古代の地中海世界at WHIS
古代の地中海世界 - 暇つぶし2ch2:世界@名無史さん
11/08/30 15:57:36.08 0.net
栄光のローマ

3:世界@名無史さん
11/08/30 23:34:33.87 O.net
古代瀬戸内海文明についても語ろう

4:世界@名無史さん
11/08/31 09:39:18.71 O.net
フェニキアーン

5:世界@名無史さん
11/08/31 12:19:46.29 0.net
海の民

6:世界@名無史さん
11/08/31 18:11:45.84 0.net
地名はフェニキア由来が多いな次がローマギリシア由来か

7:世界@名無史さん
11/09/03 05:08:39.41 0.net
レバノン杉を伐採しまくって衰退してもーた...orz

8:世界@名無史さん
11/09/03 06:51:53.36 0.net
森あったの?

9:世界@名無史さん
11/09/03 06:59:10.23 0.net
輸出してたんだから森だったんだろう。

10:世界@名無史さん
11/09/03 12:43:47.03 O.net
ギリシャもペリシテ人かとた

11:世界@名無史さん
11/09/03 12:55:33.11 O.net
ギリシャもパレスチナ、レバント地方も今はハゲ山ばかりだが、かつては森林だった。
ただ雨量が少なく木を切ると再生不可能な気候なので今のようになった。
ヨーロッパの森も何度か伐採されつくしたが、再生可能な気候だったので全部植林。
レバノン杉は旧約聖書にも出てくる貴重品。

12:世界@名無史さん
11/09/03 16:22:45.91 0.net
多分気候変動もあるけどね。
サハラの変化からみるに

13:世界@名無史さん
11/09/03 19:23:48.99 0.net
>>8
地中海東岸のレバノン山脈から小アジアにかけて広く分布していた。
フェニキア人がかなり浪費、続くローマ人も大量輸入した。でも伐採制限を記した石碑があるそうな。
その後も減少を続けて、オスマン時代にほぼ壊滅した。

14:世界@名無史さん
11/09/04 14:58:24.66 0.net
レバノン杉の伐採は、メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』にも出てくるほどだしね。

15:世界@名無史さん
11/09/05 22:20:15.91 0.net
>>12
あとヤギ

16:世界@名無史さん
11/09/05 22:27:00.16 0.net
>>15
そのヤギは慰安ヤギになりますか?

17:世界@名無史さん
11/09/15 05:26:55.38 0.net
明日から放送大学で「地中海世界の歴史」集中講義放送はじまるよ

18:世界@名無史さん
11/10/16 20:48:40.48 0.net
結局海の民って何なの

19:世界@名無史さん
11/10/16 21:58:33.13 0.net
>>18
次の1)~5)の連合勢力。のちに6)7)も加わる。
1)ギリシアのアカイア人(いわゆるホメロス叙事詩の主人公たちと同じ)
2)小アジア南西部のリュキア人(ヒッタイト人と近縁のインド・ヨーロッパ語族)
3)サルディーニャのヌラーゲ人(インド・ヨーロッパ語族の古いの)
4)シチリア東部のシクニ人(民族系統不明でイタリア半島から渡ってきた)
5)イタリア半島のエトルリア人(ローマに吸収されたあれ。屈折語を話す民族)
6)パレスチナ南部のペリシテ人(ユダヤ人の敵のあれ。ミケーネ文明のクレタ人と近縁)
7)パレスチナ北部のチェケル人(トロイアから流れてきたという人もいる)

20:世界@名無史さん
11/10/27 04:13:54.25 0.net
人気ないな
資料が少ないからか

21:世界@名無史さん
11/11/19 22:45:49.82 0.net
「海の民」関連の画像
URLリンク(lakodaemon.co.uk)
URLリンク(sitemaker.umich.edu)

22:世界@名無史さん
11/11/19 23:29:00.19 0.net
海の民って、倭寇のことだと思います。
時空間ワープ航法を使って室町時代の倭寇が古代地中海沿岸を荒し回ったのです。
どこから来たか分からないのは未来の日本から来たからです。

23:世界@名無史さん
11/11/19 23:34:48.04 0.net
青銅器の海の民が鉄器のアッシリアを滅ぼしたのが謎だな

24:世界@名無史さん
11/11/19 23:49:33.70 0.net
鉄器も使ってたでしょう。
もちろん、アッシリアからの鹵獲品ですが。

25:世界@名無史さん
11/11/20 12:06:25.41 0.net
ヒッタイトが「海の民」によって滅亡させられた後、彼らが独占していた精錬師
ないし鍛冶師は分散を余儀なくされ、前11~前10世紀に、その一部は
ギリシア世界と接触して鋳鉄術を伝える。
やがてこの技術は、ギリシア北部の山岳地帯に住んでいた、インド・ヨーロッパ語系の
ドーリア人たちの支配するところとなるが、別の集団は、おそらく黒海北岸の
ステップ地帯に住んでいた馬匹飼育民のキンメリア人へと流れた。

26:世界@名無史さん
11/12/06 16:52:42.02 0.net
>>20
西洋古代史って考古学無けりゃやっていけなくね?
中東なんかほとんど資料無いじゃん
中国や日本は資料が豊富で文献だけでもいけるのに

27:世界@名無史さん
11/12/07 12:55:03.40 0.net
>>26
一行目は正しいが三行目はあり得ない

28:世界@名無史さん
11/12/10 18:10:50.50 0.net
アカイア人・ドーリア人はR1bが中心。

29:世界@名無史さん
11/12/16 15:48:42.61 0.net
>>27
中国や日本には古事記とか史記とかあるじゃん
でも中東にはまとまった歴史書が無いそもそも作ってない
ギリシアだってまあペルシア戦争とか細かい所は分かるけど
それよりもっと古い歴史のことは考古学が無いと分からない

30:世界@名無史さん
11/12/16 16:10:15.68 0.net
>>20
資料が無いんじゃなくて語れるネタが無いんだよ



31:世界@名無史さん
11/12/16 22:33:31.25 0.net
というかスレ名のせいで何かしら包括的なネタを取り上げないといけないような気がしてしまうわ
>>1は何を語りたかったのかね

少し前に出た『古代地中海世界のダイナミズム』って論文集読んだ人いる?

32:世界@名無史さん
11/12/18 15:44:57.71 0.net
古代西洋は語れる物語に乏しい
中国や日本にはいっぱいあるのに

33:世界@名無史さん
11/12/30 08:42:15.28 0.net
ギリシャ人侵入以前の先住民はエジプト人のようなハム系というのが定説化しつつある。
これはイベリア半島・イタリア半島も同様。

34:世界@名無史さん
11/12/30 12:12:08.67 0.net
ハム系かはわからんけどオリエントの影響が色濃いのは明らか
ただその影響が、それらの先住民に伝播普及したものなのか、
その先住民自身がすでに東方からの植民者(陸路・海路不明の)であったのか、わかんないよね

35:世界@名無史さん
11/12/30 15:37:10.94 0.net
>>34
遺伝子的にもEJが多いからね。

36:世界@名無史さん
12/01/09 12:45:36.05 0.net
アカイア人・ドーリア人はR1bだけど、
ギリシャ人における子孫はそれほど多くないと言うことかな。

37:世界@名無史さん
12/01/15 06:50:18.31 0.net
線文字Aを解読したいお><

38:世界@名無史さん
12/01/20 10:18:17.63 0.net
自然環境の歴史
スレリンク(whis板)l50

39:世界@名無史さん
12/01/20 22:42:01.14 0.net
てす

40:世界@名無史さん
12/01/25 20:40:04.46 I.net
映画トロイをミタ
アガネムノンというのがアカイア人の王なんだな
トロイは特にアポロンを信仰していたんだな
アテネは女神アテナ、スパルタはヘラクレスとか
ギリシア神話という世界は共有していたんだな

41:世界@名無史さん
12/01/25 20:58:05.03 0.net
どうだか
ギリシア人は異民族の神について語るときも、ギリシアの神々に当てはめて記述しているし

42:世界@名無史さん
12/01/25 23:36:58.41 0.net
>>40
共有というか、それぞれのポリスが別々に崇めていた神を持ち寄って体系化したのが
いわゆるギリシャ神話の体系と考えてくれ。

43:世界@名無史さん
12/01/26 00:44:43.78 0.net
>>26
>>29
中国や日本は古事記とか史記くらしか無いだろ。中東やグレコローマンの
歴史書に何があるのかわかって言っているのだろうか?

>中東にはまとまった歴史書が無いそもそも作ってない

ベロッソスやマネトは?十分まとまってると思うんだけど。

古事記や史記の古い部分なんて、日本や中国全体の歴史ではない。時代を遡る
程一部の場所の歴史となる。そういう意味では、リヴィウスのローマ建国以来の歴史や
古代ユダヤの史書と同じ。




44:世界@名無史さん
12/01/27 13:26:04.43 0.net
オリエントは中国よりずっと先進国だというのに
まともな歴史書が出来たのは書経よりも200年もあととは・・・

45:世界@名無史さん
12/01/27 18:31:56.92 0.net
>>44

現在旧約聖書としてまと�


46:゚られている古代ユダヤの書籍のうち、 申命記以降、エステル記までは元は別々の歴史書。特に歴代誌はダビデから バビロン捕囚までのユダヤ国家の5世紀間のまとまった歴史叙述。バビロン捕囚が586年だから、 書経より100年以上早い。



47:世界@名無史さん
12/01/28 16:51:07.82 0.net
べロッソスにしてもマネトにしても聖書にしてもまあ体裁は整ってるな
でも、中味が薄いような気がするのだよ
どうも西洋の歴史は彩りが無いというか、豊かさが無いというか、薄いというか
文学性、物語性に乏しいと思わないかね?

48:世界@名無史さん
12/01/28 17:30:54.50 0.net
豊かとか文学性、物語性とか、その度合いは主観的な話だよね。

自分は特に、西洋の歴史(具体的にどの史書を対象としているのかよくわからないが)
の文学性、物語性、彩りが乏しいとは思わない。

49:世界@名無史さん
12/01/29 01:06:56.86 0.net
日本の何と比べているんだ

50:世界@名無史さん
12/01/29 01:19:02.81 0.net
そこら辺は原典で読める語学力があるかどうかも関係ある気が。旧約の話だけど
故・井筒俊彦氏曰く「すでに中性化され、毒気を抜かれた訳文(ラテン語)では分からないのだが、
原典で読むとき、最初の頁から言うに言われぬ強烈な人間的臭気が、いきなり、まともに
吹き付けてきて、思わず慄然と立ちすくんでしまうことがある」とか。

51:世界@名無史さん
12/02/14 22:08:49.20 0.net
モーゼのエジプト出奔、トロイア戦争・ミケーネ・ヒッタイトの滅亡、アッシリアのバビロニア征服と
紀元前12~13世紀は古代文明の一代転換の時代だった。
エジプトのファラオは聖書に書かれているようにモーゼなんか構っているより
アッシリアの動向の方がよほど気になったように思う。


52:世界@名無史さん
12/03/21 11:05:48.48 0.net
イタリア語圏・イタリア人の歴史
スレリンク(whis板)l50

53:世界@名無史さん
13/02/15 22:03:42.17 0.net
>>50
だからエジプト側には出エジプトなんて瑣末な事件の記録は無いんよ。

54:世界@名無史さん
13/02/15 22:43:56.82 0.net
>>29
あの時代紙がなかったから、歴史書が旧約聖書くらいしか
残らなかったからじゃないの?
粘土板と楔形文字では書き残すコストがかかりすぎるよ
同じくパピルスと象形文字でも、パピルスは耐久性に疑問が残るし、
象形文字は覚えるのに手間がかかりすぎだから、消えてしまうのも無理は
無いと思うのだが

55:世界@名無史さん
13/02/16 08:18:47.12 0.net
>>53
現に粘土板が大量に残っている。資料が無いというのがそもそも間違い。
パピルスは耐久性が無いがヒエログリフによる記録は石碑やお墓の壁に大量に残っている。
ヒエログリフは5000年前からローマに征服されるまで使われたんだから長く続いた方だ。

56:世界@名無史さん
13/06/24 12:50:06.28 0.net
面白そうなスレに限って過疎

57:世界@名無史さん
13/08/18 NY:AN:NY.AN 0.net
トロイア人とは何者だろうか?

58:世界@名無史さん
13/08/18 NY:AN:NY.AN 0.net
楔形文字で書かれた歴史資料について言わせてほしい。
耐久性のある書字材料だったため、1世紀頃に至るまで大量に残っている。解読が追いつかない程だ。
それは、楔形文字の消滅した後のパルティア後期~サーサーン朝期の史料が少なさとは対照的だ。

シュメール期や古バビロニア期の諸王朝の事件を記録した『年名表』。
アッシリア・バビロニアの諸王朝に関する『年代記』や『王名表』の類。
もちろん、これらの国王の事績を記した碑文も重要な史料となるし、
各都市から出土する行政文書・商業文書などもある。

また、天文学者プトレマイオスの『アルマゲスト』の巻末付録である、
歴代バビロン王の統治年表も歴史を復元するのに役立っている。

そして、ヘレニズム期のセレウコス朝などの政治史を復元するために活用されているのが、
バビロンで作成された『天文日誌』だ。これは、その年の出来事と天文現象などが記録されている。
同時代のギリシア・ラテン語文献の記述との比較や、天文学的アプローチも可能で、その価値は計り知れない。

59:世界@名無史さん
13/08/18 NY:AN:NY.AN 0.net
訂正:プトレマイオスの『アルマゲスト』はギリシア語だけど、
それ以外は、全て楔形文字による歴史資料です。

60:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
>>57
ごくろうさん。
こういうところに人材を投入できるような国にして欲しいね。

61:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
人材も資金も必要だけど、そうなると例えば現在は無料で見れる大英博物館が有料化されるとか、
消費税が1%upとかそういう事態になるかもしれない。

62:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
日本の政治家はスーパーコンピュータの開発費に「世界一じゃないとダメなんですか?」と言ってしまった位
学術を軽視してるから。

63:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
費用に見合った成果を期待されるようになった

崇高な理念だけでは通らない財政状況

64:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
そう。はっきり言って楔形文字を解読して粘土板を整理する事は学問上の価値は多大だが
どれだけ成果を上げても興味の無い人には全く無価値だからな。

65:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
文系は金持ちが趣味でやるしかないな

66:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
>>64
だから、やるなら今やらないと。
20~30年後の日本では、そんな余裕はなくなるよ。

67:世界@名無史さん
13/08/19 NY:AN:NY.AN 0.net
文献、文献と言っているけど、旧約聖書があるから
何かにつけて旧約聖書に結び付けているような感じなんだよな
>>64
そもそも、この手のものに現世的な見返りを期待してはいけないだろうww

68:世界@名無史さん
13/09/11 20:36:02.64 0.net
今のアラブ人ぐらいの濃色コーカソイドの世界だろう。

69:世界@名無史さん
13/09/11 21:11:01.85 0.net
ミノア文明に興味があったのだが、人身御供が有ったらしい事を知ったてから気持ちが萎えてしまった‥古代では珍しい明るくて優しい文明だと思っていたのに…

70:世界@名無史さん
13/09/11 21:36:51.09 0.net
URLリンク(feb.2chan.net)

71:世界@名無史さん
13/09/11 21:49:26.49 0.net
人身御供ってミノタウロスの話?

72:世界@名無史さん
13/09/12 21:16:56.29 0.net
線文字Bの古文書に「〇〇女神に少年〇人、少女〇人」という様な記録が残っており、さらに地震で倒壊して放置された神殿跡からは後ろ手に縛られて台に乗せられた少年、短剣を持った成人男子、ボウルを持った成人女子等の骨格が発掘されているそうです
どー考えても人身御供では?

73:世界@名無史さん
13/09/12 21:20:21.86 0.net
>>71
ちなみにソースは以前にヒストリーチャンネルで見たイギリスBBCのドキュメンタリー番組です

74:世界@名無史さん
13/09/12 22:06:30.98 0.net
>>71-72
そうなんだthx
でも線文字Bはミケーネ時代じゃなかった?

75:世界@名無史さん
13/09/12 22:06:50.10 0.net
人身御供でググってもテーセウスの話しかヒットしないけど。

76:世界@名無史さん
13/09/12 23:12:30.17 0.net
>>73
線文字Bは確かクレタの勢いが衰えてギリシャ本土の勢力に一度征服されてから使われる様になったと記憶してます
線文字Aで書かれている言語は今も不明ですが線文字Bで書かれている言語はギリシャ語ですから
ミケーネが元々使っていたのかクレタからの輸入かは私には判かりません

77:世界@名無史さん
13/09/12 23:16:13.60 0.net
>>74
ミノア文明に関する資料は本でもネットでも少ないですね‥(´Д`)

78:世界@名無史さん
13/09/13 09:05:16.51 0.net
古代の明るくて優しい文明というのは、具体的にはどういう文明があるのだろうか?

79:世界@名無史さん
13/09/13 10:12:26.31 0.net
>>75
解説ありがとうございます
線文字B=ミケーネの文字ならミノア文明とは関係ないのでは?と思いまして
でもミノアに元々あった風習がギリシャ人征服者に受け継がれた可能性もありますかね

80:世界@名無史さん
13/09/13 14:44:39.83 0.net
>>77
68ですが
正直なところ明るくて優しい古代文明なんて他には知りません
強いていうならエジプトかな?
基本的に古代文明は厳しくてキツくて人権なんか欠片もなくて下の人間はどんどん死んでいくイメージしかないです
‥ムーとかアトランティスならばあるいはw

81:世界@名無史さん
13/09/13 14:56:55.04 0.net
>>78
恐らく衰退したミノアを征服したのはミケーネでしょう
どっかで読んだ受け売りですが自分でもそう思います
衰退の原因はサントリーニ島の大噴火による大津波でしょう
他人事ではありませんね(>_<)

82:世界@名無史さん
13/09/13 20:38:02.48 0.net
>>79
やはりそうなんですね。。。。ありがとうございました。

83:世界@名無史さん
13/09/23 15:33:10.89 0.net
>>81 文明で明るとか優しいとか何の話だ・・・?人身御供=厳しい とか新大陸に来たスペイン人かよwww

84:世界@名無史さん
13/09/24 00:57:03.18 0.net
圧倒的なエジプト産小麦の流通を押さえたとこが勝者なイメージ

85:世界@名無史さん
13/10/20 21:28:47.22 0.net
エジプトはアッシリア以降はペルシャやギリシャと外部に支配されっぱなし
ギリシャ系プトレマイオス朝が土着化したがこれもローマに滅ぼされた

86:世界@名無史さん
13/10/26 05:39:26.45 0.net
ところで「海の民」の実態は?

87:世界@名無史さん
13/10/26 07:11:33.50 0.net
ただの海賊や船を利用して移動や侵入を頻繁におこなった部族をまとめてそう呼んだだけ

多くの文明や国家を滅ぼした正体と言う意味では気候変動が正解

88:世界@名無史さん
13/10/26 07:58:12.30 0.net
>>18-21

89:世界@名無史さん
13/10/27 00:13:41.89 0.net
ヒッタイト独占だった鉄の拡散で鉄器をものにしたドーリアがミケーネを圧倒。

90:世界@名無史さん
13/11/16 19:20:09.91 0.net
巨人を人類は滅ぼしたのか? 世界戦争とこの歴史は関わりがある、なし?

91:世界@名無史さん
13/11/29 22:14:41.68 0.net
フェニキア人が覇権を握っていた
以上

92:世界@名無史さん
13/12/01 18:03:07.28 0.net
クレタ人は海産物食べ放題みたいな印象
それだけですごく幸福そうな感じ

93:世界@名無史さん
13/12/08 15:18:25.78 0.net
海の民とヒクソスが撹乱要因だね。

94:世界@名無史さん
14/03/11 23:10:48.75 0.net
エジプト人自身が、もう少し海に対して積極的になれればなあ・・・

95:世界@名無史さん
14/03/12 16:24:14.06 0.net
アレクサンドロス大王についてでも語るか…

インダス河畔で兵士たちがさすがにこれ以上の遠征に嫌気がさし
ご自分だけで行かれたらどうですかと言われたりとかw

96:世界@名無史さん
14/03/12 18:19:35.59 0.net
じゃあアレクサンドロスがヒュパシス川に築いたとされる
12の祭壇ってどこになるの?

あとサンガラはラホールが該当する? 

97:世界@名無史さん
14/03/12 20:38:55.93 0.net
ロクサネはタジク人でOK?

98:世界@名無史さん
14/03/12 22:06:20.28 0.net
ソグド人とタジク人はイコールになるのか?

99:世界@名無史さん
14/03/12 23:51:44.61 0.net
ロクサーヌはソグドじゃなくバクトリアでしょ

100:世界@名無史さん
14/03/13 22:30:22.98 0.net
ということはタジク人だよ。

101:世界@名無史さん
14/03/29 02:02:15.37 0.net
海の民について詳しい本紹介してくれ それかヒッタイトについて詳しい本

エーベルハルト・ツァンガーの「甦るトロイア戦争」って本では
アヒヤワはアカイアではないと言ってたが、いやいやそれはないだろと 
でも海の民について纏まった本ってこれくらいしか見たことないんだよな
メルエンプタハ碑文やメディネト・ハブ碑文の邦訳がある分ネットの方が断然詳しいけど


トレバー・R・ブライスのヒッタイト本も邦訳されてないし 
日本の書籍だとマッドワッタ文書やタワガラワ書簡の一次資料の邦訳も見かけたことがない
金払って買った本よりネットの方が詳しいのは悔しくもある
 
シケリアのディオドロスによるとアフリカでアトランティスを征服した女王ミュリネ率いるアマゾン軍が
小アジアに戦争しかけてトラキアのモプソスとスキタイのシピュロス王に撃退されたという記述があるが
これは全く何の根拠もないデタラメなのだろうか?
スキタイのシピュロスというのはシュッピルリウマと音が似てるからシュッピルリウマ1世と連想してみたくもなる
それにイリアスにはミュリネの塚なる地名が登場するのも安易に関連付けてっ妄想してみたくもなる

102:世界@名無史さん
14/03/29 18:36:47.85 0.net
>海の民について詳しい本紹介してくれ
俺も読みたい

103:世界@名無史さん
14/04/04 05:30:24.32 0.net
>>42
ポセイドンは何処のポリスから来たの?

104:世界@名無史さん
14/04/06 19:52:34.71 0.net
海の民って地中海版邪馬台国みたいなもんか?

105:世界@名無史さん
14/04/06 23:13:05.28 0.net
>>103
その辺りの話しなら神武東征の方が近いと思われ

106:世界@名無史さん
14/04/06 23:30:06.47 0.net
日本人は何所から来たのか、レベルじゃねぃ

107:世界@名無史さん
14/04/07 00:08:26.42 0.net
>>105
既に人が居るところに割り込んできて
何処に住み着いたのかはわかってるけど

どんな人たちが何処から来たのかがわからない

108:世界@名無史さん
14/04/07 20:27:24.46 0.net
黒いアテネは言い過ぎにしても、褐色のアテネは確かだろう。

109:世界@名無史さん
14/04/07 21:03:26.70 0.net
リビアやアルジェの辺り?

110:世界@名無史さん
14/04/08 00:16:37.29 0.net
ペリシテ人
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ペリシテ人、あるいはフィリスティア人とは、
古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群。アシュドド、アシュケロン、エクロン、ガザ、ガトの5つの自治都市に定着して五市連合を形成していた。
古代イスラエルの主要な敵として知られ、聖書の『士師記』や『サムエル記』で頻繁に登場する。
特に、士師サムソンの物語や、戦士ゴリアテと戦ったダビデの物語などが有名である。

また、パレスチナ(Palestina)は「ペリシテ人の土地」という意味だが、パレスチナ人とペリシテ人は、直接の関係はない。

起源[編集]
ペリシテ人の起源を物語る資料は、文献史学的にはエジプト新王国期の記録や旧約聖書に見られ、また考古学によっても興味深い情報が得られている。
これらの情報から、ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、
エーゲ海域とギリシアのミケーネ文明を担った人々に起源を持つとする説が有力である。

文献史学[編集]
聖書の記述によれば、ペリシテ人はアブラハムの時代にはすでにカナンの地に定住していたとされるが、
この時代のペリシテ人へ言及した文献は聖書を除いて他に存在しないため、その起源については諸説存在する。

聖書の記述では、彼らのルーツはハムの子ミツライム(エジプト)の子であるカフトルの子孫であるとされ、
「カフトル島から来たカフトル人」と呼ばれている(『創世記』10:13-14、『申命記』2:23)。さらにこれを裏付ける記述は、『エレミヤ書』47章4節にも存在する。
したがって、ハムの子カナンを始祖とするカナン人とは異なる氏族であったとされる。

カフトルが実際にどの地域を指しているのかについても諸説あるが、紀元前12世紀頃までに、すでに鉄の精製技術を有していたことなどから、
クレタ島、キプロス島、あるいはアナトリア地方の小島の1つであった、などの候補が挙げられている。今日ではクレタ島であるとの見解が示されることが多い。

また、ペリシテ人の築いた都市国家の王はセレンと呼ばれ、これはギリシア都市国家のテュランノス(僭主)と同一起源の語彙と考えられている。

111:世界@名無史さん
14/04/08 00:17:24.20 0.net
イスラエルに棲息している野生のイノシシの起源はヨーロッパ、古代人がヨーロッパから持ち込んだ可能性
URLリンク(jp.sciencenewsline.com)


イスラエルに棲息している野生のイノシシは世界中に棲息している他のイノシシと似ている。
そのため、これまでイスラエルに棲息している野生のイノシシはエジプトやイランから、
中東へと広がった他のイノシシの親戚だと考えられてきたがそうした考えは間違いであることが判った。

Tel Aviv Universityの考古学研究チームと古代中東文化研究チームが共同研究の結果から、
イスラエルに棲息している野生のイノシシはイスラエルの周囲の国々に棲息しているイノシシとは異なり、
ヨーロッパに起源をもつことを発見した。

遺伝子解析と考古学的分析の手法を用いることにより、
研究チームは、イスラエルに棲息している野生のイノシシは3000年前に
ペリシテ人や他の侵略者によってイスラエルに持ち込まれた家畜のブタが野生化したものだという可能性を見つけた。

そして研究チームはこの研究成果を今週号の「Scientific Reports」を通じて発表した。

「我々が行った遺伝子解析の結果から、
イスラエルに棲息している野生のイノシシは紀元前900年頃の鉄器時代のヨーロッパで飼育されていたブタの子孫であることが証明されたのです」
とTel Aviv UniversityのProf. Finkelsteinは述べる。
「また、ペリシテ人の遺跡から大量のブタの骨が見つかっていることを考慮すると、ヨーロッパのブタは、
ペリシテ人の船舶によってイスラエルに運ばれてきたものだということが言えるかもしれません。」

イスラエル南部の海岸沿いにあるペリシテ人の遺跡で見つかってきたブタの骨は、紀元前1150~950年頃の鉄器時代の遡ることができるが、
こうしたブタの骨は、イスラエルの同年代の他遺跡ではまったく見つからないか、見つかったとしても非常に稀な存在となる。

112:世界@名無史さん
14/04/08 00:20:53.85 0.net
旧約聖書のペリシテ人の姿を解き明かす 古代都市ガトの発掘調査
URLリンク(www.archeonews.net)

約3000年前に、ペリシテ人は地中海岸周辺に居住しており、ガトは新たに開拓された都市だった。
この都市で最も有名な住民は、サムエル記にある羊飼いの若者ダビデの投石によって倒された巨人ゴリアテである。
(略)

遺跡からは古代ギリシア様式の文様がある土器片が発見されており、ペリシテ人の起源がエーゲ海方面にあることを示唆している。
ペリシテ人は現在のギリシア地域から紀元前1200年ごろに海を渡って到来した。
そしてアシュケロンやアシュドドなどの主要な港、イスラエルの都市群、現在のパレスチナの領域であるガザ地区などを支配するようになった。

ガトの遺跡の発掘によって、ペリシテ人達は在地の文化を一部受け入れつつも、自分たちのルーツを忘れていなかったことがわかっている。
例えば、この地域に到来してから5世紀たった後でも、彼らはギリシア語の名前を持つ神々を崇めていた。

調査によって、ペリシテ人はエーゲ海地域と同様、レンズ豆を多く摂取していたことがわかっている。
遺跡で廃棄されていた動物骨の調査から、彼らは豚と犬を食べていたようである。
これらはイスラエル人とは異なっており、イスラエル人はこれらの動物を不浄なものとみなしていた。この戒律は現在のユダヤ教にも残っている。

また、ガトの町が紀元前9世紀に破壊を受けたことも発見された。
市の周囲には包囲群によって作られた溝や盛り土が出土しており、現在でも都市があった丘陵部の周りに黒いラインとなって見えている。

この時期に起きたガトの壊滅はアラム人の王ハザエルによって紀元前830年に行われたもののようである。
この出来事は旧約聖書の列王記に言及されている。

このように、ガトは紀元前10世紀から前9世紀にかけてのペリシテ人の生活の様子を明らかにする、極めて豊富な物的証拠を提供してくれている。
その中にはイェルサレムのダビデ王やソロモン王によって統治されていた時代も含まれる。
他のペリシテ人の町の遺跡は、その前後の時代の情報は提供しているが、この重要な時代の資料がない。
ガトは、そのギャップを埋めてくれているのだ。

113:世界@名無史さん
14/04/08 00:24:01.11 0.net
>>111

紀元前604年には新バビロニアのネブカドネザル王によって侵略を受け、ペリシテ人の町はその支配下に入った。
その後の時代の痕跡は残されていない。

1099年にヨーロッパから来訪した十字軍はガトがあった場所に要塞を築き、その後この地はアラブの村テル・アル=サフィとなり、1948年のイスラエル建国の元になった戦争で廃墟と化した。
現在では、ガトは国立公園となっている。

1955年には数マイル南にキリヤット・ガトと呼ばれる町が建設された。
この町の名前はガトにちなんでつけられているが、この場所にあった遺跡がペリシテ人の遺跡だと誤解されていたことによる。

ペリシテ人の記録は、偏った見方ではあるものの、ヘブライ語聖書に残されている。

英雄サムソンはペリシテ人の女性と結婚しており、ヘブライ人と小競り合いを続けていたが、裏切られ、捕えられて、目を潰され、ガザの神殿に幽閉された。
しかし彼は力を取り戻し、つながれていた神殿の二本の柱を倒して、中にいたペリシテ人全員を道連れにして死んだ。

ガトからは2本の柱を持つ、巨大な構造物の跡が発見されており、おそらくは神殿だという。
Maeir氏はサムソンの話が書かれた時代に知られていたペリシテ人の神殿建築の様式だと述べている。

ガトではさらに、ゴリアテと良く似た名前が書かれた土器片が発見されている。
この名前はインド・ヨーロッパ語族の名前であり、在地のカナン人やイスラエル人が用いていたセム語とは異なるものである。
これらの発見から、ペリシテ人がこうした名前を用いていたということがわかる。

遺跡の調査から、ゴリアテの物語が強力なペリシテ人の都市ガトとイェルサレムの諸王との闘争といった史実を忠実に反映したものであることがわかってくる。

Maeirはこう語っている。
「ダビデが投げた石によって額に穴があいた頭蓋骨が、いつか見つかるだろうと言うつもりはない。ただ、聖書の物語が当時あった文化的な環境を反映したものである、ということを、ガトは教えてくれるのだ」

114:世界@名無史さん
14/04/08 00:37:05.55 0.net
>>109

Caphtor(カフトル)
URLリンク(en.wikipedia.org)

URLリンク(upload.wikimedia.org)

115:世界@名無史さん
14/04/08 00:38:02.79 0.net
そこら辺りの話は杉本智俊の「図説 聖書考古学 旧約篇」や
小川英雄の本に載ってなかった?

116:世界@名無史さん
14/04/08 00:38:51.51 0.net
>>108
ポセイドンの話の方ですか?

117:世界@名無史さん
14/04/08 01:03:18.96 0.net
褐色のアテネに対してです

118:世界@名無史さん
14/04/08 01:08:00.30 0.net
>>19
これ元ネタは何処から持ってきたんだろうな
ヌラーゲの話しは知らなかった

119:世界@名無史さん
14/04/08 01:19:17.59 0.net
>>117
まんまあった
URLリンク(ja.wikipedia.org)

>>116
黒いアテネも出身が問題なんですか?

120:世界@名無史さん
14/04/08 01:38:59.81 0.net
トロイア戦争の後のオデッセウスの蛮行とかで
「海の民」の話を作ってる人とかいたりしないのかな

121:世界@名無史さん
14/04/09 21:01:10.48 0.net
フェニキア人とユダヤ人はかなり近いっぽいけど
地理的な問題だけなんだろうか?

122:世界@名無史さん
14/04/09 23:51:38.32 0.net
だろうね シリア沿岸は川で区切られてるから
ところでゲルハルト・ヘルムのフェニキア人って本だと
海の民とフェニキア人が集合して商業航海に乗り出したとある
ミュケナイだと竜骨のある船が使われていたが、
シリアやエジプトでは青銅器時代は平底の船しかなかったというのだ
ギリシャよりフェニキアの方が海の進出が後進であったという説

ペラスゴイ=ペリシテ  エトルリア=トゥルシア=トロイア などと俺が読んだ本には乗ってなかった説をはいている

ヘラクレスのルーツはテュロスのメルカルト神で、
ヘラクレスは狂気から子供を火に投じるなど、モロクの儀式などに代表されるフェニキアの生贄の習慣が垣間見えるのだという

123:世界@名無史さん
14/04/10 00:15:21.78 0.net
メルカルトはヘラクレスと同一視されたのは知ってるけど
(アレクサンドロスがティルスの神殿に参拝しようとしたし)
ルーツなのかな?
ちなみにアルサケス時代には初期のフリ人に崇められ
バビロニアの重要な神ともなったネルガルもヘラクレスと同一視された

124:世界@名無史さん
14/04/10 00:43:11.10 0.net
そもそもヘラクレスの生国テーバイはフェニキアのテュロスの王子カドモスが建てた
ギリシャに文字を伝えたのもカドモスだと神話は言う

125:世界@名無史さん
14/04/10 00:58:21.14 0.net
つまりアレキサンドロスは父方の祖がヘラクレスとされてるのに
テーベを叩き潰したことになるのか

126:世界@名無史さん
14/04/10 01:43:56.61 0.net
カルタゴで大掛かりな人身御供が行われるのは市が危急に陥った時か大勝利を感謝する必要のある時に限られた
例えば前310年にアガトクレスがカルタゴの城壁に陣を敷いて圧力を加えて来た時には
良家の子供達200人が生贄に捧げられ また別の時、シチリア人に勝った後300人の捕虜が火の中をくぐらなければいけなかった

だがこういう儀式のイメー


127:ジをもっと暗くしたのは生贄の親族が祭壇の前で悲しみの情を表すことを厳禁されていたことである 涙一つ零しても溜息を一つ漏らしても犠牲の価値を減ずる結果になった カルタゴの勤行は恐ろしい非人間的規律の道場であった  その厳しさは富裕で放縦に慣れた本国フェニキア人にはとてもついていけないものの様に思われた ギリシャ人がこういうことをやってのけた民族を陰気で危険な存在と見なした事に何の不思議もない この点ではローマ人の方が後年の敵をよく理解していた様に思われる



128:世界@名無史さん
14/04/10 22:12:55.49 0.net
>>123>>124

そんでもって、そのテュロスを再起不能にまでぶっ潰したのが
アレキサンダー大王なんだよなww


これはもう自分のルーツを呪って
消し去りたかったんじゃないのか?

129:世界@名無史さん
14/04/10 22:34:25.26 0.net
>>121
平底船は荷物がいっぱい積めて交易向きだったらしい

130:世界@名無史さん
14/04/10 23:43:22.59 0.net
>>121

俺が適当にチョイスしたレヴァントの主要都市を北から挙げると

1.ウガリト        → アナトリアの玄関
2.アルワド        → 天然の良港
(アッカル平野)     → カデシュ
3.ビュブロス      → レバノン杉
(ベイルート)
4.シドン         → ベカー渓谷(ダマスカス)
5.テュロス       → 海外植民地(カルタゴ他)
6.メギド-ドル     → イェズレル渓谷
7.エルサレム     → トランスヨルダン
8.アシュケロン-ガザ  → ペリシテ人

ってとこですかね?
矢印の先は後背地などを書いてみた

131:世界@名無史さん
14/04/11 00:11:32.54 0.net
>>126
たしかにアレキサンドロスはヘラクレスに関係するテーベやティルスを壊滅させたけど
それはやはり父方の祖のヘラクレス、母方の祖アキレウスを超えようとしたためか?

いずれにしても容赦ないな

132:世界@名無史さん
14/04/11 04:01:05.92 0.net
エーベルハルト・ツァンガーの本でもペリシテの都市エクロンとトロイアの平面図を比較して類似性指摘してたな(甦るトロイア戦争 P328・329)
エクロンの工人などの区画整備や戦車を使う戦術など当時のユダヤ人よりは進んでいて
海の民は野蛮人の集団ではなく先進的な連中だったと唱える

ツァンガーはドーリス人はバルカン半島からの侵入者ではなく、
トロイア戦争から帰還した連中が、留守の間権力握った連中に海に追い払われて
それらが復讐の為に数十年後に逆襲したものがドーリア人の征服だと言うが、同民族の内乱で
文字すら失われる文化的打撃が生じるとは考えにくいので承服しがたい

メディネト・ハブの壁画やタイルに描かれたペリシテ人は皆ガイル少佐みたいな髪型か被り物してる
着てるものは甲冑なのか服なのか判別しかねる

ついでに 地中海には潮の満ち引きがない

133:世界@名無史さん
14/04/11 21:38:49.49 0.net
>>121>>128

フェニキアの都市は主人、女主人という
神のカップルにより統治されていて
三大都市をそれぞれ挙げると

【テュロス】
男神:メルカルト
女神:アシュタルテ

【シドン】
男神:エシュムン  → 医術の神アイスクレピオス へ
女神:アシュタルテ

【ビュブロス】
男神:バアル(フェニキア語で「主人」あるいは「頭」)
女神:バアラト(バアラト・ゲバル→ビュブロスの女主人) → アフロディーテ へ


メルカルトは西方の植民都市である、キティオン、カルタゴ、カディスでも確か信仰されてて
そんでテュロスの殖民都市だったカルタゴは

【カルタゴ】
男神:メルカルト
女神:タニト(タニト-アシュタルテ)

ということらしい。

134:世界@名無史さん
14/04/12 00:36:12.83 0.net
ビブロス
バアル・シャミンとバアラト・ゲバル

シドン
エシュムンとアスタルテ

ティルス
メルカルトとアスタルテ

カルタゴはティルスの神々が後に
バアル・ハモンとタニト(アスタルテの尊称の1つが独立化)

あとメルカルトについて 「オリエントの世界の発展(世界の歴史4)」中央公論社から

ウガリットのバアル神話にみられる死からの甦りの物語は自然界の再生をテーマとするが
これはビブロスの若神アドニスの神話を生む一方、アルファベットとともにフリュギアに伝えられて
アッティス神話の形成に影響を及ぼした。この若神はティルスではメルカルトと呼ばれ、
その英雄的行為のゆえに、ギリシアのヘラクレスと同一視された (フェニキアの項)

メルカルトは人類を救済する英雄としての神話が伝えられている。フェニキア人の神々の歴史
において第5代目の神であり、生誕時には将来の英雄にふさわしく捨子伝説の主人公であった。
長ずるに及んでギリシアの英雄神ヘラクレスと同じく数々の功業を成し遂げるが、その中心
テーマは人類の救済であった。このようなメルカルト崇拝はアレクサンドロスの時代には、
フェニキアはもとより地中海域や地中海アジア全域に広まっていた
(アレクサンドロスのティルスの項)

135:世界@名無史さん
14/04/12 01:06:32.49 0.net
フェニキアは後進民族との物々交換が主で
ギリシャやリュディアが貨幣を自前で鋳造したより300年ほど遅れて貨幣を作ったそうな
もともと大した軍事力ももってなかったからギリシャ勢力が西地中海に進出してきた時フェニキアは傭兵に頼るようになる
プルタルコスによるとティモレオンと戦った時は渡河の途中でフェニキアの名士が集まる部隊が襲撃され10万のフェニキア軍が1万のギリシャ軍に敗北 
孫子みたいだね

136:世界@名無史さん
14/04/12 02:24:48.54 0.net
>>132
俺の出店はグレンEマーコウのフェニキア人なんだけど
そっちもバアル・ハンモン、別名「アマヌスの主」になってるな。
アマヌスとはウガリトの北の山岳地方である。とある


あと、ついでに
黒海と地中海の間の海流は
表層海流と深層海流の方向が逆転してるのだ

137:世界@名無史さん
14/04/12 13:40:54.69 0.net
民族神話板の過去ログから
URLリンク(www.logsoku.com)

138:世界@名無史さん
14/04/12 13:59:01.50 0.net
>>132

「死と復活」はヒラム王によって
”メルカルトの目覚め”として国家的な祝祭になったらしい。
確かカルタゴから使者が春には本国を訪れるのが通例となってたはず。


アドニスに関しては
ギリシアの作家ルキアノスが、ビュブロスで毎年行われていたアドニス神の祭りのことを書いている。
ギリシア神話によればその神は、イノシシにに殺されて1年間を生の世界と死の世界で半分ずつ生きることを余儀なくされた若い狩人である。
アドニスという名前はセム語のアドンすなわち「主人か」アドナイ「私の主人」に由来するので、ビュブロスのバアル神と同一の神だった可能性がある。


とりあえず全般にウガリトの影響はかなり大きいようだ。

139:世界@名無史さん
14/04/12 16:22:47.15 0.net
>>136
アレクサンドロスがティルスを攻略したとき、神殿にはカルタゴからの巡礼者も
いたみたいだし、いつごろメルカルト→バアル・ハモン�


140:ノ変わったんだろう?



141:世界@名無史さん
14/04/12 17:11:59.68 0.net
>>137
俺もちょっと気になった
たぶん、カルタゴの独立の頃を境に変ったんじゃないかと思ってるんだがどうだろうか?

カルタゴは本国メルカルト神殿への御布施という形で
植民地税を払っているんだけど、この辺りも関係あったりするのかな

142:世界@名無史さん
14/04/12 17:28:23.50 0.net
神殿への御布施って部分は、ヘロデ大王の頃のユダヤ人を想起させるな
本国の生産力は低いけど、各地のユダヤ人コミュニティからの御布施を基盤として国が成立してたんで

143:世界@名無史さん
14/04/12 18:19:46.62 0.net
エジプト
ミケーネ、ギリシャ
アナトリア
レヴァント
メソポタミア

この辺りが並べて比較できる年表とかないのかな?
あるとこのスレ的にはかなり便利なんだろうが

144:世界@名無史さん
14/04/12 18:48:07.84 0.net
フェニキア人とギリシャ先住民は遺伝子上も外見上も大差ないだろ。

145:世界@名無史さん
14/04/12 19:06:40.66 0.net
>>140
ミケーネ・ギリシャは外れてるけど、このへんが良さげかも
URLリンク(www.geocities.co.jp)
ページ上部の「地域別」をクリックすれば、全体の時系列から各エリア毎の時系列に並べ替えてもくれる
(※個別記載事項の妥当性についてはチェックしてないので、そこんとこよろしく)

146:世界@名無史さん
14/04/12 20:46:23.94 0.net
「アマルナ文書」によるとシリア・パレスチナ地方は
前14世紀半ば頃にはエジプトの漠然とした3つの地域に組み込まれていた

第1の区域
【カナン】
アッコからベイルートに至るフェニキア南部の海岸
すなわちシナイ半島のエジプトの外れからパレスティナ全体を含む地域に含まれた。


第2の区域
【アプ】
今日のイスラエル北部とレバノン内陸部にあたり、
ガリラヤからベカー渓谷沿いに北上する地域はここに入った。


第3の区域
【アムルル】
フェニキア北部のビュブロスからアルワドに至る海岸平野
その辺りの中心が海岸とオロンテス川に挟まれたアッカル平野であり
エジプト人が「ジャヒ」と呼んで、カナン自体の北の延長とみていたフェニキア南部の海岸地帯とは区別していたのは、
この北部海岸沿いであった。

147:世界@名無史さん
14/04/12 20:54:54.67 0.net
さて、トトメス3世はレヴァント遠征のおり
レバノン杉の材木がしかるべく蓄えられ、毎年エジプトへ出荷されるよう取り計らっており
ビュブロスでスギの船を現地建造しユーフラテス川まで陸路を運んでいったという逸話が残っている。


奇妙なことにビュブロスから南の海岸都市のことは、トトメス三世やその直後の後継者達にまつわる話の中には1度も現れない。
事実テュロス、シドン、ベイルートも、前14世紀半ばの「アマルナ文書」に初めて登場するのである。

148:世界@名無史さん
14/04/13 00:20:00.62 0.net
フェニキアの植民市にどうしてカルタゴとの中間くらいに位置する
リビアのキュレネやアポロニアの土地に手をつけなかったんだろ?

おかげでこの辺りはドーリス系植民市になってしまってんだけどさ

149:世界@名無史さん
14/04/13 09:43:59.37 0.net
>>143
アマルナ文書って邦訳で読めるとこあんの?

メルエンプタハ碑文 ペルイレルの戦い
URLリンク(changhykw.uijin.com)
メディネト・ハブ碑文 デルタの戦い
URLリンク(changhykw.uijin.com)

150:世界@名無史さん
14/04/13 10:57:21.16 0.net
地形図とかは
URLリンク(www.hgeo.h.kyoto-u.ac.jp)

レバノン:フェニキア・ローマ遺跡調査
URLリンク(www.hgeo.h.kyoto-u.ac.jp)


151:2011/lebanon_landsat.jpg



152:世界@名無史さん
14/04/13 13:09:12.69 0.net
カルタゴ軍は軍事技術の面でディオニュシオスより時代遅れだった様に思われる
ヒミルコは野戦に、馬に牽かせた戦車を動員したが、これは例えば今日の騎兵の様に当時既に時代遅れだったのだ
彼が第二回目のシチリア遠征に出発した時、カルタゴで400台の戦車が船に積まれた
従って、彼が密集して突進する所謂ホプリテース、即ちギリシャ重装歩兵に対して、戦術的に軍団を編成して当たる事が出来なかったのも不思議でない
彼の率いる混成の傭兵軍は、例えばフリードリヒ大王時代ののプロイセン軍に相対した中世の傭兵段の様な印象だったに違いない
カルタゴ軍がそれにも拘らず再三に渡ってディオニュシオスの部隊を破ったのは、
まさに自殺的な勇敢さ、もしくは職業的傭兵が、引っ張り出された市民兵よりも豊富に持っている戦争経験の結果としか考えられない
ただ海上でだけポエニ人は技術的にも戦術的にも依然として文句無く優勢であった

153:世界@名無史さん
14/04/13 20:53:16.38 0.net
>>133
貨幣の発行もちょろっと載ってるんだが
硬貨に採用されてるモチーフに馬が多いんだよね

著者も不思議がってた

154:世界@名無史さん
14/04/13 22:16:43.69 0.net
>>146

西村せんせのとこになかったら他しらない
URLリンク(www.geocities.jp)

155:世界@名無史さん
14/04/13 22:45:29.56 0.net
>>144

【テュロス】

テュロスに初めて人が住み着いたのは青銅器時代初期か前3千年期の初めであることが
1974年にパトリシア・ビカイが行った深いサウンディング調査で明らかにになっている。
これはこの都市が紀元前2750年頃に建設されたという伝説とも一致する。

その最初の居住地は5百年かそれ以上存続したかもしれないが、明らかに放置されている。
青銅器時代初期の地層の上にただの砂の厚い層(1m以上)が乗っており、
青銅器時代中期(前2000~1600年)がまるまる含まれるほどの長い無人の期間があったことがわかる。

ビカイの発掘で確認されたように、
テュロスは青銅器時代の後期の初頭、あるいは前16世紀に「再発見」され、ときおり人が訪れるようになるが、
長いあいだ住人があったりなかったりのところに過ぎなかった。

ようやく永久的な集落ができたのが、考古資料から判断して前15世紀の終わり。
そして前14世紀の半ばには、いろいろな面で都会的発展を遂げている。



ちなみにwikipediaでは以下のようになってる

紀元前2500年、ビブロスやベイルートと共に、フェニキア人の都市として成立。 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期。ティルスの植民都市としてカルタゴを建設。
紀元前9世紀から紀元前8世紀にアッシリアの強大化によって勢力を失い、他のフェニキア諸都市と同様にアッシリアに従属する。

156:世界@名無史さん
14/04/14 00:09:25.24 0.net
>>145
本土と目と鼻の先のキティオンでも

フェニキア人が初めて植民地をつくったのは
その都市の考古資料と碑文からみて前9世紀半ばごろ

しかしキプロス島は前11世紀ごろには重要な貨物集散地として機能していたそうだ
そんでもって前8世紀の終わりには自治を獲得している

157:世界@名無史さん
14/04/14 00:21:27.82 0.net
キプロスはサラミス、キティオン、パフォス等ギリシア系植民市が
後々フェニキアのに取って変わられたの?
つまり先に進出していたのはギリシア系?

158:世界@名無史さん
14/04/14 01:09:54.49 0.net
>>153
青銅器時代後期のキティオンはキュプロス島の重要な集落だったが、
フェニキア人が入植�


159:キる前は150年ぐらい放棄されている もう一つフェニキア人のコミュニティがあったのは、 原住民の町があった南部海岸のアマトゥスの港である。 とのこと。 という訳で普通にギリシア人の方が先なんじゃないのかな。



160:世界@名無史さん
14/04/14 01:42:29.26 0.net
ウナモン航海記だと海の民の一派チェケル人がキプロス(アラシヤ)に勢力を張っていた
チェケルはその名からテウクロス、(トロイアの祖の名前)でトロイア人と同じという説が wikiだったか

そもそも海の民の侵攻はヒッタイトがカルケミシュの銅山を奪われた仕返しに
アッシリアに対して経済封鎖する為にアムルとキプロス島を占領したことで
地中海との交易路を絶つ貿易摩擦が理由だと、俺は勝手に考えているよね。

カラ・テペ碑文にあるムプシュ王家はトロイア戦争を離脱してキリキアに殖民したモプソスの子孫だと考えたい
カラ・テペ碑文に登場するダヌヌ人とはダナオイ、即ちギリシャ人なのだそうだが
ムプシュ王家のアダナの住民とダヌヌは葛藤を持ちながらも共存しているようにも見える

エジプトのタイル板だとペリシテ人(ロトの勇者みたいな髪型したヤツ)は肌の赤い姿で表現されてるのでギリシャ人とは近しい種族には見えないね
ヒッタイト人、アモリ人、ミタンニ人、カナン人は肌は黄色っぽく、ヌビア人は真っ黒の肌で表現されている
URLリンク(realhistoryww.com)

161:世界@名無史さん
14/04/14 02:35:57.73 0.net
>>155
うーん、発端がなんにあったにせよ
結果はその後悔記にあるように
エジプトのレヴァントへの影響力の失墜だかんね

162:世界@名無史さん
14/04/14 02:42:05.70 0.net
>>155
確かにフィリスティア人だけ赤いなww

163:世界@名無史さん
14/04/14 19:25:42.45 0.net
やはり地中海世界の起源はギリシャだったか

164:世界@名無史さん
14/04/14 22:37:12.33 0.net
>>145

カルタゴより東の北アフリカ海岸へフェニキア人が商いに来ていたかどうかについては、考古資料が極めて乏しい。
その辺りに関しては、航海上の現実的な問題が大きかったかもしれない。
北アフリカの沿岸にはジブラルタル海峡からポート・サイドへ向かって西から東へ強い海流が流れており、
エジプトからカルタゴへ海岸沿いに航海するのは著しく困難であった。
そのうえシルティスと呼ばれるリビア中部の不毛な480kmの海岸線を行くあいだは、
叩きつけるような強風と、危険な浅瀬と、視界の悪さに悩まされる。
そういう苦労をするくらいなら、東の本土からカルタゴやその向こうを目指すフェニキア人の船乗りは、
きっと外洋をまっすぐ西へ進むコースを選んだだろう。


ちなみにポエニ人は利用してるので地理的な問題だったんじゃないだろうか。
フェニキア人の有名な植民地はハドルメトゥムとレプティス・マグナらしいが、
カルタゴから人が来るまであまり積極的に利用されなかったようだ。

165:世界@名無史さん
14/04/15 00:08:56.87 0.net
>>159
なるほど、航海の困難さが空白地域を生んだのか ありがと

レプティス・マグナ近隣のサブラタやオエア(トリポリ)
URLリンク(www.hgeo.h.kyoto-u.ac.jp)
ハドルメトゥム(スース)下に位置するレプティス・ミノル(レムタ)はそこまで重要じゃない?
URLリンク(www.hgeo.h.kyoto-u.ac.jp) では(ラムタ)の個所

166:世界@名無史さん
14/04/15 01:53:30.89 0.net
アフリカ周航やギニア湾、タルテッソス、ブリテン島の航路を知っていたフェニキア人だが
カルタゴが滅んだ後ローマはヘラクレスの柱より西のの航路に手をつけなかった
ゲルハルト・ヘルムはその航路の情報をカルタゴ


167:人は墓の下まで持っていったというが ローマ支配を逃れて地中海外で活躍したフェニキア人は居なかったのだろうか 他にもポエニ都市はあるのだから全滅したわけでもあるまいし



168:世界@名無史さん
14/04/15 02:44:14.52 0.net
>>133
フェニキアが海外に植民地を持つ動機となったのが
ギリシャが商売地で次々と植民地を建設して
ここ俺のもんって言い出したかららしい

それまで原住民と仲良くやっていたフェニキア商人は商売しづらくなるから
防衛的な対応として重要な都市を植民地としただけで
交易自体はそれ以前から存在しているので単純に遅いって訳ではない


そんでもって、貨幣を鋳造するようになったのは
ギリシャ商圏で商売しやすいように貨幣を発行したようで
最初はシチリア島の西部モティアやパノルムスといった都市で
重量基準はアッティカ-エウボイア式が採用されたようだ

169:世界@名無史さん
14/04/16 06:09:13.84 p0MBSQLg7
こっちに書いたのは、クローンに上書きされるのかな?

170:世界@名無史さん
14/04/15 22:01:12.58 0.net
>>160
ちゃんと調べた訳じゃないので憶測だが
著者は本土フェニキア人と西方ポエニ人を別けて記述してるんで
カルタゴの植民地だったりするんじゃないだろうか?

171:世界@名無史さん
14/04/15 22:03:32.49 0.net
>>155
その説だとヒッタイトは
傭兵の賃金かなんかの労働争議の末に倒れたってことになるのかな?

172:世界@名無史さん
14/04/15 22:15:40.74 0.net
>>161
ガラマンテスは砂漠の海を越えたフェニキア人だったか調べてみてくれないか?

173:世界@名無史さん
14/04/16 22:26:47.29 0.net
>>50
トロイア戦争
ミュケナイ
ミノア文明
エトルリア
海の民
ヒッタイト侵入
フェニキア
バアルとダゴン
ギルガメシュ叙事詩
ゴールデンフリース


アフガンはちょっと離れすぎか
うーん、どれやるか

174:世界@名無史さん
14/04/16 22:51:48.63 0.net
>>109
あら、ドルは別モノか
そうするとチェケル人はペリシテ人と明確に区別されるんだな

175:世界@名無史さん
14/04/17 01:21:10.83 0.net
バアル(聖書ヘブライ語(英語版): ba‘alu、ウガリット語: b‘l)は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」を意味する[1]。
URLリンク(upload.wikimedia.org)


アナト (‘nt [‘anatu]) は、ウガリット神話の愛と戦いの女神。嵐と慈雨の神バアルの妹とも妻とも言われる。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
キプロスでは同じ戦いの女神であり、名前のよく似たアテナ (古典ギリシア語: ?ν?θ、?θην?) と同一視され、カルタゴのタニトの起源と考えられている。



右手を上げる例のポーズは宇宙人と関係あるんだろうか

176:世界@名無史さん
14/04/17 18:24:12.29 0.net
以前他で書いたものだけど、タニトの起源はアスタルテと↓にはあった
杉本智俊の図説 聖書考古学 旧約篇
URLリンク(www.kawade.co.jp)
のフェニキアについての項目で、サレプタ(シドンとティルスの間)での発掘で
アスタルテの称号の1つであったことが明らかになったみたいな記述があったと思う

ちなみにフェニキア人の崇拝したアスタルテ女神は、ギリシア人のあいだでは
アフロディテ女神と呼ばれキプロス南岸(パフォス近隣か?)の海の泡から誕生したと信じられた
URLリンク(www.kawade.co.jp) のフェニキアの項目で

177:世界@名無史さん
14/04/17 20:49:22.21 0.net
>>170
別に否定するつもりはないので気を悪くしないで聞いて欲しいんだが
アフロディーテの起源も複数あって、まだ�


178:ヌれが絶対ってのはないはず。 タニトに関しては、おそらくアスタルテっていうのは間違いないんだろうけど 習合や起源に関しては、それとはまた別問題なのだ。 ところで発掘でわかったのってなんだろうな。 タニトの印と碑文(アルファベット)が同時に見つかったとかかな?



179:世界@名無史さん
14/04/17 21:00:57.06 0.net
>>151

カルタゴはテュロスに起源を持つことははっきりしている。
そしたら、テュロス人は何処から来たんだろうか?

人が継続して活動を続けていたフェニキアの都市はビュブロスなんだけど
カルタゴ人はビュブロスではなく、ウガリトにより近い神様を信仰することにしたようだ。
もしかして、これはテュロスの起源がウガリトにあることを示していたりしないのかな?

180:世界@名無史さん
14/04/17 21:11:50.69 0.net
>>155>>168

とりあえずwikipediaだと、
チェケル人は世紀末にバギーに乗ってそうな容姿で説明されてるなぁ。

181:世界@名無史さん
14/04/17 21:14:40.98 0.net
>>171
確かに習合や出自は分りにくいよね
でもアテナやアフロディテ、アナトやアスタルテの大本は
戦闘女神であり美の女神であり大地母神でもあるイシュタルになるんじゃないの?

あと地球の歩き方のリビアでレプティス・マグナを見てて思ったんだけど
メドゥーサは、リビアからギリシアにもたらされたのかな?と
怖い顔のもあるけど美人さんなのもあったりしてさ
それともクレタのクノッソスの蛇女神が原型?

182:世界@名無史さん
14/04/17 22:07:35.08 0.net
>>174
確かにイナンナ/イシュタルとも両手を挙げた例のポーズだ
URLリンク(upload.wikimedia.org)

金星人と交信中なのかもしれない

183:世界@名無史さん
14/04/17 22:48:00.54 0.net
>>131
あ、これ貼るの忘れてた


ArcheoNews:アルケオニュース 世界の歴史・考古学
URLリンク(www.archeonews.net)
2012/03/29

古代ギリシアの医学の神アスクレピオスの聖域を発見
ギリシア中央部の高速道路建設に伴う発掘調査で、古代ギリシアの医学の神、アスクレピオスの聖域が発見された。
遺跡はアテネから北へ200km、古代の港街ダフノウンタ(Dafnounta、現在のラミア市付近)の近郊に位置している。

アスクレピオスの像(ナポリ国立考古学博物館所蔵)
紀元前5世紀に年代づけられるもので、アスクレピオスの祭祀に関わる遺跡では最古級のものであり、これまでギリシアで発見されたものの中では最も保存状態が良いそうだ。平面の規模は30m×15mある。

遺跡は2005年から2007年に行われたパトラス-アテネ-テッサロニキを結ぶ高速道路建設の際に、存在が確認されていた。
ギリシアの歴史家ストラボンは紀元後1世紀にこの地を訪れ、記録を残している。
アスクレピオスの聖域とされた根拠は、ヘビ形の供物と宝石、アスクレピオスの名前が書かれた土器片が発見されたことである。
アスクレピオスは太陽神アポロンの子であり、ヘビが巻きついた杖を持っていた。
このアスクレピオスの杖は今でも世界的に医学の象徴となっている。

聖域はちょうど高速道路の建設予定場所にあるため、石は1つ1つクレーンで取り上げられ、近傍に移設されている。
調査を主導している考古学者Maria-Fotini Papaconstantinou氏は、発掘について「時間との戦い」と述べている。
調査には期限が決められており、遺跡にブルドーザーが入る前に遺構や遺物の記録と移動を終えなければならない。
「本来は2年かかるところを、6か月でやっている」とPapaconstantinou氏は語っている。

184:世界@名無史さん
14/04/17 23:01:27.75 0.net
>>176

古代の港街ダフノウンタ(Dafnounta、現在のラミア市付近)
URLリンク(upload.wikimedia.org)


エピダウロス
URLリンク(upload.wikimedia.org)


185:Map_of_WH_epidaurus.png 伝承によれば、アポロの息子で名医のアスクレピオスが生まれた場所であるとされる。 もともとこの地域ではアポロ・マレアタス (Apollo Maleatas) (アポロと英雄マレアタスが習合された神格)が崇拝されており、丘の上の神殿もアポロ・マレアタスに捧げられたものであったが、 アポロ・マレアタス信仰が衰えた紀元前6世紀頃、アスクレピオスを崇拝する人々がこの地を聖域とした。



186:世界@名無史さん
14/04/17 23:09:14.30 0.net
>>174
メドゥーサは全然知らない。
島の場所と名前って比定されてたっけ?


っと、いま見たらかなり面白かったので、そのうち調べよう

187:世界@名無史さん
14/04/17 23:23:43.07 0.net
>>19>>168

ほんとに同意してるんだろうか、、、

URLリンク(en.wikipedia.org)
The town was dominated by the Palace of Zakro, originally built around 1900 BC, rebuilt around 1600 BC,
and destroyed around 1450 BC along with the other major centers of Minoan civilization.
Extensive ruins of the palace remain, and are a popular tourist destination.

188:世界@名無史さん
14/04/18 03:40:45.12 0.net
[Diod.3.52] 次に昔リビュアの奥地に住んでいたアマゾン族の歴史について語ろう。
多くの人は、アマゾン族はポントスの地を流れるテルモドン河周辺に住んでいたのだけだと思っているが、実際はリビュア奥地のアマゾン族の方が歴史が古い。
リビュアのアマゾン族はトロヤ戦争が終結する何世代も前に滅び去ってしまったから、
今日ほとんどの人はリビュアのアマゾン族のことを知らない。

当時リビュアには多くの好戦的な女性種族が住んでいた。
アマゾン族は世界征服を狙って、ケルネソスの町より出でて
高度な都市文明を有したアトランティスの地に攻め込んだ。
アマゾン族の女王ミュリナは3万人の歩兵、3千人の騎兵を率いて
抵抗するアトランティス人のケルネの町を占領すると、老若男女を問わず殺戮した。
そこで他の都市のアトランティス人は、アマゾン族に降伏し、占領を受け入れた。
その代わりアトランティスを襲うというゴルゴン族を倒すことを依頼した。

アマゾン族はゴルゴン族との戦いに勝利し、3千人以上の捕虜を獲得したが、
ゴルゴン族は森に逃げ込んだ。女王ミュリナはゴルゴン族を滅ぼすため
森に火を放ったが、成功せず、一旦国境まで退却した。

アマゾン族の夜の監視が手薄になっていたところで、
捕虜のゴルゴン族の女性達が反乱を起こしたが、全員殺された。
女王ミュリナは死んだ仲間を三箇所で火葬し、三つの墓を造った。
今日その地はアマゾン塚と呼ばれる。

ゴルゴン族は後に勢力を増したが、ゴルゴン族の女王がメデュサの時、
ゼウスの息子のペルセウスによって征服された。やがてゴルゴン族、アマゾン族は
ヘラクレスよって滅ぼされ、彼はその時リビュア(アフリカ)の地に二本の柱を立てた。
人類のために女性が支配する国家を今後も倒すという決意を表明したのである。
また湿地の上のトリトニスの町は地震によって崩れ、大洋の下に消えたという。

189:世界@名無史さん
14/04/18 23:45:20.97 0.net
>>180はどこから?

190:世界@名無史さん
14/04/19 01:06:17.12 0.net
どっかの過去スレのディオドロスの私訳から抜粋コピペ

191:世界@名無史さん
14/04/19 01:20:39.44 0.net
どうもありがと

192:世界@名無史さん
14/04/19 08:3


193:3:29.21 0.net



194:世界@名無史さん
14/04/19 09:31:27.64 0.net
さて、ペリシテ人といえば
ダゴンの神殿と契約の箱なんだが

この信仰は
ずっと東の内陸からもたらされたのか
それとも海沿いに伝わったのか
あるいは彼らが故郷から連れてきたものが
いつの間にか習合されてしまったのか

195:世界@名無史さん
14/04/20 02:07:10.83 0.net
>>180
あの辺りって森はあるのかな?
どんな感じなんだろ

森林資源が豊富ならエジプトが食指を伸ばしそうなもんだけどね

196:世界@名無史さん
14/04/20 10:15:35.39 0.net
>>186
あまりないというかほとんどない。

197:世界@名無史さん
14/04/20 14:53:54.57 0.net
今では赤い大地と呼ばれる荒野
ところでベルベル人は自称アマジグ族といってアマゾンと語感が似てるよね

198:世界@名無史さん
14/04/21 03:11:00.34 0.net
>>180
ほほう

URLリンク(web.kyoto-inet.or.jp)
第5章 リビュア地方の自然と神話
第2節 リビュア・アマゾネス

(4) 故郷は湖中の島
 神話作者によると、女人族が住んでいたのは島で、これが西寄りにあることから「へスペラ(西方の)」と呼び名がつき、トリトニス湖中に位置していた。
湖は大地を囲む大洋オケアノスに近く、この呼び名はトリトンという名の川がひとつ、湖中へ注ぐところから来た。湖はエチオピア地方と大洋オケアノス沿いの山脈に近い。
山はこれらの地域内で一番大きく、大洋オケアノスに向けて突き出し、ギリシア人はアトラスの名で呼ぶ。

(5) 今あげた島はひじように広く、あらゆる種類の果樹に溢れ、地元ではこれらの巣実から食料を得ている。
島には家畜も多く、山羊と羊で、飼い主たちはこれらの家畜から乳と肉をとって、食用に供している。
この部族は総じて穀類を利用しないが、これは、自分たちの間でこの果実が不足する目に遭ったことが、これまで一度もないことによる。

(6) 最初の戦
 アマゾネス族は群を抜いたカを持ち、戦に出かけると、最初に島内の諸市を「メネ」だけ残して破却した。
この市は神市と見なされていて、そこに住みついていたのがエチオピア族系の「イクテュオパゴイ(魚喰い)」族であった。
島には大きな噴火口があり、貴石がたくさんに出て、これらをギリシア人はルビー、紅玉髄、エメラルドと名づけている。

 つぎに、近隣のリピュア族や遊牧民の大半を相手に戦って破り、
トリトニス湖内に大規模な市ひとつを建設し、その地形に因んで「ケロネソス(半島)」市と命名した。

199:世界@名無史さん
14/04/21 03:45:54.05 0.net
>>186>>187>>188
ギリシャの森林資源の衰退を扱った著作は
「文明崩壊」かと思ってたが違ったな

「土の文明史」と「天からの洪水」だったはず
古の森が世界遺産になってたと思ったが、これも違うようだ

200:世界@名無史さん
14/04/21 05:01:48.39 0.net
女王はリビュア�


201:キし、アイギュプトス(エジプト)の王であった、 イシスの息子ホルスと同盟を結んだ。そしてアラブ族と戦争し、 その多くを殺してシュリア(シリア)を支配した。 キリキア人が降伏した時は、女王は彼らを自由にした。 更にタウルス山中を平定し、カイコス川周辺を手にした。 ミュリナは支配した地域に自分の名前を冠した町を建設したほか、 部下の名前にちなんだ町、キュメ、ピタニア、プリエネなどを建てた。 これらの町の大部分は海沿いに立てられたが、内陸にも都市を計画した。 彼女はレスボス島を征服し、彼女の妹にちなんでミテュレネという町を建てた。 その後嵐に襲われ、神々の母に祈りを捧げたところ、見知らぬ土地に流れ着いた。 そこをサモトラケと名付けた。これはヘレネ(ギリシャ)の言葉で聖地を意味する。 但しそれ以前からサモスと呼ばれていたとも、トラキア人によってサモトラケと 名付けられたともいう。神々の母は、この島にある人々と彼女自身の息子達を住まわせ 聖地とした。この島は今日、女神の夫の名前にちなんで、コリュバントと呼ばれる。 やがて、トラキア人の王リュクルゴスによって故国を追放されていたトラキア人の モプソスが、亡命した男達を率いてアマゾンの地に侵略した。 トラキアの隣の地であるスキュティアより同じように追放されたスキュティア人の シピュロスも従軍していた。シピュロス・モプソス連合軍がミュリナ軍に勝利し、 ミュリナは大軍を失った。トラキア人は勝利を重ね、生き残ったアマゾン族は、 リビュアへ逃げ帰った。以上がリビュアのアマゾン族の話である イリアスでミュリナの塚という場所が登場するので アマゾン軍が敗れたのは トロイア辺りだったと俺は考える トラキアの亡命王モプソスはルウィ族かアルザワの地方を支配していたマプシュイルワ、 スキタイ亡命王シピュロスはヒッタイト王シュッピルリウマ1世のことと俺は考えているが 全く根拠はない 俺のただの妄想なのであった



202:世界@名無史さん
14/04/21 18:23:01.77 0.net
>>190
ギリシャ本土に、山の表側は浸食されてるけど
裏側には手付かずの森林が残ってる地域があるはずなんだけど
ちっと調べたけど、巧く引っかからなかった

確かそこ以外の大きな森は殆んど伐採されてしまってて
酷い土壌の流失でかなり人口減少してたはず

その後オリーブやブドウなんかの栽培に切り替わったんじゃなかったっけ?

203:世界@名無史さん
14/04/21 18:27:35.43 0.net
>>189

エチオピア族ってのは
アフリカに住んでる人の全体を表す言葉なんだっけ?
それともヌビアの辺りのごく限られた地域だったり
もしくは黒い肌を持つ人はみんなそう呼ばれるとか?

204:世界@名無史さん
14/04/21 19:10:47.36 0.net
>>192
グーグルマップ衛星写真でみたら、アテネ市街から北に10kmほどの位置に深い森林地帯があるね
Tatosの森というようだけど、アテネからみて山の背側だしコレじゃないかな?
ほかに、ペロポネス半島のド真ん中にはさらに深い緑に覆われた半径15kmほどの盆地があった
ここの地名を見るとArkoudorema野生動物保護区とあるが、画像検索したらこんな感じだった
URLリンク(www.dimokratianews.gr)

205:世界@名無史さん
14/04/21 23:09:49.33 0.net
>>194
めんどうなのにありがとう

たぶんTatosの森の方だ
ただ、昔どこかに書き込んだんじゃないかと思って
名前を探してたんだがそれもなかったよ

記憶が曖昧すぎ�


206:ト申し訳ない ギリシャの土地荒廃は複数回やってるぽいので 今度ちゃんと調べてみようと思う



207:世界@名無史さん
14/04/21 23:33:08.30 0.net
>>191
カイコス川で検索するとこれが引っかかるね


ミュシア
URLリンク(ja.wikipedia.org)

地理[編集]

ミュシアの山々では、北部のオリンポス山(標高2543m。トルコ名:ウル・ダー、ウル山 Uluda?)およびイダ山(標高1774m。
トルコ名:カズ・ダー、カズ山)と、ミュシアとリディアを分け、アドラミュティオン湾(現エドゥレミット湾)付近まで伸びる南部のテムノス山(現Demir Da?)があった。

北部の主要な河川には、ともにリディアを源流とし、プロポンティス海から約24kmのところにあるアポロニア(Apollonia)の湖で合流する、
マケストス川(現Susurlu Cay)、リュンダコス川(リンダクス川、Rhyndakos、現Adirnas Cay)があった。

南部のカイコス川(現Bak?rcay)はテムノスを源流とし、ペルガモンを通って、西のエーゲ海に流れ込んでいた。
北部には東と西からマケストス川に注がれる、2つの大きな湖Artynia(またはApolloniatis。現Abulliont Golu)、Aphnitis(現マニヤス湖 Manyas Golu)があった。

208:世界@名無史さん
14/04/22 21:01:31.12 0.net
>>188
このネタもあったね

>>187
昔からなかったのか、昔はあったのか、、、

209:世界@名無史さん
14/04/22 21:11:51.57 0.net
ギリシャの歴史
URLリンク(ja.wikipedia.org)

によると、

中青銅器時代[編集]

ギリシャを襲った災厄の後、ギリシャ本土やエーゲ海では初期青銅器時代からの文化伝統が断ち切られており、
災厄に襲われなかったクレタ島ではその継続が見られるなど、明暗がはっきりとしている。
ギリシャ本土においては集落が激減、文化的後退を見せたと考えられており、大規模な建築物が見られなくなっている。
また、この時代には灰色磨研土器「ミュニアス土器」や、中期青銅器時代の幕開けとなる「鈍彩土器」らがあるが、いずれも前後の時代と比べると創意が乏しい。
このことから、古代ギリシャ語を話す民族がギリシャに至り、定住したと考えられる。

一方、クレタ島では大規模な建築物としてクノッソス宮殿が生まれ、また「カマレス土器」のような鮮やかな彩色がされた土器や優れた工芸品が生まれており、クレタ島を除くエーゲ海の島々を文化圏に取り込んでいた。
宮殿は中青銅器時代後期に起きた地震により、被害を受けたが規模を拡大して再建されている[24]。

クレタ島における初期段階(第一宮殿時代、もしくは古宮殿時代、旧宮殿時代とも)についてははっきりした部分も少ないが、
発見されて以来、研究が進んでいるクノッソス宮殿を元とすれば、この宮殿は巨大な力を持った権力者によって建設されたと想像されてはいる
。しかし、その開放性や前1780年ごろに発生した地震・天災より破壊されたがすぐに再建されていること、城壁が存在しないことから、住民らの合意で建設されたと想像されている[25]。
このミノア文明におけるクノッソス宮殿を中心とした他の宮殿において、巨大な貯蔵庫が構築されており、再分配システムの中心を成していたと考えられている。
この再分配システムは通常、首長制の中で見られるものであり、定住型農耕社会と国家との間に現れるものであることから、
ミノア文明では強力な王権が存在したのではなく、首長制社会の典�


210:^例として考えられている[26]。



211:世界@名無史さん
14/04/22 21:17:20.31 0.net
>>198

ミノア文明[編集]

ミノア文明における再分配システムでは物資の管理を行うために「線文字A」と呼ばれる文字体系が確立された。
また、このシステムにより、各種の精巧な工芸品が生まれており、土器もこれまでのカマレス土器に変わって美しいものが生まれ始めた。
前1700年から前1500年頃にミノア文明は頂点を迎え、ケア島やミロス島、サントリーニ島などまでその文化圏が及んでいたと考えられ、
特に前1628年のサントリーニ島の爆発[# 6]により埋没したアクロティリはこの時代の情報を多く伝える貴重な存在と化している[30]。

エジプトにおいてもクレタ島を起源とする土器が発見されており、新王国時代の墓ではファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の絵も存在する。
さらにユーフラテス河畔でも確認されており、ミノア文明の活動範囲がかなり広がっていたと考えられている[30]。

また、このアクロティリには多くのフレスコ画が見つかっており、華やかなミノア文明を現在に伝え、
その中でもナイル川を描いたと思われるフレスコ画も発見されており、ミノア文明がエジプトと交流していたことも想像されている。
その証拠にエジプトにおいてもクレタ島を起源とする土器が発見されており、新王国時代の墓ではファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の絵も存在する。
さらにユーフラテス河畔でも確認されており、ミノア文明の活動範囲がかなり広がっていたと考えられている[30]。
さらに『フライパン』と呼ばれるなべ型の器や『キクラデスの偶像』と呼ばれる大理石の像があるが、これはオリエントにおける多産や豊穣を祈願したものでなく、
白い大理石が磨き上げられたものでオリエント文明とは異質な独自の文化を持っていたことが考えられている[31]。

212:世界@名無史さん
14/04/22 21:22:17.98 0.net
>>199

後期青銅器時代[編集]

(略)

ミケーネにおける宮殿はクレタ島の開放的なものとはちがい、「メガロン」と呼ばれる王の間を中心にしていることから、王への権力集中が進んでいたと考えられている。
テッサリアのイオルコス、ギリシャ中部のオルコメノス(英語版)やテーバイ、アテナイ、アルゴス平野のミケーネ、ティリンス、ミデアなどに小王国が存在していたと考えられ、
その中でもペロポネス南西部のピュロス王国(英語版)については研究が進んでいる[35]。

特にこのピュロス王国ではアメリカ合衆国の学者カール・ブレーゲンが発掘した際に「線文字B」が描かれた粘土板を発見、後にイギリスのアーサー・エヴァンズがこれを解読することに成功することができた。
この線文字Bの解読により、ミケーネ文明の人々がインド=ヨーロッパ語族に属し、さらに王国における日常業務が明らかにされることとなった[36]。

ピュロス王国には合計で16の行政区を持っており、それぞれに長が置かれ、それを王が統括したと考えられている。
そして王の名称が「ワナックス(英語版)」(線文字B: ?????? - wa-na-ka、アナックスとも)[37]と呼ばれていたが、これは神に近い存在というニュアンスが含まれており、これは西アジアからの影響と考えられている。
さらに粘土板には公有地や私有地が存在しており、外国から連れてこられた女奴隷が働き、ポセイドンやポトニア神へ祭祀を行っていたことが記載されている。

これらのことが全てに当てはまるとは言えないが、当時の社会を表していると考えられている[38]。
一方、それまで独自の発展を告げていたクレタ島は崩壊を遂げるが、これはミケーネ文明の人々による侵略が考えられている[# 8]。
このような侵略により、ミケーネ文明は後青銅器時代中ごろから後半までに(後期ヘラディックIIIA期)までに
ギリシャ本土、クレタ島、エーゲ海を覆い尽くし、さらにはシチリアや、キプロスにまで及び、ヒッタイトやエジプト新王国と肩を並べる存在であった[40]。

213:世界@名無史さん
14/04/23 03:50:11.82 0.net
フェニキアとギリシャ諸都市
URLリンク(upload.wikimedia.org)

214:世界@名無史さん
14/04/23 20:48:52


215:.22 0.net



216:世界@名無史さん
14/04/23 21:01:13.63 0.net
線文字(せんもじ)

線文字A - 紀元前1450年以前にミノア文明で使用されていたと推定される文字。未解読。
線文字B - 紀元前1450年から紀元前1375年頃まで、ミケーネ文明で使用されていた文字。マイケル・ヴェントリスとジョン・チャドウィックによって解読されている。


線文字Aはおそらくセム語系
線文字Bは印欧語


で、年代は

URLリンク(en.wikipedia.org)

Chronology[edit]

See also: Chronology of Linear B
Linear A was a contemporary and possible child of Cretan hieroglyphs and the ancestor of Linear B.
The sequence and the geographical spread of Cretan hieroglyphs, Linear A and Linear B,
the three overlapping, but distinct writing systems on Bronze Age Crete and the Greek mainland can be summarized as follows:[8]

Writing system Geographical area Time span[a]
Cretan Hieroglyphic Crete c. 1625?1500 BC
Linear A Aegean islands (Kea, Kythera, Melos, Thera), and Greek mainland (Laconia) c. 1800?1450 BC
Linear B Crete (Knossos), and mainland (Pylos, Mycenae, Thebes, Tiryns) c. 1450?1200 BC


これは意外と知らなかった

217:世界@名無史さん
14/04/23 21:15:33.31 0.net
やっぱ年表が欲しいな

しょうがないから>>142さんのやつを元にして、自作するかなぁ、、、
地図はグーグルマップで作ったの持ってるんだけど編集能力がないww

218:世界@名無史さん
14/04/23 21:20:02.05 0.net
>>202
英語ウィキみたところ、それでいいみたい
URLリンク(en.wikipedia.org)
読み方は、「Iol or Jol」と書かれているのでヨルに近いイォルって感じでないかな

219:世界@名無史さん
14/04/23 23:26:44.89 0.net
>>204
さて、とりあえずできたけど
だいぶ情報が足りないな。

各地域別で詳細なやつから拾ってくしかないね。

220:世界@名無史さん
14/04/23 23:42:52.82 0.net
アルファベット
URLリンク(ja.wikipedia.org)

現在の研究で知られている最初のアルファベットは、紀元前1700年~紀元前1500年頃に地中海東部の沿岸地域で発達したと一般に考えられている。
このアルファベットは北セム文字と呼ばれ、楔形文字とヒエログリフを組み合わせてできたものであるが、
クレタ文字やヒッタイト文字のような類縁関係にあるアルファベットから採られたものもあるようだ。
北セム文字には子音をあらわす文字しかなく、単語の中の母音は補って読まなければならなかった。

紀元前1000年頃に北セム文字が、南セム文字、カナン文字、アラム文字、ギリシア文字の4つの系統に分かれたと考える学者は多い。
ただし、南セム文字だけは北セム文字とは独立に発達したか、両者が共通の祖先から発達したのだという説もある。
南セム文字は、アラビア半島でかつて用いられていた諸言語や、現代のエチオピアの諸言語のアルファベットの起源である。

221:世界@名無史さん
14/04/23 23:45:06.77 0.net
>>207

フェニキアのアブジャドの末裔である4種の代表的な音素文字の比較。
URLリンク(upload.wikimedia.org)


左から



222: ラテン文字、 ギリシア文字、 元になったフェニキア文字、 ヘブライ文字、 アラビア文字。



223:世界@名無史さん
14/04/24 00:03:17.70 0.net
>>205
情報ありがと

224:世界@名無史さん
14/04/24 00:09:20.64 0.net
フェニキア文字
URLリンク(ja.wikipedia.org)


親の文字体系
まず、エジプト神聖文字(ヒエログリフ)から原シナイ文字が生じた。紀元前1500年頃からシナイとレバントで、恐らく初期西セム語(英語版)の話者が用いるようになった。
それがカナンで紀元前1400年頃から原カナン文字へと発展し、カナン語 (北西セム語) の表記に採用された。

系譜(俺編集)
フェニキア文字の原カナン文字は連続性が強い為、違いは字形や年代だけなので、
便宜的に紀元前11世紀半ば以降の物をフェニキア文字と呼んでいる。


音素文字の拡散

知られている最古のフェニキア文字による碑文はアヒラムの墓碑銘と呼ばれ、アヒラム王の棺に刻まれている[3]。
フェニキア人による音素文字の採用は非常な成功を収め、様々な変種が地中海で前9世紀頃から採用された。
さらには、ギリシア文字、古代イタリア文字、アナトリア文字、イベリア文字へ発展していった。その成功の理由の一つは、音声的特徴にあった。

フェニキア文字は一つの記号で一つの音を表す文字体系としては、初めて広く使われたものである。
当時使われていた楔形文字やエジプト神聖文字等の他の文字体系では多くの複雑な文字が必要で、学習が困難であったのに比べて、この体系は単純だった。
この一対一方式のおかげで、フェニキア文字は数多くの言語で採用されることになった。

フェニキア文字が成功したもう一つの理由は、音素文字の使用を北アフリカと欧州に広めた、フェニキア商人の海商文化であった[4]。
実際、フェニキア文字の碑文は遥かアイルランドにまで見つかっている。

フェニキア文字の碑文は、ビブロス (現レバノン) や北アフリカのカルタゴのような、かつてフェニキアの都市や居留地が多数あった地中海沿岸の考古学遺跡で発見されている。
後にはそれ以前にエジプトで使われた証拠も発見されている[5]。
文字は元来尖筆で刻み込まれていたので、殆どの形状は角張って直線的であるが、より曲線的な物が次第に使われるようになり、ローマ時代北アフリカの新ポエニ文字へと発展していったと後に証明された。
フェニキア文字は通常右から左に(右書き)書かれたが、牛耕式で書かれた文章もある。

225:世界@名無史さん
14/04/24 00:22:51.38 0.net
北シリアのウガリトでは楔形文字が盛んに使われていたが、前14世紀の半ばかその少し前、その書き方にカナンのアルファベットの書き方が応用された。
なんと楔形文字がアルファベットの原理を使って書かれるようになったわけだ。
当時のスペリングの教科書をみると、全部で30個の楔形文字が、後のフェニキア式の並び順とだいたい一致するような順番に並べられていたことがわかる。

(略)

ビュブロスでは前2千年紀、120個ぐらいの記号からなる音節書記法の「擬似ヒエログリフ」が使われていた。
正確な年代はわからない。
前18~17世紀とする説が以前から出されているが、前2千年紀後半の、
たぶんアルファベットが採用される直前の時期まで使われていた形跡もある。
解読は何度か試みられているが、まだ成功していない。

226:世界@名無史さん
14/04/24 01:21:45.50 0.net
>>174
そういえば、ロドス島のドラゴン伝説って知ってる?

URLリンク(curragh.sblo.jp)
とりあえず、ここのサイトしか引っかからなかったけど
ネタ元は一緒です。

(以下、抜粋)
そして後半に紹介されていた、ロードス島にいたドラゴン vs. ヨハネ騎士団騎士デュードネ・ド・ゴドンの一騎打ちの話(


227:時は第一回十字軍遠征のころ。 ほんらいヨハネ騎士団はエルサレムの巡礼者を守護するために組織された騎士修道会だったらしい )。 ちなみに色々と年代と名称が合わない気がするんだけど これは面白い話に繋がっていけるのだろうか?



228:世界@名無史さん
14/04/24 01:35:38.08 0.net
>>212
これか

URLリンク(en.wikipedia.org)

229:世界@名無史さん
14/04/24 05:07:37.28 0.net
>>100>>191
なるほど

ちなみに俺はトラキアからきた
アナトリアの王様というとミダス王が思い浮かぶ

230:世界@名無史さん
14/04/24 20:42:33.29 0.net
ギリシアがトルコのボドルムに築いた植民市ハリカルナッソスは
ドーリス系かイオニア系かどちら? 本によって違うから困る

「NHKスペシャル文明の道3 海と陸のシルクロード」で
木村凌二はイオニア系としていた
>>170の下の本や吉川弘文館の世界史年表・地図などではドーリス系

231:世界@名無史さん
14/04/24 23:12:33.02 0.net
>>132
メルカルトの捨子伝説って気になるな



いろいろな文書に語られる地域的なバアル像を総合すると、
嵐の最高神とフェニキア神界の首領という二つの性格が浮かび上がる。

 (中略)

嵐の神なら当然ながら、地方版のバアルの多くは神聖な山や岬と結びついている。

 (中略)

サポン山(いまのシリア北部のアクラ山)は、その嵐の神の本拠地だった。
ウガリトの神話では、その山に宮殿のような住まいがあった。
シリア海岸を見晴らす海抜1700mのその山は、
カルメル山やテュロスの南のナクラ岬(おそらく「岬の主人」という意味のバアル・ロシュの縄張り)
と並んで明らかに船乗りのランドマークだった。

ちなみにバアル・シャメムとバアル・サポンが嵐の神として、沖ゆく船をおどかしている。
テュロスとアッシリアの海事条約で、違反者の船を難破させる役目を頼まれているのである。
「その船の上に邪悪な風を放ち、帆を引き裂き、マストを持ち去らんことを・・・・・・」

232:世界@名無史さん
14/04/25 00:28:28.81 0.net
それはどこの文献から?

H.クレンゲル著、五味亨訳「古代シリアの歴史と文化 東西文化のかけ橋」(六興出版)
くらいしか読んだことないから出来れば書籍名等は載せて欲しい

233:世界@名無史さん
14/04/25 01:04:13.51 0.net
>>217
グレンEマーコウのフェニキア人
の翻訳版で、知名なんかは確かギリシャ語読み

>>134>>136>>143>>144
>>151>>158>>159>>211>>216

適当に微妙な編集が入ってることがあるのでご注意を
ちなみに出展の出店は書いてないことがほとんどなので
どこから拾ってきたのかはわからないのだ

234:世界@名無史さん
14/04/25 01:06:44.13 0.net
にしても、>>142は面白いわ
紹介してくれた人ありがとう

こういうの凝り始めると止まらなくなるねww

235:世界@名無史さん
14/04/25 01:18:06.83 0.net
>>218
情報どうも

236:世界@名無史さん
14/04/25 01:22:57.18 0.net
>>219
>>204の人?エクセルかなんかで自作してるのかな?

237:世界@名無史さん
14/04/25 20:23:47.67 0.net
>>221
そそ、自分で追加しないと
面白くならないんだよね

テンプレートにするにはかなり�


238:ィ手頃でした



239:世界@名無史さん
14/04/25 21:16:33.88 0.net
フェルナン・ブローデルの「地中海の記憶 先史時代と古代」って本読んだ奴いる?

240:世界@名無史さん
14/04/26 21:08:37.35 0.net
>>200

ピュロス (ギリシャ)
URLリンク(ja.wikipedia.org)(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3)

ピュロス(希:Π?λο?,英:Pylos)はギリシャのペロポネソス半島南西、メッセニアにある都市。
1939年から1952年にかけて、アメリカ人カール・ブレーゲン(英語版)によってミケーネ文明の遺跡が発掘された。この遺跡はミケーネ文明に特徴的な建築様式であるメガロン(英語版)がある。
未解読文字を記した大量の粘土板がアーサー・エヴァンズによって発見され、線文字A及び線文字Bと名付けられたが、エヴァンズは未解明のミノア文明独自の言語であると考え解読を諦めていた。
1953年、マイケル・ヴェントリスとジョン・チャドウィックが線文字Bで書かれている粘土板にはミケーネ・ギリシャ語(英語版)(古代ギリシア語の古形)の文章が書かれていることを解読することに成功した。
ギリシャ神話においてネストル王の領地(en:Palace of Nestor)としても有名である。

URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(www.maicar.com)
URLリンク(www.maicar.com)


エピロス王アイアキデスとファルサロスの将軍メノンの娘プティアとの間に生まれ
ローマと戦ったエピロス王ピュロスの名前とかとは関係あるのだろうか、、、

241:世界@名無史さん
14/04/26 21:24:14.72 0.net
>>224

ネストール
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ネストール(古希: Ν?στωρ, Nest?r)は、ギリシア神話の人物である。
長母音を省略してネストルとも表記される。メッセーネーの都市ピュロスの王で、トロイア戦争におけるギリシア軍の武将の一人。

(系譜略)ペルセウスの父

ネストールは神の好意で人間の3倍の寿命を与えられたといわれる[3]。ネストールはラピテース族とケンタウロスの戦いや[4]、
一説にアルゴナウタイやカリュドーンの猪狩りにも参加し[5]、トロイア戦争でも高齢にかかわらず参加した。
『イーリアス』におけるネストールはしばしば自分の自慢話を語って聞かせる老将で、高齢のために戦士として戦うことはなかったが軍の指揮者の1人であり、
弁舌においてはオデュッセウスと肩を並べ、献策においては常にアガメムノーンの信頼を得ており、ギリシア軍のあらゆる武将から敬意を持って遇された。

神話[編集]
青年時代[編集]
ネストールには多くの兄弟がいたが、ヘーラクレースとの戦争でみな殺された。このときネストールは幼く、ゲレーニアで育てられていたため無事だった[6]。
これにちなんで『イーリアス』では頻繁に「ゲレーニア育ちの」ネストールと呼ばれている。一説にネストールはこのときにピュロスからゲレーニアに亡命したという[7]。
またネストールはトロイアで育ったという奇説もある[8]。

(後略)

242:世界@名無史さん
14/04/26 21:53:49.48 0.net
ギリシャ都市テスピアイはアナトリアの嵐の神テシュプに由来するって説は聞いたことあるな

243:世界@名無史さん
14/04/26 23:57:48.04 0.net
>>226
へー、なるほど

テスピアイ
URLリンク(ja.wikipedia.org)

パウサニアスによると、テスピアイで最も崇拝された神はエロスだった。太古のエロスの肖像は未加工の石だったが、テスピアイには多くの美術作品があった。
その中には、古代世界の彫刻の中でも有名なものの1つ、プラクシテレスの『エロス』もあって、それを見ようと人々がテスピアイまで詣でてきた。
そのエロス像はローマ皇帝カリグラ帝がローマに持ち出し、次代のクラウディウス帝が一度返還したが、再びネロ帝が持ち出した。
リュシッポスのエロスのブロンズ像も


244:テスピアイにあった。さらにテスピアイ人はムーサも崇拝していて、ヘリコーン山の聖なる林でムーサを讃える祭を催した。 ムーサ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5 ムーサ(古希: Μο?σα, Musa)またはムサは、ギリシア神話で文芸(μουσικη; ムーシケー、ムシケ)を司る女神たちである。 複数形はムーサイ(Μο?σαι, Musai)。英語・フランス語のミューズ (英語・フランス語単数形: Muse、フランス語複数形 Muses) やミューゼス (英語複数形: Muses) としても知られる。 ムーサたちはパルナッソス山に住むとされる。ムーサたちを主宰するのは芸術の神・アポローンである。 しばしば叙事詩の冒頭でムーサたちに対する呼びかけ(インヴォケイション)が行われる。 なお『ホメーロス風讃歌』にはムーサたちに捧げる詩がある。



245:世界@名無史さん
14/04/28 21:33:37.92 0.net
>>155
ふーむ

URLリンク(en.wikipedia.org)

The site's eighth-century BCE bilingual inscriptions, in Phoenician and Hieroglyphic Luwian,
which trace the kings of Adana from the "house of Mopsos", given in Hieroglyphic Luwian as Moxos and in Phoenician as Mopsos in the form mps,
have served archaeologists as a Rosetta stone for deciphering Hieroglyphic Luwian. [1] [2] [3]

246:世界@名無史さん
14/04/28 21:48:29.59 0.net
おっと、ヒッタイトのサイト見れなくなってるのか

247:世界@名無史さん
14/04/28 21:54:24.46 0.net
>>155

URLリンク(www.hittitemonuments.com)

ASATIWATA SPEAKS

I am indeed Asatiwata,
The blessed of the Sun, the servant of the Storm-God,
Whom Awariku exalted, king of Adanawa.
The Storm-God made me father and mother to the city of Adanawa,
And I developed the city of Adanawa,
And I enlarged the land of Adanawa, both to the west and to the east.
And in my days the city of Adanawa had prosperity,
Satiety and comfort, and I filled the granaries of Pahara,
I added horse upon horse, shield upon shield,
Army upon army, all for the Storm-God and the Gods
I crushed the arrogance of the arrogant, all the evil that was in the land I cast outside.
I erected mansions for my lordship,
I brought prosperity to my race,
And I sat on the throne of my father, I made peace with every king.
Kings considered me their father, for my righteousness, for my wisdom,
And for the goodness of my heart.
I built mighty fortresses on all my borders,
On the borders where there had been bad men, leaders of gangs, none of whom had been subservient to the house of Muksas, I, Azatiwata put them at my feet.
I destroyed the fortresses there, I built fortresses in those places, so that the people of Adanawa might dwell in ease and in peace.
In the west
I subjugated mighty lands
Which the kings before me had not subjugated.
And I, Azatiwata subjugated them, made them my servents.
And I settled them in the east of my land,
Within my borders.

248:世界@名無史さん
14/04/28 21:57:40.44 0.net
>>230

The people of Adanawa, too, I settled there.
And in my days I enlargened the borders of Adanawa to the west as w


249:ell as to the east, so that, in the places which had formerly been feared, on the desolate roads where men would be afraid to walk, in my days women could stroll with their spindles. And in my days there was plenty, satiety, comfort and peace. And Adanawa and the land of Adanawa lived in peace and plenty. And A built this citadel, And I gave it the name of Asatiwataya, Because the Storm-God and the Gods directed me towards this, So that this citadel might protect the plain of Adana and the house of Mopsos. In my days there were in the people of Adanawa was plenty and peace, In my days none of the people of Adanawa was put to the sword. And I built this citadel, I gave it the name of Azatiwataya, There I settled the Storm-God and I made sacrifices to him; annually an ox, in the season of ploughing a sheep, in autumn a sheep I sacrificed to him. I sanctified the Storm-God,



250:世界@名無史さん
14/04/28 21:58:14.33 0.net
>>231

He granted me long days, countless years and great strength above all kings.
And the people who dwell in this land became owners of cattle, herds, plenty (of food) and wine,
Their offspring was plenty, by the grace of the Storm-God and the Gods
They rendered service to Asatiwata and to the house of Muksas.
And if any king among kings, or any prince among princes, or a person of renown,
Obliterates the name of Asatiwata in this gate and puts here another name, or even covets this city and destroys this gate which Asatiwata made, and builds another gate in its place and puts his name upon it,
Whether he destroys this gate from greed, or from hate and evil,
Then may the God of the Sky, the God of the Earth And the Sun of the Universe and all the generations of gods obliterate this king, this prince or this person of renown from the face of earth.
Only the name of Asatiwata is immortal in eternity,
Like the name of the Sun and of the Moon.

251:世界@名無史さん
14/04/28 22:18:31.08 0.net
>>228

さっぱり読めないww
URLリンク(de.wikipedia.org)

Reliefs der rechten Seite im Vorhof des Nordtores
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)


URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)


Reliefs der linken Seite im Vorhof des Nordtores
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
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URLリンク(upload.wikimedia.org)


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