17/08/21 10:30:31.01 P20AvOTR.net
そもそも日本法律学校(→日大)は五大法律学校じゃないから。
◆五大法律学校
政府によって、私立法律専門学校は帝国大学総長の特別監督下におかれた。
さらに特別認可学校制が導入され、私立学校は大きな特典を得ながらも、
設置科目をはじめ、政府によるさまざまな統制と干渉が強まっていった。
このことは私立学校の建学の精神に基づく独自な教育の特色が大きく揺らぎ、
皆同じ教育体系に平準化されるという危険性をはらんでいた。
そこで特別認可学校の認定を受けた専修学校・明治法律学校・東京法学校・東京専門学校・
英吉利法律学校の5校は、明治21年9月に第1回の連合討論会を開催した。この反響は大きく、
開催場所である神田一ツ橋外にあった帝国大学講義室は、1500人の参加者で埋まった。
それほど5校の教育への期待が大きかったことを物語っている。
5校は毎回、それぞれ優れた討論者を送り込み、生徒も報告討論に参加したので、
討議の内容は大きな反響を呼び、出版社である博文館は雑誌『日本之法律』の号外で
「東京五大法律学校連合討論筆記」という名の特集号を発刊し、
『東京日日新聞』も同じ題名で合冊号を出すほどだった。
こうして参加校はいつしか五大法律学校と呼ばれるようになり、
市民の間で一目おかれる存在となったのである。
この連合討論会は、明治23年中ごろまで毎年2、3回開かれていた。
当然その都度、専修学校は講師陣をはじめ、校友や在校生も演者として多数参加し、
その報告や討論は高い評価を得ていた。この評価こそが私立の法律専門学校としての
専修学校の存在価値を高めるのに大きな役割を果たしたのであった。
この間、法律専門学校は、明治22年に日本法律学校(現・日本大学)が開学、
同年、英吉利法律学校が東京法学院と改称、東京法学校と東京仏学校が合併し、
和仏法律学校が誕生、さらに慶応義塾にも法律科がおかれるようになった。
(『専修大学の歴史』 平凡社、2009年)