▲▲ 筑波山 12 △△at OUT
▲▲ 筑波山 12 △△ - 暇つぶし2ch354:底名無し沼さん
18/05/20 00:20:48.41 v+xXbckV.net
年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便など
では富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するア
ナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧
飛エムゾネ行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、
和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは
別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西
にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日エムゾネに
福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離にあ
る)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺望さ
れる。富士山の見える都道府県は、理論上可能とさエムゾネれていた京
都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県と
なった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季
節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿
がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝エムゾネ、露出した山肌が朝
焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士
」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で
紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenro
t)が用いられる場合がある。逆エムゾネさ富士波立ちが少ない水面に
映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ
富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇
った時又は沈む時、太陽エムゾネが富士山の頂上と重なり、富士山の頂
上付近がダイヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東
の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士
山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上エムゾネに見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、悲致

355:底名無し沼さん
18/05/20 00:21:19.77 v+xXbckV.net
に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」
『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小屋や登山道の
道標とエムゾネして「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に
静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認
知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680
年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」というエムソ
゙ネ表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、
(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…~~『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓をエムゾネ表、北
麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別
に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『
冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山
裏富士』など、作品名に採用されている例がみエムゾネられる。富士山
の文化美術における富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩
野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャ
ラリーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまエムゾネり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として
描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献
納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐のエムゾネ黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の
山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌
倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽エムゾネ我物語富士巻狩図』など物語文学の成立と
ともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては現絹

356:底名無し沼さん
18/05/20 00:21:51.20 v+xXbckV.net
状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描
かれ、特別エムゾネな存在として認識されていた。室町時代の作とされ
る『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化
財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間
神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。
まエムゾネた、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北
斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けエムゾネた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨
嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技
法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺
や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏エムゾネの赤富士を
描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた
『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の
1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広
重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスエムゾネケッチを重ね作品に
活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が
多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士
見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏
富士を画題として開拓していったエムゾネ。工芸品としては本阿弥光悦
が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と
銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影
した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品
や工芸、写真、デザインエムゾネなどあらゆる美術のモチーフとして扱
われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が
日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近萎霜

357:底名無し沼さん
18/05/20 00:22:09.88 v+xXbckV.net
視点で描かれたエムゾネ富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網
など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地と
しての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、
富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画に
おいてエムゾネは和田英作などがいる。富士山をモチーフとした美術品
は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山も
ヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、身有

358:底名無し沼さん
18/05/20 00:22:40.95 v+xXbckV.net
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フラエムソ
゙ネンツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―ヨーロッパ
ではふつうフジヤマと呼ばれる―を知らない者などいるのだろう
か~ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインエムゾネとして
漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたし
たちにはお馴染みだ。~~8月15日付戦時下には国家により富士
は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様
々に描かれた。戦後には国体のシンボルとしてエムゾネのイメージから
解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡
球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士
を描く傾向も見られる。深田久弥は『エムゾネ日本百名山』の中で富士
山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」と
いう。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士
山を豆粒のような人物(僧、エムゾネ西行法師)が見上げるという構図
で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデル
となった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用
いられている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くあ
る。古くは1913エムゾネ年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山か
らの富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円
札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの
富士山であエムゾネる。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11
年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・
山梨県(2005年(平成17年))文学における富士山富士腸阻

359:底名無し沼さん
18/05/20 00:23:12.41 v+xXbckV.net
和エムゾネ歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中
には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.31
8)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こエムゾネの
反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火
を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「
(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪
を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士エムゾネ山が火山活
動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の
煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしら
ぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な
山として認識され、古典文学では都良香『エムゾネ富士日記』が富士の
様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台
となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことにな
っている。それからその山は数多エムゾネの士に因んでふじ山(富士山
)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の
静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている
場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士
に言及される箇所があるエムゾネものの、主要な舞台となるケースは少
ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河
側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側
の富士についてエムゾネ触れられている。また、「八面玲瓏」という言
葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美し
い形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が
往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には
鉄道なエムゾネど交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受壌危

360:底名無し沼さん
18/05/20 00:23:45.67 v+xXbckV.net
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり
、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓にエムソ
゙ネ滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞
台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後
に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島
佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモエムゾネデルに
、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山
―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義
文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それ
ぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖はエムゾネ地域文芸の振興
にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小
説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよ
く知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山エムゾネ頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞
受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作
品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた
際、美しい富士山を見て歌をエムゾネ詠んだ。駅前にはその歌碑が建て
られている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降り
る子連れ花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、
富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
しかし、富士山麓にエムゾネは温泉地として成立する規模の湯量は湧出
していない。富士山


361:の利用について、静岡県側が自然・文化の保護 を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており 、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺 産登録問題エムゾネ等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の 相違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登伐緻



362:底名無し沼さん
18/05/20 00:24:17.90 v+xXbckV.net
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山
開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外エムゾネは、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」
を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所は著名
な観光地となっていることが多い。箱根-箱根は富士山が望エムゾネめ
るうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が憩忘

363:底名無し沼さん
18/05/20 00:24:36.48 v+xXbckV.net
めることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏
は避暑地としても有名である。富士五湖-富士五湖は富士山周辺の
観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本エムゾネ銀行券に採
用されている。白糸の滝-白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山
の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝
である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。
朝霧高原-朝霧高原は富士山を綺麗に臨むエムゾネスポットとして著名
であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボ
リーも開催されている。ダイヤモンド富士-ダイヤモンド富士など
がはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特
に写真撮影を目的として訪れる観エムゾネ光客もいる。ドライブ-富士
スバルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマ
イカーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:エムゾネさん」と語呂合わせで読み「富士山の
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13年)
山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002
年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓1
0市町村、2恩エムゾネ賜林組合が了承。2009年(平成21年)1
2月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25
日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である
。そのエムゾネため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさま
ざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士
山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する
機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きエムソ
゙ネを地元から活発化したいとの期待も込められている。静岡県教育
委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「逸喫

364:底名無し沼さん
18/05/20 00:25:08.63 v+xXbckV.net
山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込ん
だ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「エムゾネ特定日
を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年
以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学
べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館な
どの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事エムゾネ業実施を要請し
ている。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「
NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富
士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市エムゾネ2町と山梨運輸支局管内
の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして20
08年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支
局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士
山検定実行委員会」が主催すエムゾネる富士山検定が、富士商工会議所
、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・
山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。
地域間交流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐ交流が昭和三十二エムゾネ年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市
の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその
穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵
琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐことを「エムゾネお水取り」という。2014年には日本富士山協会
と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(
台エムゾネ湾)-日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)-日本統治時代は次高山
と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ視完

365:底名無し沼さん
18/05/20 00:25:42.20 v+xXbckV.net
ル。北岳-日本で2番目に高い山。標高3,193メートルエムゾネ。
日和山(仙台市)-日本で最も低い山。標高3メートル。エベレス
ト-世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode
6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表でエムゾネ、「ふ」を
送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続けら
れている。これは「近江の土を掘り富士山エムゾネを作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注
ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを
「お水取り」という[82][83]。2014年には日本富士山
協会と中華民国山岳協会との間でエムゾネ、富士山と玉山の友好山提携
が締結されている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾
の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)-日本統治時代は新高山
と呼ばれ、日本最高峰でエムゾネあった。標高3,952メートル。雪
山(台湾)-日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い
山であった。標高3,886メートル。北岳-日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)-日本で最も低い
山。標高3メーエムゾネトル。エベレスト-世界最高峰。標高8,84
4メートル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧
ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含
まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山
のフ」エムゾネという。文字コードのUnicode6.0では、携帯
電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」として富士山も含まれている。富士山世界文化遺産
平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記エ掲芸

366:底名無し沼さん
18/05/20 00:26:15.88 v+xXbckV.net
゙ネ載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の
本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置
する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述
))から成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所エムゾネ在地に
ついては以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座
標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口用髪

367:底名無し沼さん
18/05/20 00:26:49.33 v+xXbckV.net
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲エムゾネ及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍
における法的保護区分を示す図面は以下のとおりである。f)資産
面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積
、資産の総面積及びその緩衝地帯の総エムゾネ面積については、以下に
記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構
成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の
説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さ
を誇る独立峰である。高度をエムゾネ増すごとに山腹の傾斜が急になる
美しい懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有し
た玄武岩質成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及
び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、
日本列島のほぼ中央エムゾネに位置し、フィリピン海プレート、ユーラ
シアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異
な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火
山噴出物かエムゾネらなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先
小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口
はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レエムゾネートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続け
ているため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を行
ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物はエムゾネ、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、
山頂を中心として約15~20km(最大約30km)の範囲に広
がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩
流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とエムゾネする豊話衆

368:底名無し沼さん
18/05/21 09:09:38.31 tl50F/N4.net
む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火
口エムゾネを臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている
鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して
いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』はエムゾ陥喪

369:底名無し沼さん
18/05/21 09:10:10.89 tl50F/N4.net
大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ
が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ
延徳2年(1490)、天文12年(1543)、エムゾネ寛永元年(
1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰
の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所
跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏
の破片と一石経を採集して下山、それを受エムゾネけて昭和5年に三島
岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片
などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の
経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経
巻のスタイルや計測値から平安時エムゾネ代後期までさかのぼる可能性
が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し
八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の
北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山
岳に至る道が外浜道で、エムゾネ峰の内側を大内院に沿って回り金明水
に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が
数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな
っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している
平面図・札打場エムゾネ村山浅間神社の北東約3.5㎞、天照教社の西
南西約1㎞の地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10
mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが
札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ
とであエムゾネる。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に
先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち
つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号
建物跡)村山口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点かエムソ
゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1,2裾併

370:底名無し沼さん
18/05/21 09:10:42.35 tl50F/N4.net
mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上-45-段には小さな祠が建てられている。
また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。エムゾネ江戸時
代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか
らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として
使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東
西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡エムゾネをたどれなくな
る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八
大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と
刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられている。水神祠には「文
化十三年寅年六月日」、八大龍王にはエムゾネ「文化七年七月十七日」
との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保
14年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『
袖日記』には、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡
堂の井戸を掘ったので山が荒エムゾネれた」との記述がある。この「中
宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考え
られている。井戸跡は幅80㎝、深さ50㎝ほどである。・5号建
物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯と
なり、その中に5号エムゾネ建物跡がある。標高は約1,865mであ
る。平成5年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に
3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調
査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際
に地面が掘エムゾネり起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと
考えられる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の
銘がある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表
口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ
るエムゾネと推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる
。廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内尉彼

371:底名無し沼さん
18/05/21 09:11:34.88 tl50F/N4.net
さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ
゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩
は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030~1230
年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し
た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、エムゾネ須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお
り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが泳訃

372:底名無し沼さん
18/05/21 09:12:07.30 tl50F/N4.net
した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木
花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住エムゾネの彫刻家、杉山
拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され
ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の
鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇エムゾネに、「旧須山口登山道一
合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存
会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状
の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4
須走口登山道図登山道に要素エムゾネが点在している平面図・古御岳神
社冨士浅間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在
の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九
尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には
鳥居がある。かつてエムゾネは3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿
、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神
社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建て
られている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室
の中に薬師エムゾネ如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。
元禄16年(1703)-47-の文書「大宮司富士信安等返答下
書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降
にはすでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線
香エムゾネを手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎
久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前
は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側
を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノエムゾネ見
御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所があり、江戸
時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富士
講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ享抄

373:底名無し沼さん
18/05/21 09:12:40.30 tl50F/N4.net
石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎エムゾネ久須志之神
社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山
道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御
嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・
狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置エムゾネされている。この場
所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目
付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高
い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていた
ものを山小屋関係者で運び、現在エムゾネの場所に設置したという。日
付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口
登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道
は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である
。18世紀後半以降は、エムゾネ最も多くの道者が吉田口登山道を目指
している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる
重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存す
る吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある
。・旧登山道・エムゾネ馬返ここから急坂となり馬が使えなくなること
からこの名がついた。この一体は草山から木山への境でもあり、こ
こからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が開通す
る以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平
地であエムゾネり、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わっ
た。登山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。
写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの
地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役場、エムソ
゙ネ中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三
社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所
となった。小屋については、江戸後期には4軒があったが、すでに
武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称エムゾネが錦蛍

374:底名無し沼さん
18/05/21 09:13:12.92 tl50F/N4.net
、戦国時代からこの地に小屋が設けられ-48-ていたことがわか
る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周
辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを
烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称エムゾネされる食行身禄
が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志
」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ
身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期
にはすでに身禄の聖地として信者が登エムゾネ拝していたことがわかる
。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真
A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代
に富士講の指導者である村上エムゾネ光清の寄進によって境内の建造物
群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。
社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで
吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち
ながら発展した神社エムゾネである。顕著な普遍的価値を構成する諸要
素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、
吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留
郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間
の規模で、エムゾネ入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の
向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。
各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な
装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、
すエムゾネぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本
殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え
られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した
ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間のエムゾネ向
拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は円阻

375:底名無し沼さん
18/05/21 09:14:03.77 tl50F/N4.net
本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪
華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重
な建物である。-49-写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚
山社誌では、日本武尊が富士山をエムゾネ遙拝した地であり、ここを浅
間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年
には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武
尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな
しており、日本武尊を祀エムゾネる祠が建てられている。写真大塚山の
写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。
吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる
。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とさ
れる。写真御鞍エムゾネ石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡
りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの
芸術作エムゾネ品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖
図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつのエムソ
゙ネ時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の
地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を
構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖
の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在している平面エムゾネ図富士
山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって
行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられてい
る。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕
著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然エムゾネ地形(湖水)や
中ノ倉峠からの展望などがある。写真本栖湖の写真②信仰に関児詣

376:底名無し沼さん
18/05/21 09:14:37.23 tl50F/N4.net
周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい
る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される
。神立山及び富士山本宮浅間大社の基エムゾネ盤を構成する地形は、新
富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広
がる扇状地堆積物の層で-50-構成され、溶岩流の末端部にあた
る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見
される。また、当該地区は風エムゾネ致地区・保安林にも指定され、渋
沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(
1670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築
物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神
立山の写真・湧玉池エムゾネ(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、
国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨
や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ
、溶岩流末端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上
池と下池にエムゾネ分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を
御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山
中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富
士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉
池エムゾネの写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千㎡にわ
たってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹
林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「
野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿エムゾネ・
透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営
されたという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の
浅間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9~
11年(1604~06)に徳川家康が造営したもエムゾネのである。
写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で玉鑑

377:底名無し沼さん
18/05/21 09:15:42.03 tl50F/N4.net
流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には
すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両
側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境
部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸
橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架
けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し
たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺符狩

378:底名無し沼さん
18/05/21 09:16:32.70 tl50F/N4.net
側が神路枚橋であるが、寛文10エムゾネ年(1670)の絵図では西
側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図
B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流
地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域
は北山溶岩流上に展開しエムゾネている。また、遥拝所が位置する小高
い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、


379:涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異エムゾネなる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等にエムゾネ遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780㎡の社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸エムゾネ職が一 夜参籠した場所である。-53-・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれてエムゾネいる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積エムゾネみ上げて構築され、尺悪



380:底名無し沼さん
18/05/21 09:17:05.10 tl50F/N4.net
的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら
れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1
2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ
れる。写真石塁の写真図石塁エムゾネの平面図・断面図・玉垣遥拝所の
周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦
後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門
扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行
うことを目的としてエムゾネ築造されたと推定される施設である。南北
約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30~40㎝程度の溶
岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇
が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・
案主席、献エムゾネ饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて
いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に
、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも
のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山
浅エムゾネ間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩
流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ
たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。
村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一エムゾネ段
高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池
」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき
た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西
側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落エムゾネを成立させ
た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]
-54-昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ
れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m


381:南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根エムゾネの発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産遵臆



382:底名無し沼さん
18/05/21 09:17:38.29 tl50F/N4.net
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前
はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし
め縄を張る。[大スギ]昭和31エムゾネ年5月24日に県天然記念物
に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内
の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17
.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及
ぶ空洞がある。案内板でエムゾネは約1,000年の樹齢とされる賜腐

383:底名無し沼さん
18/05/21 09:18:10.62 tl50F/N4.net
実際にはおよそ400~600年と推定される。・社叢境内には胸
高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ
1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ
やスギである。エムゾネ富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間
神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間
七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、
彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊
・伊弉エムゾネ冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913)
に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら
に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真
図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ
゙ネ~1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開
いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂
で、富士山の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部
材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造エムゾネと考え
られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間
7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側
面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面
・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝エムゾネの道者が垢離を
とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形
で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと
なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍
頭池湧水を引き、上の段から樋で落とエムゾネし垢離を取るようにして
ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石
像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ
り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石
で囲んだ一辺5.3mの丸いエムゾネ石組となっている。丸い石組の前
に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4麺労

384:底名無し沼さん
18/05/21 09:19:00.35 tl50F/N4.net
神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内
には、社殿前と石段手前エムゾネの参道脇に計二対の狛犬が設置されて
いる。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に
奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている
。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは
、それぞれ寛保エムゾネ2年(1742)、文政6年に奉納されたもの
である。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、
手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7-56-年と刻
まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷
かれ、エムゾネその後社殿の位置する高台へ登るためにコンクリート製
の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート
製の鳥居が建てられている。昭和41年(1966)に奉納された
ものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたエムソ
゙ネことを示す碑が建てられている。・古宮神社八坂大神、八幡大神
、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中
にあり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社エムゾネ殿周囲
と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参道南側の部分を浅間
の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大樹が生育してい
る。・ハルニレ昭和38年(1963)2月19日に静岡県の天然
記念物に指定された。根回り約6m、目通り4エムゾネm、樹高24.
50m、枝張東西28.10m、南北23.50m、樹齢約500
年。北日本の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社
以外の小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生
育している。・エゾヤマザクラ昭和5エムゾネ8年5月1日に小山町の
天然記念物に指定された。樹齢約130年で、根回り2.08m、
目通り1.75m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9.
5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、謀麻

385:底名無し沼さん
18/05/21 09:19:33.64 tl50F/N4.net
県が南限である。県内ではまエムゾネれな樹種である。・根上がりモミ
平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約30
0年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m。この
根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデの種子が生
え、宝永噴火の火山エムゾネ灰土が、降雨により流亡しながらモミが成
長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考
えられる。縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18年8蔵筋

386:底名無し沼さん
18/05/21 09:20:07.10 tl50F/N4.net
4日に小山町の文化財(建造物)に指定された。宝永噴火により大
きな損害をエムゾネ受けたが、享保3年(1718)に再建された。そ
の後蟻害や老朽化により改修したものの、部材は享保年間(171
6~36)のものが今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝
殿が連結した権現造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本
殿エムゾネは享保年間の遺構を残した流造りとなっている。-57-構
造は、拝殿が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千
鳥破風付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造
、向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿のエムゾネ写
真図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付き
の縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配
神されている。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在の
ものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時エムゾネに再建され
たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋
造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先
としている。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てら
れている。春日造で、額束には「不二山」エムゾネと刻まれている。明
治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から
本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬
楼門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい
る。・富士講講碑群明治より昭和エムゾネにかけて、各地の富士講より
寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が
成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも
ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられてい
る。写真富士講講碑群のエムゾネ写真図富士講講碑群の配置図B6河口
浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社は、
864~866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも浅間神
社が建てられることになったが、その神社である可能性が高い諦何

387:底名無し沼さん
18/05/21 09:20:38.31 tl50F/N4.net
在も富士山と密エムゾネ接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的
背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産
である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠
点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居
河口浅エムゾネ間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある
。建立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び
噴火ということに対する当時の考え方を理解することができる。鳥
居は1697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記されエムソ
゙ネた「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされる。写真社
殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要素が点
在している平面図-58-冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田
口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富エムゾネ士山中
に祀られた最初の神社であるとする文献もある。二合目本宮(もと
みや)へは冬季の参拝に苦渋するため、958年、河口湖畔に現在
の里宮が建立されたという。現在は二合目にあった社殿も里宮の広
い境内に敷地内に移設されている。修行や登拝エムゾネといった様々な
富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土
神としての里宮が一体となって機能してきた。顕著な普遍的価値を
構成する諸要素としては、信仰拠点である二合目や本殿などがある
。・吉田口二合目吉田口登山道二合目エムゾネに御室浅間名字(本宮)
が鎮座した。御室浅間神社は木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳
らかでないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたの
が最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には浅
間神の信仰に修験道が習合しエムゾネて、富士山が霊験所の一として広
く知られていた。冨士修験の信仰拠点は南口の村山であるが、北口
の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者堂が設置されて
いた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐国都留郡領主であっ
た鳥居土佐守成次にエムゾネよって桃山時代建築様式の神社建物に漁鈴

388:底名無し沼さん
18/05/21 09:21:27.92 tl50F/N4.net
家住宅現状平面図B9山中湖図以下に示す要素が点在している平面
図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われたエムゾネが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数
えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖
水)などがある。写真山中湖の写真B10河口湖図以下に示す要素
が点在エムゾネしている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内賃才

389:底名無し沼さん
18/05/21 09:22:00.37 tl50F/N4.net
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く
の芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素エムソ
゙ネとして、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖の写真B11
忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野八海は、富士
山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士
信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価エムゾネ値を構
成する諸要素として、自然地形(湧水)がある。B12船津胎内樹
型図以下に示す要素が点在している平面図船津胎内樹型は、167
3年に富士講の指導者である村上光清により発見され、富士講の開
祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明神がエムゾネ遷宮された溶岩
樹型である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意
義付けがされている地形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型
船津胎内樹型は、承平噴火(937)で流出した剣丸尾第1溶岩流
の西縁に所在する。本穴自体も大小様エムゾネ々な樹型が複雑に交叉し
て形作られている。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のよう
に見え、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内臓を摘
出したあとの胸控の如く見える。胎内の名称はこれに基づくもので
あり、極めて貴重な形態と言エムゾネえる。・無戸室浅間神社・石造物
群1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見さ
れ、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅間明神誕生
の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出
産したという故事にエムゾネ倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。-
60-B13吉田胎内樹型図以下に示す要素が点在している平面図
吉田胎内樹型は、1892年に富士道者によって整備された「お胎
内」(溶岩樹型)である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には
、宗教的なエムゾネ意義付けがされている地形空間(溶岩樹型)などが
ある。・胎内樹型吉田胎内樹型は、承平噴火(937)で流出髪虫

390:底名無し沼さん
18/05/21 09:22:31.72 tl50F/N4.net
剣丸尾第1溶岩流の東縁に所在する。本穴の側面では垂れ下がった
溶岩が肋骨のように見え、母の胎内に似ているため、浅間大菩薩(
木エムゾネ花開耶姫)出世の御胎内として信仰の対象となった。・洞内
の石祠、石造物群吉田胎内の本穴の奥には、石祠があって富士講に
とっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に
入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠がある。B14エムゾネ人
穴富士講遺跡(人穴浅間神社)図以下に示す要素が点在している平
面図・犬涼み溶岩流人穴付近は、新富士火山旧期溶岩(約11,0
00年前から約5,000年前)に属する犬涼み溶岩流の末端部近
くに位置している。犬涼み溶岩流は、標高1,20エムゾネ6mの犬涼
み山から噴出し、西方に約5㎞、標高差にして約700mの扇状地
をつくる溶岩流である。写真溶岩流の写真図溶岩流の詳細図・溶岩
洞穴人穴溶岩洞穴は、天正年間に富士講の開祖、長谷川角行が千日
の行を行ったとされる洞穴である。犬涼みエムゾネ溶岩流の中に存在す
る19箇所の溶岩洞穴のうち、西端部の最も低い位置にあり、溶岩
が流れ下るとき溶岩表面が冷やされて固化した後、内部の溶けた溶
岩が抜けて空洞ができたものである。洞穴の南西の端が進入口とな
り、洞穴中央部でくの字型に曲がエムゾネっている。入口から約30m
の屈曲部手前中央には、直径約5mの溶岩柱がある。全体として幅
広く、奥に入ると広々として平坦な空間となっている。最奥部まで
は約80mで、そのまま閉塞していると考えられる。写真溶岩洞穴
の写真図洞穴の図面・社エムゾネ叢(周辺の植生)人穴集落では主に製
炭と農業を中心とした生活が営まれたため、薪炭材のコナラ・クヌ
ギ等を中心に育林していた。しかし、昭和30年代に薪炭の消費が
減少し、境内地とその周辺は建材としてのヒノキ・スギに改植され
た。御神木に相エムゾネ当する大樹等は存在しない。・碑塔群人穴浅間
神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存在す
る。そのうち碑塔に建立年が刻まれたもの89基についてみる私由

391:底名無し沼さん
18/05/21 09:23:03.27 tl50F/N4.net
一番古い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。建立目的
によっエムゾネて大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した墓碑・
供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願する「祈
願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する「顕彰記念
碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑」が最も多いエムソ
゙ネ。-61-写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・参道洞穴入口や
浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境内地内を南から北へ伸び
ている。現在はコンクリートで覆われている。・建物跡大小2つの
建物跡が人穴洞穴直上の平場で検出されている。西側にエムゾネ規模の
大きな1棟と、その東側にやや小規模の1棟があり、大規模なもの
の方がより古い遺構とみられる。また建物跡の周辺には石積みが施
されている。・参道跡建物跡へ向かう参道跡が、建物跡南側の平場
から斜面を下り、井戸跡の所在する平地まで約エムゾネ34m続いてい
る。溶岩角礫や露出している溶岩を利用して21段の石段が構築さ
れている。・道跡2本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石
垣の西側に位置する。建物跡と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有し
ていたと考えられる。・炭焼窯跡指定エムゾネ地の北側を通る林道に沿
って、5箇所の炭焼窯跡が検出されている。昭和初期まで使用され
ていたものであるが、富士講に関わる遺構は検出されていない。・
井戸跡参道跡の南側に位置する。内部が溶岩角礫や土砂によって埋
没し、涸れ井戸となっているエムゾネ。B15白糸ノ滝図以下に示す要
素が点在している平面図・古富士泥流堆積物山体が崩壊した際に崩
れた土砂が堆積した地層であり、古富士火山の一部を形成するもの
である。この地層は、塊状礫岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互
層しているものであエムゾネる。写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土
台となっている溶岩流のひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キ
ロメートル程度にある。白糸溶岩流は4枚の溶岩流層からなると考
えられており、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認できる。溶捻欄

392:底名無し沼さん
18/05/22 19:10:27.96 tGM2hHgT.net
発狂する原因になった、直近の書き込み教えて

393:底名無し沼さん
18/05/23 18:26:50.77 Fhb82+kH.net
どれなんだろうね

394:底名無し沼さん
18/05/30 07:33:50.15 B005cU3Y.net
あげ

395:底名無し沼さん
18/05/31 18:48:29.53 z8dSF4qa.net
>>354
キッカケというか、ここ最近>>1の注意文入ったスレばかりが勢い上位を占めてたからだろうね
アフィ厨はかなり前からイライラMAXだったはず
で、アフィ厨と名乗るわけにもいかないので変な言い訳>>16しながら、一連のスレ=注意文を消そうと必死
5chカキコを転載して暮らしてるニートは>>1のAdblockが広まると小銭稼ぎできなくなるからね

396:底名無し沼さん
18/05/31 23:27:24.75 pQ35+Xc7.net
なるほどな

397:底名無し沼さん
18/06/01 14:20:19.36 zocs6Ori.net
最近、荒らしに来ないのはアクセス禁止でも食らったからか?
それにしても残骸と化したスレをどうにかせんと。埋め立てるしかない?

398:底名無し沼さん
18/06/01 15:12:59.84 Fxe/JzCK.net
精神的に崩壊しちゃったのかな?

399:底名無し沼さん
18/06/01 16:17:45.68 g1FiHwj3.net
手広げすぎて追いつかないんだろ
やはりただのバカだったようだ

400:底名無し沼さん
18/06/01 18:20:59.57 LjKLKpnx.net
4件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュ
タウルル-カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバ
ラン-イラン3運営スライマン-トースライマン-トー聖山キルギ
ス4プーカオ山チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プー
と関連古代遺産群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山
、オトゴン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブル
カン・運営カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山-モンゴル6瓶酢

401:底名無し沼さん
18/06/01 18:21:24.66 LjKLKpnx.net
ラヤ山脈サガルマータ国立公園(ⅶ)ネパール7ルアペフ山、ナウ
ルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国エムソ
゙ネ11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13
武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国
15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡
山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山-中国運営18雁
蕩山雁蕩山-中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島
と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野
生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈-スリラ
ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキー運営山脈国立公園ア
メリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー
山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、
ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー
ン国立公園カナダ・アメリカ25シナ運営イ山聖カトリーナ修道院
エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山
とセザンヌに関連する土地-フランス27ペルデュ山ピレネー山脈
-ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ2
9オリンポス山オリンポス山運営周辺-ギリシャ30ドロミテ山塊
ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア3
2ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ-アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプ
スユングフラウ-ア運営レッチュスイスアジア・太平洋地域以外3
4キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2:
信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形
的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニに
とって、ウ運営ルル-カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可
欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった港切

402:底名無し沼さん
18/06/01 18:21:50.49 LjKLKpnx.net
形態をもつ。3スライマン-トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジア
随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイ
ス運営ラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行
為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信仰形態をもたない
)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の象徴)・シバ神の
住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺運営院
群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・
同程度以上の標高(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々
の住処として崇拝される空想的な山であるメール山(スメール山、
須弥山)が地上に顕現・チベット仏教、ボン教、ヒ運営ンズー教、
ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典の一つには人間の罪はヒマラ
ヤを見れば消滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ
山ナウルホエ山トンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの山は
文化的・宗教的な重要性を持っており、そ運営のコミュニティと環
境との間の精神的なつながりを象徴している。・山自体が信仰の対
象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・
小泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・
仏教・道教の聖地である。・秦の運営時代より、皇帝即位の際の儀
式である「封禅の儀」を執り行っていた。・宗教施設が山頂、山中
に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教
的な意義を求める登拝とは異なるものである。11廬山参詣道、寺
院・中国の近代政治上、運営重要な場所とされている。・山自体で
はなく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教
、儒教の聖地とされ、キリスト教、イスラム教の施設も建てられて
いる。12峨眉山・同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣
道、寺院・中国運営における仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗
教施設や日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。
宗教施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の形態をと俗弧

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