03/09/14 02:59
待望の第七弾、厳かに始まります。
それではどうぞ・・・
よっしゃこい
2:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/14 03:00
2
よっしゃこい
3:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/14 03:00
3です。
よっしゃこい
4:日本@名無史さん
03/09/14 03:45
4げと
博士、新スレおめでとうございます!
5:日本@名無史さん
03/09/14 09:44
いつになったら韓国はベトナムに謝罪と賠償するの?[1] 06/22 18:12 ID:jM+pU4YZ
百歩譲って韓国人の日本統治時代に対する歴史観が少しくらいは事実だったとしても、
ベトナム戦争で30万人も虐殺して万単位の混血児残したくせに 省9
--------------------------------------------------------------------------------
[866]歴史学博士の俺様 ◆K8JwsRGBmo 09/06 06:37 ID:G2aN3k4X
ということで、私が代わりに謝罪します。
「ごめんなまんこ」
よっしゃこい
URLリンク(ex.2ch.net)
6:○
03/09/14 09:51
839 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/12(金) 22:29
歴史初心者ですが、博士のおすすめの歴史入門本は何?
(マンガはのぞく)
841 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/12(金) 23:03
>>838 ま、おまいより等級は上だぞ
>>839 ヘロドトス『歴史』(岩波文庫)
845 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/12(金) 23:15
>>844
別に釣ろうと思ったわけではないのだわ。
人間に「等級」をつけるというところに、知性が感じられないなと思った次第。
846 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/12(金) 23:21
>>845 等級って公務員・大学教員・学芸員の
給料や旅費の基準になるやつのことだよ。
861 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/13(土) 01:00
>>858 「ネタスレ」って知ってるか?
スレリンク(history板)l50
7:○
03/09/14 09:54
869 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/13(土) 07:45
過去スレで「ネタスレ」だと言われて反発していのに・・・
>素人が最初に歴史学の入門書を読むとき何を進めますか?
真っ当な研究者ならこの質問に場当り的な返事をすることもないし・・・
870 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/13(土) 07:57
>>869 ヘロドトスの『歴史』・・・世界の歴史書の元祖と言われる有名な本。
白石の『読史余論』・・・江戸時代に最も広く読まれた歴史書。
ともに岩波文庫(絶版)に入ってる。
場当たり的ではないだろ
881 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/13(土) 11:11
>白石の『読史余論』・・・江戸時代に最も広く読まれた歴史書。
江戸時代には現役の歴史書だったとは思うが
今は当時の歴史観を知るための史料と見るべきだろう。
903 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/13(土) 18:52
>>870
つうかバカセよ、喪前ヘロドトスの『歴史』を読んだこと無いだろう。
トゥキデデス なら分かるよ、トゥキデデスならね。←ググッテモ一件しかないからw
地中海関連の史実を学びたい学生に入門書としてすすめる場合はね。
喪前は「板違い」という言葉をその時の状況で使い分けているが、ここは(日本史の)学問板だ。
日本史でも西洋史でも喪前より遥か高みに存する俺様が特別に教えてやる。サービスだぞ。
URLリンク(moonover.age.jp)
>>ヘロドトスといえば、「歴史」という書物でもって、古代エジプトについてギリシア人の視点から書いた人物です。社会の教科書にも出てきます。しかし、だからと言って、全面的に信用するのは間違い。
この[歴史]にはかなりカン違いや伝聞が入っており、歴史書としては胡散臭いことこの上ない作品なのです。
スレリンク(history板)l50
8:日本@名無史さん
03/09/14 10:24
621 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/06(土) 21:40
豊臣秀吉の歴史上の評価はどうなっているのでしょうか?
630 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/06(土) 22:34
>>621
一般的には太閤検地が、中世と近世を分ける指標とみなされていますが久留島典子氏のように、
太閤検地をあまり高く評価しない人もいますからなかなか一筋縄では行きません。
635 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/06(土) 23:03
>>621
太閤検地の画期性は中世史と近世史では評価が大きく異なる。中世史では画期性を認めなかったり、
低く見る傾向が強い。
近世史では安良城理論を認め、画期性を強調する。惣無事令は中世史と近世史で評価を共有している。
644 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 00:32
>惣無事令は中世史と近世史で評価を共有している。
藤木説には異論も出ていると思いますがいかがなものでしょう?
647 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 00:54
>>644 もちろん一致している訳ではない。
共通の土俵で議論することが可能でしょ?
650 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 01:20
>>647
惣無事令をめぐる永原慶二と藤木久志の議論を共通の土俵に立つというなら太閤検地をどう見るかという議論も、
共通の土俵に立っていると思いますが。
652 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 01:40
>>650
太閤検地をめぐる断絶に比べたらはるかに差は小さい。繰り返すが、一致している訳ではない。
653 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 01:58
>>652
一致しているわけではないことはわかってますので、繰り返していただく必要はありません。
なにゆえ差が小さいと判断されるのかその根拠をお示し下さい。
それから「同じ土俵」という言葉の使い方ですが差が小さければ同じ土俵で差が大きければ同じ土俵ではない、
ということにはならないと思います。議論が成り立てば同じ土俵の上だと思います。
まあともかくも学位をお持ちならばこのような曖昧な言い回しはせずに、的確に答えていただきたいものです。
9:日本@名無史さん
03/09/14 10:25
655 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 02:13
惣無事令・・・結局藤木説をめぐる議論
太閤検地・・・安良城理論をめぐる議論、では済まない
658 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 09:25
>太閤検地・・・安良城理論をめぐる議論、では済まない
これはどういう点をさしているのか、もう少し具体的に書いてもらえませんか?
太閤検地に画期性を認めないから、というような簡単な答えはダメですよ。
660 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 09:40
>>658 1954年以来続く中世史と近世史の対話不能の現状。
670 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/07(日) 10:53
>>660
太閤検地論争が中世史と近世史の研究の断絶を生んだといわれてきましたが80年代後半以降
中世史の側からは池上裕子氏が
近世史の側からは水本邦彦氏が
それぞれ中世・近世の連続性を指摘する論考を発表しています。
私は現状を70年代のような対話不能の状況とは見ていません。
673 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 11:03
>>670 連続説だからといっても対話は成立していません。
連続か断絶かという問題ではないのです。
674 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 11:09
>>673
どうやら近年の研究状況をご存じないようにお見受けする。
676 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 11:26
>>674 いいえ。あなたが中世史専攻だからだと思いますよ。
水本が藤木の批判に応えず、また水本自身が近世初期村落史のやめてしまいました。
確かに水本の研究は80年代から90年代の初頭までは大きな影響を持ちましたが、
水本説を継承している近世史研究者はほとんどいないのが現状ではないのでしょうか?
10:日本@名無史さん
03/09/14 10:26
678 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/07(日) 11:35
>>676
私は近世史なんですがねえ。
例えば都市史の分野では1617会といった中世史・近世史双方の研究者からなる研究会も生まれています。
こういう動きはこれからは他の分野にも広まっていくだろうと私は考えています。
680 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 11:53
>>678 共同研究は昔からいくらでもやってますよ。何の例証にもならないと思いますが。
683 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 12:03
>>680
>共同研究は昔からいくらでもやってますよ。
どのような共同研究があったのかそしてその共同研究において、中世と近世の研究者がどのように断絶していたかを具体的に示して下さい。
また>>676に
>水本が藤木の批判に応えずと書いていますが
『近世の郷村自治と行政』第3章の付記で水本は藤木の批判に対してコメントを記しています。
685 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 12:15
>>683 科研の報告書を検索して下さい。
あるいは、学会の大会でも該当するものを見て下さい。水本は全面的に反論しているのですか?
687 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/09/07(日) 12:24
>>685
いくらでもあるって言うんだから、ひとつくらい自分で例を挙げられるでしょ?
あげられなければ、知ったかぶりと判断せざるを得ませんが。
水本の例もそうです。
>>685を見る限り、あなたは水本の著作を読んでいないことは明らかです。
他者の研究史整理に乗っかって議論するのは止めた方が宜しい。
689 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 12:32
>>687 今年の東歴研の大会。
普段の都市史研究会。全面的な反論じゃないのを知ってるから言ってるのよ。
現在、水本説を継承している近世の初期村落史の研究者あるいは研究文献を教えて下さい。
11:日本@名無史さん
03/09/14 10:26
691 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 12:35
>>689
研究会や大会の名をあげるだけでは
>>683に対する答えになってませんが。
694 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 15:10
>>691 注文が多い修士だな
おおもとに立ち返って読み返してみれ
池上裕子や水本邦彦の研究によって中近世の断絶が乗り越えられたっていうのが貴方の主張でしょ。
それに対して水本自身が初期村落史研究を止めて水本説を継承する研究者も存在しないのは何故か
(いるなら教えてくれ)っていうのが俺様の主張でしょ?
脇道はどうでもいいからこの点に立ち返って答えて下さい。
710 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 19:36
>>694
そもそも私はあなたの
>惣無事令は中世史と近世史で評価を共有している。
という主張に疑問を持ったので議論をはじめたわけです。
ところがあなたが中近世の研究の断絶の方に話を引っ張っていったために妙な展開になってしまいました。
>>650で永原と藤木の論争を出したのが間違いだったのかもしれません。
あなたがおおもとに戻ろうとおっしゃるなら私も原点に戻りたいと思います。
おそらく高木昭作を念頭において、「共有」とおっしゃっているのだと思いますが朝尾直弘あたりは
刀狩りをめぐっては藤木とは異なる立場にあると思いますし朝尾は身分をめぐる問題では
高木とは全く対立する立場にあります。
「共有」とはどのような状況をさしているのかこのあたりをもう少し具体的に説明していただけませんか?
717 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/07(日) 20:51
>>710 高木説は有力で高木説に立つ近世史研究者は多数いる。
一方の太閤検地は、アラキ説に立つ中世史研究者は皆無。惣無事令は共有できて、太閤検地は共有できない。
12:日本@名無史さん
03/09/14 10:27
718 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/07(日) 21:00
太閤検地論争が中世史と近世史の研究に断絶をもたらしたというのは一般的な評価ですから
まあこれはいいですよ。
しかし高木説というのはあくまで近世史家としての所説であって中世史家たる藤木の所説そのものではないですし
関東じゃ有力なのかもしれませんが、関西だとどうなんですかね。
私の知り合いのセンセ(役の研究者として有名な人です)は高木さんは「惣無事」とか言い出してからおかしくなったと言ってますが。
756 名前:修士(文学) 投稿日:2003/09/08(月) 22:37
無視できないとか有力ですとか断言だけされてもねえ。
私は高木氏の惣無事→冥加としての小物成、という理解はおかしいと思っています
757 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/09/08(月) 22:53
>>756
私の知り合いのセンセ(役の研究者として有名な人です)は 高木さんは「惣無事」とか言い出してからおかしくなったと言ってますが。
と書くよりはましだと思いますが。
現在、高木の研究抜きに近世初期政治史が語られる状況にはありません。
(高木抜きの近世初期政治史の研究史整理を読んだことがありません)
13:日本@名無史さん
03/09/14 10:34
48 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/08/24(日) 19:44
それにしても
こんなスレのログ保存しておいて
改めて貼るやつってキショイわ
よっしゃこい
スレリンク(history板)l50
14:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/14 16:23
それにしても熱心なファンがいるもんだね
パート6に誘導アドまで貼ってくれるとは!
ついでに過去スレ一覧も作っておいてよ。
テンプレにして次回から使うから。
よっしゃこい
15:日本@名無史さん
03/09/14 17:57
>>14
ボクもパート6から時々参加してるけど
確かに日本史版の中では人気スレですね。
荒らしも含めてレスが付くってことは
ナンダカンダいったて博士の人徳の為せる業ですよ。
16:日本@名無史さん
03/09/14 18:00
向こうを先に埋めろや
17:日本@名無史さん
03/09/14 18:50
>ナンダカンダいったて博士の人徳の為せる業ですよ。
アホですか?
18:日本@名無史さん
03/09/14 19:35
229 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/25(水) 21:48
>>228 I think that you do not have the sense of humor. Let's do our best to a slight degree.
231 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/25(水) 22:51
>>229
Lacrimosa dies illa,
Qua resurget ex favilla,
Judicandus homo reus:
Huic ergo parce Deus
232 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/26(木) 00:31
>>231 根據自由時報2月8日的報導,国民党籍的新竹市長林正則,只因
日本岡山市要求新竹市政府在締結姻妹市的名称,不要冠「中華民国」而
拒絶締結姐妹市。岡山市的代案是只用「新竹市対岡山市」或「台湾新竹
市対日本岡山市」,可是都被郷愿而無宏観的林正則市長所拒絶。該姐妹
市的締結交渉原是由前任民進党察仁堅市長努力交渉打好基礎,没想到
輪到国民党的市長,只想「領没事牌」,将前人辛辛苦苦開発出来的「都市
外交」之門給関閉,真是一個「成事不足、敗事有余」的保守市長
よっしゃこい
19:日本@名無史さん
03/09/14 19:36
234 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/26(木) 00:44
>>231 It cannot be believed that there will be a meeting
which consumes the Japanese pot-au-feu buckwheat
noodles of Tachikawa earnestly on the 28th. Since it is
a wedding anniversary on that day, they are Catherine,
a wife, and New York. It is due to go to have a meal, looking
at a night view. Very regrettable, although it is a foregone
conclusion that the degree of satisfaction is
[ a thing / eat / Japanese pot-au-feu buckwheat noodles
/ in Tachikawa ] / higher rather than eating "canape of
a caviar" and "the salad of an avocado and summer vegetables"
which are taken out in that place every year, and "the terrine
of a lamb." It is praying enjoying oneself and coming to the
part of yours and me if you please from the empty
in New York.
よっしゃこい
20:日本@名無史さん
03/09/14 19:37
235 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/26(木) 01:19
醜いね
236 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/26(木) 01:19
括弧内並べ替えとけよw
237 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/26(木) 01:20
翻訳サイトがどうした
241 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/26(木) 02:10
>>231
人間、神とゆう単語だけ分かりますが
これは出典は何なのでしょう
244 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/26(木) 16:46
>>241
罪ある人が裁かれるために
塵から蘇るその日こそ涙の日である。
願わくは神よ彼を哀れみ給え。
URLリンク(www.hc.keio.ac.jp)
21:日本@名無史さん
03/09/14 19:52
302 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/29(日) 20:45
【厨房のための煽り煽られ講座】
言い返せないけど負けは認めたくない
→ ( ´,_ゝ`)プッ
→ 無知白痴は黙ってろ
→ 知能障害をおこす
303 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/29(日) 22:12
【厨房のための煽り煽られ講座】
言い返せないけど負けは認めたくない
→ 知能障害をおこす
305 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/29(日) 22:18
博士、>>231の意図はわかるんですけど・・・
>>232,>>234の書き込みの意図は?
「台湾新竹市対日本岡山市」,該姐妹市的締結交渉
↑>>231の書き込みと何の関連が?
306 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/29(日) 22:21
>>303
チトワロタ
22:日本@名無史さん
03/09/14 19:53
自分で自分にレスするのって虚しくないの?
ロンダが分らなっかたことには随分鬱屈していたようだね(失笑
サジは何?と聞かれて専門用語の匙だとマジレスして前後のまともな質問には答えないんだから(大藁
日本の一部地域では浪人身分があるんだと固執してもソースは示さない・・・
三戦板ですらソースもださずにデムパをとばす馬鹿はいないというのに・・・
君の大好きな伊達君ぐらいだね・・・気づいているのかな?
まともなレスには反応しないのに、からかわれると、ねちっこく反応する。
(仮に事実として)一部の事象と一般論の区別がつかない。
ソースの無いデムパをとばして、認められないと相手を中傷する。
君にとって伊達君は憧れなんだね(大禿自分で自分にレスするのって虚しくないの?
ロンダが分らなっかたことには随分鬱屈していたようだね(失笑
サジは何?と聞かれて専門用語の匙だとマジレスして前後のまともな質問には答えないんだから(大藁
日本の一部地域では浪人身分があるんだと固執してもソースは示さない・・・
三戦板ですらソースもださずにデムパをとばす馬鹿はいないというのに・・・
君の大好きな伊達君ぐらいだね・・・気づいているのかな?
まともなレスには反応しないのに、からかわれると、ねちっこく反応する。
(仮に事実として)一部の事象と一般論の区別がつかない。
ソースの無いデムパをとばして、認められないと相手を中傷する。
君にとって伊達君は憧れなんだね(大禿
23:日本@名無史さん
03/09/14 19:54
(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) (゚∀゚ ) (゚∀゚) ( ゚∀゚)( ゚∀゚)( ゚∀゚)<自作自演って楽しい!
(゚∀゚ )(゚∀゚ )(゚∀゚ )( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚)( ゚∀゚)( ゚∀゚)<ヒッキーの俺様にも時々誰かが相手をしてくれる!
( ゚∀゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚)<小学生レベルの日本語でも、
( ゚∀゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚)<日本人の御主人様が誤りを正してくれる!
( ゚∀゚ ) (゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚ )<日本の一部地域では浪人身分があるんだぞ!
( ゚∀゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚ )<ソースは池波正太郎だ!
( ゚∀ ゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚ ∀ ゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚ )<俺様は歴史学博士だぞ!
( ゚∀ ゚ )( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚ ∀ ゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚ ∀゚ )<マンセー、ニダ!
つ」7=(つ」7=∩(つ」7=∩(つ」7=∩-(つ」7=∩- (つ」7=∩ (つ」7=∩
| j | j | j | j | j | j .| j
し'⌒U し'⌒U し'⌒U し'⌒U し'⌒U し'⌒U. .し'⌒U
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ゙ッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
24:日本@名無史さん
03/09/14 20:05
>17
初心者は、スレッド立てる前に質問をスレへお願いします。
もうちょっと勉強してから遊びに来てねっ。待ってるよっ!
25:日本@名無史さん
03/09/14 20:08
しかし相変わらず、新スレ祝いのレスがすごいですね。
26:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/14 20:54
だから過去スレ一覧作ってよ、誰か
よっしゃこい
27:伊達家中
03/09/14 21:23
伊達です。スレ7でもがんばります。よろしくお願いします。
28:伊達家中
03/09/14 21:24
>君にとって伊達君は憧れなんだね(大禿
そんな~~ 照れるじゃないですか~~
29:日本@名無史さん
03/09/14 22:39
いいぞっ!
最近の伊達は全盛期のカズなみにキレキレだなっ。
30:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/14 23:21
俺様が次々に疑問を即答していったから、
質問することなくなったみたいだね
よっしゃこい
31:伊達家中
03/09/15 00:09
>>29
カズ=カズ山本のことですか?
32:伊達家中
03/09/15 00:15
>日本の一部地域では浪人身分があるんだと固執してもソースは示さない・・・
ソースはここですが、何か?
URLリンク(www.otafuku.co.jp)
33:伊達家中
03/09/15 00:21
>日本史でも西洋史でも喪前より遥か高みに存する俺様が特別に教えてやる。サービスだぞ。
ひさしぶりに強い電波を感じましたが、何か?
34:伊達家中
03/09/15 00:25
950 :歴史学博士の俺様 ◆i5oj1mL1ek :03/09/14 04:38
伊達家中よ
わしが
950
を
げっとしたぞ!
↑よかったですね↑
35:例の170 ◆vBOFA0jTOg
03/09/15 00:42
>>16
削除依頼が通ってからおながいします。
36:日本@名無史さん
03/09/15 01:26
49 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/08/24(日) 19:51
過去スレでは900こえたら次スレたてていたけど
新スレに恥ずかしい無知ぶりをさらされるから
今回は前スレがdat落ちするまで新スレたてるのを
我慢していたのに無駄だったねw
純真な工房が騙されないように配慮wしないと、、、
50 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/08/24(日) 19:53
「こんなスレ」なんて自分で言ってる博士、死んでくれ
37:日本@名無史さん
03/09/15 01:27
57 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:09
151 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/03(火) 16:03
江戸時代の浪人は、身分としてはどう扱われたのですか?その浪人の息子は?
152 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/03(火) 17:00
>>151
浪人らは,士籍を失ったのちにも苗字帯刀を許されて武士のような体裁を保ったが,町方にあっては裏店(うらだな)の借家に住居し,身柄は町奉行の支配下におかれるなど,その法的身分は百姓,町人らとなんら変わるところはなかった。
390 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/04(水) 23:24
>>309 浪人身分を認める領主と認めない領主がいたわけです。認める領主も、何でも認めたわけではありません。
別スレ152さんの書き込みは、江戸のことを書いていると思いますが、幕府は浪人身分をあまり認めない方の代表例ですね。
ですから江戸の場合、自称浪人ということになってしまいますが、日本国中でそうなっていた訳ではありません。
38:日本@名無史さん
03/09/15 01:28
59 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:13
251 名前:230ではないけど 投稿日:2003/06/27(金) 17:56
鎌倉幕府の成立って、定説では何年なんですか?
1183年(十月宣旨)、1185年(守護地頭設置)が有力のようですが。
1184年(公文所・問注所設置)とかもあるようで、よく判りません。
252 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/27(金) 23:25
↑巧妙な釣りか?普通に、いい国つくろう(1192)でないの?征夷大将軍がいる所を幕府って呼ぶんじゃなかったっけ?
それにしてもこのスレ寂れたな。博士もあんまり気合入ってないし。こりゃ彼女と一悶着あったな。
253 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/27(金) 23:35
>>252=>>1
泣きがはいったね(藁
>>こりゃ彼女と一悶着あったな
彼女がいるなんて誰も信じていないのに・・・
もう一寸書きこむintervalを考えろよ・・・
268 名前:251 投稿日:2003/06/28(土) 15:19
>261
マジっすか?
1192年は頼朝が征夷大将軍になった年でしょ。
1192年を鎌倉幕府の成立の年だとする学説もないわけではないが、歴史家からすればお話にならんと聞いてましたが。
日本歴史学会における定説は1192年で本当にいいんですか?
それとも博士は他の学会に所属なさってるんですか?
39:日本@名無史さん
03/09/15 01:29
60 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:13
276 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/28(土) 20:24
>>265 あった
>>266 スレ違い
>>267 歴史学
>>268 歴史学では「鎌倉幕府はいつ成立したのか?」
という問題の建て方はしない。
教科書風に答えただけ。
62 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:14
292 名前:朝早くから日本史の勉強中 投稿日:2003/06/29(日) 06:31
博士、鉄砲伝来が1543年って習ったけどさ、それ以前に中国にはもう鉄砲ってあったんじゃないの?あったなら、なんで勘合貿易とかで日本に伝わらなかったの?
293 名前:通りすがりの歴史学博士 ◆GmgU93SCyE 投稿日:2003/06/29(日) 09:10
>>>>268 歴史学では「鎌倉幕府はいつ成立したのか?」という問題の建て方はしない。
? ? ?
ついでにもう一つ馬鹿を曝してくれ~
歴史学では「室町幕府はいつ滅んだのか?」という問題の建て方はしない。
Yes,or,No?
63 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:15
295 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/29(日) 13:22
>>292 もっと前から伝来してるよ。確証がないだけ。
>>293 天正元年。検索ぐらいしたらいかが?
40:日本@名無史さん
03/09/15 01:29
64 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:16
298 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/29(日) 15:05
>>295
>>293の質問を勘違いしてるぞ。>>251の質問もな。
>>251は「どの説が有力候補なのか」と聞いてるんだぞ。
「邪馬台国はどこ」と「邪馬台国はどこにあったという説が有力か」の微妙な違いを理解してやれよ。
本当に>>251が厨房なら、お前、学者として恥ずかしいぞ。
ま、学者ならな。
65 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:17
320 名前:歴史学博士は俺様 ◆tr.t4dJfuU 投稿日:2003/06/30(月) 18:41
>>292
>>295 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/29(日) 13:22
>>>>292 もっと前から伝来してるよ。確証がないだけ。
戦闘に初めて使用されたのは、文献にみえる限りであるが、天文十九年(1550)七月十四日、畿内で細川晴元と三好長慶の戦いに与力が鉄砲に当たって戦死したという。
「細川右京兆人数足軽百人計出会、野伏有之 きう介鉄砲に当死云々」『言継卿記』より
しかし鉄砲という言葉自体は、「蒙古襲来絵詞」にも見られ鎌倉時代にも使われていた。
応仁の乱の頃、中国伝来の火薬を使用して殺傷力は小さなものであったが、銃火器は存在していたことが、『蔭涼軒日録』や『碧山日録』にみられる。
URLリンク(members.tripod.co.jp)
41:日本@名無史さん
03/09/15 01:30
66 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:18
325 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/30(月) 19:02
(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) (゚∀゚ ) (゚∀゚) ( ゚∀゚)( ゚∀゚)( ゚∀゚)<民族学校の教科書は常に正しい!
(゚∀゚ )(゚∀゚ )(゚∀゚ )( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚)( ゚∀゚)( ゚∀゚)<鎌倉幕府成立の定説は1192年だ!
( ゚∀゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚)<室町幕府が滅んだのは天正元年だ!
( ゚∀゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚)<歴史学博士の俺様は亡命政権を認めないぞ!
( ゚∀゚ ) (゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚ )<URLリンク(homepage1.nifty.com)!
( ゚∀゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚ )<鉄砲伝来が1543年という説には確証があるぞ!
( ゚∀ ゚ )(゚∀゚ ) (゚∀゚ ) ( ゚ ∀ ゚ ) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚) ( ゚∀゚ )<俺様は(朝鮮史の)歴史学博士だ!
( ゚∀ ゚ )( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚ ∀ ゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚ ∀゚ )<マンセー、ニダ!
つ」7=(つ」7=∩(つ」7=∩(つ」7=∩-(つ」7=∩- (つ」7=∩ (つ」7=∩
| j | j | j | j | j | j .| j
し'⌒U し'⌒U し'⌒U し'⌒U し'⌒U し'⌒U. .し'⌒U
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ゙ッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
42:日本@名無史さん
03/09/15 01:32
67 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:19
333 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/30(月) 23:24
>>320歴史学博士は俺様 ◆tr.t4dJfuU
リンク先では、種子島への鉄砲伝来についての文献は南浦文之の書いた『鉄炮記』がある。
慶長年間に書かれたものとありますが・・・
>>1の言う確証とはこの文献のことなのでしょうか?
鉄砲伝来は1543年と習ったけど、この程度の根拠で教科書は書かれているんですか?
334 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/06/30(月) 23:30
鉄砲は普通にありそうだけどね。
68 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:19
335 名前:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 投稿日:2003/06/30(月) 23:39
>>333 偽者に代わって俺様が・・・
鉄炮記は編纂物。ヨーロッパ側の史料では1542年となっているらしい。
69 名前:学歴詐称の1が騙る日本史 投稿日:2003/08/24(日) 20:20
336 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/07/01(火) 06:42
>>333
この鉄砲は誰が伝えたのか。ポルトガル人というのは怪しいと考えられている。
鉄砲伝来の63年後の慶長11(1606)年に禅僧の南浦文之{なんぽぶんし}が書いた『鉄炮記』には、
ポルトガルのガルバル著『世界発見記』に牟良叔舎、喜利志多陀孟太(フランシスコ=ゼイモト、
アントニオ=ダ=モタ)が1542年にはじめて日本を「発見」したと書かれている。
しかし更に読むと、五峰{ごほう}という中国人が乗っており、漢字を使って日本人と筆談したとある。
五峰は明の儒生と書かれているが、『明史』や『朝鮮史』を見ると倭寇の首領王直{おうちょく}のことである。
ということは、鉄砲を伝えたのは、(後期)倭寇ということにもなる。
宇多川武久氏著『鉄炮伝来』(中公新書)では、本当に鉄砲を伝えたのはポルトガル人か?という素朴な疑
問を持った著者が、日本全国に伝わる初期火縄銃を集めてその傾向を調べてみると、ほぼすべて東南アジア型であることが明らかとなり、ポルトガル型のものは含まれていないことがわかった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)
43:日本@名無史さん
03/09/15 01:32
72 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/08/24(日) 20:28
百人切りネタで鳴らした俺様は、嘘ばっかしなのがバレて世間から批難されたが、
自作自演で誤魔化しながら地下に潜った。
しかし、地下でくすぶってるような俺様じゃあない。
反日ネタなら金次第でなんでも言ってのける電波をとばし、不可能を可能にし、巨大な真実を粉砕する。
俺様は捏造野郎、チーム自作自演!
「俺はスレ主、歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw 。通称デムパ。市民虐殺と強姦の名人。
俺のようなトンデモ毒電波でなけりゃ、自作自演で人生を無駄にすることはでけへん」
44:日本@名無史さん
03/09/15 01:33
>>1を辱めるスレというのはここですか?
45:日本@名無史さん
03/09/15 01:33
1よ、姑息で低脳な喪前に相応しいレスだな(藁
意地になってスレをたてなければ糞サヨ狂死に洗脳されたまま一生を終えられたというのに・・・
ネットなんかに拘るから自分が無意味で無価値な人間だと証明されちゃったねw
可哀相な犬だな、、、、、、(苦笑
46:日本@名無史さん
03/09/15 01:35
96 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/08/24(日) 23:52
ヒトラ-って、総統として、給料いくらもらってたの?
97 名前:修士(文学) 投稿日:2003/08/24(日) 23:52
>>96
世界史板で聞いて下さい
よっしゃこい。
47:日本@名無史さん
03/09/15 01:36
>>まさか1はずっとこの調子でやってきたのか?
マジレスすると無教養を曝け出すので途中からは↓こんなかんじw
>> あった
>> なかった
>> しらん
>> スレ違い
>> 辞書ひけ
48:伊達家中
03/09/15 01:37
↑
ただ今強い電波が発生しております。
↓
49:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 01:42
日本史板では
歴史の知識を混ぜて煽らないと盛り上がらないよね。
いつも同じコピペじゃねぇ~
もう少しがんがれ
よっしゃこい
50:日本@名無史さん
03/09/15 02:39
しかしあの多量のコピペは全て同じ方のお仕事だと思われますが、
保存されているのでしょうか?
それとも、一つ一つコピペされてるのでしょうか?
なんにせよ、かなりの人格者とお見受けします。
どうか、お名前だけでもお聞かせ願えないでしょうか?
51:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 02:41
-------------------------------------
以上、ここまでテンプレ。
それでは再開します。
よっしゃこい
52:日本@名無史さん
03/09/15 02:42
↑お前だよ
53:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 02:47
>>52 >>○○ってレス番号付けた方がいいよ
よっしゃこい
54:日本@名無史さん
03/09/15 02:53
平安期の源三位の挙兵の後、敗北した以仁王が実は生きていて、仲綱や渡辺競
らと共に越後に下向したという説(伝説?)がありますね。
で、彼らが頼ったとされる「五十嵐小文次」何者なのかご存知の方はいらっし
ゃいませんか?私としても調べてみたのですが、なんともかんともで・・・。
どなたかご存知の方、ご教授ください
55:歴史学博士の俺様 ◆i5oj1mL1ek
03/09/15 07:06
前スレ埋めてやったぞ!
ありがたく思え!
さあ!このスレも攻撃してやるか!
やれやれだ
56:歴史学博士の俺様 ◆i5oj1mL1ek
03/09/15 07:07
57:歴史学博士の俺様 ◆i5oj1mL1ek
03/09/15 07:07
58:歴史学博士の俺様 ◆i5oj1mL1ek
03/09/15 07:08
59:日本@名無史さん
03/09/15 10:41
ガイシュツ?
筑前筑後、豊前豊後、上総下総、上野下野など、
前後上下対になっている国名のなかで、
なぜ、丹波と丹後は、ちぐはぐなの?
丹前・丹後のセットなら、しっくり来るのに。
博士、よろしく。
60:日本@名無史さん
03/09/15 11:01
URLリンク(www.geocities.co.jp)
61:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 13:42
>>59 大和から見て丹波国の後ろという意味の丹後
(異説もあり)
よっしゃこい
62:日本@名無史さん
03/09/15 15:40
↑教養課程の学部生?
63:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 15:54
>>62 いいえ。博士です。
ところで、
教養課程って
残ってる大学あるのか?
よっしゃこい
64:史学生
03/09/15 16:42
先生!!
島津以前の薩摩の豪族は如何が?
65:史学生
03/09/15 16:53
先生!!
家康公は二人居たと言うことは本当ですか?。
66:日本@名無史さん
03/09/15 17:21
足利将軍家の領地ってどのくらいあったんですか?
67:史学生
03/09/15 17:51
答えが返ってこない、図書館で先生調べてるのか?。
68:日本@名無史さん
03/09/15 18:45
ネットで検索できる範囲の質問にしましょう。
69:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 19:42
>>64 薩摩国
旧国名。醍州。鹿児島県西半部。
【古代】
西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく
日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三
州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月
条に〈醍麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大
宝2年(702)8月条に醍摩・多鳥(たね)を征討し,戸
を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)
国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあ
り,その説明に唱更国とは今の醍摩国府なりとあ
ることから,このころ醍摩国は日向国より分出設
置されたと思われる。和銅2年(709)6月条に醍摩・
多鳥両国司とみえ,10月条に醍摩隼人郡司已下
188人入朝とある。醍摩半島南部吾田(あた)の地
名は醍摩以前の総称にも用いられ,住人は阿多
隼人(はやと)と呼ばれたが,後には醍摩隼人,需
隼人の称が頻出し,朝廷への上番の制も整えら
つづく
70:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 19:42
れた。《和名抄》によれば醍摩国は出水(いつみ),
高城(たかき),醍摩,需島(こしきしま),日置(ひお
き),伊作(いさく),阿多,河辺(かはのへ),頴娃(え
の),揖宿(いふすき),給黎(きひれ),谿山(たにや
ま),鹿児島(かこしま)の13郡を管し,《延喜式》も同
様13郡をあげる。《律書残篇》には13郡,25郷,60
里,行程12日とある。郷数の少ないのは,伊作,
揖宿,給黎等1郷の郡の存在による。久しく班田
の制も行われず,その実施は800年(延暦19)のこ
とで,しかも不徹底に終わったと思われる。豪族
には阿多君,醍摩公,前公,加志公,衣君等があ
り,国府は川内(せんだい)川の北岸高城郡に置か
れ,国分寺,新田八幡神社等が付近にある。式内
社は北醍の加紫久利神社と南醍の枚(開)聞(ひら
きき)神社で,後者は古代にたびたび噴火して畏敬
された開聞(かいもん)岳山麓にあり,のちに新田神
社と一宮の座を争った。吾田(阿多)から醍摩へ,
南から北へ同地方における勢力の交代を推測さ
せる。
つづく
71:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 19:43
古代末期には郡郷の制も乱れ,郡より院郷が分
出して,1197年(建久8)の〈醍摩国図田帳〉によれ
ば和泉郡,山門院,莫衝(あくね)院,高城郡,東郷
別府,昭答(けどう)院,入来院,需島,醍摩郡,宮
里郷,牛屎院,市来院,日置北郷,日置南郷,満
家院,伊集院,伊作郡,阿多郡,加世田別府,河
辺郡,知覧院,頴娃郷,揖宿郡,給黎院,谷山
郡,鹿児島郡等の郡院郷が並立するに至った。ま
た1026年(万寿3)ごろ日向国諸県郡島津駅付近を
中心に大宰大監平季基により開発され,摂関家
藤原頼通に寄進されて成立した島津荘は,郡司ら
在地豪族の領主権拡大の要望と,藤原忠実ら摂
関家の荘園拡大策と相まって12世紀以降醍隅日3
ヵ国に急速に広がり,醍摩国では〈建久図田帳〉
によれば国内全田数4010町余のうち,2934町余
が島津荘となった。このうち和泉郡,日置北郷,伊
作郡等635町は一円荘となり,他の2299町余は半
輸の寄郡(よせごおり)であった。そして寄進した郡
院郷司ら在地豪族が,そのまま荘官を兼ねてい
た。そのころ醍摩半島南部を中心に阿多平氏とも
伊作平氏とも呼ばれる鎮西平氏一族が繁衍して
おり,1138年(保延4)に阿多郡司としてみえる阿多
忠景は醍摩権守を称し,大隅にまで勢力をのばし
た。のち忠景は勅勘をこうむって貴海島(硫黄島)
に逐電したが,その一族はその後も長く強勢を誇
った。源平交代期に平家方に荷担して没落したも
のもいたが,平,大前,伴,大蔵氏等大部分の在
地豪族は在庁官人,郡司等としてとどまり,鎌倉
幕府の御家人となった。
72:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 19:44
中略
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
>>65 うそ
よっしゃこい
73:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 19:53
>>66 領地では量れない(太閤検地以前は)
(参考) 室町幕府
日本中世の武家勢力による政体。足利幕府ともい
う。その呼称は1378年(天授4∥永和4)足利氏3代
将軍義満が京都北小路室町にその政庁として花
御所(はなのごしよ)を営んだことにちなむが,1336
年(延元1∥建武3)の足利尊氏による建武政府打
倒,新政権樹立以降,1573年(天正1)義昭の槙嶋
城退去までの期間における,足利将軍家による
政治体制をいうのが一般的である。
(中略)
[財政] 将軍家の直轄領として三河と畿内近国
に散在する公方(くぼう)御料所が百数十ヵ所知ら
れている。このほかに南北朝戦乱の過程で敵方
から没収した膨大な闕所(けつしよ)地があり,恩賞
地として勲功の将士に配分したほか,五山禅院や
奉公衆(ほうこうしゆう)と呼ばれた親衛隊に給与さ
れ,常備軍を養うと同時に五山の経済機構から銭
貨を貢献させるという,実質的直轄領の役割を果
たした。南北朝末期には,従来延暦寺が保有して
いた洛中の土倉(どそう)・酒屋に対する課税権を幕
府に没収し,これを政所要脚(ようきやく)(財政事務
費)の財源とした。臨時財源としては日明貿易によ
る勘合抽分銭(ちゆうぶんせん),社寺造営費や官
つづく
74:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 19:54
庁営繕費に充当される段銭,棟別銭(むなべちせ
ん)があるほか,都市民に有徳銭(うとくせん),地口
銭(じぐちせん)を課し,五山や南都北嶺の有力寺社
に対して巨額の出銭を命じたが,それらは幕府財
政が窮乏化するに伴って重要な地位を占めるよう
になった。そのほか国ごとに守護役,御家人役と
いう出銭を課し,それは管国内の農民に転嫁され
た。総じて,商工業や金融に対する賦課が大きい
のが特色といえよう。幕府が容易に崩壊に至らな
かった一因も,京都支配に伴う収益の存在が指摘
される。このような財政構造は,政所執事伊勢氏
や五山を統括する相国寺蔭涼軒主(いんりようけん
しゆ)が幕政に介入する余地を与えた。
(中略) 今谷 明
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
よっしゃこい
75:史学生
03/09/15 20:00
先生、有り難う御座いました!!m(_ _)m
流石詳しいお言葉を頂き良く解りました。これにて先祖のことが
追っていけます、島津家の初代までは解りますが、それ以上古い
土着した海洋民族と思われますので、今後ともご指導宜しくお願い
致します。m(_ _)mm(_ _)mハァハ-。
76:66
03/09/15 20:19
どうもありがとうございました
77:日本@名無史さん
03/09/15 20:30
芸が細かくなってきた。
丸写しは相変わらずだが。
78:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 20:36
>>77 わざわざ上げて宣伝しなくてもいいぞ
よっしゃこい
79:史学生
03/09/15 20:48
先生、!!もう一つ教えて下さい。!!
徳川家康公の若い頃の名を「世良田の次郎」と言う名が有ったそうですが、
それと、晩年おとぎ衆との話で、子供の時分五貫匁で人買いに売られた、
と話されて居たそうですが。本当なんでしょうか?。
80:日本@名無史さん
03/09/15 21:12
僅か6分で反応
おもろい
81:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 21:12
>>79 影武者説好きだねぇ~
村岡素一郎『史疑徳川家康事蹟』(民友社)
影武者説のネタ本。
駿府記
駿府隠居中の徳川家康をめぐる政治情勢を記し
た日記。1611年(慶長16)8月1日から15年(元和1)
12月29日までの約4年半に及ぶ。筆者は駿府在
職中の後藤庄三郎(光次)か林道春(羅山)といわ
れるが不詳。1巻。ほぼ同じ内容のものに後藤庄
三郎の筆録とされる《駿府政事録》(《改訂史籍集
覧》所収)がある。慶長末年の豊臣氏との関係,キ
リシタン禁制,貿易,宗教,学問,文芸にふれた近
世初期の貴重な史料。《史籍雑纂》所収。
煎本 増夫
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
82:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 21:15
追加>>81 人買い話の元ネタが駿府記・駿府政事録
よっしゃこい
83:日本@名無史さん
03/09/15 21:18
関ヶ原のあと、明石全登はどこに消えたんですか?
84:日本@名無史さん
03/09/15 21:22
博士
俺の妹にウイルスメールが「察満蝗」って題名で届けられたんだけど
これってなんて読む?さっしまんこう?
どんな意味かもわかります?
85:史学生
03/09/15 21:35
先生!!有り難う御座いました、!!
その本一度熟読致します。又ご指導宜しくお願いします。m(_ _)m
86:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/15 21:37
>>83 筑前(諸説あり)
>>84 知らん
よっしゃこい
87:日本@名無史さん
03/09/15 22:34
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←桐蔭横浜大学掲示板
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←桐蔭ちゃんねる
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←桐蔭ちゃんねる【避難所】
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←新・桐蔭ちゃんねる
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←新型桐蔭ちゃんねる
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←桐蔭ちゃんねる付属掲示板
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←桐蔭学園について語るBBS【復刻版】
URLリンク(jbbs.shitaraba.com) ←桐蔭恋愛ちゃんねる
"党員学園正の集まる掲示板です。
マジクソなので見てやってください。
88:日本@名無史さん
03/09/15 22:34
道三から信長への「譲り状」はよく聞くけど、
ソースはなんなの?
実物は、存在しないよね。
譲り状が贈られたことは、事実?
89:史学生
03/09/15 22:42
先生、!!。
大化の改新って本当にあったのですか?。
聖徳太子も実在の人物ですか?。それとも何方かを聖徳太子として
おられるのですか?。
90:日本@名無史さん
03/09/15 23:00
>>1は桐蔭コンプでもあるのか?
91:日本@名無史さん
03/09/15 23:17
>>88
>>89
質問は検索して分ることか
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.に
掲載してあることのみ!
決りを守れないのならこのスレから出て行け!
92:史学生
03/09/16 00:40
>>91
すみません、勉強して出直します。
93:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 00:46
>>88 しらん
>>89 そういうの好きだね。
グーグル先生がいくらでも答えてくれるよ。
よっしゃこい
94:日本@名無史さん
03/09/16 01:04
武家が政権を取ってからも、公家側の律令政治機構は残ってるの?
足利義満が太政大臣になってるから残ってるんだよね。
いつまで残ってたの?
そして何かポストとしての仕事はあったの?
95:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:18
>>94 いろいろだ。
一例として「官位」
官職と位階をいう。
[官位相当制] 律令官人制機構では,位階によ
る官人の序列と,機構の中での官職の位置との
対応関係があり,これを官位相当制という。一定
の段階まで発展した官人制機構では,その円滑
な運営のために,この規定が必須になる。現存す
る養老令の官位令はその規定である。日本の位
階制は603年(推古11)の冠位十二階で創始された
が,これにも一応,漠然とした対応関係がみられ
たと推測することも可能である。しかし,それは厳
密な官位相当制ではありえない。その成立の端緒
は天武朝であり,689年(持統3)施行の飛鳥浄御
原令(きよみはらりよう)では,一定幅の冠位群と一
定数の官職群との対応関係が規定されていたと
推測できる。つづく701年(大宝1)の大宝律令で,
厳密な意味での官位相当制が確立し,養老令に
引き継がれた。その官位令では,親王一品は太
政大臣,諸王・諸臣の正・従二位は左・右大臣,正
七位上は中内記・大外記そのほかというように,
つづく
96:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:19
位階を軸にして,それぞれの位階に対応する官職
群が規定されている。唐の官品令が,官職を主体
にして,官職の等級表という性格を示すのに対し
て,日本の官位令は,位階が官人序列の基本的
標識であり,官職が従的な位置を占めていること
を物語っている。なお,官位令には,正三位の相
当官末尾にみえる勲一等から,従八位下相当官
末尾の勲十二等にいたる勲位が記載されている
が,これは官位相当とは異質のものであり,それ
ぞれの勲位が,官人序列のうえで,その位階に準
じて末席に位置づけられることを示す比当(ひとう)
関係にすぎない。そして官人が相当規定どおりに
任命されない場合を想定して,大宝選任令,養老
選叙令には,〈行(ぎよう)〉(位階が高いケース),
〈守(しゆ)〉(官職が高いケース)をつける規定が立
条されている。この官位相当規定は,すでに奈良
時代前半から〈行〉の任命ケースが多い傾向がみ
つづく
97:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:20
え,またその後,平安時代初期にかけて若干の相
当規定の改訂がみられた。 野村 忠夫
[近世の官位] 律令制における官職位階は武
家に政権が移ってからは有名無実化していたが,
近世に入ってからも国郡制などと同様にその命脈
を保ち,官位の授与は暦の制定,元号の制定とと
もに統治権的権能として依然朝廷に留保されてい
た。ただし,公家衆の官位といえども高位高官の
場合は江戸幕府の干渉下にあり,武家の官位は
実質的には幕府が叙任し朝廷はこれを認証する
にとどまった。武家の官位については,徳川家康
が1606年(慶長11)幕府の推挙をもって叙任するよ
うに奏請,11年には武家の官位は朝廷の官位の
定員外とする旨を奏し,15年(元和1)制定の《禁中
並公家諸法度》でこれを明文化し,〈武家の官位
つづく
98:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:20
は公家当官之外たるへき事〉と規定している。そ
の叙任の方法は,4代家綱時代まではまず朝廷に
奏上しその後に幕府が叙任する例であったが,5
代綱吉時代以後は幕府が叙任しその後に朝廷の
位記口宣を申請するというものであった。将軍お
よび世子以下の官位昇進の次第は3代家光時代
にその例規が定まり,将軍宣下とともに正二位内
大臣となり,のち従一位左大臣に進み,正一位太
政大臣を追贈され,世子は従二位権大納言となり
右大将を兼ねるのを例とした。御三家,万石以上
の大名の官位もその地位の高下,家格によって
定まっていて,尾張・紀伊両家の従二位権大納
言,水戸家,御三縁の従三位権中納言,加賀前
田家の従三位参議を最高とし,以下従五位下まで
数等に分かれ,城主格以上の大名は従五位下の
国守に叙任されるのを例とした。いわば官位は家
格と一体のものとして扱われ,その高下は江戸城
中の座席や礼法等の差異にもあらわれた。その
他僧侶,神主,医者,職人等に対する官位があ
り,とくに地方の神主の叙任は吉田家が関与し,
これをとくに宗源宣旨という。なお官位授与の礼と
して朝廷に金品を献納することを謝思,あるいは
官金といい,これが朝廷側の枢要な臨時収入とも
なっていた。 橋本 政宣
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よっしゃこい
99:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:24
一例として「太政官」(だじょうかん)」
明治初年に制定され,内閣制度の設置まで存続
した令制の最高行政官庁(明治以前については
〈太政官(だいじようかん)〉の項を参照されたい)。そ
の官職名は古代律令制にならってはいたが,実
態としては,一応,欧米の〈三権分立〉制度をとっ
ていた。発足当初の明治政府の官庁機構を規定
する契機になったのは,1868年(明治1)に公布さ
れた政体書である。そのなかでは,〈天下の権
力,総てこれを太政官に帰す。則ち政令二途に出
るの患無からしむ。太政官の権力を分って,立法・
行政・司法の三権とす〉と定められていた。すなわ
ち,立法部を議政官(上・下局),行政部を行政・神
梢・会計・軍務・外国の5官,司法部を刑法官の計7
官でつかさどっていた。しかし,その中心は立法と
行政であったのみならず,立法権が行政権に従
属していたため,〈三権分立〉主義とはいっても名
目だけで,近代的な西欧の政治原理の採用とは
異質のものであった。その後,太政官制は版籍奉
還,廃藩置県をとおして国家権力の集権化が進
つづく
100:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:25
むにつれて,整備されていった。まず,版籍奉還
(1869)直後には7官制を廃止して,神梢・太政の2
官のもとに民部,大蔵,兵部,刑部,宮内,外務の
6省が設置された。大蔵省や外務省のように現在
の中央官庁の呼称が初めて登場したのも,この時
期からである。この2官6省制にみられる特徴は,
祭政一致の原則に基づいて,神梢官が太政官の
上位に位置づけられ,また天皇を補佐する太政官
のもとに左右両大臣,大納言,参議などが置かれ
たことである。ついで廃藩置県(1871)後の官制改
革により同制度は3院8省制に改められた。すなわ
ち天皇臨席のもとで政務をとる正院,立法府に相
当する左院,各省の高官が事務を審議する右院
の下に,大蔵・兵部・宮内・外務の4省と70年に新
設の工部省,それに神梢・文部・司法の3省を加え
て,合計8省が設置された。その後,征韓論による
政府内部の抗争の影響で太政官制の部分的改革
があり,参議が各省の長官を兼任するようにな
り,75年には左右両院に代わって元老院と大審院
が開設され,正院はその2年後に廃止された。さら
に80年には太政官に法制,会計,軍事,内務,司
法,外務の6部が設置され,ついで明治14年の政
つづく
101:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/16 01:26
変(1881)による国会開設の詔勅発布直後に6部制
は廃止されて参事院がおかれ,立憲制の採用準
備が進んだ。
その後,帝国憲法制定の機運がもりあがるなか
で古代律令制にならった太政官制を変更する必
要から,内閣制度の施行を画期に1885年,同制
度は廃止された。廃止に至る全過程をみると,制
度の改廃・統合が繰り返され,試行錯誤のなか
で,太政官制の機構とその役職が天皇を中心とす
る旧西南雄藩出身者の派閥対立と自派の勢力拡
張に利用される反面,統治機構内部の矛盾が露
呈されるなかで,立憲制の制定へ向けやがて同
制度は解消される運命にあったといえる。
石塚 裕道
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
よっしゃこい
102:94
03/09/16 17:52
ありがと。なかなか便利だな。
103:日本@名無史さん
03/09/16 19:47
1が役にたたない辞書になってしまったので、替わりに俺様が
>>94
>武家が政権を取ってからも、公家側の律令政治機構は残ってるの?
大宝律令下の政治機構(律令の時代)はこの国の統治権が武家に移行した後は形骸化している。
大宝律令←実質的には9世紀まで、形式的には近世までの日本の国家体制の枠組みを規定する基となった。
URLリンク(www.joy.hi-ho.ne.jp)
1に理解させる義務は無いので、リンク先を見てもらえれば質問の解答になっていると思う。
104:修士(文学)
03/09/16 21:29
>>103
国郡制の枠組みは近世になっても形式以上に結構意味を持っています。
105:日本@名無史さん
03/09/16 21:48
先生!
日本中世の神道について教えてください
伊勢神道の外宮と内宮の関係が分かりません。
度会なんたらという人が、いくつかの書物を残してるくらいしか知りません。
また、両部神道と密教、山王神道では天台宗が関わってくるのはどうしてですか?
仏教と神道は関係があるのでしょうか。
106:日本@名無史さん
03/09/16 21:55
>>105
君はもしかして史学生かい?
107:105
03/09/16 22:12
>>106
厳密には史学ではなくて、日本思想の方が近いです。
108:多摩
03/09/16 22:33
博士、お元気でなによりです。
>>8-12、すっごく面白かったです。
どうして、高校までの日本史では、これは誰説とかやってくれないのでしょうか。
そしたらもっと日本史への興味が持てたのに。
109:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/16 22:58
>>104
意図不明。コテハンを「修士(文学)」と名乗っているのは何故?
>94の、武家が政権を取ってからも、公家側の律令政治機構は残ってるの?
という質問にたいして
>103で、律令政治機構を大宝律令下の政治機構(律令の時代)と規定したうえで
大宝律令←実質的には9世紀まで、形式的には近世までの日本の国家体制の枠組みを規定する基となった
という解答についての
>104の国郡制の枠組みは近世になっても形式以上に結構意味を持つというレス
? ? ?
104は誰の何についてレスしたいのだろうか?
修士(文学)の学位をもたれているかたの含蓄ある御言葉を皮相に解釈すると・・・
近世においても大宝律令下の政治機構に基づいて国郡制の枠組みが維持されていたと主張されているのだろうか?
雄略朝ころにも一つの整備期があったらしい国造制は、大化改新によって7世紀半ばに令制の国郡(評)里制に切り替わるまで存続していたが、大宝令下の国郡制は特筆に値するのだろうか?
古代以降連綿と受け継がれた行政区分において、大宝令下の国郡制の枠組みのみに意義を主張する根拠が
104のレスから(103には)読み取れない。
110:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/16 22:59
そもそも大宝令下の国郡制の枠組みは近代に至るまで絶対不変で維持されてきたのだろうか?
国郡制の枠組みが意味を持つのはどういう場合なのだろうか?
郡という区画は区域を表す単位だが、公権力行使のための単位(行政区画)としては、意外に短い期間しか使われていない。
古代にはそれでも地域によっては2~300年間は機能したが、平安時代に国郡郷里制が荘園や保などという
徴税単位に取って代わられ、律令制度の国司の下で郡の権力を担当していた郡司たちが没落したり、
荘園や保などの在地管理者として自立したりして、郡は行政単位としては機能しなくなる。
その後の長い武家支配の時代にも「郡」は単に地域を表す機能しか果たしていない。
戦国の武将や大名の領地支配に郡が特別の機能を持っていたとは考えられない。
幕藩体制下の江戸時代には、今の字や大字に当たる当時の村や郷が領地支配の単位である。
郡は村名の前に付けた単なる広域名でしかなかった。
104の専門が近世の何かは不明ですが、この国には極く限られた在地支配者以外に、圧倒的多数の人々が日々を営んでいます。
そうした人々を無視することなく御研究に精進してくだされば甚嬉。
111:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/16 23:06
俺様も1や104のように言い訳を先にしておこうw
専門は日本中世史。ただの学士。
112:修士(文学)
03/09/16 23:26
>>110
国奉行や国役といったものが存在しますし
日光社参の国役人馬組合は、郡を単位に編成されています。
したがって国郡制単なる地域表示ではなく
支配の枠組みとしての意味を失ってはいません。
113:日本@名無史さん
03/09/16 23:53
>>1は学士でもない、胱卆
114:史学生
03/09/17 00:03
先生今晩は。お元気ですかお待ちしておりました。!!(*^_^*)
教えて下さい、聖徳太子のお墓がご夫婦で大坂の河内に有りますが、
横穴式でしたか、こんな所に何故あるのですか、法隆寺に或る方が
自然と思いますか゛ 如何でしょうか?。
115:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/17 00:18
>>112
>国奉行や国役といったものが存在しますし日光社参の国役人馬組合
↑大宝律令下(8世紀)の政治機構に基づいた国郡制の枠組みの中で?
論点が完全にずれていると思うのは俺様だけ?
過去レスにも書いたが修士(文学)の論調は1に似てる・・・
116:103の俺様 ◆duckVaOjdY
03/09/17 00:23
古代以降連綿と受け継がれた行政区分において、大宝令下の国郡制の枠組みのみに意義を主張する根拠が
112のレスから(103には)読み取れない。
117:日本@名無史さん
03/09/17 00:35
現在の資本主義の暴走を止める決定打を教えてください。
(社会主義は望まない。)
・労働時間の増加傾向
・バイト、パート、派遣社員などの悪意的雇用形態(チェーン店の増加)
118:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:45
>>105 神道(長いぞ)
日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大
きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それ
らが伝えられる前からあった土着の神観念にもと
づく宗教的実践と,それを支えている生活習慣
を,一般に神道ということばであらわしている。日
本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労な
どの生活に対応してさまざまであり,地域的にも
多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の
伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水
稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多く
の神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。
その後日本人は,儒教や仏教を受容したが,神々
をまつる信仰は複雑な展開を経て現代まで存続し
ている。
[神道ということば] 神道という語は,《易経》の
観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時
久(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うし
て天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵
では測り知ることのできない,天地の働きをさす
語であった。そしてその後,神道の語は,道家や
仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,
つづく
119:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:46
呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢
字・漢語の受容によって表記が可能になった日本
では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位
前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊び
たまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法
を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹
を駒(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(め
ぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,
神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰
をさすことばとして用いられている。しかし,明確
な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生
活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒
教と同列に考えることは種々の無理があったこと
はいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章
上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。
《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,
徳教,大道,古道などの語もカミと読ませていると
ころからもうかがえるように,カミということばの表
記も一定しておらず,神道という語もそれらの一
つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と
呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,
神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさ
すことばとして用いている例は少なくない。他方,
神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すこと
つづく
120:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:47
ばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめる
と,神道という語が土着の信仰とその教説をあら
わすものとして用いられるようになった。中世の末
に大きな力を持つようになった吉田神道は,その
例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとし
て吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師
が,日本人の信仰を Xinto(中世の神道家の中に
は濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウ
ではなくシントウと読むことが主張されていた)とい
うことばでとらえたことに端を発して,神道の語は
外国に知られることになった。しかし,明治時代に
神道が国教化されると,国家の祭祀として宗教を
超えたものと主張された神道は,大教,本教,古
道,惟神道(かんながらのみち)などと呼ばれ,仏教
やキリスト教と同列とされた教派神道諸派が神道
の語で呼ばれたこともあって,日本固有の民族宗
教をあらわすことばは多様なままに推移し,研究
者の間でも神梢,神梢信仰ということばが用いら
れることが多かった。他方,西欧諸国の日本研
究・紹介者の間では,Shinto,Shintoism の語が
一般化したため,昭和に入り日本人の間でも,神
道ということばが一般に用いられるようになり,日
本固有の信仰の多様な性格を,古神道,神社神
道,教派神道,民俗神道をはじめさまざまに分け
て考えることも一般化した。
つづく
121:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:47
[神と祭り] 古代の日本人は,人間の力を超え
たものに対し,おそれ,かしこむ心を抱き,そうし
た心情をおこさせるものをカミと呼んだ。山,川,
海などに畏怖を感じ,根源的で神聖・清浄なもの
を見た人々は,生い茂った樹木や巨大な岩なども
神聖視した。さまざまな自然現象が神とされたこと
はいうまでもないが,日神の崇拝はあっても,天
体の運行をつかさどるものへの関心は薄く,雨や
風,芽生えや実りなどがそれぞれ神と考えられて
いた。狼や鳥,蛇などさまざまな動物も神聖視さ
れた。またあらゆるものは,人間と同様に意志や
感情を持つものと考えられ,そうした魂の働きも神
とされた。このような原始的な自然崇拝,アニミズ
ム的なものは,神道の底流に存続して現代に至っ
ている。神は人間の目には見えず,あらゆるもの
に宿っていると考えられたが,人間の住む場所か
ら離れた山の上や,海のかなたに神々の世界が
あると考えられ,人間が死ぬと,肉体を離れた霊
魂もそこへ行くと信じられていた。死者の霊魂は
年月を重ねるうちに,生前の個性を失って祖霊と
融合し,神々の中に加わる。したがって,神々の
世界と人間の世とは,隔絶・絶縁されてはおらず,
神々は定期的に,あるいは臨時に人間の住む場
つづく
122:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:48
所を訪れ,ある期間ともに住むものと信じられて
いた。
神に対する観念を具体的にあらわしているのが
祭りである。神々をおそれかしこむ人々は,生活
の節目ごとに神々を迎えて供応し,神威に対する
畏敬の念をあらわし,神々の加護に感謝した。祭
りは,神々を迎えるための清浄な場所を整え,
神々をまつる人々が身心を浄めることからはじま
る。準備が整うと,聖なる時間である深夜に,あら
かじめ用意された依代(よりしろ)・尸童(よりまし)に
神を降して,神前に御饌(みけ)・神酒(みき)が供さ
れ,歌や舞が神をもてなすために行われる。人々
は神に対する願いを祝詞(のりと)や歌などで伝え,
神は託宣やさまざまな卜占によって神意を示す。
その後,神々と人々とがともに酒を飲み,御饌を
食べる直会(なおらい)によって,神と人とのつなが
りをたしかめて,神々が祭りの場を去ると,禁忌が
解かれて祭りは終わる。祭りの多くは農耕儀礼と
結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開
始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭
りが最も主要なものであった。《神梢令》《延喜式》
の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神梢官が行う祭
りの詳細が記されている。人々は祭りによって生
活にくぎりをつけたが,6月と12月の祁に,半年間
つづく
123:日本@名無史さん
03/09/17 00:52
test
124:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 00:52
の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と
7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で
新しい生活を開始した。仏教が伝えられて,7月の
行事は仏教的な形をとって盆の行事になった。日
本人の間には,1年を1月と7月の行事でくぎる習
慣と,4月と10月の祭りで分ける習慣があり,二つ
が複雑に重なり合っている。
共同体の祭り以外に,人々は生活の中で竈(か
まど)の神や井戸の神をはじめさまざまな神をまつ
ったが,一般に水稲耕作は定住性と結束の強い
共同体を生み出し,そこでまつられる神々は,共
同体の祖先神であり,土地の守り神と考えられる
ことが多かった。集団の信仰である神道は,個人
の信仰としての性格が希薄であったから,個人の
救済が求められるようになると,仏教との習合が
進むことになった。
[神社と神官] 祭りのたびに神々を迎える信仰
のもとでは,神々が来臨する磐座(いわくら)・磐境
(いわさか),祭りが行われる森や山などが神社で
あり,神殿は作られない場合が多かった。しかし,
建築の発達につれて,神体,御霊代(みたましろ),
神宝などを安置する秀倉(ほくら)や,神をまつる
人々がこもって潔斎をするための建物が建てられ
るようになると,前者は本殿へ,後者は幣殿・拝殿
つづく
125:日本@名無史さん
03/09/17 00:53
>>124
126:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:04
へと発展し,それを囲む垣,神域を表示しその入
口を示す鳥居,神饌を調理する御饌殿(みけで
ん),参拝者が身を浄める御手洗(みたらし)をはじ
め種々の施設が加わって,神社の形が整った。神
殿の建築は,穀物倉を原型とする伊勢神宮と,住
宅に由来する出雲大社の神殿が代表的なもの
で,後に寺院や宮殿の形式をとり入れながら,
数々の日本独特の様式が生み出された。
祭りをつかさどる者は,政治的な支配者でもあ
ったから,政治的な統一が進むにつれて,祭祀権
の統合も行われ,各地に大規模な神社が建てら
れるようになると,そこには神官の集団が生まれ
た。出雲国造家,熱田大宮司家などは,古い国造
(くにのみやつこ)の系統が神社と結びついて後世ま
で残った例である。神職の名は神社によってさま
ざまであるが,祭主(さいしゆ),宮司(ぐうじ),神主
(かんぬし),衝宜(ねぎ),祝(はふり),預(あずかり),
神人(じにん)などはその例であり,八幡宮や梢園
社などには,社僧(しやそう),供僧,神僧,宮僧な
どと呼ばれる僧形の神職があった。他方,小さな
神社では,氏子の座や講などの組織から,一年神
主,当屋神主などが選ばれて,祭りを行うのが一
般であった。
つづく
127:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:14
《延喜式》の神名の巻には,平安時代中期の国
家が神威を認めていた2861の神社の名が記さ
れ,後世それらの神社を由緒正しい神社として
〈式内社(しきないしや)〉と呼んだ。また式内社以外
で六国史にその名を記されている391の神社を,
〈国史現在社〉と呼んで,式内社につぐものとし
た。式内社に対しては,神梢官から奉幣すること
が定められていたが,平安時代のはじめに,遠隔
地の神社には国司が代わって奉幣を行うようにな
ったので,国司奉幣の神社は,神梢官奉幣の神
社を官幣社と呼ぶのに対して,国幣社というよう
になった。
国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に
参詣し,その後政務を執るように定められている
が,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみ
や),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神
社の序列をあらわすことになった。さらに平安時
代の末になると,国内の数々の神社を一社に統
合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした
神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも
重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を
選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆう
にしや)の名が固定した。神社の祭祀を政治の中で
重視することは,鎌倉幕府以後の武家政権にも受
つづく
128:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:15
け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷し
た。
[神典] 神道の教典としては,まず《日本書紀》,
中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様
なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典とし
ていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の
神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわし
ているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教
典として読誦されるようなことはなかった。《古語
拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代
旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典
に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけ
で,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけで
はない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した
《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録
や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜら
れ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨
時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,
祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀
を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教
典といえよう。
中世に入って神道説の形成が進むと,空海など
に仮託した教典が続々と生み出されたが,その中
で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉
は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また
つづく
129:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:15
古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神
社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それら
の中には絵解きや説経などの芸能と結びついた
り,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く
知られるようになったものも少なくない。さらに,和
歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが
数多く見いだされる。
[神像と神体] 山・川,雨・風,芽生え・実りな
ど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえ
ることはできないものとされ,その姿を神像として
あらわすことは考えられなかった。神々が来臨す
る祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨
木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。や
がて神社が建てられるようになると,仏教の寺院
に対して考えても,神殿に安置するものが必要に
なり,平安時代に入って神体・正体ということばが
用いられるようになった。神体は,神々の性格に
応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなも
のが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習
合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすこと
がはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神
像は,密教美術の影響を受けたものが多かった
が,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な
公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以
つづく
130:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:17
降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてま
つることも一般化し,七福神などの雑多な神像が
広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代
末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに
描かれるようになった。それらの中には,神仏習
合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域
や神殿の景観を図示してその意味づけを試みた
ものなどは,神道の神観念や世界観をあらわした
ものとして注目すべきものがある。
[信仰と参詣] 神道の世界観は,高天原(たかま
がはら),葦原中国(あしはらのなかつくに),黄泉国
(よみのくに)(根の国(ねのくに))の三つの世界を考え
るが,この天上,地上,地下の垂直的な世界観の
ほかに,海上のかなたに妣(はは)の国,常世国(と
こよのくに)があるとする水平的な世界観が併存し
ている。またそれらの世界とは別に,山中に他界
を想定する信仰も広く存在していた。人間が死ぬ
と霊魂は肉体から離れて,他界に行くと考えられ
た。他界に住む霊魂は,祭祀に応じて人々のもと
つづく
131:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:18
に帰ってくるが,年を経るにつれて個性を失って
神々に近づいていく。したがって,いくつもある他
界の性格と相互の関係は明確でないところが多
い。ただ黄泉国は暗黒の世界と考えられており,
罪や穢れに満ちた世界でもあったから,地上の罪
や穢れを,すべて黄泉国に祓い去る儀礼が行わ
れた。神道では,神々の加護によって幸を得,
神々の力による禍を回避するためには,人間が
正直で清浄な心で神々に接しなければならないと
される。正直で清浄な心とは,さまざまな作為を捨
てた,生まれたままのような純粋で自然な心のこ
とであり,それは禊(みそぎ)や祓によって達せられ
ると説かれる。また,精神が統一され,一心不乱
になった状態が,純粋で清浄な心に近いと考え
て,その修行の方法がさまざまにくふうされた。
元来,祭りは共同体の行事として行われるもの
であったが,平安京の神社では,祭りが華麗な催
物としての性格を持つようになり,祭りに参加せ
ずに見物する人々があらわれた。そして,祭りの
担い手ではなく傍観者になった人々は,祈願に際
して他所の神社にも参詣するようになる。中世に
なって参詣はさかんになり,徐々に庶民の間にも
ひろまった。参詣する人は,身心を洗い清めて米
銭などを奉った後,神々の加護を願い,誓いを立
つづく
132:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:19
てる。中世以降各地に多くの参詣者を集める神社
があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社で
は,参詣者を集める御師などの専門的な神官が
あらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織し
た。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中
の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後
に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に
浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰っ
て隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざま
な習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうち
に,日本人の旅行のしかたの型となった。
[神道の教説] 素朴な神々への信仰は,仏教
の影響のもとで,徐々に教説を生み出すことにな
った。寺院を建立するためには,境内地の神々を
まつらねばならず,堂塔の用材を伐り出すために
は山や森の神々をまつることが必要であるという
ように,仏教の受容は土着の神々との接触の中で
はじまったが,仏教の僧侶は,土着の神々を人間
と同列に置き,仏の慈悲によって神々も成仏でき
るものと説いた。神前で読経を行い,仏事を営ん
だのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本
人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの
仏・菩醍であり,日本の衆生を救うために姿を変
えて神としてあらわれたという本地垂迹
つづく
133:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:23
(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹
説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な
釈梼との関係を説明するものであったが,それを
応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々
を,仏教に結びつけることが行われていた。日本
では,平安時代に入って神仏習合がさかんにな
り,元来明確な神格を持たなかった神々も,仏・菩
醍に対比して神としての性格を論じられるように
なり,素朴な儀礼も荘厳なものに発展した。中でも
密教の教説による習合がさかんになり,両部神道
(りようぶしんとう)と呼ばれる神道説の流れが形成
され,真言系の両部神道に対抗して,天台系の山
王神道が唱えられたりした。律令制度のもとで手
厚い保護を受けていた古来の神社は,中世に入
るころから神領を侵され,仏教が庶民の間に浸透
しはじめると,強い危機感を持つようになった。神
官の中には,神威と神の加護を宣伝し,神社への
寄進を勧めようとする者があらわれたが,その
際,神社の固有の主張を説こうとすれば,仏教に
対抗する教説が必要になる。伊勢外宮の神官を
世襲してきた度会(わたらい)氏の人々は,易や陰
陽五行説,老荘思想などを援用して,仏教に対抗
する伊勢神道の教説を立てようとした。伊勢神道
は,神仏習合から一歩踏み出した点で,後の時代
の神道説に大きな影響を与えた。中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・
道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんど
が吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわ
しんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。ま
た真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒
つづく
134:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:23
教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道と
してしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立
場(復古神道)に近いものであった。⇒本地垂迹
[近代の神道] 明治政府は,強力な統一国家を
建設していくために,宗教的な支えが必要である
と考えたが,旧時代の象徴のように思われた仏教
に依拠するわけにはいかず,神道が注目されるこ
とになった。排仏運動が進められ,神仏分離が推
し進められる中で,国家の祭祀と結びついた神道
が浮かび上がってきた。他方,西欧諸国との交渉
が深まる中で,キリスト教の解禁と,信教の自由
への配慮が必要となり,大日本帝国憲法の第28
条で,限定付きではあるが,信教の自由が認めら
れることになった。そこで,国家の祭祀,皇室の儀
礼と結びついた神道は宗教を超えるものとされ,
官幣社,国幣社,別格官幣社に列せられる神社
は国家の機関となり,神官は官吏となった。国家
直属の神社を頂点として,府県社,町村社,郷社
などの社格が定められ,祭神も《日本書紀》以下
の正統的な神典に記載されている神々に改めら
れた。他方,国家と結びついた神道(国家神道)と
別に,信教の自由の次元での諸宗教は,神道,仏
教,キリスト教に大別され,宗教としての神道は教
派として活動を許可された。したがって神道という
ことばは,教派神道をさすものとして用いられ,国
家と結びついた神道は,大教,本教,惟神道など
つづく
135:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:24
のことばで示された。
1945年,敗戦の年に,GHQ は国家と結びつい
た神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令
を発した。この文書は〈神道指令〉(国教分離指令)
と呼ばれ,戦後の宗教行政の中で大きな役割を
果たした。神社は宗教法人となり,現在その多く
は連合して神社本庁という組織を作っている。他
方,神道系とされる天理教,金光教,大本教など
の新宗教も,伝統的な神々の信仰を受けついで
活発な宗教活動を展開している。神社は,明治以
来数十年の特殊な時代が終わった後,伝統的な
信仰の中心として人々の参詣を集め,結婚,受
験,交通安全などの祈願を行う場となっている
が,教派神道の系譜を引く神道系諸教団に比し
て,教説や教団の組織を持たないものが多く,祭
りを支えていた地域社会の秩序が,近代化の中で
解体していく中で,新たな対応を迫られている。他
方,神道的な儀礼が,宗教行為に属するか,民俗
的な習俗であるかをめぐっては,国民の間からつ
ぎつぎに問題が提起され,裁判で係争中のものも
少なくないが,神道をいかなるものと考えるかに
ついて,広く国民の支持を得るには,なお多くの
曲折が予想される。⇒神∥神道美術∥神仏習合
∥民間信仰
つづく
136:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:25
大隅 和雄
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よっしゃこい
137:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:26
おまけ 伊勢神道
伊勢神宮に基盤を置いて形成された神道説で,
度会(わたらい)神道とも外宮(げくう)神道ともよばれ
る。鎌倉時代に形成されたものに限るときは,こ
れを前期伊勢神道,江戸時代のに限るときは後
期伊勢神道とよぶことがある。一般に鎌倉時代に
は各大社がその由緒をもとに,仏教や陰陽道の
教説をまじえて独自の神道説を編み出そうとし
た。伊勢神宮でも,鎌倉初期以来武士の神領奉
献,僧侶の参詣が相ついでおこなわれ,種々の刺
激を受けた結果,律令制下ではもともと神宮は仏
法を禁忌する定めであったにもかかわらず,鎌倉
時代後期には,神宮の神徳は広大で,〈我国の仏
法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉との主張
が神官によりなされるに至った(《沙石集》)。ことに
伊勢両宮のうち外宮(豊受大神宮)は祭神が御饌
都(みけつ)神であるところから万民の食物をつかさ
どる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護
神なることを強調して,信徒を広く集める勢いでは
内宮(ないくう)をしのぐほどに立ち至ったらしい。
1282年(弘安5)内宮造営料木のことに容喙(よう
かい)して外宮衝宜(ねぎ)の一人度会行忠は職を
免じられたが,これを機に京都に移り住み広範な
教養を身につけたらしく,自著《二所太神宮神名
秘書》を亀山上皇に奏覧し,その功により87年復
つづく
138:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:27
職した。そして96年(永仁4)注進状に〈豊受皇大神
宮〉と記したことの当否をめぐって内宮側との紛争
が激化したころには,〈わが陣営には《倭姫皇女
世記》《宝基本記》などの貴重典籍あり〉と呼号す
るようになっていた。この《倭姫命世記(やまとひめ
のみことせいき)》《造伊勢二所太神宮宝基本記》な
どが,後世〈神道五部書〉とよばれるものだが,こ
こに,神宮の古伝承をもとに,さらに外宮の神徳
の種々を掲げた典籍を根拠として,いわゆる伊勢
神道の教説が唱えられるようになった。
その主張する点を見ると,まず外宮の祭神御饌
都神は,《古事記》《日本書紀》にみえる天御中主
神(あめのみなかぬしのかみ)や国常立神(くにとこた
ちのかみ)と同神であり,この神が天地開闢(かいび
やく)にあたり天照大神と幽契を結んで永く天下を
治めることにしたのだとして,天照大神の権威を
世界観の上から基礎づけようとしている。ついで,
つづく
139:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:28
外宮の神は水徳をつかさどり,内宮の火徳と両々
あいまって人々の生活を発展させるものだが,前
者はとくに万物を養い育てるの徳があるとして,
食物神から生産神へと発展させて説いた。そして
これら神格の根拠づけをするため陰陽五行説や
真言密教の体系からも理論を借りている。ややお
くれて1320年(元応2)に成った度会家行の
《類聚神梢本源(るいじゆうじんぎほんげん)》には中
国の宋学(程朱学)の文献までが引用されている。
しかしこれらの教説をもとに教団が組織されること
はなく,のちの吉田神道(唯一(ゆいいつ)神道)のほ
かは他への影響もさほど大きくはなかった。江戸
時代前期に再び伊勢神宮の教説化の必要が起こ
り,同じく外宮の度会延佳(のぶよし)などの神道説
では,儒教ことに易(えき)の理論と陰陽五行説とを
採って神道の精神を説明している。これは後期伊
勢神道とよばれ,近世の垂加(すいか)神道などへ
の影響が大きかった。 萩原 竜夫
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よっしゃこい
140:日本@名無史さん
03/09/17 01:30
またコピペかよ!
141:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:37
>>117 決定打は未発見
>>103 70年代の末以降、山口啓二・高木昭作などによって提唱された「国郡制の枠組み」、
80年代以降の近世史研究では常識の部類に入ります。
修士(文学)も呆れたようですね。
中世史を専攻した学士だそうですが、
中世前期の専攻ですか?
よっしゃこい
142:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:38
>>141 訂正)「国郡制の枠組み」論
よっしゃこい
143:日本@名無史さん
03/09/17 01:40
先生!!
立花道雪って誰ですか?そもそも実在するの?
144:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:44
>>143 立花(戸次)道雪 ?―1585(天正13)
戦国末期の武将。名は鑑連(あきつら)。大友義鎮
(宗麟)の加判衆で勇将として武名をはせた。1563
年(永禄6)毛利との和平に活躍。筑前国立花城主
立花鑑鎮を討ち,71年(元亀2)立花の名跡を継ぎ
筑前一国を支配した。85年筑後高良山下北野の
陣中に没した。道雪は,若くして雷にうたれて足を
傷つけたため手輿に乗って軍陣の指揮をしたとさ
れるが,疑問視する説もある。 高木 傭太郎
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よっしゃこい
145:日本@名無史さん
03/09/17 01:46
先生!折り紙銭ってなんですか?
146:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 01:51
>>145 ずばりはない。参照。
折紙方
室町幕府において政所が所管した部局。訪銭(と
ぶらいせん)など,将軍が他へ贈進する金品を扱っ
た。納銭方と同様に土倉などの商人数人で構成さ
れ,しかるべき権益と引換えに幕府に対して金品
の上納が義務づけられていたと推測されている。
直接その存在を示す史料として,蜷川親元の日記
《親元日記》寛正6年(1465)5月25日条の〈慈恩寺
に対する訪銭の支出を折紙方が渋ったので納銭
方に申し付けた〉という記事と,《大館常興日記》
天文9年(1540)4月3日条の〈乳女3人に対する給
与が2月滞っているが御倉に無いので折紙方の一
人に申し付けてはどうか〉という記事等が紹介さ
れているが,その構成,幕府財政機構においてど
んな役割を負ったかなど,詳しいことは明らかにさ
れていない。 村尾 元忠
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よっしゃこい
147:145
03/09/17 01:54
先生、流石です!鞄持ちにしてください!
148:史学生
03/09/17 06:55
お早う御座います。
先生、流石です!!。コピッペとは良いながら的確な論説で御座います。
私も、先生の内弟子にして下さい。m(_ _)m
ところで、私の質問もご回答宜しくお願いします。
149:美香
03/09/17 07:38
昭和史を極めたいと思っているのですがなにかいい本はありますか?
150:日本@名無史さん
03/09/17 09:29
喜連川氏の官職はわかりますが、
官位がわかりませんので、教えていただけますでしょうか。
151:105
03/09/17 09:58
こんなにも長い文章をありがとうございました。
m(_ _)m
152:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 14:41
>>150
高家(喜連川氏も高家のひとつ)
名家の意。近世においては名家の末流で江戸幕
府に仕え,その儀式,典礼(とくに朝廷関係)をつ
かさどることを世職とした人およびその家。1603
年(慶長8)徳川家康の将軍宣下の際,宣旨を入れ
た覧箱(らんばこ)の受渡しの役を務めた大沢基宿
(もといえ)がその起源とされる。59年(万治2)には高
家衆として吉良,今川,品川,上杉,大沢,戸田の
6人がおり,以後しだいに増加し26家に及んだ。京
都への使者,伊勢・日光参詣の名代のほか,江戸
に下向する勅使・院使等公家衆の接待にあたり,
そのおり痢応役の大名に礼法を指導した。平日は
交代で江戸城雁間に詰めた。1723年(享保8)制定
の役高は1500石,官位は従五位下侍従より従四
位上少将に至った。これは大名では国主や三家
の庶流に与えられる高い官位である。なお高家衆
の中から肝匙(きもいり)若干名が選ばれ,京都のこ
とを専管した。また幼少の者やまだ習熟しない者
は表高家といって,非役,無位無官であった。
松尾 美恵子
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
153:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 14:44
>>148 グーグル先生に聞いてみよう
>>149 ない
よっしゃこい
154:日本@名無史さん
03/09/17 20:15
初歩的な質問で悪いんですけど
道鏡って本当に上手かったんですか?
155:155
03/09/17 20:18
すいません。質問です。織田信長の掲げた政治思想の天下不武についておしえてくださいませんか?
156:伊達家中
03/09/17 20:41
>>154
すくなくともチョコボール向井よりは一枚も二枚も上手だと思いますが、何か?
>>155
×天下不武 ○天下布武 釣りの嫌疑が濃厚な間違いだと思いますが、何か?
157:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:45
>>154 しらん
>>155 ずばりはない。参照「天下」。
古代中国に由来し,文字どおりには全世界を意味
し,〈天子〉の統治対象を指す語。〈天子,民の父
母作(た)り,以て天下の主と為る〉(《書経》),すな
わち〈天〉から〈命〉を受けた〈天〉の〈子〉が,〈天〉
の〈下〉全体の最高支配者となると考えるのであ
る。したがって,〈天下〉に正統な天子は1人しかあ
りえず,外国を予想する〈国〉と違い,〈天下〉には
理論上,境界線がない。それゆえ,〈天下〉の語は
普遍性の語感を伴い,同時に,〈天下の人心〉〈天
下の河り〉の句の示すごとく,ある権威を感じさせ
る。日本では,元興寺塔露盤銘(596)に〈大和国天
皇斯帰嶋宮治天下〉とあるのをはじめ,遅くも6世
紀末以降天皇に関して〈治天下〉と表現した例が
多く,《古事記》も各天皇について〈……の宮に坐
しまして天下(あめのした)治(し)らしめしき〉と反復し
ている。すなわち,こうして天皇を中国の天子に
類比し,その統治対象たる日本列島の一部を全
世界とみなし,そこにおける最高支配者であるこ
とを主張したのである。原義からすればやや奇妙
だが,こうして〈日本全国〉が往々天下と呼ばれる
ようになった。
つづく
158:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:45
この語は政治用語としては,多く政権の日本国
内における普遍的権威を示唆し,強調する際に用
いられた。宣命はしばしば〈天下公民〉に呼びか
け,〈大赦〉の詔は天下に下り,聖武天皇は〈夫れ
天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有
つ者も朕なり〉(造立盧舎那仏詔)と誇っている。そ
して,このように天皇にかかわる場合,〈溥天の
下,王土に非ざるはなく,率土の浜,王臣に非ざ
るはなし〉(《詩経》)という観念と結びつけられ,そ
の普遍的支配権の強調される例が,幕末を含め
て史上少なくない。一方,武士が勢力を伸ばすに
つれ,武家政権に関しても用いられた。源頼朝は
1185年(文治1)〈今度天下草創也〉と号して朝廷の
人事改革を迫り,建武式目は〈承久に(北条)義時
朝臣天下を稀呑す〉と述べている。北条氏,足利
氏について〈天下の主〉〈天下主領〉などと表現し
た例もある。そして,領域的一円的支配を拡大し
つつ,有力武将たちが全国支配者たらんとして争
った戦国時代に入ると,〈天下の面目〉〈天下を争
ふ〉〈天下へ切り上る〉〈天下の仕置〉〈天下持ち〉
〈天下殿〉〈天下に成る〉などと盛んに用いられた。
全国,全国政権(あるいは中央政権)の所在地,全
国(中央)政権,そしてその支配者個人という同心
円状に重層した意味構造が成立したのである。例
つづく
159:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:45
えば〈天下布武〉の印判を愛用した織田信長は,
上洛後自分への協力は〈天下の為〉〈天下に対し
て大忠〉であると主張し,一方将軍義昭には〈天下
の褒貶〉や〈執沙汰〉を論拠に非難を浴びせ,つい
にはみずから〈天下を申し付くる〉と称するなど,
天下の権威と多義性をしきりに利用している。
とくに最高権力者を端的に天下と呼ぶ用法は,
おそらく,元来関白などを指す〈殿下〉の当て字と
しての天下とも交錯しつつ,足利時代以後しだい
に広がった。そこで〈天下分け目〉の関ヶ原後も,
天下とはすなわち徳川将軍を往々意味する。江戸
山王神社の祭りを〈天下祭〉と呼ぶときはそうであ
り,〈天下の御定〉〈天下の御法度〉も多くそうであ
ろう。それは,中世の全国的慣習法を意味する
〈天下の大法〉と対照的であり,〈天下〉が強力に
〈統一〉されることによって,政治的な権威が将軍
に集中したことを鮮やかに象徴している。
しかし,一方で天下の原義からする普遍性の語
感は,権力の公共性を強調してその私的濫用を
みずからあるいは下から戒めるためにも利用され
た。とくに〈天下を公と為す〉(《礼記》),〈天下は一
人の天下に非ず,乃ち天下の天下也〉(《六韜》)の
句は,明治初期に至るまでしばしば援用された。
南北朝時代の《梅松論》のごとく,〈私にあらず。天
つづく
160:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 21:46
下の御為〉〈天下静謐の為〉と称して朝廷に逆らっ
た行動を肯定的に記述した例もある。
なお,日本全国を天下とみなす無理は幕末に至
るとあらわとなった。しかし,文字どおりの天下は
別に〈宇内〉〈万国〉〈地球〉そして〈世界〉と呼ば
れ,以後日本全国を天下と呼ぶ用法も,徐々に大
時代な感じを与えるようになった。 渡辺 浩
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よっしゃこい
161:日本@名無史さん
03/09/17 21:59
つーかさあ。百科事典書き写してなんの意味があるの?
162:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/17 22:09
>>161 書き写してません。コピペです。
よっしゃこい
163:日本@名無史さん
03/09/18 07:56
>>152
一門の宮原家は高家ですが、喜連川家は違うと思うけどな。
交代寄合でも無いし?
164:日本@名無史さん
03/09/18 11:05
高家は、大沢(2家)・吉良・織田(3家)・今川・品川・宮原・由良・横瀬・畠山(2家)・上杉・武田・京極・土岐・大友・六角・日野・戸田・有馬・長沢・前田(2家)の26家。
喜連川は公家ではない。
165:日本@名無史さん
03/09/18 11:06
>>164の訂正
公家→高家
166:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 17:22
>>163-165 喜連川氏
1590年(天正18)の小田原合戦後,小弓(おゆみ)足
利氏は豊臣秀吉から下野喜連川の地を与えら
れ,喜連川氏を称した。その翌年豊臣秀吉の仲介
で古河公方(こがくぼう)足利義氏の遺女氏姫と喜
連川国朝との結婚が成立し,喜連川氏が関東足
利氏の嫡流たる地位を襲封することとなった。93
年(文禄2)国朝が朝鮮の役で九州に赴く途中安芸
で病死したのにともない,弟頼氏が氏姫と結婚し
て喜連川氏を継いだ。喜連川氏は,江戸時代
5000石を有し,また高家(こうけ)として四品・十万
石の格式を与えられ,その血統のゆえに重く用い
られた。以後,代を重ね,聡氏のとき喜連川氏か
ら足利氏に復姓し,廃藩置県を迎えた。
佐藤 博信
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よっしゃこい
167:日本@名無史さん
03/09/18 17:26
歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
っていつも返事するけど、無職?
168:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 17:41
>>167 スレタイの音読をお薦めします。
よっしゃこい
169:日本@名無史さん
03/09/18 18:37
みんな安藤をからかって面白がってんだな
170:日本@名無史さん
03/09/18 20:14
>>166
高家ではなく高家待遇が正解だと思う。
徳川将軍家は臣下と思っていなかった。
171:歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw
03/09/18 20:59
>>170 こだわりがおありのようだが、高家だよ
よっしゃこい
172:日本@名無史さん
03/09/18 21:08
すみません、高原連ってなんですか?
私のご先祖様の系列らしいのですが・・。
173:史学生
03/09/18 21:09
先生、今晩は!!。お元気ですか!!
教えて下さい!!
ザビエルや、ルイス・フロイスはイエズス会派の者と聞いて居りますが、
スペインのピレネ-山脈に居住する一派で地位は余り上でない様ですが
イエズス会を教えて下さい。
174:伊達家中
03/09/18 21:12
盛り上がってますなあ~~
よっしゃこい
175:日本@名無史さん
03/09/18 21:17
>>173
先生ではなくて博士とお呼びするように
176:日本@名無史さん
03/09/18 21:21
>>171
>>164は国史大辞典からの引用なのだが
ここには喜連川は出てこない。
この違いはどう理解すればよいのか。
ちなみに佐藤博信の専門は中世史だね。
177:日本@名無史さん
03/09/18 21:40
安藤のタコ踊り
178:質問
03/09/18 21:47
博士、博士がよく参照されている平凡社大百科事典(CD-ROM版)ですが、使い勝手などはいかがですか?
もしよければ私も購入しようかと考えています。他の似たような百科事典と比較して、情報量や価格
などにどんな差があるでしょうか?博士のアドバイスお願いします。