24/02/20 12:31:23.99 wyHmEg6Md.net
>>664
当時の日本代表において、海外のクラブに所属していたのは中田英寿と、コパ・アメリカ以降は代表に招集されていなかった名波浩のふたりだけだった。中田は1999-2000シーズン途中に、イタリアのペルージャからローマへ移籍。名波は1999-2000シーズン、イタリアのベネチアに在籍していた。
残りはすべて国内組。トルシエは、彼らをしばしば福島県のJヴィレッジに集めて合宿を行ない、自らの戦術とプレースタイルを選手たちが身体で覚えるまで練習を繰り返した。その過程をトルシエは、『ラボラトリー』(実験室または研究室)と呼んだ。
「ラボのなかで、私は明確なプレーのプロトコルを提示し、戦術的なプロセスを示しながら選手たちに組織的な役割を与え、責任を付与した。また、プレーにおいてはコミュニケーションを取りながらボールを正確に動かすことで、戦術的な相乗作用を作り出すことが可能になった」
すべての過程はオートマティックに行なわれるまでに精緻化され、選手が躊躇なくプレーできるまで練習で反復された。