03/03/08 09:53
test
因果の法則とそれに従う自然の観察や研究を進めていくならば、必然的に我々は次のような
確かな仮定に導かれていく。時間の中ではより高度に有機質を持つ物質の状態よりも常に先に
原材のままの物質の状態が発生しているということ、つまり動物は人間より先に、魚は陸上動物
より先に、無機質はあらゆる有機質より先に存在していたということ。従って根源的な物質の塊が
一連の長い変化の時期を経てきた後にはじめて、最初の眼が見開かれるに至ったのだということ
である。それでも見開かれたこの最初の眼に、例えそれが昆虫の眼であっても、世界全体の存在が
依存しているのであって、この最初の眼は認識の必然的な媒介者であり、世界は認識に対してのみ
そしてこの認識の中にのみ存在し、認識を欠いては世界を考えることすらできない。何故なら
世界は端的に言って表象であり、世界は表象であるからして、自らの存在を担う者として認識する
主観を必要とするからである。いや、決してそればかりではない。あの数え切れない程の変化に
満たされ、物質が形態から形態へと昇っていき、そして遂に最初の認識する動物が生まれるに至る
長い時間系列そのもの、この全時間そのものが、意識の同一性の中でのみ考えられるものなのである。
時間とは諸表象についての意識の継続のことであり、認識するための意識の形式のことである。
認識するためのこの形式ということを離れては、時間は完全にあらゆる意味を失い、全く無に成り果てる。
こうして我々は一方では、全世界の存在は最初の認識する生物、これが例えどんなに不完全な生物
であろうと、ともかくそれに依存していることを見てきたが、他方では、この最初の認識する動物の方も
彼に先立つ原因と結果の長い連鎖に依存しているのであって、最初の動物自身は小さい一環として
長い鎖の中に繋がれているということをも、我々は同じくらい必然的と見ているのである。この二つの
見解は明らかに矛盾しているが、その何れにも我々は同じ必然性をもって導かれるのである。
言うまでもなくこの二つの矛盾した見解を、またしても我々の認識能力における二律背反と呼ぶ
こともできよう。
A.ショーペンハウアー 意志と表象としての世界 第一巻第七節より