邪馬壹國は北部九州に在ったpart6at HISTORY
邪馬壹國は北部九州に在ったpart6 - 暇つぶし2ch2:九州王
17/06/10 10:51:33.05 .net
里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

3:九州王
17/06/10 10:52:18.53 .net
帯方郡~倭の世界
帶方郡         郡 治
 ↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
 萬                                    投
          到 狗邪韓國                    馬
 二                               水     國
-  ----------------↓----------------------  --------
 千  度海1,000里                     行
             對馬國  方可400里(800里)
 餘  渡海1,000里  ↓                  10
             一大國  方可300里(600里)          女
 里  海渡1,000里  ↓                   日   邪
 ↓           末盧國
 ↓  陸行  500里  ↓              陸行1日(1月) 王
 ↓        到 伊都國(女王の都)             馬
 ↓      100里  ↓ 100里
自女王國       奴  國→不彌國→斯馬國           國
               ↑            ↓          壹
             烏奴國   周   已百支國
               ↑     旋     ↓
             支惟國   可   伊邪國         國
               ↑     五     ↓
             巴利國   千   都支國
               ↑     里     ↓
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
              狗 奴 國

4:日本@名無史さん
17/06/10 10:57:24.09 .net
九州王さんスレ立て乙です。
貴重な議論の場をありがとうございます。

5:日本@名無史さん
17/06/10 11:01:30.53 .net
さぁ、阿波説で盛り上がりましょう。

6:日本@名無史さん
17/06/10 14:16:22.45 .net
陸行1月は2倍暦により実質半月なのである

7:日本@名無史さん
17/06/10 14:23:07.43 .net
東周りで末廬國→斯馬國→伊都國→不彌國→奴国  西回りで已百支國→伊邪國→
都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國→奴国
周旋5千里

8:日本@名無史さん
17/06/10 14:34:30.81 .net
邪馬國ってのが気になる。

9:日本@名無史さん
17/06/10 14:39:12.05 .net
倭人伝の時代において中華の認識は
1万2千里、朝鮮半島までですでに半分は来ているという認識だった。
国の名前は当て字なので実際がどうかは知らないけど、
九州北部以外にはあり得ない。

10:九州王
17/06/10 17:33:30.30 .net
「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國~奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国~不彌國100里を足したもの。

11:日本@名無史さん
17/06/10 18:51:16.06 .net
>>10九州王
>「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
涙ぐましい捏造。 ご苦労さん。
短銃に「周旋可五千餘里」とは、倭地(四国)一周の推定距離なんですよ。

12:日本@名無史さん
17/06/10 18:52:03.34 .net
「単純に」

13:日本@名無史さん
17/06/10 20:47:44.25 .net
>>10
まあだいたい福岡県内で、佐賀まで含むかどうかですね

14:日本@名無史さん
17/06/10 21:08:25.86 .net
>>10九州王
>「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
涙ぐましい捏造。 ご苦労さん。
単純に「周旋可五千餘里」とは、倭地(四国)一周の推定距離なんですよ。

15:日本@名無史さん
17/06/10 22:27:23.52 .net
吉野ケ里やら各地の遺跡をあてはめたくなるところだが、
狗奴国との境界が確定しないと無理だな
いかんせん情報が国名しかないから当てはめようもない

16:日本@名無史さん
17/06/10 22:47:48.04 .net
>>7
補足、伊都国経由の東周りで2千里、西回りの長崎、佐賀の山沿い経由で3千里
合計5千里なのである

17:日本@名無史さん
17/06/10 22:48:59.87 .net
>>15
狗奴国との境界は矢部川あたりであろう

18:日本@名無史さん
17/06/10 22:59:08.15 .net
>魏志「倭人」伝
「倭国」伝ではない
つまり、倭国大乱とは邪馬台国と狗奴国による倭国王争奪戦であるから
同時代の魏志としても
まとまった倭国とは書けず、倭人伝、そして倭と表記した。

>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里
帯方郡から船で南行して東行して
七千余里で「倭」に到着している。

19:日本@名無史さん
17/06/10 23:00:47.38 .net
長崎県・・・対馬国、一支国、末廬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國
       姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、 鬼國、爲吾國、鬼奴國
佐賀県・・・ 末廬國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、邪馬台国(女王国含む)
福岡県・・・斯馬國、伊都國、不彌國、奴国、邪馬台国の一部含む
熊本県・・・狗奴国
宮崎南部、鹿児島・・・投馬国

20:日本@名無史さん
17/06/10 23:03:04.31 .net
狗邪韓国も倭国の範囲である

21:日本@名無史さん
17/06/10 23:05:32.87 .net
>>20
正確には倭の範囲内ということですね
倭国は倭国大乱前の北部九州国家
魏志倭人伝の時には邪馬台国と狗奴国に分裂しています

22:日本@名無史さん
17/06/10 23:08:41.87 .net
倭国大乱とは伊都国、邪馬台国のアマテラス系と奴国のスサノオ系との争いであった

23:日本@名無史さん
17/06/10 23:10:55.33 .net
>到伊都国 ~ 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐
伊都国には王様がいて、
(伊都国をはじめとして奴国など26国を含む)邪馬台国のみんなは、
今の女王卑弥呼がいる女王国伊都国に統属している。
帯方郡の使者が往来して駐在するのは、
まぎれもなくこの伊都国である。

24:日本@名無史さん
17/06/10 23:13:44.37 .net
伊都国、邪馬台国は秦氏の国である

25:日本@名無史さん
17/06/10 23:22:03.75 .net
>南至邪馬壹国 女王之所都
邪馬台国とは、女王が伊都に都をおいて支配している国である。

26:日本@名無史さん
17/06/10 23:27:14.27 .net
>自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶
女王国伊都国より北は、詳しくわかる
女王国伊都国より遠くは、わからない
>郡使往来常所駐
帯方郡からの使者は女王国伊都国に駐在して
そこまでで帰っていくのだから
女王国伊都国より遠くはわからない

27:九州王
17/06/10 23:27:45.20 .net
投馬國は朝鮮半島南岸、狗邪韓国を中心とした地域
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)
狗奴國は南部九州2県(鹿児島、宮崎)
邪馬壹國の中の女王の都が伊都国
自女王國以北・・・女王国最大の国邑である奴国以北のこと
女王國東渡海千餘里・・・この場合は女王国の東の端から

28:日本@名無史さん
17/06/10 23:33:58.28 .net
親魏倭王であって、親魏倭国王ではないですし、
倭王、倭女王、であって、倭国王にはなっていないので、
卑弥呼と台与は倭国=北部九州を統一しきれなかったことがわかります。
後の景行天皇によって統一されたのでしょう。

29:日本@名無史さん
17/06/10 23:51:04.74 .net
270年まで、大和朝廷は九州を知らない、
出雲は九州との青銅貿易を隠していた。
270年の九州平定で馬の輸入を始めた。
この時の土地感覚は九州も半島も同様。
対中外交の必要で銅鐸から巨大古墳文化への
富国強兵の政策転換となった。
700年制神話の九州はデタラメである。

30:日本@名無史さん
17/06/10 23:52:49.83 .net
>270年まで、大和朝廷は九州を知らない
え?
日向三代は?
え?
神武東征は?

31:日本@名無史さん
17/06/11 00:09:25.70 .net
>>22
邪馬台国は伊都国にあったけれど、アマテラス天孫族ではない。
おそらく肥国姫氏王家の出自で、狗奴国王と近縁だった。
だからこそ、王位をめぐる争いになり得た。
卑弥呼が天孫族で狗奴国が他民族だったら、征伐して終わりだったろうし、卑弥呼の名前は記紀に残っただろう。

32:日本@名無史さん
17/06/11 00:12:01.15 .net
>>28
それは屁理屈だな。
表記のブレはあるとしても、実質的に倭国王に冊封されていた扱いだよ。
呉王をわざわざ呉国王とは書かないだろう?

33:日本@名無史さん
17/06/11 00:16:29.46 .net
>>32
最初に言っておきますが、私も伊都国説ですよ。
漢倭奴国王
親魏倭王
比べてみるとわかりますし、
倭人伝の記載でも、台与も狗奴国に苦戦しています。
卑弥呼も台与も、倭国統一を成し遂げていません。

34:日本@名無史さん
17/06/11 06:13:53.18 .net
筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷

35:日本@名無史さん
17/06/11 07:18:21.53 .net
>>34
>畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷
九州→大和朝廷へ結びつけんがための、愚創作

36:日本@名無史さん
17/06/11 07:21:50.34 .net
>>34
その通りです

37:日本@名無史さん
17/06/11 07:23:44.52 .net
「糸国」症候群

38:日本@名無史さん
17/06/11 07:37:45.19 .net
>>35
その通りです

39:日本@名無史さん
17/06/11 09:00:42.52 .net
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Q 米、小麦を食べてる人は統合失調症、うつ病、身体障害者なんですか
A そうです

40:日本@名無史さん
17/06/11 12:02:43.33 .net
卑弥呼が、つまり邪馬台国が倭国統一を成し遂げていないのであれば、
定義上は倭国王ではないわけで、
そうなると、事績としては大きいのだが、
倭国王の系譜に記載する必要性が必ずしもあるわけでは無い、
ということになる。
倭国大乱の前の男王達、これは紛れもなく倭国王であるのだが、
倭国大乱中は、倭国王は存在せず、
存在するのは邪馬台国王と狗奴国王だけ。
その後の中国史書では倭国の表記が復活するのと、
4世紀の紀年国産鏡が卑弥呼の事績を讃えていることから、
台与以後のいずれかの時点で、邪馬台国側が倭国再統一を成し遂げたのであろう。
倭国再統一後の倭国王は、王の系譜に記載される資格を持つわけだ。

41:日本@名無史さん
17/06/11 14:46:51.00 .net
>正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣「倭国」、拝假「倭王」
倭国に詣で、倭王に拝した・・・、とあるから、
そのときすでに「倭国」は誕生しており、その王(倭王、卑弥呼)もいた、で良かろう。、

42:日本@名無史さん
17/06/11 15


43::01:59.40 .net



44:日本@名無史さん
17/06/11 15:42:12.35 .net
九州には二十数か国の連同国、邪馬台国とその南の敵国、狗奴国等が有り
周代より100異郷の国が朝貢に訪れている。
九州の東の海を渡るとそこにも倭種の国が数百有る。
大和朝廷が本州を平定したのは漢代以降で九州は270年である
中国は百済、新羅が統一される350年以前の辰韓の一国新羅も国と認めている。
戦乱の中国は臣下となる者すべての小国と国家外交を結ぶ傾向にあった。
高句麗、新羅、百済は韓四国を浸食したため、
中毒の直轄領または属国となった。
日本は九州を含めた、日本列島の島国としての独立を図り
700年の古事記日本書紀を編纂し、それ以前の歴史を消した。
ある程度は、中国系の史記を消せないのと、考古学的立証が出来ている。
九州発祥神話、邪馬台国畿内説、銅鐸の謎、古墳発生の理由
は、古代史のミスリードを誘う愚民化。

45:日本@名無史さん
17/06/11 15:42:16.18 .net
「倭国」とは列島側の呼称ではなく、あくまでも中国側からの呼び名にすぎない。
列島の30国の連合国の総称などはまだ存在していない。
だから「倭国伝」ではなく「倭人伝」であり、「親魏倭王」なんだな。

46:日本@名無史さん
17/06/11 16:05:19.49 .net
畿内ヤマト政権の誕生は285年である

47:日本@名無史さん
17/06/11 16:15:38.11 .net
奈良大和朝廷の誕生は8世紀からである

48:日本@名無史さん
17/06/11 16:54:02.55 .net
大宰府から奈良に遷都したのは倭国が壬申の乱でヤマトに勝ったあとである

49:日本@名無史さん
17/06/11 17:08:29.42 .net
その前に太宰府から大津近江京に遷都してなかったか?

50:日本@名無史さん
17/06/11 17:10:13.39 .net
3世紀の倭国王は卑弥呼であるというのが魏の立場だよ。
それが冊封の意味するところ。
そして倭国とはそもそも九州北部を指す言葉。
それ以外は倭種と呼ばれていた。
ただし卑弥呼が筑紫天孫族でなければ、ヤマト政権としては史書に記録する必要はなくなる。
そもそも、九州王朝というのは俗称で、その正式な名称が倭国というのが、最初に提唱した古田氏の意見だったはず。

51:日本@名無史さん
17/06/11 17:23:23.76 .net
大津近江京に遷都したのは畿内ヤマトの天智である、九州倭国とは関係ない

52:日本@名無史さん
17/06/11 17:49:20.32 .net
>>49
所詮戦乱大陸の魏の立場は畿内朝廷と関係無いけど、それが有るから、
400~500年の半島利権交渉は南朝の建康との外交になったかもね。
朝廷は270年には対馬貿易を独占し、
すでに平定済みの東国、甲斐、信州で高句麗牧童も連れて
牛馬の御牧を勅営して、400年にはこれに成功している。
銅鐸文化社会、西国、東国の事情、馬を知らない、
邪馬台国のような弱小九州豪族の東遷では間に合わない。
東国の開拓には最低でも始皇帝の悪政、古墳を知っている渡来人が関係している。
わざわざ、日本式前方後円墳にしようが、それは前例が有るし、
騎馬戦、海戦を知らずに、いきなり船団や、騎馬兵団は生まれない。
徐福の後継やそれ以降の情報を持った
対馬航路以外の渡来人が含まれていても、当然かまわない。

53:日本@名無史さん
17/06/11 18:14:55.42 .net
壬申の乱は九州
URLリンク(www.geocities.jp)

54:日本@名無史さん
17/06/11 18:15:23.18 .net
>>51
>朝廷は270年には対馬貿易を独占し、
根拠がない。
>わざわざ、日本式前方後円墳にしようが、それは前例が有るし、
那珂八幡古墳など、九州の古墳の様式が伝播した。
>騎馬戦、海戦を知らずに、いきなり船団や、騎馬兵団は生まれない。
海戦は海人氏と呼ばれた筑紫倭国が得意とするところである。
騎馬は後から伝わった。
>徐福の後継やそれ以降の情報を持った
徐福が到着したのは九州だ。

55:日本@名無史さん
17/06/11 18:32:44.87 .net
>>53
>那珂八幡古墳など、九州の古墳の様式が伝播した。
鳴門の萩原墳墓群など、阿波の積石塚の様式が伝播した。

56:日本@名無史さん
17/06/11 18:42:58.01 .net
>>53
>海戦は海人氏と呼ばれた筑紫倭国が得意とするところである。
海戦は海人氏と呼ばれた倭国(阿波)海部(出雲地方)が得意とするところである。

57:日本@名無史さん
17/06/11 18:49:39.14 .net
>>52
大津近江京は熊本の大津にあったということなのか?

58:日本@名無史さん
17/06/11 18:54:39.94 .net
天智天皇は直前に太宰府の水城を
修復したりしている。
天智は九州王朝の王だろう。
大津近江京に疎開したが、
畿内の天武天皇にクーデターを起こされ失脚。
大和朝廷は畿内派のものとなる。
ただし、連れてきた官僚の多くはそのまま雇用され
大和朝廷の迅速な設立に役立っている。

59:日本@名無史さん
17/06/11 18:59:48.44 .net
>>57
そんな・・・・アホの話は、読む価値もなく、読む気もしない。

60:日本@名無史さん
17/06/11 19:13:42.81 .net
>>56
大津近江京?近江大津宮だろ
近江大津宮は幻で肥後大津宮ってことだろうな。
近江大津宮錦織遺跡は宮じゃなくて国府とかの跡じゃないかな。

61:日本@名無史さん
17/06/11 19:23:03.48 .net
九州神話問題のヒントとして
消えた信州安曇族の謎と言うのが有る。
九州から250~300年位に糸魚川~大町ルートで安曇野開拓に上っている。
海路は海神族の九州~出雲~糸魚川がなければ、青銅と翡翠の伝搬が無理筋になる。
陸路が非常に長旅だが、この道は水稲耕作適地は多くないw 
出雲に騙されないで、信濃川行けよw ま、開拓済かも?
この安曇族は、いったん安曇野開拓で水稲耕作をもたらした後
磐井の乱、白村江海戦で本家に呼び出されたのだろうが、消えた。
九州族は多くは半島開拓に配流され、紀元前から
出雲と親交のあった安曇族のような豪族だけが生きながらえてると思う。
朝廷の九州降臨はデタラメ。 270年以前の神話の物証は無い。
銅鐸は有力だが、出雲と青銅、翡翠貿易が有ったのは間違いない。
つまり、700年時点で九州は中国領に為る可能性が有った。
これを、朝廷が歴史的に日本固有の領土と主張した。
歴史には記紀はそれだけのモン。
隣国、熊本と敵対してる邪馬台国には300年までの東国平定はできない。
270~80までに滅びている。
平原の割れた銅鏡の遺跡は殉死だろう。 
卑弥呼の墓は、同盟国最南部の久留米で消滅か、
伊都のトヨの墓の殉死遺構のその下にあるかもな。

62:日本@名無史さん
17/06/11 19:23:36.06 .net
>>57
天武天皇は九州倭国の王である

63:日本@名無史さん
17/06/11 19:29:03.94 .net
天智朝は白村江の敗戦を受けて成立した傀儡政権だよ。
近江大津宮が九州であった可能性について1%くらいは考えなくはないが、その後に畿内政権が確立されることを考えると、そろそろ畿内勢力がまともに歴史の表舞台に出てこないとおかしい。

64:日本@名無史さん
17/06/11 19:32:30.08 .net
>>60
前半と後半が全くつながらず、支離滅裂だ。
特に、筑紫への降臨とその証拠として248年に埋葬された八咫の鏡がある。

65:日本@名無史さん
17/06/11 19:33:37.11 .net
九州王朝歴で、大化は695年から700年。
ここで大化の改新が起こり
畿内系に移行。
畿内系の大和朝廷が設立される。
701年からは大和朝廷歴の大宝である。

66:日本@名無史さん
17/06/11 19:40:52.95 .net
大化の改新の時は中大兄皇子が重要な役割を果たしたが、大宝律令の完成の時にはすでに亡くなっている。
中核となる人物に齟齬がある以上、その意見は許容できない。

67:日本@名無史さん
17/06/11 19:41:02.31 .net
天智天皇は絶対守れない半島利権を放棄する為に
百済引き揚げ豪族の為に白村江海戦の船団を用意した。
新羅と戦争するなら釜山に上陸するに決まってるし、唐の船団も疲弊する。
600年の開国派、聖徳太子は史記、国記、天皇記を編纂したが
九州平定を史実の270年で設定した。
天武天皇は立憲君主として663年の敗戦はこれを否定する必要が有った。
記紀はこの為に創ったのであり、愚民が日本史に翻弄されるのは願ったり叶ったりである。
おまえら、もう、わかってるだろ?

68:日本@名無史さん
17/06/11 19:43:29.80 .net
>>66
日本書紀は敗戦を隠蔽していない。
270年の九州平定など根拠がない。

69:九州王
17/06/11 19:45:54.89 .net
>701年からは大和朝廷歴の大宝である。
以前、思い付きでヤフーの掲示板に書いたらいつの間にか古田史学会とかでも定説になってるなw
郡評とかもこのタイミングで変わってるから間違いないだろうな。

70:日本@名無史さん
17/06/11 19:46:20.20 .net
【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
後に記紀を編纂する近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。

71:日本@名無史さん
17/06/11 19:47:36.42 .net
竹取物語の貴公子たちの官位は、701年当時のものである。

72:日本@名無史さん
17/06/11 20:02:12.69 .net
九州王朝説もばらばらなんだよな
天智系
天武系
どっちが九州系で、もう一方はどこ系なんだよ

73:日本@名無史さん
17/06/11 20:03:49.91 .net
古田も死んだし、もう解散でしょ

74:日本@名無史さん
17/06/11 20:15:28.61 .net
>>62
> 近江大津宮が九州であった可能性について1%くらいは考えなくはないが、その後に畿内政権が確立されることを考えると、そろそろ畿内勢力がまともに歴史の表舞台に出てこないとおかしい。
「天智天皇 淡海の大津宮」とは「淡海(阿波海)には、鯨魚(いさな)を漁る舟が見え、時には沖の波が荒れ、多くの島々と湊(泊)があった古津神浦」
である鳴門市撫養町の「木津金比羅宮」である。
鳴門市北灘に鎮座する葛城神社の隠された祭神が天智天皇であるように、天智天皇は阿波の鳴門一帯を政治の拠点としていた。

75:日本@名無史さん
17/06/11 20:48:45.07 .net
>>71
多分、そんなに簡単に割り切れない。
天智が唐の傀儡なのは明らかだし、畿内政権の基盤を固めたのは天武だから、どちらも畿内政権側に立っているようにも見える。
そうすると、壬申の乱が九州で起きたという考え方は難しくなる。

76:日本@名無史さん
17/06/11 20:52:32.52 .net
大化の改新で畿内ヤマトに政権が移り壬申の乱で今度は九州倭国に移った
それから何回も政権交代があった、源氏VS平氏、北朝VS南朝、いまでも続いている

77:日本@名無史さん
17/06/11 20:54:26.65 .net
>>71
天智系は畿内ヤマト(天孫族)、天武系は九州倭国(天神族)である

78:日本@名無史さん
17/06/11 21:05:26.24 .net
天智は新羅系だろ

79:日本@名無史さん
17/06/11 21:06:27.49 .net
天武は百済系だよな

80:日本@名無史さん
17/06/11 21:33:43.10 .net
天智は畿内ヤマト(百済)、天武は九州倭国(新羅)である

81:日本@名無史さん
17/06/11 21:33:48.88 .net
閑話休題
「壬申の乱」
大友皇子軍の淡海の大津宮:阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮:吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
として、天武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのです。
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮

82:日本@名無史さん
17/06/11 21:39:13.94 .net
九州倭国と百済は同根だろう

83:日本@名無史さん
17/06/11 21:46:10.82 .net
天智は倭国を間接的に滅ぼしたが、天武も倭国の時代に決別することを選んだ。
時代の針は戻らない。

84:日本@名無史さん
17/06/11 21:52:12.66 .net
>>82
>天武も倭国の時代に決別することを選んだ。
つまり、阿波から大和へ遷都を選んだ。

85:日本@名無史さん
17/06/11 22:24:15.40 .net
北九州の倭国の統一されずに小国で並んで居る様はまさに避難民
元々沖縄に居たんだろうな

86:日本@名無史さん
17/06/11 22:43:58.98 .net
>>81
畿内ヤマトと百済が同根なのである

87:日本@名無史さん
17/06/11 22:45:55.93 .net
天武は大宰府から奈良に遷都した

88:日本@名無史さん
17/06/11 22:47:36.02 .net
九州倭国は唐と同盟し畿内ヤマトは隋と同盟した

89:日本@名無史さん
17/06/11 22:51:31.98 .net
>>75
大化は50年前に持っているので
実際には壬申の乱の後に大化の改新が起きてる

90:日本@名無史さん
17/06/12 01:11:43.95 .net
大化の改新は大宝律令のパクリである

91:日本@名無史さん
17/06/12 08:32:59.42 .net
ふん、邪馬台国はエジプトだったに決まってるだろ。
:水行十日、陸行一月が誤りではなく。。。「その時代には、九州の南には陸地があった」
 とするなら=魏志倭人伝の記上は、誤りではなく事実だった!コトに、なる。

92:日本@名無史さん
17/06/12 08:36:25.76 .net
ムー大陸でいいじゃん

93:日本@名無史さん
17/06/12 10:56:07.29 .net
大和朝廷は平定から500年付近まで九州を百済新羅のような冊封国として扱っていた。
筑紫の君は朝廷が派遣した国司だが実態は百済新羅王のような国王であろうとした。
半島状況の悪化で、この方針を転換して、外交独立を目指した磐井を討った。
これを、平定と言うなら、九州平定は270年付近ではなく有史の磐井の乱だ。
白村江以降、唐の百済統治軍が戦後処理で大宰府に船団で訪れているが
この交渉を通じて、朝廷は九州が絶対的な防壁として必要な事を痛感した。
これが、古事記日本書紀が編纂された背景であり、
曖昧期間の欠史と朝廷九州発祥の捏造理由だ。
九州王朝説は畿内説よりは史実に踏み込んでいるが
現実社会の実態背景が伴わず、考古学的反論に反証できなくなる。
弥生渡来人も邪馬台国も銅鐸も、謎、など無い。

94:日本@名無史さん
17/06/12 12:35:50.56 .net
>>92
大和朝廷は8世紀持統朝からなんですよ。

95:日本@名無史さん
17/06/12 12:46:41.39 .net
>>92
岩井の時は九州は平定されていないですよ。
息子が筑紫の君を継いでいますから。

96:日本@名無史さん
17/06/12 12:48:29.93 .net
>>92
戦後処理で唐が畿内ではなく大宰府までしか来なかったのは、大宰府が倭国の都だったからですよ。

97:日本@名無史さん
17/06/12 13:11:28.11 .net
>>95
倭国の都に乗り込まれちゃ、お仕舞になっちゃってるよ。
九州が倭国の都じゃなかった証拠。 

98:日本@名無史さん
17/06/12 13:32:31.52 .net
白村江で惨敗を喫した知らせが届いてから、押っ取り刀で奈良へトンズラしたのかね?
九州倭国のヘタレ連中は。

99:日本@名無史さん
17/06/12 13:37:24.36 .net
九州倭国、出雲、新羅、唐連合軍VS畿内ヤマト、百済、隋なのである
白村江で惨敗を喫したのはヤマトが作った百済でありヤマトなのである

100:日本@名無史さん
17/06/12 13:38:54.64 .net
半島で百済を滅ぼされヤマトは倭国から撤退し滋賀の大津へと逃げ込んだ

101:日本@名無史さん
17/06/12 13:40:15.65 .net
滋賀の大津へと逃げ込んだヤマトは壬申の乱で九州倭国にボコボコにされた

102:日本@名無史さん
17/06/12 13:46:36.22 .net
九州倭国が白村江で負けたんじゃないなら衰退する理由なくね?

103:日本@名無史さん
17/06/12 14:08:55.44 .net
>>101
同意。 言い訳を待ちましょう。

104:日本@名無史さん
17/06/12 14:31:04.56 .net
>>96
だから、九州倭国はそこで滅亡。
戦後に天智天皇が即位して、畿内に政権が移行


105:する。 新しい国の名前が日本国。



106:日本@名無史さん
17/06/12 14:47:48.12 .net
白村江のときには、
王が天智天皇、前線総司令官がサツヤマさん
のようなイメージですね。
白村江で大敗北してサツヤマさんが捕まり
戦後処理をしながら、天智天皇は、
大津近江京へ遷都、疎開した。

107:日本@名無史さん
17/06/12 16:04:14.73 .net
>>104
中大兄皇子はまだ即位してないよ。

108:日本@名無史さん
17/06/12 16:38:09.05 .net
>>101
九州倭国は白村江でヤマトの百済に勝ち、唐の協力で壬申の乱でヤマトに大勝し
大宰府から奈良に遷都し西日本一帯を一つにまとめニホンを名乗った(ヤマトニッポンではない

109:日本@名無史さん
17/06/12 16:43:23.83 .net
奈良時代の始まりは九州倭国の西ニホン統一である

110:日本@名無史さん
17/06/12 16:46:38.86 .net
倭国の訓読みがヤマト、本来はいわゆる九州王朝のこと。
天智天皇が樹立して天武天皇が奪った畿内政権の名前が日本国。

111:日本@名無史さん
17/06/12 16:48:41.20 .net
古墳時代までに九州倭国は概ね西日本を制覇していたが、唐の傀儡政権である日本国への政権移行から律令時代、奈良時代が始まる。

112:日本@名無史さん
17/06/12 17:17:20.92 .net
>>103
唐軍に乗り込まれてるのに、天智天皇が即位???
唐軍はアホというのか?
九州に倭国が在ったのならば、完全に唐軍に皆殺しにされてるよ。
天智天皇が即位??? ボコボコにやられてるのに天智天皇が即位???  阿保ですね。

113:日本@名無史さん
17/06/12 17:18:55.74 .net
>>104
唐軍に乗り込まれてるのに、天智天皇が即位???
唐軍はアホというのか?
九州に倭国が在ったのならば、完全に唐軍に皆殺しにされてるよ。
天智天皇が即位??? ボコボコにやられてるのに天智天皇が即位???  阿保ですね。

114:日本@名無史さん
17/06/12 17:22:44.61 .net
>>106
>九州倭国は白村江でヤマトの百済に勝ち、唐の協力で壬申の乱でヤマトに大勝し
     太宰府から奈良に遷都し
戦勝国九州倭国がなんで敗戦国へ遷都せにゃならんのだ? あほですね。  やり直し!!

115:日本@名無史さん
17/06/12 17:26:47.86 .net
>>110
天智は白村江の戦いの頃はまだ即位していなかったから、責任者ではなかった。
唐の傀儡として天智が即位した。
実際、筑紫倭国の最高司令官であった筑紫の君は抑留され、福岡は占拠されている。
天智は筑紫の人間ではなかったので、唐から信任された。

116:日本@名無史さん
17/06/12 17:29:26.20 .net
>>113
簡単なこと。  皆殺しにされなかったのは、筑紫が邪馬台国じゃなかったからだよ。

117:日本@名無史さん
17/06/12 17:35:27.23 .net
邪馬台国は関係ないだろ
唐新羅が戦争したのは倭国だ

118:日本@名無史さん
17/06/12 17:48:43.25 .net
>>115
どっちゃでもええがな!  九州には倭国がなかったから、よかったな!

119:日本@名無史さん
17/06/12 17:48:59.12 .net
なんで銅鐸時代が終わってから、6~700年まで、九州王朝と畿内王朝が併存するよ。
270年までは、出雲が青銅、翡翠貿易を隠していた以外、内地と九州は異文化で没交渉だろ。
300年位から対馬航路で馬の輸入を始めて、
400年には高句麗人も使って甲斐信州武蔵に御牧を作って成功してるんだよ。
関東制覇していた畿内王朝にしかできないだろ。
260年代で邪馬台国は外交権無くなって
朝廷が富国強兵政策に転換して、馬と製鉄の国内生産化完了する、
400年の倭の五王まで、半島開拓はしたけど中国外交が無いんだよ。
400年に九州が畿内を制しても、東国に御牧が完成しないだろ。
白村江後は大和朝廷にとって九州が270年まで
百済のような外国だった事を隠蔽する必要が有ったんだよ。
その為の聖徳太子の国記天皇記を消滅させての、古事記日本書紀だろ。 
なんで法隆寺と斑鳩宮に裴世清が来た、600年に九州王朝あるよwww

120:日本@名無史さん
17/06/12 18:34:03.76 .net
>>112
戦勝国九州倭国が敗戦国ヤマトの畿内を制圧し奈良へ遷都し西ニホンを統一し
ニホン(ニッポンではない)を名乗った

121:日本@名無史さん
17/06/12 18:35:19.94 .net
ヤマトの天智は唐から暗殺されたという説がある

122:日本@名無史さん
17/06/12 18:43:10.12 .net
>>117
>関東制覇していた畿内王朝にしかできないだろ。
それは、阿波から進出した、関東忌部なんですよ。

123:日本@名無史さん
17/06/12 18:44:10.72 .net
天智の遺体はみつかってない
墓もない

124:日本@名無史さん
17/06/12 18:46:16.37 .net
>>118
戦勝国九州倭国がなんで敗戦国奈良へ遷都しなきゃならんのだ?
その空想も駄作で却下。

125:日本@名無史さん
17/06/12 19:18:07.75 .net
>>115
どっちゃでもええがな!  九州には倭国がなかったから、よかったな!

126:日本@名無史さん
17/06/12 19:32:00.41 .net
まぁ、皆殺しだろうな。運が良くて人質だな。倭国九州が在ったとすれば。

127:日本@名無史さん
17/06/12 20:26:59.72 .net
白村江⇒壬申の乱⇒大化の改新⇒ヤマト朝廷の成立
白村江で倭王が唐の捕虜となる
唐と新羅の間で緊張が高まり倭王が許されて帰国
倭国内で帰国した倭王と留守を預かっていた弟倭王との間で内線勃発
倭の皇女を嫁に貰っていた畿内の豪族の息子を後継者にすることを条件に
畿内勢の加勢得た倭王が勝利
内戦と地震で荒廃した筑紫から畿内に遷都
畿内の豪族の息子の死を切っ掛けに倭王が殺害されヤマト朝廷成立

128:日本@名無史さん
17/06/12 20:36:07.22 .net
>>125
>倭の皇女を嫁に貰っていた畿内の豪族の息子を後継者にすることを条件に
    畿内勢の加勢得た倭王が勝利
あほ! 沼地でド田舎の畿内に豪族なんか居るかい!
くだらん駄作  そこからやり直せ!

129:日本@名無史さん
17/06/12 20:42:33.13 .net
倭国は馬韓にあった
倭国は燕に属す
百済は渤海の西から馬韓へやって来た
だから百済のことを倭国とも言う
倭の五王とは百済に居た

130:日本@名無史さん
17/06/12 21:20:28.12 .net
九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。  @阿波

131:日本@名無史さん
17/06/12 22:58:31.94 .net
畿内に有力豪族がいたのは7世紀の話だからな

132:日本@名無史さん
17/06/13 00:46:21.77 .net
邪馬台国の頃はど田舎だった大和も、8世紀には壮大な平城京に生まれ変わる。
沼地の開墾が完了するんだよ。
663年、白村江の戦いの敗戦で筑紫倭国は滅亡し、670年に唐の傀儡政権である日本国が誕生する。
701年の大宝律令で完全な権力移譲の完了、710年に平城京遷都だよ。

133:日本@名無史さん
17/06/13 06:42:27.53 .net
>>130
>邪馬台国の頃はど田舎だった大和も、8世紀には壮大な平城京に生まれ変わる。
    沼地の開墾が完了するんだよ。
一体誰が沼地の開墾をしたんだよ?  ド田舎の田舎っぺに広大な沼地の開墾なんか
出来っこね~べよ。 いきなり飛躍させんな! そこんとこからやり直し!!  駄作!

134:日本@名無史さん
17/06/13 09:09:22.55 .net
>>131
九州倭国の一勢力の神武が東征して植民してた
神武以後、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、そして天武と10代に亘って開墾を進めていた。

135:日本@名無史さん
17/06/13 09:58:15.89 .net
>>132
>九州倭国の一勢力の神武が東征して植民してた
神武が沼地のド田舎へ東征する理由がない。 神武が沼地でド田舎が好きになった理由を述べよ。

136:日本@名無史さん
17/06/13 10:25:19.36 .net
米が良く実るからだろ

137:日本@名無史さん
17/06/13 11:39:21.44 .net
沼の蛭に気を付けな!

138:日本@名無史さん
17/06/13 17:42:40.17 .net
どうせ献上させるのだから
米が良く実る場所に住む必要が無い

献上品の流れははっきりと残っているよね

139:日本@名無史さん
17/06/13 18:02:53.80 .net
【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓       近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

140:日本@名無史さん
17/06/13 18:28:27.61 .net
畿内説スレに小札革綴冑が物証とかドヤ顔してるのがいてマジウケるw
邪馬台国論議の核心は、
「内行花文鏡の流れからして、前方後円墳が北部九州勢力の侵入じゃないのか」
という問題なのにさ。
前方後円墳が北部九州由来かそうでないかを証明するのに
前方後円墳から出土したものをいくら提示しても無意味だよな。
小札革綴冑なんて武具を副葬している時点で、
副葬されたのは畿内を征服した北部九州将軍であって、
北部九州の王は平時の礼服や財宝と共に副葬されたという考えも成り立つわけだ。

>北部九州
集落に鉄器豊富
王墓に鉄器が豊富に副葬、宝石が多い
>畿内
集落に鉄器皆無
古墳に鉄器が豊富に副葬、武具が多い

141:日本@名無史さん
17/06/13 19:56:40.70 .net
>畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。
誰が見ても「槨」である木槨や竪穴式石室を否定するのなら、
畿内説の言う「槨」とやらが、どんなものなのか教えてほしい
それに円形のが先に作られたから径百余歩とかいう珍説を唱えるなら、
禁止されていない前方後円墳を100くらい調査しなおして
珍説を証明するくらいの努力はしてほしい脳

142:日本@名無史さん
17/06/13 23:17:26.77 .net
>畿内でも盗掘の酷かったのが椿井大塚を始め
>生駒山周辺なんですよ。今日の新聞報道にも出てましたが
>盗品として長く保管されていた、古墳前期四世紀辺りの物の
>調査が進むようですね。
中国の骨董市を上回るのか・・・オラ、ワクワクしてきたぞw

143:日本@名無史さん
17/06/14 05:12:51.57 .net
>>1
何だこれ
文献を曲芸読みしてるだけかよ
こんな読み方がありなら世界中どこでも邪馬台国にできるわ
しかも考古学を完全に無視してる
問題外

144:日本@名無史さん
17/06/14 05:17:23.96 .net
     それが九州説

145:日本@名無史さん
17/06/14 06:29:38.13 .net
>>141=142
1.お前さんの行程論を述べてごらん?
2.お前さんは日本人?
3.お前さんは日本のこと好きかな?

146:日本@名無史さん
17/06/14 07:44:34.99 .net
>>141
漢文の読みとしては問題ないでしょ、誤りがあるなら指摘してね。

147:日本@名無史さん
17/06/14 08:44:30.50 .net
>>144
問題、大有りだな
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。
有千余戸は。魏の時代に千余戸あったという意味である。
世有王の場合は、「世」がつけられているから、魏の治世のことでなく、過去の或る時代において・・・、という意味である。
もしおまいの言うように、「世」が魏の治世を意味するならば、有千余戸は「世有千余戸」と書かれていなければならない。
どうだ、参ったであろう。

148:日本@名無史さん
17/06/14 09:07:03.09 .net
>>145
君は三国志読んだことないね
魏書で世とあれば通常は魏の時代(曹氏が公、王、帝)を指してるよ

149:日本@名無史さん
17/06/14 09:37:03.24 .net
「世」には、過去の世も、現在の世も、未来の世もある。
あの世といういいかたさえある。
魏書でも、その場その場で、使い分けられている。
この件は、直前の有千余戸と対比されるので、世有王は、ときの魏代(魏世)とは明らかに別の時代(世)を指しているのである。
(もし魏世のことであったなら、「有王」だけでよろしい)

150:日本@名無史さん
17/06/14 11:17:44.43 .net
>>147
>(もし魏世のことであったなら、「有王」だけでよろしい)
これだと「伊都国に王がいた」との意味で何時だか分からない
魏書を読めば分かるが「世有」とは魏の世を指してる。
「世有」に何人か王がいたとしても魏の世内に何人かいたって意味にしかならない
「今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友(魏書27王昶)
舊」この場合も世を代々と訳されてる場合が多いが漢末から三国時代の話だな。
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有增損(魏書5后妃傳)」今場合の世有は完全に魏の世だな。

151:日本@名無史さん
17/06/14 11:49:15.98 .net
またこの話題か、論破済みだな

152:九州王
17/06/14 12:05:52.97 .net
「今汝先人世有冠冕」の先人とは王昶の父、王沢と伯父の王柔。兄の王機と王昶自身のことだからな。

153:日本@名無史さん
17/06/14 12:06:28.02 .net
>>149
嘘つけ逃げてたじゃんw

154:日本@名無史さん
17/06/14 12:07:30.40 .net
>>149
何も反論を言わないのが論破www

155:日本@名無史さん
17/06/14 12:07:49.94 .net
現代日本人が作るニセ中国語かww

156:九州王
17/06/14 12:20:23.52 .net
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有增損
魏は漢法に因み、母后の号は皆な旧制の通りだが、夫人より以下は魏代には増損があった。
漢の法を基にしたので、母后の号とかは漢の通りだったが夫人より以下は魏代には増減があったって意味だからな。

157:日本@名無史さん
17/06/14 12:20:54.38 .net
>>153
反論しろよw

158:日本@名無史さん
17/06/14 12:40:56.14 .net
罵倒して逃げて
ほとぼりが冷めたら論破したって
どんな思考回路してるんだろうなw

159:日本@名無史さん
17/06/14 12:45:55.22 .net
ここで世とは、時代の違いを区別して述べているわけだ
魏に限定される用法ではないな

160:日本@名無史さん
17/06/14 12:56:33.70 .net
世有り王が、魏の世を意味するのであれば、
有り千余戸は、いったいいつの世(時代、治世)のことを述べているのかわからんではないか
いつの時代のことか、説明してくれ

161:日本@名無史さん
17/06/14 13:50:47.16 .net
恐ろしいのは箸墓が250年頃だとか民博、橿考、櫻井研がと言い張ってるんだよなぁ
C14で250-350って出たのを250と言い張ってる訳だけど
これもし北九州で親魏倭王印出てきたらどう言い訳すんの?
そこで「今まで嘘ついてました」と認めるような奴らじゃないし
邪馬台国の時代に奈良にもそれに匹敵する巨大国家があったと言い張るよね?
実際は4世紀の遺跡なのに3世紀だと言い張ることになる
こいつらってゴッドハンド旧石器事件と同じくらい悪質

162:日本@名無史さん
17/06/14 14:04:08.32 .net
>>157
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有增損」の場合は
魏と漢の法の違について述べてるんだから「世有增損」の世有は魏の時代についてだよ。
>>158
「有千餘戸」は報告者(張政?)が倭を訪れた時点での戸数。
「有千餘戸」と「世有王 皆統屬女王國」の間で切れてるな。

163:日本@名無史さん
17/06/14 15:13:24.09 .net
親魏倭王印はトヨの代で返したと思うぞ

164:日本@名無史さん
17/06/14 15:23:05.39 .net
魏が滅亡したのに誰に返すんだろう?
普は形上は禅譲されてるから親魏倭王を否定する理由もないし
もし気に食わないなら親普倭王の印綬を再度与えるよなぁ
中国の異民族の支配地で出て来る冊封の印綬も返却しなかった証拠でしょ?

165:日本@名無史さん
17/06/14 15:25:38.06 .net
王印は結構墓からみつかってるから、返すルールはなかったんだろ

166:日本@名無史さん
17/06/14 15:33:54.96 .net
邪馬台国とヤマト王権に連続性があるなら
親魏倭王印は朝貢に積極的だった倭の五王辺りまで大事に持ってた可能性はある
そうなると雄略辺りの墓に入ってる可能性も

167:日本@名無史さん
17/06/14 16:36:43.70 .net
3種の神器の玉が金印なんじゃない?

168:日本@名無史さん
17/06/14 19:09:45.49 .net
王朝が交代したら前の王朝から貰った印は効力無くなるな
壹與は新たな印を貰うために晋の泰始元年に朝貢したんだろう。

169:九州王
17/06/14 19:11:29.54 .net
倭人伝の「世有」が魏の治世を指していることに異論はないな。

170:日本@名無史さん
17/06/14 19:59:19.07 .net
>>166
生口30人とその他の貢物を送った割に新たな金印貰った記述がないんだよな

171:日本@名無史さん
17/06/14 20:13:38.08 .net
>>166
だな。
ただし、前の王朝との連続すなわち正統を証明するため、最初だけは前の印を使わなくてはいけないだろう。
だから卑弥呼も最初の朝貢では、漢委奴国王印を用いただろう。
それは福岡にあった。
つまり、卑弥呼は福岡に居たんだよ。

172:日本@名無史さん
17/06/14 20:45:48.99 .net
>>167
どうでもいいけど、前例が1つもないと論破したと思ってたが
もう1度やるのはメンドイぞ

173:日本@名無史さん
17/06/14 20:54:25.47 .net
なんかどっちでもよくなってきた。
どっちにしても、昔も今も伊都が王都であることにかわりない。

174:日本@名無史さん
17/06/14 21:09:53.20 .net
>>170
脳内で勝利宣言w

175:日本@名無史さん
17/06/14 22:41:30.82 .net
>>170
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有增損」(魏書5后妃傳)
「今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友」(魏書27王昶)
あるじゃんw

176:日本@名無史さん
17/06/14 22:46:28.17 .net
「世有」が魏の治世を指しているとかいうアホ説が否定されました

177:日本@名無史さん
17/06/14 22:52:12.54 .net
>>170
魏の世だという限定例のこと
三国志で「世有」は6例あるよ

178:日本@名無史さん
17/06/15 00:00:32.21 .net
伊都国が中国大陸に有り、魏王朝のもとに存在していたなら、
当該世有りの世が魏の世のことであったとも云いえよう。
しかし、伊都国は倭国の女王の世にあったのだから、
倭人伝中の世有りが魏の世であったなどとということはまさにトンデモであり、そのようなことは論理的にありえない。

179:日本@名無史さん
17/06/15 06:26:12.98 .net
どうでもいいけど、前例が6つもあると完全論破されたな畿内説と思って見ていたが
もう1度やるのはメンドイぞ。
「晋代に書かれた魏志」なんだから、「世有」は魏の時代を指すのが論理的に当たり前。
>違うというならそのような前例を示せ。

180:日本@名無史さん
17/06/15 08:16:10.67 .net
東夷の野蛮国の半人前倭人のことを書いているのに、
神聖崇高なる魏王朝の世を引き合いに出す読み方なんて、漢の貴族は蹴っ飛ばしちゃうだろうね
倭人どもめが、身の程をわきまえろ・・・・

181:九州王
17/06/15 09:21:26.52 .net
>>174
得意の根拠無しでの脳内論破w
>>177
負け惜しみが酷いなwww
「世有王」が魏の治世に王がいたとの意味であるに
反論はないようだな。
畿内説は完全論破済みなんだよ。

182:日本@名無史さん
17/06/15 09:29:23.37 .net
邪馬台国は、なに説でも良いけど、
倭人伝の戦乱女王国が
持続可能な王朝って、読むのはアホ。
考古学上の伊都国や吉野ヶ里が
出雲併合時点で軍事大国の大和朝廷に発展
ってのは、とんでも。

183:日本@名無史さん
17/06/15 11:43:37.45 .net
>>180
>考古学上の伊都国や吉野ヶ里が
>出雲併合時点で軍事大国の大和朝廷に発展
>ってのは、とんでも。
さすがにそんなぶっ飛んだことは誰も言っていないと思うけど。
しかし、倭国としての連続性は考慮しないといけない。

184:日本@名無史さん
17/06/15 12:13:57.14 .net
出雲を奈良のヤマトが併合したってどこに書いてるんだろ?
天孫降臨したのは九州だし国譲りも九州のアマテラスに降伏してるだろw

185:日本@名無史さん
17/06/15 12:52:17.67 .net
つまり、出雲から筑紫へ政権交代があり、後に筑紫から畿内ヤマトに政権交代があったんだよ。
記紀は概ね筋書きは正しく、年代だけごまかしている。
神代は紀元前から紀元3世紀くらいまで。磐余彦の東征は2~3世紀頃だったんだろう。
1~2世紀の伊都国王家が筑紫の日向三代、磐余彦が出て言った後の卑弥呼のことは畿内天皇家の歴史書である記紀には記載なしと。

186:日本@名無史さん
17/06/15 13:33:30.09 .net
出雲から筑紫への政権交代はないんじゃないかな?
だって出雲は降伏してるんだし
魏に使いを送った240年前後では海の向こうは倭種と書いてるくらいだから
中国地方や四国は邪馬台国連合の支配地域ではなかったということ
狗奴国が熊襲だとすると250年前後に邪馬台国は目障りだった熊襲を服従させて九州内をほぼ押さえた
その後出雲、四国瀬戸内の吉備等を征服しつつ東征したということだろう
ただこれだとアマテラス=卑弥呼と考えると国譲りと矛盾するんだよな

187:日本@名無史さん
17/06/15 18:58:18.05 .net
>>184
出雲が降伏?
そんなことできるわけないだろ
出雲に王がいた考古学的根拠なし
王がいないなら降伏もできない

188:日本@名無史さん
17/06/15 20:15:55.97 .net
出雲が併合されたのは
天武天皇が日本国を建国した時だよ

189:日本@名無史さん
17/06/15 20:37:19.74 .net
出雲が倭国と別の国なら別種と書くだろ
倭国=北部九州の倭人代表国家
倭種の国=倭人が治める北部九州以外の属国
硯の出土
鉄器の融通
土器の交流
王墓は北部九州だけ

190:日本@名無史さん
17/06/15 20:44:01.22 .net
>>187
出雲は魏志倭人伝では倭種と書かれれてるな。

191:日本@名無史さん
17/06/15 20:51:52.56 .net
「倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し」
「北部九州は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている北部九州は、美しい」

192:日本@名無史さん
17/06/15 21:59:38.84 .net
畿内説の連中が国替え国替えと連呼してて笑えるw
とうとう畿内自生を諦めたんだな

193:日本@名無史さん
17/06/15 23:08:07.27 .net
そもそも畿内の自然発生説というのは、科学的にあり得ないことの例えとしていたのに、ちっとも伝わってなかった。
皮肉がそのまま信じられてしまった。

194:日本@名無史さん
17/06/16 09:00:02.02 .net
畿内の自然発生説・・・これを信じてる人は頭が狂ってるね、もう殆どいないだろうが。

195:日本@名無史さん
17/06/16 09:19:33.27 .net
>>190
あいつ畿内説じゃないから

196:日本@名無史さん
17/06/16 09:36:32.23 .net
出雲併合はむしろ出雲が機内に食い込んだ。
紀元前からの出雲航路に対し瀬戸内海航路が400年以降。
銅鐸廃止は出雲の政変が由来。
100年台に渡来系古墳豪族が出現している。
対中で、富国強兵政策に転じ、
九州平定、半島開拓、牛馬、製鉄の国内か化
が、250~400年までに完成している。
大伴氏の馬の導入か核心だが、350年百済新蘿建国、500年みまな割譲、磐井の乱、この時点で半島利権放棄は予想されていたようだ。
磐井の乱まで? 神話発表まで?
朝廷は九州を半島扱いしてないか?
銅鐸時代まで没交渉だろ?

197:日本@名無史さん
17/06/16 17:46:31.66 .net
>>194
>100年台に渡来系古墳豪族が出現している。
出雲の国譲り、筑紫による征服
>九州平定、半島開拓、牛馬、製鉄の国内か化
>が、250~400年までに完成している。
半島を開拓した筑紫が、牛馬や製鉄を出雲にも持ち込んだのだ
この時代に出雲に倭国を代表する王権があった証拠は皆無

198:日本@名無史さん
17/06/16 19:49:06.22 .net
3世紀には九州には倭国が在ったのに出雲が九州平定なんかできるかw
九州倭國が東方に植民して行ったんだよ。

199:日本@名無史さん
17/06/16 20:10:19.38 .net
そもそも筑紫が出雲を下したことが、記紀にもしっかり記載されているわけだしね。

200:日本@名無史さん
17/06/17 07:21:00.91 .net
過去に論破したとか嘘吐いてた奴がいたが結局
倭人伝の「世有」が魏の治世を指していることに異論はないな。

201:日本@名無史さん
17/06/17 07:51:10.79 .net
>>198
他の6例の「世有」も魏の治世を指しているの?

202:日本@名無史さん
17/06/17 07:54:42.86 .net
九州は極めて不安定な首長国連邦で
女王王朝の存続可能性が無いのは判る。
世有=今は、九州北部連合26国に王が居る。
他意はない。

203:日本@名無史さん
17/06/17 08:21:02.36 .net
>>200
>九州は極めて不安定な首長国連邦で
倭国の姿そのままですね。
別名、邪馬台国連合。

204:日本@名無史さん
17/06/17 08:23:27.25 .net
>>199
「父祖三世有遼東」とかは父祖3代だから違うけどね
他から引用とかも当然違う。

205:日本@名無史さん
17/06/17 08:31:33.64 .net
中華大陸の魏王朝について書かれた「世有」が魏の治世を指していることは、当たり前だろう
しかし、東夷伝中の倭人の部(倭人伝)は、倭国倭人について書かれたものであるから、
その「世有り」は、
とうぜん「倭の世」(倭国もしくは伊都国の一定の時代)に関して書かれたものである。

206:日本@名無史さん
17/06/17 09:05:11.07 .net
さらにわかりやすく云えば、
「魏の世」は、魏国魏王朝の範囲、
「蜀の世」は、蜀国蜀王朝の範囲、
「呉の世」は、呉国呉王朝の範囲においてのみ適用される
同様に、東夷の倭国の「伊都の世」は、
伊都国伊都王家の主権の及ぶ(及んだ)範囲内においてのみ適用される文言なのである。

207:日本@名無史さん
17/06/17 09:09:02.15 .net
世有は今の時世、または、著作の時点では
となるはずだが、
この場合の構文的には魏史が訪れた時には、だな。
漢文読めない奴が倭人伝の論評してたんだなw

208:日本@名無史さん
17/06/17 09:34:32.00 .net
>>203
東夷伝も魏書の一部だし魏使や陳寿の目線で書かれてるから
「世有王」は魏の治世に王がいたの意味です
倭人の歴史なんて魏人は詳しくないですから。

209:日本@名無史さん
17/06/17 09:45:52.72 .net
「世」とは文字通り、直近30年のこと

210:九州王
17/06/17 09:46:20.84 .net
邪馬壹國の謎は単に昔の学者さんの漢文の読解力が低かっただけだな。

211:日本@名無史さん
17/06/17 10:16:00.06 .net
混同されて世を丗と書いたりされてるが
白川静香によると世と丗は元々は全く別の字だったそうだ
丗は十が3つ並んで30
世は植物の新芽の形に由来し
丗は30、世は世代や一つの世
世有の世は世代や一つの世の方だ。

212:日本@名無史さん
17/06/17 10:16:53.10 .net
205 名前:日本@名無史さん 2017/06/17(土) 09:09:02.15
>世有は今の時世、または、著作の時点では
>となるはずだが、
倭人伝の「世」は、場所と時を限定している。
時制的には、現在時点に限定されるものではない
「くだんの、ある日、ある時、ある一定の期間」という意味だな。
だから、「徳川の世」とか、「平成の世」とか、「あの世」というように、過去現在未来、いずれかの時点を指定(規定)する。

213:日本@名無史さん
17/06/17 10:31:27.25 .net
到伊都国。
官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。
有千余戸。
郡使往来常所駐
魏の使いが至ったと思われる時点(魏の時代)のことを記したこれらの記事に、世はない。、
しかし、有王皆統属女王国、の部分には、「世」がつけられている。
このことから、官や戸数や常駐所こそ、魏の使いが至った時点の状況であり、
世有王皆統属女王国の記事は、
倭国内の過去のある時点(ある期間)における出来事であったことを示していると解釈すべきであろう。

214:日本@名無史さん
17/06/17 10:43:53.43 .net
「世有王」の世は魏使が確認し得た世であることは当然で
魏使が訪れた魏の治世の時代のこと
魏使が確認し得る期間なのでそれほど長期間ではない
したがって「皆統属女王国」の皆は歴代の伊都国の王ではなく
倭の国邑の首長(元は国邑の王)等のことで
「今使譯所通三十國」が皆のことである。

215:日本@名無史さん
17/06/17 10:44:58.75 .net
説文解字によれば、
「世」は、
「三十年爲一世。从卅而曳長之。亦取其聲也。舒制切 文二」

216:日本@名無史さん
17/06/17 10:48:36.59 .net
どっちにしても、卑弥呼の時には王すなわち卑弥呼は伊都にいたでいいんでしょ?

217:九州王
17/06/17 11:04:44.02 .net
>>213
それは白川の研究で否定されて間違いだったってことね。

218:日本@名無史さん
17/06/17 11:06:31.46 .net
>>214
卑弥呼と壹與も伊都国にいたってことだ。

219:日本@名無史さん
17/06/17 11:1


220:4:10.98 .net



221:日本@名無史さん
17/06/17 11:15:43.62 .net
>>215
白川の間違いでしょ

222:九州王
17/06/17 12:00:39.89 .net
>>218
白川静の著書読んでみてね。

223:日本@名無史さん
17/06/17 12:13:17.39 .net
重要なのは魏代における意味だから

224:九州王
17/06/17 12:14:48.78 .net
「世有」を代々と訳しても全くの間違いではない
魏時の倭王は卑弥呼、男王、壹與で全員が伊都国にいた
「世有」が魏の治世の間限定であることを忘れると
皆が歴代の伊都国王とか訳の分からない勘違いすることになる。

225:日本@名無史さん
17/06/17 12:16:35.93 .net
トンデモ

226:日本@名無史さん
17/06/17 12:22:08.25 .net
『説文解字』は漢字の「聖典」、長い年月にわたっての通説です
白川説は彼の独自解釈にすぎないです。

227:日本@名無史さん
17/06/17 12:29:42.79 .net
この当時に有っては、この26国の王、すべてが皆女王国に属した。
だろ。 
女王国が対魏外交で倭国を代表してるけど、近隣の26市町村に全て王が居るような、
軍事、国家的に統治し得ない程度の女王国王権なんだよ。
倭人伝に書いてあるそのままだろ?
中国軍に滅ぼされる前に、軍事大国の大和朝廷が平定して良かったよ。
魏使に隣国との戦争干渉されてんだよ? 
これ、九州が朝鮮同様になるところだろwww

228:日本@名無史さん
17/06/17 13:00:57.61 .net
>>224
>この当時に有っては、この26国の王、すべてが皆女王国に属した。
>だろ。 
王がいたとあるのは伊都国と狗奴国のみなので、これはない。

229:日本@名無史さん
17/06/17 13:08:49.92 .net
投馬国
長官は彌彌(弥弥、ミミ)、副官は彌彌那利(弥弥那利、ミミナリ)
つまり耳納山地、筑後川を牛耳っていた豪族。
邪馬台国
官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)
遠賀川を牛耳っていた豪族。
この二つの豪族により東征、後の物部氏。

230:日本@名無史さん
17/06/17 14:48:19.96 .net
筑後平野周辺にある地名と奈良盆地にある地名が位置と方位が似通ってるっていうのは興味深いね

231:日本@名無史さん
17/06/17 15:06:19.12 .net
倭人伝の記述によると
投馬國は朝鮮半島の南岸地域で
邪馬壹國は北部九州だ
筑後平野周辺にある地名を奈良盆地に持って行ったのは
記紀編纂時じゃなかろか。

232:日本@名無史さん
17/06/17 15:33:46.24 .net
アメノオシホミミ、名前にミミがつくから投馬国出身だな。

233:日本@名無史さん
17/06/17 18:42:29.10 .net
>>226
比定は無茶苦茶だけど、発想の基本は正しい。
河川の流域ごとに豪族がいる。
同じ河川の上流と下流に豪族がいた場合、
水を使いすぎるな、水を汚すな、で早期に喧嘩になって嫌でも統一されるからね。
一つの河川には一つの豪族が収まる。

234:日本@名無史さん
17/06/17 18:54:22.20 .net
>各国に王
王墓があるのは筑紫だけなので、考古学的に否定される。

>各国に王
現在の市レベルの各国に王がいるのなら、
その王達に通行許可をとって魏まで朝貢できるのは
北部九州の有力者のみ。
後進地域である畿内などからでは、各地の王をまとめきれない。

>軍事大国の大和朝廷
石鏃・・・

235:日本@名無史さん
17/06/17 19:23:42.58 .net
「使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。」
各国に王がいたのは史実
それを否定する考古学は使い物にならないと言うこと

236:日本@名無史さん
17/06/17 19:32:11.72 .net
>>232
その史料の方が怪しいというのが文献学者らの定説

237:日本@名無史さん
17/06/17 19:37:40.43 .net
そんなバカなw
卑弥呼を共立したのは誰だよ

238:日本@名無史さん
17/06/17 19:39:09.40 .net
>>233
そんな話は初めて聞いた
誰が言ってるの?

239:日本@名無史さん
17/06/17 19:39:13.05 .net
首長たち

240:日本@名無史さん
17/06/17 19:40:52.65 .net
>>235
ほとんど全員

241:日本@名無史さん
17/06/17 19:42:05.42 .net
>>237
例えばだれよ

242:日本@名無史さん
17/06/17 19:42:40.29 .net
>>235
訳本見ればだいたい注釈に書いてあるだろ

243:日本@名無史さん
17/06/17 19:48:00.17 .net
>>238
石原道博とか

244:日本@名無史さん
17/06/17 19:49:38.48 .net
>>232
各国に自称王いたが
倭奴国王が任命されたので
各国の自称王はいなくなってるな。

245:日本@名無史さん
17/06/17 19:52:30.75 .net
石原の岩波文庫本を見ても何も否定してない
その他5~6冊後漢書解説見たが誰も否定してない
ウソつきが

246:日本@名無史さん
17/06/17 19:54:15.55 .net
>>241
後漢時代の話だから、王墓はあってもおかしくない
考古学では出てこないらしいけどな

247:日本@名無史さん
17/06/17 19:56:34.80 .net
>>241
倭奴国王が任命されたから各国の王がいなくなるというのは、何も根拠がない話だな

248:日本@名無史さん
17/06/17 20:03:25.77 .net
>>197
>そもそも筑紫が出雲を下したことが、記紀にもしっかり記載されているわけだしね。
そもそも、筑紫も出雲も阿波から進出した、忌部一族なんですよ。
阿波から筑紫忌部 そして出雲・北陸へ進出して出雲忌部・北陸忌部となったんですよ。

249:日本@名無史さん
17/06/17 20:07:06.62 .net
後漢書を持ち出すとわ
そこまで追い詰められたか
切り取りじゃなくって、全部載せるね
>使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國
「大倭王」に、自称王たちが従っている
自称王たちは、「大倭王」に従うことで、地方行政権を世襲させていただいているわけだね

で、これがどうしたのかな?
各地の自称王たちが、従うのは、
紀元前から鉄器を使っている王墓出土の北部九州「大倭王」だよね

250:日本@名無史さん
17/06/17 20:07:24.11 .net
>>242
石原の岩波文庫本解説三

251:日本@名無史さん
17/06/17 20:14:45.96 .net
>>247
解説三のどこよ

252:日本@名無史さん
17/06/17 20:15:54.13 .net
これまで「忌部」の研究が不足していたため、歴史の中で有名なその他の氏族のみで仮説・ストーリーが立てられてきた側面がある。
今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。

253:日本@名無史さん
17/06/17 20:16:14.53 .net
>>246
どこに従うと書いてあるの?

254:日本@名無史さん
17/06/17 20:26:08.92 .net
>>248
使駅と使役とか見るべし

255:日本@名無史さん
17/06/17 20:39:00.73 .net
>>251
何も関係ないわけだが
どこに国王がいたことを否定してるんだ

256:日本@名無史さん
17/06/17 20:39:03.29 .net
>>250
え?従ってないの???!!!
じゃあ、
当たり前だけど卑弥呼は
自領から魏に朝貢できる位置にある
紀元前から鉄器を使っている王墓出土の北部九州「大倭王」だよね
各地の自称王が従ってないなら、
はるかかなたの辺境から朝貢なんて不可能だからさ
ウンウン納得

257:日本@名無史さん
17/06/17 20:51:56.70 .net
>>253
別に反論はないけど
何に噛みついてんの?

258:日本@名無史さん
17/06/17 20:53:25.81 .net
>>252
そこを読めば「國皆稱王 世世傳統」が「世有王」の改変だったことがわかる

259:日本@名無史さん
17/06/17 20:56:25.11 .net
>>233
そんな学者は邪馬台国を語る資格がないだろw
魏志を否定するなら邪馬台国も卑弥呼も否定するしかない

260:日本@名無史さん
17/06/17 20:57:27.54 .net
>>255
勝手に脳内変換しちゃあいかんわ

261:日本@名無史さん
17/06/17 20:58:01.46 .net
どっちにしても邪馬台国が九州北部以外にあり得ない

262:日本@名無史さん
17/06/17 21:01:13.93 .net
>>255
魏略では
「其国王皆属女王也」としているから、こっちがオリジナルなんだよ

263:日本@名無史さん
17/06/17 21:05:27.58 .net
>>259
その魏略が一番怪しいだろ

264:日本@名無史さん
17/06/17 21:06:09.35 .net
>>256
まさか、あれが魏志だと思ってるの?

265:日本@名無史さん
17/06/17 21:06:26.26 .net
そんなこたあない
なぜ怪しいと思うのか

266:日本@名無史さん
17/06/17 21:09:46.12 .net
>>262
写本見たことある?
書き間違いだらけだぞ

267:日本@名無史さん
17/06/17 21:11:42.95 .net
九州では荘園主が王
古墳導入の王墓は出雲が先駆。
九州には土人国しかない。

268:日本@名無史さん
17/06/17 21:14:06.46 .net
魏略
>自帯方至女国万二千余里
一万二千里で女王国に到達
邪馬台国は、たしかに北部九州ですね
魏略
>其南有狗奴国
北部九州邪馬台国と、其の南の狗奴国
なるほどなるほど
>其国王皆属女王也
北部九州邪馬台国の現在の王は、邪馬台国の皆が服属している女王卑弥呼であーる
なるほどなるほど

269:日本@名無史さん
17/06/17 21:18:59.68 .net
>>263
そりゃあ写本だから誤字くらいはあるさ
でも魏略そのものは裴松之が三国志の注に引用しているし、
三国志にない西戎伝なんかまるまる魏略の引用だ
翰苑でも倭国への行程は魏志ではなく魏略を引用している
(これなんか魏志の行程は信用されていなかった証拠だろう)
魏略自体は立派な史書なんだから、誤字は大目に見て内容を検討すべき

270:日本@名無史さん
17/06/17 21:49:12.20 .net
畿内説スレ主
わざわざ遠征ありがとう
>>266
>>265
くっ、笑っちゃダメだ
わざわざ遠征してきて、話題提供をしてくれているんだ
>そりゃあ写本だから誤字くらいはあるさ
>魏略自体は立派な史書なんだから、誤字は大目に見て内容を検討すべき
くっ、
            ,, -─- 、._
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ:
      :|       (__人__)    |:
      :l        )  (      l:  
      :` 、       `ー'     /:
       :, -‐ (_).        /
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´
          :ヽ   :i |:
             :/  :⊂ノ|:
わざわざ遠征してきて完全敗北
ぷ ぎ ゃ ー w w w w w

271:日本@名無史さん
17/06/17 21:53:15.26 .net
>>265
荘園並立は王権自体にあまり意味がない理想社会。
270年以降に日本王権は成立した。
出雲の銅鐸廃棄と古墳導入が始まりだろ?
それが、考古学と文献の一致。

272:日本@名無史さん
17/06/17 22:39:37.55 .net
文献は北部九州
考古学は北部九州

鉄器が無い=鉄器地域と無関係の未開地域=魏志倭人伝の倭国王邪馬台国女王とは無関係

273:日本@名無史さん
17/06/17 23:19:48.65 .net
YouTubeで2012年のNHKの邪馬台国の番組見たんだけど
近畿は鏡の出土が多くて北九州は少ないから近畿説が有利とか平気で言っててワロタよ
三角縁神獣鏡は国産だっての
テレビでこんな番組流してるんだな

274:日本@名無史さん
17/06/17 23:51:37.12 .net
そりゃあ中国で0枚出土なら国産だろうな
北九州は舶載鏡が大量に出土していて近畿は少ないから北部九州説が有利とか平気で言っちゃうよ

275:日本@名無史さん
17/06/18 00:13:55.54 .net
>卑弥呼はどこにいたんだ?
伊都の高千穂宮=高祖宮

>邪馬台国と倭国、女王国はどの範囲?
倭国=邪馬台国+狗奴国
女王国=邪馬台国=26

276:日本@名無史さん
17/06/18 02:24:08.20 .net
正解です!

277:日本@名無史さん
17/06/18 06:43:39.69 .net
>>270
奈良はまとめてたくさん鏡が出る遺跡がいくつかあるから
とても多いようにみえるけど、遺跡数はさほどないのね。
鏡の出た遺跡数 弥生時代 古墳時代
福岡県 269遺跡
奈良県 105遺跡
遺跡データベースより 

278:日本@名無史さん
17/06/18 07:41:17.39 .net
倭人伝の隅っこの糸クズだけつついて得意になっててもしゃあないぞ。



279:漢書、魏略、翰苑、倭人伝 この四書を読み合わせれば、おぼろげながら二~三世紀の倭国の全体像が浮かんでくる。



280:日本@名無史さん
17/06/18 08:06:38.13 .net
組み合わせたら倭国とは九州北部、ほぼ筑紫のことを倭国と呼んでいることになる。
これは日本側の文献でも同じ。
倭国女王の卑弥呼がいたのは筑紫以外にあり得ない。

281:日本@名無史さん
17/06/18 08:57:56.77 .net
文献的にも考古学的にも邪馬台国が北部九州は間違いないんだが
畿内説で食って来た学者が多いから今更畿内説は間違いでしたとは言えないんだよな
畿内説は日本古代史のガンなんだよな。

282:日本@名無史さん
17/06/18 09:11:40.98 .net
学者さんは比較的真面目ですよ。
畿内説の見込みが無くなった
4~5年前くらいから、
奈良の研究所や考古学界では
邪馬台国の文言を使わなくなりました。
過去に邪馬台国畿内説を主張してたことは
なかったことになってますね。

283:日本@名無史さん
17/06/18 09:23:35.67 .net
ここ数年は新発見が相次いだからな
円形周溝墓が奈良へ侵入
稲部遺跡に鉄器工房と大型建物(ちゃんと保存してね)
淡路島にも1世紀から鉄器工房
大型建物は万行遺跡にもあるし
肝心の首都候補地に鉄器が無いし
もうどうにもならんだろ

284:日本@名無史さん
17/06/18 10:48:15.37 .net
>卑弥呼はどこにいたんだ?
邪馬台国内の城柵=久留米南部

>邪馬台国と倭国、女王国はどの範囲?
景初二年(238年)以降
倭国=狗奴国を除く29ヶ国
景初二年(238年)以前の3世紀
倭国=伊都國(伊都國の王が旧倭国王) 伊都國=倭都國=倭奴國 発音:伊都=倭都=倭奴=イト
女王國=不彌國+奴國+投馬國+邪馬壹國=筑紫平野略全域
邪馬壹國=筑後平野内陸部+北野地域(筑後川中流の平野・耳納山地の北の平野)

285:日本@名無史さん
17/06/18 14:43:10.99 .net
半島領土を消すために必死だな

286:日本@名無史さん
17/06/18 15:02:08.73 .net
そもそも倭国とは対馬海峡の南北の国。
朝鮮半島南岸も含まれる。
もちろん畿内など含まれない。
倭国女王である卑弥呼は福岡にいた。

287:九州王
17/06/18 16:58:00.60 .net
>>280
伊都国に「世有王」って書いてあるから都は糸島市付近だな
この時代は久留米南部とかは邪馬台国内でも都ではない

288:日本@名無史さん
17/06/18 17:12:03.09 .net
今時九州説って・・・

ここは情弱痴呆老人の集まりかよWWWW

289:日本@名無史さん
17/06/18 17:29:25.40 .net
>>284
ここは九州板だから

290:日本@名無史さん
17/06/18 17:29:26.98 .net
>>284
阿波説はやめたのか?

291:日本@名無史さん
17/06/18 17:39:54.20 .net
>>284
根拠なし

292:日本@名無史さん
17/06/18 18:03:07.25 .net
捏造近畿説見てると嘘も100回言えば真実になるというヒトラーの言葉を思い出すな

293:日本@名無史さん
17/06/18 18:58:49.28 .net
そして実行した(東遷説)

294:日本@名無史さん
17/06/18 19:18:31.56 .net
もうウソ100回は、とうに超えているだろう
それでも真実になり切れていないから、手に負えない相当のポンだな

295:日本@名無史さん
17/06/18 19:23:54.77 .net
あらま東遷とな
何もわかっとらんようだな
問題の本質は、200回近く発掘調査して鉄器も青銅器も皆無だったという事実
(銅鐸片2つのみ)
皆無なだけなら、金属器を完全管理していたという屁理屈も成り立つのだが、
木製農具が多数出土しているのだから、もう目も当てられない。

296:日本@名無史さん
17/06/19 02:11:37.22 .net
>卑弥呼はどこにいたんだ?
邪馬台国内の城柵=久留米南部

>邪馬台国と倭国、女王国はどの範囲?
景初二年(238年)以降
倭国=狗奴国を除く29ヶ国 (対馬から筑紫平野まで)
韓地の倭は倭國に含まれず。
景初二年(238年)以前の3世紀
倭国=伊都國(伊都國の王が旧倭国王) 伊都國=倭都國=倭奴國 発音:伊都=倭都=倭奴=イト
女王國=不彌國+奴國+投馬國+邪馬壹國=筑紫平野略全域
邪馬壹國=筑後平野内陸部+北野地域(筑後川中流の平野) 高良山(耳納山地)周りの平野部

297:日本@名無史さん
17/06/19 04:09:07.23 .net
親魏倭王が大和朝廷である必然性無いし。
倭人伝読めば九州の話だし。
250年に統一王朝無かっただけのこと。

298:日本@名無史さん
17/06/19 05:57:42.57 .net
邪馬台国論争ってヤマト王権と繋げようとするから揉めるんだよな
今後どんな遺跡が出てきても邪馬台国とヤマト王権の連続性を証明するのは無理
魏志倭人伝にはあれだけしか書いてないし、その後倭の五王まで中国の歴史書には出てこない
日本書紀には邪馬台国は出てこない
連続性があるような三種の神器とかはあるけどなんとも言えんよ

299:日本@名無史さん
17/06/19 06:17:41.64 .net
倭の五王や多利思比孤だった、倭国が九州のことなら九州の王だよ。

300:日本@名無史さん
17/06/19 07:10:14.48 .net
>>295
>倭の五王や多利思比孤だった、倭国が九州のことなら
倭国は「阿波国」なんですよ。   @阿波

301:日本@名無史さん
17/06/19 07:56:55.01 .net
先代旧事本紀として記録が残っている原始物部氏。

302:日本@名無史さん
17/06/19 08:19:26.48 .net
>>292
残念、久留米郷土愛が強すぎて話に無理があるな
7世紀頃には久留米付近に都があった可能性もあるが
3~4世紀は久留米付近は関係ないな
倭人伝に傍国として記載されているのみ。

303:日本@名無史さん
17/06/19 08:24:12.20 .net
5世紀ならあり得るけれど、3世紀は博多湾沿岸しかないですよ。

304:日本@名無史さん
17/06/19 08:36:19.93 .net
そうだな
郷土愛が先に立つ久留米説も、
魏略無視、倭人伝無視、後漢書無視、けっきょくは畿内説の二の舞だろう

305:日本@名無史さん
17/06/19 08:39:10.15 .net
久留米説を唱えてるのは神道系の人物だろう
隈元を狗奴国にしたい一念だろな

306:日本@名無史さん
17/06/19 08:50:11.51 .net
狗奴国は熊本でいい。
でも久留米は別問題。

307:日本@名無史さん
17/06/19 08:57:11.04 .net
日本の神道に、
人を裁く権利は無い、そのような法も無い^^^^^^^^^^^
このような事を言っている人がいたけど、
いまだに魔女裁判のような事が続けられているの?
それともモモタロウなどの神事?

308:日本@名無史さん
17/06/19 08:59:13.48 .net
そのような神事?
あなたのほうが刑務所に送られんじゃないのか?
と言っている人もいた

309:日本@名無史さん
17/06/19 09:01:23.41 .net
先代旧事本紀を素直に読めばいいんです、豪族と地名が出てるから。

310:日本@名無史さん
17/06/19 09:40:11.99 .net
それは畿内の歴史。
邪馬台国とは関係ない。

311:日本@名無史さん
17/06/19 09:52:32.40 .net
>>306
九州の地名もたくさん出てきます。

312:日本@名無史さん
17/06/19 10:38:46.84 .net
久留米の高良大社も、そのふもとの高良台の祇園山古墳も、
高麗人ゆかりのもの。
久留米邪馬台国説を突き詰めれば、卑弥呼も高麗一族だったということになる。
卑弥呼は朝鮮半島由来の人物だったのかねえ?

313:日本@名無史さん
17/06/19 10:47:21.68 .net
高麗w
いつの時代だよ

314:日本@名無史さん
17/06/19 10:53:29.08 .net
>>305
伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地  徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神  伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”)
とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。
このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、
物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。
しかし、
① 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国


315:麻植郡のみに存在すること ② 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること ③ 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること ④ 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 伊加賀志(いかがし)神社 http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/



316:日本@名無史さん
17/06/19 12:23:31.86 .net
倭人伝で伊都国に「世有王」って書いてあるから卑弥呼や壹與の都は糸島市付近
糸島市付近以外は候補にならない。

317:日本@名無史さん
17/06/19 12:42:36.93 .net
その王が卑弥呼なんですよ。

318:日本@名無史さん
17/06/19 14:51:18.06 .net
到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。
伊都国にいた官・副官の名は丁寧に書かれているのに、
世有王の王の名が省略されているのは、まこと怪しい

319:日本@名無史さん
17/06/19 16:30:29.36 .net
他のところですでに述べてあるから。
卑弥呼と。

320:日本@名無史さん
17/06/19 16:53:27.33 .net
>>312
卑弥呼がどうして女王国に統属するんだ
アホ

321:日本@名無史さん
17/06/19 17:27:23.88 .net
>>314
卑弥呼の名は、ずーと、ずーと後の方で、
読む人が忘れたころにに出てくる
まったく怪しい

322:九州王
17/06/19 17:27:50.34 .net
>>315
全く理解してないなw
卑弥呼が女王国に統属してたんじゃなくて
倭の国々が女王国に統属してたの
「皆統屬女王國」の皆は「今使譯所通三十國」を指してるの。

323:日本@名無史さん
17/06/19 19:33:16.63 .net
>>317
重ねがさねの、怪しい読み方だ。
怪しさ100点、読み方0点

324:日本@名無史さん
17/06/19 19:58:06.56 .net
>>318
ちゃんとした反論しろよw

325:日本@名無史さん
17/06/19 21:44:29.15 .net
>>319
「皆」の如き代名詞は、その直近直前の語を受ける(手前勝手に、あっちこっち飛んで受けてはいけない)。
これ読み書きの大原則也。
ここでは、迷うことなく世有り王の「王(たち)」を意味する。(ま、云っても無駄だろうけどなw)

326:日本@名無史さん
17/06/19 22:05:57.85 .net
統属は王統のことだったりして。
それまでの王たちも女王の王統に属していましたよ、とか。

327:九州王
17/06/19 22:38:31.03 .net
>>320
>「皆」の如き代名詞は、その直近直前の語を受ける
直近直前の語を受けるなんて、好き勝手に文法を作ったらいかんよw
「皆」より前にある文なら直近直前でなくとのいい
笑われるよ。

328:日本@名無史さん
17/06/19 22:44:22.70 .net
>>321
>それまでの王たちも女王の王統に属していましたよ、とか。
それ以外にないでしょ。  @阿波

329:日本@名無史さん
17/06/19 22:48:08.10 .net
倭人伝は倭人に付いて説明してるんだから
何の断りもなく皆と言えば倭のことだ
ここでは「皆統屬女王國」と女王國に統屬してるんだから國だ
國に統屬するのは國で、人に統屬するのは人
伊都国にの代々の王ではあり得ない
つまり倭の国々
良く読めば、倭人伝の冒頭近くに書かれてる「今使譯所通三十國」だと分かる。

330:日本@名無史さん
17/06/19 23:18:39.53 .net
>>324
機関の一職員の場合も「(下っぱ職員)統属(機関)」って言うんだよ

331:九州王
17/06/20 06:53:16.30 .net
魏略だと
「其国王皆属女王也」この場合も其国とは倭国で
訳すと「倭の国の王はみな女王に属している」となる
魏志倭人伝は卑弥呼が倭王に任命されているので正式な王は卑弥呼一人となり
他の倭の国の王は官となったので
倭国王と女王が倭国と女王国となったものだ。

332:九州王
17/06/20 08:46:32.65 .net
追加
魏略では伊都国は一つしかなく王も一人と考えられるから
「其国王皆属女王也」の場、其国は伊都国ではないのは明らか。

333:日本@名無史さん
17/06/20 08:52:34.91 .net
>>326
魏略は倭国を主語として書いているのだから、魏略のことはそれで正解だ。
しかし陳寿の倭人伝の場合は、
伊都国の魏代の現状を記すとともに、伊都国の過去の王たちと女王国との関係に関する記事になっている。
陳寿は、魏略を丸写しするような軟弱な書き手ではない。
魏略を踏まえながらも、視点を変え、陳寿なりの表現で書いたというわけだ。

334:日本@名無史さん
17/06/20 09:03:01.52 .net
>>322-324
>直近直前の語を受けるなんて、好き勝手に文法を作ったらいかんよw
好き勝手は君の方で、君が知らないだけだ
直近直前の名詞又は名詞句を受けないでどうする。
このルールを守らなければ、文章は個人ごとに、好き勝手に解されて、、情報伝達の役を為さないではないか。
過去の例だが、同様に直近直前の語を受けないで、飛んだ論旨を展開していた厨がいた。
考古学・歴史学を手掛ける学者には、読み書きのルールを無視する輩が少なくないようだなww

335:日本@名無史さん
17/06/20 09:49:13.84 .net
王は皆女王に属する。
KING OF KINGS でOK。
北部九州の土人の宗教の話じゃねwww
倭人伝の魏使の説明だと邪馬台国にはろくな国体無いと思うけど。
まあ、新規の遺民が入りにくい程度の集落が形成できた段階。
侵略なら余裕。

336:日本@名無史さん
17/06/20 09:56:17.86 .net
>>329
新文法を考案したらいかんな
どこにそんなルールがあるんだよw

337:日本@名無史さん
17/06/20 10:02:11.52 .net
>>328
魏略を丸写してはないな
魏略では卑弥呼は倭王に任じられていないが
魏志倭人伝では卑弥呼が倭王となった後の視点で書かれてる
>伊都国の過去の王たちと女王国との関係に関する記事になっている。
これが誤読で間違いの始まり。
伊都国の過去から現在まで王としても魏代限定でのことだから
伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいたとは考えられない。

338:日本@名無史さん
17/06/20 10:07:11.11 .net
>>326
「其国王」は倭の各国の王のこと
漢文は単複同形なので文章全体を見て判断のこと
当時の倭は小さな国がいっぱいあって(各国に自称王がいた)、
それらを共立された女王が束ねていた

339:日本@名無史さん
17/06/20 10:21:32.65 .net
>>330
入り込んだのが天孫族なんだけどね。

340:日本@名無史さん
17/06/20 10:22:30.26 .net
>>332
>伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいたとは考えられない。
考えられないと言う根拠はなんだろうね。
まあ、日向三代なら三代しかいないワケだけど。

341:日本@名無史さん
17/06/20 10:42:37.28 .net
曹操が魏公となったのは213年
魏の滅亡は265年
50年しかない
この間に伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいた?

342:九州王
17/06/20 10:43:24.17 .net
>>333
同意見ですね。

343:訂正
17/06/20 10:44:29.92 .net
曹操が魏公となったのは213年
魏の滅亡は265年
52年しかない
この間に伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいた?

344:日本@名無史さん
17/06/20 16:36:24.84 .net
共立卑弥呼といっても
そこいらのおばさんが、いきなり共立女王(倭女王)になったわけではなかろう
その前段階として、卑弥呼が邪馬台国のみの女王であった期間が数年~十数年あったのであろう。
倭人伝では、この前段階とその後の共立段階を含めた期間の邪馬台国を、「女王国」と書いているように思える。
そして238年、
卑弥呼は魏から倭王に任ぜられた。
で、遅くともこの年までには各国の王は退位して官になっている(少なくとも倭人伝は、この建前で書かれている)。
ということは、
魏世において伊都国に王が在位したのは、213~238年のわずか26年間のことになる。
どう考えても、「世有り王」は、魏世に限定される書き方ではなかろう。

345:日本@名無史さん
17/06/20 17:05:59.46 .net
王から官に統治機構を変えさせられたのは、大率に検察されてる女王国以北の国々だけだろう
他の倭の国々の自称王はそのまま存続しているんじゃないかな

346:日本@名無史さん
17/06/20 17:15:58.85 .net
他なんてない。
南は狗奴国。
東は倭種だから。

347:日本@名無史さん
17/06/20 17:37:34.92 .net
王のいた他の国々
次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,
次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,
次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,
次有烏奴國,次有奴國,

348:唐変木
17/06/20 19:12:40.06 .net
>>339
>そこいらのおばさんが、いきなり共立女王(倭女王)になったわけではなかろう
>倭人伝では、この前段階とその後の共立段階を含めた期間の邪馬台国を、「女王国」と書いているように思える。
 イイ線行ってる!

349:日本@名無史さん
17/06/20 19:40:24.27 .net
「世有王」
伊都に、魏の時代に王がいた、と言っているだけだな。
魏の時代にいた女王が、魏建国の前から共立されていたとしても、
「世有王」=魏の時代に(魏建国前からの)王がいたということで差し支えない。
>>342
>王のいた他の国々
倭人伝に王がいたと記載されているのは、伊都と狗奴国だけ。
その20国に王がいたという記載は一体どこにある。

この頭の悪さは阿波厨かな?

350:日本@名無史さん
17/06/20 21:55:33.73 .net
>>344
ならば、「世有王」を魏の時代に限定する理由はなかろう
魏志とはいえ、
魏代のみに関する原史料が豊富に整っていたとは思えぬ。
とりわけ倭人に関しては、
後漢時代、曹操の腹心であった公孫康が開いた帯方郡が、その初仕事として行った韓地倭地の調査報告書があり、
それを基に魏略や倭人伝が書かれたと考えられているそうだ。
倭人伝の中で、時代が明確にされていない記事の部分は、この後漢時代の史料に元づいて書かれたと思われる。
とりわけ行程の部分はそうであり、
故に、伊都国の代々の王のことも、
世有り王、として時代をボカシたうえで、後漢時代の倭国報告書を引用したのではないか・・・、

351:日本@名無史さん
17/06/20 22:02:14.18 .net
>>344
「王」と「女王」とかき分けてるでしょ
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,
傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。」

352:日本@名無史さん
17/06/20 22:27:57.53 .net
>>345
魏志なのだから「世有王」は魏の時代に限定される。
その他ごちゃごちゃは根拠のない君の妄想。

>王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露
この部分の王は、卑弥呼を含む、代々の伊都国にいた王達(このスレでは日向三代~卑弥呼)
つまり、伊都の一大率では昔からずっと検察していた、という伊都一大率の一般的性格について述べている。
そしてそれを受けて、
>傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯
「世有王」=魏の時代に、
魏皇帝から卑弥呼へ送った文書や、贈り物は、間違いなく届いた、
と文章が繋がっている。
前半)一大率の存在=これまでの伊都にいた王の全てに当てはまる信頼性
後半)一大率がいるからこそ、「世有王」=魏代の伊都にいる女王卑弥呼への連絡がしっかりなされた
という論理的文章構成なわけだ。

353:日本@名無史さん
17/06/20 22:36:11.38 .net
>>347
一大率の業務は諸国検察
文書搜露は別の役人の仕事

354:日本@名無史さん
17/06/20 22:47:22.65 .net
>>348
>王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露
>皆臨津搜露
税関のような役目を果たしていたことが明記されていますね。
伊都代々の王が用いた一大率という組織が
「世有王」=魏代の女王卑弥呼の時にも機能していた
という、保証を付けた上で、
以下の、魏皇帝からの言葉や、贈り物が、しっかりと届きましたよ
=魏と邪馬台国の外交は事実としてしっかりと機能しましたよ
と証明しているわけです。

355:日本@名無史さん
17/06/20 22:50:08.42 .net
 卑弥呼を共立したのは諸国の王だろう。
そして、共立後、女王国の北部の国は王を官として任命したんだろうな。
他の倭の諸国は倭人伝は遠絶で情報がないとしているのみ(王がいたともいないとも記事なし)
 卑弥呼死後、トヨを復立した主体も各国のリーダーのはず。
このリーダーが王なのか官と名称を変えて存続していたたのかは不明だが、卑弥呼が共立王に
なったからといって中央集権になって各国のリーダーが全員辞めたなんてわけがない。

356:日本@名無史さん
17/06/20 22:50:38.59 .net
>>349
それが一大率の仕事とは書いてない

357:日本@名無史さん
17/06/20 23:17:36.09 .net
九州説って、具体的にどこ?
それと、邪馬台国は九州のどこかにあって、266年ごろには滅んだわけ?
なんで滅んだの?
魏の王がわざわざ使いを出すほどのクニなのに、影も形も消えてなくなったの?
邪馬台国は都だから、倭人の王国が消えたんだよね。

358:日本@名無史さん
17/06/20 23:35:54.80 .net
次に壹與が立つから滅んでないですよ。
その国の名は倭国とも言いますから、はるか紀元前から中国に朝貢し続けていました。
滅ぶのはずっと後です。
都は博多奴国や伊都国を転々としていました。
というのが初級編。
倭奴国と伊都国は同じなのではないかというのが中級編。
卑弥呼の墓は平原遺跡だけれど、出身はもしかしたら筑後または肥国かも、というのが上級編。

359:日本@名無史さん
17/06/20 23:40:51.76 .net
>>350
考古学的に、その諸国の王とやらの証拠は?
諸国の王がいたのなら、博多湾までの沿岸で6
福岡県沿岸で10として、山口広島岡山兵庫で40
瀬戸内海は四国側もあるから、100近くの沿岸王全員の支持を受けて
通行を許可されて、魏まで朝貢して、何度も往復して、
親魏「倭王」を手にするという奇跡的な出来事の証拠は?
>>351
短い自演タイムが一瞬で大崩壊して惨めだね。
一大率でないなら、誰の仕事なのか?
ちゃんと文法で説明してね。

360:九州王
17/06/21 09:05:53.18 .net
>>353
どっから出身はもしかしたら筑後または肥国かもなんて話、出てくるんだ?
>>354
考古学的な証拠
URLリンク(www.netpia.jp)
>>351
俺も一大率の仕事ではないと思うよ
その他大勢の家臣のことだろう。

361:日本@名無史さん
17/06/21 09:45:13.51 .net
>>350
古墳時代になっても各地方には前方後円墳を造った首長がいた
卑弥呼の時代に各国に首長のような存在がいなくなったなんてないだろうな

362:日本@名無史さん
17/06/21 10:42:22.26 .net
今の感覚で考えるから倭国=九州~近畿(東海も?)って発想になるけど
倭人伝を書いた当時の中国人からすれば九州=倭(邪馬台国連合)なんだよね
九州だと小さいと思うかもしれないけど例えば100年後に出来た朝鮮半島の百済なんて
面積的には九州と大差ない
九州は倭として当時の日本を代表する国家であっても不思議ではない
そもそも後漢が奴国を日本の代表として認めて50年後に倭国王帥升の洛陽朝貢を考えると
やはり倭は北部九州と考えるのが妥当
その後倭国大乱が起きて邪馬台国連合まで80年程度だし

363:日本@名無史さん
17/06/21 12:39:02.21 .net
『日本書紀』神代巻上、一書の中に天安河で日神と素戔鳴尊が誓約により化生した神三女神が初めて葦原中国の宇佐嶋に降りましたとあるのであった。つまりこれが『先代旧事本紀』にみえる天三降命となり、ここに「豊国宇佐国造祖」となるのであった。

364:日本@名無史さん
17/06/21 13:17:26.96 .net
倭は北部九州だけでなく朝鮮半島の南岸も支配していたようだし
航海術には長けてたんだろうな
瀬戸内海を通って日本奥地へと植民して行ったんだろうな
やがてその中で植民地の一つが強大化して大和政権が生まれたんだ。

365:日本@名無史さん
17/06/21 13:18:21.66 .net
古事記では宗方三女神はニニギの天孫降臨に付き従うのだが、書によって場所が違うことがある。
筑後にも祭るところがある。


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