03/09/16 23:26
>>110
国奉行や国役といったものが存在しますし
日光社参の国役人馬組合は、郡を単位に編成されています。
したがって国郡制単なる地域表示ではなく
支配の枠組みとしての意味を失ってはいません。
113:日本@名無史さん
03/09/16 23:53
>>1は学士でもない、胱卆
114:史学生
03/09/17 00:03
先生今晩は。お元気ですかお待ちしておりました。!!(*^_^*)
教えて下さい、聖徳太子のお墓がご夫婦で大坂の河内に有りますが、
横穴式でしたか、こんな所に何故あるのですか、法隆寺に或る方が
自然と思いますか゛ 如何でしょうか?。
115:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/17 00:18
>>112
>国奉行や国役といったものが存在しますし日光社参の国役人馬組合
↑大宝律令下(8世紀)の政治機構に基づいた国郡制の枠組みの中で?
論点が完全にずれていると思うのは俺様だけ?
過去レスにも書いたが修士(文学)の論調は1に似てる・・・
116:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/17 00:23
古代以降連綿と受け継がれた行政区分において、大宝令下の国郡制の枠組みのみに意義を主張する根拠が
112のレスから(103には)読み取れない。
117:日本@名無史さん
03/09/17 00:35
現在の資本主義の暴走を止める決定打を教えてください。
(社会主義は望まない。)
・労働時間の増加傾向
・バイト、パート、派遣社員などの悪意的雇用形態(チェーン店の増加)
118:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:45
>>105 神道(長いぞ)
日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大
きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それ
らが伝えられる前からあった土着の神観念にもと
づく宗教的実践と,それを支えている生活習慣
を,一般に神道ということばであらわしている。日
本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労な
どの生活に対応してさまざまであり,地域的にも
多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の
伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水
稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多く
の神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。
その後日本人は,儒教や仏教を受容したが,神々
をまつる信仰は複雑な展開を経て現代まで存続し
ている。
[神道ということば] 神道という語は,《易経》の
観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時
久(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うし
て天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵
では測り知ることのできない,天地の働きをさす
語であった。そしてその後,神道の語は,道家や
仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,
つづく
119:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:46
呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢
字・漢語の受容によって表記が可能になった日本
では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位
前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊び
たまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法
を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹
を駒(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(め
ぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,
神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰
をさすことばとして用いられている。しかし,明確
な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生
活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒
教と同列に考えることは種々の無理があったこと
はいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章
上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。
《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,
徳教,大道,古道などの語もカミと読ませていると
ころからもうかがえるように,カミということばの表
記も一定しておらず,神道という語もそれらの一
つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と
呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,
神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさ
すことばとして用いている例は少なくない。他方,
神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すこと
つづく
120:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:47
ばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめる
と,神道という語が土着の信仰とその教説をあら
わすものとして用いられるようになった。中世の末
に大きな力を持つようになった吉田神道は,その
例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとし
て吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師
が,日本人の信仰を Xinto(中世の神道家の中に
は濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウ
ではなくシントウと読むことが主張されていた)とい
うことばでとらえたことに端を発して,神道の語は
外国に知られることになった。しかし,明治時代に
神道が国教化されると,国家の祭祀として宗教を
超えたものと主張された神道は,大教,本教,古
道,惟神道(かんながらのみち)などと呼ばれ,仏教
やキリスト教と同列とされた教派神道諸派が神道
の語で呼ばれたこともあって,日本固有の民族宗
教をあらわすことばは多様なままに推移し,研究
者の間でも神梢,神梢信仰ということばが用いら
れることが多かった。他方,西欧諸国の日本研
究・紹介者の間では,Shinto,Shintoism の語が
一般化したため,昭和に入り日本人の間でも,神
道ということばが一般に用いられるようになり,日
本固有の信仰の多様な性格を,古神道,神社神
道,教派神道,民俗神道をはじめさまざまに分け
て考えることも一般化した。
つづく
121:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:47
[神と祭り] 古代の日本人は,人間の力を超え
たものに対し,おそれ,かしこむ心を抱き,そうし
た心情をおこさせるものをカミと呼んだ。山,川,
海などに畏怖を感じ,根源的で神聖・清浄なもの
を見た人々は,生い茂った樹木や巨大な岩なども
神聖視した。さまざまな自然現象が神とされたこと
はいうまでもないが,日神の崇拝はあっても,天
体の運行をつかさどるものへの関心は薄く,雨や
風,芽生えや実りなどがそれぞれ神と考えられて
いた。狼や鳥,蛇などさまざまな動物も神聖視さ
れた。またあらゆるものは,人間と同様に意志や
感情を持つものと考えられ,そうした魂の働きも神
とされた。このような原始的な自然崇拝,アニミズ
ム的なものは,神道の底流に存続して現代に至っ
ている。神は人間の目には見えず,あらゆるもの
に宿っていると考えられたが,人間の住む場所か
ら離れた山の上や,海のかなたに神々の世界が
あると考えられ,人間が死ぬと,肉体を離れた霊
魂もそこへ行くと信じられていた。死者の霊魂は
年月を重ねるうちに,生前の個性を失って祖霊と
融合し,神々の中に加わる。したがって,神々の
世界と人間の世とは,隔絶・絶縁されてはおらず,
神々は定期的に,あるいは臨時に人間の住む場
つづく
122:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:48
所を訪れ,ある期間ともに住むものと信じられて
いた。
神に対する観念を具体的にあらわしているのが
祭りである。神々をおそれかしこむ人々は,生活
の節目ごとに神々を迎えて供応し,神威に対する
畏敬の念をあらわし,神々の加護に感謝した。祭
りは,神々を迎えるための清浄な場所を整え,
神々をまつる人々が身心を浄めることからはじま
る。準備が整うと,聖なる時間である深夜に,あら
かじめ用意された依代(よりしろ)・尸童(よりまし)に
神を降して,神前に御饌(みけ)・神酒(みき)が供さ
れ,歌や舞が神をもてなすために行われる。人々
は神に対する願いを祝詞(のりと)や歌などで伝え,
神は託宣やさまざまな卜占によって神意を示す。
その後,神々と人々とがともに酒を飲み,御饌を
食べる直会(なおらい)によって,神と人とのつなが
りをたしかめて,神々が祭りの場を去ると,禁忌が
解かれて祭りは終わる。祭りの多くは農耕儀礼と
結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開
始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭
りが最も主要なものであった。《神梢令》《延喜式》
の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神梢官が行う祭
りの詳細が記されている。人々は祭りによって生
活にくぎりをつけたが,6月と12月の祁に,半年間
つづく
123:日本@名無史さん
03/09/17 00:52
test
124:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:52
の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と
7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で
新しい生活を開始した。仏教が伝えられて,7月の
行事は仏教的な形をとって盆の行事になった。日
本人の間には,1年を1月と7月の行事でくぎる習
慣と,4月と10月の祭りで分ける習慣があり,二つ
が複雑に重なり合っている。
共同体の祭り以外に,人々は生活の中で竈(か
まど)の神や井戸の神をはじめさまざまな神をまつ
ったが,一般に水稲耕作は定住性と結束の強い
共同体を生み出し,そこでまつられる神々は,共
同体の祖先神であり,土地の守り神と考えられる
ことが多かった。集団の信仰である神道は,個人
の信仰としての性格が希薄であったから,個人の
救済が求められるようになると,仏教との習合が
進むことになった。
[神社と神官] 祭りのたびに神々を迎える信仰
のもとでは,神々が来臨する磐座(いわくら)・磐境
(いわさか),祭りが行われる森や山などが神社で
あり,神殿は作られない場合が多かった。しかし,
建築の発達につれて,神体,御霊代(みたましろ),
神宝などを安置する秀倉(ほくら)や,神をまつる
人々がこもって潔斎をするための建物が建てられ
るようになると,前者は本殿へ,後者は幣殿・拝殿
つづく
125:日本@名無史さん
03/09/17 00:53
>>124
126:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:04
へと発展し,それを囲む垣,神域を表示しその入
口を示す鳥居,神饌を調理する御饌殿(みけで
ん),参拝者が身を浄める御手洗(みたらし)をはじ
め種々の施設が加わって,神社の形が整った。神
殿の建築は,穀物倉を原型とする伊勢神宮と,住
宅に由来する出雲大社の神殿が代表的なもの
で,後に寺院や宮殿の形式をとり入れながら,
数々の日本独特の様式が生み出された。
祭りをつかさどる者は,政治的な支配者でもあ
ったから,政治的な統一が進むにつれて,祭祀権
の統合も行われ,各地に大規模な神社が建てら
れるようになると,そこには神官の集団が生まれ
た。出雲国造家,熱田大宮司家などは,古い国造
(くにのみやつこ)の系統が神社と結びついて後世ま
で残った例である。神職の名は神社によってさま
ざまであるが,祭主(さいしゆ),宮司(ぐうじ),神主
(かんぬし),衝宜(ねぎ),祝(はふり),預(あずかり),
神人(じにん)などはその例であり,八幡宮や梢園
社などには,社僧(しやそう),供僧,神僧,宮僧な
どと呼ばれる僧形の神職があった。他方,小さな
神社では,氏子の座や講などの組織から,一年神
主,当屋神主などが選ばれて,祭りを行うのが一
般であった。
つづく
127:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:14
《延喜式》の神名の巻には,平安時代中期の国
家が神威を認めていた2861の神社の名が記さ
れ,後世それらの神社を由緒正しい神社として
〈式内社(しきないしや)〉と呼んだ。また式内社以外
で六国史にその名を記されている391の神社を,
〈国史現在社〉と呼んで,式内社につぐものとし
た。式内社に対しては,神梢官から奉幣すること
が定められていたが,平安時代のはじめに,遠隔
地の神社には国司が代わって奉幣を行うようにな
ったので,国司奉幣の神社は,神梢官奉幣の神
社を官幣社と呼ぶのに対して,国幣社というよう
になった。
国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に
参詣し,その後政務を執るように定められている
が,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみ
や),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神
社の序列をあらわすことになった。さらに平安時
代の末になると,国内の数々の神社を一社に統
合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした
神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも
重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を
選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆう
にしや)の名が固定した。神社の祭祀を政治の中で
重視することは,鎌倉幕府以後の武家政権にも受
つづく
128:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:15
け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷し
た。
[神典] 神道の教典としては,まず《日本書紀》,
中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様
なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典とし
ていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の
神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわし
ているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教
典として読誦されるようなことはなかった。《古語
拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代
旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典
に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけ
で,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけで
はない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した
《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録
や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜら
れ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨
時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,
祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀
を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教
典といえよう。
中世に入って神道説の形成が進むと,空海など
に仮託した教典が続々と生み出されたが,その中
で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉
は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また
つづく
129:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:15
古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神
社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それら
の中には絵解きや説経などの芸能と結びついた
り,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く
知られるようになったものも少なくない。さらに,和
歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが
数多く見いだされる。
[神像と神体] 山・川,雨・風,芽生え・実りな
ど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえ
ることはできないものとされ,その姿を神像として
あらわすことは考えられなかった。神々が来臨す
る祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨
木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。や
がて神社が建てられるようになると,仏教の寺院
に対して考えても,神殿に安置するものが必要に
なり,平安時代に入って神体・正体ということばが
用いられるようになった。神体は,神々の性格に
応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなも
のが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習
合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすこと
がはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神
像は,密教美術の影響を受けたものが多かった
が,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な
公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以
つづく
130:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:17
降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてま
つることも一般化し,七福神などの雑多な神像が
広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代
末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに
描かれるようになった。それらの中には,神仏習
合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域
や神殿の景観を図示してその意味づけを試みた
ものなどは,神道の神観念や世界観をあらわした
ものとして注目すべきものがある。
[信仰と参詣] 神道の世界観は,高天原(たかま
がはら),葦原中国(あしはらのなかつくに),黄泉国
(よみのくに)(根の国(ねのくに))の三つの世界を考え
るが,この天上,地上,地下の垂直的な世界観の
ほかに,海上のかなたに妣(はは)の国,常世国(と
こよのくに)があるとする水平的な世界観が併存し
ている。またそれらの世界とは別に,山中に他界
を想定する信仰も広く存在していた。人間が死ぬ
と霊魂は肉体から離れて,他界に行くと考えられ
た。他界に住む霊魂は,祭祀に応じて人々のもと
つづく
131:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:18
に帰ってくるが,年を経るにつれて個性を失って
神々に近づいていく。したがって,いくつもある他
界の性格と相互の関係は明確でないところが多
い。ただ黄泉国は暗黒の世界と考えられており,
罪や穢れに満ちた世界でもあったから,地上の罪
や穢れを,すべて黄泉国に祓い去る儀礼が行わ
れた。神道では,神々の加護によって幸を得,
神々の力による禍を回避するためには,人間が
正直で清浄な心で神々に接しなければならないと
される。正直で清浄な心とは,さまざまな作為を捨
てた,生まれたままのような純粋で自然な心のこ
とであり,それは禊(みそぎ)や祓によって達せられ
ると説かれる。また,精神が統一され,一心不乱
になった状態が,純粋で清浄な心に近いと考え
て,その修行の方法がさまざまにくふうされた。
元来,祭りは共同体の行事として行われるもの
であったが,平安京の神社では,祭りが華麗な催
物としての性格を持つようになり,祭りに参加せ
ずに見物する人々があらわれた。そして,祭りの
担い手ではなく傍観者になった人々は,祈願に際
して他所の神社にも参詣するようになる。中世に
なって参詣はさかんになり,徐々に庶民の間にも
ひろまった。参詣する人は,身心を洗い清めて米
銭などを奉った後,神々の加護を願い,誓いを立
つづく
132:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:19
てる。中世以降各地に多くの参詣者を集める神社
があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社で
は,参詣者を集める御師などの専門的な神官が
あらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織し
た。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中
の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後
に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に
浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰っ
て隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざま
な習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうち
に,日本人の旅行のしかたの型となった。
[神道の教説] 素朴な神々への信仰は,仏教
の影響のもとで,徐々に教説を生み出すことにな
った。寺院を建立するためには,境内地の神々を
まつらねばならず,堂塔の用材を伐り出すために
は山や森の神々をまつることが必要であるという
ように,仏教の受容は土着の神々との接触の中で
はじまったが,仏教の僧侶は,土着の神々を人間
と同列に置き,仏の慈悲によって神々も成仏でき
るものと説いた。神前で読経を行い,仏事を営ん
だのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本
人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの
仏・菩醍であり,日本の衆生を救うために姿を変
えて神としてあらわれたという本地垂迹
つづく
133:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:23
(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹
説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な
釈梼との関係を説明するものであったが,それを
応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々
を,仏教に結びつけることが行われていた。日本
では,平安時代に入って神仏習合がさかんにな
り,元来明確な神格を持たなかった神々も,仏・菩
醍に対比して神としての性格を論じられるように
なり,素朴な儀礼も荘厳なものに発展した。中でも
密教の教説による習合がさかんになり,両部神道
(りようぶしんとう)と呼ばれる神道説の流れが形成
され,真言系の両部神道に対抗して,天台系の山
王神道が唱えられたりした。律令制度のもとで手
厚い保護を受けていた古来の神社は,中世に入
るころから神領を侵され,仏教が庶民の間に浸透
しはじめると,強い危機感を持つようになった。神
官の中には,神威と神の加護を宣伝し,神社への
寄進を勧めようとする者があらわれたが,その
際,神社の固有の主張を説こうとすれば,仏教に
対抗する教説が必要になる。伊勢外宮の神官を
世襲してきた度会(わたらい)氏の人々は,易や陰
陽五行説,老荘思想などを援用して,仏教に対抗
する伊勢神道の教説を立てようとした。伊勢神道
は,神仏習合から一歩踏み出した点で,後の時代
の神道説に大きな影響を与えた。中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・
道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんど
が吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわ
しんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。ま
た真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒
つづく
134:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:23
教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道と
してしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立
場(復古神道)に近いものであった。⇒本地垂迹
[近代の神道] 明治政府は,強力な統一国家を
建設していくために,宗教的な支えが必要である
と考えたが,旧時代の象徴のように思われた仏教
に依拠するわけにはいかず,神道が注目されるこ
とになった。排仏運動が進められ,神仏分離が推
し進められる中で,国家の祭祀と結びついた神道
が浮かび上がってきた。他方,西欧諸国との交渉
が深まる中で,キリスト教の解禁と,信教の自由
への配慮が必要となり,大日本帝国憲法の第28
条で,限定付きではあるが,信教の自由が認めら
れることになった。そこで,国家の祭祀,皇室の儀
礼と結びついた神道は宗教を超えるものとされ,
官幣社,国幣社,別格官幣社に列せられる神社
は国家の機関となり,神官は官吏となった。国家
直属の神社を頂点として,府県社,町村社,郷社
などの社格が定められ,祭神も《日本書紀》以下
の正統的な神典に記載されている神々に改めら
れた。他方,国家と結びついた神道(国家神道)と
別に,信教の自由の次元での諸宗教は,神道,仏
教,キリスト教に大別され,宗教としての神道は教
派として活動を許可された。したがって神道という
ことばは,教派神道をさすものとして用いられ,国
家と結びついた神道は,大教,本教,惟神道など
つづく
135:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:24
のことばで示された。
1945年,敗戦の年に,GHQ は国家と結びつい
た神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令
を発した。この文書は〈神道指令〉(国教分離指令)
と呼ばれ,戦後の宗教行政の中で大きな役割を
果たした。神社は宗教法人となり,現在その多く
は連合して神社本庁という組織を作っている。他
方,神道系とされる天理教,金光教,大本教など
の新宗教も,伝統的な神々の信仰を受けついで
活発な宗教活動を展開している。神社は,明治以
来数十年の特殊な時代が終わった後,伝統的な
信仰の中心として人々の参詣を集め,結婚,受
験,交通安全などの祈願を行う場となっている
が,教派神道の系譜を引く神道系諸教団に比し
て,教説や教団の組織を持たないものが多く,祭
りを支えていた地域社会の秩序が,近代化の中で
解体していく中で,新たな対応を迫られている。他
方,神道的な儀礼が,宗教行為に属するか,民俗
的な習俗であるかをめぐっては,国民の間からつ
ぎつぎに問題が提起され,裁判で係争中のものも
少なくないが,神道をいかなるものと考えるかに
ついて,広く国民の支持を得るには,なお多くの
曲折が予想される。⇒神∥神道美術∥神仏習合
∥民間信仰
つづく
136:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:25
大隅 和雄
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
よっしゃこい
137:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:26
おまけ 伊勢神道
伊勢神宮に基盤を置いて形成された神道説で,
度会(わたらい)神道とも外宮(げくう)神道ともよばれ
る。鎌倉時代に形成されたものに限るときは,こ
れを前期伊勢神道,江戸時代のに限るときは後
期伊勢神道とよぶことがある。一般に鎌倉時代に
は各大社がその由緒をもとに,仏教や陰陽道の
教説をまじえて独自の神道説を編み出そうとし
た。伊勢神宮でも,鎌倉初期以来武士の神領奉
献,僧侶の参詣が相ついでおこなわれ,種々の刺
激を受けた結果,律令制下ではもともと神宮は仏
法を禁忌する定めであったにもかかわらず,鎌倉
時代後期には,神宮の神徳は広大で,〈我国の仏
法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉との主張
が神官によりなされるに至った(《沙石集》)。ことに
伊勢両宮のうち外宮(豊受大神宮)は祭神が御饌
都(みけつ)神であるところから万民の食物をつかさ
どる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護
神なることを強調して,信徒を広く集める勢いでは
内宮(ないくう)をしのぐほどに立ち至ったらしい。
1282年(弘安5)内宮造営料木のことに容喙(よう
かい)して外宮衝宜(ねぎ)の一人度会行忠は職を
免じられたが,これを機に京都に移り住み広範な
教養を身につけたらしく,自著《二所太神宮神名
秘書》を亀山上皇に奏覧し,その功により87年復
つづく
138:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:27
職した。そして96年(永仁4)注進状に〈豊受皇大神
宮〉と記したことの当否をめぐって内宮側との紛争
が激化したころには,〈わが陣営には《倭姫皇女
世記》《宝基本記》などの貴重典籍あり〉と呼号す
るようになっていた。この《倭姫命世記(やまとひめ
のみことせいき)》《造伊勢二所太神宮宝基本記》な
どが,後世〈神道五部書〉とよばれるものだが,こ
こに,神宮の古伝承をもとに,さらに外宮の神徳
の種々を掲げた典籍を根拠として,いわゆる伊勢
神道の教説が唱えられるようになった。
その主張する点を見ると,まず外宮の祭神御饌
都神は,《古事記》《日本書紀》にみえる天御中主
神(あめのみなかぬしのかみ)や国常立神(くにとこた
ちのかみ)と同神であり,この神が天地開闢(かいび
やく)にあたり天照大神と幽契を結んで永く天下を
治めることにしたのだとして,天照大神の権威を
世界観の上から基礎づけようとしている。ついで,
つづく
139:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:28
外宮の神は水徳をつかさどり,内宮の火徳と両々
あいまって人々の生活を発展させるものだが,前
者はとくに万物を養い育てるの徳があるとして,
食物神から生産神へと発展させて説いた。そして
これら神格の根拠づけをするため陰陽五行説や
真言密教の体系からも理論を借りている。ややお
くれて1320年(元応2)に成った度会家行の
《類聚神梢本源(るいじゆうじんぎほんげん)》には中
国の宋学(程朱学)の文献までが引用されている。
しかしこれらの教説をもとに教団が組織されること
はなく,のちの吉田神道(唯一(ゆいいつ)神道)のほ
かは他への影響もさほど大きくはなかった。江戸
時代前期に再び伊勢神宮の教説化の必要が起こ
り,同じく外宮の度会延佳(のぶよし)などの神道説
では,儒教ことに易(えき)の理論と陰陽五行説とを
採って神道の精神を説明している。これは後期伊
勢神道とよばれ,近世の垂加(すいか)神道などへ
の影響が大きかった。 萩原 竜夫
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よっしゃこい
140:日本@名無史さん
03/09/17 01:30
またコピペかよ!
141:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:37
>>117 決定打は未発見
>>103 70年代の末以降、山口啓二・高木昭作などによって提唱された「国郡制の枠組み」、
80年代以降の近世史研究では常識の部類に入ります。
修士(文学)も呆れたようですね。
中世史を専攻した学士だそうですが、
中世前期の専攻ですか?
よっしゃこい
142:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:38
>>141 訂正)「国郡制の枠組み」論
よっしゃこい
143:日本@名無史さん
03/09/17 01:40
先生!!
立花道雪って誰ですか?そもそも実在するの?
144:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:44
>>143 立花(戸次)道雪 ?―1585(天正13)
戦国末期の武将。名は鑑連(あきつら)。大友義鎮
(宗麟)の加判衆で勇将として武名をはせた。1563
年(永禄6)毛利との和平に活躍。筑前国立花城主
立花鑑鎮を討ち,71年(元亀2)立花の名跡を継ぎ
筑前一国を支配した。85年筑後高良山下北野の
陣中に没した。道雪は,若くして雷にうたれて足を
傷つけたため手輿に乗って軍陣の指揮をしたとさ
れるが,疑問視する説もある。 高木 傭太郎
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よっしゃこい
145:日本@名無史さん
03/09/17 01:46
先生!折り紙銭ってなんですか?
146:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:51
>>145 ずばりはない。参照。
折紙方
室町幕府において政所が所管した部局。訪銭(と
ぶらいせん)など,将軍が他へ贈進する金品を扱っ
た。納銭方と同様に土倉などの商人数人で構成さ
れ,しかるべき権益と引換えに幕府に対して金品
の上納が義務づけられていたと推測されている。
直接その存在を示す史料として,蜷川親元の日記
《親元日記》寛正6年(1465)5月25日条の〈慈恩寺
に対する訪銭の支出を折紙方が渋ったので納銭
方に申し付けた〉という記事と,《大館常興日記》
天文9年(1540)4月3日条の〈乳女3人に対する給
与が2月滞っているが御倉に無いので折紙方の一
人に申し付けてはどうか〉という記事等が紹介さ
れているが,その構成,幕府財政機構においてど
んな役割を負ったかなど,詳しいことは明らかにさ
れていない。 村尾 元忠
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よっしゃこい
147:145
03/09/17 01:54
先生、流石です!鞄持ちにしてください!
148:史学生
03/09/17 06:55
お早う御座います。
先生、流石です!!。コピッペとは良いながら的確な論説で御座います。
私も、先生の内弟子にして下さい。m(_ _)m
ところで、私の質問もご回答宜しくお願いします。
149:美香
03/09/17 07:38
昭和史を極めたいと思っているのですがなにかいい本はありますか?
150:日本@名無史さん
03/09/17 09:29
喜連川氏の官職はわかりますが、
官位がわかりませんので、教えていただけますでしょうか。
151:105
03/09/17 09:58
こんなにも長い文章をありがとうございました。
m(_ _)m
152:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 14:41
>>150
高家(喜連川氏も高家のひとつ)
名家の意。近世においては名家の末流で江戸幕
府に仕え,その儀式,典礼(とくに朝廷関係)をつ
かさどることを世職とした人およびその家。1603
年(慶長8)徳川家康の将軍宣下の際,宣旨を入れ
た覧箱(らんばこ)の受渡しの役を務めた大沢基宿
(もといえ)がその起源とされる。59年(万治2)には高
家衆として吉良,今川,品川,上杉,大沢,戸田の
6人がおり,以後しだいに増加し26家に及んだ。京
都への使者,伊勢・日光参詣の名代のほか,江戸
に下向する勅使・院使等公家衆の接待にあたり,
そのおり痢応役の大名に礼法を指導した。平日は
交代で江戸城雁間に詰めた。1723年(享保8)制定
の役高は1500石,官位は従五位下侍従より従四
位上少将に至った。これは大名では国主や三家
の庶流に与えられる高い官位である。なお高家衆
の中から肝匙(きもいり)若干名が選ばれ,京都のこ
とを専管した。また幼少の者やまだ習熟しない者
は表高家といって,非役,無位無官であった。
松尾 美恵子
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153:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 14:44
>>148 グーグル先生に聞いてみよう
>>149 ない
よっしゃこい
154:日本@名無史さん
03/09/17 20:15
初歩的な質問で悪いんですけど
道鏡って本当に上手かったんですか?
155:155
03/09/17 20:18
すいません。質問です。織田信長の掲げた政治思想の天下不武についておしえてくださいませんか?
156:伊達家中
03/09/17 20:41
>>154
すくなくともチョコボール向井よりは一枚も二枚も上手だと思いますが、何か?
>>155
×天下不武 ○天下布武 釣りの嫌疑が濃厚な間違いだと思いますが、何か?
157:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:45
>>154 しらん
>>155 ずばりはない。参照「天下」。
古代中国に由来し,文字どおりには全世界を意味
し,〈天子〉の統治対象を指す語。〈天子,民の父
母作(た)り,以て天下の主と為る〉(《書経》),すな
わち〈天〉から〈命〉を受けた〈天〉の〈子〉が,〈天〉
の〈下〉全体の最高支配者となると考えるのであ
る。したがって,〈天下〉に正統な天子は1人しかあ
りえず,外国を予想する〈国〉と違い,〈天下〉には
理論上,境界線がない。それゆえ,〈天下〉の語は
普遍性の語感を伴い,同時に,〈天下の人心〉〈天
下の河り〉の句の示すごとく,ある権威を感じさせ
る。日本では,元興寺塔露盤銘(596)に〈大和国天
皇斯帰嶋宮治天下〉とあるのをはじめ,遅くも6世
紀末以降天皇に関して〈治天下〉と表現した例が
多く,《古事記》も各天皇について〈……の宮に坐
しまして天下(あめのした)治(し)らしめしき〉と反復し
ている。すなわち,こうして天皇を中国の天子に
類比し,その統治対象たる日本列島の一部を全
世界とみなし,そこにおける最高支配者であるこ
とを主張したのである。原義からすればやや奇妙
だが,こうして〈日本全国〉が往々天下と呼ばれる
ようになった。
つづく
158:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:45
この語は政治用語としては,多く政権の日本国
内における普遍的権威を示唆し,強調する際に用
いられた。宣命はしばしば〈天下公民〉に呼びか
け,〈大赦〉の詔は天下に下り,聖武天皇は〈夫れ
天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有
つ者も朕なり〉(造立盧舎那仏詔)と誇っている。そ
して,このように天皇にかかわる場合,〈溥天の
下,王土に非ざるはなく,率土の浜,王臣に非ざ
るはなし〉(《詩経》)という観念と結びつけられ,そ
の普遍的支配権の強調される例が,幕末を含め
て史上少なくない。一方,武士が勢力を伸ばすに
つれ,武家政権に関しても用いられた。源頼朝は
1185年(文治1)〈今度天下草創也〉と号して朝廷の
人事改革を迫り,建武式目は〈承久に(北条)義時
朝臣天下を稀呑す〉と述べている。北条氏,足利
氏について〈天下の主〉〈天下主領〉などと表現し
た例もある。そして,領域的一円的支配を拡大し
つつ,有力武将たちが全国支配者たらんとして争
った戦国時代に入ると,〈天下の面目〉〈天下を争
ふ〉〈天下へ切り上る〉〈天下の仕置〉〈天下持ち〉
〈天下殿〉〈天下に成る〉などと盛んに用いられた。
全国,全国政権(あるいは中央政権)の所在地,全
国(中央)政権,そしてその支配者個人という同心
円状に重層した意味構造が成立したのである。例
つづく
159:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:45
えば〈天下布武〉の印判を愛用した織田信長は,
上洛後自分への協力は〈天下の為〉〈天下に対し
て大忠〉であると主張し,一方将軍義昭には〈天下
の褒貶〉や〈執沙汰〉を論拠に非難を浴びせ,つい
にはみずから〈天下を申し付くる〉と称するなど,
天下の権威と多義性をしきりに利用している。
とくに最高権力者を端的に天下と呼ぶ用法は,
おそらく,元来関白などを指す〈殿下〉の当て字と
しての天下とも交錯しつつ,足利時代以後しだい
に広がった。そこで〈天下分け目〉の関ヶ原後も,
天下とはすなわち徳川将軍を往々意味する。江戸
山王神社の祭りを〈天下祭〉と呼ぶときはそうであ
り,〈天下の御定〉〈天下の御法度〉も多くそうであ
ろう。それは,中世の全国的慣習法を意味する
〈天下の大法〉と対照的であり,〈天下〉が強力に
〈統一〉されることによって,政治的な権威が将軍
に集中したことを鮮やかに象徴している。
しかし,一方で天下の原義からする普遍性の語
感は,権力の公共性を強調してその私的濫用を
みずからあるいは下から戒めるためにも利用され
た。とくに〈天下を公と為す〉(《礼記》),〈天下は一
人の天下に非ず,乃ち天下の天下也〉(《六韜》)の
句は,明治初期に至るまでしばしば援用された。
南北朝時代の《梅松論》のごとく,〈私にあらず。天
つづく
160:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:46
下の御為〉〈天下静謐の為〉と称して朝廷に逆らっ
た行動を肯定的に記述した例もある。
なお,日本全国を天下とみなす無理は幕末に至
るとあらわとなった。しかし,文字どおりの天下は
別に〈宇内〉〈万国〉〈地球〉そして〈世界〉と呼ば
れ,以後日本全国を天下と呼ぶ用法も,徐々に大
時代な感じを与えるようになった。 渡辺 浩
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よっしゃこい
161:日本@名無史さん
03/09/17 21:59
つーかさあ。百科事典書き写してなんの意味があるの?
162:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 22:09
>>161 書き写してません。コピペです。
よっしゃこい
163:日本@名無史さん
03/09/18 07:56
>>152
一門の宮原家は高家ですが、喜連川家は違うと思うけどな。
交代寄合でも無いし?
164:日本@名無史さん
03/09/18 11:05
高家は、大沢(2家)・吉良・織田(3家)・今川・品川・宮原・由良・横瀬・畠山(2家)・上杉・武田・京極・土岐・大友・六角・日野・戸田・有馬・長沢・前田(2家)の26家。
喜連川は公家ではない。
165:日本@名無史さん
03/09/18 11:06
>>164の訂正
公家→高家
166:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 17:22
>>163-165 喜連川氏
1590年(天正18)の小田原合戦後,小弓(おゆみ)足
利氏は豊臣秀吉から下野喜連川の地を与えら
れ,喜連川氏を称した。その翌年豊臣秀吉の仲介
で古河公方(こがくぼう)足利義氏の遺女氏姫と喜
連川国朝との結婚が成立し,喜連川氏が関東足
利氏の嫡流たる地位を襲封することとなった。93
年(文禄2)国朝が朝鮮の役で九州に赴く途中安芸
で病死したのにともない,弟頼氏が氏姫と結婚し
て喜連川氏を継いだ。喜連川氏は,江戸時代
5000石を有し,また高家(こうけ)として四品・十万
石の格式を与えられ,その血統のゆえに重く用い
られた。以後,代を重ね,聡氏のとき喜連川氏か
ら足利氏に復姓し,廃藩置県を迎えた。
佐藤 博信
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よっしゃこい
167:日本@名無史さん
03/09/18 17:26
歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
っていつも返事するけど、無職?
168:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 17:41
>>167 スレタイの音読をお薦めします。
よっしゃこい
169:日本@名無史さん
03/09/18 18:37
みんな安藤をからかって面白がってんだな
170:日本@名無史さん
03/09/18 20:14
>>166
高家ではなく高家待遇が正解だと思う。
徳川将軍家は臣下と思っていなかった。
171:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 20:59
>>170 こだわりがおありのようだが、高家だよ
よっしゃこい
172:日本@名無史さん
03/09/18 21:08
すみません、高原連ってなんですか?
私のご先祖様の系列らしいのですが・・。
173:史学生
03/09/18 21:09
先生、今晩は!!。お元気ですか!!
教えて下さい!!
ザビエルや、ルイス・フロイスはイエズス会派の者と聞いて居りますが、
スペインのピレネ-山脈に居住する一派で地位は余り上でない様ですが
イエズス会を教えて下さい。
174:伊達家中
03/09/18 21:12
盛り上がってますなあ~~
よっしゃこい
175:日本@名無史さん
03/09/18 21:17
>>173
先生ではなくて博士とお呼びするように
176:日本@名無史さん
03/09/18 21:21
>>171
>>164は国史大辞典からの引用なのだが
ここには喜連川は出てこない。
この違いはどう理解すればよいのか。
ちなみに佐藤博信の専門は中世史だね。
177:日本@名無史さん
03/09/18 21:40
安藤のタコ踊り
178:質問
03/09/18 21:47
博士、博士がよく参照されている平凡社大百科事典(CD-ROM版)ですが、使い勝手などはいかがですか?
もしよければ私も購入しようかと考えています。他の似たような百科事典と比較して、情報量や価格
などにどんな差があるでしょうか?博士のアドバイスお願いします。
179:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 21:49
>>172 しらん
>>173 グーグル先生へ
>>176 喜連川町史を参照のこと。
よっしゃこい
180:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 21:51
>>178 情報量は多いが検索ソフトが糞。使い難い。
よっしゃこい
181:日本@名無史さん
03/09/18 22:43
>>179
こういうローカルな自治体史は遠方だとなかなか見ることができない。
高家に関わる部分をここに引用していただきたい。
182:日本@名無史さん
03/09/18 22:57
博士、こんばんわ。>>150です。
>>166にて四品となっていますが、品位ということは親王に準ずると考えていいのでしょうか。
先週喜連川温泉に行き、喜連川氏を知り興味をもった者です。
183:史学生
03/09/18 23:00
博士様!!
私の先祖を600年以上遡って調べられますか?。
184:日本@名無史さん
03/09/18 23:21
>>179
>>152では「以後しだいに増加し26家に及んだ」となっており
>>164と家数は一致する。
もし喜連川が高家なら
>>164に列挙されている家のどれかがひとつ抜けることになるが
それはどれですか?
185:日本@名無史さん
03/09/18 23:33
吉良は取り潰されたよねえ
結論はどうなるんだろ?
186:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 23:44
>>181 俺様も手許にないのでしばらく保留
>>182 保留
>>183 無理
>>184 近世後期になると、26家よりもっと増える
>>185 いいえ
よっしゃこい
187:日本@名無史さん
03/09/18 23:50
>>186
>>152では高家の詰席は雁間となっているが
『日本史広辞典』によれば
喜連川家の詰席は大廊下・大広間・柳間となっており
高家の詰席と一致しない。
この点からも喜連川を高家とするのは無理ではないか?
188:史学生
03/09/18 23:59
博士様!!
質問。
古事記に薩摩の甑島の記事が有りますが、あんな小さい島が何で記載されている
のですか?。
189:日本@名無史さん
03/09/19 00:03
ノリノリだな安藤
190:日本@名無史さん
03/09/19 00:09
えっ吉良家は討ち入り事件の後は取り潰しじゃないんですか?
191:日本@名無史さん
03/09/19 00:10
>>1 って何歳なんだ
192:日本@名無史さん
03/09/19 00:22
>>191
安良城理論なんかもちだすんだから史学科なら検討はつくだろ・・・
近年の話なんかついてこれないだろうなw
193:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/19 00:37
>>187 詰席だけでは解決しない
>>188 たまたま
>>190 断絶後、分家の旗本東条氏が吉良姓を継承
>>191 秘密
>>192 具体的にどうぞ。歴史学の知識を盛り込んで煽ってみてよ。
ではどうぞ>>192
194:日本@名無史さん
03/09/19 00:55
>193よっしゃこいは?
かわりにいっとこか?
よっしゃこい
195:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/19 00:59
あれ?
ではどうぞ>>192>>194
196:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/19 01:27
だめだね
よっしゃこい
197:日本@名無史さん
03/09/19 01:54
質問よろしいでしょうか?
日本史Bの教科書で「皇室と藤原氏の関係系図」というので、
[藤原氏]の横に蘇我稲目と書いてあったんですが、
藤原氏と蘇我氏はどこかで繋がりがあるんでしょうか??
系図では血がつながってるような書き方ではなかったんですが…
一応日本史の先生に聞いてみて、辞典でも調べてみたんですが、
分かりませんでした…
もしよければ教えて下さい。
198:日本@名無史さん
03/09/19 01:59
URLリンク(homepage1.nifty.com)
高家についてのこのサイトは博士からみてツッコミどころはありますか?
勉強になりましたが。
199:日本@名無史さん
03/09/19 02:47
突然ですが、『秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる』って誰の歌でしたっけ!?古今和歌集ってことは覚えているのですが…。良かったら教えてください。
200:日本@名無史さん
03/09/19 02:49
URLリンク(drhnakai.hp.infoseek.co.jp)
電波出しまくりです。ツッコミどころ満載ですが、やはり関西の人みたいです。
言葉を失いました。
201:日本@名無史さん
03/09/19 03:56
秀吉って最低な男だよな?
朝鮮出兵してる間にそいつらの妻を寝取るだもんな。
202:日本@名無史さん
03/09/19 06:26
紀元前、女帝の国って日本以外どこがあるの?
203:日本@名無史さん
03/09/19 09:17
>>186
例えば文政年中には31人、安政年中には29人だが
家数は26家で固定されている。
人数と家数を混同していないか?
204:日本@名無史さん
03/09/19 17:47
安藤
205:日本@名無史さん
03/09/19 18:53
江戸時代に日本に帰化が公認された外国人って居ますか?(アイヌ、琉球も含む)
206:日本@名無史さん
03/09/19 19:09
質問がたまつてきたけど
さ ら っ と 流 し 読 み
で片付けるなよ。
207:日本@名無史さん
03/09/19 19:10
戦国大名がちょんまげにする意味ってなんですか?
208:伊達家中
03/09/19 20:20
ますます盛り上がってますなあ~~~
よっしゃこい!
209:日本@名無史さん
03/09/19 20:47
>>208
> ますます盛り上がってますなあ~~~
それは、全てあなたの思い込みです。
210:日本@名無史さん
03/09/19 21:10
>>208
伊達家中が憧憬の的だなんて君はいったい・・・・・
211:伊達家中
03/09/19 21:26
>>209
思い込みにあらず、冷徹な事実ですが、何か?
>>210
「伊達の前に伊達は無し、伊達の後に伊達は無し」と言い放って置きますが、何か?
212:日本@名無史さん
03/09/19 21:51
意味不明
さすが安藤
213:日本@名無史さん
03/09/19 21:59
日本における律令税制(祖調庸)の実質的な成立はいつなのでしょうか?
大化の改新で謳われてはいますが、すぐに実行できたわけじゃないですよね。
214:214
03/09/19 22:15
伊達家中さんに質問。
仙台や宇和島にいる明智一族って明智光秀となんか関係あるんですか?
教えて下さいな~
215:伊達家中
03/09/19 22:48
>>214
博士~~ 助けて~~ わかんないよ~~
よっしゃくるな
216:日本@名無史さん
03/09/19 22:49
壊れ行く安藤
217:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 00:26
>>197 天皇の外戚同士だからつながってはいるけど、他って意味?
>>198 特になし
>>199 藤原敏行
>>202 いろいろ
>>203 いいえ
>>205 いろいろ
>>207 諸説あり、冑のためとか(熱気が抜けるとか)
>>213 諸説あり、天武・持統朝以降じゃないの
よっしゃこい
218:日本@名無史さん
03/09/20 00:33
>>217
ならば>>164の26家以外にどんな家が高家になったのか挙げてくれませんか?
219:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 01:08
>>218 基本は保留
こうけ 【高家】
①室町幕府の将軍の一族の名称。②江戸幕府の役職名の1つ。殿中の諸儀式・典礼をつかさどった。特に朝廷関係の諸儀式に重きをなした。 ・・・学研の新世紀ビジュアル大辞典
高家には二つの意味が近世でもあり、
②の役職としての高家は老中支配の役職で、
喜連川は②には含まれないが、①により「高家」と呼ばれた
っていうのはどうだろう。そう考えると
平凡社の事典の喜連川の説明も理解できる。
そうすると、①なら26家に限らない。
よっしゃこい
220:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 01:10
>>219 ①の用法は主に室町時代ね
よっしゃこい
221:日本@名無史さん
03/09/20 01:17
>①により「高家」と呼ばれたっていうのはどうだろう。
どうだろうって言われてもねえ・・・
歴史家なら近世にもそのような用法が続いていたことを証明しないと。
222:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 01:25
>>221 だから保留って言ってるでしょ。
家に高家に関わる資料なんて持ってないもの
よっしゃこい
223:日本@名無史さん
03/09/20 01:28
>>222
>>171では結構自信たっぷりだったんだけどねえ(w
224:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 01:32
>>223 だから高家だよ
よっしゃこい
225:日本@名無史さん
03/09/20 01:35
>>224
ならば>>221に答えなさい。
保留ならば、高家と断言すべきではなかろう。
226:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 01:46
>>225 >>166だから高家だよ
よっしゃこい
227:日本@名無史さん
03/09/20 01:57
>>226
>>166が喜連川氏を高家だとする根拠として
あなたは>>219を書いたわけだが
それに対して>>221で私がそれを論証すべきだ書いたところ
あなたは>>222で「保留」だと言って逃げたわけですよ。
ところが>>224以降、またもや「高家」と断言する路線に簡単に復帰している。
「保留」は撤回したのですかね?
撤回したのなら>>221に答えるべきだし
「保留」が続くのなら
>①により「高家」と呼ばれたっていうのはどうだろう
というあなたの主張は証明されないのだから
単に百科事典にこう書かれているからこうですという、厨房でもできる説明になってしまいますね。
228:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 02:04
>>227 いいえ。
保留しているのは原史料を提示することですよ。
喜連川が高家かどうかの判断を
保留している訳ではありません。
署名のあるソースを貼って主張しているだけでしょ。
署名のない主張なら「喜連川 高家」で検索すればたくさん出ますよ。
よっしゃこい
229:日本@名無史さん
03/09/20 02:13
>227
必死のわりに威力無いな。
博士をたじろがせるのは修士以外にいないのか?
230:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 02:20
前スレからこのスレの削除依頼が出てるから、
普段よりも真面目に答えてるのに、
削除人全然見に来ないなぁ~
どうなるか楽しみにしてるのに
よっしゃこい
231:日本@名無史さん
03/09/20 02:27
つーか初心者スレで答えてやればいいじゃん。
なんでこのスレが必要なわけ?
真面目に答える素振りをみせてもスレの重複は削除対象ですよ。
232:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 02:35
>>231 重複ではないのだよ
答える素振りではなく真面目に答えてるよ
よっしゃこい
233:ルイ14歳
03/09/20 02:41
>>207
博士が答えたとおり、兜をかぶったときの
蒸れを防ぐのが主な目的なんじゃが、
そのために一本一本髪の毛を引き抜いて、
その痛みに耐えるのも武士の嗜みだったそうな。
信長の頃には剃るようになっていたらしいがの。
234:日本@名無史さん
03/09/20 02:44
>>232
歴史の質問に答えてあげるスレ、という意味で重複じゃん。
削除対象だと自分でも自覚しているからこそ
真面目さで誤魔化そうとしているわけでしょ?
235:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 02:55
>>234 それは誤解。主旨と違う。
よっしゃこい
236:日本@名無史さん
03/09/20 02:58
どこがどう誤解なの?
237:日本@名無史さん
03/09/20 08:18
よく知らんのだけどさ、昔の中国を描いた絵を見ると、椅子に座ってるよね、
で、日本は中国の真似してたんだよね、昔は。
なのになんで日本は椅子に座る生活様式にならなかったの?
人間の体の構造から考えても、椅子のほうが楽なのにさ。
胡坐や正座なんて足しびれるじゃん。
また、たまたまって言うのか?そうなのか?それでいいのか?
238:伊達家中
03/09/20 08:24
>>230
スレの削除依頼が出ていると聞き、大変驚きました。これはひとえに私の力不足
が原因であり、反省しております。今後、そのような依頼が出されぬよう、精進する
所存です。今後もよろしくお願いします。
239:伊達家中
03/09/20 08:25
博士!武田信玄と武田久美子はどういう関係なのですか?
240:修士(文学)
03/09/20 09:45
>>228
>>219は、喜連川氏は幕府の役職としての高家ではない、と読めるのですが
この判断でよろしいか?
241:日本@名無史さん
03/09/20 09:54
板荒らし安藤
242:日本@名無史さん
03/09/20 10:07
>>241
荒らしてるのは君のほうだぞ安藤!
243:日本@名無史さん
03/09/20 10:31
おっ ひねってきたか
でもたいしたことはない
244:日本@名無史さん
03/09/20 10:38
反省しております
口は重宝だな
245:日本@名無史さん
03/09/20 12:12
問い1 寺領荘園の研究を書いた学者の名前を述べよ。そして、このひとが戦後歴史学
で成し遂げた大業績を実例をあげて説明せよ。
問い2 室町幕府の初期において、その支配形態を主従制支配と統治制支配の2重構造
になっていると規定した学者の名前を指摘せよ。
問い3 安良城盛昭の太閤検地の歴史的前提という論文について、研究史的観点からそれが
果たした役割を説明せよ。
246:日本@名無史さん
03/09/20 14:43
>>245
「~~せよ。」命令口調では博士はお答えしません。
回答して欲しければ遜った物言いをするように。
247:日本@名無史さん
03/09/20 15:02
傲慢だな安藤
248:修士(文学)
03/09/20 15:09
>>150
高家かどうかに話が集中していて、肝心の質問に答えが出ていないことに気付きました。
喜連川家は無位です。
249:日本@名無史さん
03/09/20 15:47
>>245
ああそうなんですか。じゃあ博士様にお伺いします。相田二郎の学統をうけつぎ
古文書学に機能論をはじめて導入したとある歴史家の研究史的評価をお伺いします。
また、安良城盛昭氏と網野善彦氏との後成敗式目42条の解釈ろんはどちらが
筋がとおっているんでしょうか。どうか、お教えください。博士様。
250:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 16:27
>>236-249 さらっと流し読み
よっしゃこい
251:日本@名無史さん
03/09/20 16:32
重複スレではないという理由をこたえてください。
252:日本@名無史さん
03/09/20 16:34
そりゃないよ。
また荒れるぞ。
削除されるぞ。
253:日本@名無史さん
03/09/20 16:35
>251
食いつき早いなw
待ってたのか?
254:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 16:47
>>251
こ
こ
は
、
ネ
タ
ス
レ
の
可
能
性
が
高
い
ら
し
い
ぞ
よっしゃこい
255:日本@名無史さん
03/09/20 18:03
錯乱してるな
低脳君
256:修士(文学)
03/09/20 18:14
>>240をさらっと流されてしまいましたが
少なくとも近世中期以降は幕府の職制としての高家とは認識されていなかったと思います。
武鑑類を見ると
正徳3年までは無官高家衆あるいは高家衆並と扱われていますが
享保3年以降は10万石以上格の宗家の次、9万5千石の土屋家の前に記載されており
10万石の格式として扱われています。
>>166の「高家(こうけ)として四品・十万石の格式を与えられ」という記述は
この両方を足したような見解となっており、正確さを欠くように思います。
257:日本@名無史さん
03/09/20 18:24
博士っ!!うそだよね?うそだって言ってよっ!!!
今までのことは全部ネタだったの?
このスレは博士を中心に日本史に情熱をもった人たちが日々熱い議論を
戦わせてきたじゃないか。
もちろんたまには、それぞれの日本史に対する思いがぶつかり合って
お互い傷つくこともあったけど、最終的にはお互いの歴史認識を、受け入れられ
ないまでも、認め合って、、、
2chで一番の良スレだと多くの人が認めていたじゃないかっ!!
博士からそんな発言がでるなんて、、、
ショックです。人間不信に陥りそうです。
お願いだから、うそだと言ってーーーっ!!!!!
258:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/20 18:28
>>257 うそ
よっしゃこい
259:257
03/09/20 20:05
ああ~よかった。
>251みたいな荒らしを追い返すためにわざと言ったんだね。
260:日本@名無史さん
03/09/20 21:11
∧_∧
( ^∀^) ∧_∧
/ \ ( ^o^ )
________ __| | | |_ / ヽ、
||\ .\ ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\\ \ .||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. \\ \ ||. . ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
\\ \ (;゚;ё;゚;´). _/ ヽ \| (゚ー゚* )
\\ \ ./ ヽ. | ヽ \ />修士 ヽ、
\\ / >>1 | | |ヽ、二⌒) / .| | |
\\ .(⌒\|__./ ./ .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ ./
\\ ~\_____ノ| ヽ、.___.( ) ~\_____ノ| ∧_∧
\\ \| _/ ヽ \| (´∇` )
\\ \ | ヽ \ / ヽ、
\\ \ | |ヽ、二⌒) / .| | |
261:通りすがり
03/09/20 21:39
このスレを読むというのは、カミュのシーシュポスの神話のシーシュポスみたいだな。
262:伊達家中
03/09/20 22:03
またまた盛り上がってますな~~
よっしゃこい
263:再選だあーー!
03/09/20 22:20
ミミ彡ミミミ彡彡ミミミミ
,,彡彡彡ミミミ彡彡彡彡彡彡
ミミ彡彡゙゙゙゙゙""::::::::::::::::ヾ彡彡 ヽ
ミミ彡゙ :::ミミ彡彡 つ
ミミ彡゙ _ _ ::: ミミミ彡ぁぁ
ミミ彡 '´ ̄ヽ '´ ̄`:::ミミ彡 あぁ
ミミ彡 、_(o)_,: _(o)_, |ミミ彡ああ
彡| | .|ミ彡 ぁあ
彡| ::< /|ミ|ミ
ゞ| .|ソ
ヽ /( [三] )ヽ:: /
,.|\、 ' /|、
 ̄ ̄| `\.`─'´/ | ̄ ̄`
\ ~\,,/~ /
\/▽\/
264:日本@名無史さん
03/09/20 22:37
>>260
自作自演ですか?
みっともないですよ。
ほんの少しだけ歴史の知識がある人だから
期待していたのに、
ちょっとがっかり。
265:修士(文学)
03/09/20 22:47
>>264
>>260のようなAAを張ることに、何らかの意味があるようには思いませんが。
266:日本@名無史さん
03/09/20 22:59
はいはい。
レスが早いね、
世間では四連休なのに、
一日中ネットとは、、、
本でも嫁ば~。
267:日本@名無史さん
03/09/20 23:05
>世間では四連休
???
268:日本@名無史さん
03/09/20 23:09
>>266
君の頭の中が四連休ということだね
269:日本@名無史さん
03/09/20 23:15
>>1 の頭は休みっぱなし
270:史学生
03/09/20 23:19
博士はお手はPCに向かって動いて居られます。
271:266
03/09/20 23:36
一人、誤解されてますね。
私は博士ではありませんよ。
272:日本@名無史さん
03/09/20 23:39
>>271
しかし4連休はキミの誤解では?
273:史学生
03/09/20 23:40
>>271
其れを言っちや~お仕舞いです。気持ちよくされて居れますのに。
274:日本@名無史さん
03/09/20 23:54
物凄いデムパ
275:日本@名無史さん
03/09/20 23:58
>>259~263
見厭きた(ry
>>264
かかってこいや!
>>265
コピペあらしの相手をした君もあらし!
>>266
さらっと(ry
>>267,268
月曜は例会があるので、四連休ではない。
>>269
う~ん、もうひとひねり。
>>270,273
文章を書き込むときに、エディタの使用をお奨めします。
文章を打ち込むことに特化されたソフトです。
>>271
君、誰?
>>272
しつこい、あらしはスルーが基本。
276:日本@名無史さん
03/09/21 00:10
WW2における日本軍の給与について教えてください。
応召した時点で国家公務員の扱いになったのでしょうか?
国家公務員が応召した場合、給与は元の職場と軍のどちらから払われたのですか。
また2等兵が全額仕送りしたとして家族を養える位もらえたのでしょうか?
277:日本@名無史さん
03/09/21 01:22
>>276
博士の収入についても教えてください。もちろん失業保険は除く。
278:日本@名無史さん
03/09/21 14:13
>>277
人間界を超越して霞を食って生きていらっしゃる博士に
収入だなんて下賎な言葉を使いなさんなよ。
君は頭のてっぺんから足の爪先まで世俗的なんだね。
279:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/21 15:13
>>276 しらん
よっしゃこい
280:日本@名無史さん
03/09/21 17:56
>>257
それは、全てあなたの思い込みです。
281:日本@名無史さん
03/09/21 18:37
>>63
それは、全てあなたの思い込みです。
282:日本@名無史さん
03/09/21 21:23
>>246
それは、全てあなたの思い込みです。
283:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/21 22:26
>>281 落ち着け
よっしゃこい
284:日本@名無史さん
03/09/21 22:50
削除依頼より>>閉鎖的な使用法を目的としている
そうかなぁ…
それ程じゃないと思うけど。。
それより重複ってのが合ってるんじゃないのかな?
285:日本@名無史さん
03/09/21 22:55
>>283
それは、全てあなたの思い込みです。
286:日本@名無史さん
03/09/21 23:08
法隆寺を直したのは藤原何か、またその時代な何時代のいつごろか
287:日本@名無史さん
03/09/21 23:10
>>284
>>60参照
288:日本@名無史さん
03/09/21 23:53
質問です。よく論文とかで「近代日本~」というものがありますが
「近代」の定義と「近代」とはいつからいつまでなのか教えてください。
289:日本@名無史さん
03/09/22 00:10
>>284
同意、>>251で博士自身が言ってるけどここはネタスレとして楽しむとこでしょう。
一回「スレッド立てる前に質問を」のスレに博士が乱入したときに
「自分のスレに帰ってください」って言ったら素直に退いたし
他のウザいコテハンに比べればだけど博士はまだマシ
290:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 00:29
>>284>>289 削除依頼を出した人は
150以上の板に出入りして削除依頼を出すのを趣味にしている人だからね。
日本史板の住人ではないんだよ(オチスレあり)
>>285 そのループネタいまいちだね。もう少しがんがれ
>>288 諸説あり。もう少し絞って質問した方がいいのでは?
よっしゃこい
291:日本@名無史さん
03/09/22 00:32
道化師のソネット・・・・・
292:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:02
>>288 あくまでも一例ね(やや古い議論になっている)
時代区分
人間の営為の総体が時間の中で変化して今日に
至った総過程を,幾つかの時代に分けてとらえる
ことをいい,ある時代をさらに細分することは,し
ばしば〈時期区分〉と呼ばれる。歴史を時代に区
分して理解することは,たんにそのほうが理解に
便利だからという理由に基づくものではなく,歴史
をどういうものと考え,その歴史の中で現代をど
のような位置にあるものと考えるかということ,す
なわち一定の時代区分を生み出す歴史観と価値
観とに根ざしている。宗教的行事や観念が紀年法
に現れる場合もあれば,主要生産用具の材料に
より石器時代,青銅器時代,鉄器時代などと時代
区分することもあり,文字の使用以前を野蛮時
代,文字の使用以降を文明時代と呼ぶこともあ
る。さらにある時代の顕著なできごとや支配階級
の名称や芸術の様式などによって,〈ルネサンス
時代〉とか〈啓蒙思想の時代〉とか〈武士時代〉とか
〈バロック時代〉などといった時代を設定する場合
もある。しかし時代区分の区分原理が全歴史に適
用されるのでなければ,時代区分としては恣意的
といわなければならない。
つづく
293:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:02
便宜的な時代区分として今日もっとも広く使われ
ているのは,古代・中世・現代(近代)という三時代
区分であるようにみえる。それは16世紀ヨーロッ
パのルネサンス運動の中で,この運動の指導者
たちが,これから出発すべき新しい時代を〈現
代〉,これに改新の手段を与える模範とすべきギ
リシア・ローマの古典古代文明を生んだ時代を
〈古代〉,その中間のキリスト教中心の時代を〈中
世〉ととらえたことに由来する。なおこの区分は,ド
イツの学者ケラリウス Christophus Cellarius
(1638‐1707)がその著作に用いてから一般化した
とされる。それは,古代と現代(近代)を重視する一
方,中世を過渡的で克服すべき時代とみるなど,
ヨーロッパ市民階級の台頭過程における彼らの自
己認識の表現として生み出されたものであった
が,世界史の時代区分だけでなく,各民族史にも
適用されうる便利なものであったため,その根底
にある価値観を離れて,文明化したすべての民族
の歴史の時代区分として使われるようになった。
しかしこの時代区分は,古代・中世・現代(近代)の
境界をどこにおくかについて意見の相違があり,
そしてこの相違は再び何をもって時代区分の原理
とするかに由来する。なお,この三時代区分を修
正して,中世と現代(近代)の間に〈近世〉を入れる
つづく
294:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:03
四時代区分も行われている。ただし各国史におけ
る時代区分はそれぞれ違う場合が多いので注意
を要する。
一方,マルクスは近代資本制の本質を明らかに
することによって人間による人間の搾取なき社会
の建設を革命の目標としたため,社会の全体的
構造の変革を可能にする方法概念として〈経済的
社会構成体〉(あるいはたんに〈社会構成〉)なる範
疇をつくりあげた。そして人類の歴史を社会の経
済構造を基礎とする社会構成の相次ぐ交替として
とらえ,原始共同体に後続する歴史時代の区分
原理を,当該社会の社会構成によって規定される
階級関係の質,搾取形態の質に求めた。マルクス
死後のマルクス主義者の間で,階級社会の時代
区分として,世界史の上に相次いで出現した奴隷
制社会,封建社会=農奴制社会,資本制社会=
自由な賃労働の社会を世界史上の古代・中世・現
代(近代)と等置する考え方が主流となり,このよう
な時代区分は原則としてすべて文化的民族の歴
史にもあてはまると考えられるに至った。しかしこ
の場合も,年代的にいつからいつまでをそれらの
時代とするかについてはさまざまな見解がある。
そればかりではなく,マルクスの《経済学批判》序
言に見える〈アジア的生産様式〉なる概念で表示
つづく
295:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:03
される社会構成が実際には何を意味したかにつ
いては長い論争史がある。すなわち奴隷制社会
のアジア的形態(古典古代の奴隷制社会よりも未
熟な形態)と解する見解や,〈古典古代的〉,〈封建
的〉,〈近代ブルジョア的〉生産諸様式と同列にあ
る別個の独立的生産様式と解する見解などがあ
り,いまだに意見の一致がみられない。さらにこ
れらの発展段階が原則としてすべての民族が通
過すべき諸段階であるとみる一系発展論と,巨視
的にみると不可逆の前進的諸段階ではあるが,
一定の条件のもと,とくに先進文明の影響下で
は,1段階または2段階をも飛び越えて発展するこ
とも可能であり,実際にそのような発展をとげた民
族が多い,とみる多系発展論との対立も現存す
る。今日の世界の学界の大勢は,後者の見解を
妥当とみなしつつあるようにみえる。
発展段階論は,マルクス主義のそれだけでな
く,ランプレヒトやコントの独自の文化発展段階論
の場合も,これまでの発展の中では現在をもっと
も発展した段階とみている点で共通しており,そ
のような発展によって失われたものや破壊された
つづく
296:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:04
ものもあることを無視している点で問題があると
いえる。時代区分としての発展段階論は,発展の
先端を基準としている点で,先進国論,先進地域
論という価値観を基礎にしているといえるが,世
界史の現実的な発展過程を冷静に観察すれば,
発展段階や文明様相を異にする諸民族・諸国家・
諸文明圏が現実的な関係をとり結んで歴史的世
界を形成しているのが実相であり,その中で発展
段階の移行も実現されてきたことがわかる。この
ような異質性の現実的出会いの場としての歴史的
世界を複数設定することによって,世界史の時代
区分はいっそう具体的な姿をとってくるにちがい
ないし,時代から時代への発展の必然性もいっそ
う明瞭にとらえられるはずである。民族史や国家
史の時代区分はこうした世界史の時代区分の中
に位置づけられてはじめて,その歴史的意義の理
解が深められることとなる。⇒歴史 太田 秀通
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
つづく
297:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:20
近代社会
一般に近代社会という場合,たんに一つの歴史的
時代区分をあらわすだけでなく,人はそこにさまざ
まな意味合いと価値観をこめる。まずそれは古い
封建的社会関係を克服した新しい社会であり,資
本主義の巨大な生産力によって担われている。多
くの場合,人は西ヨーロッパの歴史的発展のなか
にその典型と規準を見いだした。そのかぎりまた
近代社会は西ヨーロッパの市民社会と重なりあ
い,そこではなによりも個人がさまざまな社会的
束縛から解放され,自我に目覚めていくことにな
る。さらにこの近代社会は統一的な政治的国家と
対をなし,国民国家の形成と歩みを共にすると同
時に,立憲的民主主義をその政治的内容とする
のである(立憲主義,民主主義)。しかしとりわけ第
三世界をふくむ現代世界においては,この近代社
会の〈近代性〉がもつ〈負〉の役割もつよく意識され
はじめている。そのことを念頭においたうえでここ
ではまず,これまでもっとも有力な形で論じられて
きた近代社会観について述べることにしよう。
【資本制的発展との対応】
いまふれたように近代社会は封建的社会関係(封
建社会,封建国家,封建制度)の解体のなかから
つづく
298:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:21
生まれるから,そのかぎりで資本制的なブルジョ
ア社会と同じであり,産業資本をその担い手とす
るのである。マルクスは《経済学批判》序言の著
名な文章で次のように述べている。〈大づかみに
いって,アジア的,古代的,封建的,および近代ブ
ルジョア的生産様式を,経済的社会構成体が進
歩していく諸時期としてあげることができる。ブル
ジョア的生産諸関係は社会的生産過程の最後の
敵対的形態である。しかしブルジョア的社会の胎
内で発展しつつある生産諸力は,同時にこの敵対
の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。し
たがって,この社会構成体をもって人類社会の前
史は終わる〉。ここでは人類社会の歴史全体が継
起的展開のなかでとらえられ,ブルジョア社会は
その一つの発展段階であるが,しかしその社会は
また人間の歴史の矛盾が極限化し全面化した社
会であって,この社会が終わったところで歴史は
180度意味転換し,人間の〈真の歴史〉が始まると
いうのである。したがってマルクスの目からすれ
ば,ブルジョア社会すなわち近代社会のなかには
歴史の矛盾と敵対が全面的に表現されている。し
かし人類が真の歴史へと自己展開していくために
は,この〈前史〉は必然的に通過しなければならぬ
段階である。近代社会はその負をふくめて必然的
道筋である。この道筋は西ヨーロッパのなかで内
つづく
299:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:22
的必然性をもって展開する。しかし,それが〈世界
史〉に妥当する普遍性をもつかどうかは問題であ
る。現にロシアにおけるマルクスの同時代人たち
(たとえばチェルヌイシェフスキー)は,ブルジョア
社会を経験せず資本制社会をとびこえた発展の
かなたに,ロシアの未来をみたのである。
このようにブルジョア社会は,西ヨーロッパとアメ
リカのなかでいちじるしい発展をみるが,いずれ
にしてもその近代性が巨大な生産力によって裏打
ちされていたことはたしかである。そしてその発展
は西ヨーロッパのなかでもイギリスにおいてもっと
も典型的であったから,さしあたりイギリスを中心
に考察することが必要である。ここで発展が典型
的であるというのは,産業資本の基軸的担い手が
前期的資本のなかから出てきた中国や日本の場
合と異なって,西ヨーロッパ(とりわけイギリス)で
はそれが〈下から〉,つまり生産者としての農民層
から出てきたからである。イギリスでは農奴制は
14世紀には事実上なくなり,15世紀には封建的土
地所有は分解して,人口のかなりの部分は自分
たちの小さな自由保有地をもつ独立自営農民(と
りわけヨーマン)から成っていた。多くの場合ヨーマ
ン(農民上層)とジェントルマン(小地主層)は,毛織
物工業の展開のなかで織元を兼ね,これら半農
半工の中産的生産者層は新たな生産力の担い手
として〈民富 Volksreichtum〉を生み出し,やがて
つづく
300:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:28
この富に基づいて産業資本(マニュファクチュア)
の出発点を形成しはじめた。生産者が中世の自
然経済やギルドに対抗して近代的な資本家に上
昇していくためには,それに見合うだけの生産力
の裏づけをもたねばならず,貨幣形態をとった富
の蓄積を前提とするから,彼ら独立自営農民によ
る民富の形成が近代化の出発点であった。つまり
彼らこそイギリス近代社会を生み出す主体であっ
た(この考え方の代表は大塚久雄で,それは戦後
日本の近代化のコースを考える場合に大きな意
味をもった)。
しかし農民層が近代的生産力の担い手となるた
めには,自分たちの胎内から産業ブルジョアジー
とプロレタリアートの両層を生み出すことが必要で
ある。すなわち彼らの階層分化が必然的となる。
資本制的社会を創り出していくためには,労働者
を自分の労働条件の所有から分離する過程,す
なわち一方では社会の生活手段と生産手段を資
本に転化させ,他方で直接生産者を賃金労働者
(賃労働)に転化させる過程が必要である。つまり
生産者と生産手段を歴史的に分離する〈本源的
蓄積(原始的蓄積)〉の歩みが必要であった。15世
紀の最後の3分の1から16世紀前半にかけて遂行
されたこの過程が資本の前史であった。封建貴族
は羊毛マニュファクチュアに刺激されて,土地に
対して権利をもっていた農民をその土地から暴力
つづく
301:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:29
的に追い出し,さらに農民の共有地を横領して,
巨大なプロレタリアートをつくりだした。この過程を
土台にしながらイギリスでは,16世紀後半から18
世紀中ごろにかけて資本制的生産様式としての
マニュファクチュアが成立し,さらに17世紀には多
分に早熟的な市民革命が遂行される。しかしマル
クスによれば上述の強行的過程が進行するなか
で,1750年にはヨーマンはほとんど消滅してしま
う。農民から土地を取り上げる大がかりな収奪過
程は土地の〈クリーニング〉として進行し,農民は
階層分解してその大きな部分は近代的なプロレタ
リアートとなる。他面では,先に述べたように,半
農半工の中産的生産者層のなかから,産業革命
の過程を経て,工場主が,つまり産業資本家が生
まれるのである。
これが近代社会を生み出すための古典的な道
であるが,同じヨーロッパのなかでもフランスやド
イツ(とりわけプロイセン)の近代化コースはそれぞ
れに異なる。いずれの場合も前期的資本が問屋
制度の支配網をとおして小生産者を自己の支配
下におきつつ,生産過程を直接掌握する点でイギ
リスと異なる。フランスのアンシャン・レジームの
場合,前期的商人層から特権的マニュファクチュ
アがあらわれ,いわゆる〈大工業〉に展開するが,
その発展は絶対主義的封建勢力と結びつきなが
ら行われたものであり,古い封建的生産様式を保
つづく
302:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:37
存することが自己の存立の前提であった。しかし
そこからも独立自営農民の産業資本家への転化
の道が準備され,絶対王権に対する彼らの闘争
は1789年以降のブルジョア革命(フランス革命)を
とおして完成する。他方,プロイセンの近代化はイ
ギリスやフランスと比べて純粋な展開ではなく,16
世紀に成立したグーツヘルシャフトを歴史的前提
としていた。それは比較的自由な農民をふたたび
封建的束縛のなかにおき,その地代を賦役に転
化させ,彼らを〈再版農奴制〉のなかに再編したも
のであった。1808年以降ここでも農民解放が進む
が,しかし〈グーツヘル(領主)〉は自己の農業経営
を資本制化し,農民を半封建的な賃金労働者へ
転化させ,そのことによって近代化の道を歩む。こ
うしてプロイセンでは封建的地主経営が同時に近
代的な資本制生産であり,しばしば領主と資本家
が同一人格であるというユンカー経営が成立し
た。中産的生産者が資本家へ転化する道はここ
には準備されていない。
【西ヨーロッパ市民社会と近代】
以上述べたような観点に立てば,近代社会という
のは封建的中世のあとに継起する歴史の一発展
段階というだけでなく,しばしばそれは後進性を克
服するための一つの理念目標であり,西ヨーロッ
パ市民社会を範とする思想化されたモデルであ
る。その場合イギリスがもっとも古典的で完成され
つづく
303:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:37
た近代化のモデルであるとすれば,ドイツの発展
は未熟で跛行的である。そこでは封建的諸要素と
近代的諸要素とが雑居し,その社会は前にも進め
ず後にも退けない閉塞状況に陥っている。マルク
スとエンゲルスはこのドイツの現状を〈ドイツ的み
じめさ〉と呼んだ。それはドイツの資本主義の発達
の特殊性を意味するとともに,ドイツの未熟な市
民性をあらわし,近代社会としてのドイツの未完
成を指していた。それは同時に西ヨーロッパ的市
民社会の成熟度をはかる言葉であったともいえ
る。
西ヨーロッパの社会思想史においては,国家と
市民社会とはしばしば統一的にとらえられてきた
のだが,19世紀にはいって近代社会が問題にな
るにいたると,政治国家と市民社会という二つの
概念は分離する。市民社会のなかで個人は私人
としてもっぱら自分の私的利益を追求し,他人を
そのための手段とみなすから,ヘーゲルの言葉を
かりれば市民社会は〈欲求の体系〉である。他方
マルクスによれば,普遍者としての国家は,私的
所有や職業などによる市民的区別を形式的に廃
止するが,しかし事実上はこの区別を廃止するど
ころか,むしろ自身の存在要件としている。したが
って近代社会のなかで人間は二重生活を営んで
いる。政治国家の一員としては人間は共同的存
在であり,市民社会の成員としては分裂的私人で
つづく
304:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:38
ある。マルクスは人間のこの二つのあり方の統合
のなかに人間の解放をみるのである。すなわち現
実の個別的な人間が〈個別的人間のままでありな
がら類的存在となったときはじめて,つまり人間が
自分の“固有の力”を社会的な力として認識したと
きはじめて,人間的解放は完成されたことにな
る〉。マルクスは,個人の私的利益追求がそのま
ま共同体の利益となり,個人の才能や欲望をのば
すことが共同体の利益に反するどころか,むしろ
その実現につながるという展望のなかに,近代を
超克する道をみたのである。
個人と共同体を相関的にとらえるこの考え方
は,ひとりマルクスにとどまらず,西ヨーロッパ近
代社会観の特質の一つであった。たとえば17世紀
合理主義を代表するライプニッツがそうである。そ
の形而上学の世界では,原初的な霊魂単位であ
るモナドは,それぞれ固有の力をもつことで個性
的であり,その衝動,本能,意志は独立している
のに,またその運動はまったく自由であるのに,
宇宙全体の連続的系列のなかに調和的に位置づ
けられることになる。神の〈見えざる手〉に関する
アダム・スミスの考え方も同じである。この啓蒙期
の思想では,各人が利己心に基づいて自分の利
益または幸福を追求すれば,それがおのずから
社会の公益と一致すると考えられたのである。あ
るいは19世紀にはいってヘーゲルの〈理性の狡
つづく
305:本@名無史さん
03/09/22 02:40
ヒトラーは州何回ぐらいやっていましたか?
306:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:51
智(こうち)〉という発想も,考え方の骨格において
同じである。そこでは,実存的個物がたがいに矛
盾し,衝突して,身を滅ぼしていくことが,全体的
には普遍的理念を現実化する道につながる,と考
えられる。以上の考え方が示すように,個人が全
体によって押しつぶされ奴隷化されるのではなく,
むしろ個人があくまで個人としての自分をつらぬ
き,自分の個性や才能を自由に発揮することこそ
が,共同社会の利益につながるという発想は,西
ヨーロッパの伝統的市民社会観の根底を流れて
おり,それが近代社会の人間観を支えるのであ
る。
しかし機械技術が高度化した近代社会の現実に
おいては,個人の利害関心と共同体の目標は一
致していない。たとえばマルクスは資本制的(商品
生産)社会においては物と物の関係が人間を支配
し,そこから人間の普遍的疎外が生じ,目的と手
段が転倒すると考える。M. ウェーバーもまた,近
代資本主義においては目的に対する手段の合理
性が貫徹するが,やがて目的と手段は転倒し,合
理が非合理に転化すると考える。この合理性は政
治的には官僚制的専門化の形式をとる。そして官
僚制的支配は現代社会が抱えるもっとも深刻な問
題の一つとなる。だがウェーバーの考えによれ
ば,個人はその合理的強制のただなかにあるに
もかかわらず,というよりまさにそうした合理性の
つづく
307:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 02:51
支配のなかにあるからこそ,みずから責任を負う
自立した人間として内面的に自由をまっとうする
のである。こうした自由論も近代社会における人
間観の特質である。
こうして近代社会の特徴の一つは,個人が自分
の才能や意志や思想に忠実に生き,そのかぎり
近代的自我を確立するということである。歴史をさ
かのぼってみればみるほど,個人はなお自立せ
ず,自然的なあり方で,家族と一体化しており,ま
た共同体のなかに吸収されている。市民社会にな
ってはじめて,さまざまな社会的関係が外的で客
観的な必然性として個人に対立してくる。個人は
ここではじめて家や共同体の束縛や強制から離
れて,自分を自由な存在として自覚するようにな
る。カリスマは否定され,宗教は個人の自由な内
面の問題とされる(政教分離)。この近代社会の思
想潮流のなかでさまざまな解放思想が生まれる。
女性解放などもその一つである。
こうして近代社会は人間をまだ解放しはしない
けれども,個人的自我意識の確立をとおして解放
を準備するのであり,またそれ自体社会的な対立
や矛盾をますます激化させるにしても,巨大な生
産力の展開をとおしていつか矛盾を解消するとい
う展望を打ち出すことができる。市民(ブルジョア)
と国家公民(シトアイヤン)の対立のように,ここで
はなお個人の私的関心と類の普遍的利益とは一
つづく
308:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:00
致せず,むしろ人間の疎外が全面化するけれど
も,しかしこの近代市民社会をとおして人類の歴
史的展望がひらけるというのである。これは一つ
の近代史観である。
【アジア的社会と近代】
西ヨーロッパ的近代社会の観点からして,それと
対照的なモデルを構成するのがアジア的社会で
ある。ここで〈アジア的〉といわれる場合,地理的
に特定されたアジアを指しているのではなく,むし
ろそれはたんに非西欧を意味するモデル社会に
すぎない。西ヨーロッパ社会で〈オリエント的〉とか
〈スラブ的〉といわれる場合も同様である。そこで
は人間の生活がまだ自然と一体化していて,人間
が自然の束縛や制限から脱け出せないでおり,
個人は人格として独立し,自覚するにいたってお
らず,専制君主のもとで,またその官僚制のもと
で奴隷として過ごしているか,家父長制的共同体
のなかで没個性的に暮らすか,である。そこでは
手工業をふくむ再生産構造は自足的であるが,ま
ったく停滞的で発展がない,というのである。これ
に反して西ヨーロッパ的社会というのはこの〈普遍
的奴隷制〉と正反対の構造である。それは,個人
の人間的自覚をエネルギー源とした生産諸力の
進歩に裏打ちされて,市民社会の文化をとおし
て,また中産階級を担い手として生まれてくる。ロ
シアに中産階級はないというヘーゲルの法哲学
つづく
309:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:04
における評言も,意味するところは同じである。
近代的観点からみれば,このアジア的ないしオ
リエント的なモデル社会も閉塞的であり停滞的で
あるから,それは歴史をもたない社会である。そ
こでは人々は自由や理性には縁がなく,深海の底
に生きる魚のように無自覚のまま自然にとりこま
れている。意志をもつのは専制君主だけで,残余
の者はすべて不感症の奴隷として支配されてい
る。それに反して西ヨーロッパに範例をもつ近代
社会においては,その成員は人間的自覚に基づ
き,人間的類の実現をめざして創造的に労働す
る。個人があくまでも個人であることを失わず,し
かも個人であることによって同時に類的かつ共同
的なものを追求しようという社会構造をもつので
ある。すでに述べたように,この近代化コースは
ブルジョア的発展の道であり,資本制的な世界市
場の展開と軌を一にしている。そしてこの近代的
発展と歩みを共にすることができない民族は〈歴
史なき民族〉(エンゲルス)といわれるのである。
近代社会が西ヨーロッパ市民社会に古典的範
例を求めながら資本制的発展のうえに成立すると
すれば,それはまた,少なくとも歴史の過渡的歩
みのなかでは,統一的な国内市場や統合された
国民経済を背景にもつことになるだろうし,統一言
語や国民文学を創り出し,国民的基盤での軍隊を
つづく
310:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:06
生み,そして政治的には国民国家(民族国家とも
いう)を一つの枠組みとしてもつことになろう。エン
ゲルスは1884年に書かれた手稿のなかで,中世
初期における諸部族 Volk の混合のなかからしだ
いに新しい民族体 Nationalit∵t が発展してきたこ
と,また言語群の境界がひとたび画されるように
なると,民族体が近代化し,やがて民族 Nation
に発展することを指摘した。ここでは,部族―民族
体―近代的民族体―民族が近代社会に向かう歴
史的展開として図式的にとらえられた。ここで民族
は,文化的伝統,言語,慣習,風俗などで固有性
をもつものとしてだけでなく,資本制的近代社会に
対応する概念としてとらえられている。したがっ
て,またここに成立した〈民族〉はあくまでも近代
的存在として民族国家に対応するのである。だが
民族が近代的・資本制的発展と重なりあうなかで
はじめて成立するのだとすれば,多民族国家内に
共存する民族体はもはや民族ではありえず,自分
たちの近代社会をもちえない存在となる。多民族
国家のなかで,ある特定の民族が自己を民族とし
て主張し,その国家を自分たちの民族国家たらし
めようとすれば,そこでの他の諸民族はそれに従
属する以外になく,結局,非近代的な民族体にと
どまることになろう。ここでは民族体と民族は,エ
ンゲルスのいうような歴史的発展の関係ではな
く,国家権力を媒介にした支配と従属の関係であ
つづく
311:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:06
る。19世紀ヨーロッパ史が実例をもって示したよう
に,近代社会は,民族国家と重ねあわされるかぎ
り,ここでも多くの矛盾を内包したのである。
後進国ないし発展途上国においては,近代化は
避けてとおることのできない問題である。しかし,
近代社会の西ヨーロッパ的モデルをそれらの諸国
に外から機械的に適用しても,それら諸国に内在
する問題の解決にはなんら役立たない。その意味
で西ヨーロッパの発展は普遍的な規準ではない
のである。そればかりでなく,最近では人間社会
にとっての近代化の有効性についてさまざまな疑
義が提示されるようになった。そもそも資本制的
近代化の歩みは生産者の意識的活動によって自
然の制限を取り除き,同時に生産力を高めるはず
のものであったが,いまや生産力の上昇は自然
的資源のかぎりない収奪と破壊に向けられ,計り
知れぬほどのマイナス効果を生み出している。近
代社会を生むことが人間社会の前進につながると
いう素朴な楽天主義は消え,さまざまな意味での
近代の見直しが課題となっている。⇒近代化
∥近代主義 良知 力
【日本の近代社会】
[天皇の国] 日本は,ペリー艦隊の砲艦外交の
前に,いやおうなく資本主義世界の内にとりこま
れた。そのため嘉永癸丑(1853)の衝撃は,のちに
つづく
312:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:22
王政復古を生み出した原点として意識された。こ
こに〈徳川日本〉は,欧米の軍事・経済的圧力の下
に,幕藩的割拠体制にかわる新しい民族的結集
をはからねばならなかった。〈御一新〉をめざす諸
運動は,民族精神の結集による新国家の樹立に
より,圧倒的に優勢な欧米の力に対抗しようとし
たものにほかならない。そこでは,軍事・経済的に
劣るだけで,日本が外国と異なり民族的に優越し
ているという主張が唯一の精神的なよりどころと
意識された。こうした民族精神の確認は,諸外国
が易姓革命・王位簒奪という〈血にまみれた〉歴史
でいろどられているのに対し,日本のみが〈万世
一系の皇統〉をもつ〈皇国〉であるという国体神話
に求められ,日本的選民意識ともいうべきものを
形成した。いわば日本は,天皇を国土一体の惣天
子で万国の総帝とみなし,万国の祖国・君上国た
る〈皇国〉である世界の大帝国と位置づけられた。
この民族神話こそは,倒幕運動を支えた志士のよ
りどころであり,藩割拠的な意識を天皇を中心と
する民族精神に結集せしめたものにほかならな
い。
醍長討幕派を主勢力とする維新政府は,〈王政
復古〉〈万機親裁〉をかかげ,天皇が国家の根軸
であり,権力の主体であることを強く主張すること
で国家の基盤をかためようとした。そのため戊辰
つづく
313:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:23
戦争においては大坂行幸,東京行幸で天皇〈親
征〉の実を示し,国家形成期においては親政の実
現をめざした。親政は,西南戦争ごろまで天皇が
祭主的性格をおびて〈親臨〉するという統治形態
であったが,天皇が少年から青年へ成長するのを
ふまえ,〈有司専制〉批判に対処するうえからも政
治の場に深くかかわるべきだとする親裁論として
展開された。しかし親裁論は,侍補の廃止,明治
14年の政変(1881),皇室財産の設定建議等をう
け,伊藤博文らが主張する〈事ヲ統テ事ヲ執ラス〉
という〈親統論〉の前にしりぞけられた。ここに伊
藤ら国家指導者は,政府と一体である天皇を政治
の支柱とする国家構想を,国体神話で潤色するこ
とで大日本帝国憲法として発布した。かくて近代
日本の国家は,国体神話による〈神聖天皇〉を頭
首にいただきながらも,天皇を〈事ヲ統テ事ヲ執ラ
ス〉と権力を運用する機関とみなすことで機構とし
て成立せしめられた。
[文明の政府] 政府は,〈開国和親〉〈富国強
兵〉をかかげ,欧米列強の軍事・経済力に比肩し
うるだけの〈文明国〉たることを課題とした。このこ
とは,欧米近代国家の諸制度を積極的にとりこ
み,日本の文明化・近代化をはかることにほかな
らない。近代化は,政治・経済機構のみならず,軍
事・教育制度から,日常生活における文化様式に
つづく
314:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:23
いたるまで欧米的規範と制度の主体的導入によ
ってはかろうとした。その一端は,違式壷違(いしき
かいい)条例によって〈軒外ヘ木石炭薪等積置ク
者〉〈新規ニ板葺ノ家作スル者〉〈耀除ノ者蓋ナキ
糞桶ヲ用ヒ或ハ蓋ヲ疎漏ニシテ運搬スル者〉など
を取り締まったように,民衆の生活実態を無視し
た強権的な文明化として展開された。そのため民
俗的慣行は〈蛮風〉とみなされ,〈裸寒参り〉のみな
らず諸祭礼をはじめ,盆踊や田植行事から遍路,
門付芸等々にいたるまで,民衆のまつりと遊びが
規制された。天皇は,このような文明化政策の体
現者として,牛乳を飲み肉を食い洋服を着用する
〈啓蒙専制君主〉として広く喧伝され,〈開化の天
皇〉たる一面を強調した。かつ〈一君万民〉論に基
づき,天皇を国民の父母となし,日常的な生活の
場で慈父たる天皇が確認されるような制度的保障
をした。
1873年の〈年中祭日祝日等ノ休暇〉は,旧来の
五節句祝い(人日,上巳,端午,七夕,重陽)を否
定し,神武天皇の即位日たる紀元節(2月11日)と
天皇誕生日たる天長節(11月3日)を中心に古代以
来の宮廷儀礼の復活という体裁をとりつつ,まっ
たく新たに国家の祝祭日を決定したものにほかな
らない。それらは,王室の誕生が国家の創設であ
るヨーロッパ君主国の国家儀礼の様式に学んだも
つづく
315:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:44
のだけに,民衆の日常的な生活感覚と慣行になじ
まなかった。ちなみに国家祝祭日を理解しえたの
は,在日外国人とともに,〈文明の宗教〉としての
キリスト教を説く教会であった。それだけに民衆
は,祝祭日を世間の人の心にもない日を祝わせよ
うとする日とみなし,政府が〈赤丸を売る看板の如
き幟や提灯を出さする日〉かとも揶揄(やゆ)した。
そのため政府は91年の小学校祝日大祭日儀式規
程で小学校教育のなかに祝祭日儀式を位置づけ
て強要するとともに,教科書等で〈天長節〉等に関
する意義を説かねばならなかった。1900年の金港
堂版《国語読本》は,《天長節》と題し,家の床の
間に〈天皇陛下〉という軸をかけ,菊花をいけ,そ
の前で家の主人が一家をひきつれて礼拝してい
る図をかかげ,〈今日ハ,天長節トイッテ,今ノ天
子様ノ御生マレアソバシタ日デアルカラ,一家コゾ
ッテ,御祝ヲ申上ゲテ居ル〉と説明している。また
〈日本国〉なる課では,〈たふとき天皇ましまして,
民をみること子のごとし〉と〈天皇の国〉たることを
説き,天皇に帰一する国家意識の育成をはかろう
とした。こうした教育こそは,国家祝祭日を国旗を
出さねばならない日とみなして〈ハタ日〉と称し,日
常生活の折り目をなす固有なる祝祭日を〈ハレ
日〉とする感覚を生じた。このハタ日とハレ日とい
う二重感覚こそは,ヨーロッパ君主国にならうこと
つづく
316:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/22 03:45
で〈文明の国〉たらんとした政府の施策に対し,民
衆の日常生活を場とした秩序感覚を具体的に示
したものにほかならない。
[国家と民衆] 政府の文明化政策は,天皇の存
在や恩愛すら理解しない〈頑愚なる人民〉に対し,
仁愛を及ぼす啓蒙と意識されていた。権力の行使
は,〈一国は一家なり,政府は父母なり,人民は子
なり,警察は其保傅なり〉(川路利良《警察手眼》)
との言が述べるように,いまだ開化に浴さぬ〈幼
者〉に対する保育にほかならない。それだけに国
家は,民衆の〈撫育教導〉を天皇の名による権力
の貫徹としてはかり,頑愚未開な民衆を開化させ
るという使命観で支配した。このことは,学校教育
における〈天皇の国〉意識の涵養(かんよう)のみな
らず,組織的な集団行動の体得,地域言語として
の方言にかわる〈標準語〉という〈国語〉学習の強
化等々として展開された。学校体育と運動会や遠
足は集団行動の訓練場であった。また1900年の
義務教育4年制を銘記した改正小学校令による小
学校校則は,〈初ハ発音ヲ正シ,仮名ノ読ミ方,書
キ方,綴リ方ヲ知ラシメ〉と,〈標準語〉教育を第一
課題としていた。それは下士卒の国語力向上が
〈国軍〉としての軍隊の統一と質的向上に欠かせ
なかったことによる。こうした〈文明〉の名による集
権化こそは,藩割拠的な〈クニ〉意識を打破し,天
皇につらなる国家意識を確立するうえでの急務で
つづく
317:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
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あった。しかし民衆の意識は,いかに〈頑愚未開〉
といわれようとも,五節句等を軸にした生活を守
り,方言的秩序において暮らしていた。しかし一方
では,維新当初に〈御触御布告はみなチンプン漢
語の四角張ったる文字となり〉と揶揄した民衆の
言語感覚をして,日露戦争後になると,〈漢語〉に
よる行政文書の用語が話しことばとして利用さ
れ,村長や学校教師らが一般に使用することでお
役所ことばを〈標準語〉とする言語感覚が育てられ
てきたという。
このことは,ハタ日たる国家祝祭日が〈天長節大
運動会〉というような村落行事として認知され,あ
らためて位置づけなおされる動きと共通する心意
に支えられていた。それは,日露戦争の勝利意識
をふまえ,ムラ意識による〈クニ〉にかわり,〈天皇
の国〉たる〈大帝国〉の国民という自覚を促すこと
で〈国家〉意識がはぐくまれたことともかかわって
いよう。こうした〈大帝国〉という観念は,〈一等国〉
意識を強調することで,生活習俗の改良をめざす
〈村落更生〉運動においてとくに強調された。しか
し民衆生活は,昭和恐慌下の〈農山漁村経済更生
運動〉においても,習俗改良があらためて強調さ
れたように,ムラの暮しとして根強く〈文明の政府〉
に対峙しつづけた。それだけに日本の近代社会
は〈文明の政府〉が展開する政治と民衆生活に根
つづく
318:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
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ざした民俗的伝統が生み出す慣習的秩序との相
克に悩まされた。いわば〈天皇の国〉は,ヨーロッ
パの君主制に基づく〈文明の統治〉として政治を展
開しながらも,国家と民衆の亀裂を内包している
がために,国家的危機において常に〈国体神話〉
による天皇信仰を強調せねばならなかった。その
一端は,日露戦争後の国軍が物質的威力に勝る
精神力の優位を説き,やがて昭和初頭に軍隊の
大衆化に対して〈必勝の信念〉を支えるものとして
〈天皇信仰〉の発露を力説し,15年戦争下で〈天皇
親率〉の〈皇軍〉意識を強調しなくてはならなくなっ
た軍隊の姿にもうかがえよう。
このことは,〈事ヲ統テ事ヲ執ラス〉という天皇の
名による政治が行きづまったとき,国体神話によ
る天皇イデオロギーをあらわとするしか民族的結
集がはかれなかったことと共通する世界にほかな
らない。まさに日本の近代社会は,危機における
民族結集の場を国体神話が生み出す天皇信仰で
はかりつつ,〈文明の政府〉として西欧君主国にお
ける統治形態にならい制度機構を整備したのだっ
た。こうした国家の権力支配がもつ〈開明性〉は,
民衆の日常的な生活文化と鋭く対峙する存在で
あった。それだけに国家は,社会的危機にさい
し,民衆の慣習的秩序が生み出す世界に国体神
話を架橋することによって,民族的一体感を築こ
つづく