓋をしても問題解決にもなりませんが事態は随分とマシになります。」
と良心的な(受け取る人によっては最悪とも言える)注意書きをちゃんとしてる。
566:562
03/05/10 17:44
それら命題に蓋をする事は形而上学にとって、哲学全体にとっては後退ではなくとも、
間違いなく停滞ではあったわけだ。
これは私の見解ですけど形而上学は彼の時点で停滞したままじゃないかなって。
形而上学的な発展を促すには彼の閉じた蓋を開ける必要があるわけですけど
それに成功して一歩でも先に進んだ人っているんでしょうかね?
それこそ後退してる人しか私は見たことがないんですけどw
567:564
03/05/11 23:10
>>565
パレルガは人生論的に割り切った作品だからね。だから大衆受けもした。
>>566
それについては同意。まさにその先が問題。
568:562
03/05/13 03:29
話が全然変わるんですけど。
本日、たまたま思いつきで随分以前に購入してほとんど読んでなかったヒルティを
読んでびっくり。
ショーペンとヒルティの世間に対する具体的な見解はほぼ同じではないかと思うんです。
文才巧みですし皮肉も効いてるし。
にも関わらず、それに対する哲学的帰結も口調も信条も女に対する態度も全くもって正反対w
ゲラゲラ笑いながら読んでたんですが巻末のヒルティの生涯の解説を読んだら
なんだか泣けてきた・・・。
一個人としてのショーペンに言いようのない同情を感じずにはいられない。
ヒルティがショーペンに対して何らかの言葉を残しているなら是非読んでみたいと思うのですが。
何かないのでしょうか?
ヘーゲル批判についても何かあるとしか思えないんですがw
569:564
03/05/13 18:23
残念ながらヒルティは読んでないけど岩波に幸福論とかあったね。気が向いたら読んでみる。
それと君のように、それなりの業績を遺した学者を軽薄に感情で評すのは趣味じゃない。
それと文末にwを付けて煽る人間も趣味じゃない。
以上ですね。
570:562
03/05/13 20:00
>>564
妙にテンションが上がっていたので軽率な発言をした点は自重するよ。
「ほぼ同じ」だなんてのは特にいただけない。「共通した何かを感じる」位にするべきだった。
それを成した個人の人間性を問わず、業績は常に冷静に評価するよ当然。
しかし人間性については大いに感情で語るべきだと言うのが私の流儀。憎愛を込めてね。
ましてや秀逸人物の人格などは神棚に飾っておかずに、身近に置いてこねくり回すべきだと強く思うよ。
それと語尾の「w」については多々の解釈がある。
私は悪意も無ければ煽るつもりも全くない。むしろ愛情の現れといった感じです。
571:考える名無しさん
03/05/14 00:34
音楽マンセー
572:考える名無しさん
03/05/18 09:17
ギリシャ以降の形而上学はショーペンハウアーで止まっているという点について
賛成。というより完成させたというのが近いかも。カント以前の形而上学は独断
論であって、カント哲学はそれを否定した。それが現代の形而上学批判の出発点
となっている。しかし説得力はない。形而上学がなくなることはないだろうし、
ショーペンハウアーにも間違いはあろう。またショーペンハウアーが現代に生
きていたらどんなことをいうのだろうか?天才的な後継者の出現を望む。
573:山崎渉
03/05/22 01:02
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
574:考える名無しさん
03/05/27 04:19
ショーペンハウアーの「カント哲学批判」はカント哲学の最も優れた解説書
だと思う。彼はカント哲学を生涯にわたって研究している。とくに純粋理性
批判だ。実践理性批判はショーペンハウアーにとっては出鱈目なものだった
575:山崎渉
03/05/28 15:04
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎―◎ 山崎渉
576:考える名無しさん
03/05/28 23:46
保全あげ 「人は人にとって狼である」A.ショーペンハウアー
577:考える名無しさん
03/05/28 23:55
>>576
保全にageもsageも関係ないよ。
578:胡雨
03/05/28 23:59
操イ尓媽!
579:考える名無しさん
03/05/29 01:29
毒男の神
580:考える名無しさん
03/05/29 02:06
くだらんことは書くな
581:考える名無しさん
03/05/30 23:19
ラッセルの幸福論読みますた。
やさしい気持ちを取り戻せますた。
582:考える名無しさん
03/05/30 23:39
表象とは何ですか。今の言葉で言い換えて下さい。
583:考える名無しさん
03/05/31 01:49
外界に対するその個体固有の知覚情報。またはその集合イメージ。
584:考える名無しさん
03/05/31 01:56
表象には狭義に解釈する場合と広義に解釈する場合がある。広義に解釈する
と「言葉、概念」なども含む。非常に広い意味を持つ言葉である。
585:哲学少品集第389節
03/05/31 20:41
地球の表面が、まだ同じ形のひらべったい花崗岩からできていて、生命が発生
する素地もなかったときの話だが、太陽がある朝のぼった。神々の使者イーリ
ス女神がユーノーの使いで飛んできて太陽のそばをかけぬけながら、太陽に言
った。「なにを苦労して、のぼったりなさるの?だってあなたに気のつく眼も
ないし、あなたののぼるのを告げるメムノンの像もないじゃないの!」
答えはこうだった。「わしは太陽だ。太陽だから登るのだ。見られるものは
見るがよい!」
586:しょーぺのへたな詩 カントへ
03/06/01 00:16
わたしはあなたが昇天した青空まであなたを見送った。
あそこの青空にあなたは飛び去ったのだ。
わたしはひとり雑踏のなかに取り残された、
あなたの言葉を慰めとし、あなたの本を慰めとして。。。
そこでわたしは寂寞に活を入れようとした、
あなたの言葉の精神にみちあふれた響きによって。
わたしの周囲の連中はみんなわたしにはうとましい、
世は荒涼として人生は長い。
587:直リン
03/06/01 00:17
URLリンク(homepage.mac.com)
588:sage
03/06/01 00:30
>>586
訳文にしてはなかなかいい味だしてるよ。カントは偉大だな。
589:考える名無しさん
03/06/01 05:51
ドイツでは現在、カントはあまり見向きもされないそうですが、この哲学ボ
ードでは案外カントが大事にされているのが、とてもうれしいです。
590:臆面もなき詩句
03/06/01 07:25
長く抱きつづけた深い苦痛の果て
それはわたしの心からもぎ取られて踊りだした。
わたしはそれをしっかりつなぎとめようと久しく格闘してきた。
しかし結局はうまくいくという自信はあった。
きみたちが勝手にどんな態度を示めそうとも、
この作品の生命に危害を加えることはできまい。
押しとどめるぐらいはきみたちにできても、滅ぼすことは絶対にできぬのだ。
後世はわたしのために記念碑を建てるだろう。
591:考える名無しさん
03/06/01 12:13
>>590
あの孤立無援の状態でも後世の評価を信じて黙々と執筆し続けた、
ショーペンハウアーの意外な楽観主義が見てとれて、なかなか面白いではないか。
実際、老年時の往生するまでの十年間で、彼の意外な楽観主義に応えるように幸運の
女神が微笑み、突如として不動の評価を得るに至ったしね。
どこかで人生を投げやりにしていたり、執筆を諦めていたら、この結果を生む条件
は整わなかったろうし、人々はこの孤高の天才を恐らく発見できなかったろう。
592:不公平
03/06/01 18:58
誰にでも死が与えれているという点で人間は平等である。
593:哲学少品集第382
03/06/01 19:12
破廉恥、鉄面皮のシンボルとしては、蠅をとるべきだろう。なぜなら
ほかの動物はすべてなによりも人間を恐れ、遠くからでさえもう逃げ出
すのに、蠅は人間の鼻の上に止まるからである。
594:哲学少品集第382
03/06/02 05:33
592はショーペンハウアーの言葉ではなく、わたしのオリジナルのコピーです。
595:考える名無しさん
03/06/02 12:06
ショーペンハウエルがしょうべんもらした。「ハウ。えらいこっちゃ」
596:考える名無しさん
03/06/02 12:25
昔、厨房の頃、図書室の壁にショーちゃんの言葉が貼ってあった。
内容は覚えていないが、同級生の中でも特に出来の悪かった香具師が、
595と同じようなことを言って、ジョークのつもりで独りで悦に入って
いた(W
597:考える名無しさん
03/06/02 20:20
>596
そうですね。
哀れな知障がさながら迷妄なる自己をさらしているようです。
如何に明快な書を手にしても意味が理解できないというのは悲惨すぎますな。
こればかりはさすがのショウペン先生もお手上げでしょう。
598:考える名無しさん
03/06/03 04:58
まあまあ人に大した迷惑かけている訳ではないんだし、まだ子供なんでしょ。
599:ショーペンハウアー イマヌエル
03/06/03 09:34
死というのも、一つの生の形態であり、一つの存在の形態である。
600:考える名無しさん
03/06/04 14:36
よほど聡明だったのなら別だけれども、中学生に理解も何も....
601:いまぬえるしょーぺんはうあー
03/06/07 02:11
>>600
君は「ソフィーの世界」から始めなさい。「ソフィアの世界」じゃないよ。
602:考える名無しさん
03/06/07 05:04
そうですね。まぁそういうこどもじみたこともいいかもしれませんね。
603:考える名無しさん
03/06/09 22:48
マスコミの盗聴、盗撮は許されるのか?URLリンク(natto.2ch.net)
489 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/04/11(水) 17:25
一般人なのに盗聴される、じゃなくて、「一般人だから盗聴される」んじゃないのかな?
基本的にネタ集めのためにやってんなら、有名人のネタを盗むと、有名人は告発できるし、
そんなことされても当たり前だと思われるので告発しても信じてもらえる。
そうでない人は、ここの途中の書き込みにもあったように「電波」扱いされるだけ。
ただで、ネタを仕入れるんなら、一般人に限るでしょう。
マスコミは自分らの無能さを恥じてほしいです。
ちなみに私が盗聴されはじめたのは、芸能人にストーカーされ始めてからでした。
そこからマスコミに広がって行った。
だから余計「妄想」とか思われそう。
友人に話したら完全に病気扱いされた。ストーカーって言葉がない時代だったしね。
書いておいておいた小説のネタが、他人の原作でドラマ化されたときにはきれまくっ
たなあ。(一度や二度のことじゃないけど)
604:考える名無しさん
03/06/15 10:04
>>603
すごいなそのスレw
笑えない香ばしい方がイパーイおりますね。
605:考える名無しさん
03/06/15 10:14
ゴルドマンってどうよ
606:考える名無しさん
03/06/15 10:36
おい馬鹿!!こっちにこいや馬鹿!!まあすわれや馬鹿!!「関係ねえこと書くなよな馬鹿!!」
607:今日のハウエル先生
03/06/18 05:22
最大多数の人間がその一生を送るありさまを外から眺めると如何に無意味に
内容空虚にみえることか、また内から感じ取ると如何に鈍感で無自覚に感じられる
ことか、これでよくも生きていけるものだと疑わしくなるほどである。このような
一生は人生の四期(幼少年、青年、壮年、老年)を経て死に至るまでの、鬱々とした
憧れと悩みであり、くだらない一列のよしなごとを引きずっては夢を見ながら
よろめき行くことである。最大多数のひとびとは、あたかも時計が発条を巻いて
もらって、自分ではなぜだかわからぬままに動いているというのにも似ている。
一人の人間が生殖をうけ誕生してきたそのたびごとに、人生というこの時計は
あらためて発条を巻かれることになり、これまで無数回すでに奏でてきた琴の
曲を、一楽節ごとに、一拍子ごとにくだらない変奏曲などをそえて、いまいちど
最初から演奏をくりかえすというようなことになるのだといえよう。
如何なる個人も、如何なる顔つきの人間も、またその人の生涯も、終点のない
あの自然の霊の、すなわち生きようとしてかたくなに固執するあの意志のひとつの
短い夢、ひとつのはかない画像にすぎない。意志は、時間と空間という終点のない
白紙の上に、たわむれにこの画像を描きつけ、時空の無限にくらべれば消え入り
そうな小さな瞬間だけ、これに存続を許して、やがて新しいのに席を与えるために
これを抹消するのである。それにもかかわらず、じつにここに人生の重大な一面が
あるといっていいのだが、このはかない画像のどれ一つとっても、みな生きようと
する意志の全力を傾け、あらんかぎりの熱情をつくし、多くの深刻な苦痛をもって
贖われ、そしていよいよ最後に、長いあいだ恐れたあげくやっと出現してくる忌む
べき死をもって贖われるにいたることは避けるべくもない。死体を目撃すると我々
が卒然として厳粛な気持ちに襲われるのもこのためである。
A.ショーペンハウアー 意志と表象としての世界 第四巻五十八節より抜粋
608:考える名無しさん
03/06/18 08:35
エッセイの類は陳腐で退屈だったよ。
日常的な生活実感そのままで、言われるまでもないって感じ。
名文家と言われてるが、訳文では感じられなかった。
意思と表象としての世界でお薦めの訳ないですかね。
中公バックス持ってるが西尾幹二って訳下手だと思うんだよね。
余談だけど、朝までテレビで見たが西尾の顔って
ルサンチマンで人相が歪んでるよな。突然怒って奇声上げたり。
よくあれでニーチェ研究をやってるものだと思った。
609:考える名無しさん
03/06/18 09:21
>>603
陳腐で退屈なのによく読んだ!えらい!
610:考える名無しさん
03/06/18 10:15
ショーペンハウエルといえば森進一だね。
611:ショーペの詩 シストのマドンナによせて
03/06/22 17:10
彼はまだみどりご、しかし彼は驚きの眼を
彼女の戦慄の混沌たる紛糾のなかへ
彼女の狂乱のはげしい逆上のなかへ
彼女の行動の救いがたい愚かしさのなかへ
彼女の苦悩のしずめがたい痛みのなかへそそぐ。。。。。
驚きの眼。しかしそこには平静と信頼と
勝利の栄光が輝いている
すでに九歳の永遠の確信を告げながら。
612:ショーペの詩 シストのマドンナによせて
03/06/22 17:17
彼はまだみどりご、しかし彼は驚きの眼を
彼女の戦慄の混沌たる紛糾のなかへ
彼女の狂乱のはげしい逆上のなかへ
彼女の行動の救いがたい愚かしさのなかへ
彼女の苦悩のしずめがたい痛みのなかへそそぐ。。。。。
驚きの眼。しかしそこには平静と信頼と
勝利の栄光が輝いている
すでに救済の永遠の確信を告げながら。
>>611
九歳→救済
613:ショーペの詩 終曲 1856
03/06/22 19:10
疲れもはてて、わたしは終点に立っている
疲れた頭は、月桂冠にも耐えかねるくらい
しかし わたしは自分のやったことを欣然とふりかえる
ほかのやつらがなにを言おうと いつも迷わされることはなかった
614:ショーペの詩 花びん 1831
03/06/22 20:44
「ごらん、わたしたちのいのちは、ほんの数日、ほんの数時間なのよ」
あでやかな一群の花がわたしに語りかけてきた。
「でもわたしたちは驚かないの、暗い冥府がこんなに近くても。
だって、わたしたちはいつでもいるんですもの。あなたと同じに、永遠に生きるんですもの。」
615:ショーペの詩 胸声
03/06/23 05:17
ある都市全体の自殺を
セルバンテスはここに描いたのだ。
すべてがご破算になるとき、われわれに残されている唯一のことは
自然の根源的源泉に帰ること。
616:S
03/06/24 22:32
スレを一通り読んでみました。独特の表現が多く、理解するに至りませんでしたが、>>384
の引用(特に個体化の原理云々)が強く印象に残りました。自分は以下のような考えを持って
いるのですが、刺激を受けそうな感触がしたので、彼の著作を読んでみたいと思いました。
この世に生を享けた者は分別がついて以後は、なぜ自分はこのような生を授かったのかと
自問しながらも、同時に自分の係わった世界の中でその自己意志をもって生き、そのことが
生の意味付けとなり、そしてやがて死を迎えるにあたっては、自らが係わり愛した世界と子
孫に後事を託すことができる。
個体化の原理というのもまだよく解りませんが、多用されている意志という言葉も、どうも
独特の意味合いがあるようですね。とにかく読んでみます。
617:
03/06/24 22:59
デカンショ
618:考える名無しさん
03/06/29 09:19
倉庫にあったもんだけど、これ見てたら今も昔もレベル変わらんなとおもた。
ショーペンハウエルって
URLリンク(mentai.2ch.net)
619:考える名無しさん
03/06/29 14:49
>>618
1がアフォすぎる。こいつショーペを読んでないな。
>結局彼自身は解脱できたのか?
>つまり意志を完全に否定することはできたのだろうか? ・・・だってよ
620:考える名無しさん
03/06/29 15:23
厭世観って結構好きだな
621:考える名無しさん
03/06/29 15:49
うんこを哲学的に考えると,どうとらえられるか!
この問いを一生問い続けるのです!
622:考える名無しさん
03/06/29 15:52
>>621
食べればわかる
623:S
03/06/30 21:12
とりあえず世界の名著で一通り目を通してみました。で、幾つか気になる点がありました。
世界が表象であり、同時に意志である。これなんですが、意志と命名された存在の本質部
が自己において実感できるのは(可能性として)いいとしても、これを世界一般、あらゆる
現象にまで拡大できる根拠がないように思いました。彼の理屈に則れば、その拡大視はどこまで
行っても表象に過ぎないのではないかと思います。宇宙の諸現象の変遷や生物進化の歴史に
ついての連続性を仮定すれば、その連続性に介在する何かこそ意志そのものだ、と言えなくも
ないかもしれませんが、如何せん物語の域を出ないと思います。
個体化の原理を見極めることによってのみ、迷妄な自己から脱却して他者を愛し善を為すこと
ができる。このような趣旨についてですが、個体化の原理を完全に脱却するというのは置いて
おくとして、この倫理観はとても共感します。>>384のように極端にその倫理観を高めること
は無理があるとしても、殺伐とした個人主義社会が進行する現在においては、十分考慮に
値する大切な倫理観だと思いました。
意志の滅却による無への帰入について。個体化の原理の看破と克服、それはわかるのですが、
なぜ意志の廃棄に飛躍してしまうのか。我々が個体化の原理に縛られながら、それを克服
しようとする無限なる試みの中にのみ主体性が見出せるのに、それすら無意味として意志
そのものを滅却したら元も子もないのではないか。もしそれが単なる否定による無を目指す
ものでなく、個体化の原理を究極的に克服する試みの結果として、我々が記号として言う
ところの無、その知り得ない実体、或いは涅槃の境地を見出したのであるなら、それは理解
できます。あと、単純に、お仕着せの世界を取っ払って無に帰せば万事も無しというのは
理解します。理解しますが、苦い結末ですね。
ところで無についてですが、彼の説によるどこまで行っても意志である我々が、それを無に帰
することなどできるのか。否定する意志も意志であり、単にその否定する意志すら途切れた
だけなら、ごく普通に死を迎える者の意志が途切れるのと、どこが違うのか。それは思いこみ
に過ぎないように見えます。
624:考える名無しさん
03/06/30 21:24
物語でも構わないんじゃないか?現代は生きていることに「物語性」が乏しくなっちゃってるんだし
それは共同体が崩壊したという事から来るのかも知れないんだがね。
625:S
03/06/30 22:11
形而上の物語の是非については、
それが人間の豊かな特性の証として、自分は認める者です。
>>554などの引用はとてもよくわかります。
そうは言いながら、その曖昧さを信じることが出来ない自分もいます。
626:考える名無しさん
03/06/30 22:20
ショーペが意志の滅却ができたとは到底思えないんだが、そこらへんは体系らしき
ものを構築する上で必要だったのだろうな、位に考えますがね・・・
627:S
03/06/30 22:36
彼はあくまで哲学者の立場を貫くと前置きしてますから、
彼自身は実践してはいないのでしょう。
終わることのない意志から来る欠乏苦からもしも根本的に脱却する方法があるなら、
それは根源である意志の滅却以外には有り得ないという結論に至った。
それが可能かは疑問ですが、恐らく唯一の根本的な解決方法だとは思います。
ただし、これまでの自分の生の有り様をすべて無に帰す苦い結末でもあります。
628:S
03/07/01 00:33
>>616で書いた自分の考えに影響があったのは、やはり個体化の原理の看破と克服です。
勿論我々が世界の中で個体化の原理に規定された生という形態で存在する以上は、
そこから来る互いの誤謬や悪というものを根本から払拭することはできません。
ですが、それを意識するだけで、他者や世界に対する認識は大きく転換し、
認識レベルにおいては境界を限りなく無効化することができるのではないでしょうか。
>終わることのない意志から来る欠乏苦からもしも根本的に脱却する方法があるなら、
>それは根源である意志の滅却以外には有り得ないという結論に至った。
>それが可能かは疑問ですが、恐らく唯一の根本的な解決方法だとは思います。
しかしその者は既に世界も自己も失い、例えその滅却が成就したとて無に没入する
のみである。それに対して自己の係わった世界の中で、自らが係わり愛した世界と
子孫に後事を託すことができる認識に至れば、その者は何も失うものはない。
それは彼のいう個体化の原理を看破すればより一層明瞭となるのでしょう。
だからといってそれが唯一根本的な脱却である以上、個人が意志の滅却を望むことを
否定することはできない。そこが難しいところです。
629:考える名無しさん
03/07/01 09:17
あんたは自殺についてを読みなさい。
自己の個性を失う事が何故そんなに苦い結末になるのか
自分に執着しすぎだよ。
630:S
03/07/01 22:39
生を肯定しようが否定しようがそれは表裏の形式であって、どこまでも意志であり、固執に
は違いがない。ショーペンハウアーは単純な自殺を生きんとする意志が自己自身と矛盾撞着
する号泣の表現として「マーヤーの傑作」と評し、それとは別に、意志の滅却については特別
視している。ボクから見れば、その意志の滅却こそは、個体化の原理に囚われるあまりに、
その過剰な反動として全てを否定してしまう、言わば「マーヤーの最高傑作」に見えます。
個体化の原理を看破したなら(この時点で認識レベルで彼我の境界を超え)その認識から
世界に係っていくことで、個体化の原理を主体的に克服する可能性が生まれる。けれど、
それすら無意味として個人が無に没入しても、世界は依然として個体化の原理に包まれ、
彼のみが勝手に諦観し、全否定によって世界とも自己とも切り放たれてしまう。
個体化の原理の看破によって彼は全体の世界相を愛するに至ったのに、彼のみが無へと
脱却して、果たして彼は何を得るのか、世界を愛していたのか。否。もはや何も無いのです。
だからそれは一つの選択ではあるけれど、苦い結末なのだ、と書きました。
631:考える名無しさん
03/07/02 14:31
以前、ヒルティとショーペンハウアーの共似性について書いた者ですが
ヒルティの「幸福論」をだらだらと読み終えました。
まずこの世界に対する認識って点でやはりこの二人は同じような見解に達してると感じます。
でこれに対して人がどういった態度で接するべきか?って点で
ヒルティはショーペン的な意志の否定、ないしは意志の滅却といった態度が極めて
有効だと指摘してる点に少し驚いた。(ストア的、ストア哲学的という表現で言ってますが)
でここからが彼の本題なんですが彼はこの「意志の否定」が如何に実践困難かという点を解説し、
加えてその反作用として厭世的にならざるをえない事と利己主義に陥る危険性を指摘してます。
ヒルティはこの上でキリスト教の有効性を解説するわけです。
詳細は書きませんがつまり要約すれば「個体化の原理の主体的な看破」をなすのではなく、
自らの主体を外におき(つまり「主」の元へ)それを継続的に実践することで経験的に
個体化の原理を看破するといった方法論です。
なかなか面白いので気が向いたら読んでみてください。
632:考える名無しさん
03/07/02 16:55
ヒルティはショーペンハウアーの足下にも及ばなかったということ
633:考える名無しさん
03/07/03 07:38
仏教では自分に執着するのは我執と言って改めなければならない事となってるんですが、
ショーペンハウエルの"無"というものは我執を越えた部分にあるような気がするんですが、
これも"苦い結末"なのでしょうか?
Sさんにとっては苦いかも知れませんが自分にとっては至極自然な事に感じるのですが。
634:S
03/07/03 21:25
>>631
神に主体を預ける方法は、共通の信仰心に目覚めたひとの間では有効だと思いますが、宗教対立に
おいては個体化の原理がより集束された形で牙を剥くように思います。それぞれの信仰する神に
代弁させることは、個体化の原理を真に看破したとも克服する方向に進むとも思えないのです。
あと、信仰心の無い(ボクのような)者に効果を期待できないように思います。
世界苦を前提とした共通性はあるものの、ストア的な処世とショーペンハウアーの言う意志の滅却は
全く異質なものと考えます。
>加えてその反作用として厭世的にならざるをえない事と利己主義に陥る危険性
これは読んでみないと解らないみたいですね。でもヒルティさんはキリスト教の教説を延々並べて
いらっしゃるのでボクはどうも苦手なんです。(書店で挫折しました。)
>>633
「苦い結末」というのはボクの主観的な評価ですから、違和感があればそれを除いて読んでみてください。
>個体化の原理を看破したなら(この時点で認識レベルで彼我の境界を超え)その認識から
>世界に係っていくことで、個体化の原理を主体的に克服する可能性が生まれる。
と書きましたが、この内容自体が自家撞着した矛盾をはらんでいるので、実はボクとしても納得している
わけではないです。思案しています。
635:ちよ
03/07/03 21:28
はろ~♪
URLリンク(kotarou.free-city.net)
636:631
03/07/04 01:34
>>634
当然そういった宗教対立の危険性があるわけでこの危険性といったら
利己主義に陥る危険性なんかとは比べものにならんほど傍迷惑なわけでね。
無論その点についても彼は語ってますが、個人的にはどうかなぁ?と。
あとストア的処世についてですが少し書き方が悪かったです。
ヒルティが作中で再三語っている『ストア的な云々』に対する解説が
一般的にストア的と言われるものよりもむしろ、ショーペンのソレに似てるって事です。
637:S
03/07/04 04:49
>>636
う~ん、世界中で頻発している宗教紛争を考えるとボクはゲンナリするのです。
ショーペンハウエルとの共似性については読まないと解らないですね。
638:S
03/07/04 04:50
意志の滅却による無への没入は可能なのだろうか。
関連した幾つか疑問をまとめてみました。以降のレスで考えていきたいです。
1 意志を否定することを意志しなければ意志の滅却すら試みられないのではないか。
2 意志を否定することにより禁欲的な苦行から肉体的な機能不全をきたすことと
一般の老衰死、餓死とはどこが違うのだろうか。
3 単に否定する意志が存在世界の境界を越えて無の世界は没入できる根拠はあるのか。
存在世界の森羅万象の循環とどこが違うのだろうか。
4 個体化の原理に縛られながら空であるとか固執を克服したなどという場合は、それ自体
が矛盾していないだろうか。
5 生の形態から発生する苦の支配から脱却できたとして、今度は無の支配下に移行するだけ
ではないのか。
6 個人が無に脱却したとして生の世界では個体化の原理は残る。これは本質的な解決となる
のか。覚者だけが到達し得る故に仕方のないことなのか。
7 そもそも生の形態は如何なる苦に覆われているのか。
639:考える名無しさん
03/07/04 11:17
/∵ ▼ \
/∴ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
, |∴ / \ |、 /
|`─-( / )-( \)l | < ショーベンしまっせ?
| [ , っ l | \
`-, 'ヽ、_ソ }' \_______
ノ ヽ、 `' ノ、
/ ゝ ─ ' ヽ
/ ,ィ -っ、 ヽ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i
| /  ̄ | |
ヽ、__ノ ノ ノ
| x 9 /
| ヽ、_ _,ノ 彡イ
| (U) |
640:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/04 23:29
>>638 Sさん(1)
>1 意志を否定することを意志しなければ意志の滅却すら試みられないのではないか。
認識する主体と認識される客体との同一化、たとえば、不適切かもしれませんが、
自然と戯れているときなどに自然に涙が溢れてくるような体験ってありませんか?
絵画や音楽を鑑賞しているときにその対象の中に溶け込んでしまうようなことは?
遊んでる子供が車道に飛び出してあっ!と感じた瞬間その子になっていませんか?
これらの現象の特徴(共通性)は、個別的な意思の消失にあると思うのです。
いいかえるなら、個別的な意思の認識(個体化の原理)からの脱却といえるのでは。
ただ注意しないといけないのは、個別的な意思の消失が長時間、あるいは長期に
わたる時、生きようとする意思をも消失してしまうのではないかという可能性です。
なぜなら、個別的な意思の認識に基盤をもつ個体化の原理に反する行為だからです。
たとえば、瞑想のやりすぎなどで心身の活動力が著しく低下することがありますが、
これは意思によって意思を否定しているわけではなく、個別的な意思の活動が極端
に沈静化することの結果として、自然に生から退いていく、あるいは生の肯定的な
諸相がイヤになるといった感じです。もしも表象の世界が意志の客体化された存在
だとするなら、個別的な意思の消失はそのまま世界の消失になりますから、そんな
状態をなんと名付けるかとなると、無としか表現できないということになるのだと。
ちなみに自殺は意思による行為ですから、生きようとする意思の消失とは違います。
641:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/04 23:29
>>638 Sさん(2)
>2 意志を否定することにより禁欲的な苦行から肉体的な機能不全をきたすことと
> 一般の老衰死、餓死とはどこが違うのだろうか。
1参照。
>3 単に否定する意志が存在世界の境界を越えて無の世界は没入できる根拠はあるのか。
> 存在世界の森羅万象の循環とどこが違うのだろうか。
ショーペンハウアーのいう「無」の世界なら、脳内麻薬のレベルじゃないのかな。
(意識の拡大)、科学的な検証も可能だと思います。(5参照)
森羅万象の循環は、生物なら、分離、差異化、個別化、多様化と、自己組織化による
反エントロピーの活動による生命維持、およびその連鎖という循環を目的にしているので、
その循環から抜け出す(無になる)ことを考えていないところが違うのではないでしょうか。
>4 個体化の原理に縛られながら空であるとか固執を克服したなどという場合は、それ自体
> が矛盾していないだろうか。
肉体をもち、精神(言語)を駆使しているのですから厳密には矛盾してると思います。
でも、それは仕方ないのでは・・・100%でないからウソということでもないと思う。
主客の同一化状態を(上述1の例のような瞬時の出来事ではなく)ある程度自由にコントロール
することが可能なら、克服したと言わせてあげましょう。(笑)
642:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/04 23:30
>>638 Sさん(3)
>5 生の形態から発生する苦の支配から脱却できたとして、今度は無の支配下に移行するだけ
> ではないのか。
そう思います。無といってもモノ自体としての意思との同一化のことを「無」と呼ぶしかない、
といってるだけですから。モノ自体としての意思という「存在原理」を否定してはいないのです。
だから、ここから「あの世」とか「輪廻」とか「神」とかいう概念が入り込んでしまうのです。
それを信じてしまう人にとっては、さらにその「無」からも「サヨウナラ」することこそが、
真の「無」あるいは「悟り」になるのではないでしょうか。
>6 個人が無に脱却したとして生の世界では個体化の原理は残る。これは本質的な解決となる
> のか。覚者だけが到達し得る故に仕方のないことなのか。
まだ、わたしは悟ってないからわからないけど(笑)、4と同じ感想です。
>7 そもそも生の形態は如何なる苦に覆われているのか。
あらゆる現象は、モノ自体としての意思の断片にすぎない。
それぞれの断片は、それ自身の存在仕方にしたがい「実在」しようと努力を続ける。(永遠回帰?)
しかし「なぜ」ということについては、何も知ることはできない。
なぜなら、意思それ自体は、あらゆる現象を生成する根源なのだから、無制約的で非依存的、
つまり、絶対なのだから・・・とするなら、
実在し続けることの根拠をもたずに永遠に循環(努力)しなければならないことを「苦」である、
としたのではないでしょうか。
その苦を回避する方法として「神との合一」「悟り」「イデアの認識」・・・を説いたのでは。
643:S
03/07/05 21:53
>>カオルさん
簡潔明瞭な解説ありがとうございます。まさかの展開に驚愕し、感謝しています。
ボクなりにひとつひとつゆっくり考えてみます。
>1 意志を否定することを意志しなければ意志の滅却すら試みられないのではないか。
ショーペンハウアー(以下SH)は聖人が個体化の原理を看破しその認識が高度に明瞭な
段階に達すると、生きんとする意志に対する嫌悪、悲惨と認識されたこの世界の核心と本質
に対する嫌悪、彼自身という現象を通した本質そのものへの嫌悪が発生すると言っています。
そして聖人の意志が向きを変え、現象のうちに反映している自分自身の意志をもはや肯定せず、
意志を否定するに至り、最後に意志は廃棄され認識だけが残ると。
ボクが思うに、どこまで行っても意志である我々の本質から言って、生きんとするか認識転換
によって方向修正するか、いずれにしても形式的な方向付けに過ぎない。そして本質たる意志
は常に我々に介在する訳です。
644:S
03/07/05 21:55
>>カオルさん (つづき)
認識する主体と認識される客体との同一化が個別的な意思の認識(個体化の原理)からの脱却に
あたるとカオルさんは指摘しました。ボクは一にして根源たる意志が、個体化の原理を超えて
共鳴することと解釈しました。偶発的な体験は継続しませんのこれは未だ意志の方向転換には
至っていない段階に思います。等しき生の形態に属しながら、悟った感を述べてしまう似非
覚者は、程度の差はあってもこれの類でしょう。(自己制御しているというのも限定された胡散
なレベルです。)このような者が世界の消失まで到達するとは思えません。では仮に根源に
して一なる意志そのものに個体化された自己が還元されるとして、表象世界が消失して、
それで何が変わるか。個体化の原理は克服しても、終わることの無い盲目の意志そのものは
何も変わりません。苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。それができて初めて
苦からの脱却も可能と思います。但しどこまでも意志である我々が意志そのものを廃棄するな
どというのは矛盾撞着しています。我々にできることはせいぜい+を-に転換することぐらい
ではと思います。SHがどのような無を想定していたかは判然としませんが、ボクはそう考え
ています。意志の廃棄ができるならボクは知りたい。宜しければ、指摘、批判お願いします。
645:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/05 23:59
>Sさん
即レスだと内容に自信が持てないので明日にでもレスします。
646:一塊のROM
03/07/06 03:39
>>どこまで行っても意志である我々の本質から言って、
どんな根拠があってこう言いきれるんでしょうか?
>>表象世界が消失して、
>>それで何が変わるか。個体化の原理は克服しても、終わることの無い盲目の意志そのものは
>>何も変わりません。苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
あなたは自分の結論を決りごとのように言われるが、あなたの意見は憶測や仮定の域の中にあって
しかも自分の行動範囲以内の思考でしかものを考えていないように思われます。
もう少しまとめてから書き込んで頂けるほうが有難いのですが。
647:S
03/07/06 05:23
>>646
SHの形而上説に則る形で考察しています。
意志の廃棄についてはSHの形而上説の中で最終的な実践行為を示したもので、
ここを限定的に取り出していますので、とりあえず前提となるSHの見解を踏まえた上で、
考察を進めています。これを叩き台にして何かが見出せればな、と思っています。
ところでSHの形而上説については、断片的な引用が>>407-413にありました。
648:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 00:03
>>643 Sさん
うぁー、もうこんな時間。レス明日でもいいかしら?
たぶんレスするのは↓(予告)あたりだと思います。いい加減でごめんなさい。
>意志を否定するに至り、
否定というとらえ方をするとパラドックスになってしまうので、
>>640の三段目で、あえて瞑想の例を取り上げてみたんですけど、だめ?
・・・これは意思によって意思を否定しているわけではなく・・・
>そして本質たる意志は常に我々に介在する訳です。
>>642の6の説明では、だめ?
・・・「存在原理」・・・
>終わることの無い盲目の意志そのものは 何も変わりません。
>苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
これも、>>642の6かな。
じつは、故意に「無」と「存在原理」を同居させてたりして・・・。
>意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。
これも、>>642の6かな。
・・・さらにその「無」からも「サヨウナラ」すること・・・
(大きく解釈にズレがあるのならご指摘ください。調整してレスします)
649:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 00:05
642の6 ----> 642の5でした。
650:S
03/07/07 05:38
>>カオルさん
ご多忙のところ迷惑かけます。カオルさんのこれまでのレスにずれは感じません。
そして、無を追求することが如何に非常識かつ論理を超えたものであるのかも理解しています。
それでもレスください。無駄なら徹底的に否定してみてください。お願いします。
290 :S :03/07/07 01:41
>悟って『存在=苦』としている認識を超えてせめて今生において死ぬまでを『楽』に生きたい。
これは自然と意識同化するなど全一的な達観に到達することでは駄目なの?
>そして出来るならば輪廻の輪から脱し、完全に『無』へと消え去りたい。
『無』かどうかは別にして、これは存在世界の境界を超えることですよね。
ボクも別スレで思慮していますが、何をどうしたら境界を超えられるかなんて
やはり見当もつかないです。でも、貴方はどうしても超えたい?
291 :ハルカ ◆0tZOcyVq86 :03/07/07 01:50
>これは自然と意識同化するなど全一的な達観に到達することでは駄目なの?
全一的達観って… 本当の『全一的達観』なら可能でしょうがね。
でも此処で話している方々のように『(現世を是とする大前提の元の)達観』では無理でしょう。
>『無』かどうかは別にして、これは存在世界の境界を超えることですよね。
>ボクも別スレで思慮していますが、何をどうしたら境界を超えられるかなんて
>やはり見当もつかないです。でも、貴方はどうしても超えたい?
方法論は私も手探りですよ。『コレだ』なんてものは在りませんし(苦笑)
ただ、やはり…輪廻して『この苦が永遠に繰り返される』なら『存在から非存在への境界を超えたい』ですね。
651:考える名無しさん
03/07/07 09:42
やっとショーペンハウアー全集を買いました。
10800円でした。
652:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 23:43
>>643 Sさん
>意志を否定するに至り、
「意志よる意志の否定」というニュアンスではなく、
「自然にそうなる」的な記述は(世界の名著に)あったように記憶しています。
SHは、美的観照には個別的な意志を沈静化する作用があるといっています。
わたしは、このような現象の特徴は、個別的な意思の消失 = 主客の同一化、
にあると思うので、誰でも経験可能な例として、>>640の一段目を書きました。
Sさん以外のROMの方とかにもとっつきやすくなるのかな、と思ったもので。
>そして本質たる意志は常に我々に介在する訳です。
「存在原理」としての意志それ自体が「無」になるのではなくて、
モノ自体としての意志の断片である「わたし」の「世界」が「なくなる」事態を、
わたしが言語によって表現しようとすると「無」と呼称するしかないということでは。
653:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 23:44
>>644 Sさん
>終わることの無い盲目の意志そのものは 何も変わりません。
>苦は解消されないのです。そしてこれが無であるとも思えません。
盲目の意志そのものを「苦」という概念で規定できるのは「わたし」しかいませんが、
盲目の意志そのものは「わたし」や「わたしの概念」をも含めたあらゆる現象を生成する根源なのだから、
盲目の意志そのものは、誰にも何ものによっても規定され得ないし規定することもできない、となります。
でも、ここは微妙かつ重要なところかもしれません。(↓参照)
>意志の廃棄とは文字通りのもので、それが無への通路となると考えます。
モノ自体としての意志と同一化した状態では「わたし」という個別的な意志は機能しないでしょう。
そのとき「わたし」は「非意識」としての「無」を体験しているのではないでしょうか。
しかし、この「無」は、Sさんにとっては「無」ではないのでしょう。
なぜなら、モノ自体としての意志「存在原理」が消失したわけではないのですから。
Sさんのいう「無」とは、ふたたび「わたし」を取り戻した「わたし」が、
モノ自体としての意志、あるいはその存在原理から推測される永遠の存在循環から抜け出す、
という「観念」を指しているのですか。(見解を一致させてから前に進みたいので)
654:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/07 23:45
>>650
えーと、わたしにどうしろと・・・?
いきなり結論を問われても・・・ゆっくり一緒に考えていきませんか。(^.^)
655:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/08 00:05
>>652
「意志よる意志の否定」 ---> 「意志による意志の否定」でした。
656:S
03/07/08 22:29
>>カオルさん
>>652
美的観照による意志の沈静については「意志と表象としての世界」第三巻で記述されて
います。そして、如何に観照に浸ろうと、その当の者が客観化された不断の苦悩のなかに
あり続ける意志そのものである以上、永久の解脱とはなり得ず、ただほんの束の間の生から
の開放に過ぎない、とあります。生の形式が変わらないのであるから、これは当然でしょう。
>>643で書いた意志の否定については、同掲書第四巻にてはっきりと記述されています。
(最後の「認識だけが残った」は生の世界の側の観測でしたので余計でした。)意志がなく
なるということは同時に意志の現象全体がなくなり、現象の一般形式である時間と空間もなく
なり、現象の根本形式である主観と客観もなくなる。意志がなければ表象もないし世界もない、
とあります。
これは主客の同一化による全一的な移行ではなく、そのものの廃棄、強いて言えば絶対無へ
の移行と考えます。このふたつのケースについて、どちらも考慮すべきとは思います。が、
>>650で転記した確認事項ゆえに、前者では説得力を持たないです。
>>653
内容はすべて同意、確認事項についてはその通りです。
意志が終わることがない盲目的な物自体であり、生の形態で現象するにあたりその本質
が反映され、意志から涌き出る個体化現象の永劫循環が尽きないこと。人間という意志の
高度の客観化段階においては、個体化された意志を通してそのことが認識され得るので、
意志への還元では「苦」の解消に繋がらないことをも認識しています。ゆえにその認識に
達した者は循環を脱した「無」を求めます。
657:S
03/07/08 22:35
>>654
はい。。。
658:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 00:29
>>656 Sさん
>生の形式が変わらないのであるから、これは当然でしょう。
「美的観照による意志の沈静」をどうとらえるかは重要だと思うのです。
もっとすすめて「純粋な認識主観によるイデアの観照」でもいいのですが、
ともかく、認識するものとされるものとの同一化現象は、通常「苦」ではないと思うのです。
むしろ、至高体験とされているのではないでしょうか。
つまり、苦と感じるのも、あるいは観念するのも「(個体化原理としての)わたし」です。
生を「苦しい」と感じるのを止めることはできないかもしれないけれど、
生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできるのではないでしょうか。
そこで思うのですが、もし「純粋な認識主観によるイデアの観照」が生の形式の一形態でしか
ないのだとすると、意志の廃棄による絶対無への移行とはいったいどのようなことをいうのか、
ということになります。
意志の廃棄によって「意志の現象全体がなくなり、現象の一般形式である時間と空間もなくなり、
現象の根本形式である主観と客観もなくなる。意志がなければ表象もないし世界もない。」
というのは、ふつうに「死」によって連想される事態とはどこがちがうのでしょうか。
もしちがいが見出せないなら、「わたし」という概念の死、意識の死は「自殺」ですみます。
しかし、SHは自殺は意志行為であるとして「無」への移行手段としては退けているのです。
そして、自殺を退けられる根拠として、モノ自体としての意志の存在を説いているわけです。
Sさんのこの辺りの解釈をお聞かせください。
659:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 00:31
>前者では説得力を持たないです。
えーと、わたしがあなたにレスした動機には、ハルカさんの説得は含まれてなかったです。
あなたが、そのために苦慮しているのはわかるのですが・・・不謹慎かもしれないけれど、
わたしは、純粋にハルカさんの問いに興味を抱いた、その問いに真剣に取り組もうとされ
ているあなたと一緒に考えてみたかったというのが本音です。
660:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 00:45
「現象してくるものとしての表象の世界は、意志が客体化したものである」
については、たとえば「わたし」と客体化された「ワタシ」との関係性は、
経験に依って発見された偶然の関係性である、と反論することが可能です。
ショーペンハウアーは、目に見える形で現象してくるもの、
たとえば、身体の諸部分には、意志が表明されているといっていて、
歯は食欲、生殖器は性欲・・・あげくにクレッチマーのタイプ論みたいな説、
つまり、人間一般の意志の類型としての体型と性格の一致にまで言及しています。
しかし、たとえそれらの因果的な関係性が事実(=強い蓋然性の認知)だとしても、
それらは経験に依って把握(観念)された関係性(理解の習慣)なのではないかと、
ヒューム的に反論することも可能です。ウィトゲンシュタインにいわせるなら、
「因果的連鎖は、論理的連鎖ではない」ということになるのでしょうか。
ついでにいうと、上述に照らすなら、
わたしの「身体」は「客体化された意志」である、というところから導かれる可能性、
つまり、モノ自体としての意志を認識することの可能性が否定されることになります。
いいかえるなら、「わたし」をもった人間だけが特別な存在ではないよ、ということかな。
661:S
03/07/09 06:46
>>カオルさん
>>658
「美的観照による意志の沈静」または「純粋な認識主観によるイデアの観照」について
その観照を為している間も、生の形式は変わらないわけですよね。端的にいえば、純粋直観
だろうが、芸術による再現に浸ろうが、一種の忘却に過ぎないわけです。主客の一致といっても
それは厳密な一致ではない。(一致というよりもイデアを純粋に見てとって錯覚しているだけ。)
しかも限定的な条件で体験できることで、それは永続しない。したとすれば、生の形式の保持が
困難となり、生がぶつ切りになった段階でその忘却も意志の永劫循環のもとへ引き戻されること
になります。ですから、
生を「苦しい」と感じるのを止める(忘却する)ことはできるかもしれないけれど、
生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできないのではないでしょうか。
「意志の廃棄による絶対無への移行」とはいったいどのようなことをいうのか
繰り返しになりますが意志の廃棄とは文字通りのもので、存在を支えるあらゆる条件を排除
した非存在への移行です。けれどもそれは、ただ存在形式から類推しただけの実態のない空文です。
で、単なる自殺と(主観的な思いこみや経緯の違いの他は)どう違うか、循環を超えて無に到達
する根拠が何か、それがまるで見えません。>>638の1~3のような疑問で頭を抱えてしまいます。
SHは>>226の引用のように無への移行を繰り返し強弁していますが、実践できる根拠が見えない
です。解釈というより、理解不能な状態です。
>>660
SHの形而上説自体の検証はややこしいことになる(意志の廃棄の議論が成立しなくなる)ので、
これまで避けていました。ざっと目を通した限りにおいては、意志や意志の客観化についての明確な
論証は見当たりませんでしたし、頭痛いです。ちょっと考えさせてください。
662:S
03/07/09 07:01
>>659
一緒に考えてくださって感謝しています。それだけで感謝感謝です。
SHを題材にしておきながら何なのですが、物自体、イデア、意志というキーワードで
議論を進めることにも戸惑っています。何故ならその設定内では一般性を持ち得ない
気がしてならないからです。
663:考える名無しさん
03/07/09 08:43
あんたの考えも一般性を持ってないように思えるのですがね
664:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:31
>>661 Sさん(1)
>生を「苦しい」と感じるのを止める(忘却する)ことはできるかもしれないけれど、
>生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできないのではないでしょうか。
>>643
『ショーペンハウアー(以下SH)は聖人が個体化の原理を看破しその認識が高度に明瞭な
段階に達すると、生きんとする意志に対する嫌悪、悲惨と認識されたこの世界の核心と本質
に対する嫌悪、彼自身という現象を通した本質そのものへの嫌悪が発生すると言っています。』
「嫌悪」の対象には二つの可能性があると思います。
(a)現象化された表象の世界にたいするもの。(自己の意識、身体)
(b)意志それ自体にたいするもの。(意識の生成、循環)
「嫌悪」それ自体にも二つの可能性があると思います。
(c)個体にも可能な認識の形式(個体化の原理)にしたがってなされた概念にたいするもの。
(d)認識(思考)とはべつ?の情念的なもの。
わたしは(b)の「意志それ自体の対象化」に懐疑的なのです。>>653
なぜなら、一見「嫌悪」が(b)にたいしてなされていると思われていても、
意志それ自体は「存在原理」なのだから、対象化して「嫌悪」できるような実体ではない、
と思うからです。「意識」と「意志それ自体」との関係性まではいえるかもしれませんが。
また、わたしが『生を「苦しい」と感じるのを止めることはできないかもしれない。』
といったのは、(d)のことです。
『生が「苦」であるという「概念」をどうにかすることはできるのではないでしょうか。』
といったのは、(c)のことです。
665:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:32
>>661 Sさん(2)
>その観照を為している間も、生の形式は変わらないわけですよね。
身体が、物理的に存在し生物学的にも機能している、という自然科学的な次元にこだわるのなら、
「無」へ移行するには、身体の「死」が不可欠になってしまいます。
ある意味、哲学的には正しい態度だと思いますけど・・・死そのものを誰も知らないのですから。
でも、SHは「死」ということでいうなら、むしろ精神の「死」を「無」への鍵と考えていたの
ではないでしょうか。
SHの使用する「意志の否定」という表現も含めて、この辺は{今日のショーぺ先生Rさん}の
>>223-230の記述にほとんど書かれているように思います。
『ただ否定という形としてしか表現し得ないことがらに関して、なにがしかの肯定的な
認識を手に入れたいとあくまで固執するなら、我々としては意志の完全な否定に到達した
すべての人々が経験したあの境地を参考にしなさいという他に、如何なる方法もない。」>>224
『我々は徹頭徹尾哲学の立場に立つ者である以上、否定という形の認識で我慢し・・・』>>226
どうでしょうか。SHの「否定」という表現に込められた真意が伝わってこないでしょうか?
徹頭徹尾哲学者であったSHは、認識するものとされるものとの同一化を「否定」という
個体化原理にのっとった形式論理の中におさめて表現するしかなかったのではないでしょうか。
666:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:33
>>661 Sさん(3)
>意志の廃棄とは文字通りのもので、存在を支えるあらゆる条件を排除した非存在への移行です。
上述から、わたしは、SHのいう「無」は「存在それ自体」に「同化」する、
あるいは「存在そのもの」に「なる」ことだと思いますから「非存在」の「無」とは、
ハッキリ区別したいと思っています。そしてどちらの「無」が「より~」というのは、
とりあえず横において考えたいのです。そもそも存在を前提しない「無」なんかある
のだろうかとか、非存在としての無の定義は?とか、色々あるので・・・ゆっくり。
>自殺と(主観的な思いこみや経緯の違いの他は)どう違うか、
この問題もなおざりにはできませんね。それぞれの「無」を定義する必要があります。
>循環を超えて無に到達する根拠が何か、
SHは、循環を超えて無に到達できるとする根拠を「存在原理」としての「意志」に求めています。
つまり「存在原理」としての存在そのもになることが、循環を脱し、無に至ることだと・・・
ここでいう無とは、個体である人間にも可能な認識の形式にのっとって、こちら(人間)から解釈
しようとこころみるなら、それは個体化の原理をまったく超越しているという意味で、無である、
ということではないでしょうか。
>解釈というより、理解不能な状態です。
わたしも同じです。のんびりいきましょう。こればっか(笑)
667:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:34
>>661 Sさん(4)
>頭痛いです。ちょっと考えさせてください。
m(__)m >>660は無視しましょう。(じゃぁー書くなよ!)
SHの意志、それをひきついだニーチェの力への意志、みんな人間中心の思想。
力への意志は、抵抗を克服していこうとします。でも、そんな自己も世界のなかの一部。
「世界-内-存在」なのです。(ハイデガー)
ダーザインとしてのわたしは、世界から抜け出せるのか。
それとも世界という環境なしには、存在すらままならないのか。
わたしは、ほんとうに実存してるのか、それとも関係性という産物でしかないのか。
①「純粋な認識主観によるイデアの観照」の否定には、人間中心的発想を感じるし、
②「純粋な認識主観によるイデアの観照」の肯定には、万物平等的発想を感じます。
①は、精神の「成長」や「発達」を肯定しつつ否定するという不条理、アンチノミー。
②は、その逆。
人間観のちがいが、①と②のちがいになるのでしょうか。(SHはホントはどっち?)
みたいなことをいいたかったのかな。(いえてないよ!) 脱線はわたしの癖。おゆるしを。
668:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/09 23:37
まとまってなくてごめんなさい。
あと、おなじこと繰り返してると思うけど・・・必要だと思うから。
あと、キーワードは・・・どうしましょうか? おまかせします。
669:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/10 21:34
わたしSさんの重荷になってませんか? 心配です。今日は早めに寝ようと思います。
670:S
03/07/10 23:40
>>カオルさん
>>664-666を踏まえて第四巻の終章をもう一度見なおして見ました。するとすっきり意味が
通りました。カオルさんの指摘を理解するとともに、絶対的な非存在などというものは、
SHが取り扱ってもいない(取り扱えもしない)のだな、と理解しました。第三巻から第四巻
終盤への移行もこれなら整合性が出ます。
>SHは、循環を超えて無に到達できるとする根拠を「存在原理」としての「意志」に求めています。
>つまり「存在原理」としての存在そのもになることが、循環を脱し、無に至ることだと・・・
>ここでいう無とは、個体である人間にも可能な認識の形式にのっとって、こちら(人間)から解釈
>しようとこころみるなら、それは個体化の原理をまったく超越しているという意味で、無である、
ボクもカオルさんの明瞭な解釈に導かれて理解できました。ボクの主観的な思いこみがSHの意図の
曲解に結びついていたみたいです。SHの全巻を通した首尾一貫した姿勢に感嘆します。実践段階に
おける個体化された意志の否定という結論についても、それが世に言われるような厭世などではなく、
積極的な形態転換であるのではと思いました。
ではこれで万事が解決できた、とはならないと思います。物自体としての意志、或いはイデアという
実在を支える為に考案された恣意的な設定がなければそもそも成立し得ないこと。そのような恣意的に
捏造した証明しえない観念を前提に、本当に実践段階に突入してしまったら、これは飛翔できるとの
妄想を抱いて崖の上から跳躍してしまうのと一緒です。カオルさんなら意志を確信して実践できます?
SHは「何故」を問うことは不毛でひたすら「何」を問うことしかできないと主張しています。それは
尤もなのですが、それでは「何故」という問いは抑えられません。存在理由、存在境界の超越(絶対無)
への渇望は消せません。仮にその問いに達した者に対峙したとして、どう答えればよいのでしょう。
これは物自体としての意志への帰入では答えにならないです。
あと、>>667はボクにはまだむつかし過ぎますので答えられません。
671:S
03/07/10 23:43
>>668-669
ボクでも何とか理解できるのだから、すごく丁寧で簡潔な説明です。そう示せるカオルさんが羨ましい。
ボクの方がカオルさんの重荷になってませんか? 心配です。なんせカオルさんの掌で溺れているような
状態ですから、カオルさんに益するものが無いように思えます。だからこそ感謝なのです。
無謀かもしれませんが、SHの哲学説から物自体の意志やイデアを取り除いた場合について、今、考えて
います。生が苦である根拠やその解消方法についても、もう一度考える必要が出てきます。でも、もう
少しSHの形而上説に沿って理解を深めてからにします。次のレスは12日夜にします。
672:カオル ◆BBBRv/ousU
03/07/11 23:48
>>670 Sさん
>カオルさんなら意志を確信して実践できます?
たぶん哲板にいること自体「それ」にはちょっと否定形ということなのかな。
哲学は確信とか実践に距離を置きますよね。とても怖がりになった気がします。
>存在理由、存在境界の超越(絶対無)への渇望は消せません。
ただ「存在理由を知りたい」と「存在境界を超えたい」は、同居しないと思います。
なぜなら、前者への絶望が後者の動因になると思うからです。
>仮にその問いに達した者に対峙したとして
わたしなら上記の仮定から「達した」にまず疑いを持ちます。
>これは物自体としての意志への帰入では答えにならないです。
いえ、物自体としての意志への帰入がどういうことなのかも、
まだまったく解決されてないと思うので、答えになるならない以前だと思います。
>ボクにはまだむつかし過ぎますので答えられません。
ごめんなさい。そういうレスじゃないんです。ひとりごとです。(^.^;)