邪馬台国畿内説 Part643at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part643 - 暇つぶし2ch70:纈�国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅) 人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)



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20/09/24 18:27:30.88 .net
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
―――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

72:1
20/09/24 18:28:10.36 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎―黄鐘律管が容積・重量の基準―になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。

 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

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20/09/24 18:29:01.88 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
URLリンク(i.imgur.com)
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

74:1
20/09/24 18:29:50.52 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

75:1
20/09/24 18:30:31.57 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) URLリンク(i.imgur.com)
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

76:1
20/09/24 18:31:16.47 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:URLリンク(i.imgur.com)
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

77:1
20/09/24 18:32:21.12 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

78:日本@名無史さん
20/09/24 18:32:55.58 .net
ここまで勘違い

79:1
20/09/24 18:33:03.64 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年�


80:岺�に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77 Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!  前方後円墳体制など、夢想だ! A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。  萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。  当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。  奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。 前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。 こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。



81:1
20/09/24 18:33:53.18 .net
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に


82:用いられている。 ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。  もとより倭人伝は倭人の国々を   1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、   2)其余国遠絶、不可得詳 と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。 戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。 倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。



83:1
20/09/24 18:34:44.10 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

84:1
20/09/24 18:35:39.36 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

85:1
20/09/24 18:36:22.05 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

86:日本@名無史さん
20/09/24 18:36:33.86 .net
さらに勘違いが続きます

87:1
20/09/24 18:38:12.93 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

88:1
20/09/24 18:39:05.80 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

89:1
20/09/24 18:41:30.62 .net
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
URLリンク(i.imgur.com)

90:1
20/09/24 18:42:49.32 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291~299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261~303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

91:1
20/09/24 18:43:44.73 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

92:1
20/09/24 18:44:31.94 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260~280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

93:1
20/09/24 18:45:26.42 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

94:1
20/09/24 18:46:10.51 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

95:日本@名無史さん
20/09/24 19:21:07.05 .net
以上、ウソでした

96:uz
20/09/24 23:03:45.09 .net
華麗に千ゲッチュ~、だったわな。
スレリンク(history板:1000番)

97:日本@名無史さん
20/09/24 23:06:22.77 .net
まだ不十分なんだよね、狗奴国と争い卑弥呼死、更立男王国中不服、で死者千名。巨大モニュメントの意味効果が無いと思うんだな、そこだね他説がつけいる隙わ。平定してドカンと拵えていいんだから。

98:日本@名無史さん
20/09/24 23:09:05.76 .net
前スレ 998日本@名無史さん2020/09/24(木) 22:52:58.25
>宝賀氏の「福岡県教育委員会の報告書概要」によると、その部分は「基部」と書いてあるな。
>この基部の最上平坦地に方墳を載せているのだから、その基部は「壇」であり、基部の呼称として基壇はOK。
>物を載せるのが、壇なんだよ。
それを、世界であんた一人しか気団と呼ばないのは何故?

99:日本@名無史さん
20/09/24 23:12:43.12 .net
巨大モニュメントの効果が
「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定」だな

100:日本@名無史さん
20/09/24 23:20:03.25 .net
うん、つまり男王が築造したんじゃ無く男王も共立で別の連中が王を立ててるってことだろ?

101:日本@名無史さん
20/09/24 23:36:45.94 .net
別の連中って?

102:日本@名無史さん
20/09/24 23:42:51.04 .net
ちゅちょちぇ~?👶

103:日本@名無史さん
20/09/25 00:47:44.00 .net
>>82
普通に、「基壇」の言葉を用いてますけど。

URLリンク(www.okayama-u.ac.jp)

104:日本@名無史さん
20/09/25 01:00:39.64 .net
>>87
なぜ普通に「基壇」の言葉を用いてると言えるの?
他の人が誰も基壇だと言わないのは何故?

105:日本@名無史さん
20/09/25 01:01:19.28 .net
>>87
それは二万大�


106:ヒ古墳だろ



107:日本@名無史さん
20/09/25 01:17:38.08 .net
しかし、70歳近い卑弥呼に寿陵が造られていなかったとは考えにくいよな。
ウィキ「箸墓古墳」によると、寺沢薫は箸墓を寿陵と考えて、「台与の墓説や崇神などの男王の墓説も浮上してこよう」としている、と書いている。
箸墓卑弥呼の墓説者は、梯子はずされてんな。
とにかく、寺沢の考えは、この3世紀中頃には生前に自分の墓を造っておく寿陵が普通にあったことを示している。
とすると、上に述べたように、70歳近い卑弥呼が自分の寿陵を造っていなかったことのほうがおかしいということになる。
卑弥呼の寿陵は瀬高町坂田の権現塚古墳だった説も、案外真実味のあることだよな。

108:日本@名無史さん
20/09/25 01:21:28.58 .net
>>88
いや、考古学者は皆、普通に基壇と言っているのでは?

109:日本@名無史さん
20/09/25 01:22:38.20 .net
>>91
言ってるって証拠は?

110:日本@名無史さん
20/09/25 01:25:34.81 .net
>>90
>卑弥呼の寿陵は瀬高町坂田の権現塚古墳だった説も
誰の?

111:日本@名無史さん
20/09/25 01:45:05.65 .net
>>89
そんな感じだな。
このサイトの別の面では「二万古墳」と書いている。
二万大塚古墳だな。
岡山大学が調べているというから、このサイトはそこが挙げたものだろう。

112:日本@名無史さん
20/09/25 01:49:21.94 .net
>>93
当然、ワイの説だよ。
これを言い始めたのは、ワイだからな。
おめじゃね~から。
特許取っとこ。

113:日本@名無史さん
20/09/25 01:55:03.03 .net
>>95
そういうのは説じゃなくて妄想と言う

114:日本@名無史さん
20/09/25 01:56:05.58 .net
>>94
二万大塚には基壇がある
祇園山には基壇がない

115:日本@名無史さん
20/09/25 02:04:08.13 .net
>>92
普通に皆、基壇と言ってるよ。
URLリンク(wakayamacity-bunkazai.jp)
このサイトは「発掘調査 基壇 前方後円墳」で検索したものの一つで、
その他にいっぱいあるわ、基壇の用語を使っているのは。
まあ、そう焦らずに、権現山古墳の方墳が乗っているのは整形された基壇だと認めたまえ、たまえちゃん。

116:日本@名無史さん
20/09/25 02:12:07.59 .net
後期の多段築成の古墳で第1段目の幅が広くて1段目というには高さが低いような場合に
基壇と呼んでる研究者もいるということだな
小山は基壇とは言わない、小山は小山

117:日本@名無史さん
20/09/25 02:14:07.97 .net
>>97
祇園山の基部を基壇といわずしてなんというか。
ほかに呼称はない。
基壇だよ、基壇。

118:日本@名無史さん
20/09/25 02:15:48.27 .net
>>100
お前しか言ってない

119:日本@名無史さん
20/09/25 02:16:43.51 .net
>>99
方墳を載せるためにその小山を整形したものを、基壇と呼ぶのよ。

120:日本@名無史さん
20/09/25 02:19:30.85 .net
>>102
寺院の塔を載せる台を基壇というな。
祇園山の方墳を載せる台も基壇よ。
その壇の高さは関係ない。

121:日本@名無史さん
20/09/25 02:20:29.79 .net
>>102
祇園山の上部1/4を整形したとしか書いない

122:日本@名無史さん
20/09/25 02:21:47.36 .net
>>103
お前が自然の山を基壇と呼んでるだけ

123:日本@名無史さん
20/09/25 02:40:30.74 .net
>>98
>その他にいっぱいあるわ、基壇の用語を使っているのは。その他にいっぱいあるわ、基壇の用語を使っているのは。
でも祇園山に基壇があるとは誰も言わない
何故なら、ないからである

124:日本@名無史さん
20/09/25 04:15:40.16 .net
>>983
>糟谷地域最古の前方後円墳は宇美町の光正寺古墳。
3世紀中頃~後半。
ふーん。
しかし、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」であり、
「天円地方」墓は、266年の後になるから、
やはり、3世紀後半半ば過ぎ以後だろうなあ。

125:日本@名無史さん
20/09/25 04:36:20.16 .net
>>987
>(ホケノ)出てるよ。花文鏡。よく見てみ。
ホケノの完形の鏡は、画文帯一個であった筈だ。
そして、「花文鏡」というのは、「鏡片」という破片状態の鏡の推定だった筈であり、
九州倭國の卑弥呼や壹與から東征将軍に下賜された事になる鏡だ。
>あと、そこで出た神獣鏡には、京初3年の銘のある鏡も大阪から出てる
それは、大阪府和泉市の黄金塚出土の、
「陳是作銘」の半円方形帯神獣鏡(画文帯同向式神獣鏡)であり、
渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏が、筑紫で東征将軍に造って上げて、
その将軍が和泉で亡くなって副葬された事になる鏡であり、
大和説の根拠にはならないものだ。

126:日本@名無史さん
20/09/25 04:44:45.57 .net
>>988
>それは基壇じゃなくて小山の裾
反日有害朝鮮人集団が連呼してる
マスコミさん、この大和説男も極右人種差別思想の戦争・・・・人種のようですね。
>小さな方墳 高句麗、百済支配層の方壇階梯式だから
楽浪太守墓も、同じような大きさで、方壇式であった筈。

127:日本@名無史さん
20/09/25 04:55:37.70 .net
>>991
>祇園山に基壇があるなんて情報は無いんだが、どこから出てきた?
九州説はまた捏造?
山の尾根付近に「四隅円弧の類方形錐体台」の墓を造って、
その墳裾に62個の陪葬墓を綺麗に配置出来たんだから、
その「四隅円弧の類方形錐体台」の墓が、風雨で崩れないように、
その底面の平面部は、出来るだけ平坦的な状態に形成された事は当然であり、
その底面の平面部が、基壇面になる。

128:日本@名無史さん
20/09/25 05:09:54.44 .net
>>1000
>>二中歴に拠って、神武即位元年は紀元前91年頃にある
  
>そんなモンありゃせん。
没年干支が月の半分に偏ってるのには、他に理由があるんだよ。
>架空キャラだが神武即位は、BC660だ。
架空キャラ即位の絶対年代を枉げる事には、
何の意味もないんだよ、莫迦。
平安期の二中歴の年代暦に、
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体  五 元丁酉(五一七~五二一年)・・・
とあり、
数え年数計算で、
517-39-569×2=-660
が成立するから、
書紀の伝承記録における569年間は、二倍年歴記載であった、
という事が判る。

129:日本@名無史さん
20/09/25 05:23:31.90 .net
>>83
>巨大モニュメントの効果が
「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定」だな
魏の薄葬令があって、「巨大モニュメント」とはならない。
楽浪太守の基壇墓程度の大きさ。
それに、卑弥呼が亡くなって、そんなに長くならない内に、
「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」が行われ、
その後で、
「更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」
になった、という順番の記載であり、説明。

130:日本@名無史さん
20/09/25 05:27:23.35 .net
>>87
>普通に、「基壇」の言葉を用いてますけど。

URLリンク(www.okayama-u.ac.jp)
成程。

131:日本@名無史さん
20/09/25 05:32:04.09 .net
>>90
>しかし、70歳近い卑弥呼に寿陵が造られていなかったとは考えにくいよな。
ウィキ「箸墓古墳」によると、寺沢薫は箸墓を寿陵と考えて、「台与の墓説や崇神などの男王の墓説も浮上してこよう」としている、と書いている。
箸墓卑弥呼の墓説者は、梯子はずされてんな。
とにかく、寺沢の考えは、この3世紀中頃には生前に自分の墓を造っておく寿陵が普通にあったことを示している。
とすると、上に述べたように、70歳近い卑弥呼が自分の寿陵を造っていなかったことのほうがおかしいということになる。
卑弥呼の寿陵は瀬高町坂田の権現塚古墳だった説も、案外真実味のあることだよな。
魏志の記載の順からすると、張政らはきちんと順次式に記録しているようであり、
「寿陵」論は、否定的。

132:日本@名無史さん
20/09/25 05:39:09.33 .net
>>97
>二万大塚には基壇がある
祇園山には基壇がない
基壇があっても、
「四隅円弧の類方形錐体台」の祇園山に、風雨に拠って、
葺石の崩壊が起こっているんだから、
基壇がなければ、
風雨に拠っての「四隅円弧の類方形錐体台」の崩壊は避けられないもの。
楽浪太守墓も基盤台があった。

133:日本@名無史さん
20/09/25 05:44:47.25 .net
>>99
>小山は基壇とは言わない、小山は小山
基壇台を造らず小山のままでは、「四隅円弧の類方形錐体台」墓は、
風雨に拠って、直ぐに流されで壊れてしまう。
だから、段築をするのであり、小山も「基盤台」化の整地や造成が必要。

134:日本@名無史さん
20/09/25 06:00:04.37 .net
>>111の追�


135:L 平安期の二中歴の年代暦に、 年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政 継体  五 元丁酉(五一七~五二一年)・・・ とあり、 「数え年数」計算で、 517-39-569×2=-660 が成立するから、 書紀の伝承記録における569年間は、二倍年歴記載であった、 という事が判る。 そして、神武即位の実年代は、569年を一倍年歴で計算すればよいのだから、 -660+569=-91に拠って、紀元前91年頃になる。 但し、この計算は「数え年」数計算であり、 書紀の記載に拠っては、1~2年位の誤差が発生する可能性はある。



136:日本@名無史さん
20/09/25 06:07:04.57 .net
108
そゆ官位は朝貢した側がもらったもんだぞ

137:日本@名無史さん
20/09/25 06:07:59.87 .net
なんかバカな発言多いなと思ったがおまえら文字しか見たことないんだろ
バカだから

138:日本@名無史さん
20/09/25 06:20:00.55 .net
だから寿稜だと測量が出てくる訳よ、突然規則的なもんが何故?って問題。

139:日本@名無史さん
20/09/25 07:35:53.09 .net
ほんとーは、ほとんど家の話なんだけどな。
いつ頃のことなのか知らないけど、おかしな集団などが出てきたんだろう。
おれおれ詐欺のような話。

140:日本@名無史さん
20/09/25 07:39:00.68 .net
おれおれ詐欺(成り済まし、騙り)が、
本物を(亡き者)殺そうとしたり・・・みたいな話、
漫画やアニメ、ゲーム・・・創作なども同じ。

141:日本@名無史さん
20/09/25 07:43:24.35 .net
正確なのは、謎のコミック、なぜかコミックなんだけどw

『サイバーパンクSPECIAL』
この周辺の話、ロトちゃんなどが出てくる作品。

142:日本@名無史さん
20/09/25 07:54:00.69 .net
前前スレが終了してから書き込んでください。
邪馬台国畿内説 Part641
スレリンク(history板:1番)

143:日本@名無史さん
20/09/25 07:55:55.74 .net
>>124
君、よく空気読めないって言われるよね。
邪魔。

144:日本@名無史さん
20/09/25 07:57:01.91 .net
その謎のコミック。
ロトちゃんというキャラが出てくるでしょ、
家の後ろのほうの話だろ。
産業道路、横羽線、埋め立て地など。

145:日本@名無史さん
20/09/25 08:00:52.67 .net
詳しいことは、わからないけど、何かの刀(剣)などの話もしているし。
どこに住んでいた頃の話だったかな、
老婆の話によると、いま()住んでいるところの話ではない。

146:日本@名無史さん
20/09/25 08:05:05.09 .net
「❓」
なぜか伊達郡(川俣町)、そっちのほうの話もしていたり。

147:日本@名無史さん
20/09/25 08:24:48.75 .net
>>110
>その底面の平面部が、基壇面になる。

阿呆
平面なら壇じゃない

148:uz
20/09/25 08:51:46.58 .net
>>111
> 年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体  五 元丁酉(五一七~五二一年)・・・とあり//
丁酉年(西暦517年)から後の569年間、つまり西暦1085年までについて、年号を振りました。
大宝以降は絶え間なく年号あるんでいいのですが、
大化元年から大宝までの55年間は途切れがちで、39年間は年号ありません。
で、この55年間は勝手に年号を振っています、って事だよな。
皇極天皇四年が大化元年なんだからヘンですが、前からそういう事になってるから勘弁してね、
なんて言い訳してるよな、勝手に振った31個の年号を並べた後に、
作成者と思われる三善為康(1049~1139)はさ。
覧初要集云皇極天皇四年為大化元年
已上百八十四年々号丗一代(不)記年号只人傳言
> 517-39-569×2=-660//
  その計算には何の意味も必然性もないだろ。単なる偶然だよ。
むろん、1年が2年だったことにもならないよ。

149:uz
20/09/25 09:04:11.93 .net
>>117 > -660+569=-91に拠って、紀元前91年頃になる//
  その計算も何の意味もないのは、>>130 で書いた通りだよ。
で、前スレ1000ゲッチュ~で書いた通りでさ、
架空キャラだが神武即位は、BC660だ。
架空キャラ即位の絶対年代を枉げる事には、何の意味もないんだよ、莫迦。
スレリンク(history板:1000番)

150:日本@名無史さん
20/09/25 09:26:03.48 .net
祇園山とか山門の遺跡とか現地での扱いが雑なのをみると
専門家が卑弥呼の墓や邪馬台国ではないと結論を出したのがわかる
祇園山は保存する気ないだろ
あの石棺が貴重なものなら博物館行きだが野ざらし
山門はいろんな時代の遺跡があるけど3世紀がない

151:日本@名無史さん
20/09/25 09:42:46.77 .net
それにしても「?」このような、謎の書き込みばかり。
たしか広島に親戚もいるし、正確には家()から、嫁に行った。
すとーかーがいるのかな、何なんだろう。

152:日本@名無史さん
20/09/25 09:52:32.79 .net
伊達郡川俣町という、謎の掲示板も?
亀戸?の話をしていたり、老婆も同じ話をしていた。

153:日本@名無史さん
20/09/25 09:56:32.67 .net
北九州説の否定が即ち畿内説勝利には繋がらない点は着目するべき

154:日本@名無史さん
20/09/25 09:57:03.42 .net
親戚か何かなのかな、・・・すとーかー?だったとか。

155:日本@名無史さん
20/09/25 10:03:42.33 .net
その映画の人ではないんだけど、
深作という知人もいたような?父親の知人。

156:日本@名無史さん
20/09/25 10:38:23.25 .net
>>119
>なんかバカな発言多いなと思ったがおまえら文字しか見たことないんだろ
バカだから
なんかバカな発言多いなと思ったが、おまえら大和説者らは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らの文字しか、
見たことないんだろ
バカだから

157:uz
20/09/25 11:30:22.39 .net
>>138
  張政の時点で径百歩の墳墓は箸墓のみだ。
彼はその使命ゆえ、卑弥呼墓の特定ID情報として、径百歩と書かざるを得なかった。
卑弥呼墓は箸墓で確定だ。短里なぞ存在しない。
> 史料事実の曲解や否定の嘘つき騙し//
  それはな、莫迦みたいな文献曲解して大喜びのオ〆に他ならん。

158:日本@名無史さん
20/09/25 11:32:52.95 .net
山守某、仮名というか『』?
そのような雰囲気の顔(雰囲気)だと言いたいんだろう。
たしか他のスレにも書いたことがある、目、鼻の辺りの雰囲気。
父親とも似ていないとかw

159:日本@名無史さん
20/09/25 11:37:02.62 .net
『天財若子』?
『王母 龍宮』傾いた松の木の写真w

160:日本@名無史さん
20/09/25 11:37:07.16 .net
>>129
>>その底面の平面部が、基壇面になる。
>阿呆 平面なら壇じゃない
阿呆。
当然,基壇面の周りの地よりも少し高くして成型するもの。
楽浪太守墓の基壇面は、回りの地面よりも高くなっている。

161:日本@名無史さん
20/09/25 11:45:17.69 .net
その謎の深作某スレw山守某(不明)関係の話。
実際は金子某よりも、西村某に似ている。(と思われる)

162:日本@名無史さん
20/09/25 11:54:52.84 .net
やくざ、暴力団?でもないしな・・・『❓』のような話ばかり。
『暴力団 白い服』同じような写真もある、白い服w

163:日本@名無史さん
20/09/25 12:12:54.34 .net
畿内説有利だの言ってる連中らいないだろ

164:日本@名無史さん
20/09/25 12:13:21.35 .net
北九州王朝だの無いって言ってる連中らもいるだろ

165:あご
20/09/25 12:26:23.24 .net
北九州王朝てなんだよ

166:あご
20/09/25 12:28:52.71 .net
卑弥呼の塚は祇園山古墳で確定ですが、さらなるロマンを追求しましょう。

167:uz
20/09/25 12:35:19.22 .net
>>148 あご
  オ〆の膿味噌はそこに詰まってるのかね。タコみたいな香具師だな。

168:uz
20/09/25 12:36:52.36 .net
>>90
> しかし、70歳近い卑弥呼に寿陵が造られていなかったとは考えにくいよな//
  箸墓が突貫工事で作られたのは、日中の史料で一致している。
卑弥呼墓は、張政時点で唯一の径百歩の粗製円墳だった箸墓で確定だ。
> 箸墓卑弥呼の墓説者は、梯子はずされてんな//
  史料を見落として梯子外してるだけだろ。
> 瀬高町坂田の権現塚古墳だった説も、案外真実味のあることだよな//
  後世に作られた規模の似通った墳墓の一つにしか過ぎんよ。
なお、書紀編者も同じことをしてるな。
つまり、規模の似通った後世墳墓を、神功の墓にしちまって、
彼女を卑弥呼呼ばわりしているな。どうしても卑弥呼の出自を誤魔化したかった訳だ。
まぁ、何で五社神古墳が神功墓なのかは、前々から不思議に思ってたんだが、
存外と単純な誤魔化しだったな。前スレから。
スレリンク(history板:803番)-875n
> 五社神古墳(全長275m)って箸墓(同280m)と同規模だから、
神功墓ってことにしたのかもな、日本書紀は//
>>(前スレ)875 スレリンク(history板:875番)
> 円墳で葬儀済ましたあと、なんで前方部を付け足すのよ//
  粗製円墳だったからに決まってるだろ。レス元等で書いた通りだ。
> 眠りにつくころに、ドカドカデンデンと工事始めたら、祟って出てくるぞ//
  そんな事誰も気にせんよ。倭人伝にも書いたるだろ。
葬儀では大騒ぎするんだとさ。まぁ、今でも同じだがな。

169:あご
20/09/25 12:39:09.04 .net
>>149
香具師wwwwwwwwwwww
おっさんなんちゃいでちゅか~?www
加齢臭くせぇんだよ

170:longinus_bouz
20/09/25 12:43:31.14 .net
>>(前スレ)583 スレリンク(history板:583番)-875n
> 大和の墓は、大手建設会社の試算では、相当な築造期間になる//
  それってさ、人力で土を積み上げる前提なんだろ。
倭人伝には、牛馬なし、なんて書いてあるし。
だがね、それゆえ邪馬台国は牛馬を導入したんだよ、遣使の少し前からさ。
で、いわば重機を使って土木工事を行うようになった。
大和の邪馬台国が抜きん出た生産力を得たのは、それゆえだ。
生産性に欠ける広大な湿地帯だった、古奈良湖とか大和湖を灌漑出来たがゆえだ。
他の地域でも、河川周辺湿潤地の灌漑もしたのだろうが、広大というほどではない。
で、大量の土砂を扱えるようになったが故に、巨大古墳も発生した。
張政が大和で目にしたのは、箸墓のみでなく、
大和のそんな生産性、土木技術の飛躍的向上の瞬間だった、という事だ。
古墳発生の考古学的知見に対しても、何の矛盾も無かろう。
よく、巨大墳墓の前駆的形態、なんて考察がなされるが、これは意味ないね。
巨大墳というのは、突然に発生した、という事だ。
牛馬なしの時代は、有力者の墳墓であっても人力の及ぶ範囲での規模、
以降は重機で出来る規模の墳墓を、有力者は築造できた、という事だ。
>>90 > 寿陵が//
  序に云えば、寿陵なんてさ、公共土木工事に付随してたんだよ。
溜池なんかを作って余った土砂を、小高くて稲作に不向きな場所に積んどいた。
それを墳墓に直せばさ、見晴らしの良いものになるだろ。
古墳が尾根筋に出来てるといった事実にも矛盾すまい。

171:us_bouz
20/09/25 12:46:25.50 .net
>>151
  鳴くなよタコ

172:あご
20/09/25 12:54:16.55 .net
>>153
ちょこちょこコテ変えるの面白すぎるからやめて

173:uz
20/09/25 13:07:14.56 .net
補足>>152
> 生産性に欠ける広大な湿地帯だった、古奈良湖とか大和湖を灌漑//
  本州のことを秋津洲、蜻蛉島なんて称するのも、これゆえなんだろうな。
残余の古大和湖と、接する灌漑地は、農薬なんかは使ってないんだろうから、
蜻蛉類の広大で絶好の生息地・生産地になって、雲霞の如きの発生を見た事だろう。

174:日本@名無史さん
20/09/25 13:39:37.14 .net
>>145
>畿内説有利だの言ってる連中らいないだろ
もう有利ってレベルじゃなくて勝ちで決着だからな

175:日本@名無史さん
20/09/25 13:52:21.26 .net
>>130
>>年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政 継体五 元丁酉(五一七~五二一年)・・・とあり
>丁酉年(西暦517年)から後の569年間、つまり西暦1085年までについて、年号を振りました。
大宝以降は絶え間なく年号あるんでいいのですが、
大化元年から大宝までの55年間は途切れがちで、39年間は年号ありません。
で、この55年間は勝手に年号を振っています、って事だよな。
違うな。人類の常識として、歴史の記録に於いて、「年始」(つまり神武即位元年)と書き始めて、
五百六十九年と書き、続いて「内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と書き
続いて順番に「継体五 元丁酉・・・」と書いたという事は、継体元年(517年)以前に、
年始から継体元年までに、569年と39年があった、と主張しているんだ、という事を示すものだ。
>皇極天皇四年が大化元年なんだからヘンですが、前からそういう事になってるから勘弁してね、
なんて言い訳してるよな、勝手に振った31個の年号を並べた後に、
作成者と思われる三善為康(1049~1139)はさ。
三善為康は、大和王権の神武からの二倍年歴時期や、結縄刻木の臨時使用時期は、
継体からの九州王朝年号の実在を知っていた、というだけだな。
>覧初要集云皇極天皇四年為大化元年 已上百八十四年々号丗一代(不)記年号只人傳言
覧初要集は、九州年号の存在を知らず、大和の書紀の大宝元年の開始を信じた解釈を書いただけ。
>>517-39-569×2=-660
  
>その計算には何の意味も必然性もないだろ。単なる偶然だよ。むろん、1年が2年だったことにもならないよ。
偶然で、569年という年数が書ける訳がない。

176:日本@名無史さん
20/09/25 14:00:13.73 .net
>>132
>祇園山とか山門の遺跡とか現地での扱いが雑なのをみると
専門家が卑弥呼の墓や邪馬台国ではないと結論を出したのがわかる
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「存在もしなかった邪馬台国なんて嘘文言」使うなどの、
史料事実の曲解や否定をした大和説専門家なんて、
まともな人間ではなく、思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師であり、
信頼性は全くないな。

祇園山は保存する気ないだろ
あの石棺が貴重なものなら博物館行きだが野ざらし

177:日本@名無史さん
20/09/25 14:01:50.98 .net
.

中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

.

178:uz
20/09/25 14:03:51.43 .net
>>157
  単に莫迦なだけだね、オ〆はさ。
517年から1085年までの話に過ぎないね。
むろん、1085年ってのは、三善為康(1049~1139)存命中のはなしだよ。

179:日本@名無史さん
20/09/25 14:05:11.05 .net
>>139
>張政の時点で径百歩の墳墓は箸墓のみだ。
「径百余歩」は「長径が25.5~30m位」であり、
箸墓は「大和での布留1」であるから4世紀であるから、
×だ。

180:日本@名無史さん
20/09/25 14:06:35.34 .net
>>142
楽浪漢墓は乾燥地域の黄河流域と同じ地下に大きな木槨、塼槨を造った埋葬なので根本的に違う
回りの地面よりも高いのは基壇ではなくて墳丘

181:日本@名無史さん
20/09/25 14:07:48.54 .net
>>147
>北九州王朝てなんだよ
「正北抵新羅」と説明された「倭國の王朝」だ。

182:日本@名無史さん
20/09/25 14:09:54.85 .net
>>149
uzとやらの、
オ〆の膿味噌はそこに詰まってるのかね。
タコみたいな香具師だな。

183:日本@名無史さん
20/09/25 14:13:08.75 .net
>>150
>卑弥呼墓は、張政時点で唯一の径百歩の粗製円墳だった箸墓で確定だ。
否定済みだ。

184:日本@名無史さん
20/09/25 14:19:24.00 .net
>>152
>倭人伝には、牛馬なし、なんて書いてあるし。
だがね、それゆえ邪馬台国は牛馬を導入したんだよ、遣使の少し前からさ。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
倭人伝には「其地無牛馬虎豹羊鵲」と記録されているから、
「遣使の少し前から牛馬を導入した」も×、だ。

185:日本@名無史さん
20/09/25 14:26:20.04 .net
>>157の訂正
>>年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政 継体五 元丁酉(五一七~五二一年)・・・とあり
>丁酉年(西暦517年)から後の569年間、つまり西暦1085年までについて、年号を振りました。
大宝以降は絶え間なく年号あるんでいいのですが、
大化元年から大宝までの55年間は途切れがちで、39年間は年号ありません。
で、この55年間は勝手に年号を振っています、って事だよな。
違うな。人類の常識として、歴史の記録に於いて、「年始」(つまり神武即位元年)と書き始めて、
五百六十九年と書き、続いて「内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と書き
続いて順番に「継体五 元丁酉・・・」と書いたという事は、継体元年(517年)以前に、
年始から継体元年までに、569年と39年があった、と主張しているんだ、という事を示すものだ。
>皇極天皇四年が大化元年なんだからヘンですが、前からそういう事になってるから勘弁してね、
なんて言い訳してるよな、勝手に振った31個の年号を並べた後に、
作成者と思われる三善為康(1049~1139)はさ。
三善為康は、大和王権の神武からの二倍年歴時期や、結縄刻木の臨時使用時期や期間や、
継体からの九州王朝年号の実在を知っていた、というだけだな。
>覧初要集云皇極天皇四年為大化元年 已上百八十四年々号丗一代(不)記年号只人傳言
覧初要集は、九州年号の存在を知らず、大和の書紀の大宝元年の開始を信じた解釈を書いただけ。
>>517-39-569×2=-660
  
>その計算には何の意味も必然性もないだろ。単なる偶然だよ。むろん、1年が2年だったことにもならないよ。
偶然で、569年という年数が書ける訳がない。

186:日本@名無史さん
20/09/25 14:27:46.31 .net
>>158の訂正
>祇園山とか山門の遺跡とか現地での扱いが雑なのをみると
専門家が卑弥呼の墓や邪馬台国ではないと結論を出したのがわかる
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「存在もしなかった邪馬台国なんて嘘文言」使うなどの、
史料事実の曲解や否定をした大和説専門家なんて、
まともな人間ではなく、思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師であり、
信頼性は全くないな。

187:日本@名無史さん
20/09/25 14:33:36.58 .net
>>162
>楽浪漢墓は乾燥地域の黄河流域と同じ地下に大きな木槨、塼槨を造った埋葬なので根本的に違う
回りの地面よりも高いのは基壇ではなくて墳丘
地面よりも高い部分は、墳丘部に対する基壇。

188:日本@名無史さん
20/09/25 14:40:13.58 .net
>>169
チョンのデタラメ

189:日本@名無史さん
20/09/25 14:42:52.39 .net
深作某というスレ、老婆と同じ話をしているしな。
>「おまえは、どこのワカメじゃ」
サザエさん?母親という人だけが、裸足、素足に草履(下駄?)

190:日本@名無史さん
20/09/25 14:45:11.36 .net
>>168
この竹島どろぼう反日有害活動悪口団員は
日本の学者も行政機関も教育機関も政治家も罵っている
デマだけを根拠としている歴史改竄活動員

191:日本@名無史さん
20/09/25 14:50:26.22 .net
サザエさんの作者も生まれていない頃の写真だと言っているし、
おかしな話ばかり。
葱の華のほうにいる(写っている)んだけどw

192:日本@名無史さん
20/09/25 14:53:42.98 .net
家の写真なんだけどな・・・?
とある漫画関係のスレによると。
誰かに、あげたり、配ったりしていたんだろうw
という話をしている人もいるり。

193:あご
20/09/25 14:54:13.75 .net
>>149
久しぶりの釈迦坊主なのか?

194:あご
20/09/25 14:57:41.05 .net
>>159
弥生人が沿海州人とかいうのはガチでキチガイです。

195:日本@名無史さん
20/09/25 14:59:15.90 .net
>>142
>阿呆。
>当然,基壇面の周りの地よりも少し高くして成型するもの。
結論でたな
成形された基壇が存在しない祇園山は
冢の大きさ=墳丘の大ぉさ

196:日本@名無史さん
20/09/25 15:01:08.77 .net
すべて、ほんとーの話。
老婆によると、何かの制服を着ている子供がいて、
軍人でもない、警官でもない?親も、そういう職業ではない。

197:あご
20/09/25 15:05:32.01 .net
>>160
莫迦坊主はインチキ、ペテンのチンピラ

198:日本@名無史さん
20/09/25 15:10:36.10 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

199:日本@名無史さん
20/09/25 15:13:04.39 .net
謎の深作某というスレ、読んでみた?
>泣かんの、泣かんのじゃ
「❓」

200:日本@名無史さん
20/09/25 15:15:26.22 .net
武内宿禰だって、子孫が何台にも渡って使えてただけの話。
卑弥呼だって姫巫女の役職名。、
まずはそこから

201:日本@名無史さん
20/09/25 15:17:36.27 .net
『天財若子』w『王母 龍宮』?
名前?読み方も何やら・・・言っていたことがあるし。

202:日本@名無史さん
20/09/25 15:20:43.98 .net
九州王朝というか、ぶっちゃけ物部氏だけど、昭和40年代あたりまで、相当に隠されてきたからね、出雲の歴史も含めてだけど。
王朝制があったかどうかより、記紀にそぐわない歴史かどうかが特に問題視された。
三輪山の東の出雲集落も結構いじめられてて伝わってる伝承を語り始めたのなんてつい最近

203:日本@名無史さん
20/09/25 15:40:56.09 .net
>>152
時系列ちゃんと把握してから、書き込みしてね。
馬が飼育されるようになるのは5世紀中頃から。
卑弥呼の時代は3世紀前半。
この時代、土木工事はみな人手。
箸墓つくるのに、いったい何年かかるのよ。
それ

204:日本@名無史さん
20/09/25 15:50:07.81 .net
>>177
必死やな。
赤黒山が整形されていることは、福岡県教育委員会の報告書に書かれているわ。
今の議論は、その整形された赤黒山を基壇と呼ぶかどうかということ。
整形された部分の最上部の平坦地に方墳が載っているのだから、
方墳を載せている整形部分を基壇というのはあたりまえの話。
頭、何かで打った後遺症があるのと違う?

205:日本@名無史さん
20/09/25 16:00:32.15 .net
>>152
>寿陵なんてさ、公共土木工事に付随して…小高くて稲作に不向きな場所に積んどいた。それを墳墓に直せば…
寿陵の元になるマウンドの由来についてはいろいろ説はあるだろうけど、
そのマウンドを整形して寿陵とすることには何の問題もないな。
権現塚が卑弥呼の寿陵であることは、まず間違いない。

206:日本@名無史さん
20/09/25 16:08:54.23 .net
>>150
>箸墓が突貫工事で作られたのは…
だからよ、大和の場合、卑弥呼が死んだときに埋葬する寿陵をすでに造っているのに、
そこに埋葬しないで別に突貫工事で箸墓作ったのはどういう事情があったのか、ちゃんと説明してよね。

207:日本@名無史さん
20/09/25 16:13:17.55 .net
>>148
次のロマンは、卑弥呼の寿陵ですね。
卑弥呼の里の山門には、卑弥呼のために寿陵が造られていました。
それが瀬高町坂田にある権現塚です。
ありし日の山門の残像が浮かぶではありませんか。
秋の夕日に映える卑弥呼の寿陵へ、コロナ旅してみませんか。

208:日本@名無史さん
20/09/25 16:25:52.86 .net
>>186
県教育委の報告書の概要に書かれているのは
整形されているのは地山の高さの約1/4
祇園山古墳と裾は4世紀初からの集団墓地

209:日本@名無史さん
20/09/25 16:47:55.19 .net
>>190
県教育委員会の報告は、高さ10mほどの赤黒山を4分の1程度の高さ(2.5m)の方形台状に削り出して整形し、その上に方墳を造ったというもの。
その方墳は高さ6mというのだから、それを載せる2.5mの高さの方形台状部分は立派に基壇だろよ。
基壇のその底部の楕円形のさしわたしが60mで、倭人伝の径百歩(倭人の半歩=70m)とほぼ重なるということ。
つまり、祇園山は卑弥呼の墓だ。

210:日本@名無史さん
20/09/25 16:48:20.49 .net
>>172
>>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「存在もしなかった邪馬台国なんて嘘文言」使うなどの、
史料事実の曲解や否定をした大和説専門家なんて、
まともな人間ではなく、思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師であり、
信頼性は全くないな。
>この竹島どろぼう反日有害活動悪口団員は
日本の学者も行政機関も教育機関も政治家も罵っている
デマだけを根拠としている歴史改竄活動員
おや?、東大理系博士号自称の、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定も嘘つき騙しの詐欺師の大和説男がまた出て来たな。
この男は、どういう方法なのか?は知らんが、
私の投稿の発信局を調べて「神戸」と突き止め、
更に私のPCにまで侵入して電話番号まで突き止めて、
PCを使えなくしたようなんですよ。
だから、私はNTTに来て貰って、修繕して貰い、初期化をして、
今使っているんですよ。
だから、播磨で後期高齢のおじいさんが突然殺されたら、
犯人は東大理系博士号自称男だ、と言って来たんですよ。
またこの男の身元は、5cっは知っている、と思いますよ。

211:日本@名無史さん
20/09/25 16:54:12.35 .net
>>191
「底辺長は東西約二五M、南北約二四Mとなる。これを基部にして、上部に盛り土がなされるが、
基部の地山整形作業は裾部外周にも及び、辺により異なるものの、三~十三Mの幅で平坦面を設けている。」
削出し、盛り土で整形した底辺は広いところで25m+13m
59mというのは整形していない地山の裾
URLリンク(wwr2.ucom.ne.jp)
祇園山の基壇というのはお前ら反日朝鮮部落民しか使っていない

212:日本@名無史さん
20/09/25 16:55:57.17 .net
>>192
お前のPCがボロなだけ

213:日本@名無史さん
20/09/25 17:10:18.92 .net
>>192
病気?

214:日本@名無史さん
20/09/25 17:10:28.98 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)

馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

215:日本@名無史さん
20/09/25 17:17:40.96 .net
>>191
>県教育委員会の報告は、高さ10mほどの赤黒山を4分の1程度の高さ(2.5m)の方形台状に削り出して整形し、その上に方墳を造ったというもの。
報告書読んでないだろう
おまえ、デタラメ書いてるぞ

216:日本@名無史さん
20/09/25 17:23:43.13 .net
>>192
議論の、邪魔。

217:日本@名無史さん
20/09/25 17:38:49.52 .net
九州の卑弥呼の里とかやってるところが息してないお

218:日本@名無史さん
20/09/25 17:55:10.22 .net
>>180
まーだやってらっしゃるのか

「大和忌部」陵 ← 黒塚古墳(天理市)
「東海忌部」陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

219:日本@名無史さん
20/09/25 18:33:22.65 .net
機能不全に陥った韓国式畿内説にしがみつく脳機能不全の奥山あわれ

220:日本@名無史さん
20/09/25 18:34:28.25 .net
恵太郎おる?

221:日本@名無史さん
20/09/25 18:47:26.95 .net
>>194
>お前のPCがボロなだけ
お前ら東大理系博士号男ら大和説者らの脳がボロなだけ。

222:日本@名無史さん
20/09/25 18:49:13.81 .net
>>195
スレ主や東大理系博士号や大和説者らは、脳の病気?。

223:日本@名無史さん
20/09/25 18:49:52.62 .net
奥山の出た東大って東大阪大学付属高校の事だよ

224:日本@名無史さん
20/09/25 18:51:08.80 .net
>>198
スレ主や東大理系博士号や大和説者らは、
まともな古代史議論の邪魔。

225:日本@名無史さん
20/09/25 19:04:15.14 .net
>>206
シンプルに頭おかしいな君。

226:日本@名無史さん
20/09/25 19:06:02.81 .net
九州説は偽情報流しすぎ

227:longinus_bouz
20/09/25 19:10:06.24 .net
>>185
> 馬が飼育され


228:るようになるのは5世紀中頃から//   牛については? 5世紀中頃から、については、馬の埴輪についてはそんなもんだろうから、 乗り物としての普及は、そんなもんだとしても、 重機としての牛馬の使用は、もっと前でも矛盾はせんだろ。 想定済みの、てか、それくらい考えろよなハナシをさ、 エロそうに書くには及ばんのだよ。オ〆って、全然ダメな香具師だね。 > 卑弥呼の時代は3世紀前半。この時代、土木工事はみな人手//   それではさ、唐突な巨大古墳の登場の説明が付かないんだよ。 卑弥呼が急死した3世紀中葉こそが、灌漑工事に重機たる牛馬がもたらされ、 土木技術、農業生産性が飛躍的に向上した時点だったんだよ。 古墳発生の考古学的知見に対しても、何の矛盾も無かろう、 とレス元に書いただろ、アホ。 > 箸墓つくるのに、いったい何年かかるのよ//   突貫工事で出来る時代に立ち入った瞬間だったんだよ。 書紀と魏志の記述は一致している。 >>188 > 卑弥呼が死んだときに埋葬する寿陵をすでに造っているのに//   いつ箸墓が寿陵だった事になったのかね。 > そこに埋葬しないで別に突貫工事で箸墓作ったのはどういう事情があったの//  「そこ」・寿陵なぞ存在せず、一から突貫工事をしたんだよ。 土木技術が飛躍的に向上した時点だったんだんだからさ、 余った土砂を蓄積して再利用するというシステムまでは構築されてなかったという事だ。 それに、繰り返すが、突貫工事だった事は、日中の史料で一致している。 オ〆もまた、全然ダメな香具師だね。



229:uz
20/09/25 19:20:40.61 .net
>>187
> マウンドを整形して寿陵とすることには何の問題もないな//
  余った土砂を蓄積して再利用するというシステムまでは構築されてなかった、
という事だ。>>209 後段記載の通りでな。「マウント」・寿陵なぞ存在しなかった。
> 権現塚が卑弥呼の寿陵であることは、まず間違いない//
  時代も合わない規模だけ近い墳墓なぞ、ハナシにならんよ。
レス元記載の通りだ。オ〆もまた、全然ダメな香具師だね。
粗製箸墓が当時で唯一の径百歩の円墳だったこと、
この時代に土木技術・農業生産性が飛躍的に伸びて、巨大古墳が突然発生した事、
突貫工事については日中史料が一致していること、等々、
オ〆のヨタバナシは、何一つ説明できない。
そして、これらは私の仮説においてのみ、矛盾なく説明しうるんだよ。

230:日本@名無史さん
20/09/25 19:23:48.34 .net
>>193
宝賀が書いている部分と、県教育委員会の報告概要の文を合わせると赤黒山の墳丘は次の通りだ。
赤黒山の高さは10m程度だった。
最上部の方墳の高さが6m、その下の整形台状部の高さが2.5m。
したがって、赤黒山の整形箇所は、方墳の切り取り部分も含めて上から下へ8.5mの高さまでということになる。
で、その下の元々の山の楕円形の部分が10m-8.5m=1.5mという計算になる。
方形のかたちに整形したのは、その平地部から1.5mの高さの位置より上ということだ。
整形しなかったのは、その1.5m部分の自然斜面が雨風で崩れるのを防ぐだめだろう。
棺の位置が描かれている平面図は下のアドレスだ。
URLリンク(kofunmeguriwalking.web.fc2.com)
その1.5mの高さの地山部分の西側の等高線は、整形部分から下の平地面までが密になっていて、斜面が連続しているように見える。
東側はゆるやかなスロープ状の斜面であることが分かる。
この平地面から1.5mの高さまでの斜面には、棺が7基みられることから、この1.5mの高さの部分もその上の方形斜面につながるものとみなされたことが分かる。
したがって、墳丘の差し渡しは平地面で計るのがよく、東西で60mになるということだ。
もちろん、方墳部分だけを墳丘とみなすのなら、一辺23~24mということになる。
今、祇園山古墳と呼ばれるのはこの方墳部分であるが、それより下がその方墳を支える墳丘とされたことは言をまたない。

231:日本@名無史さん
20/09/25 19:38:19.16 .net
前前スレが終了してから書き込んでください。
邪馬台国畿内説 Part641
スレリンク(history板:1番)

232:日本@名無史さん
20/09/25 19:56:54.55 .net
>>211
>最上部の方墳の高さが6m、その下の整形台状部の高さが2.5m。
おまえ、知能低いなあ
それならどうしてその「整形台状部」が現存しないんだ

233:日本@名無史さん
20/09/25 20:05:00.58 .net
>>211
10mの台地の約1/4(2.5m)を地山から方形台状に削り出して
上部に盛り土したんだから10mから盛り土分を引いたらだめだろw

234:日本@名無史さん
20/09/25 20:16:14.21 .net
前方後円墳を早期に築造出来る企画者は中国人だけ。

235:uz
20/09/25 20:19:46.65 .net
>>215
  だったらそれを導入すればエエんだよ。
てか、それをしたのが邪馬台国だった、という事だ。

236:日本@名無史さん
20/09/25 20:23:43.50 .net
>>211
あなたマジで日本語読めない人?
九州説って馬鹿しかいないの?
「その高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、この削出しの範囲は、西辺を除けば、いずれも葺石最下段線よりも広
く、底辺長は東西約二五M、南北約二四Mとなる」

237:日本@名無史さん
20/09/25 20:25:30.27 .net
畿内説は論文読めないからなあ

238:コテ略
20/09/25 20:33:50.92 .net
>>218
  オ〆は読んでるんじゃなくて、見てるだけだろアホ

239:日本@名無史さん
20/09/25 21:08:48.47 .net
>>217
宝賀は、こうした説明文を書く才能がないと思う。
つまり、指示名詞を使わないから、その数字やその箇所がどの部分について言っているのか、まるで分からんということだ。
図を入れて、その図に沿って、説明するなら分かりやすいが、宝賀の文章はよく分からんのよ。
で、読む者が混乱を起こす。
先にも書いたように、平地面から上へ1.5mの高さが元々の地山の斜面。その1.5mの上部の2.5mの高さの斜面が方形の台状整形部分。
そして、その台状の頂上部の平坦部から上の6mが方墳部分となる。
このような説明をすると、一応は理解できるだろう。
このうち、平地面から上の1.5mと2.5mの合計4mの高さまでの斜面に棺が埋められているわけ。
台状の斜面の最上部の平坦地より上の方墳部分には、棺はまったく埋められていない。
したがって、平地面から台状最上部の平坦地までが、方墳を支える墳丘とみなされるということ。

240:日本@名無史さん
20/09/25 21:09:21.11 .net
>>216
>てか、それをしたのが邪馬台国だった、という事だ。
てか、それをしたのが倭国(阿波)の「忌部はん」 だった、という事だ。   @阿波

241:日本@名無史さん
20/09/25 21:21:22.80 .net
.

中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

.

242:日本@名無史さん
20/09/25 21:30:01.59 .net
>>220
URLリンク(kofunmeguriwalking.web.fc2.com)
この祇園山の平面図の左側(東側)の中段部分に等高線が乱れている箇所が3か所集中している。
そこは斜面整形中に崩落した箇所だ。そこにも棺が埋められているから、斜面整形後に棺を埋めたことが分かる。
この崩落で斜面が崩落しやすい基盤であることが分かり、その箇所より下の整形は放棄されたということだろう。
この考えが正しければ、地山斜面の整形は平地面まで行われるのが当初の予定だったということになる。
だから、方墳を支える台状の墳丘裾部の平地に接する1.5mの高さの部分が地山の自然斜面として残こされることになったということだな。

243:日本@名無史さん
20/09/25 22:55:02.73 uOZ6nUPlY
 「YOUTUBE  見れば見るほど 九州説」 (詠み人知らず)

244:コテ略
20/09/25 22:13:13.88 .net
>>221
  アタマ悪い癖して無理に涌かんでもエエんんだよ、孑孑

245:日本@名無史さん
20/09/25 22:51:21.11 .net
>>220
おいおい
なにまた捏造してんの
削り出された台状の部分は「方形」で24、5m四方しかないんだぞ
中央大型箱式石棺以外の小墓はみな削り出しの外側の地山にあるんだ
妄想はやめろ

246:日本@名無史さん
20/09/25 23:00:38.82 .net
>>208
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者は、
その他にも、思想宗教的なな詐術的な偽情報を、
流しすぎ

247:日本@名無史さん
20/09/25 23:05:28.52 .net
>>209
>卑弥呼が急死した3世紀中葉こそが、灌漑工事に重機たる牛馬がもたらされ、
土木技術、農業生産性が飛躍的に向上した時点だったんだよ。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」に拠って、×。

248:日本@名無史さん
20/09/25 23:08:56.07 .net
>>210
>粗製箸墓が当時で唯一の径百歩の円墳だったこと
箸墓は、径百歩ではないし、円墳でもないし、4世紀だから卑弥呼の墓ではないから、×。

249:あご
20/09/25 23:42:49.47 .net
沿海州ブタとボウズの共演

250:日本@名無史さん
20/09/25 23:51:55.47 .net
箸墓は台与陵
卑弥呼は狗奴国との戦時中に亡くなってるから箸墓のような国力を削ぐ巨大陵を
築造している余裕などないはず
埴輪がある点も3C半ばでは早すぎる
3C後半に築造された大王陵で被葬者が女性であるなら、卑弥呼でないならば
台与としか考えられないではないか
卑弥呼→男王→台与→男王という流れなのだから
ゆえに箸墓は台与陵で百襲姫は諡号で台与が幼名か諱

251:日本@名無史さん
20/09/25 23:54:43.89 .net
>>229
理屈抜き、言い張るだけかよ九州説


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