11/10/20 16:47:53.86 E4iYsAgB
>>343
最後にするつもりだったが、多少正直な所を書きたい。
当初より色々な考えあり、内心は複合的で多視点なスタンスを取っていた。
応援しながらも、どの出目が出てもいいように一方では備えていた。
理解者件審神者というか防波堤というかね。
仮にハーメルンの笛吹き宜しくでなくとも、「堕ちる」という事もあるのがこの世界だからね。
その中で一定の見極めをしてから、ベテルギウスで自己への振り返りを促して、先に去るという形を取った。
そこに何かを見て欲しい。
俯瞰性含んだ目線はわかるし、人に諭す所もわかるが、もうちょっと対話の仕方はある。
相手への見据えの不足があるよ。俺が何者とか何様かではなく、対話のフォーカスの不足がある。
そこは小学校での窓のエピソードでの「出方」にも出ている。己を加味しなければ真の状況は見えない。
子供の時分だからと差し引いても、適応性としても対話力としても出易い部分だから敢えて指摘したい。
(どこぞの話での「同じ所を持っている」というのはわかるけどね。)
これは誰にでもいえるが、内省をしないと魂の磨きが限られる。本当の理解が限られる。
そして、能力に寄りかかると思わぬ錯誤をし易い。
観ている物すら疑う必要があるのが、本当の辿るべき道だ。
どこまで行っても実存のある幻と進歩の段階は存在するし、仏とて神とて人を試し、騙し、突き落とす。
禅では「仏に会えば仏を殺せ、祖(釈迦)に会えば祖を殺せ」とまで言う。
横路に反れない為に、自覚的に真っ直ぐ辿り、自覚して自覚して、それでも落とし穴は必ず訪れる。
それゆえ仏教では「増上慢」を諌める。俺はあなたが驕っているとは思わないが、
やはり視点病は含んでいるし、上で指摘の部分もあるし、本質は光でも、未熟さ愚かさと背中合わせなのが人間の業だよ。
ちとモーニングスターでぶっ叩く様になったが、縁あった物としてお礼代わりに含ませて頂いた。
さて、今後だが、俺は特にどこも常駐してないんだ。
まだ縁があるなら何かしてもいいよw
基本的にこの手の濃さで書けるのは行為者や求道者になるから、場は限られると思うよ。
偏狭なマニアとも、学者肌の教条主義者とも合わない。柔軟性も必要だ。ある種の適当さも必要。
さし当ってはもう少しここでクネクネしようか?w