03/09/16 22:59
そもそも大宝令下の国郡制の枠組みは近代に至るまで絶対不変で維持されてきたのだろうか?
国郡制の枠組みが意味を持つのはどういう場合なのだろうか?
郡という区画は区域を表す単位だが、公権力行使のための単位(行政区画)としては、意外に短い期間しか使われていない。
古代にはそれでも地域によっては2~300年間は機能したが、平安時代に国郡郷里制が荘園や保などという
徴税単位に取って代わられ、律令制度の国司の下で郡の権力を担当していた郡司たちが没落したり、
荘園や保などの在地管理者として自立したりして、郡は行政単位としては機能しなくなる。
その後の長い武家支配の時代にも「郡」は単に地域を表す機能しか果たしていない。
戦国の武将や大名の領地支配に郡が特別の機能を持っていたとは考えられない。
幕藩体制下の江戸時代には、今の字や大字に当たる当時の村や郷が領地支配の単位である。
郡は村名の前に付けた単なる広域名でしかなかった。
104の専門が近世の何かは不明ですが、この国には極く限られた在地支配者以外に、圧倒的多数の人々が日々を営んでいます。
そうした人々を無視することなく御研究に精進してくだされば甚嬉。