邪馬壹國は北部九州に在ったpart5at HISTORY
邪馬壹國は北部九州に在ったpart5 - 暇つぶし2ch2:九州王
16/09/05 22:18:33.04 .net
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

3:九州王
16/09/05 22:19:00.67 .net
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。

4:九州王
16/09/05 22:19:57.19 .net
里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明しているもの
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので
陸行一月は陸行一日の誤記。

5:日本@名無史さん
16/09/05 22:23:20.41 .net
まだやるのか
賛同者いないんだからもう終了でいいんじゃね

6:日本@名無史さん
16/09/05 22:28:10.81 .net
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では
「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」
の意味となる。

7:日本@名無史さん
16/09/05 22:44:31.42 .net

>「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
伊都国は以北だろ

8:日本@名無史さん
16/09/05 22:47:40.53 .net
北九州つうか、筑後平野だろ常識的に考えて。
山門郡とか三潴郡とか御井郡とかのあたり。
卑弥呼の墓は祇園山古墳。
奥座敷みたいな所が日田ダンワラ古墳。

9:九州王
16/09/05 22:47:48.90 .net
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた
皆とは倭の国々を指しているのであって
皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし
伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

10:日本@名無史さん
16/09/05 22:53:00.60 .net
>>9
>全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
じゃ、皆も伊都国王の事だろ
>だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし
それ、あんたの所感

11:日本@名無史さん
16/09/05 23:07:17.41 .net

伊都国は女王国の南にでもあったのか?

12:日本@名無史さん
16/09/05 23:23:40.28 .net
>>6は漢文読めないことが明らか

13:日本@名無史さん
16/09/05 23:29:01.40 .net
畏れ憚られてると明記できるくらいだから、
火器などを用いて暴力的に支配してたんだろなあ

14:日本@名無史さん
16/09/05 23:38:47.64 .net
新撰組みたいなもんか

15:日本@名無史さん
16/09/06 00:14:30.81 .net
倭人伝の官名と記紀の人物の対応
対馬国の官「ヒク」=アマテラスの息子「アマツヒコ」
壱岐国の官「ヒク」=アマテラスの息子「イキツヒコ」←これなんかまんまだよね
伊都国の官「ニキ」=アマテラスの孫「ニニギ」
投馬国の官「ミミ」=アマテラスの息子「オシホミミ」
不弥国の官「タモ」=アマテラスの孫「ホアカリ(別名クシタマ)」

16:日本@名無史さん
16/09/06 00:19:24.45 .net
バカの隔離スレが必要だからな

17:日本@名無史さん
16/09/06 00:43:38.43 .net
前スレ>>947
>>「從郡至倭」即ち「郡を通って倭に至る」「郡の先にある倭に至る」
>>だから郡の外れでもよい
>何故、「從郡至倭」が「郡を通って倭に至る」「郡の先にある倭に至る」の説明を求める

介詞「從」の用法を勉強して下さいね。
現代中国語では、介詞「从」の用法になる。
「從郡至倭」の視点は、中国大陸の魏の都である洛陽にある。
この場合に「倭に至るには」の「從」の意味は、
「帯方郡を通って」「帯方郡の先の」「帯方郡の向こうの」等である。
「從」では、視点の起点は洛陽ではあるが、距離の起点は帯方郡である。
距離を基準にした日本語訳は「帯方郡から倭に至る」の意味になる。
経路を基準にした日本語訳では「帯方郡を通って倭に至る」の意味になる。

18:日本@名無史さん
16/09/06 00:56:04.73 .net
>>15
イイ線逝っているね。
邪馬壹國の官「イキマ」はどうなる?

19:日本@名無史さん
16/09/06 02:01:58.98 .net
邪馬台国の周辺の国はみな九州北部。
1番目の斯馬国は嶋(志摩)、福岡県糸島市
5番目の彌奴国は嶺(三根)、佐賀県神埼郡三根村にある吉野ヶ里遺跡
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖の安永田遺跡(佐賀県鳥栖市柚比町)
16番目の邪馬国は八女の室岡・亀ノ甲遺跡(福岡県八女市)
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

20:日本@名無史さん
16/09/06 08:19:43.34 .net
>>11
伊都国は「常治伊都國」とあるから「自女王國以北」に在っても一大率は居ない
伊都国は各諸国の一大率を統率する場所。

21:日本@名無史さん
16/09/06 08:27:44.68 .net
>>17
>「從郡至倭」の視点は、中国大陸の魏の都である洛陽にある。
>この場合に「倭に至るには」の「從」の意味は、
>「帯方郡を通って」「帯方郡の先の」「帯方郡の向こうの」等である。
また、これの説明がないな、いきなり理由もなく断定w

22:日本@名無史さん
16/09/06 08:42:00.56 .net
>>20
まだ言ってるw
恥ずかしい奴

23:日本@名無史さん
16/09/06 08:54:28.17 .net
新唐書には「置本卒一人、検察諸部」とあって、1人の大卒と解釈されてる。

24:日本@名無史さん
16/09/06 08:55:19.48 .net
>>21
>これの説明がないな、いきなり理由もなく断定
『介詞「從」の用法を勉強して下さいね。
現代中国語では、介詞「从」の用法になる。』
と介詞「從」の基礎知識を得てから理解しなさいと書いた。
介詞「從」を知らずして読もうとするのは、手抜きである。
手抜きの人は速やかにあっちの世界へ行って下さい。
上記が説明だ。
以下魏志倭人に沿っての解説である。
『「從郡至倭」の視点は、中国大陸の魏の都である洛陽にある。
この場合に「倭に至るには」の「從」の意味は、
「帯方郡を通って」「帯方郡の先の」「帯方郡の向こうの」等である。
介詞「從」では、視点の起点は洛陽ではあるが、距離の起点は帯方郡である。
距離を基準にした日本語訳は「帯方郡から倭に至る」の意味になる。
経路を基準にした日本語訳では「帯方郡を通って倭に至る」の意味になる。』

25:日本@名無史さん
16/09/06 08:59:27.84 .net
>>21 
>>24の意味が分かるかな?

26:日本@名無史さん
16/09/06 09:06:36.48 .net
だから何って話だな

27:日本@名無史さん
16/09/06 09:06:52.35 .net
>>21
  
現代中国語の介詞「从」の用法は中級レベル。
初心者レベルでは、介詞「从」の用法を理解しきれない。

28:日本@名無史さん
16/09/06 13:21:28.49 .net
>>27
介詞「从」の用法話しじゃなくて
「視点は、中国大陸の魏の都である洛陽にある」・・・こう断定する根拠

29:日本@名無史さん
16/09/06 13:27:38.95 .net
>>23
ここの文章は曖昧で各国に1人の大卒が居たのか
1人の大卒で各国を見ていたのか判別できないな。

30:日本@名無史さん
16/09/06 13:37:49.90 .net
1人の本卒が諸部を検察しているとしか読めないが

31:日本@名無史さん
16/09/06 13:38:23.41 .net
>>10
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに
伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく
倭王の卑弥呼や壹與としか考えられないだろ。

32:日本@名無史さん
16/09/06 13:38:36.49 .net
>>29
各国といっても、交易品が通る数ヵ国

33:日本@名無史さん
16/09/06 13:40:32.21 .net
>>30
それは君の決めつけ
「左右小島五十餘 皆自名國 而臣附之 置本率一人 檢察諸部」
だからな、どうとでも解釈できる。

34:日本@名無史さん
16/09/06 13:42:35.14 .net
>>33
それは君の決めつけ

35:日本@名無史さん
16/09/06 13:43:13.52 .net
>>31
卑弥呼は大倭王

36:日本@名無史さん
16/09/06 15:22:58.73 .net
>>31
だね。
逆にそうとしか読めない。
魏から王と認められていたのは誰?
という話だな。

37:日本@名無史さん
16/09/06 15:35:08.45 .net
卑弥呼が倭王。

38:日本@名無史さん
16/09/06 15:43:50.81 .net
ワオワオ

39:九州王
16/09/06 16:55:09.31 .net
結論
伊都国の王は実在しませんでした
伊都国に居た王とは倭王卑弥呼、壹與でした。
「丗有王」とは伊都国が倭の首都であるとの意味
「皆統屬女王國」とは伊都国を首都とする女王國に倭の国々は統屬されていたとの意味
「邪馬壹國 女王之所都」とは首都のある国の名前が邪馬壹國であるとの意味。

40:日本@名無史さん
16/09/06 17:34:00.58 .net
>>39 : 九州王
伊都国に丹山は無い。よって女王国ではない。

41:日本@名無史さん
16/09/06 18:31:23.24 .net
>>40
伊都国に丹山は無いが
伊都国に卑弥呼が居たことが明らかになったんだから
九州内には丹山が在ったんだよw

42:日本@名無史さん
16/09/06 18:42:29.92 .net
>>41
>伊都国に卑弥呼が居たことが明らかになったんだから
九州になんか卑弥呼様は居ないよ

43:日本@名無史さん
16/09/06 18:58:17.50 .net
佐賀ルートだと嬉野に丹山があるし、
熊本南部も丹山があるね。

44:日本@名無史さん
16/09/06 19:59:36.29 .net
>>43
卑弥呼の時代に「採掘」してなきゃ、だめじゃん。鉱脈があるだけじゃ、だめじゃん。

45:日本@名無史さん
16/09/06 20:18:18.57 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

46:日本@名無史さん
16/09/06 20:19:28.03 .net
>>44
当時は河原で流れてきた鉱石を
採取するんだよ。
嬉野の丹生神社では採取の様子が伝承にある。
だから、採掘場所の指定ではなく
「この山に丹あり」
という表現になるんだ。

47:日本@名無史さん
16/09/06 20:24:26.09 .net
>>46
涙ぐましい叫び。

48:日本@名無史さん
16/09/06 21:36:28.76 .net
>>44
>卑弥呼の時代に「採掘」してなきゃ、だめじゃん。鉱脈があるだけじゃ、だめじゃん。
日本の何処に卑弥呼の時代には辰砂を採掘してたと分かってる場所があるんだよw

49:日本@名無史さん
16/09/06 21:47:23.89 .net
北部九州は鉄丹も水銀朱も豊富に使われているからな。
九州内はもちろん、大陸からの輸入や
四国、紀伊などからも採取していても
おかしくない。
弥生中期から半島まで鉄をとりに
行くくらいだからな。
畿内はあまり朱丹を使った形跡がなく
わずかな使用例でも、
柩に粉のまま入れるなど
あまり使い方がわかっていない。

50:日本@名無史さん
16/09/06 22:09:16.63 .net
>>19
地図にプロットしてみた。
URLリンク(i.imgur.com)

51:日本@名無史さん
16/09/06 23:35:03.21 .net
>>50
各国邑の場所の特定は不可能で意味が無いな。

52:日本@名無史さん
16/09/07 00:28:25.79 .net
彌奴国と姐奴國、
對蘇国と支惟國がそれぞれ近接し過ぎててウソっぽいよな。
躬臣國の場所もなんか怪しいし。

53:日本@名無史さん
16/09/07 00:49:31.98 .net
>>28
>介詞「从」の用法話しじゃなくて
>「視点は、中国大陸の魏の都である洛陽にある」・・・こう断定する根拠
介詞「从(從)」の用法を知ること。介詞「从(從)」には、「through」の意味もある。
三國志魏書だから、読み手の視点の起点は常に洛陽にある。

54:日本@名無史さん
16/09/07 02:40:14.22 .net
URLリンク(lunabura.exblog.jp)
URLリンク(blog.livedoor.jp)
↑九州の物部の拠点
見事に伊都国、奴国を避けてる
伊都国、奴国は邪馬台国連合の領域
邪馬台国と物部は排他的な関係
天孫+物部が邪馬台国を征服したのが大和朝廷

55:日本@名無史さん
16/09/07 02:42:18.62 .net
>>52
巴利国は播磨
支惟国は紀伊
関西まで邪馬台国連合の領域

56:日本@名無史さん
16/09/07 08:11:13.47 .net
>>53
三國志魏書「東夷伝」だから、読み手の視点の起点は帯方郡じゃないの?
7000里は洛陽から倭まで?
韓が方可四千里有で朝鮮海峡を渡るのに3000里だよ、計算が合わないよw

57:日本@名無史さん
16/09/07 10:22:59.22 .net
>>56
>>24を参照して下さい。
>以下魏志倭人に沿っての解説である。
>『「從郡至倭」の視点は、中国大陸の魏の都である洛陽にある。
>この場合に「倭に至るには」の「從」の意味は、
>「帯方郡を通って」「帯方郡の先の」「帯方郡の向こうの」等である。

>介詞「從」では、視点の起点は洛陽ではあるが、距離の起点は帯方郡である。
>距離を基準にした日本語訳は「帯方郡から倭に至る」の意味になる。
>経路を基準にした日本語訳では「帯方郡を通って倭に至る」の意味になる。』

58:日本@名無史さん
16/09/07 11:27:29.38 .net
>>57
>>24に付いて質問してるのに>>24を参照して下さい?
回答になってないw

59:日本@名無史さん
16/09/07 13:20:28.23 .net
地下式横穴墓の分布
URLリンク(i.imgur.com)
九州物部氏の分布
URLリンク(pds.exblog.jp)
(筑後川北のわずか一ヶ所を除き)見事に排他関係
地下式横穴墓勢力=邪馬台国
九州物部勢力=大和朝廷
完全に解明

60:日本@名無史さん
16/09/07 13:48:52.68 .net
>>58
「從郡至倭」
① 距離を基準にした日本語訳は「帯方郡から倭に至る」の意味になる。
帯方郡から倭(狗邪韓國)まで7000餘里。
韓地方可四千餘里の2辺8000餘里の大部分7000餘里。
狗邪韓國から女王國まで5000餘里、計12000餘里。
② 経路を基準にした日本語訳では「帯方郡を通って倭に至る」の意味になる。
洛陽 → 帯方郡 → 狗邪韓國 → → → → 伊都国 → 不彌國(女王國)

介詞「從(从)」の用法を知ることが先決事項。
中国語中級レベルだよ。中国語検定2級or準一級レベル?

61:日本@名無史さん
16/09/07 14:04:30.59 .net
何にも答えてないね、アタマ悪いんだろ

62:日本@名無史さん
16/09/07 14:05:22.69 .net
日本語がわからないんじゃないかな、日本語レベル10級くらいか

63:日本@名無史さん
16/09/07 14:38:50.49 .net
URLリンク(ryosai.link)

64:日本@名無史さん
16/09/07 14:59:27.76 .net
15 : 日本@名無史さん2016/09/06(火) 00:14:30.81
>倭人伝の官名と記紀の人物の対応
>
対馬国の官「ヒク」=アマテラスの息子「アマツヒコ」
>壱岐国の官「ヒク」=アマテラスの息子「イキツヒコ」←これなんかまんまだよね
>伊都国の官「ニキ」=アマテラスの孫「ニニギ」
>投馬国の官「ミミ」=アマテラスの息子「オシホミミ」
>不弥国の官「タモ」=アマテラスの孫「ホアカリ(別名クシタマ)」
これはすばらしい
こういうこともあるのか
まさに、倭人伝を下敷きに、高天原神話を上書きしたようなものだ!!

65:日本@名無史さん
16/09/07 15:32:22.94 .net
>>60
>距離を基準にした日本語訳は「帯方郡から倭に至る」の意味になる。
>帯方郡から倭(狗邪韓國)まで7000餘里。
>経路を基準にした日本語訳では「帯方郡を通って倭に至る」の意味になる。
何じゃこりゃw
>介詞「從(从)」の用法を知ることが先決事項。
独自の文法を創作したんですねwww

66:日本@名無史さん
16/09/07 15:37:41.86 .net
>>59
饒速日かあ
なるほど!!

67:日本@名無史さん
16/09/07 17:33:28.09 .net
「従」が経由で「自」が起点っていうのはいいんだけど、だから何というお話

68:日本@名無史さん
16/09/07 18:30:10.46 .net
>>67
「従」が経由なら、魏使は帯方郡庁を通らないで、倭に直接来たと言える。
魏使のルートは、黄海を東へ渡って、
京畿湾(徳積群島)で南に方向を変え(乍南)半島西岸を南進し、
珍島で東に方向を変え(乍東)半島南岸を東進し、
其北岸狗邪韓國(巨済島南岸)に到着したと言える。
京畿湾(徳積群島)から其北岸狗邪韓國(巨済島南岸)までの距離は7000里である。
更に、其北岸狗邪韓國(巨済島南岸)から對馬國(対馬北西端)までの距離は1000里である。
以降、對馬國(対馬北西端)から不彌國(吉野ヶ里)までの距離は4000里となる。
魏志倭人伝の行程距離は正確であると言うことだ。
魏使は、洛陽から淮河と山東半島南岸を経由して唐津(末盧國)まで直接船でやって来たと言える。

69:日本@名無史さん
16/09/07 19:00:23.06 .net
>>68
でも倭人伝の從郡至倭の「従」は「帯方郡から倭に至る」の意味で
「帯方郡を通って倭に至る」の意味ではないけれどね
根拠の無い妄想しか言えない人の話は無視しましょ。

70:日本@名無史さん
16/09/07 19:02:59.35 .net
  
更に、黄河が開封付近で北東方向ではなく黄河古道を南東方向へ流れて
徐州を通り、淮河に合流している時代であれば、
魏使は洛陽から倭(唐津)まで船の乗り換え無しで直接来易い。
3世紀の黄河のルートは未検証です。

71:日本@名無史さん
16/09/07 19:20:48.05 .net
>>69
  
介詞「従」には、「through」の意味と「from」の意味が同時にあります。
経路を表す場合には、「through」の意味になり、
距離を表す場合には、「from」の意味になります。
古の人は、苦しい訳をしていますね。「郡より倭に至るには」
「より」を使ったのは、「through」の意味も「from」の意味も同時にあることを知っていたからでしょうね。

72:日本@名無史さん
16/09/07 19:45:05.57 .net
東南陸行五百里 到伊都國 女王之所都 水行十日 陸行一日

73:日本@名無史さん
16/09/07 19:55:28.39 .net
>>72
そこまで捻じ曲げんといかんのか!

74:日本@名無史さん
16/09/07 20:11:44.73 .net
「世有王、皆統屬女王國」
魏代に伊都國には王がいた
名前がないのは、王が卑彌呼だからである
「伊都國卑彌呼」

75:日本@名無史さん
16/09/07 20:13:54.61 .net
>>74
そこまで捻じ曲げんといかんのか!

76:日本@名無史さん
16/09/07 20:15:02.99 .net
伊都国は邪馬台国ではない
諦めろ
どうしても平原を比定したいなら他の方法を考えろ
「墓だけは伊都国に置いた」とかいくらでも言えるじゃねえか
倭人伝の読み替えはただの詐欺、捏造

77:日本@名無史さん
16/09/07 20:20:02.19 .net
>>75
>39 : 九州王2016/09/06(火) 16:55:09.31
結論
伊都国の王は実在しませんでした
伊都国に居た王とは倭王卑弥呼、壹與でした。
「丗有王」とは伊都国が倭の首都であるとの意味
「皆統屬女王國」とは伊都国を首都とする女王國に倭の国々は統屬されていたとの意味
「邪馬壹國 女王之所都」とは首都のある国の名前が邪馬壹國であるとの意味。

78:日本@名無史さん
16/09/07 20:21:29.72 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

79:日本@名無史さん
16/09/07 20:22:44.92 .net
>>77
伊都国には丹山がない。 よって、女王国では有り得ない。

80:日本@名無史さん
16/09/07 20:42:18.36 .net
伊都国には丹山がない・・・当たり前だろwww
女王国では有り得ない。・・・支離滅裂www
>>79バカじゃんw

81:日本@名無史さん
16/09/07 22:24:56.84 .net
卑弥呼がいたのは筑後平野または筑紫平野。
墓は平原。

82:日本@名無史さん
16/09/07 23:07:00.46 .net
>>76
>倭人伝の読み替えはただの詐欺、捏造
読み替えではない、従来の読み方が間違ってただけのこと
無理して意味の通らない読み方しなくとも
普通に読めば意味通じるし、矛盾も無いのよねw

83:日本@名無史さん
16/09/08 02:37:28.01 .net
お前も頭おかしいな
畿内説スレの畿内説くんもたいがい頭おかしいけど
伊都国と邪馬台国は別の国に決まってんだろ
勝手な結論から逆算して無理矢理読み替えるな

84:日本@名無史さん
16/09/08 06:54:54.74 .net
>>83
>伊都国と邪馬台国は別の国に決まってんだろ
これは君の誤った思い込みだ
邪馬壹國の首都が伊都國であるとして読むと
倭人伝は矛盾無く理解することができる
伊都国と邪馬台国は別の国として読むと意味不明の文書になる
つまり、伊都国と邪馬台国は別の国の方が誤った解釈だった訳だ。

85:日本@名無史さん
16/09/08 07:06:42.63 .net
きちがい現る

86:日本@名無史さん
16/09/08 08:02:40.68 .net
>>84
倭人伝にそう書いてあるんだが
倭人伝の筆者が間違ってるっていいたいの?

87:日本@名無史さん
16/09/08 08:24:41.62 .net
私は長く邪馬台国スレを見てきたが、どうも漢字表記にひきずられる初学者が多い。
そこで、皮相的な解釈に走りやすい現在の風潮を戒める意味からも、今までの反省に立って
正確な表音文字表記方式をとりたい。つまり、邪馬台国をのちヤマト政権との連想で論じるのではなく
倭国について何も知らない中国人が見聞きして書いた外国の話として純粋に扱うわけです。
邪馬台国 → ジャマティ国
伊都国 → ウィッツ国
奴国 → ヌ国
これからスレで話をするときは、上記の例文を参考にして表記の書き換えを行ってください。

88:日本@名無史さん
16/09/08 08:47:50.52 .net
>>86
>倭人伝にそう書いてあるんだが
倭人伝には邪馬壹國の首都が伊都國であると書いてある
倭人伝の筆者は間違ってない間違っているのは読む側の人。

89:日本@名無史さん
16/09/08 08:52:25.50 .net
>>88
>倭人伝には邪馬壹國の首都が伊都國であると書いてある

鹿




90:日本@名無史さん
16/09/08 08:58:40.02 .net
>>88
統合失調症を疑ったほうがいいよ

91:日本@名無史さん
16/09/08 09:00:31.42 .net
>>89が馬鹿に決まっているだろ
倭人伝は意味の通らないもので邪馬台国も何処から分からないで満足してるんだからな
全ての謎は既に解けてるだよw

92:九州王
16/09/08 09:02:52.36 .net
>>90
余りの完璧な説明に中傷や悪口しか書きこめないようだなwww

93:日本@名無史さん
16/09/08 10:00:57.73 .net
伊都国学芸員もついに終の時を迎えたか!

94:日本@名無史さん
16/09/08 10:02:17.85 .net
>>92
九州笑王

95:日本@名無史さん
16/09/08 10:41:52.44 .net
>>87
邪馬壹國 → シャマイ国
伊都国 → イト国(倭都國)
奴国 → ト国

96:九州王
16/09/08 12:17:51.87 .net
>>94
「まいりました、反論できません」との意味に取っておこうw

97:日本@名無史さん
16/09/08 12:21:07.35 .net
>>88
>倭人伝には邪馬壹國の首都が伊都國であると書いてある
何処に書いてあるんだよ阿呆
お前がそう読んだってだけの話だろ
じゃあ堂々と書いてあるのを今まで漢籍の専門家、東洋学の大家や
中国人ですら気が付かなったとでも?
どこまで夜郎自大で自惚れれば気が済むんだ九州説の連中って・・・

98:日本@名無史さん
16/09/08 12:24:54.12 .net
九州には、丹山がないのが致命的。

99:日本@名無史さん
16/09/08 12:48:34.67 .net
結局は罵りあいの罵倒合戦に
顔の見えない掲示板で意見交換なんて最初から無理。掲示板なんて自作の発表会だけで十分だ
他人の評価にいちいち食いつくなよ

100:日本@名無史さん
16/09/08 12:50:55.47 .net
吠えるだけで自分の意見がないのも掲示板

101:日本@名無史さん
16/09/08 13:26:46.34 .net
>>95
>>87
邪馬壹國 → シマ・イ国
伊都国 → イト国(倭都國)
奴国 → ト国

102:日本@名無史さん
16/09/08 15:23:37.97 .net
>>97
>じゃあ堂々と書いてあるのを今まで漢籍の専門家、東洋学の大家や
>中国人ですら気が付かなったとでも?
最初に訳した人が誤って訳して、それを誰も気づかなかったんだろうな
先生が訳したのを弟子が誤りとか言えなかったんじゃないの。

103:日本@名無史さん
16/09/08 15:26:18.42 .net
ゴタクはスルーで

104:日本@名無史さん
16/09/08 15:27:30.05 .net
このスレ見ててもぜんぜん参考にならないから他スレへ移動します。

105:日本@名無史さん
16/09/08 15:33:46.48 .net
もう来るなよ

106:日本@名無史さん
16/09/08 17:54:35.50 .net
卑弥呼は伊都国の王統に属するが、宮城のある邪馬台国は伊都国ではない近くの、例えば筑後川流域などにあり、死後は伊都国の平原に葬られた、ということかな?

107:日本@名無史さん
16/09/08 17:59:17.93 .net
>>106
根拠が全くない、空想話はもういいから。

108:日本@名無史さん
16/09/08 17:59:24.67 .net
平原は〆て弐萬戸の奴國界にある

109:日本@名無史さん
16/09/08 18:00:15.91 .net
>先生が訳したのを弟子が誤りとか言えなかったんじゃないの。
まー。これが学閥・学会体制の最大の欠点だな。
その点、顔が見えず、師弟関係の無い2チャンネルの方がはるかに、革新的で、進歩的だよ。
おかげで邪馬台国論争も、思いのほか早く完全解読にいたったってわけだ。
じゃ、またどこかで会おうぜ、、、、、

110:日本@名無史さん
16/09/08 18:03:12.01 .net
ところで、平原の意味を考えてみた。
ひら
平野ではなく、登り坂のこと。
ちなみに下り坂はさか。
例えば、黄泉比良坂は黄泉への登り坂と下り坂、つまり峠のこと。
ばる
広場ではなく、国邑のこと。
九州の原とつく地名はいずれも古い国邑。
あわせると、平原は登り坂にある国邑?
あっているかな?

111:日本@名無史さん
16/09/08 18:07:09.59 .net
怡土郡の音にひかれて
伊都を[いと]と読み為す愚は
もう卒業したほうが良い
ほんとまぬけすぐる

112:日本@名無史さん
16/09/08 19:24:56.36 .net
ここの説は10年前にサルでもわかる九州王朝と言うホームページにも書いたし
現在もウィキペディアの九州王朝に書いている
でも長すぎてあんまり読んでいる人いないみたい。

113:日本@名無史さん
16/09/08 20:08:04.77 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

114:九州王
16/09/09 08:08:04.18 .net
「丗有王」の誤訳から始まった邪馬台国論争だが他にも誤訳が沢山あるな。

115:日本@名無史さん
16/09/09 16:58:13.87 .net
>>111
どう読むの?

116:日本@名無史さん
16/09/09 17:20:38.57 .net
怡土 いと

117:日本@名無史さん
16/09/09 17:42:38.03 .net
>>111
>怡土郡の音にひかれて
>伊都を[いと]と読み為す愚は
>もう卒業したほうが良い
>ほんとまぬけすぐる
君の主張は間違っている。そろそろ引っ込めたら?
魏志倭人伝は、魏晉の発音である漢音(華北音・中原音)で書かれている。
「都」は、漢音(華北音・中原音)であるから「と」と発音する。
呉音(長江流域音)では、「都」は「つ」と発音する。
北方民族南下流入前のシナ大陸では、時代が変わっても該当地域の発音はあまり変化していない。

118:日本@名無史さん
16/09/09 18:14:35.41 .net
馬山のやや北にある昌原茶戸里1号墓から
紀元前後の毛筆が出土していることからわかるように
倭人の大酋長蓮は漢字使いであってからに
むしろ殷代の古音をひきずっている可能性が大

119:日本@名無史さん
16/09/09 18:15:58.43 .net
誤変換で塵混ぜちゃってごめんね

120:日本@名無史さん
16/09/09 18:22:12.28 .net
殷代の古音も漢音(華北音・中原音)
西周殷商は古い華北音(漢音)。

121:日本@名無史さん
16/09/09 18:28:02.12 .net
中原の土人は順次リフレッシュしているのだから
無意味な主張しても無駄だよ

122:日本@名無史さん
16/09/09 18:33:16.57 .net
商丘(初期商)、石家庄(末期商)、安陽(殷)、洛陽(西周)は同じ言語圏。

123:日本@名無史さん
16/09/09 18:37:59.63 .net
秦(威陽)も同じ言語圏(華北音・中原音)

124:日本@名無史さん
16/09/09 19:43:46.27 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

125:日本@名無史さん
16/09/10 07:39:07.30 .net
>>怡土郡の音にひかれて
>>伊都を[いと]と読み為す愚は
>君の主張は間違っている。そろそろ引っ込めたら?
「怡土」は、記紀上の表現だから、4-8世紀の命名ではないのか??

126:日本@名無史さん
16/09/10 11:03:59.66 .net
大化の改新以前は怡土縣(いとのあがた)が置かれ、『日本書紀』によるとその祖の名は五十跡手(いとて)。倭人伝と記紀が一致する。伊都国は怡土で間違いないと思われ。

127:日本@名無史さん
16/09/10 11:06:40.56 .net
× 五十跡手(いとて)。
○ 五十跡手(いそとて)。

128:日本@名無史さん
16/09/10 11:12:53.94 .net
「五十」で「い」と読む場合もあるよ
五十狭城入彦とか五十瓊敷入彦とか
五十跡手はどっちか知らないけど

129:日本@名無史さん
16/09/10 11:13:26.81 .net
ちなみに魏志倭人伝、つまり三国志の成立は3世紀後半。五十迹手と同時代の仲哀天皇は3~4世紀の天皇なので、とりあえず辻褄は合うのかな。

130:日本@名無史さん
16/09/10 11:32:00.87 .net
日本書紀仲哀天皇の巻に、筑紫の伊都県主の先祖が五十迹手として、
神功皇后の巻に、筑前怡土郡が出てくる。
両者は違うんだよね。

131:日本@名無史さん
16/09/10 11:32:53.72 .net
五十迹手じゃないけど佐賀の基山や紀伊で祀られている木の神様は五十猛命。なんかつながりあるのかな。

132:日本@名無史さん
16/09/10 12:04:12.58 .net
神武天皇の二番目の妃は出雲出身の媛蹈鞴五十鈴媛命と言われてるが九州北部では?『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記している。五十や多々良は九州北部にもある。

133:日本@名無史さん
16/09/10 12:17:28.47 .net
129 : 日本@名無史さん2016/09/10(土) 11:13:26.81
>ちなみに魏志倭人伝、つまり三国志の成立は3世紀後半。
>五十迹手と同時代の仲哀天皇は3~4世紀の天皇なので、とりあえず辻褄は合うのかな。
さよう、
まさしく8世紀の記紀の編者が、
とりあえず、辻褄を合わせた・・・、と言うのが真相だろう。

134:日本@名無史さん
16/09/10 12:40:50.46 .net
仲哀天皇記
また同時に伊都県主の祖・五十迹手も同じように恭順し、穴門の引島に姿を見せた。
天皇はこれを賞し、五十迹手のことを「伊蘇志(いそし)」と言った。
これにより五十迹手の本国は「伊蘇国(いそのくに)」と言われるようになった。
ところが、今は「伊都(いと)国」と言うようになってしまったが、それは誤りである。

135:日本@名無史さん
16/09/10 12:42:57.79 .net
>>133
倭人伝の末盧国から五百里で記紀の五十迹手だから合わせ技で伊都は怡土で糸島かなぁ。

136:日本@名無史さん
16/09/10 12:57:44.38 .net
URLリンク(www.youtube.com)

137:日本@名無史さん
16/09/10 17:14:25.22 .net
注意  以下のスレ主は自分以外のスレ荒らすから
    すでにこのスレもターゲットにされている
スレリンク(history板)

138:日本@名無史さん
16/09/10 18:09:00.27 .net
>>132
糸島にある産宮神社。
謎の奈留多姫がいる。
祭神の一人であり、綏靖天皇の母との社伝がある。

139:日本@名無史さん
16/09/10 19:33:19.96 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

140:日本@名無史さん
16/09/10 22:49:15.53 .net
>>138
奈留多姫は豊玉姫、玉依姫姉妹と同じ一族みたいだね。海神族かな。

141:日本@名無史さん
16/09/11 20:06:23.77 .net
>>134
仲哀、神功のあたりは怪しげな地名の起源の捏造が多々ある。
日本書紀の編集者にとって、伊都国の扱いは大変デリケートだった。
古くは皇祖であるが、後に立場が逆転したからである。

142:日本@名無史さん
16/09/11 22:47:48.29 .net
海神族のあと天神族がきて500年あとぐらいに天孫族がやってくる。

143:日本@名無史さん
16/09/12 16:30:38.25 .net
天神族って具体的にどの豪族の事を指しているの?

144:日本@名無史さん
16/09/12 17:57:24.96 .net
バカの脳内だけある設定だから誰も知りません

145:日本@名無史さん
16/09/12 19:36:09.39 .net
天神族は天から神が降りてきたのではないBC219年徐福は3千人の若者、職人
たちと共に佐賀の諸富に上陸した、天神族の始まりである。

146:日本@名無史さん
16/09/12 19:40:16.72 .net
天孫族は280年三国志時代の呉が滅亡の際2万人の軍が船とともに日向に
上陸し高千穂に移動した、天孫降臨ですね、そののち奈良へ移動し出雲の国
譲りにより大和王権を確立する。

147:日本@名無史さん
16/09/12 19:45:00.46 .net
秦氏は天神族、海部氏は海神族、海人族。

148:日本@名無史さん
16/09/12 19:46:20.51 .net
物部氏は海人族

149:日本@名無史さん
16/09/12 19:55:04.69 .net
竹内、神功は海人族で大和に反旗を翻し朝鮮半島に行き新羅の助け(騎馬民族
がここで出てくるんですね)を受け宇佐神宮で打倒大和の必勝祈願をして応神
天皇とともに東征をして河内政権を樹立。

150:日本@名無史さん
16/09/12 21:24:20.02 .net
受容側の竹内は神功のパトロン
神功の出処は馬山の先の阿羅
列島側の阿那との長期的な密接な絡みから
穴門が征服中継拠点としてチョイスされた
神功は渡海してきて倭女王にすり替わった

151:日本@名無史さん
16/09/12 21:29:03.25 .net
何ですり替わる必要があったの?
どうせ畿内政権は楽勝で倒したわけだし

152:日本@名無史さん
16/09/12 21:56:33.07 .net
楚辞好きの左襟の熊楚系女王を心太しちゃった理由のひとつには
ご先祖にあたる日北孤の子のあまされて関西に追放された恨みとかのも

153:日本@名無史さん
16/09/12 22:09:34.25 .net
できれば日本語で

154:日本@名無史さん
16/09/12 22:21:20.40 .net
神功絡みの高良大明神の神裔の稲員氏は物部氏
神功は潮の満ち引きをコントロールできる玉使い
当然のこと海人族ですね

155:日本@名無史さん
16/09/12 23:09:03.78 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

156:日本@名無史さん
16/09/13 11:55:23.99 .net
九州天孫族は縄文系
畿内は弥生朝鮮系

157:日本@名無史さん
16/09/13 20:49:39.06 .net
誤 畿内は弥生朝鮮系
正 畿内は古墳朝鮮系

158:日本@名無史さん
16/09/14 10:25:08.02 .net
畿内人はチョン
汚らわしい朝鮮人

汚鮮された日本をきれいに除鮮しよう!

159:日本@名無史さん
16/09/14 18:41:14.26 .net
>>1クズ(九州)王
おいキチガイクソ爺
いいに加減にしろよ
スレ使いきってから新スレなんて2ちゃんの常識だろうが
ゴミクズ(九州)
>30 名前:九州王[] 投稿日:2016/09/14(水) 06:26:10.01
>また妄想全開のテンプレかw
>根拠が全く無い願望だけだなwww
妄想ってのはお前の与太だろうが
死ねよクズ(九州)

160:日本@名無史さん
16/09/14 18:52:51.77 .net
>5. 近畿説の連中の非常に顕著な特徴は、自己紹介病という一種の精神病に罹っていること。
>とにかく、言うことがほぼ100%自己紹介。
>精神病理学的な観点から見ると非常に興味深い。
・・・これは>>1のクズ(九州)王がニュー速+のスレに書いたっぽいが
ま ん ま 九 州 説 の ア ホ ど も の こ と だ ろ wwwwww
北から南までそれこそ論者の数だけ一人一説
「俺が俺が」の比定地
「オレサマこそが古代史の謎を解き明かした稀代の天才奇才」
自己顕示欲のような塊のゴミクズ(九州)の集まりの総称が九州(クズ)説
このスレにしても「北部九州にあった」と言いつつ
>>1のクズ(九州)王の伊都国説?を押し付けてる
中身はクズ(九州)王の日記帳
大体一般に「北部九州説」と言えば山門説がいわば老舗元祖で
あと広く筑後川流域とかが一番メジャーだろうに
でもこの
  ” 自己(説)紹介病という一種の精神病に罹っている ”
キチガイの>>1クズ(九州)王にとっては自説こそが北部九州の代表ってことなんだろうな
夜郎自大、井の中の蛙、自惚れもいいところ
死ねよキチガイ爺

161:日本@名無史さん
16/09/14 19:09:28.33 .net
れは>>1のクズ(九州)王はニュー速+のスレで相変わらず
>卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
とかほざいてるけどそもそも年代の根拠はあるのか?
須恵器が墳丘のあちこちから出てあと画文帯神獣鏡の鏡編
近くの神社にそこから出えたと伝わるのは三角縁神獣鏡だっけ?
どう見ても少なくとも箸墓より古いとみなせる材料はないと思うが
必死に畿内説に噛みつく時と
じゃあ九州内の自説の比定地を語る時じゃあ
年代やその他も平気でダブスタやらかすのがこの手のクズ(九州)

162:日本@名無史さん
16/09/15 01:04:14.80 .net
クズ王は邪馬台国の中に伊都国があるというヘンテコ説で
ニュー速+の電波は神武=雇われ店長説だから別人じゃないかな
ほんとどうでもいいことだけど

163:日本@名無史さん
16/09/19 00:11:38.70 .net
>卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
の可能性が最も大きい。

邪馬壹國領域
うきは市、大刀洗町、朝倉市、筑前町、筑紫野市、基山町、
小郡市、鳥栖市、久留米市、広川町、筑後市、八女市、の8市4町
4地域に分割統治の連合国(長官1名と次官3名の4支配地域と卑弥呼直轄地久留米市)
投馬國領域
みやき町三根、神埼市千代田、久留米市浮島城島、大木町、
佐賀市諸富、大川市、柳川市、みやま市、大牟田市、の7市2町
不彌國領域
吉野ヶ里町、神埼市中心部、の1市1町
吉野ヶ里遺跡
奴國領域
佐賀市中心部、佐賀市南部、小城市、の2市
伊都國領域
佐賀市中部大和町大字久池井周辺
惣座遺跡
末盧國上陸地点
唐津市中原(中原遺跡)
卑弥呼直轄地(長官代理 一大率)

164:日本@名無史さん
16/09/19 15:50:54.48 .net
>>51
おまえさんには無理。
無理と諦めるくらいならこのスレを覗く価値もない。

165:日本@名無史さん
16/09/20 23:36:48.76 .net
伊都国は末盧國から南東に30㎞(一里は60mで)と書いているから、
現代の小城市になる。
邪馬台国の関門の役目の国とあるから、地形・地名にも合っている。

166:日本@名無史さん
16/09/21 00:16:43.66 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

167:日本@名無史さん
16/09/21 10:04:03.67 .net
>>165
末盧國はどこ?

168:日本@名無史さん
16/09/21 18:48:30.79 .net
スレ主は北部九州説の信憑性を破壊するために
畿内説側から送り込まれたスパイだろ

169:日本@名無史さん
16/09/21 21:54:44.97 .net
伊都国は末盧國(唐津中原遺跡)から南東に48㎞(一里は76.5mで)と書いているから、
佐賀肥前国庁跡付近(惣座遺跡)になる。
邪馬台国の関門の役目の国とあるから、地形・地名にも合っている。

170:日本@名無史さん
16/09/21 22:40:17.76 .net
末盧國(唐津中原遺跡)は、対馬海流に流されて有り得ない。    終了w

171:日本@名無史さん
16/09/22 00:11:42.02 .net
末盧國は唐津で確定しているのでは?

172:日本@名無史さん
16/09/22 06:21:57.14 .net
>>171
末盧國は博多湾の福津で確定している。

173:日本@名無史さん
16/09/22 10:51:50.63 .net
>>170
>末盧國(唐津中原遺跡)は、対馬海流に流されて有り得ない。
壱岐と唐津湾の間には、対馬海流は流れていません。
弱い流れの壱岐水道があるだけである。
ほぼ常に北向きの早くて強い流れの海流があるのは、対馬西水道。
対馬東水道の潮流は、中程度の北向きであるが、南向きに反転する時間がある。
URLリンク(le-web.riam.kyushu-u.ac.jp)

174:日本@名無史さん
16/09/22 10:58:05.54 .net
  
末盧國(上陸地点)は、弥生から元寇までの港(中原遺跡)があったところで確定。

175:日本@名無史さん
16/09/22 11:23:12.15 .net
>>174
防塁のない唐津は末盧國で有り得ない。

176:日本@名無史さん
16/09/22 11:33:47.55 .net
>>173
元寇でさえ唐津には着けなかった対馬東水道の「海流」

177:日本@名無史さん
16/09/22 12:31:26.66 .net
三国志は中国共産党がでっち上げて作った似非史書だった! [無断転載禁止]2ch.net
スレリンク(warhis板)
↑邪馬台国の存在も否定する馬鹿が立てたスレ

178:日本@名無史さん
16/09/22 13:03:24.45 .net
末盧國(上陸地点)は、呼子だな
わざわざ唐津や福津まで行く理由がない。

179:日本@名無史さん
16/09/22 13:05:45.14 .net
手漕ぎの舟でも壱岐から呼子へは渡れるぞw

180:日本@名無史さん
16/09/22 13:07:14.12 .net
>>179
元寇に喧嘩売るのか?

181:日本@名無史さん
16/09/22 13:10:08.33 .net
>>178
いやー、呼子に行きたかったんだけど、福津に着いちゃったんだよ。

182:日本@名無史さん
16/09/23 08:45:57.30 .net
>>180
戦争で敵地に上陸するには大軍を一度に上陸させられる広い砂浜が必要だが
呼子には砂浜が無ので元寇は上陸時点に選ばなかったの。

183:日本@名無史さん
16/09/23 09:06:43.38 .net
>>182
元寇でさえ呼子には着けなかった呼子の岩礁

184:日本@名無史さん
16/09/23 09:23:11.78 .net
末盧國(上陸地点)は、福間だな
わざわざ命を懸けて、呼子や唐津まで行く理由がない。

185:日本@名無史さん
16/09/23 16:10:53.66 .net
壱岐から呼子の神集島、それから志摩の引津だなー。万葉集に歌が残ってるよ。

186:日本@名無史さん
16/09/23 16:13:00.72 .net
理由はあるだろ
魏が攻めてくる懸念があるなら上陸しやすい港は避けても不思議じゃないぞ

187:日本@名無史さん
16/09/23 16:18:28.06 .net
>>186
>魏が攻めてくる懸念
???  魏使が敵???  チミの考えが分からん。

188:日本@名無史さん
16/09/23 16:25:06.69 .net
友好国だからといって軍事的要所を見せるとは限らないだろ
将来敵になる可能性がゼロなわけじゃないんだから

189:日本@名無史さん
16/09/23 16:34:52.26 .net
>>188
チミ、ものすごい心配性?
心配性にしては、命がけの航海もできるんだ!

190:日本@名無史さん
16/09/23 16:44:04.26 .net
そりゃ当時だって心配性の人はいるだろ

191:日本@名無史さん
16/09/24 01:28:08.47 .net
不弥国から船で南に行ってんだから、有明海を南に行くしかない。
シナ人の白髪三千丈を考えれば、20日といっても不弥国から
丸太船で三日というところ。シナ人の下級役人は嘘しか言わない。
着いたところは投馬国であり、今の熊本だ。

192:日本@名無史さん
16/09/24 09:46:07.53 .net
>>183
港には一度には限られた数の船しか入港できない
港には大勢の兵士が防御の為にいるので殺され行くようなもの
上陸作戦には広い砂浜の方が大軍が一度に上陸できるから適しているだよ
君、軍事に疎いね。

193:日本@名無史さん
16/09/24 16:38:27.30 .net
投馬国は畿内説ではどこですか?

194:日本@名無史さん
16/09/24 16:44:24.33 .net
後漢鏡どころか前漢鏡ですら洛陽晋墓に副葬されている
つまり漢鏡の供給元の年代は
晋が成立する265年より以降まで下ることになる
そこから伝来する漢鏡の出土をもって年代を決めるのは慎重さが求められる

195:日本@名無史さん
16/09/24 17:05:54.26 .net
>>193
出雲と考える人が一番多いんじゃないのかな
あとは丹後や吉備あたり

196:日本@名無史さん
16/09/24 18:28:33.36 .net
妄想説だから、ひとそれぞれ、色々考えられる。

197:日本@名無史さん
16/09/24 18:28:45.22 .net
「投馬國」のコアなところは
「多婆那」でも表記される元祖「邪馬門」で
「阿那門」とか「那ヶ門」とかの呼称もある
「邪馬門」の意味は「邪馬」のバウンダリーの入口の意味で
これは東側の「女王境界所盡」の直近に接してあるところで
「女王國東渡海千餘里 復有國」とも記されている

198:日本@名無史さん
16/09/24 19:42:49.61 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

199:九州王
16/09/29 10:33:11.43 .net
邪馬台国論争の起こりは畿内説の学者が「世有王 皆統屬女王國」を誤訳したことに始まる
「世有王」とは魏の治世に倭王卑弥呼が伊都国に居たとの意味が正しい
「皆」とは倭の国々であり「皆統屬女王國」では
伊都国を首都とする女王国に倭の国々は統属されていたの意味
倭人伝にはちゃんと答えが明記されていたのである。

200:日本@名無史さん
16/09/29 10:34:30.62 .net
ニュー速+にさっさとバトルフィールド建てろや!

201:日本@名無史さん
16/09/29 10:43:49.35 .net
sage

202:日本@名無史さん
16/09/29 10:59:41.53 .net
あげ

203:日本@名無史さん
16/09/29 11:38:09.54 .net
九州王の解釈が正しいんだとしたら魏志倭人伝の作者は文章めちゃくちゃ下手くそだということになるな
だってこんな解釈してんのこいつだけやろ

204:日本@名無史さん
16/09/29 12:17:44.36 .net
>>203
江戸時代の学者さんは分かっていたかもな
明治以後漢文かんて軽視され読解力が落ちたんだろうw

205:日本@名無史さん
16/09/29 12:24:03.28 .net
>>204
いや皮肉で言ってんだよバーカ

206:日本@名無史さん
16/09/29 12:30:26.71 .net
全く皮肉になってないなwww

207:日本@名無史さん
16/09/29 13:35:02.49 .net
皮肉が理解できないのはアスペルガーの症状です
九州王さんには診断をおすすめしますね

208:日本@名無史さん
16/09/29 13:50:08.71 .net
「世有王」を最初に「伊都国の代々の王」と訳した人は当然「魏の治世の伊都国の王」も考えたはずだ
「皆」が「世有王」を指すとして「伊都国の代々の王」と訳したんだろうが
「魏の治世の伊都国の王」と訳さなかったのは邪馬台国を関西に持っていきたかったからだろうな。

209:日本@名無史さん
16/09/29 17:30:30.97 .net
>>203
編集のプロの上野武さんの説に近いよね。

210:日本@名無史さん
16/09/29 17:36:56.61 .net
誰だよw

211:日本@名無史さん
16/09/29 20:29:16.64 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

212:日本@名無史さん
16/09/30 08:22:34.23 .net
<福岡「伊都国」>2例目の硯 「弥生後期に文字」強まる
毎日新聞 9月28日(水)21時57分配信
福岡県糸島市教委は28日、弥生時代後期(1~2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した同市の三雲・井原遺跡で、新たに別の硯の破片が発見されたと発表した。
同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の中枢遺跡で、外交文書のやり取りをしていたとする記述がある。
1例目の硯が発見されるまで国内での文字使用は3世紀ごろからとされていた。
硯が複数発見されたことで、市教委は「伊都国で文書が作成されていた可能性がより強まった」とした。
破片は板石状で5.4センチ×3.9センチ、厚さ5ミリ。
昨年12月に発見された硯と材質は同じだが、1ミリほど薄く、裏面の加工の仕方が違うことなどから、市教委は別の硯と判断した。
ただし同時代の物とみられる。
同じ遺跡から弥生時代の硯が2例発見されるのは全国初。
2個の出土場所は15メートルほど離れていた。
「魏志倭人伝」では、伊都国には古代中国の出先機関・楽浪郡(朝鮮半島北西部)などの外交使節が滞在し、使節の到着時に、外交文書の作成を担ったとする記述がある。
信ぴょう性が高まったことで、市教委文化課の平尾和久主任主査は「弥生時代は想像よりも官僚的な組織ができはじめていたのかもしれない」と話した。
2個の硯は10月8日~11月27日、伊都国歴史博物館(糸島市)で展示される。【尾垣和幸】
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

213:日本@名無史さん
16/09/30 17:09:05.72 .net
郡治-狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国-伊都国-奴国(距離での説明)
七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里)
= 自郡-自女王國(総距離での説明)
萬二千餘里
奴国までで12000里
「自女王國以北」・・・つまり奴国以北の意味
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では
「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」
の意味となる。

214:日本@名無史さん
16/09/30 17:09:49.77 .net
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
伊都国が邪馬壹國の首都
「邪馬壹國 女王之所都」とは邪馬壹國の中に女王の都があるとの意味。

215:日本@名無史さん
16/09/30 18:42:56.04 .net
伊都国はどっから出てきたの

216:日本@名無史さん
16/09/30 19:52:33.18 .net
奴国から日向峠を越えて移動してきた。
または、海の向こうから来て奴国から王権を奪った。

217:日本@名無史さん
16/09/30 20:35:25.35 .net
東南陸行五百里到伊都國女王之所都水行十日陸行一月

218:日本@名無史さん
16/10/01 09:43:56.43 .net
>>213
惜しい。一部分間違いがある。
郡-狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国-伊都国-不彌國(距離での説明)
水行七千里 + 渡海千里 + 水行(四百里×2)+ 渡海千里
+ 水行(三百里×2)+ 渡海千里 + 陸行五百里 + 東行百里)
= 萬二千餘里
自郡-至女王國(総距離での説明)
萬二千餘里
不彌國までで12000餘里
伊都国-奴國間の距離
 至100里
奴國までで12000餘里
「自女王國以北」・・・つまり奴国と不彌國以北の意味

一大率についてはかなり異なる見解。

219:日本@名無史さん
16/10/01 10:27:58.42 .net
sage

220:日本@名無史さん
16/10/01 14:11:11.90 .net
>>218
不彌国は奴国の先に在る
12000里の所が2か所もはない
奴国から不彌国へ、不彌国から斯馬国へと繋がり傍国20か国を回って奴国へ戻る
この距離が「周旋可五千餘里」のことで
実測した末盧国-伊都国の500里、伊都国-奴国の100里、奴国-不弥国の100里を用いて計算で推定したもの
奴国-不弥国の100里に末盧国-不弥国間の平均距離を21(不弥国から奴国までの国邑間の数)倍し加えた。
100里 + (500里+100里+100里)÷3 × 21 = 5000里
奴国-不弥国 末盧国-不弥国の平均距離 周旋可五千餘里

221:日本@名無史さん
16/10/01 17:06:22.47 .net
>>220
あほくさ

222:日本@名無史さん
16/10/01 22:53:58.39 .net
>>220
阿保の極限

223:日本@名無史さん
16/10/02 00:07:45.61 .net
阿保の極南界だろ

224:日本@名無史さん
16/10/02 09:28:52.25 .net
>>220
>不彌国は奴国の先に在る
>12000里の所が2か所もはない
不彌國は伊都國の東にあり、
奴國は伊都國の東南にある。
行程距離表示と区間距離表示の違いについて認識すべし。
行程距離表示(移動の動詞がある表示)
郡→狗邪韓國:水行7000餘里
狗邪韓國→對海國:度(渡)海1000餘里
・・・・・
末盧國→伊都國:陸行500里
伊都國→不彌國:東行100里
自郡至女王國12000餘里が行程距離の場合のルートは、
郡→ → → →末盧國→伊都國→不彌國となる。
区間距離表示(移動の動詞が無い表示)
伊都國―奴國:東南至100里
自郡至女王國12000餘里が行程距離+区間距離の場合のルートは、
郡→ → → →末盧國→伊都國―奴國となる。

225:日本@名無史さん
16/10/02 12:44:32.40 .net
>>224
時代遅れの分岐説www

226:224
16/10/02 15:16:02.80 .net
>>225
>時代遅れの分岐説
分岐説ではない。
新「行程論説」である。
①移動の動詞の「有」「無」
②起点を表す介詞の「從」「自」等の用例の違い。
本文の行程の起点を表す介詞は「從」・・・「從郡至倭」
文中の距離の起点を表す介詞は「自」・・・「自郡至女王國」「自女王國以北」

227:日本@名無史さん
16/10/02 15:29:10.91 .net
おまい等って、普段は何してる奴等なの?
普通のリーマン? 学生? 歴史家?

228:224
16/10/02 15:38:39.33 .net
>>227
定年退職後の趣味の歴史家です。
若年の頃はエンジニアリーマン

229:日本@名無史さん
16/10/02 15:46:13.66 .net
  
現代中国語の介詞を、古代漢文の介詞学習の一助にどうぞ。
>>URLリンク(www.chinesemaster.net)

230:日本@名無史さん
16/10/02 15:55:28.79 .net
「从」:「從」の簡略体

231:日本@名無史さん
16/10/02 16:28:40.88 .net
○○のひとつ覚え

232:九州王
16/10/02 17:12:16.88 .net
>>227
電気技術系の自営業(大学は文系だがな)
単なる歴史好きw

233:日本@名無史さん
16/10/02 17:43:44.49 .net
國國の戸数・家数は國國のバウンダリーの広がりと強い相関関係があろう
國國の戸数・家数を加味してあげると
女王國は奴國バウンダリーに時期をちがえて2つあったと解される
(11,900里)
 伊都國→不彌國(12,000里)
    ↘
    奴國(12,000里)

234:日本@名無史さん
16/10/02 17:48:58.89 .net
100里は7.65kmだからちゃんと計測してあげればおよその位置は把握できるよ

235:日本@名無史さん
16/10/02 19:33:03.95 .net
>>233-234
末盧國上陸地点を、唐津松浦川右岸中原遺跡とすれば、
伊都國は、佐賀肥前国庁跡惣座遺跡となり、
奴國は佐賀城跡、不彌國は吉野ヶ里遺跡となる。
方向については、「巳」方向は時計回転向きに約20°、
「卯」方向は反時計回転向きに約10°ズレる。
これは、方向を星座の位置によって測定していた為。
この現象は、北極点の位置移動による黄道上の星座位置のズレと合致する。

236:日本@名無史さん
16/10/02 19:36:20.13 .net
>>235
対馬海流に流されて、
末盧國上陸地点を、唐津松浦川右岸中原遺跡とすることは、有り得ない。

237:日本@名無史さん
16/10/02 19:39:06.99 .net
中原遺跡だとアワビがとれないし潜水するレベルの深度も無いから無理

238:日本@名無史さん
16/10/02 19:45:10.74 .net
其山有丹も無いから無理。

239:日本@名無史さん
16/10/02 20:17:30.18 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

240:日本@名無史さん
16/10/03 01:56:08.61 .net
>>236
>対馬海流に流されて、
>末盧國上陸地点を、唐津松浦川右岸中原遺跡とすることは、有り得ない。
>>237
>中原遺跡だとアワビがとれないし潜水するレベルの深度も無いから無理
唐津中原遺跡は、一大國原の辻遺跡から約750里南にあります。
虹の松原から唐津城にかけての浜堤(ヒンテイ)の南側には、
京都丹後の久美浜湾の様な湾又は汽水湖があり、大型船でも入れました。
松浦川の現河口は、江戸時代に松浦川の放水路として開削されたものです。
元寇の時にも中原遺跡は未だ港湾機能を持った港でした。
唐津城の南側の水域(湾内)は絶好のあわび等潜水漁法の漁場だったと考えられます。

241:日本@名無史さん
16/10/03 02:07:31.71 .net
>>238
>其山有丹も無いから無理。
丹(ベンガラ朱丹)の原料(リモナイト)なら
阿蘇山周辺以外の筑紫平野の周りの山でも産出する。

242:日本@名無史さん
16/10/03 07:44:03.74 .net
>>240
>虹の松原から唐津城にかけての浜堤(ヒンテイ)の南側には、
  京都丹後の久美浜湾の様な湾又は汽水湖があり、大型船でも入れました。
対馬海流に流されて、
末盧國上陸地点を、唐津松浦川右岸中原遺跡とすることは、有り得ない。

243:日本@名無史さん
16/10/03 07:46:47.52 .net
>>241
>丹(ベンガラ朱丹)の原料(リモナイト)なら
阿蘇山周辺以外の筑紫平野の周りの山でも産出する。
其山有丹(真朱)も無いから無理。

244:日本@名無史さん
16/10/03 13:15:23.13 .net
>>242
>対馬海流に流されて、
>末盧國上陸地点を、唐津松浦川右岸中原遺跡とすることは、有り得ない。
一大國原の辻遺跡から唐津中原遺跡までの約750里の海域(壱岐水道)には、
対馬海流は流れていません。
速い潮流の渡海困難な対馬海流が流れているのは、対馬の西側の海(対馬西水道)である。

対馬海流のある対馬西水道を迅速に容易く渡海する方法。
巨済島南岸(北岸狗邪韓國)から東に向かって、
対馬海流(対馬西水道)に乗って斜め横断すると、
対馬北西端に簡単に着きます。
対馬から半島への渡海は、
対馬西南端から対馬海流(対馬西水道)に乗って北方向に斜め横断すると、
釜山に迅速簡単に着きます。

245:日本@名無史さん
16/10/03 13:21:14.86 .net
>>243
>其山有丹(真朱)も無いから無理。

其山有丹(鉄丹)があるからOK。

246:日本@名無史さん
16/10/03 13:29:20.08 .net
其山有鉄 こりゃ、すげー

247:日本@名無史さん
16/10/03 13:34:24.38 .net
九州は女王国じゃないことがよくわかる。

248:日本@名無史さん
16/10/03 13:56:40.01 .net
>>244
>一大國原の辻遺跡から唐津中原遺跡までの約750里の海域(壱岐水道)には、
対馬海流は流れていません。
ウソ!
URLリンク(le-web.riam.kyushu-u.ac.jp)

249:日本@名無史さん
16/10/03 14:12:27.14 .net
>>248
九州は女王国じゃないことがよくわかる。

250:日本@名無史さん
16/10/03 14:29:37.17 .net
前から思うけど昔からヤマタイって呼ばれてた地域はどっかにあるの?
あればそこが邪馬台国じゃないの

251:日本@名無史さん
16/10/03 14:34:04.39 .net
それでヤマタイってとこが無ければ邪馬台国はヤマト国で
昔はヤマトの国て呼ばれてた近畿にあったんじゃないの

252:日本@名無史さん
16/10/03 14:44:33.43 .net
>>251
>昔はヤマトの国て呼ばれてた近畿にあったんじゃないの
近畿?はオオヤマト。

253:日本@名無史さん
16/10/03 15:41:50.55 .net
>>248
「ウソ!」と思い込んでいるのは君だけ。
1時間毎に変化する潮流
URLリンク(le-web.riam.kyushu-u.ac.jp)
対馬海流が流れているのは、対馬の西海域(対馬西水道)です。
壱岐水道(壱岐の南海域)と対馬東水道(対馬の東海域)の潮流は、
時間経過と共に流れる方向が360°変化しています。

254:日本@名無史さん
16/10/03 15:51:43.73 .net
>>253
>壱岐水道(壱岐の南海域)と対馬東水道(対馬の東海域)の潮流は、
     時間経過と共に流れる方向が360°変化しています。
変化時間経過と共に流れる方向が360°変化するような「眼がくらむ海峡」です。
唐津方向へはたどり着けません。
末盧國上陸地点を、唐津松浦川右岸中原遺跡とすることは、有り得ない。

255:日本@名無史さん
16/10/03 15:56:25.74 .net
>>254
九州は女王国じゃないことがよくわかる。

256:日本@名無史さん
16/10/03 15:58:38.25 .net
オオヤマトは美称じゃないかなあ
その頃にヤマトトトヒモモソヒメという名前の人も居るし

257:日本@名無史さん
16/10/03 16:01:58.09 .net
>>256
>その頃にヤマトトトヒモモソヒメという名前の人も居るし
ヤマトトトヒモモソヒメという名前の人は、ヤマトの人。
近畿?はオオヤマト。

258:日本@名無史さん
16/10/03 16:12:16.38 .net
>>254
一大國で南北市糴している商人の水先案内があれば、
渡海するのは簡単なことです。
彼ら商人は、月齢と天空の月の位置と風の方向(天候)から
正確な渡海のタイミングと航路選択を熟知しています。

259:日本@名無史さん
16/10/03 16:34:56.13 .net
モモソ姫は阿波
ヤマトは阿波

260:日本@名無史さん
16/10/03 16:47:25.34 .net
モモソヒメは古代の奈良の人だった
またヤマトトトヒは倭迹迹日と漢字で表記される
あの辺りをヤマトと呼ぶのも一般的な事だったのではないか

261:日本@名無史さん
16/10/03 17:15:40.25 .net
>>260
ヤマトモモソ姫は阿波
ヤマトは阿波
近畿?はオオヤマト。

262:日本@名無史さん
16/10/03 17:31:24.03 .net
記紀には山跡、夜麻苔、野麻登の表記が多く見られる
ヤマト、オオヤマトの呼び名は混在していたのでは

263:日本@名無史さん
16/10/03 17:33:26.91 .net
>>262
ヤマトは阿波
オオヤマトは大和

264:日本@名無史さん
16/10/03 17:35:16.85 .net
古くは九州筑後に山門郡という地名があり、邪馬台国の候補と言われてきました。

265:日本@名無史さん
16/10/03 18:01:32.91 .net
九州や阿波のヤマトには3~4世紀ごろの大きな集落跡、古墳はあるのだろうか?
魏志倭人伝によれば邪馬台国は大きな集落、巨大な墳墓があると記述があるが
畿内のヤマトにはその当時の国内最大級の集落跡、古墳がある

266:日本@名無史さん
16/10/03 18:06:38.74 .net
>>265
古墳はあるが集落はないよ。

267:日本@名無史さん
16/10/03 18:06:47.07 .net
258
>彼ら商人は、月齢と天空の月の位置と風の方向(天候)から
   正確な渡海のタイミングと航路選択を熟知しています。
そんな短時間では、渡り切れない。海流に翻弄されて、海の藻屑だろう。
そもそも、命を懸けて唐津に行く必要が無い。

268:日本@名無史さん
16/10/03 18:08:36.41 .net
>>265
うそこけ!!

269:日本@名無史さん
16/10/03 18:21:14.48 .net
>>265
大いに塚を作るとなっているだけで
その大きさは百余歩と記述されているから
むしろ近畿の古墳は大きすぎるんだよ

270:日本@名無史さん
16/10/03 19:36:03.17 .net
>>269
それと、卑弥呼の墓は平地にはないよ。丘陵を利用した墓。

271:日本@名無史さん
16/10/03 22:14:26.73 .net
>>267
>そんな短時間では、渡り切れない。海流に翻弄されて、海の藻屑だろう。
「そんな短時間」は、何時間位なの?
1000餘里の渡海だから半日位はかかると思うのですが?

>そもそも、命を懸けて唐津に行く必要が無い。
命を懸けて渡海するのは、倭人が東シナ海か黄海を通って中国大陸に直接渡る時のことでしょう。
西行の渡海は命を懸けることになるでしょう。
帰りの東行の渡海は比較的安全です。

272:日本@名無史さん
16/10/03 22:17:24.19 .net
壱岐や対馬の人たちは
日常的に穀物を買いに行ってるんだけどな。

273:日本@名無史さん
16/10/03 22:19:07.93 .net
>>272
どこへ? 根拠は?

274:日本@名無史さん
16/10/03 22:20:06.65 .net
>>273
倭人伝に書いてあるよね。

275:日本@名無史さん
16/10/03 22:24:21.45 .net
>>274
あー、福間ね。

276:日本@名無史さん
16/10/03 22:40:01.59 .net
九州なら吉野ヶ里を始め、大きな集落はたくさんある。
たまたま吉野ヶ里だけ整備され有名になった。
畿内には吉野ヶ里クラスの大型集落はない。
なお、邪馬台国の墓は大きいとは書いてない。
一歩が50センチならたかだか50メートル。

277:日本@名無史さん
16/10/03 22:42:01.19 .net
>>273-274
「無良田、食海物自活、乘船南北市糴」對海國
「耕田猶不足食、亦南北市糴」一大國

278:日本@名無史さん
16/10/03 22:48:40.86 .net
>>276
>一歩が50センチならたかだか50メートル。
一歩が25.5センチだから、たかだか25メートル。

279:日本@名無史さん
16/10/03 22:55:44.97 .net
25メートルだと平原遺跡と吉野ケ里北墳丘墓の間くらいか。
まあ、当時の王墓としては無理のないサイズだろう。

280:日本@名無史さん
16/10/04 00:41:41.96 .net
じゃあやっぱ祇園山古墳か。
祇園山古墳・・・・ 方墳(平面形が方形の古墳)、規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mと推定

281:日本@名無史さん
16/10/04 13:25:20.10 .net
  
女王之所都in邪馬壹國からも祇園山古墳が最有力です。

282:日本@名無史さん
16/10/04 13:30:56.43 .net
  
祇園山古墳は、女王之所都in邪馬壹國から望める高台にあったと考えられます。

283:日本@名無史さん
16/10/04 15:22:50.69 .net
なぜ、られる?

284:日本@名無史さん
16/10/04 18:13:52.53 .net
高良山の麓、筑後平野全体を見渡せる場所なので、絞り込めないですね。
高良山は筑後を代表する古刹なので、ありえなくはねいですが。

285:日本@名無史さん
16/10/04 19:17:33.98 .net
(11,900里)
 伊都國
    ↘
    奴國(12,000里)→不彌國(12,100里))→斯馬國→已百支國・・・
      ↑
    烏奴國

286:日本@名無史さん
16/10/04 19:20:46.37 .net
>>265
博多の地下には紀元前から現代に至るまでの連続した大規模な遺跡が眠っている。

287:日本@名無史さん
16/10/04 19:30:58.31 .net
(11,900里)
 伊都國■→■不彌國(12,000里)
    ↘ (山門)
   奴國①②■■■■■■■
   (12,000里)■■■■■■■
           ■■■■
女王國①三雲地区 (卑彌呼の女王國)
女王國②早良地区 ( 壹與 の女王國)

288:日本@名無史さん
16/10/04 22:33:33.40 .net
3世紀・奴国、最古の都市計画道路 博多・那珂遺跡群
見つかった道路は長さ100メートル、幅7メートル。両脇に幅70センチ、深さ60センチの溝を備えている。
那珂遺跡群の北にある同時期の比恵遺跡群など十数カ所で断片的に溝の跡が出土しており、今回の発見で、全長1.5キロの直線道路が復元できるという。
 また、道路の脇には前方後方墳1基、円墳2基が見つかった。
同遺跡の北150メートルには那珂八幡古墳があり、これらが道路に沿って並んでいる。
 市教委は「弥生終末期から古墳時代に変わる時期、奴国において計画的な都市整備が行われていたことがうかがえる」と話している。
URLリンク(www.asahi.com)

289:日本@名無史さん
16/10/04 23:13:10.31 .net
3世紀・奴国、最古の都市計画道路 博多・那珂遺跡群
見つかった道路は長さ100メートル、幅7メートル。両脇に幅70センチ、深さ60センチの溝を備えている。
那珂遺跡群の北にある同時期の比恵遺跡群など十数カ所で断片的に溝の跡が出土しており、今回の発見で、全長1.5キロの直線道路が復元できるという。
 また、道路の脇には前方後方墳1基、円墳2基が見つかった。
同遺跡の北150メートルには那珂八幡古墳があり、これらが道路に沿って並んでいる。
 市教委は「弥生終末期から古墳時代に変わる時期、奴国において計画的な都市整備が行われていたことがうかがえる」と話している。
URLリンク(www.asahi.com)

290:日本@名無史さん
16/10/10 15:07:59.95 .net
帯方郡(乍南) ・・・・・徳積島(京畿湾中央部)乍南点
↓循海岸南水行三千五百里
珍島(乍東)・・・・乍東点
↓循海岸東水行三千五百里
北岸狗邪韓國 ・・・・・巨済島南岸
↓東渡海千里
對海國 ・・・・・対馬北西端
↓東海岸水行八百里
對海國 ・・・・・対馬南東端
↓南渡海千里
一大國  ・・・・・壱岐北西端
↓循海岸水行六百里
一大國  ・・・・・壱岐南東端
↓南渡海千里
末盧國  ・・・・・唐津中原
↓東南陸行五百里
伊都國  ・・・・・佐賀惣座(倭都國 帥升王統倭國の都)
↓東行百里
不彌國(女王國の入口)  ・・・吉野ヶ里(倭國乱の頃まで繁栄した筑紫平野の中心地)
伊都國  ・・・・・佐賀惣座(倭都國 帥升王統倭國の都)
|東南百里
奴國  ・・・・・佐賀城
帯方郡 ・・・・・徳積島(京畿湾中央部)
| |水行十日陸行一月(万千四百里+約千里)
|邪馬壹國 ・・・・・筑紫平野東部内陸部(邪馬壹國城柵は八女)

|水行二十日(約二万里)天草灘経由
投馬國 ・・・・・筑後平野有明海東岸地域
女王之所都(女王城柵) ・・・・・魏使が不彌國から日帰りできる所(久留米)

291:日本@名無史さん
16/10/10 15:19:02.56 .net
久留米と書くからわかりにくい。
高良山の上ではダメか?

292:日本@名無史さん
16/10/10 15:27:58.81 .net
「其山有丹」が水銀丹であるならば、
有毒丹である水銀丹は、水銀中毒になる為「朱丹塗其身體」な事ができない。
「朱丹塗其身體」に適した朱丹は、無毒で健康に有効な鉄丹(原料リモナイト)である。

リモナイトは、現在でも家畜の餌に混ぜその健康増進に使われている。

293:日本@名無史さん
16/10/10 16:31:56.46 .net
>>291
>久留米と書くからわかりにくい。高良山の上ではダメか?
① 女王城柵が、台地にあるならば、
  久留米大学御井学舎から久留米競輪場にかけての台地にある。
② 女王城柵が、兵と婢で千人以上の人口を養う飲料水の得やすい場所ならば、
  御井町の小川の合流地点の上流側の平地(小川が二本ある)。
③ 御井町から外れた、陸上自衛隊久留米駐屯地側(高良内町)に女王城柵が有り得ます。
  2本の小川に挟まれているので。
④ 高良山は、平地城柵に外敵が攻めて来たときの退避城(神籠石)だと思います。

294:日本@名無史さん
16/10/10 17:52:42.27 .net
ブラタモリみたいだな。
わかりやすい。

295:日本@名無史さん
16/10/11 02:45:38.75 .net
基本的なことだけど、魏使は何故博多まで直接船で来なかったの?
3世紀の中国なら大型の立派な船があったろうに。

296:日本@名無史さん
16/10/11 07:08:24.16 .net
直接、福間に来た。

297:日本@名無史さん
16/10/11 08:42:41.09 .net
  
魏使は博多に行っていなかった。
魏志は唐津松浦川右岸に上陸後、
東南500里(40km)の佐賀平野にある伊都國に陸行した。

298:日本@名無史さん
16/10/11 09:51:32.93 .net
>>297
魏使一行は対馬海流に流されて、唐津松浦川右岸に上陸できなかった。

299:日本@名無史さん
16/10/11 10:05:05.41 .net
>>298
それすでにつまんね

300:日本@名無史さん
16/10/11 10:08:19.81 .net
>>299
何語?

301:日本@名無史さん
16/10/11 10:29:22.84 .net
>>297
松浦川って昔はもっと東に河口があったんだよね
潮の流れは引き潮の時は流されちゃうから
壱岐からは近くの呼子に向かったと思うよ
満ち潮の時はゆるく南西方向に潮の流れがあるからね

302:日本@名無史さん
16/10/11 10:40:00.28 .net
>>301
わざわざ、流れの複雑な海峡を渡って、上陸する必要がない。
荒磯に座礁して、土左衛門。

303:日本@名無史さん
16/10/11 10:48:23.32 .net
>>302
神功皇后のことか

304:日本@名無史さん
16/10/11 12:27:12.90 .net
>>301
>松浦川って昔はもっと東に河口があったんだよね
松浦川って昔はもっと西に河口がありました。唐津城より西。
現在の河口は江戸時代に開削して、唐津湾への放流口としたものです。

305:日本@名無史さん
16/10/11 12:36:13.12 .net
>>301
魏使一行は対馬海流に流されて、唐津松浦川右岸に上陸できなかった。

306:日本@名無史さん
16/10/11 12:36:37.06 .net
>>298
コレを見よ
>>URLリンク(le-web.riam.kyushu-u.ac.jp)
壱岐から唐津松浦川河口までは渡海し易い、潮流が助けてくれる。

307:日本@名無史さん
16/10/11 12:40:04.81 .net
>>306
わざわざ、流れの複雑な海峡を渡ってまでして、そこに上陸する必要がない。
荒磯に座礁して、土左衛門。

308:日本@名無史さん
16/10/11 12:47:12.58 .net
>>304
それ波多川だよ
松浦川は虹の松原を通ってたんだよ
江戸時代に波多川と松浦川の河口をまとめてひとつの河口にし
唐津城と虹の松原を作ったんだよ

309:日本@名無史さん
16/10/12 10:01:09.87 .net
虹の松原を作って、内海か滞水域をつくり、
良港にしたんだろ?

310:日本@名無史さん
16/10/12 10:22:42.26 .net
>>309
江戸時代にな。

311:日本@名無史さん
16/10/13 15:31:38.55 .net
>>295
博多に中国の大型が入港出来る港が整備されてなかったんだろう。

312:日本@名無史さん
16/10/13 17:14:52.24 .net
>>295
邪馬台国が肥国だったからだね。
佐賀ルートだと肥前国と肥後国しか
通らない。

313:日本@名無史さん
16/10/18 00:53:19.52 .net
すばらしいスレですね

314:日本@名無史さん
16/10/18 01:02:16.14 .net
>>312
そのまま上陸して筑後平野まで進んで欲しいな。

315:日本@名無史さん
16/10/18 01:13:05.93 .net
湾の中に入って停泊、陸地とは小舟で往復すればいいだけ、黒船と一緒だわな

316:日本@名無史さん
16/10/18 03:24:41.15 .net
>>295
博多に攻めてこられたら困るからだろ

317:日本@名無史さん
16/10/18 21:47:44.05 .net
>>308-309
虹の松原は縄文前期から縄文中期に形成された浜堤(海岸砂丘)。
その砂丘に江戸時代に黒松が植林され、虹の松原と呼ばれる。
海岸砂丘のど真ん中、虹ノ松原駅付近(鏡地区と浜崎地区の境界)に
松浦川の河口があったとする主張は地形学的に有り得ない。

唐津にはもう一本浜堤がある。
県道40号(鏡~久里)廃線になった築肥線跡。
(地盤のしっかりした浜堤の上に鉄道レールを敷いた)
この浜堤は縄文中期から縄文後期に形成された。

松浦川 歴史 wikipedia
URLリンク(ja.wikipedia.org)
には誤りがある。

318:日本@名無史さん
16/10/19 00:54:28.00 .net
息長氏には丹波のタジマモリの血が入っていることは有名な話。
タジマモリは新羅王の血筋。
新羅本紀には、倭国の東の丹波出身とあり、両国の交易を行っていたことが
うかがえる。
のちに任那になる地域が狗邪韓国。伽耶と呼ばれる地域だが
この地域は鉄を産出し、筑紫から倭人がたくさん訪れたとある。
神功皇后が三韓征伐したのはこれまた有名な話であるが
魏志や記紀、考古学的発見から推測するに、倭人の影響力が強かったのは
弁韓と秦韓と狗邪韓国であったろう。

319:日本@名無史さん
16/10/19 01:01:35.15 .net
但馬って、九州の田島と関係あるの?

320:日本@名無史さん
16/10/19 01:04:36.44 .net
タジマモリは田道間守り。
畿内への入り口を守る門番

321:日本@名無史さん
16/10/19 05:18:31.02 .net
田道間守に「非時香菓(ときじくのかくのみ)」[2]すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣させた天皇って誰だっけ?

322:日本@名無史さん
16/10/19 12:02:12.32 .net
>>317
後背湿地に川が流れてたかも知れんけど
河口は浜崎まで行くか今の河口しか考えられんね
昔は湾だったみたいだけどなぁ

323:日本@名無史さん
16/10/19 16:26:46.48 .net
浜堤
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>>322
浜堤の後背地には必ず低湿地ができます。
低湿地が海面下の時は、汽水湖や小さな湾になります。
(京都府 久美浜湾 等)
湾の中にできた浜堤は、県道40号(築肥線廃線跡)の2.7kmの浜堤です。

>昔は湾だったみたいだけどなぁ
私は、松浦湾河口で虹の松原浜堤の後背低地にあった湾を、
「古松浦湾」と呼んでいます。
江戸時代に横田川の流路変更改修がなされる前は、
横田川流路は玉島川と合流して唐津湾に流れ出るのではなく、
虹の松原浜堤の南側の浜堤後背低地の東端から西に流れて
松浦川と合流して唐津湾に流れ出ていました。

324:日本@名無史さん
16/10/20 12:04:51.99 .net
狗邪韓国(韓国最南端)
↓渡海
対馬国(対馬)
↓渡海
一大国(壱岐)
↓渡海
末廬国(松浦)
↓陸行
伊都国(糸島市)
↓陸行
奴国(旧儺県(なのあがた)・福島市近郊)
↓陸行
不弥国(宇美市?)
と大体推定されてるから邪馬台国が入り込む余地ないし
九州北部だけはないんじゃないかなあ

325:日本@名無史さん
16/10/20 12:46:54.74 .net
表層流に流されて、末廬国(松浦)は有り得ない。

326:日本@名無史さん
16/10/20 13:12:40.92 .net
ちょっと前に韓国でゴムボート買って日本に密入国しようとして
九州北部沿岸で遺体で発見された国家公務員が居たよな
海流に乗れば韓国→日本に渡るのは簡単なんでないの

327:日本@名無史さん
16/10/20 14:24:44.07 .net
表層流に流されて、遺体となった!

328:日本@名無史さん
16/10/20 15:02:53.09 .net
うまいこと表層流に流されれば
無動力で金海あたりに流れ着く
列島からの出発地点とタイミングがあるみたいだね

329:日本@名無史さん
16/10/20 15:07:56.46 .net
末廬国が万津浦だとすると
伊都国(糸島市)・奴国(旧儺県(なのあがた)・福島市近郊)の
距離方位の記述がメチャメチャという事になり収拾がつかない

330:日本@名無史さん
16/10/20 16:48:42.39 .net
>>329
だから、伊都国(糸島市)・奴国(旧儺県(なのあがた)・福島市近郊)が
間違ってんだよ。

331:日本@名無史さん
16/10/20 17:15:09.64 .net
ゴタクにしか聞こえない

332:日本@名無史さん
16/10/20 17:32:14.83 .net
>>330
そうなると伊都国(糸島市)・奴国(旧儺県(なのあがた)・福島市近郊)はどのあたりの事なの

333:日本@名無史さん
16/10/20 17:45:21.57 .net
>>332
そうなると伊都国(直方市)・奴国(田川市)

334:日本@名無史さん
16/10/20 17:48:07.77 .net
またお前か

335:日本@名無史さん
16/10/20 17:49:02.82 .net
まいど~

336:日本@名無史さん
16/10/20 18:12:45.26 .net
魏志東夷伝韓条
<三韓>
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里
韓は帯方郡の南にある。東西は海であり、南は倭と接す。およそ四千里である。
(ということは、倭の投馬国の海岸線は七千里引く四千里で三千里もある)
<辰韓>
國出鐵韓濊倭皆従取之
国には鉄が出る。韓、濊、倭の人々が皆これを採掘している。
<弁辰>
其瀆盧国與倭接界
弁辰の瀆盧国は倭と境界を接している。

魏志東夷伝韓条=韓人の支配領域を記載
魏志東夷伝倭人条=倭人の支配領域を記載
(魏志倭人伝)
以上から、投馬国(半島南部・任那)は朝鮮半島南部の倭人生息地、五万戸
狗邪韓国(加羅=伽耶)は投馬国内の主要港町であることがわかる

337:日本@名無史さん
16/10/20 18:13:11.88 .net
国≠クニ クニ=市町村
例:日本国の中に、山城のクニや、筑前のクニ、吉備のクニ
<地理編>
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓クニ(倭人投馬国へ入国)
↓海渡千里
津島クニ(島の大きさ分の四百余里×2を迂回)
↓海渡千里
一支クニ(島の大きさ分の三百里×2を迂回)
↓海渡千里
末盧クニ(邪馬台国本土へ入国)
↓陸行五百里
伊都クニ(女王所在地・首都ワシントン)
↓(東南)百里
奴クニ(邪馬台国中心・ニューヨーク)
↓(東)百里
不弥クニ(外国使節逗留所)
<日程編>
帯方郡
↓(南)水行20日
投馬国(朝鮮半島南部に到着)
↓(南)水行10日・陸行1「日」
邪馬台国(中心都市の奴クニへ到着)
イギリスへ行く旅程=ロンドンへ行く旅程、フランスへ行く旅程=パリへ行く旅程
邪馬台国へ行く旅程=奴クニへ行く旅程
<総距離>
奴クニまで、〆て一万二千里でした

338:日本@名無史さん
16/10/20 18:13:39.58 .net
<邪馬台国の中央集権体制>
地方行政
対海郡 主:卑狗  副:卑奴母離   千戸
一大郡 主:卑狗  副:卑奴母離   三千戸
奴郡  主:兕馬觚 副:卑奴母離 (ニューヨーク) 二万戸
不弥郡 主:多模  副:卑奴母離 千戸
他20郡 合計七万戸

伊都(ワシントン)
 <政府>
  女王:卑弥呼
  政府役職:伊支馬(壱岐関係)彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮(奴関係)
 <首都高官>(伊都知事・副知事)
  主:爾支 副:泄謨觚 副々:柄渠觚
  
 <一大率>軍事・外交・貿易担当省
  ↓監視
 投馬国(半島南部・任那)  主:弥弥 副:弥弥那利
 狗邪韓郡(加羅=伽耶) 投馬国内の宿場港

339:日本@名無史さん
16/10/20 18:14:04.09 .net
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします
魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km
地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7

速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね

340:日本@名無史さん
16/10/20 18:39:34.28 .net
>>333
伊都国(糸島市)・奴国(旧儺県(なのあがた)は魏志倭人伝の地名とほぼそのままのに
伊都国(直方市)・奴国(田川市)が全く違う理由は何かあるの

341:日本@名無史さん
16/10/20 18:45:03.91 .net
伊都国(糸島市)・奴国(旧儺県(なのあがた)で
壱岐対馬を介した海外交流にも自然だし
発掘される遺物も圧倒的で自然だし
現代まで続く九州島の中枢部分
確定している

342:日本@名無史さん
16/10/20 18:46:56.81 .net
それを捻じ曲げてまで
他の場所を主張するのは
単に九州説を攪乱したいから
筑紫倭国で確定するのを少しでも妨害するために
九州各地を持ち出して
「九州説の中ですら確定していないのに」
と言いたいだけのこと
ある意味
持ち出された各地は侮辱されている

343:日本@名無史さん
16/10/20 18:47:18.77 .net
>>340
地名は好き勝手に後付けされたから。今の地名は、関係なし!

344:日本@名無史さん
16/10/20 18:51:37.80 .net
発掘物はウソを付かない
北部九州に大王がいたのは確定

345:日本@名無史さん
16/10/20 19:02:30.85 .net
女王じゃないんだね

346:日本@名無史さん
16/10/20 19:08:30.13 .net
>>343
地名を変更する時は記録にちゃんと残る
じゃないと税金取り立てる時に困るし旅人が迷子になる

347:日本@名無史さん
16/10/20 19:38:24.90 .net
好き勝手に付けた地名だから、好きなように。

348:日本@名無史さん
16/10/20 20:18:55.23 .net
そもそも直方が王都にふさわしい地には思えない。
糸島平野は多くの状況証拠が多重にそろっているから、おそらく伊都で間違いない。

349:日本@名無史さん
16/10/20 20:25:47.59 .net
君がそう、思えないだけだから!

350:日本@名無史さん
16/10/20 21:59:15.42 .net
宗像も田川も後世に登場するが、直方は他県の人間にとってはほとんど聞いたことがない地名なんだが。

351:日本@名無史さん
16/10/20 22:16:06.26 .net
直方はノー

352:日本@名無史さん
16/10/20 23:33:05.90 .net
直方は自然災害が少ないから定住に向いてたと思う

353:日本@名無史さん
16/10/21 09:56:19.58 .net
>>348
邪馬壹國の首都は「世有王皆統屬女王國」の伊都國で間違いない。

354:日本@名無史さん
16/10/21 09:59:56.87 .net
>>344
それは2世紀末までの話な
平原の王を最後に服装品が貧弱化してホタテ貝式古墳を作り出してるからな
ホタテ貝式古墳を作り出してるってことはヤマト王権の所属領域になったということ

355:日本@名無史さん
16/10/21 10:01:24.63 .net
>>354
畿内説の人は息をする様に噓を吐くなw

356:日本@名無史さん
16/10/21 10:20:13.92 .net
>>339
魏の使節は帆船
これは揺るがない
対馬壱岐間は1日の日が昇ってる間だけで着く

357:日本@名無史さん
16/10/21 10:37:25.42 .net
>>354
その平原の時代の話をしているのだろうが。
後世のことと意図的に混同しているな。
平原遺跡は200から250年頃、卑弥呼の即位は180年頃だ。
卑弥呼の治世は筑紫の伊都国の最盛期だよ。

358:日本@名無史さん
16/10/21 10:48:11.86 .net
>>357
最盛期ということは以後衰退するということ
AD200年頃をピークに衰退
卑弥呼の治世の時代に伊都国は衰退しているということ

359:日本@名無史さん
16/10/21 10:51:19.94 .net
>>356
当時の帆は三角帆じゃないから追い風がないと使えないので主動力は手漕ぎ
対馬壱岐間を1日の日が昇ってる間だけで着くなんてよほど運良く追い風が吹かないと着かないな。

360:日本@名無史さん
16/10/21 11:21:04.10 .net
>>359
支那の船は三角帆でも四角帆でもない別の帆だよ
切り上がり性能はかなり高いもの

361:日本@名無史さん
16/10/21 12:28:04.54 .net
>>360
当時の支邦船の帆では切り上がりとかできませんよw
通常は手漕ぎ走行で追い風があれば使う程度の船。

362:日本@名無史さん
16/10/21 18:38:41.86 .net
支那の船では来ていないよ
距離測定がアバウトすぎるだろ
測量員が同行していなかった証拠だ
そして世界最大の難所でもある対馬海流越えを
測量員なしにはできない
持衰の記載があることからも
倭船でやって来たことが明らか

363:日本@名無史さん
16/10/21 20:17:07.59 .net
>>358
女王国が倭人伝の後どうなったのかは謎。
200~250がピークでもかまわないと思うがね。
周辺の遺跡は古墳前期まで存続してる訳で。

364:日本@名無史さん
16/10/21 20:35:45.07 .net
>>362
その見方はおもしろい
>>361
手漕ぎなんてしてるはずないだろ。どこの夷人の話だよ
ジャンク船を舐めすぎ。昼夜で2000里航行するんだよ

365:日本@名無史さん
16/10/21 21:23:17.06 .net
>>363
それはつまり、卑弥呼の治世が伊都の最盛期であったということ。
247年の卑弥呼の死後にも乱があり、伊都は衰退する。

366:日本@名無史さん
16/10/21 21:23:36.94 .net
>>364
>ジャンク船???  いつの時代の話だよ!!!


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